海軍飛行予科練習生の記録(予科練)1/2.avi

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 30 сер 2011

КОМЕНТАРІ • 16

  • @user-lp6gi1xn4x
    @user-lp6gi1xn4x 9 років тому +38

    これだけ時間と労力と金をかけて育てた搭乗員を無駄に死なせるなんて上層部はいかれてる。

  • @AK7962
    @AK7962 9 років тому +51

    わたしの父は、カミカゼに15才で志願・・でもテストに落ちて海軍の方へ行きました。レイテ沖海戦に出撃予定の駆逐艦に乗艦予定でしたが・・・沈んでしまって・・またもや生きながらえました。(呉まで東京から軍用列車に揺られて召集されましたが・・乗らずにもどってきたのです。)私はつくづく偶然が偶然で生み出した生のつながりで生まれてきたんだと思ってます。

  • @fujiedaryo3180
    @fujiedaryo3180 10 років тому +26

    その土浦。当時の紺に金の七つボタンが制服となっている高校が
    あります。日大土浦高校です。私は知らずに着ていましたが、
    カラオケで「若鷲の唄」を聞いて初めて知ったのです。我が母校です。

  • @masatoworld44
    @masatoworld44 11 років тому +16

    大変貴重な映像をUPしてくださりありがとうございました。

  • @denjiro3318
    @denjiro3318 11 років тому +49

    この犠牲を忘れてなるものか!!!

  • @jj34gtr
    @jj34gtr 11 років тому +23

    涙が止まらん、 ありがとうございました。敬礼!!

  • @NetrightHunter
    @NetrightHunter 11 років тому +17

    帝国海軍における士官以外を対象とした搭乗員教育制度は、既に海軍に在籍している者から選抜される操縦練習生があった。昭和5年にこの動画で紹介されている予科練習生制度が創設され、昭和12年には旧制中学4年1学期修了者を対象とした新しい制度ができ、これを甲種予科練、昭和5年からの制度を乙種予科練、最も初めからあった操縦練習生を丙種予科練と呼称する事になった。
    甲、乙、丙とまるで優劣が存在するような無神経なネーミングをしてしまった上に甲飛出身者の進級、昇進が早かったため様々な軋轢も生まれた。
    他に特乙、特丙という制度もあった。一口に予科練と言っても色々複雑だが今やそれを知る人は数少ない。

  • @user-kn7lf1ly9j
    @user-kn7lf1ly9j 9 років тому +13

    さきもりの和歌を思い出します。とふときいのちをおおきみに差し上げたてまつり、こんにちの日本があるとおもふのです。

  • @dumchin
    @dumchin 7 років тому +44

    これほどの教育を受け、肉体と頭脳と精神を磨いた若い命をもう少し大事に考えていたら、結果は少し違ったのではないだろうか。

  • @victorgabrielparravalenzue192
    @victorgabrielparravalenzue192 11 років тому +4

    Honor y Gloria a los valientes caídos por su Patria.
    Bravo Zulu

  • @SparrowsTear
    @SparrowsTear 12 років тому +43

    帝国海軍飛行予科練習生は、散る為に学んだのではない。
    とんでもなく間違ったナレーションである。

  • @hironkj
    @hironkj 10 років тому +13

    戦争ごっこみたいな連合艦隊の作戦の酷さを思うと残念でならないです。

    • @natu3791venefit
      @natu3791venefit 10 років тому +4

      軍令部のクソ参謀こそ戦争犯罪者 でも裁かれていないこの矛盾