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桜を「吉野」陶器を「唐津」磁器を「瀬戸物」と呼んでいたのと同じ感覚で「地図=行基図」だったのではと予想今でも欧米で病名や機器名を発明した人名や発見された都市名で呼んでたりするのと同じ感じ
たとえば播磨の国人が串刺し団子の地図を見て「これは間違った(いい加減な)地図で使いようがない」「役立たたない」と言ったとは思えない。視界数キロの岬や灘、入江を熟知した人々は地図ではなく体感の空間認識で現実世界を把握していた。その世界より広い世界への共通認識が必要な時それに応じて活用した、と予想
当時なかった筈の加賀が描かれていたり、平城京ではなく平安京が都として描かれているなど不信な点も見られるが、生前から功徳を積み、人々を救い導いてきた行基が初の日本地図の原型を作成したと信じたい。
測量技術のない時代に正確ではないとはいえ、あれだけの地図を作ったのはすごい。
各国の風土記や報告書や上京してきた役人によって、大体の大まかには日本全体の形はわかっていたのだろう
動画とは直接関係ないけど、「独鈷杵」は荻野真氏がヤングジャンプで連載した漫画「孔雀王」で生まれて初めて見た自分が「比較宗教学」「比較神話学」に目覚めた作品だった2019年に亡くなられた荻野真氏のご冥福をお祈りいたします
大雑把ながらも大まかにも日本列島の形を把握しているから、8世紀にしては凄いと思う。
行基って全国にありえないほどたくさん行基作の仏像があったり土木事業やったりしていてそんなことは一人の人間の出来る仕事じゃないから多くの別人が行基の名前を借りて残してる ブランド名みたいなもの SONYみたいなもんだ
弘法大師空海も同じような感じだと思ってる空海も一人の人間にしてはやった事多すぎるし全然関係無さそうな所にまで伝説が残っている個人的には空海ユニット説を推してる
地図の基を行うは難し役割を行基と呼称す以って釈迦牟尼に至る
行基図と伊能忠敬の地図の間に幕府が諸藩に作らせた国絵図というものがありますよ幕府に命じられて作らされたもので、国持大名は一国すべて、国が多くの大名に分かれているところはいくつかの大きな藩が責任を持たされて各藩の絵図に不合理がないようにさせられています各藩では幕府から支配を認められた範囲を絵図にするのですから、下手すると隣藩と揉め事になり改易になる可能性もあり緊張ものです。
奈良の大仏を造ったことにより、奈良盆地には水銀がばらまかれてかなり長い間地元民は水銀中毒になったと言われている。当時銀山や金山など金や銀を扱うところには鉛や水銀が大量に使われ、精錬作業やメッキに携わっていた人は3年ほどで死んでいたらしい。
この動画で挙げている行基図は江戸時代初期の大日本国図です。
大阪府 岸和田市にある久米田寺(くめだでら)は、行基が 開削 指導した ため池のひとつである久米田池を維持管理するため、天平10年(738年)に行基によって創建されたと伝えられる。
富を否定せず分配をすることを促す。 いまよーやく欧米人がそこそこ意識し始めてることだよねこれ
それっぽい絵が揃っている「いらすとや」恐るべし。
近鉄奈良駅の噴水に居られる行基さんが陽キャ😁
15:44 南が上に書かれた地図のようなので、その大きな教会と言っているのは長崎ではないと思います。
蝦夷地(当時は青森以北)っぽいですよね。弘法大師の時代からずっと四国が四国なので、南北を考える目印として優秀ですね。
ありがとうございます勉強になりました
五畿七道の「道」は、街道の事ではありません。七つに分けられた区域を、中国にならい「道」と名付け、その後蝦夷地も加えられ「北海道」と名付けられ、五畿八道になりました。藩や県の区切りと道の境目が違ったりしたことで、段々使われなくなり、「南海トラフ」などの名前にに残っているくらいです。北海道も三つの県に分かれましたがあまりに人口が少なく、結局ひとつにまとめられ、「道」という区分が残ったものです。
「道」は行政区分よりも街道としての性格が強く現れています。西海道以外に独立した行政機関は無く、それぞれの「道」の国府は同名の街道によって畿内と結ばれています。あくまで各国と都を結ぶ街道ありきで、同一の街道によってつながった各国が同一の地域区分とされるようになったという順でしょう。
物知りだなぁ(´∇`) ひとつお利口になれました!
