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一時的な借り入れ、当時の長野なら有り得そうですね。冷房に関してはやはり当時の料金とステータスの関係から夏期は借り入れてでも冷房をという事になるのかなと思います。
この時代、車両需給の関係で他区と貸し借りするのは日常茶飯事だからそういったこともあったのかと
知り合いに確認した所名古屋からの貸出と返答もらいました理由については分からないと言ってます
大変ありがとうございます。1966~67年名古屋所属のキロ28は「のりくら」用を美濃太田へ、「赤倉」用を新潟へ、「きそ」「しなの」用を長野へ飛ばしている時期でキロ28自体が小所帯な時期ですので意外でした。この事情で長大編成対応車に限れば127号と138号しか入れた車両が該当しないので出来るならばその方と検証したいところです。
チラッと出ていたキハ58-477って乗った記憶があります。名古屋の車両だったかな?400番台でも若い番号だったから、なんか覚えているんですよね。キロ58と28については、申し訳ない。生まれる前の話ですのでお力になれませんでした。
全車2機関車でエンジンが(ほぼ戦前設計の)DMH17とか整備難易度で整備士のおじさんと燃費で財務の偉い人が発狂しそう急行アルプスの73年当時の運転時分が気動車運転の下り4号で4時間46分でその一本前の電車運転3号が同じ区間で3時間24分だとエンジンカットしたら余計スジに乗れなさそうなんですよね...まあ当時の4号はかわぐち(河口湖行き)と八ヶ岳(中込行き)を併結しているので大月と小淵沢で6分停車する上に最高速度95km/hなので単純比較はできませんが
う~む。。。きはゆに資料室様の車歴表を確認してみましたが、1965年の時点でキロ28は101~106の計6両が在籍していたようですね。で、何れも1965年10月迄に他所へ転属済となっているようで。唯、キロ28 101は1965年7月に千葉へ転属後、新潟を経て1966年2月に長野へ転属となっています。1967年度までは長野に在籍していたようなので、夏期のみ借り入れの可能性はありそうですね。その他、キロ28 199~202(1966年10月新製)の新製配置が長野となっています。202はすぐに高松へ転属したようですが、199,200は1970年度まで、201は1971年まで長野に在籍していました。こちらの借り入れの可能性も大かと思います。
自己レスです。長野運転所のキロ28は主に中央西線の急行(ちくま、きそ)で運用されたようです。予備車を松本が借り入れてって可能性はありますね。
地域が違うから申し訳ないですが最近まで急行ちどり号キハ55系の照灯式ヘッドマークの色がわからなかったからこんな色かな?とNゲージ再現している人がいます捜索はなかなか難しいですけど頑張ってください
家電メーカーのリコールCMみたいになってる😅
TDKの加湿器?😅
JNRの気動車@@zadkmb
あとありうる事柄として、全検検査時に予備車が無くなり急遽長野もしくは名古屋、はたまた水戸・尾久より借り入れて組み込んだとか?
もうご存知であったなら恐縮ですが,鉄道ピクトリアル2019年1月号(No.955,【特集】ディーゼル急行)の特集内記事「キハ58系を中心としたディーゼル急行編成記録(35~40頁)」の35頁に,1967年6月9日の新宿駅での急行「第6アルプス・天竜」(403D)と1967年10月20日の新宿駅での急行「白馬・八ヶ岳・かわぐち」(1401D)の編成記録が掲載されています。ただどちらの記録もキロ58形を2両含む全2機関車の12両編成で,当該のキロ28形に関する手掛かりはありませんでした。(なお1401Dの急行「かわぐち」の富士急車以外は,全て松本のキハ58形400番代とキロ58形による編成となっています。)記録に間違いが無ければ,少なくとも1967年においては一年中キロ28形の連結があったわけではないと言えそうです。
ありがとうございます。お力添えいただき助かります。恐らく所定は予定通りキロ58の2両が用いられ、ある程度まとまった期間にキロ28の代走があったものと踏んでおります。
なんと!急行天竜!天竜峡行きも連結されていたんですね😮電車急行のこまがね、天竜、伊那時代までしか知らなかったですが、ぎりぎりディーゼル時代の天竜に乗った記憶がありますが、不勉強で幼かったため詳しくはわかりません。
