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昭和30年代にホークス子供会の会員だった。大阪球場から徒歩5分のところが自分の生家だから当然ホークスファン。4階建ての自宅の部屋から大阪球場の内外野スタンド合間からスコアボードが見えました。動画内容はちょっとデフォルメすぎるなと感じました。エピソードのヤジ合戦は30年代からあります。近鉄「南海電車ぼろ電車♬なんかいこけたら(転覆事故が続いた)気がすむねん♬」南海「近鉄球団ぼろ球団、悔しかったら勝ってみ~」とか面白いエピソードを一つ。NHKが珍しく南海ロッテ戦を中継。解説は鶴岡・川上という超豪華版。ただ試合はロッテが大量リードで投手も成田から若手に継投したイニング。野村がバットを引きずるように打席に向かう。アナウンサー「この大量点差では、野村がとぼとぼと打席に向かうのは、致し方ないんでしょうか」川上「まあ、プロですから、お客さんのことも考えてやる気は見せないと」鶴岡「(含み笑いで)あれは野村の手なんですよ。まあ、この若手、痛い目に合うでしょう。見ていてください」川上「そうなんですか?」鶴岡「3球目あたりかな」1.2球目は全くやる気がない様に見送る野村。1-1からの3球目。バットを一閃すると打球はレフトスタンド一直線。鶴岡「ね。あれに若い連中は騙されるんですよ」アナ・川上大笑い。スタンカやハドリ、小池や国貞、樋口、堀込など個性ある選手が多かった。福岡に移ったのは西鉄が西武になって関東に移った後の福岡の人々の地元球団誘致の努力。ダイエーは本拠地は神戸(本社は大阪の江坂)だったが、熱心な誘致に中内オーナーが応えた。その代わり多くの選手は大阪を離れることを嫌がったが、杉浦さんがその難しい本拠地変更の監督を引き受けた。ホークス愛なんだ。貧乏だけの球団だが、ファンは熱かったと思う。
昭和30年に4階建てのビルは珍しいですね
@@user-ls6wm7gs1p 30年代です。当時の生家からの写真でも高島屋、大阪球場の一部が写っていますよ。確かに4階建ては珍しかったかもですね。阪神高速もなかったし。
合間 というより 隙間 では?
鶴岡川上野村最高ですね
野村克也兼任監督を解任してから転落が加速して身売りに繋がるが、あのままサッチーを野放しにしていたら 崩壊はもっと早まったことは間違いない。
杉浦監督が大阪球場で、観客に向かい「行ってきます!」と宣言した日が懐かしい。
杉浦忠さんも2001年11月11日に66歳で亡くなられてますね。今年で22年も経つんですね。
行ってまいります!行ったまんま 帰ってきて欲しかった
かつて福岡にあったライオンズが埼玉に。大阪にあったホークスが福岡に。移転したかつての名門球団が里帰りみたく移転して戻ってくることはあるんでしょうかね?杉浦忠さんはマスターズリーグの遠征先札幌で亡くなられましたが、晩年は心穏やかに過ごしておられたのでしょうかね?
今はもうこれ以上ないくらい全国に球団ありますからねぇ 四国と日本海側は人口減少で必要ないし 私的に親会社は変われどブレーブスとバファローズは最低限残して欲しかったですね そうなるおオリオンズもかぁ キリないです^_^
@@AI-wg2lb ホントそう
身売りが決まって最後に大阪球場に阪急戦見に行ったら、結構客入ってた。その一週間後くらいに阪急も身売りしたから、貴重な試合を見れた
超ブラック球団(企業)の南海ホークスから超ホワイト球団(企業)の福岡ソフトバンクホークスになったのが凄い‼(笑)
ダイエーに身売りする際に、「選手たちの生活レベルを底上げしてくれ」と要望したそうだ。まあ当然だろう。
上がったはいいけど差がありすぎて慣れるまで選手達も落ち着かなかったとか
80年代、門田がホームランでも打たない限り、南海の試合は30秒〜40秒の枠でしか放送されてなかったと思う。分枠を貰える条件は、門田博光のホームランに掛かっていた!と言っても過言では無いと思うわ。
アンパンマンテレビ
それでも俺は、ソフトバンクホークスより南海ホークスの方が好きだ。
昭和41年対巨人の日本シリーズ第5戦、夜7時のNHKニュースで「夕日に染まるレフトスタンドに打ち込まれた、、、」とアナウンスされたハドリ選手の逆転サヨナラ2ランホームランは私にとってプロ野球観戦史上、最高の名場面です。
長嶋茂雄は、大学時代に野球部の先輩である大沢啓二(→大沢親分)を通して南海から「栄養費」を受けていた、という話もある。
「香川、(走るより)転がった方が速いぞ!」という野次が、最高だった。
13:07 杉浦監督の挨拶は厳密に言えば「行ってきます」ではなく、「行って参ります」でしたよ。
そう言えば、丁度南海がダイエーに身売りされる直前の1988年春頃に、当時日テレ系の月曜日~金曜日のPM7時台の帯でやっていた「追跡」というドキュメントバラエティーで南海ホークスが取り上げられていたのを思い出しました。
杉浦監督の名言「行ってきます」ではなく「では、行って参ります!」が正解です。
改めて親会社の力ありてのプロスポーツ
門田選手が夫人特製弁当を持参して球場入りしていたのは球団待遇が悪かったのが原因だったのかもしれませんね。
ミールマネーも微々たるものだったそうです😖
もはやアメリカで言うシングルAクラス(日本で言えば5軍)並み。
ドカベン香川選手は、大阪球場でゲームが有る時近くの日本橋に住んでいたので、自転車🚲で南海のユニフォーム、ボストンバッグ、バットケースで来ていた
8:33懐かしいなぁ会員証受付に見せたらロッテリアのハンバーガーの引換券1枚もらえて、4人で観に行ったら1人に会員証4枚まとめて受付で引換券4枚もらって、それを交代で4回繰り返してハンバーガー4人で16個頂いたりしましたねぇ😅
何故かライバル球団の"兄弟企業"たるロッテリアと手を組む、という無節操さは草生える。。。
ケガした選手を戸板で運ぶなんて、時代劇のタヒ体じゃないんだから...
