Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
平成以降、内堀の復元・御殿の再建・石垣整備 等々が丁寧に時間をかけて進められており、訪問する度に応時の姿に甦って行く「復元整備の」お手本の様な城ですね。他の城では市街地化で消滅している事が多い馬出が二つも残存しているのも素晴らしいです。城郭ファンは一度は訪れたい場所です。
馬出が見事に残っているのには感動しました。
1995年頃まで篠山城の敷地内(駐車場の所)に中学校があって通ってました。大書院が復元されるまでは、ほぼ中学校のグランドになっていて部活で走り回ってた記憶があります。ガーって開く重たい教室のドア、壁の無い寒い廊下、あのボロ校舎なつかしいなぁ。
紹介動画作成とUP、お疲れさまですコンパクトなのに高い防御力という徳川城郭のお手本のようなお城ですね一度登城したことがありますが、復元された大書院や残っている石垣など、どれも立派だったことを想い出しました
典型的な高虎のお城ですね。特に後期の作品、伊賀上野城、津城にも通じるものがあります。また高虎の城には、石垣の下に犬走りがある所が多いですね。初期作の赤城城にもあります。
赤木城も狙っています!そのうち行けたらいいなと思っています。
@@kainosuke-rekishi 赤木城はなかなか行くのが大変な場所ですので頑張ってみてください。
素晴らしい解説今回も有り難うございます。藤堂高虎の縄張りの特徴は方形の組み合わせと高石垣・犬走り・枡形。馬出も3カ所あり裏の埋門も二階櫓門で外枡形と併せて厳重に守られていて堅固そのものですね。私の見学は大手門から鉄門に向かう枡形はまだ石畳舗装のない土の誘導路時代でした。勿論大書院もありませんでしたのでかいのすけさんのVは上段の間や折上げ格天井など見応えがありました。石垣は速度優先のためか野面積が多いようです。土橋を渡った正面左右の角石は算木積みで玉はつりは丁寧ですが枡形の内側は外から見えないので、すだれはつりや粗い玉はつりになっています。これも速度優先の結果なのでしょう。御殿の内側は城主の見栄えを意識してか切込接乱積みと丁寧な玉はつり仕上げとなっているようです。
篠山城、お城好きは知っている名城ですね。屏風狭間が現存していないのが残念です。素晴らしい動画ありがとうございます。
高虎としては晩年の築城。つづく徳川大坂城の石垣の美しさに通ずるものを感じます。
家康も高虎も篠山城をこれほど大規模な城郭にするつもりではなかったと聞いています。有事に周囲の大名の軍勢を収容させる予定とはいえ、普段は5~10万石クラスの大名が管理するためあまり大規模にすると城を維持できなくなるからです。ところが築城予定地の岩山が予想以上に固く石垣や堀が掘削できないためやむなく岩山を囲むように石垣を築いたとか。実際幕府の役職就任と国持ち大名クラスの城の維持とセットで歴代大名の財政はかなり厳しかったのではないでしょうか?
城郭の規格化とは、なるほど。これならば作りやすいし守り易いですね。さすが藤堂高虎…!!馬出しで兵力調整できるところもさすがです。
織豊系城郭の規格化か
お城初心者です。おすすめに出てきました^^素敵なチャンネルを見つけられてうれしいです。
ありがとうございます。歴史や城でなにかありましたら気軽にコメントくださいね!
兵庫県には名城が多いですね。要の場所だったのでしょう。姫路、明石、篠山どれも大坂と西国に睨みを利かす城。
コメントありがとうございます。私もそう思います、兵庫県は名城ばかりですよね!
古墳も18.707基在り、日本1位です。あ、それから、ため池の数も日本一です。はい。
おおー、産まれて20年ほどいた地元の城を特集してくれて、ありがとう。10:34に見えるのは我が母校の篠山小学校。篠山城は二重堀だが、なんと外堀の内側に小学校を抱えているのだ。お城の中にある小学校は全国でも珍しいのでは?!
かいのすけさんお疲れ様デス 築城の名人高虎なら守りが硬いのは納得しますね👍
そうですね、さすが高虎です!