急行「アルプス」の気動車列車について詳細に知ることは重要なことです。58系気動車(58形)という我が国を代表する急行型気動車の使用例第一号であるからです。58系気動車(58形)は急行「アルプス」での使用が第一発目の始まりです。以下、明確な答えにはなっていないかもしれませんが、どこかにヒントがあるかもしれません。実際には、登山の時に2度ほど、急行「アルプス」の気動車列車に乗車しました。山岳区間では速度が大幅に落ちました。12両編成でした。急行「かわぐち」のほかに、小海線方面の車両(急行「八ヶ岳」)、飯田線方面の車両(急行「こまがね」)も連結されていました。この列車の名物は珍車のキロ58ですが、キロ28が連結された時代や時期、時もあったようです。キロ58には冷房用電源がないために、冷房用電源車確保の意味もあったはずです。当時は急行列車でも、冷房なしの車両もよくありました。山岳地域で連続急勾配の区間を擁し、都内などの都市部では中央快速線の高速高密度ダイヤでの運行となるため、そのうちに冷房用電源も標準装備されたキハ65₅₀₀を、キハ28、キロ28等の代わりに連結するようになりました。キハ65₅₀₀の連結開始時期(S43)に何らかのヒントがあるかもしれません。この動画の後者の説である長大編成対応車のためというのは、ちょっと?マークがつきます。今では信じられないかもしれませんが、当時はちょっとくらいのフライングは、よくあるなどと言う話もちょくちょく耳にしました。また、12連とは言っても、全区間で12連というわけでもありませんし、キロを2両含むと、12連で22, 23エンジンである場合もあります。この長大編成対応車の制約は15連の場合です。12連で24エンジンのケースは不明です。実際の気動車列車で15連というのは聞いたことがありません(特急列車を除く)。国鉄だったこの当時、よくあったのは、日本全国であちこちに車両を貸し出していたということです。鉄道雑誌等に掲載された編成の車両と、実際の車両とが違う、なんていうことがよくありました。行楽シーズンなどでは特に多かったです。記録の抜け落ちたものもあったはずです。また見落としている資料や散逸している資料、思わぬ地域の資料などがあるかもしれません。この地域と四国(西日本)などとの関係などもあります。もしかしたら、模型マニアや模型屋が知っているかもしれません。昭和50年3月で、この気動車急行「アルプス」は電車化されました。この電車急行「アルプス」には、ビュッフェ車のサハシ165が付いていました。ここで登山での往来時にソバを食べました。ムチャクチャおいしかったです。しかし1年ほどすると、このビュッフェ車も営業休止となり、疲れた登山客のたまり場と化していました。カウンターの上にはリュックを枕にした登山客がイビキをかいて寝ていました。その1~2年後くらいに、このビュッフェ車は無くなりました。
いつも動画を楽しく拝見しています。この動画が出た時、資料をまとめて止まっていました。さて、アルプスに入ったキロ58/28話。引用文献はPR(ピクトリアル)/号数/ページWiki(ウィキペディア)/ページ名/項目のような形で記載します。一番濃い線は1966/1967は長ナノのキロ28/27と共通運用をされていたと思われます。この根拠となる事象を整理すると・1965 キロ27冷房改造(Wiki/国鉄キハ57系気動車/運用より)・1966 10末 キロ28-199~201 長ナノに増備配置 同時期にハザ車の増備は長ナノ・長モト共に無し(PR/687号/P57 車歴表) ・1968 5頃? キロ58冷房改造(PR別冊 国鉄型車両の記録 急行形気動車/P31 キロ車冷房C工事の項)また、Wiki/国鉄キハ57系気動車/運用の項に『冷房改造後長野配置のまま、キロ28形およびキロ58形とともに「ちくま」や「越後」で運用された(一部省略)』とあります。ということは、長モトのキロ58、長ナノのキロ27、28はキロ58の冷房改造完了まで共通運用だったのではと推察します。もっと言ったら他の地区の急行の一等車とは言わず下手したら二等車にも冷房入っとるのに、なんで新宿から出るこの急行の一等車に冷房が全くないんや…ってチクチク言われたのかもしれませんね。なお、文面の参考資料に出ていませんが、PR誌の955号(2019.1月号)の平石大貴先生の『キハ58系(普通車)の冷房化について』も良く纏められた一級資料と思われます。機会あれば御一読ください。なお、長大編成対応車は1962年度二次債務車から登場しているので必要とする場所には充足していたのではないかと思います。長文失礼しました。【参考資料(まとめ)】・鉄道ピクトリアル(PR) 2000年6月号 №686 特集:キハ58系(1) 2000年7月号 №687 特集:キハ58系(2) 2019年1月号 №955 特集:ディーゼル急行・鉄道ピクトリアル 2018-3月号別冊 国鉄形車両の記録 急行形気動車
大変ありがとうございます。当該考察が自然で大変納得致しました。お手数おかけしました。
さくら号に追突した、あきよし号の編成を調べていると。東北にいるはずのキロ28が載っていたのですが。キロ28は季節ごとの貸し借りが頻繁だったりして。