@@lemonade70755でも行政区分だろ。北海道なんて街道ないんだから。
@@スキナー北海道は明治に出きたもので、他の7道と出来た時代が違いすぎるからなぁ。
韓国の地方行政区分に道が使われてますな。京畿道とか慶尚道とか。北朝鮮も平安道とか江原道とか。李氏朝鮮時代に区分されたものをそのまま現代も使ってるわけです。
拾芥抄(15世紀ころ成立)に入ってる大日本国図ですよね、これ。行基が全国を行脚したからそれにちなんで行基図と呼ばれているだけで、行基が作ったわけじゃないです。
動画内で語られているように、集団としての「行基」が作った、もしくは編纂したのが「行基図」なのではと思います。源平合戦やら、その後の戦国時代の国盗りの時にはどんな地図で攻め入ったのかも気になりますし、それ以前、古墳時代にも地図はあったはず(全日本地図というより、地域図でしょうが)なので、それも気になります。
あっちこちのお寺の創建が行基菩薩となっている。そんな凄い行基菩薩の実家の家原寺は何となく寂れている。
開基が分からない古刹は取り敢えず行基を持って来るくらいの仏教界のスーパースターのひとりだったからな。空海も同様のスーパースター。
行基図を写すときに当時の状況を組み込んだだけでしょ。伊能図をもとに明治時代に地図を作るとしたら江戸ではなく東京と書くでしょ。実用品なんだから原図そのままにしないよ。史料を残そうとしたのではなく実用品。写したら原図は必要ないし混乱のもとになるから焼くかもね。仕舞いこんでて後に出てきても価値の分からない人は「間違ってるじゃん。燃やしとけ。」となりかねん。
行基図という地図なのではなくて行基図というジャンルの地図なのでこれで正しい。日本の歴史的にこういう描き方をした日本地図をだいたい全部行基図と呼んでいる。ベトナムでオートバイ全般のことをホンダと呼ばれているのと同じ原理。
岩手か宮城あたりに島があるんだが・・・今のどこを指してるんだ?
いまの山形県の飛島です。この動画の地図では「止島」と書かれています。
やはり大まかな形は伊能忠敬の前から分かってたんだろうな
11:51×祖・庸・調○租・庸・調
特にアジアでは良くあることだけど、仮託と言って、著作物の作者を神話上の人物や高僧にすることは多いからこの一種ですね。空海が見つけたとされる温泉が全国に沢山あったりするのも同じ現象です。
焼き物の分野だと「大明成化年製」の銘文と似た感じですね・・・文章の意味から言えば「明王朝の成化年間に製造」って意味なんですが、日本では明王朝の成化の頃に製造された焼き物の評価が高かった事から、それにあやかって伊万里焼の銘文に広く採用されました。もはや明の成化年間なんて関係なく、完全に純和風の製品に「大明成化年製」と銘が入っている品が大量にあります。時には、陶工が適当に書いているせいで「永明成化年製」とか「大明成」みたいな銘文すら見かけます。そんな訳で、骨董の世界では日本製の「大明成化年製」を「明時代の製品の贋作」とは考えず、単に江戸時代に製作された古伊万里の真作として評価するのが普通です・・・
ゆっくり話しているので聞きやすいですな。他のズンダモンと一線を画し良い作り方です。
ずんだもんの読み上げのスピードをもうちょっと早めにして貰えると観やすい!動画の内容はすごく面白い!
1.5倍速で俺は見てるけど設定から変更すればいいんでない?
@@スペシャルパフェ"ずんだもん"の読み上げスピードが早いって言ってんの
ヨーロッパで行基図を元にして作られた地図で長崎らしき場所が大きいと言っていましたが、南北が逆になった地図で、大きく描かれた東北の国ですね。
おそらく元々あった行基図を書き直したものがその行基図ってことなんだろうな
たとえ古い時代、精確性に劣ってはいても、地図と云うは国家防衛上での重要機密のはず。それがなぜ輸出されたのだろ ?そのような価値観は未発達の時代だったのか ?あるいは支配力を明示する為だったのか ?チョイと気にかかりますな。
4:38 本当に平安京に遷都したのは794年なのか?
地底ナマズの図による要石。鹿島神宮の石とのことですが。昔からあの辺りは地震が多かったってことなんでしょうね。例えばクジラをナマズに例えて津波がくればナマズが暴れたとか。。。
伊能忠敬の前に、長久保赤水もいる。この時代、奇跡的に地磁気の偏差がゼロだった。
チバニアンの研究も長久保赤水も茨城県 偶然???
