真田昌幸が赦免されなかった理由とは?

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 30 січ 2025

КОМЕНТАРІ • 50

  • @teamtop7215
    @teamtop7215 2 роки тому +3

    確かに大阪城に入城して采配をみてみたかった。
    信繁入城だけでもドラマだけど。
    好きな大名です!

  • @フォード-i1w
    @フォード-i1w 2 роки тому +11

    真田家に関してはもう信之が主流だしね 昌幸は平和な時代ではもう使い道がないし腹切らせなかっただけ優しすぎる(実際平和になってから本人も腑抜け気味&寝込み気味に)
    三成や大谷(信繁)と姻戚関係だから罰しないと示しがつかない

  • @daioh_gtonburi9204
    @daioh_gtonburi9204 2 роки тому +14

    “恐怖”の対象 と言うよりは “厄介者” と言う感じだったんじゃないかなぁ。
    まあ天正壬午の乱・関ケ原であれだけやっちゃぁ家康としては信用しようがないと思います。

  • @フィニア
    @フィニア 2 роки тому +9

    そもそもな話、真田家は信之が継いでいて存続しているので、昌幸を赦免して新たな大名にする意味自体ないからじゃないかな?

  • @yh6146
    @yh6146 2 роки тому +6

    遠島にならなかっただけで宇喜多秀家よりまし。

  • @ワイルドメーン
    @ワイルドメーン 2 роки тому +22

    そりゃ、2回も家康に刃向かったからだろ

    • @hirohilo1692
      @hirohilo1692 2 роки тому +1

      アンド息子も軽くあしらわれるという。

  • @tmsplash720
    @tmsplash720 2 роки тому +14

    戦の勝敗を理由にして死罪にするというのは、他の大名への対応を見ても考えにくいと思います。
    一度徳川相手に勝った大名は二度と許されないなんて風評が広がった日には、死に物狂いで抵抗されかねませんし。
    他に考えられるのは、上杉討伐(本来の名目)の際に謀反側に加担していたとしての死罪でしょうか。
    その死罪にしても、信之に恩を売るためにわざとやったと考えた方が自然かなと。
    露店の値切り交渉ではないですけど、死罪と赦免でスタートして流罪を落としどころにするって感じで。
    最初から流罪で信之側も黙って受け入れるより、嘆願の結果ということになった方が色んなところに顔が立ったのだと思います。

  • @松本悠佐
    @松本悠佐 2 роки тому +2

    やはり家康にとっては三方ヶ原の戦い
    がよほど痛い戦いだったのでしょう。
    トラウマに近い…。
    ただ赦免される→家康に屈する家臣になる→すると先の犬伏の別れの意味が…となるから命があれば良かったのでは…。実際信之は赦免活動を行っていたかも知れませんが昌幸が赦免を願っていたかは?です。

  • @fios1977
    @fios1977 2 роки тому +7

    五常に反すれば、例え息子であろうと死罪にする家康なのに、その五常の正反対ともいえる真田昌幸が復帰するとかそもそも絶望的だとおもう。表裏比興は戦国時代に必要な事でもあったが、
    そのまま素直に家康に従い、何か不都合があれば家康に助言を求めればまた違った展開もみられたかもしれないのに、残念な人物です。

  • @xjcity
    @xjcity 2 роки тому +6

    まあそもそも。昌幸公は武田派だし。家康に恩義はゼロだったし。

  • @照烈院敬
    @照烈院敬 Рік тому +2

    徳川家康は、徳川秀忠の別働隊が、関ヶ原の戦いの本戦に間に合わず、豊臣恩顧の武将の助けを得て、勝ったのが、よほど、頭にきたのだろう!!

  • @選び抜かれた精鋭
    @選び抜かれた精鋭 2 роки тому +5

    案内人のさおりさん。めっちゃ好きやねん

  • @aya-ff1fl
    @aya-ff1fl 2 роки тому +6

    真田昌幸が亡くなっても その葬儀すら許さなかったのですから 家康の憎悪がどれほどだったのかが伺えますよね

  • @FukumizonT0T
    @FukumizonT0T 2 роки тому +4

    捨てる小石でも自身が躓く可能性があるなら、遠くに投げ捨てるでしょうね。

  • @ハナハサクラダ
    @ハナハサクラダ 2 роки тому +4

    真田昌幸もよくよく運が無かったようですね。能力あっても運が無いと残念なことになる代表かな?