謎ですねぇ。急行アルプスの画像をWikipediaで検索したら何かヒントが有りませんかねぇ。やはりグリーン車に冷房が入っていないのはグリーン料金を払ってくれた御客様に申し訳がないとの判断ですよね。かつてよく利用した急行いいでやあがのもグリーン車は冷房改造された車両でしたね。まぁ。遜色の代表格の急行いなわしろでもねぇ。喜多方からの編成といわきの水戸からの編成はグリーン車はグリーン自由席の格付けでしたけどね冷房改造された車両が充てられてましたね。個人的な考えですけどね。名古屋に泣きついたのではないですかね。御願いだから融通してよ。🙏🙏🙏だっのかなぁですよね。
神のホームページ にキハ58系の車歴 いくつか乗ってますよ
長野=キロ27は有りそうな気が。本来は碓氷峠越え用のキハ57のグリーン車・・・ただ、キロ27の冷房化改造が1965年の筈なので、これがどうなのか。とは言え、この頃には碓氷峠はアプト式から粘着式に移行していた時期ですし、電車化で余剰と化したキロ27が充当されていても変では無いように思えますけどね。
0:05 怖
冷房化中で他のところから借りたのかな。それだとしても転属等の記録は残るはずだけど…
サムネこわ
冷房化が絡んでると思うけど、色々と見つからないな。まず当時の鉄道ピクトリアルに該当する記事は無いっぽい。
資料があれば・・・
ガチのホワイト企業やんけ
冷房説が自然かな?
最終的にキニ28の種車になったような・・・
誰がそんな話してんねん的外れなコメなんかいらんっちゅうねん
国立国会図書館に行って、当時の「鉄道ジャーナル」や「鉄道ファン」を調べて見たら?
キハ28は敦賀赤レンガ倉庫に先頭車が保存されているが?
女性デュオアーチスト、「キロロ」
見つけた人にはHow much
まあ、できる事ならNゲージあたりで編成再現してあげれば、喜ぶだろう?
一時的な借り入れ、当時の長野なら有り得そうですね。
冷房に関してはやはり当時の料金とステータスの関係から夏期は借り入れてでも冷房をという事になるのかなと思います。
この時代、車両需給の関係で他区と貸し借りするのは日常茶飯事だからそういったこともあったのかと
知り合いに確認した所
名古屋からの貸出と返答もらいました
理由については分からないと言ってます
大変ありがとうございます。1966~67年名古屋所属のキロ28は「のりくら」用を美濃太田へ、「赤倉」用を新潟へ、「きそ」「しなの」用を長野へ飛ばしている時期でキロ28自体が小所帯な時期ですので意外でした。この事情で長大編成対応車に限れば127号と138号しか入れた車両が該当しないので出来るならばその方と検証したいところです。
チラッと出ていたキハ58-477って乗った記憶があります。名古屋の車両だったかな?400番台でも若い番号だったから、なんか覚えているんですよね。
キロ58と28については、申し訳ない。生まれる前の話ですのでお力になれませんでした。
全車2機関車でエンジンが(ほぼ戦前設計の)DMH17とか整備難易度で整備士のおじさんと燃費で財務の偉い人が発狂しそう
急行アルプスの73年当時の運転時分が気動車運転の下り4号で4時間46分でその一本前の電車運転3号が同じ区間で3時間24分だとエンジンカットしたら余計スジに乗れなさそうなんですよね...
まあ当時の4号はかわぐち(河口湖行き)と八ヶ岳(中込行き)を併結しているので大月と小淵沢で6分停車する上に最高速度95km/hなので単純比較はできませんが
う~む。。。
きはゆに資料室様の車歴表を確認してみましたが、
1965年の時点でキロ28は101~106の計6両が在籍していたようですね。
で、何れも1965年10月迄に他所へ転属済となっているようで。
唯、キロ28 101は1965年7月に千葉へ転属後、新潟を経て1966年2月に長野へ転属となっています。
1967年度までは長野に在籍していたようなので、夏期のみ借り入れの可能性はありそうですね。
その他、キロ28 199~202(1966年10月新製)の新製配置が長野となっています。
202はすぐに高松へ転属したようですが、199,200は1970年度まで、201は1971年まで長野に在籍していました。
こちらの借り入れの可能性も大かと思います。
自己レスです。
長野運転所のキロ28は主に中央西線の急行(ちくま、きそ)で運用されたようです。
予備車を松本が借り入れてって可能性はありますね。
地域が違うから申し訳ないですが
最近まで
急行ちどり号キハ55系の照灯式ヘッドマークの色がわからなかったから
こんな色かな?とNゲージ再現している人がいます
捜索はなかなか難しいですけど
頑張ってください
家電メーカーのリコールCMみたいになってる😅
TDKの加湿器?😅
JNRの気動車@@zadkmb
あとありうる事柄として、全検検査時に予備車が無くなり急遽長野もしくは名古屋、はたまた水戸・尾久より借り入れて組み込んだとか?