@@nipponnippon4498 様 伊能忠敬も、年少時に常陸国の医師に学んだそうです。
知りませんでした。ありがとうございます。@@usus5121
しかしまぁ正確かどうかは別として空か見る事が不可能な時代にこれだけの地図を作れる所がマジで凄い。今みたいに道もほとんどない状態で出来る限り沿岸部を歩くと言っても絶対に無理な場所も数多くあっただろうし、そもそも沿岸部を一周するだけでも数年~数十年はかかるだろうし・・・今の時代に徒歩で近代文明品が全部無い状態で同じ事をやれって言われてもまぁ100%無理だろうし。達成の報酬は無しで月1万支給ぐらいかな。昔の人と決定的に違うのが今の時代の人は体力がないから歩けないよね。
西遊記の玄奘三蔵法師の孫弟子にあたる人だし最先端だったインドと唐の学問を道昭経由で学べた可能性
伊能忠敬の地図は緯度経度で測量したの?基準点からの方位と距離で測量してたと思ってた。
行基さんなら地図🗾位造りそうな気もする😂
行基が指導した方法で作られた地図ってとこかな‥?
当時の寿命と医療技術で56歳から地図作り始めて完了させるバケモンか
フィレンツェの日本図は南が上に描かれてますね
元の日本人が描いたものが南が上なんですよ。
植民地にしようとしていたのだ(´・_・`)
伊能忠敬、悪を斬る❢って時代劇をぜひぜひフジテレビに制作してほしい。主役には藤井隆氏とか
安全保障、国家運営・枠組みの表れ。
大仏は大日如来で元ネタはアフラマヅダ(ゾロアスター教)なので仏教ではない
皆んな賢いなぁ。
いろんな人(北~南)の意見や考察を合わせて作ったからでは?
病気な行基が定規使わず屏風に行儀よく陽気に狭義の行基の図を描いた
長久保赤水では❓
・・ずんだもん、増え過ぎてない w
流行病と重税に苦しむ時代かぁ、、、あれ、現代に行基菩薩が出てきても良くない?
小泉進次郎菩薩「やあ」
「行基さま」生まれ変わって「二宮尊徳さま」
狂気図怖い。
島国日本とはいえ、現在の東北、北海道が地図に画かれたのはいつ?(*゚∀゚)=3
そりゃ、明治以降の地図やね。
国民全員にマイナンバーカードとやらが発行されていたわけでない笑。個人の生涯にひとつ名前が与えられていた時代でもない。今でも歌舞伎俳優や相撲取りに「〇代~」なんてこともある。著作業・タレント・UA-camrなどが戸籍以外の通称で生きたりもする。牛若丸と源義経も同一人物。木下藤吉郎も・・・。死後、墓石や過去帳に諡(おくりな)が記されもする。清少納言も紫式部もそう呼ばれていただけで、本人が自分をそう呼んでいたわけではない。岡田心斎さんも心斎橋を整備した業績があったから岡田新作さんが心斎さんと呼ばれ数代に渡ってそう呼ばれていた。業績が先にあって、名が後の例も多い。「最澄」さんも、最も明らかにした意、「空海」さんも空と海「すべて」の意。「行基」さん」も、あるとき行基という遊行僧のひとりの男が1枚の地図を描いたのだろうが、「署名」=「書き手」とは限らない。
ずんだもんは年少者向け、ゆっくりは年上向け、と棲み分けしたらいいのではないだろうか?
逆じゃね?
大きなお世話ですね
墾田永年私財法を反故にしたこの国に未来などない😢
行基図は、地図と言う言葉がない時代の言葉だろうよ!行(行く)基(基本)図(図面)の言葉を使って地図と言っていただけ、その場所に行く図面を行基図と‼️日本人は勝手に解釈して有名な人の名前が有ったからその人が作った物だと誰かが言った事を、すぐ鵜呑みににして、そんな事を知らないのか?と知ったかぶりで話すからな‼️馬鹿が偉そうに物事を言って人を見下すから、自分も馬鹿にされてはたまらないから平然と知ったかぶりしてしまう訳だよ!その行基図は、この方向にこの国が有るからこの辺で?で訂正をしながら出来た地図だと思うよ?
みっともなくて見てられない
@@見るとパワーを得られます 馬鹿は理解できんだろな!