造り方を規格化したってことは作業も規格化できたってことなんですね。そして天下普請で諸大名が築城術を学ぶ場になってしまった。。。明石城などは幕府から派遣された役人が1年で帰っていったという話を聞いたことがあります。つまり堅固な城を短期間に築けて全国にその技術が広まったことに幕府は怖れをなしたんでしょう。全国が要塞化されることを怖れた幕府はその後”一国一城令”を出します。
縄張りは藤堂高虎だけど普請は池田輝政。輝政の普請にしては石垣がかなり適当で納期が短期間での大変さがうかがえる城ですね。直線的な縄張りは規格化より死角を減らすために有効ですが、この時代の土木技術の急激な進歩により丸い丘を四角形に出来たことが凄いです。極端に死角を減らした考えが五稜郭になっちゃうんだけどね。あとこの頃の普通の火縄銃は120m飛ぶには飛ぶけど攻撃力はエアガンのBB弾レベルでしょう。大砲と弓(弓なら傷を与えられるでしょう。)で対応かな。ぜひ、名門波多野氏の居城、八上城、赤鬼の居城、黒井城もセットで観てほしいです。(八上はそこそこきついです。)
かいのすけさんこんばんは🌆ダイです!更新止まっていたので、体調崩されたのかと思って心配してましたが、元気そうで良かったです☺️御殿は知っていましたが、縁側に出れるのは知らなかったです、、、!自分も夏、岡山、兵庫行く用があるのですが、時間の関係で、行けないので、次回以降に行く時こちらの動画を参考にさせていただきますね。
ありがとうございます。楽しんできてください。
盆地にある城を守護する掘を維持する為の治水技術も目を見張る物がある。
動画の中であった鉄砲の事ですが、おそらく大狭間筒を使うつもりだったのではないかと思われます。1614年(慶長19年)の大坂の陣(冬の陣)において真田幸村が真田丸で使った大型の鉄砲で 有効射程距離300m現在で言う狙撃中のような火縄銃です。命中精度が非常に高く狙撃が可能だったと思われます。大坂冬の陣ではこの鉄砲による狙撃で徳川方が出丸に近付く事が出来ず、今で言う塹壕を掘って前進しました。そう考えるのが妥当だと思います。
現代の歩兵用の自動小銃でも、実際には200m以内の戦闘が多いそうです。
毎年11月高校駅伝兵庫予選「西脇工対報徳対須磨学園」の死闘が行われます。また、卓球大会が毎月のように行われております。有馬温泉に泊まって、レンタカーで篠山→三木→佐用→赤穂の裏ルート旅行も良いですよ(^▽^)/
御先祖様が城主してた城だから見に行った事があります。
突貫工事にしては丁寧できれいな石垣。
??
昔の人は頭がいい。重機も自動車もコピー機も無い時代に、どうやって作れるん?
作事奉行は池田輝政でしたが、上の総監督は藤堂でした。輝政はこの経験があったので姫路城を造ったのでしょう。
確かに!篠山城での経験が姫路城に影響しているかもしれませんね
火縄銃はライフリングされていないので弾道が安定しません
コメントありがとうございます。当時の火縄銃は120m先の敵兵を撃つことができたのでしょうか。なかなかイメージするのが難しいですね!