もうご存知であったなら恐縮ですが,鉄道ピクトリアル2019年1月号(No.955,【特集】ディーゼル急行)の特集内記事「キハ58系を中心としたディーゼル急行編成記録(35~40頁)」の35頁に,1967年6月9日の新宿駅での急行「第6アルプス・天竜」(403D)と1967年10月20日の新宿駅での急行「白馬・八ヶ岳・かわぐち」(1401D)の編成記録が掲載されています。
ただどちらの記録もキロ58形を2両含む全2機関車の12両編成で,当該のキロ28形に関する手掛かりはありませんでした。
(なお1401Dの急行「かわぐち」の富士急車以外は,全て松本のキハ58形400番代とキロ58形による編成となっています。)
記録に間違いが無ければ,少なくとも1967年においては一年中キロ28形の連結があったわけではないと言えそうです。
ありがとうございます。お力添えいただき助かります。恐らく所定は予定通りキロ58の2両が用いられ、ある程度まとまった期間にキロ28の代走があったものと踏んでおります。
なんと!急行天竜!
天竜峡行きも連結されていたんですね😮
電車急行のこまがね、天竜、伊那時代までしか知らなかったですが、
ぎりぎりディーゼル時代の天竜に乗った記憶がありますが、不勉強で幼かったため詳しくはわかりません。
急行「アルプス」の気動車列車について詳細に知ることは重要なことです。58系気動車(58形)という我が国を代表する急行型気動車の使用例第一号であるからです。58系気動車(58形)は急行「アルプス」での使用が第一発目の始まりです。
以下、明確な答えにはなっていないかもしれませんが、どこかにヒントがあるかもしれません。
実際には、登山の時に2度ほど、急行「アルプス」の気動車列車に乗車しました。山岳区間では速度が大幅に落ちました。12両編成でした。急行「かわぐち」のほかに、小海線方面の車両(急行「八ヶ岳」)、飯田線方面の車両(急行「こまがね」)も連結されていました。
この列車の名物は珍車のキロ58ですが、キロ28が連結された時代や時期、時もあったようです。キロ58には冷房用電源がないために、冷房用電源車確保の意味もあったはずです。当時は急行列車でも、冷房なしの車両もよくありました。
山岳地域で連続急勾配の区間を擁し、都内などの都市部では中央快速線の高速高密度ダイヤでの運行となるため、そのうちに冷房用電源も標準装備されたキハ65₅₀₀を、キハ28、キロ28等の代わりに連結するようになりました。キハ65₅₀₀の連結開始時期(S43)に何らかのヒントがあるかもしれません。
この動画の後者の説である長大編成対応車のためというのは、ちょっと?マークがつきます。
今では信じられないかもしれませんが、当時はちょっとくらいのフライングは、よくあるなどと言う話もちょくちょく耳にしました。
また、12連とは言っても、全区間で12連というわけでもありませんし、キロを2両含むと、12連で22, 23エンジンである場合もあります。この長大編成対応車の制約は15連の場合です。12連で24エンジンのケースは不明です。実際の気動車列車で15連というのは聞いたことがありません(特急列車を除く)。
国鉄だったこの当時、よくあったのは、日本全国であちこちに車両を貸し出していたということです。
鉄道雑誌等に掲載された編成の車両と、実際の車両とが違う、なんていうことがよくありました。行楽シーズンなどでは特に多かったです。
記録の抜け落ちたものもあったはずです。また見落としている資料や散逸している資料、思わぬ地域の資料などがあるかもしれません。この地域と四国(西日本)などとの関係などもあります。
もしかしたら、模型マニアや模型屋が知っているかもしれません。
昭和50年3月で、この気動車急行「アルプス」は電車化されました。この電車急行「アルプス」には、ビュッフェ車のサハシ165が付いていました。ここで登山での往来時にソバを食べました。ムチャクチャおいしかったです。
しかし1年ほどすると、このビュッフェ車も営業休止となり、疲れた登山客のたまり場と化していました。カウンターの上にはリュックを枕にした登山客がイビキをかいて寝ていました。その1~2年後くらいに、このビュッフェ車は無くなりました。