桜を「吉野」陶器を「唐津」磁器を「瀬戸物」と呼んでいたのと同じ感覚で
「地図=行基図」だったのではと予想
今でも欧米で病名や機器名を発明した人名や発見された都市名で呼んでたりするのと同じ感じ
たとえば播磨の国人が串刺し団子の地図を見て「これは間違った(いい加減な)地図で使いようがない」「役立たたない」と言ったとは思えない。視界数キロの岬や灘、入江を熟知した人々は地図ではなく体感の空間認識で現実世界を把握していた。その世界より広い世界への共通認識が必要な時それに応じて活用した、と予想
当時なかった筈の加賀が描かれていたり、平城京ではなく平安京が都として描かれているなど不信な点も見られるが、
生前から功徳を積み、人々を救い導いてきた行基が初の日本地図の原型を作成したと信じたい。
測量技術のない時代に正確ではないとはいえ、あれだけの地図を作ったのはすごい。
各国の風土記や報告書や上京してきた役人によって、大体の大まかには日本全体の形はわかっていたのだろう
動画とは直接関係ないけど、「独鈷杵」は荻野真氏が
ヤングジャンプで連載した漫画「孔雀王」で生まれて初めて見た
自分が「比較宗教学」「比較神話学」に目覚めた作品だった
2019年に亡くなられた荻野真氏のご冥福をお祈りいたします
大雑把ながらも大まかにも日本列島の形を把握しているから、8世紀にしては凄いと思う。
行基って全国にありえないほどたくさん行基作の仏像があったり土木事業やったりしていてそんなことは一人の人間の出来る仕事じゃないから
多くの別人が行基の名前を借りて残してる ブランド名みたいなもの SONYみたいなもんだ
弘法大師空海も同じような感じだと思ってる
空海も一人の人間にしてはやった事多すぎるし全然関係無さそうな所にまで伝説が残っている
個人的には空海ユニット説を推してる
地図の基を行うは難し
役割を行基と呼称す
以って釈迦牟尼に至る
行基図と伊能忠敬の地図の間に幕府が諸藩に作らせた国絵図というものがありますよ
幕府に命じられて作らされたもので、国持大名は一国すべて、国が多くの大名に分かれているところはいくつかの大きな藩が責任を持たされて各藩の絵図に不合理がないようにさせられています
各藩では幕府から支配を認められた範囲を絵図にするのですから、下手すると隣藩と揉め事になり改易になる可能性もあり緊張ものです。
奈良の大仏を造ったことにより、奈良盆地には水銀がばらまかれてかなり長い間地元民は水銀中毒になったと言われている。当時銀山や金山など金や銀を扱うところには鉛や水銀が大量に使われ、精錬作業やメッキに携わっていた人は3年ほどで死んでいたらしい。
この動画で挙げている行基図は江戸時代初期の大日本国図です。
大阪府 岸和田市にある久米田寺(くめだでら)は、行基が 開削 指導した ため池のひとつである久米田池を維持管理するため、天平10年(738年)に行基によって創建されたと伝えられる。
富を否定せず分配をすることを促す。 いまよーやく欧米人がそこそこ意識し始めてることだよねこれ
それっぽい絵が揃っている「いらすとや」恐るべし。
近鉄奈良駅の噴水に居られる行基さんが陽キャ😁
15:44 南が上に書かれた地図のようなので、その大きな教会と言っているのは長崎ではないと思います。
蝦夷地(当時は青森以北)っぽいですよね。
弘法大師の時代からずっと四国が四国なので、南北を考える目印として優秀ですね。
ありがとうございます
勉強になりました
五畿七道の「道」は、街道の事ではありません。七つに分けられた区域を、中国にならい「道」と名付け、その後蝦夷地も加えられ「北海道」と名付けられ、五畿八道になりました。藩や県の区切りと道の境目が違ったりしたことで、段々使われなくなり、「南海トラフ」などの名前にに残っているくらいです。北海道も三つの県に分かれましたがあまりに人口が少なく、結局ひとつにまとめられ、「道」という区分が残ったものです。
「道」は行政区分よりも街道としての性格が強く現れています。西海道以外に独立した行政機関は無く、それぞれの「道」の国府は同名の街道によって畿内と結ばれています。あくまで各国と都を結ぶ街道ありきで、同一の街道によってつながった各国が同一の地域区分とされるようになったという順でしょう。
物知りだなぁ(´∇`) ひとつお利口になれました!