子供の頃、ブレーブス子供の会入ってました。ホークスもやけどパの球場は全試合フリーパスand○ッテリアが必ず横にあって入場券貰うとハンバーガーセット券貰えた。懐かしいです。
小学生の頃、亡くなった父と大阪球場へ行きました。ドカベン香川選手目当てでした。なんばパークスになってからも時々行くよ
難波パークスは大失敗でしたね。
@@たっちゃん-x9i球場の名残りピッチャーマウンドがあるから好き
南海対阪急のヤジ合戦も面白いけど、1番は南海対近鉄戦。双方のファンが互いの親会社の電車をボロ電車呼ばわりするわ、絶妙なタイミングで個人ネタのヤジをぶっ込んでくるわで、野球よりオモロかったです。双方の本拠地の大阪球場も日生球場もスタンドからグランドへの距離が近かったから、ヤジも良く聞こえました(笑)。
南海と近鉄、戦時中は統合会社でございましたね。
阪急応援団のしわがれ声がよく聞こえてきた。オモロいこと言うとったな。
1リーグ時代の巨人南海戦は黄金カードで大阪球場が満員札止めだった。それにしても野球に理解のあるオーナーさんがいなくなると惨めな結果になるんですね。
南海の球団売却話は、鶴岡体制末期の昭和40年代初めには既に有って、南海電鉄で「男里川事故」(詳しくは「中日ニュース」UA-camを参照)等重大事故が多発した時、当時の中曽根康弘運輸相が「安全管理もまともに出来ない会社に球団を持つ資格は無い!」と南海球団売却に言及した経緯が有りました(但しこの話は当時のパ・リーグのドンだった永田雅一と中曽根氏の親分だった河野一郎(河野洋平の実父・河野太郎の実祖父)の裏工作に依って潰されたとか(青木一三著「ダイエー・オリックス球団買収の真相」より)
@@原田寛-e3u 南海の現在まで続く経営や管理の杜撰さから考えれば、それも頷けます…
@@shob9448 さんまぁ南海と関係の深い(なんば駅のテナントでもある)「高島屋」が後々とんでもない闇に巻き込まれた事情を考えたら‥‥‥
南海ホークスはあぶさんでよく選手裏方を描いてました野村克也さん江本孟紀さん佐藤道郎さんなどの選手が登場しましたあぶさんの世界では貧乏球団と言う感じがしませんでした
あぶさん特に野村監督時代は貧乏球団と言うよりは庶民感的イメージが強いですね。江本さんが監督がデカイ外車で練習場に来た事があると自分の本で書いてましたが、あぶさんでは、お酒を呑みに来たからというのもあったでしょうが、大虎にやって来た時はタクシーではなく電車で来たという話しがありましたし、佐藤道郎さんは赤提灯や屋台で呑む場面が多く描かれ漫画を読んだお母さんから「もっと高そうな店で呑むところを描いてもらいなさいよ」と言われて、水島新司先生にそれを話したら「みっちゃん(佐藤さん)ああいうところが似合うから」と言われたとか。ちなみに、江本さんアルコールはダメなのにあぶさんでは酒呑みにされてましたね。
@@jlnmon5403 さん佐藤道郎さんは、後に仲根かすみさんの実母と再婚されたので、和田毅投手の義父になるという不思議な話も有りますからね。
@@原田寛-e3u殿。その『 あぶさん 』には、仲根かすみさんのお父さんが登場していましたね。
@@和田裕広志-o2c さんそうですよね。
さすがに球団にマイナスになることは描けないでしょ。
福岡に行っても、中々結果が出なかったけど、南海と当時のダイエーとの決定的に違うのは資金力。その資金力を使い、有望な選手を取り、根本陸夫さんを連れて来たりして、遂には西武を抜いてパ・リーグの覇者になった。
グラゼニの元ネタの名言ですね😊
さすがに交通費なしは酷すぎる
昔は巨人以外はどこも同じようなもんやったんちゃうかなあ。でも当時の野球観戦がとてつもなく懐かしく思います。今みたいな応援合戦ではなく静かだったので打球音やミットの音もよく聞こえたし、何といってもや入場料が安かった。
待遇に関しては巨人の次に良かったのは中日辺り
食事制限なければ西武
もや → も
南海阪急は良い時期に売ったよな。バブルの真っ盛り。
当時は、弱小球団に成り下がっていたのも納得いきますね。
@@ラブリーショータイム さん実は、この二つの身売り劇には両方の親会社のメインバンクだった「三和銀行」(現:MUFG)が深く関与していたのは公然の秘密でした詳しい話は「ダイエー・オリックス球団買収の真相」(著者の青木一三氏は、阪神球団職員、太平洋クラブ・クラウンライターライオンズ球団幹部を務め、西武ライオンズ誕生の舞台裏を知る人物でした)
1億円プレーヤーが出てきて、もうこれからは無理って感じなんでしょうね。それまでは一流選手でも3000万くらいでしたから。
大阪のミナミとキタで、関空開港を視野に入れた再開発計画が持ち上がった時期で、銀行筋の融資の条件が「球団を売れ」でしたね。
今のプロ野球は大繁盛していますがどうでしょね。
アマチュアの有力選手が拒否するのも頷けるよね。当時の南海に入るくらいなら社会人野球やっていたほうが人生設計できるし。
身売り後、なんばパークスに南海ホークスの展示施設ができたが、ノムさんが亡くなるまでノムさんの活躍を示すものが無かったことが驚き
それに尽力されたのが、現ソフトバンク王貞治会長と愛弟子で所謂「三悪人」の一人だった江本孟紀氏だったというのは、此処だけの話。
@@原田寛-e3u ノムさん亡くなった時にカツノリにも話して、南海にも話を通した話はエモやんがいっておりましたね!ノムさんがいたから南海は安定した成績を出せたと思ってます。
なんばバークスにメモリアルを建てる時に球団から野村さんにトロフィー等の提供や画像展示の許可を打診したけど、野村さんが断った。恐らくサッチーが断ったのだろう。ご本人が南海のドキュメント番組の中で語られていた。