  • @夜中ミルコ
    @夜中ミルコ Рік тому +1

    自分が徳川家康なら厄介な存在な真田昌幸を赦免にはしないね。やっぱり何されるか不安だもの

  • @uybo1
    @uybo1 2 роки тому +2

    名目的には豊臣軍から反乱軍への寝返りだからね。
    徳川だけでなく豊臣の立場からも許すわけにはいかなかった事でしょう。

  • @熊澤典子-h2v
    @熊澤典子-h2v 2 роки тому +3

    こんばんは、さゆりさん。

  • @kazoojupitorious3404
    @kazoojupitorious3404 2 роки тому +3

    知勇を兼ね備え、秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめた稀代の謀略家昌幸 ……信義の人である宗茂とは真逆の位置付けのこの人を赦免などしようはずもない…。

  • @山田海人-e5t
    @山田海人-e5t 2 роки тому +2

    憎んでたのはむしろ昌幸の方。
    三方ヶ原の戦いでは確かに武田軍の勝利で終わったけど、徳川に足止めを喰らったのが原因で昌幸の敬愛すべき主君である信玄は上洛を果たせないまま病死した為、昌幸にとって家康は実質的に信玄の仇も同然だったのだと言える。
    しかもその後、勝頼を失った武田軍の残党は徳川に取り込まれるし、秀吉の天下後は大名になりながらも徳川の臣下になれと命令される等、昌幸の家康個人への憎悪は筋金入りとなっていく一方で、家康の方は過去の遺恨を捨てようと信之と稲姫の婚姻を結ばせようとしたけど、昌幸は絶対に徳川を許そうとせず、関ヶ原にて本格的に裏切る道を選んだ。
    家康がもう無理だと判断して、戦後に信繁と共に死罪を言い渡すのは無理も無い事だし、親兄弟と対立してでも忠義を尽くした信之に責任を問わなかっただけでも十分優し過ぎるよな。

  • @茉弥-o6f
    @茉弥-o6f 2 роки тому +4

    家康は怖がってた思います!今回は考えさせるスタイルですね(^^)勝ち負けが重要される時代であり知力で負けたのが引きずってると…これが最後まで家康トラウマなっててもおかしくないなぁ〜て動画アップありがとうございました(^^)

  • @もふもふ-x4p
    @もふもふ-x4p 2 роки тому +4

    家康にとって一番の敵だったからじゃない?
    赦免なんてしたら何やらかすか分かったもんじゃないし
    だから九度山に押し込めて浅野に監視させたのよ

  • @かっちゃん-v6u
    @かっちゃん-v6u 2 роки тому +4

    大坂冬の陣にて「真田」が大坂城に入城。
    家康は「親父か?倅か?」と詰問。
    「倅」と聞いて安心したというエピソードがある。
    やはり昌幸のことを恐れていたのだろう。

    • @田中流星-k9r
      @田中流星-k9r 2 роки тому +7

      そういう逸話って小説家とかが面白くつくっている場合もあるからどうなんだろう

  • @きんせい-c2u
    @きんせい-c2u 2 роки тому +7

    仮に赦したとして何処に所領を与えるかで徳川家康も頭を悩ませる事になったでしょうね。関東近くには配属したく無いし、かと言って遠くに配置したら監視の目が行き届きにくいからどんな悪巧みされるか分からない、赦免しなかったのは家康のFine playですかね。

  • @タカタカ-e8m
    @タカタカ-e8m 2 роки тому +6

    どちらにしろ、秀忠の恨みを買ってるから、後々やられるぞ!