@@lemonade70755でも行政区分だろ。北海道なんて街道ないんだから。
@@スキナー
北海道は明治に出きたもので
、他の7道と出来た時代が違いすぎるからなぁ。
韓国の地方行政区分に道が使われてますな。京畿道とか慶尚道とか。
北朝鮮も平安道とか江原道とか。
李氏朝鮮時代に区分されたものをそのまま現代も使ってるわけです。
拾芥抄(15世紀ころ成立)に入ってる大日本国図ですよね、これ。行基が全国を行脚したからそれにちなんで行基図と呼ばれているだけで、行基が作ったわけじゃないです。
動画内で語られているように、集団としての「行基」が作った、もしくは編纂したのが「行基図」なのではと思います。
源平合戦やら、その後の戦国時代の国盗りの時にはどんな地図で攻め入ったのかも気になりますし、それ以前、古墳時代
にも地図はあったはず(全日本地図というより、地域図でしょうが)なので、それも気になります。
あっちこちのお寺の創建が行基菩薩となっている。そんな凄い行基菩薩の実家の家原寺は何となく寂れている。
開基が分からない古刹は取り敢えず行基を持って来るくらいの仏教界のスーパースターのひとりだったからな。空海も同様のスーパースター。
行基図を写すときに当時の状況を組み込んだだけでしょ。伊能図をもとに明治時代に地図を作るとしたら江戸ではなく東京と書くでしょ。実用品なんだから原図そのままにしないよ。史料を残そうとしたのではなく実用品。写したら原図は必要ないし混乱のもとになるから焼くかもね。仕舞いこんでて後に出てきても価値の分からない人は「間違ってるじゃん。燃やしとけ。」となりかねん。
行基図という地図なのではなくて行基図というジャンルの地図なのでこれで正しい。
日本の歴史的にこういう描き方をした日本地図をだいたい全部行基図と呼んでいる。
ベトナムでオートバイ全般のことをホンダと呼ばれているのと同じ原理。
岩手か宮城あたりに島があるんだが・・・今のどこを指してるんだ?
いまの山形県の飛島です。この動画の地図では「止島」と書かれています。
やはり大まかな形は伊能忠敬の前から分かってたんだろうな
11:51
×祖・庸・調
○租・庸・調
特にアジアでは良くあることだけど、仮託と言って、著作物の作者を神話上の人物や高僧にすることは多いからこの一種ですね。空海が見つけたとされる温泉が全国に沢山あったりするのも同じ現象です。
焼き物の分野だと「大明成化年製」の銘文と似た感じですね・・・
文章の意味から言えば「明王朝の成化年間に製造」って意味なんですが、日本では明王朝の成化の頃に製造された
焼き物の評価が高かった事から、それにあやかって伊万里焼の銘文に広く採用されました。
もはや明の成化年間なんて関係なく、完全に純和風の製品に「大明成化年製」と銘が入っている品が大量にあります。
時には、陶工が適当に書いているせいで「永明成化年製」とか「大明成」みたいな銘文すら見かけます。
そんな訳で、骨董の世界では日本製の「大明成化年製」を「明時代の製品の贋作」とは考えず、単に江戸時代に製作された
古伊万里の真作として評価するのが普通です・・・
ゆっくり話しているので聞きやすいですな。他のズンダモンと一線を画し良い作り方です。
ずんだもんの読み上げのスピードをもうちょっと早めにして貰えると観やすい!
動画の内容はすごく面白い!
1.5倍速で俺は見てるけど設定から変更すればいいんでない?
@@スペシャルパフェ"ずんだもん"の読み上げスピードが早いって言ってんの
ヨーロッパで行基図を元にして作られた地図で長崎らしき場所が大きいと言っていましたが、南北が逆になった地図で、大きく描かれた東北の国ですね。
おそらく元々あった行基図を書き直したものがその行基図ってことなんだろうな
たとえ古い時代、精確性に劣ってはいても、
地図と云うは国家防衛上での重要機密のはず。
それがなぜ輸出されたのだろ ?
そのような価値観は未発達の時代だったのか ?
あるいは支配力を明示する為だったのか ?
チョイと気にかかりますな。
4:38 本当に平安京に遷都したのは794年なのか?
地底ナマズの図による要石。鹿島神宮の石とのことですが。
昔からあの辺りは地震が多かったってことなんでしょうね。
例えばクジラをナマズに例えて津波がくればナマズが暴れたとか。。。
伊能忠敬の前に、長久保赤水もいる。この時代、奇跡的に地磁気の偏差がゼロだった。
チバニアンの研究も長久保赤水も茨城県 偶然???