@@kenji8402 さん2013年の「メモリアルベストナイン」に野村氏が選出された時、(他には、故杉浦忠氏・小久保宏紀現二軍監督・櫻井輝秀氏・藤原満氏・故門田博光氏・秋山幸二元監督・広瀬淑功元監督・故藤井将雄氏・ペドラザ氏・浜名千広氏)復権のお膳立ては出来ていたと思いますね。
@@MACHAGORO999 さん カツノリさんは寧ろ何故克也氏の業績等が一切ないんだと思われていたそうで、エモさんから展示の打診が来た時に快諾したのはそういう経緯だそうですよ。
あぶさん見て南海ホークス知ったけど、貧乏エピソード描かずに面白い作品を作ってた水島先生は凄かったんだなあ
まあ、作品自体に貧乏感漂っていたけどね…
@@shob9448 さん話のメインに出てくる、居酒屋🍶🏮「大虎」が通天閣のすぐ近くにあるという設定(「じゃりん子チエ」と被ってしまう)、まぁ息子の景虎が阪神からFAでホークスに移籍してガチの「親子鷹」になったり、娘は芸能界入り(モデルは吹石一恵?)結構球界のリアル話を織り込んでいましたからね。
一個思い出したのが寮の朝飯が卵かけご飯で「ご飯冷た」って描写あったなぁ
@@silma767 そもそも水島作品の真骨頂は貧乏描写だからね…
@@shob9448 さん特に「ドカベン」は、両親を事故で失って、畳屋を営む祖父が太郎と妹のサチコを育てるという設定でしたからね。
大沢啓二さんが親分としてのイメージがありますが、それは鶴岡さんの教え子で大沢さんは鶴岡さんの継承者として指導者になられたのだと思います。ちなみに大沢啓二さんは大沢あかねさんの御祖父さんです。野村克也さんが南海を追われたのは鶴岡さんに嫌われたからですね。サッチーが采配に干渉し始めたのを鶴岡さんが嫌ったのだと思われます。
鶴岡監督でなくても、公私混同が酷いと誰でも嫌になります。
水島新司さんが当時30億で買うとか言っていましたからね結果ダイエーが30億でホークスを買いましたな
あぶさんに鶴岡さんが回想シーンしか出ていない事から考えると水島新司先生は完全に野村さんサイド(鶴岡さんと対立)の立場なんやろな。
まあ、ノムさんとは親友だったからね。因みに水島先生はノムさんと南海球団&鶴岡一派との和解を終生望んでいたのですが、その為に水島先生はサッチーからノムさんとの絶縁を迫られたのです。サッチーにとって、その「和解」は決して望むものではなかったようですね…
@@shob9448 さん水島先生の名作「野球狂の詩」の実写版映画に、当時の野村兼任監督を初め南海ホークスメンバーが出演されて居ましたからね、それに鶴岡氏一派は毎日新聞―スポニチラインを掌握して居ましたからね(同資本のMBS毎日放送も南海と親密だった→南海ホークスの大阪球場ラストゲームもTV生中継)
サッチー問題で球団から解任された野村さんが反旗を翻して、野村さんのマンションに野村シンパだった江夏、柏原と共に籠城した時に水島先生も東京から駆け付けた。
@@kenji8402 さん因みに、鶴岡氏が亡くなった時、野村氏は焼香にも来なかった(サッチーが阻止したとも言われて居る)ので、スポニチにメチャクチャ叩かれたとか‥‥‥。
水島新司先生の漫画にサッチーが一度も出て来なかったのは、彼女と仲が悪かったからですね。水島新司先生は関係ないのにとんだとばっちりですね。
ノムさんが退団したあと、一気に弱体化していくけど戦力補強にお金をかけれないからシンキングベースボールで何とかしようとしてたのに鶴岡親分を慕う子分達が何かにつけてノムさんに反発してたからサッチー云々以前にノムさんが居なくなったら弱くなるのは予見出来てた
野村は保身のため、新人捕手が入団すると虐めて潰していましたよ。スポーツマンとしてはあるまじき行為です。
南海ーダイエーーソフトバンク、どんどんリッチになってる!
昔、なんば駅2番線で中百舌鳥球場に行く南海選手をよく見ました。※2番線は泉北高速の準急光明池行が発着。中百舌鳥へ乗換なしで行ける
今夜も完璧ダヨ😊
南海もそうだし、広島とか近鉄もこの手の話題に事欠かないねw
ロッテもトイレとロッカールームの汚さが有名だった
南海時代のあぶさんは好きでした。
入団初年度(73年)のシーズンで優勝したんだけど、ストーリーが動いていた時期というのもあって優勝のことはわりとあっさり描いていたんだよね。そこからずっと優勝できないから漫画内ではあぶさんがファンから叩かれてばかりで不憫だった。そして99年になってようやくダイエー初優勝。あぶさんが報われて泣いたわ。
水島さんが本当に南海で活躍した選手に、懸賞渡してたエピソードは知らなかった(T . T)心の底から南海ホークスからソフトバンクホークスへの変貌期や、パ・リーグ全体が好きだったんだと納得しました(T . T)
南海ホークスが新潟に遠征して試合するようになったのは、水島先生のご尽力。毎年、試合後は水島先生がバスをチャーターして選手を引き連れて新潟市内のネオン街を豪遊した。水島先生はお酒を飲めないからコーヒーを飲んでたらしい。
@@kenji8402 さん現在の「ハードオフ・エコスタジアム」になる前の、ナイター照明の無い「鳥屋野球場」の時代ですね(南海ラストイヤーの1962年以来の「日没サスペンデッドゲーム」は最早伝説というかネタの世界)
@@原田寛-e3u様。長岡悠久山球場もございましたね。
@@対馬裕也 さんそうでしたね。
すみません、「1962」じゃ無くて「昭和62」ですよ。
鶴岡監督が23年監督を務められたのには驚いたが、ちなみにマンチェスターユナイテッドのファーガソン監督も23年間指揮を取っていたのを思い出されるね。
ファーガソンもベッカムと不仲だったし、鶴岡氏と野村氏の関係に似ていますね。
@@原田寛-e3uファン・ニステルローイも監督揉めてレアル・マドリードへ移籍しましたし。
大阪では阪神より人気あったらしいな。17年連続2位以内とか、凄過ぎる😱😱