  • @dearukiosanpo7190
    @dearukiosanpo7190 2 роки тому +2

    以前から疑問に思っていたのが蟄居の場所。
    東北あたりなら後々豊臣家と事を構える事に
    なっても昌幸・信繁が大阪に行く事が困難。
    東北に監視させる信頼出来る大名がいなかったか?
    赦免されなかったのは武田滅亡後の動向、
    上田合戦等を経て与力になり縁戚関係まで
    結んだのに関ケ原で西軍に付いた。
    家康からすれば全く信用出来ない。
    死罪にならなかっただけ御の字だろう。

  • @juki8011
    @juki8011 2 роки тому +3

    今日も、いやしのナレーション♡

  • @船木祥啓
    @船木祥啓 2 роки тому +4

    北条攻めの原因だし
    その時、徳川と北条は姻戚
    理由がありすぎるw

  • @愛知カンチャン
    @愛知カンチャン 2 роки тому +9

    徳川家に反逆する気満々の昌幸を赦免などするわけないでしょ。

  • @recchu9542
    @recchu9542 2 роки тому +12

    自分にとってプラスになり得ない人間に力を持たせるバカは居ないと思います。

  • @ひでまろ-h8h
    @ひでまろ-h8h 2 роки тому +1

    真田昌幸にしてみれば、あと一歩のところで家康を撃ち取れなかったのが残念であり、家康にしてみれば絶対に味方にしたかった武将だったに違いない。
    だから家康は死罪ではなく、流罪にしたと思うし、赦免されなかったのは真田信之が徳川側についていたという事から警戒されていたからではないでしょうか?
    何せ、真田昌幸程の戦略家は滅多にいないですから。
    それと、昌幸は一応は誰かに仕えるが、自分が天下を取るという事は考えていないのが分かっていたので、死罪にしなかったと思います。

  • @山下龍吾
    @山下龍吾 2 роки тому +1

    家康は恨みを持った相手にはとことん追い詰める性格をしている事から十分に考えられるな。今川の人質時代にある家臣から腹に据えかねる発言をされた時のことを覚えていて後に武田征伐時にとある城を落とし城兵を捕まえた時にその家臣がいた。他の武田家臣を許し、味方にしたのに対してその家臣だけは切腹をさせている。それ以上に恨みを持った真田昌幸を許す気が無いことは火を見るよりも明らか。それを真田信之や本多忠勝によって流罪で済ませた。納得はいかなかっただろうね。だから一生九能山に押し込んで出られないようにしたのだろう。

  • @チョースケ-y6f
    @チョースケ-y6f 2 роки тому +2

    二度とも家康自身が出陣してないからなぁ
    家康側の猪武者が勝手に負けただけ

  • @北川裕治-l4g
    @北川裕治-l4g 2 роки тому +4

    赦免が許されるなら
    犬伏で一族を
    分けた意味が
    なくなっちゃうよ
    本当は赦免を
    願わなかったのでは?
    出したとしても
    その裏側で
    大坂の陣を見据え
    幸村や家臣と
    議論していたのかも

  • @hazakuragoroh
    @hazakuragoroh 2 роки тому +13

    逆に赦免する理由が全く無くて草

    • @55tg
      @55tg 2 роки тому +6

      むしろ家康は優しすぎの様な気がする。

  • @日本の住人-n3w
    @日本の住人-n3w 2 роки тому +3

    恐怖感で赦免をしなかったのでは?
    何をするか分からない方だから、
    フリーには出来ないですね。
    生駒山から大阪城の間にいくつかの
    砦を築く戦略を幸村に伝えてたので、
    それを実現されたら真田丸より
    厄介な存在で家康の寿命も来て
    その後はどうなるやら・・・・

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 2 роки тому +2

    許す必要性が特に無さげだが?

  • @宮嶋和之
    @宮嶋和之 2 роки тому

    いいとこ許しても、復権は認めず、押し込め先を信之の預かりにするぐらいか。信繁の扱いは上杉に預けるか。

  • @guillotinethegreat
    @guillotinethegreat Рік тому

    浅学なもんで、そもそも昌幸を死罪にしなかった理由がよく分かってなかった。
    なるほど、関ケ原で直に相対していない敵軍の将を殺す…なんてのは、前例がなくまた世に示しもつかないって事か。
    家康自身は、本当は殺したかったと。
    そうなると、最近よく聞く「第二次上田合戦 ホントは大した事じゃ無かった」説が、ますます怪しく感じられる。

  • @フレアトマス
    @フレアトマス 2 роки тому

    時期的に従順な大名以外は必要なかったのでしょう。土地欲が強く戦国の気風を残した地雷みたいな男を世に戻す必要性が見つからない。
    恐れがあるとしたら籠城戦達者な昌幸が大坂に入り、大坂攻めが長引くのが怖かったくらいか?昌幸自身を恐れる時期じゃない。