【車内放送】国鉄時代の急行「アルプス1号・こまがね1号」(165系 鉄道唱歌 新宿発車後)
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- Опубліковано 11 вер 2024
- 85年5月、新宿-松本・天竜峡間165系急行「アルプス1号・こまがね1号」車内放送を収録。高速バスとの競合で、「こまがね」は廃止されてしまいましたが、当時は天竜峡まで乗り換えなしで行く事ができました。
映像は03年6月の165系さよならイベントの模様を収録。
車内放送は「鉄道サウンド広場」(本館)で多数公開中!
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急行こまがねで新宿から天竜峡まで乗ってみたかったですね。
高校生の時登山部にいて、中央東線は良く利用してました。
ただ行きは夜行利用で長野行き各停や急行アルプスには乗りましたが、昼行のアルプス利用は無かったです。
帰りは昼行ながら急行料金をケチる為各停と決められており、こちらでも利用しませんでした。
その意味では貴重な音源を上げていただき感謝します。
なつかしくて涙が出そうです。子供の頃祖父母の住む辰野まで毎年乗ってました。新宿でお弁当とポリ容器のお茶、お菓子や雑誌を買ってもらって、長く退屈な時間だったけど思い出すとあの頃に戻りたくなります。一瞬車内の匂いまでした気がしました。貴重な録音ありがとうございます。
貴重な音声ありがとうございます。小学生の頃、飯田の里帰りに乗っていました。「こまがね」は全車自由席な為に発車2時間前から並んでいた記憶があります。そして当時かかせなかったのが四角い容器のお茶と冷凍ミカンでした。
新宿駅ホームの行先表示板も懐かしく、感慨深いです。当時、小学生の私は夏休みや冬休みになると武川村(現:北杜市)の祖父母のところに行くために、韮崎駅まで利用しました。車端部の2人掛け席に好んで座っていました。隣に若いお姉さんが相席になって、幼いながらもドキドキした思い出があります。
親と離れて初めて長い旅をした約50年前に乗ったのが、こまがね1号だった。当時は勿論辰野で分割・編成も12両だった。
下り急行「アルプス1号」松本行+「こまがね1号」天竜峡行各駅到着予定時刻
立川7:57
八王子8:06
大月8:43
塩山9:04
山梨市9:09
石和9:15
甲府9:28
韮崎9:35
小淵沢9:56
富士見10:03
茅野10:13
上諏訪10:20
下諏訪10:25
岡谷10:30→「アルプス」・「こまがね」分割
(「アルプス1号」)
塩尻10:48
松本10:59
(「こまがね1号」)
辰野10:46
伊那松島11:03
伊那市11:17
駒ヶ根11:33
飯島11:46
伊那大島12:08
市田12:17
飯田12:27
伊那八幡12:38
天竜峡12:51
自分の家の前を7:46頃通過していきこの頃までに家を出ていないと学校に間に合わなかった。懐かしい。
列車は時計代わりになるくらい正確に運行されていましたね。
写真もお見事!鮮やかで華やかな塗装でしたね。
貴重な音声・動画ですね。私が子どもだった頃は急行こまがね走っていましたが、東京に行くのはもっぱら高速バスでした。「こまがね」に一度乗って見たかったです。
ありがとうございます。鉄道唱歌のメロディ‼️これです‼️私は、信濃森上・天竜峡行きに乗りました。単線の辰野まわりであの頃松本へ行ってました。
急行アルプスのサハシ、ビュッフェのコメントを読ませてもらいましたので思い出話をさせてもらいます。
70年代後半の小学生の頃に立山黒部アルペンルートを堪能した後に、信濃大町から「アルプス」(上り8号か9号?)に乗車しました。当初は普通指定のつもりが売り切れていてグリーンに乗れました(子供感覚)。グリーン車隣はまだ営業していたビュッフェで、父親と一緒に行ったところそこでは鮎の塩焼きが売っていて、奮発してくれたのを今でも覚えています。とても贅沢なことだったと思います。こんなことはもうないんですね。行きは新幹線と米原から583系「しらさぎ」に乗ったのですが、こちらは一人で食堂車を探訪しましたが、ドアを開けて入ると一斉に注目を浴びたような気がしてそそくさと退散したような記憶です。じっくり観察してればよかった。
映画「帰らざる日々」で永島敏行さんが父の危篤の知らせを受けて、この列車で帰省するシーンが思い出されます。映画のほぼ全編、車中での高校時代の回想シーンで、飯田までいつかこの列車で行きたいと思っていましたが、結局乗ることなく廃止されてしまいました。
東線の急行は、民営化直前まで残っていたという印象です。
165系と言えば、“アルプス”を連想する方も多いでしょう。その意味でも、遅くまで生き残っていてくれて感謝してます。
車内アナウンスとても良い!