大阪で阪神タイガースの人気に火が着いたのは、昭和40年代からテレビ中継放送のカラー化が始まったのが影響したみたいですね。
今は無きテレビ番組 日テレ系「11PM」で南海のダイエーへの身売りが決まり最終戦までのドキュメントを放送していたのを今でも憶えています。当然の事ながら制作は「よみうりテレビ」で司会者は藤本義一さんでした。かつては大阪の人気のチームだったことが解りました。対戦相手の当時の西武の関西?の応援団長さんがインタビューされていました。「残念やね。やっぱ大阪、やっぱ難波、大阪っちゅうたら、やっぱり南海ですわ。」「阪神が何したっちゅうねん、ありゃあ、所詮、兵庫ですわ。」これは、凄ぇーなと思いましたよ。
スポーツ中継時に放映権料に味を占めて釣り上げたら逃げられたという話も
野村さんも、金満球団にいたら、今の時代なら、年俸10億くらいは貰っててんだろうなあ🥹
あぶさんがなかったら埋もれていた選手や球団の話がどれだけあったかわからんくらい南海はおわってた。そりゃノモさんと仲よくなるよな水島先生
南海ホークスは、鶴岡一人さんがいなかったら、単なる弱小チームで終わったかもしれない。
広瀬さんによると監督に就任した頃(1978年)から何時球団がなくなってもおかしくないというのを予感していたそうで、その予感が10年後に的中することになります。
前後に致命的な沿線事故複数起こして親会社も財政が火の車だったらしいね元々阪急近鉄は比べ物にならず、同じくそこまで大きくない阪神京阪よりも企業規模が小さかったし
関空開港を視野にいれた難波エリアの再開発及びインフラ整備の融資の条件として銀行筋から突きつけられたのがホークス売却でしたね。阪急も同様の理由で「歌劇団かブレーブスのどちらかを売れ」と銀行筋から突きつけられましたね。
エース杉浦忠,皆川睦雄,打者野村克也,広瀬淑功
あの野村監督は「南海を解雇さるなら南海電車に飛び込んで死にます❗」と会社をおどかしたそうです。
さる → されるケータイ入力なら「され」で一度確定してから「る」を入力します。フリック入力なら快適ですよ😂
普通に戦争に行って部下を率いてたって、凄すぎる。昔は当たり前にそんな人はいたと思うけど今の人には真似できない
寮も今みたいに環境が悪すぎて、新人選手の親が連れ帰るエピソードはめっちゃ共感できるね
近鉄もありそう😅
@@zaikou4618 中根がyoutubeで言うてたけどそんな感じのエピソードはあったみたいね
@@tommy3431 さん金村義明さんが、近鉄と西武の選手寮は、さんざんネタにしていましたからね。
@@zaikou4618様。近鉄の球友寮、改築前は風呂の追い焚きができなかったそうです😖
@@対馬裕也 さんナイター帰りの選手は悲惨な思いをしたでしょうね。
ワシの目の黒い内は絶対に身売りせん!っと言い切った川勝オーナーが懐かしい川勝さん死去した3~4か月後に身売り決定したが いま振り返るとほぼ即決状態で手放したんだろな
川勝夫人が「主人も亡くなられましたのでもういいです」と語られた話もありましたね。
経営譲渡が噂されていた時から川勝オーナーが「わしが健在な間は身売りするつもりはない」と言っていたために、その話が遅々として進まなかったと聞いています。
南海球団の発足は戦前の1938年からですよ~
南海ホークスのネタ(面白エピソード)でないものがいくつかありました。福岡ダイエーホークスになって福岡移転後の平和台球場使用は新球場の福岡ドームが建設されるまでの一時しのぎです。南海ホークスは関係ありませんね。
なんか福岡を馬鹿にされて嫌な気分になる動画。
たまに、鷹の祭典で、大阪ドーム興行で戻って来てるけどな
キャンプ地が呉。いつも雪かきスタート😆
ラストイヤーはバナザードを高年俸で入団させた代わりに予算が無くなり、和歌山に戻った記憶が。呉の前は和歌山県田辺だった時期も。
南海ホークスは私の青春そのもの…野村監督がお辞めになられてからは’80年代はまさに暗黒時代…よく明石家さんまさんに『パリーグ最下位は南海ホークスの指定席…』なんてイジられていたネ😅
なんばのど真ん中にあって貧乏なの今だったら絶対あり得んわな😂😂😂
子供の頃、週末に大阪球場に観戦に行く道すがら多くの人たちが球場に向かっているのです。球場入ってスタンドを見ると閑古鳥。子供としては?あの人の群れは外野のJRA場外馬券売り場に行く人たちだった。
穴吹監督時代、コーチ会議のコーヒー代を巡って社長と揉めたらしいな
南海…。好きだったな😅
ある意味太平洋&クラウンライター末期と似てる
ライオンズ末期は、当時のオーナーの政治力がかなり関係していましたからね(詳しい話は「中村長芳」で検索して見て下さい)
@@原田寛-e3u 太平洋クラブ・クラウンライター時代 練習用⚾ボールは他球団の半分しか支給されず 一軍選手は消しゴムで汚れを落として再利用してた 遠征先では他球団の練習用⚾ボールを失敬する選手も少なくなかった 平和台の練習用ボールには他球団のボールが混じってた
サッカーの岡田監督はホークスファンだったらしい。
えっ、岡田監督って後に、FC今治のオーナーになった岡田さんの事ですよね?それを知って更に、岡田さんに親しみが湧きました!!
南海時代に私の地元でキャンプをしていて、何回か見に連れて行ってもらいましたよ
監督時代は山本一人ですよ
確かに、鶴岡一人氏は、一時山本姓を名乗っていたが、後に鶴岡姓に戻している。
長嶋さんが入団したかったのは巨人と阪急とのコメントありましたが、立教時代のシゴキから逃げ出そうと中退を前提にドラゴンズの関係者に会ってる筈です。
その話は、元中日ドラゴンズ合宿所寮長だった坪内道則氏の「野球バカ一代」(書籍では「風雪の中の野球半世紀」と改題)にも書かれて居ましたが、当時の中村中日球団代表に説得されて断念したとか。
ここまで来ると笑うしか無いよ!