火縄銃も様々なタイプがあり、長銃身の狭間筒では300mぐらいまで狙えたと言われますね。鉄炮足軽が扱う小口径のものなら通常は50mほどまで接近させてから射撃したようです。現代でも伝統的な砲術は継承されており、江戸末期ぐらいの火縄銃の実物を使った実験なども行われているので、火薬の配合技術などで全く同じとは言えないもののある程度近い形で再現できていると思われます。
超デカイ古墳を造る技術集団が存在したんだから。そのDNAを受け継いでる民族が城を築くことくらいは簡単だったと思う。全て人海戦術なのが恐れ入るが。
邪魔な木は切り倒せばいいのに
熊本城は?(‘0’)古今東西唯一無二の不落城幕末ですら、落とすことの出来なかった城
平成以降、内堀の復元・御殿の再建・石垣整備 等々が丁寧に時間をかけて進められており、訪問する度に応時の姿に甦って行く「復元整備の」お手本の様な城ですね。他の城では市街地化で消滅している事が多い馬出が二つも残存しているのも素晴らしいです。城郭ファンは一度は訪れたい場所です。
馬出が見事に残っているのには感動しました。
1995年頃まで篠山城の敷地内(駐車場の所)に中学校があって通ってました。大書院が復元されるまでは、ほぼ中学校のグランドになっていて部活で走り回ってた記憶があります。ガーって開く重たい教室のドア、壁の無い寒い廊下、あのボロ校舎なつかしいなぁ。
紹介動画作成とUP、お疲れさまです
コンパクトなのに高い防御力という徳川城郭のお手本のようなお城ですね
一度登城したことがありますが、復元された大書院や残っている石垣など、どれも立派だったことを想い出しました
典型的な高虎のお城ですね。特に後期の作品、伊賀上野城、津城にも通じるものがあります。また高虎の城には、石垣の下に犬走りがある所が多いですね。初期作の赤城城にもあります。
赤木城も狙っています!そのうち行けたらいいなと思っています。
@@kainosuke-rekishi
赤木城はなかなか行くのが大変な場所ですので頑張ってみてください。
素晴らしい解説今回も有り難うございます。藤堂高虎の縄張りの特徴は方形の組み合わせと高石垣・犬走り・枡形。馬出も3カ所あり裏の埋門も二階櫓門で外枡形と併せて厳重に守られていて堅固そのものですね。私の見学は大手門から鉄門に向かう枡形はまだ石畳舗装のない土の誘導路時代でした。勿論大書院もありませんでしたのでかいのすけさんのVは上段の間や折上げ格天井など見応えがありました。
石垣は速度優先のためか野面積が多いようです。土橋を渡った正面左右の角石は算木積みで玉はつりは丁寧ですが枡形の内側は外から見えないので、すだれはつりや粗い玉はつりになっています。これも速度優先の結果なのでしょう。御殿の内側は城主の見栄えを意識してか切込接乱積みと丁寧な玉はつり仕上げとなっているようです。
篠山城、お城好きは知っている名城ですね。屏風狭間が現存していないのが残念です。
素晴らしい動画ありがとうございます。
高虎としては晩年の築城。つづく徳川大坂城の石垣の美しさに通ずるものを感じます。
家康も高虎も篠山城をこれほど大規模な城郭にするつもりではなかったと聞いています。
有事に周囲の大名の軍勢を収容させる予定とはいえ、普段は5~10万石クラスの大名が管理するためあまり大規模にすると城を維持できなくなるからです。
ところが築城予定地の岩山が予想以上に固く石垣や堀が掘削できないためやむなく岩山を囲むように石垣を築いたとか。
実際幕府の役職就任と国持ち大名クラスの城の維持とセットで歴代大名の財政はかなり厳しかったのではないでしょうか?
城郭の規格化とは、なるほど。これならば作りやすいし守り易いですね。さすが藤堂高虎…!!馬出しで兵力調整できるところもさすがです。
織豊系城郭の規格化か
お城初心者です。おすすめに出てきました^^素敵なチャンネルを見つけられてうれしいです。
ありがとうございます。歴史や城でなにかありましたら気軽にコメントくださいね!
兵庫県には名城が多いですね。要の場所だったのでしょう。
姫路、明石、篠山どれも大坂と西国に睨みを利かす城。
コメントありがとうございます。私もそう思います、兵庫県は名城ばかりですよね!
古墳も18.707基在り、日本1位です。あ、それから、ため池の数も日本一です。はい。
おおー、産まれて20年ほどいた地元の城を特集してくれて、ありがとう。
10:34に見えるのは我が母校の篠山小学校。
篠山城は二重堀だが、なんと外堀の内側に小学校を抱えているのだ。
お城の中にある小学校は全国でも珍しいのでは?!
かいのすけさんお疲れ様デス 築城の名人高虎なら守りが硬いのは納得しますね👍
そうですね、さすが高虎です!