@@nipponnippon4498 様 伊能忠敬も、年少時に常陸国の医師に学んだそうです。
知りませんでした。ありがとうございます。@@usus5121
しかしまぁ正確かどうかは別として空か見る事が不可能な時代にこれだけの地図を作れる所がマジで凄い。
今みたいに道もほとんどない状態で出来る限り沿岸部を歩くと言っても絶対に無理な場所も数多くあっただろうし、そもそも沿岸部を一周するだけでも数年~数十年はかかるだろうし・・・
今の時代に徒歩で近代文明品が全部無い状態で同じ事をやれって言われてもまぁ100%無理だろうし。
達成の報酬は無しで月1万支給ぐらいかな。
昔の人と決定的に違うのが今の時代の人は体力がないから歩けないよね。
西遊記の玄奘三蔵法師の孫弟子にあたる人だし最先端だったインドと唐の学問を道昭経由で学べた可能性
伊能忠敬の地図は緯度経度で測量したの?基準点からの方位と距離で測量してたと思ってた。
行基さんなら地図🗾位造りそうな気もする😂
行基が指導した方法で作られた地図ってとこかな‥?
当時の寿命と医療技術で56歳から地図作り始めて完了させるバケモンか
フィレンツェの日本図は南が上に描かれてますね
元の日本人が描いたものが南が上なんですよ。
植民地にしようとしていたのだ(´・_・`)
伊能忠敬、悪を斬る❢って時代劇をぜひぜひフジテレビに制作してほしい。主役には藤井隆氏とか
安全保障、国家運営・枠組みの表れ。
大仏は大日如来で元ネタはアフラマヅダ(ゾロアスター教)なので仏教ではない
皆んな賢いなぁ。
いろんな人(北~南)の意見や考察を合わせて作ったからでは?
病気な行基が定規使わず屏風に行儀よく陽気に狭義の行基の図を描いた
長久保赤水では❓
・・ずんだもん、増え過ぎてない w
流行病と重税に苦しむ時代かぁ、、、あれ、現代に行基菩薩が出てきても良くない?
小泉進次郎菩薩「やあ」
「行基さま」生まれ変わって「二宮尊徳さま」
狂気図怖い。
島国日本とはいえ、現在の東北、北海道が地図に画かれたのはいつ?(*゚∀゚)=3
そりゃ、明治以降の地図やね。
国民全員にマイナンバーカードとやらが発行されていたわけでない笑。個人の生涯にひとつ名前が与えられていた時代でもない。今でも歌舞伎俳優や相撲取りに「〇代~」なんてこともある。著作業・タレント・UA-camrなどが戸籍以外の通称で生きたりもする。牛若丸と源義経も同一人物。木下藤吉郎も・・・。死後、墓石や過去帳に諡(おくりな)が記されもする。清少納言も紫式部もそう呼ばれていただけで、本人が自分をそう呼んでいたわけではない。岡田心斎さんも心斎橋を整備した業績があったから岡田新作さんが心斎さんと呼ばれ数代に渡ってそう呼ばれていた。業績が先にあって、名が後の例も多い。「最澄」さんも、最も明らかにした意、「空海」さんも空と海「すべて」の意。「行基」さん」も、あるとき行基という遊行僧のひとりの男が1枚の地図を描いたのだろうが、「署名」=「書き手」とは限らない。
ずんだもんは年少者向け、ゆっくりは年上向け、と棲み分けしたらいいのではないだろうか?
逆じゃね?
大きなお世話ですね
墾田永年私財法を反故にしたこの国に未来などない😢
行基図は、地図と言う言葉がない時代の言葉だろうよ!行(行く)基(基本)図(図面)の言葉を使って地図と言っていただけ、その場所に行く図面を行基図と‼️日本人は勝手に解釈して有名な人の名前が有ったからその人が作った物だと誰かが言った事を、すぐ鵜呑みににして、そんな事を知らないのか?と知ったかぶりで話すからな‼️馬鹿が偉そうに物事を言って人を見下すから、自分も馬鹿にされてはたまらないから平然と知ったかぶりしてしまう訳だよ!その行基図は、この方向にこの国が有るからこの辺で?で訂正をしながら出来た地図だと思うよ?
みっともなくて見てられない
@@見るとパワーを得られます 馬鹿は理解できんだろな!