今でも、「大阪に南海かや(返)さんかい」とボヤいている老人はいる。
そんな愚痴を言う大阪人は、南海ホークス、阪急ブレーブス、近鉄バファローズが無くなった為に、「 タイガースの噛ませ犬が居らへんさかいに、オープン戦と交流戦がおもろ無い‼️」って、吼えています。
今の南海電鉄が球団どころか会社自体を存続させるのギリギリやと知らんのかそのじいさん。
@@mantmonk 様。沿線人口、特に和歌山が減少していますからね。実際貴志川線も手離していますしね。みさき公園も閉めましたし。
南海ホークスは大黒字になっているかもしれません。大阪といえば南海ホークス、タイガースよりも人気がありました。大阪球場は難波にあったのですから。
鶴岡氏まさに名勝でしたね。
昭和50年代のパリーグ球団は、どこも大変だったという。ライバル球団ではありますが、九州野球株式会社(クラウンライター)も貧乏で、練習用のボールは他球団がシートバッティングした時に、こっそり球を拾い、それを利用していたという逸話がありました。スカウトが大変だったようですが、それに引き換え、仕事はちゃんとしていましたね。吉田豊彦、加藤伸一、吉田博之あたりは、他球団も狙っていた人材だと思います。
正しくは「福岡野球株式会社」(太平洋クラブ→クラウンライター)。
南海ホークスの転落劇・・・今も忘れられません。そういえば、近年の西武ライオンズ・・・南海ホークスの転落劇の後追いをしている様な・・・
大阪球場の閉鎖された1990年はすでに球団売却後で福岡ダイエーホークスとして福岡へ移転していますよ。だから南海ホークスのネタ(面白エピソード)ではありません。
元々、杉浦を南海に誘った(大学時代から南海とのつながりを作った)のは長嶋茂雄です。
当時関西には阪神・阪急・近鉄・南海と4つもプロ野球チームがあったので、牌(観客)の取り合いしてたように思う。
優勝したら年俸上げないとダメだから、ほどほどに頑張ってほしい…の阪神ってまだマシだったんだな。
ドラゴンズも2010年、2011年と連覇したのに落合さん斬られた。どこの球団も一緒なんですね。
今はもう電鉄や新聞社が球団を持つ時代ではないってこと。今の主流はIT企業だし。
40半ばの自分がプロ野球に興味を持ち始めた小さい頃の80年代半ば、南海、ロッテ、日ハムは、パ・リーグの「超地味球団」ていう括りのイメージだった。
ファミスタでは「レイルウェイズ」「フーズフーズ」とまとめられてしまうくらいの存在
1984年に近鉄対阪急の試合をナゴヤ球場に観に行き、入場券を買ったら、ポール際の席の券を渡されて、空いている席で観ていいと言われた。
親会社が傾く、不思議な球団(ソフトバンクもいずれ・・・)。
聞いてる方は面白いけど、やってた選手は、大変だっただろうなあ。まあ 近鉄も 結構酷いエピソードは あったが。
まあ例の「黒い霧事件」の頃から昭和末期までのパ・リーグは、西武という例外を除いてつねに貧乏ネタに事欠かなったし、それを考えたら今のプロ野球界は何かにつけて恵まれている気にもなるわな。。。
近鉄球団の貧乏、ドケチぶりは金村という語り部が面白おかしく度々語ってますが南海OBにはそのような人材はいなかったか。
6:30~キャベツ炒めなんて立派なモノではありませんよw大阪球場の職員食堂の主菜は馬鈴薯とキャベツの切れ端を薄めた醤油で煮付けたものだけだった エピを近藤唯之氏の書籍で読んだのを記憶していますw
羽振りが良かった頃は選手寮のメニューを料理研究家の土井勝さん(善晴さんのご父君)が監修されていたそうです。
もうアメリカのマイナーリーガーの方が食に恵まれてる感じやんそれ。
ノムさん、猛禽類に縁がなかったんですね💦
鷹(ホークス)に鷲(イーグルス)?
燕(スワローズ)も
@@yukioogami9137 さん燕(つばめ)は、猛禽類では無くて普通の鳥類ですが‥‥‥‥
むしろ、「鳥以外」に縁がなかったのでは?阪神では最下位しか経験してないし…
@@原田寛-e3u スワローズの事,頭から抜けてました😅
鶴岡一人氏は、確か独身時代は山本一人って言っていました。
今から57年前の昭和42年4月に、南海電鉄の急行電車が、男里川橋梁で踏切に立ち往生していたトラックと衝突事故を起こし、多数の死者や負傷者を出す事故を起こしたことを境に、この年だけでこの事故を含めて3度も脱線事故を起こしていたそうで、当時の運輸省の役人から「本業の鉄道輸送が疎かになっているのに、球団経営なんかやっとる場合か!」と大変なお叱りを受けたそうです。鉄道であれば安全面における設備投資、球団であれば、観客動員のために選手に投資するのが本来ですが、どちらもカネの使い方がヘタだったために、こんなことになったんでしょうね。南海電鉄は日本最古の鉄道会社で、まもなく創業140年を迎えるそうですが、鉄道も球団もただ古いだけで、伝統というものがありませんでしたね。
南海時代貧乏で成績悪かったけど、ダイエーになっても最初は弱くて絶望してた時期がある。そこからよくここまで来たな…。
僕は、その89〜94年までダイエーを応援していました。王監督就任以降、僕はダイエーと関わってなかったので……。
南海は名門中の名門でした。セ・リーグの伝統の一戦って阪神 ー 巨人ですが当時のパ・リーグだと伝統ではないですが、南海 ー 西鉄 が一番の人気カードだったそう。紆余曲折、下落してしまう出来事もあり成績も伴わず経営難となり親会社の熱意も薄れ最終的に身売りとなってしますのですが、南海に限らず関西の私鉄が撤退していくきっかけにもなりました。
しますの → しまうの
キーボードの打ち間違いでした。ご指摘ありがとうございます。
最後の二つは盛りすぎですね。ダイエー初期の平和台は福岡ドームができるまでの間ですし、オリックスと共同で行われた「大阪クラシック」ではホークスは南海ホークスのユニホームで試合をしました。毎年1試合は大阪で試合をしていますのである意味でホークスは大阪に帰ってきます。
すごい球団ですね😅こんな所でも門田選手は痩せなかったんですね😅
コーラがぶ飲みしすぎで糖尿になった
アキレス腱切るまではむしろ俊足巧打の薬やるまでのバリーボンズみたいな選手だったらしいね
子供の会は外野だけで無く内野席も無料あと、みさき公園とさやま遊園の入場券6セットも
こんな待遇でやる気出せ!ってそりゃ無理よな!何十年もBクラスだったのもうなずける。
口は出すが金は出さん最悪な球団。無くなって当然。
初メマシテ😊
このころの電鉄球団はけちばっか南海だけではない
暗黒パリーグから応援してますが当時のパリーグはこんなもんです。その頃の方々のご苦労が分かります。今はパの環境も良くなりました。感無量です。
子供の頃、人気のないパリーグの常に最下位の南海が気になっていました。その後「あぶさん」を読み、その頃の思いもあり、すっかり南海びいき(当時すでにダイエー笑)になっていました。
元G大阪の宮本恒靖は小学生の頃、南海ホークスのファンクラブの会員だったそう。
球団幹部らと監督コーチらとのスタッフ会議で出されたコーヒーをみた球団幹部が「このコーヒー代は誰が出しますねん?会社は出しませんで!」と信じられない言葉。怒り爆発のコーチ陣を抑えて穴吹監督が「分かった。ワシが出すから…」と。今でも信じられない穴吹さんの「私買います事件」は貧困球団最大級のエピソードかと。
面白エピソード80億使って11連敗
某百貨店勤務時代ホークスファン倶楽部に入って居ました 年会費1000円 大阪球場でのペナントレース見放題(笑)仕事のストレスをヤジで発散していました
高島屋さんですか。
お世話になった方が泉州人のホークスファンでしたから。ダイエーに身売りされてもなお。教員でしたけど、阪神ファンの学生を前に(当時監督就任した)ノムさんのことを話したりね。こういう方々がいるのも福岡のホークスが早くから黒字だった理由なんだろうなあ。
長嶋さんがプロ入りする頃は既に父親は他界されていました。だから両親の反対と言うのは間違っています。お母さんは反対されたようですね。鶴岡監督は関東の子は関東のチームに行ったらエエやないかと言ったそうです。
川勝オーナーが亡くなって身売りでしょう。
悪い話ばっかりではないよ1リーグ時代は大阪で一番人気は南海だったんだよ。逆に阪神は全然人気無くて、巨人戦以外はいつもガラガラ。そういや、80年代に球場前にあったマクドナルド(現在も存続)にいつもドカベン香川が買いに来てたなw
東西対決、東は巨人、西は南海でした。阪神はうまいことしたな!