造り方を規格化したってことは作業も規格化できたってことなんですね。
そして天下普請で諸大名が築城術を学ぶ場になってしまった。。。
明石城などは幕府から派遣された役人が1年で帰っていったという話を聞いたことがあります。
つまり堅固な城を短期間に築けて全国にその技術が広まったことに
幕府は怖れをなしたんでしょう。
全国が要塞化されることを怖れた幕府はその後”一国一城令”を出します。
縄張りは藤堂高虎だけど普請は池田輝政。輝政の普請にしては石垣がかなり適当で納期が短期間での大変さがうかがえる城ですね。直線的な縄張りは規格化より死角を減らすために有効ですが、この時代の土木技術の急激な進歩により丸い丘を四角形に出来たことが凄いです。極端に死角を減らした考えが五稜郭になっちゃうんだけどね。あとこの頃の普通の火縄銃は120m飛ぶには飛ぶけど攻撃力はエアガンのBB弾レベルでしょう。大砲と弓(弓なら傷を与えられるでしょう。)で対応かな。
ぜひ、名門波多野氏の居城、八上城、赤鬼の居城、黒井城もセットで観てほしいです。(八上はそこそこきついです。)
かいのすけさんこんばんは🌆
ダイです!
更新止まっていたので、体調崩されたのかと思って心配してましたが、元気そうで良かったです☺️
御殿は知っていましたが、
縁側に出れるのは知らなかったです、、、!
自分も夏、岡山、兵庫行く用があるのですが、
時間の関係で、行けないので、
次回以降に行く時こちらの動画を
参考にさせていただきますね。
ありがとうございます。楽しんできてください。
盆地にある城を守護する掘を維持する為の治水技術も目を見張る物がある。
動画の中であった鉄砲の事ですが、おそらく大狭間筒を使うつもりだったのではないかと思われます。
1614年(慶長19年)の大坂の陣(冬の陣)において真田幸村が真田丸で使った大型の鉄砲で 有効射程距離300m
現在で言う狙撃中のような火縄銃です。
命中精度が非常に高く狙撃が可能だったと思われます。
大坂冬の陣ではこの鉄砲による狙撃で徳川方が出丸に近付く事が出来ず、今で言う塹壕を掘って前進しました。
そう考えるのが妥当だと思います。
現代の歩兵用の自動小銃でも、実際には200m以内の戦闘が多いそうです。
毎年11月高校駅伝兵庫予選「西脇工対報徳対須磨学園」の死闘が行われます。
また、卓球大会が毎月のように行われております。
有馬温泉に泊まって、レンタカーで篠山→三木→佐用→赤穂の裏ルート旅行も良いですよ(^▽^)/
御先祖様が城主してた城だから見に行った事があります。
突貫工事にしては丁寧できれいな石垣。
??
昔の人は頭がいい。
重機も自動車もコピー機も無い時代に、どうやって作れるん?
作事奉行は池田輝政でしたが、上の総監督は藤堂でした。輝政はこの経験があったので姫路城を造ったのでしょう。
確かに!篠山城での経験が姫路城に影響しているかもしれませんね
火縄銃はライフリングされていないので弾道が安定しません
コメントありがとうございます。当時の火縄銃は120m先の敵兵を撃つことができたのでしょうか。なかなかイメージするのが難しいですね!
火縄銃も様々なタイプがあり、長銃身の狭間筒では300mぐらいまで狙えたと言われますね。
鉄炮足軽が扱う小口径のものなら通常は50mほどまで接近させてから射撃したようです。
現代でも伝統的な砲術は継承されており、江戸末期ぐらいの火縄銃の実物を使った実験なども行われているので、
火薬の配合技術などで全く同じとは言えないもののある程度近い形で再現できていると思われます。
超デカイ古墳を造る技術集団が存在したんだから。そのDNAを受け継いでる民族が城を築くことくらいは簡単だったと思う。全て人海戦術なのが恐れ入るが。
邪魔な木は切り倒せばいいのに
熊本城は?(‘0’)古今東西唯一無二の不落城
幕末ですら、落とすことの出来なかった城