豊臣秀吉が元主君「松下嘉兵衛之綱」に与えた城「久野城」日本城郭協会が絶賛した保存会の活躍とは?
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- Опубліковано 13 сер 2023
- 豊臣秀吉が生涯にわたって仲良し?だった武将が松下之綱。秀吉が織田信長の家臣となる前に仕えた人物ではじめての「主人」と言われています。
当時15歳くらいだったボロボロの服をまとった秀吉は、遠州引間の橋の上で之綱と出会います。なぜか之綱は秀吉に興味を持ち、松下家に召し抱えたんですね。秀吉と之綱は同い年。秀吉が仕えたのは之綱の父(長則)だったとも言われています。その後大出世した秀吉は之綱を家臣として招き、やがて静岡県袋井市の久野城と1万6千石の領地を与えます。秀吉は苦しい時代に優しくしてくれた之綱に感謝していたのかもしれませんね。
秀吉は之綱にこの城を与えただけでなく改修の手助けをしたと考えられています。之綱の久野城には、瓦でふかれた天守や櫓が建ち並んでいた。それは、久野城が「なかなか豪華な城だった」ということを意味しています。秀吉は之綱への援助には感謝だけでなく、久野城を立派に見せることで得られるメリットもあったのでしょう。之綱時代の久野城には、門の周りや櫓の下などの一部に石垣が使われていたのかもしれません。しかし現在全く見えないのはこの時の破城によってどこかに持ち去られたか埋められてしまったのでしょう。天守のあった本丸も土台ごと破壊され現在のような形になりました。もし破城が行われなければ、もっとデコボコした久野城が残っていたのかもしれませんね。 久野城は、現在ちょっとした話題となっています。ここの保存会(久野城址保存会)が、第二回日本城郭協会大賞を受賞したのです(2023)。久野城の跡に宅地造成計画が持ち上がったは昭和50年代のこと。そのとき城の跡を残そうと地元の方々によって結成されたのがこの会です。やがて久野城の跡は袋井市の指定史跡となり、現在は草刈りを行ったり地元の小学生を対象とした教室を開催しているそうです。素晴らしい取り組みが評価されたんですね。
1万5千石の大名の持ち城にしては、天守も備えた規模が大きいお城に思えます。ここは太閤さんの懐の深さを表しているのかもしれませんね。太閤さんが恩義を感じていた松下嘉兵衛とう武将に興味がわきました。UP、ありがとうございました。
人間秀吉を感じられるいいお話ですね、城跡を見るといつも思うのですが誰か超大金持ちの人が安土城あたりを完全再現してくれないかな~とか思うのは私だけでしょうか🙇🙇🙇🙇🙇
当時の様子を再現できたらすごいですね!でもポンコツにならないように私たちも勉強しないとダメかな・・って勝手に思っています。
年始に登城した時は周囲の水辺が工事中だったんだけど、綺麗に整備されたなあ
また行きたい
コメントありがとうございます。私が行ったときは水辺の工事はやっていなかったのですが、道路は封鎖されていました。もうちょっと近づくことができるようになれば水に浮かぶ久野城が見れるかも!と楽しみにしています。
杉山城並みに綺麗に整備が進んでいますね。流石に「大賞」を受賞されるだけのことはあります。解りやすい解説、いつもながら有り難うございます。
コメントありがとうございます。遠くからも見える曲輪の様子がよかったです。丘の形が良いのでしょうか・・?城跡の整備は費用もかかると思いますし、無料でパンフレットをいただきましたし・・。見学させてもらって私こそ保存会の方に恩返ししなきゃならないですね!
保存会の人も素晴らしいし、地主の人も、かいのすけさんも素晴らしい!!
このお話は昭和の頃に、まんが日本の歴史で読みました。
再婚したが父との仲が悪く家出。
ボロボロの状態で救われたとか。
後に秀吉が天下人となった時、恩師は落ちぶれてたそうで
恩返しで城持ちにしたそうです。(まんがでは後日談で紹介されてた)
之綱は秀吉に兵法などを教えたと聞いたことがあります。邪魔な人間はすぐに命を奪われてしまうような時代に天下人からの恩返しなんて暖かい話ですね!
建築物は、ほとんどなくてホントにプラモデルのお城の土台みたいですが、良い城跡ですね。松下嘉兵衛は大河「おんな太閤記」で、いきなり秀吉に呼び出されて、びっくりしているところ、大名にしてやると言われ「ワシが大名か」と呆然とするシーンを覚えています。
あのドラマでは「松下様を親代わりに慕って、木下を名乗った」と言ってましたが、史実でなくても良い話だと思います。
プラモデルの土台感わかっていただけましたか!うれしいです。
@@kainosuke-rekishi 様
プラモのお城って、土台がいちばん手間かかるんですよね。ここに行ってみたいです。
確かここ、ろい商の近くだったかな?昔から「久野城跡」の看板があって、東名から見えるので、気になって行ってみると田んぼの中に城跡があるってイメージでした。今みたいなのぼり旗はなかったが、よく土塁が残ってて、散策できて面白い場所でしたよ。和菓子屋の看板に久野城ってのがあったけど、今もあるのかな?
こんな立派な城跡があったんですね。
香川氏のイラストも最高ですが、大手が陸続きの北側ではなく船着き場なのが不思議です。
往時は7:19の水田の向こうに生える木々辺り(幅208m・水田は現状で1m前後低い位置に)まで水没していた筈ですが、そこから船で来るのが正規の登城ルートなのでしょうか。
後年に東大手も埋め立てられたようです。北条時代の門が卦川にあるそうです。
松下氏にお城をあげたんですね😉
史実での理由はなんとも言えませんが、良い話ですよね
下級武士説や忍者説があります
お百姓さん出身のおサルさん?