広島の呉で雪キャンプ。最終年はついに隣県和歌山の中紀の湯浅でキャンプ。なぎの里球場のこけら落としキャンプだったけど、2軍規模の町民球場。その横の国民宿舎みたいな所が選手宿舎。12球団で唯一室内練習場がないので雨が振ったらキャンプ中練習はお休み。これのケチり具合かトニー・バナザードを招聘できたのかも。
和歌山県田辺がキャンプ地だった時期もございましたね。
昭和30年代にホークス子供会の会員だった。大阪球場から徒歩5分のところが自分の生家だから当然ホークスファン。4階建ての自宅の部屋から大阪球場の内外野スタンド合間からスコアボードが見えました。動画内容はちょっとデフォルメすぎるなと感じました。エピソードのヤジ合戦は30年代からあります。
近鉄「南海電車ぼろ電車♬なんかいこけたら(転覆事故が続いた)気がすむねん♬」
南海「近鉄球団ぼろ球団、悔しかったら勝ってみ~」とか
面白いエピソードを一つ。NHKが珍しく南海ロッテ戦を中継。解説は鶴岡・川上という超豪華版。ただ試合はロッテが大量リードで投手も成田から若手に継投したイニング。野村がバットを引きずるように打席に向かう。
アナウンサー「この大量点差では、野村がとぼとぼと打席に向かうのは、致し方ないんでしょうか」
川上「まあ、プロですから、お客さんのことも考えてやる気は見せないと」
鶴岡「(含み笑いで)あれは野村の手なんですよ。まあ、この若手、痛い目に合うでしょう。見ていてください」
川上「そうなんですか?」鶴岡「3球目あたりかな」
1.2球目は全くやる気がない様に見送る野村。1-1からの3球目。バットを一閃すると打球はレフトスタンド一直線。
鶴岡「ね。あれに若い連中は騙されるんですよ」アナ・川上大笑い。
スタンカやハドリ、小池や国貞、樋口、堀込など個性ある選手が多かった。
福岡に移ったのは西鉄が西武になって関東に移った後の福岡の人々の地元球団誘致の努力。ダイエーは本拠地は神戸(本社は大阪の江坂)だったが、熱心な誘致に中内オーナーが応えた。その代わり多くの選手は大阪を離れることを嫌がったが、杉浦さんがその難しい本拠地変更の監督を引き受けた。ホークス愛なんだ。貧乏だけの球団だが、ファンは熱かったと思う。
昭和30年に4階建てのビルは珍しいですね
@@user-ls6wm7gs1p 30年代です。当時の生家からの写真でも高島屋、大阪球場の一部が写っていますよ。確かに4階建ては珍しかったかもですね。阪神高速もなかったし。
合間 というより 隙間 では?
鶴岡川上野村最高ですね
野村克也兼任監督を解任してから転落が加速して身売りに繋がるが、あのままサッチーを野放しにしていたら 崩壊はもっと早まったことは間違いない。
杉浦監督が大阪球場で、観客に向かい「行ってきます!」と宣言した日が懐かしい。
杉浦忠さんも2001年11月11日に66歳で亡くなられてますね。今年で22年も経つんですね。
行ってまいります!行ったまんま 帰ってきて欲しかった
かつて福岡にあったライオンズが埼玉に。大阪にあったホークスが福岡に。
移転したかつての名門球団が里帰りみたく移転して戻ってくることはあるんでしょうかね?
杉浦忠さんはマスターズリーグの遠征先札幌で亡くなられましたが、晩年は心穏やかに過ごしておられたのでしょうかね?
今はもうこれ以上ないくらい全国に球団ありますからねぇ 四国と日本海側は人口減少で必要ないし 私的に親会社は変われどブレーブスとバファローズは最低限残して欲しかったですね そうなるおオリオンズもかぁ キリないです^_^
@@AI-wg2lb ホントそう
身売りが決まって最後に大阪球場に阪急戦見に行ったら、結構客入ってた。
その一週間後くらいに阪急も身売りしたから、貴重な試合を見れた
超ブラック球団(企業)の南海ホークスから超ホワイト球団(企業)の福岡ソフトバンクホークスになったのが凄い‼(笑)
ダイエーに身売りする際に、「選手たちの生活レベルを底上げしてくれ」と要望したそうだ。まあ当然だろう。
上がったはいいけど差がありすぎて慣れるまで選手達も落ち着かなかったとか
80年代、門田がホームランでも打たない限り、南海の試合は30秒〜40秒の枠でしか放送されてなかったと思う。
分枠を貰える条件は、門田博光のホームランに掛かっていた!と言っても過言では無いと思うわ。
アンパンマンテレビ
それでも俺は、ソフトバンクホークスより南海ホークスの方が好きだ。
昭和41年対巨人の日本シリーズ第5戦、夜7時のNHKニュースで「夕日に染まるレフトスタンドに打ち込まれた、、、」とアナウンスされたハドリ選手の逆転サヨナラ2ランホームランは私にとってプロ野球観戦史上、最高の名場面です。
長嶋茂雄は、大学時代に野球部の先輩である大沢啓二(→大沢親分)を通して南海から「栄養費」を受けていた、という話もある。
「香川、(走るより)転がった方が速いぞ!」という野次が、最高だった。
13:07 杉浦監督の挨拶は厳密に言えば「行ってきます」ではなく、「行って参ります」でしたよ。
そう言えば、丁度南海がダイエーに身売りされる直前の1988年春頃に、当時日テレ系の月曜日~金曜日のPM7時台の帯でやっていた「追跡」というドキュメントバラエティーで南海ホークスが取り上げられていたのを思い出しました。
杉浦監督の名言「行ってきます」
ではなく
「では、行って参ります!」が正解で
す。
改めて親会社の力ありてのプロスポーツ
門田選手が夫人特製弁当を持参して球場入りしていたのは球団待遇が悪かったのが原因だったのかもしれませんね。
ミールマネーも微々たるものだったそうです😖
もはやアメリカで言う
シングルAクラス(日本で言えば5軍)並み。
ドカベン香川選手は、大阪球場でゲームが有る時近くの日本橋に住んでいたので、自転車🚲で南海のユニフォーム、ボストンバッグ、バットケースで来ていた
8:33懐かしいなぁ
会員証受付に見せたらロッテリアのハンバーガーの引換券1枚もらえて、4人で観に行ったら1人に会員証4枚まとめて受付で引換券4枚もらって、それを交代で4回繰り返してハンバーガー4人で16個頂いたりしましたねぇ😅
何故かライバル球団の"兄弟企業"たるロッテリアと手を組む、という無節操さは草生える。。。
ケガした選手を戸板で運ぶなんて、
時代劇のタヒ体じゃないんだから...