停車駅と到着時刻に連絡のご案内もあるのは、中央東線の伝統ですな。
新宿・甲府・松本のどの区担当でもやりますね。
最近は到着時刻は特急券にてご確認くださいに、変わってしまって淋しい限りです
車内アナウンスが、
「今日も、JR東日本を………では無いのが、そして、車掌さんの個性あふれるアナウンスが懐かしくて🧐
そうそう😃💡こうだったよなと思い出させて頂きありがとうございます🙇
こまがね号は母親の実家行くときによく使いました。
今でも盆暮れ正月GWだけ特急で復活して欲しいと思っていますが、東日本と東海の管轄の違いもあり、線形が悪く速達しないのでまず無理でしょうね。残念。
映像の車内は改装されているようですね
新潟の165系は「ムーンライト」用に座席が改良されていました。
列車旅の醍醐味ですよね❗😸素晴らしい❗😸。
中央東線昼行急行最晩年の頃ですね。
アルプス・こまがね併結便のみ3往復が存続し、86年のダイヤ改正で遂に力尽きました。
それでも、信越筋のそれに比べれば、その走りっぷりは急行としての面目を保っていたのかもしれませんね。
国鉄の末期まで生き延びてくれたのは、今にして思えば奇跡だったのかも。
当時、サハシの自由席はただ単に自由席と案内されててビュッフェについて営業休止してますとかの放送は無かったんですかね?気になります。
この時はサハシは連結されていなかったと思います。連結されていれば、当然営業、非営業の案内は行われると思います。583系寝台特急では食堂車の営業をしていませんでしたが、◯号車は食堂車ですが営業いたしておりませんと毎回案内していました。
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どこだったかでサハシは営業休止後も、冷房の電源車として昭和57年まで連結されていたとありました。
サハシの他にわずか2両ですが、サハ164型があり売店車として連結されていました。中央東線の電車急行には売店車の場合があります!と時刻表には載っていました。
この頃になるとサハシは外されています。グリーン車も2両から1両になっています。
東北・上越新幹線上野駅開業後のダイヤ。「甲府あずさ」「アルプス」の立川駅停車のダイヤ改正。「アルプス」の大八周りの廃止ダイヤ。今では西東京の顔の立川が、ようやく中距離列車の停車がなされた時期。今では街の規模という点では、立川と八王子が完全に逆転している。時代の流れなのかな? 立川が栄えて、八王子が寂れる一方。
立川が栄えて、八王子が衰退という話は関西にいても時々耳にしますね。情報バラエティー番組のことですから面白おかしく紹介していますが、実際のところはどうなんでしょうかね。
城崎かすみ 立川市民です。職場が八王子にあるのでよく往復するのですが、立川には多摩地域唯一のららぽーとや東京都で唯一のイケアがあるので確かに賑わっています。ですが2017年8月現在でも定期列車の「スーパーあずさ」が上下線それぞれ1本のみ(14号(上り)・19号(下り))通過してしまうので、その点ではまだ八王子が有利だと思います。
2016年度JR東日本の上位100駅の中で、乗降客数が前年を割っているのは渋谷や八王子など6駅のみです。渋谷は東横線とメトロの直通運転などの影響が大きいと思いますが、八王子は大学の都心回帰など後ろ向きな要因なのが気になります。一方立川は米軍基地跡地再開発など勢いを感じます。
この数年前の夏休み、80年か81年だったかにアルプス1号で黒姫に行きました。確か南小谷行だったような記憶があります。
新宿発は6時台だったような、、混在してしまってますかね。。
覚えてるのはサハシ連結でしたが、サハシのカウンターに座ってる人、寝てる人がいました。片側があふれていたのでその流れで一杯になっていました。
ちなみに生まれて初めてグリーン車に乗って往復をアルプス号で行きました。6時間くらいかかったように記憶してます。
私は1980年小3の夏休みに「こまがね1号」で祖母の家に初めての一人旅をしました。新宿発は7時30分だったはずです。7時00分発があずさ1号の為間違い無いと思います(6時台だと私は乗車に間に合わない)。何日だったかは覚えていませんが、7月後半でした。ご一緒の可能性があります。ただ、こまがね乗車の為私は先頭1号車にいました。お袋さんの手弁当食べながら通過する駅を確認して、お隣に座った人(これがなかなか覚えていない)とお話ししたりであっという間に感じた伊那松島到着。
数年後、高尾から(岡谷乗り換え)伊那松島までオール普通列車の一人旅も決行しました。
@@nu20gtideamx さん
ありがとう。お年は48-49歳くらいでしょうか。私より少し先輩にあたるようですね。
そうでしたか、、、同じ列車だった可能性もあるんですね。私は8月だったような。。。
こまがね号は、新宿から何処行きになるんでしょうか?
@@kumosukeponsuke 天竜峡行きが殆んどです。平岡まで延長された列車も有ったかもしれません。
長野・松本から直通の急行「天竜」(後のかもしか、みすず)も運行されており、この頃が北部飯田線の全盛期でしょう。
こまがねも天竜も165系での運用だったので、帰路は時刻表と駅員さんの呼び掛けと車両側面の行先標の確認をしないととんでもない目に遭います。
@@nu20gtideamx 84年頃平岡始発新宿行き急行出てました確か平岡からしばらく普通列車扱いだったような
飯田線上半分は東日本に継承されていれば、新宿直通は残されたのかだろうか
既に中央自動車道の開通によって、国鉄・急行列車の需要は減少傾向、移行しておりました。
しかも、飯田線全線が東海道本線の支線、静岡鉄道管理局管轄でしたから、一部を分割、別会社にすることは、十中八九範疇に無かったことでしょうね。
ですから、新宿発直通列車の存続はありえません。
唯、長野自動車道の関係もあり、長野方面の直通列車は、しばらく存続出来ましたけどね。
モハに乗るのが目的..