いつも動画を楽しく拝見しています。
この動画が出た時、資料をまとめて止まっていました。
さて、アルプスに入ったキロ58/28話。
引用文献は
PR(ピクトリアル)/号数/ページ
Wiki(ウィキペディア)/ページ名/項目のような形で記載します。
一番濃い線は
1966/1967は長ナノのキロ28/27と共通運用をされていた
と思われます。
この根拠となる事象を整理すると
・1965 キロ27冷房改造(Wiki/国鉄キハ57系気動車/運用より)
・1966 10末 キロ28-199~201 長ナノに増備配置 同時期にハザ車の増備は長ナノ・長モト共に無し(PR/687号/P57 車歴表)
・1968 5頃? キロ58冷房改造(PR別冊 国鉄型車両の記録 急行形気動車/P31 キロ車冷房C工事の項)
また、Wiki/国鉄キハ57系気動車/運用の項に
『冷房改造後長野配置のまま、キロ28形およびキロ58形とともに「ちくま」や「越後」で運用された(一部省略)』
とあります。
ということは、長モトのキロ58、長ナノのキロ27、28はキロ58の冷房改造完了まで
共通運用だったのではと推察します。
もっと言ったら他の地区の急行の一等車とは言わず下手したら二等車にも冷房入っとるのに、
なんで新宿から出るこの急行の一等車に冷房が全くないんや…ってチクチク言われたのかもしれませんね。
なお、文面の参考資料に出ていませんが、PR誌の955号(2019.1月号)の平石大貴先生の
『キハ58系(普通車)の冷房化について』も良く纏められた一級資料と思われます。
機会あれば御一読ください。
なお、長大編成対応車は1962年度二次債務車から登場しているので必要とする場所には
充足していたのではないかと思います。
長文失礼しました。
【参考資料(まとめ)】
・鉄道ピクトリアル(PR)
2000年6月号 №686 特集:キハ58系(1)
2000年7月号 №687 特集:キハ58系(2)
2019年1月号 №955 特集:ディーゼル急行
・鉄道ピクトリアル 2018-3月号別冊
国鉄形車両の記録 急行形気動車
大変ありがとうございます。当該考察が自然で大変納得致しました。お手数おかけしました。
さくら号に追突した、あきよし号の編成を調べていると。東北にいるはずのキロ28が載っていたのですが。キロ28は季節ごとの貸し借りが頻繁だったりして。
謎ですねぇ。急行アルプスの画像をWikipediaで検索したら何かヒントが有りませんかねぇ。やはりグリーン車に冷房が入っていないのはグリーン料金を払ってくれた御客様に申し訳がないとの判断ですよね。かつてよく利用した急行いいでやあがのもグリーン車は冷房改造された車両でしたね。まぁ。遜色の代表格の急行いなわしろでもねぇ。喜多方からの編成といわきの水戸からの編成はグリーン車はグリーン自由席の格付けでしたけどね冷房改造された車両が充てられてましたね。個人的な考えですけどね。名古屋に泣きついたのではないですかね。御願いだから融通してよ。🙏🙏🙏だっのかなぁですよね。
神のホームページ にキハ58系の車歴 いくつか乗ってますよ
長野=キロ27は有りそうな気が。
本来は碓氷峠越え用のキハ57のグリーン車・・・ただ、キロ27の冷房化改造が1965年の筈なので、これがどうなのか。
とは言え、この頃には碓氷峠はアプト式から粘着式に移行していた時期ですし、電車化で余剰と化したキロ27が充当されていても変では無いように思えますけどね。
0:05 怖
冷房化中で他のところから借りたのかな。それだとしても転属等の記録は残るはずだけど…
サムネこわ
冷房化が絡んでると思うけど、色々と見つからないな。
まず当時の鉄道ピクトリアルに該当する記事は無いっぽい。
資料があれば・・・
ガチのホワイト企業やんけ
冷房説が自然かな?
最終的にキニ28の種車になったような・・・
誰がそんな話してんねん
的外れなコメなんかいらんっちゅうねん
国立国会図書館に行って、当時の「鉄道ジャーナル」や「鉄道ファン」を調べて見たら?
キハ28は敦賀赤レンガ倉庫に先頭車が保存されているが?
女性デュオアーチスト、「キロロ」
見つけた人には
How much
まあ、できる事ならNゲージあたりで編成再現してあげれば、喜ぶだろう?