子供の頃、ブレーブス子供の会入ってました。ホークスもやけど
パの球場は全試合フリーパスand○ッテリアが必ず横にあって入場券貰うとハンバーガーセット券貰えた。懐かしいです。
小学生の頃、亡くなった父と大阪球場へ行きました。ドカベン香川選手目当てでした。なんばパークスになってからも時々行くよ
難波パークスは大失敗でしたね。
@@たっちゃん-x9i球場の名残りピッチャーマウンドがあるから好き
南海対阪急のヤジ合戦も面白いけど、1番は南海対近鉄戦。双方のファンが互いの親会社の電車をボロ電車呼ばわりするわ、絶妙なタイミングで個人ネタのヤジをぶっ込んでくるわで、野球よりオモロかったです。双方の本拠地の大阪球場も日生球場もスタンドからグランドへの距離が近かったから、ヤジも良く聞こえました(笑)。
南海と近鉄、戦時中は統合会社でございましたね。
阪急応援団のしわがれ声がよく聞こえてきた。オモロいこと言うとったな。
1リーグ時代の巨人南海戦は黄金カードで大阪球場が満員札止めだった。それにしても野球に理解のあるオーナーさんがいなくなると惨めな結果になるんですね。
南海の球団売却話は、鶴岡体制末期の昭和40年代初めには既に有って、南海電鉄で「男里川事故」(詳しくは「中日ニュース」UA-camを参照)等重大事故が多発した時、当時の中曽根康弘運輸相が「安全管理もまともに出来ない会社に球団を持つ資格は無い!」と南海球団売却に言及した経緯が有りました(但しこの話は当時のパ・リーグのドンだった永田雅一と中曽根氏の親分だった河野一郎(河野洋平の実父・河野太郎の実祖父)の裏工作に依って潰されたとか(青木一三著「ダイエー・オリックス球団買収の真相」より)
@@原田寛-e3u 南海の現在まで続く経営や管理の杜撰さから考えれば、それも頷けます…
@@shob9448 さん
まぁ南海と関係の深い(なんば駅のテナントでもある)「高島屋」が後々とんでもない闇に巻き込まれた事情を考えたら‥‥‥
南海ホークスはあぶさんでよく選手裏方を描いてました野村克也さん江本孟紀さん佐藤道郎さんなどの選手が登場しましたあぶさんの世界では貧乏球団と言う感じがしませんでした
あぶさん
特に野村監督時代は
貧乏球団と言うよりは
庶民感的イメージが強いですね。
江本さんが監督がデカイ外車で
練習場に来た事があると自分の本で書いてましたが、あぶさんでは、お酒を呑みに来たからというのもあったでしょうが、大虎に
やって来た時はタクシーではなく電車で来たという話しがありましたし、佐藤道郎さんは
赤提灯や屋台で呑む場面が多く描かれ漫画を読んだお母さんから「もっと高そうな店で呑むところを描いてもらいなさいよ」
と言われて、水島新司先生に
それを話したら「みっちゃん
(佐藤さん)ああいうところが
似合うから」と言われたとか。
ちなみに、江本さん
アルコールはダメなのに
あぶさんでは酒呑みにされてましたね。
@@jlnmon5403 さん
佐藤道郎さんは、後に仲根かすみさんの実母と再婚されたので、和田毅投手の義父になるという不思議な話も有りますからね。
@@原田寛-e3u殿。その『 あぶさん 』には、仲根かすみさんのお父さんが登場していましたね。
@@和田裕広志-o2c さん
そうですよね。
さすがに球団にマイナスになることは描けないでしょ。
福岡に行っても、中々結果が出なかったけど、南海と当時のダイエーとの決定的に違うのは資金力。その資金力を使い、有望な選手を取り、根本陸夫さんを連れて来たりして、遂には西武を抜いてパ・リーグの覇者になった。
グラゼニの元ネタの名言ですね😊
さすがに交通費なしは酷すぎる
昔は巨人以外はどこも同じようなもんやったんちゃうかなあ。でも当時の野球観戦がとてつもなく懐かしく思います。今みたいな応援合戦ではなく静かだったので打球音やミットの音もよく聞こえたし、何といってもや入場料が安かった。
待遇に関しては巨人の次に良かったのは中日辺り
食事制限なければ西武
もや → も
南海阪急は良い時期に売ったよな。バブルの真っ盛り。
当時は、弱小球団に成り下がっていたのも納得いきますね。
@@ラブリーショータイム さん
実は、この二つの身売り劇には両方の親会社のメインバンクだった「三和銀行」(現:MUFG)が深く関与していたのは公然の秘密でした
詳しい話は「ダイエー・オリックス球団買収の真相」(著者の青木一三氏は、阪神球団職員、太平洋クラブ・クラウンライターライオンズ球団幹部を務め、西武ライオンズ誕生の舞台裏を知る人物でした)
1億円プレーヤーが出てきて、もうこれからは無理って感じなんでしょうね。それまでは一流選手でも3000万くらいでしたから。
大阪のミナミとキタで、関空開港を視野に入れた再開発計画が持ち上がった時期で、銀行筋の融資の条件が「球団を売れ」でしたね。
今のプロ野球は大繁盛していますがどうでしょね。
アマチュアの有力選手が拒否するのも頷けるよね。当時の南海に入るくらいなら社会人野球やっていたほうが人生設計できるし。
身売り後、なんばパークスに南海ホークスの展示施設ができたが、ノムさんが亡くなるまでノムさんの活躍を示すものが無かったことが驚き
それに尽力されたのが、現ソフトバンク王貞治会長と
愛弟子で所謂「三悪人」の一人だった江本孟紀氏だったというのは、此処だけの話。
@@原田寛-e3u
ノムさん亡くなった時にカツノリにも話して、南海にも話を通した話はエモやんがいっておりましたね!
ノムさんがいたから南海は安定した成績を出せたと思ってます。
なんばバークスにメモリアルを建てる時に球団から野村さんにトロフィー等の提供や画像展示の許可を打診したけど、野村さんが断った。
恐らくサッチーが断ったのだろう。ご本人が南海のドキュメント番組の中で語られていた。
@@kenji8402 さん
2013年の「メモリアルベストナイン」に野村氏が選出された時、(他には、故杉浦忠氏・小久保宏紀現二軍監督・櫻井輝秀氏・藤原満氏・故門田博光氏・秋山幸二元監督・広瀬淑功元監督・故藤井将雄氏・ペドラザ氏・浜名千広氏)復権のお膳立ては出来ていたと思いますね。
@@MACHAGORO999 さん カツノリさんは寧ろ何故克也氏の業績等が一切ないんだと思われていたそうで、エモさんから展示の打診が来た時に快諾したのはそういう経緯だそうですよ。
あぶさん見て南海ホークス知ったけど、貧乏エピソード描かずに面白い作品を作ってた水島先生は凄かったんだなあ
まあ、作品自体に貧乏感漂っていたけどね…
@@shob9448 さん
話のメインに出てくる、居酒屋🍶🏮「大虎」が通天閣のすぐ近くにあるという設定(「じゃりん子チエ」と被ってしまう)、まぁ息子の景虎が阪神からFAでホークスに移籍してガチの「親子鷹」になったり、娘は芸能界入り(モデルは吹石一恵?)結構球界のリアル話を織り込んでいましたからね。
一個思い出したのが寮の朝飯が卵かけご飯で「ご飯冷た」って描写あったなぁ
@@silma767 そもそも水島作品の真骨頂は貧乏描写だからね…
@@shob9448 さん
特に「ドカベン」は、両親を事故で失って、畳屋を営む祖父が太郎と妹のサチコを育てるという設定でしたからね。
大沢啓二さんが親分としてのイメージがありますが、それは鶴岡さんの教え子で大沢さんは鶴岡さんの継承者として指導者になられたのだと思います。
ちなみに大沢啓二さんは大沢あかねさんの御祖父さんです。
野村克也さんが南海を追われたのは鶴岡さんに嫌われたからですね。
サッチーが采配に干渉し始めたのを鶴岡さんが嫌ったのだと思われます。
鶴岡監督でなくても、公私混同が酷いと誰でも嫌になります。
水島新司さんが当時30億で
買うとか言っていましたからね
結果ダイエーが30億でホークスを
買いましたな
あぶさんに鶴岡さんが回想シーンしか出ていない事から考えると水島新司先生は完全に野村さんサイド(鶴岡さんと対立)の立場なんやろな。
まあ、ノムさんとは親友だったからね。因みに水島先生はノムさんと南海球団&鶴岡一派との和解を終生望んでいたのですが、その為に水島先生はサッチーからノムさんとの絶縁を迫られたのです。サッチーにとって、その「和解」は決して望むものではなかったようですね…
@@shob9448 さん
水島先生の名作「野球狂の詩」の実写版映画に、当時の野村兼任監督を初め南海ホークスメンバーが出演されて居ましたからね、それに鶴岡氏一派は毎日新聞―スポニチラインを掌握して居ましたからね(同資本のMBS毎日放送も南海と親密だった→南海ホークスの大阪球場ラストゲームもTV生中継)
サッチー問題で球団から解任された野村さんが反旗を翻して、野村さんのマンションに野村シンパだった江夏、柏原と共に籠城した時に
水島先生も東京から駆け付けた。
@@kenji8402 さん
因みに、鶴岡氏が亡くなった時、野村氏は焼香にも来なかった(サッチーが阻止したとも言われて居る)ので、スポニチにメチャクチャ叩かれたとか‥‥‥。
水島新司先生の漫画にサッチーが一度も出て来なかったのは、彼女と仲が悪かったからですね。水島新司先生は関係ないのにとんだとばっちりですね。
ノムさんが退団したあと、一気に弱体化していくけど
戦力補強にお金をかけれないからシンキングベースボールで何とかしようとしてたのに
鶴岡親分を慕う子分達が何かにつけてノムさんに反発してたからサッチー云々以前に
ノムさんが居なくなったら弱くなるのは予見出来てた
野村は保身のため、新人捕手が入団すると虐めて潰していましたよ。スポーツマンとしてはあるまじき行為です。
南海ーダイエーーソフトバンク、どんどんリッチになってる!
昔、なんば駅2番線で中百舌鳥球場に行く
南海選手をよく見ました。
※2番線は泉北高速の準急光明池行が発着。中百舌鳥へ乗換なしで行ける
今夜も完璧ダヨ😊
南海もそうだし、広島とか近鉄もこの手の話題に事欠かないねw
ロッテもトイレとロッカールームの汚さが有名だった
南海時代のあぶさんは好きでした。
入団初年度(73年)のシーズンで優勝したんだけど、ストーリーが動いていた時期というのもあって優勝のことはわりとあっさり描いていたんだよね。そこからずっと優勝できないから漫画内ではあぶさんがファンから叩かれてばかりで不憫だった。そして99年になってようやくダイエー初優勝。あぶさんが報われて泣いたわ。
水島さんが本当に南海で活躍した選手に、懸賞渡してたエピソードは知らなかった(T . T)
心の底から南海ホークスからソフトバンクホークスへの変貌期や、パ・リーグ全体が好きだったんだと納得しました(T . T)
南海ホークスが新潟に遠征して試合するようになったのは、水島先生のご尽力。毎年、試合後は水島先生がバスをチャーターして
選手を引き連れて新潟市内のネオン街を豪遊した。水島先生はお酒を飲めないからコーヒーを飲んでたらしい。
@@kenji8402 さん
現在の「ハードオフ・エコスタジアム」になる前の、ナイター照明の無い「鳥屋野球場」の時代ですね(南海ラストイヤーの1962年以来の「日没サスペンデッドゲーム」は最早伝説というかネタの世界)
@@原田寛-e3u様。
長岡悠久山球場もございましたね。
@@対馬裕也 さん
そうでしたね。
すみません、「1962」じゃ無くて「昭和62」ですよ。
鶴岡監督が23年監督を務められたのには驚いたが、ちなみにマンチェスターユナイテッドのファーガソン監督も23年間指揮を取っていたのを思い出されるね。
ファーガソンもベッカムと不仲だったし、鶴岡氏と野村氏の関係に似ていますね。
@@原田寛-e3uファン・ニステルローイも監督揉めてレアル・マドリードへ移籍しましたし。
大阪では阪神より人気あったらしいな。
17年連続2位以内とか、凄過ぎる😱😱
大阪で阪神タイガースの人気に火が着いたのは、昭和40年代からテレビ中継放送のカラー化が始まったのが影響したみたいですね。
今は無きテレビ番組 日テレ系「11PM」で南海のダイエーへの身売りが決まり
最終戦までのドキュメントを放送していたのを今でも憶えています。
当然の事ながら制作は「よみうりテレビ」で司会者は藤本義一さんでした。
かつては大阪の人気のチームだったことが解りました。
対戦相手の当時の西武の関西?の応援団長さんがインタビューされていました。
「残念やね。やっぱ大阪、やっぱ難波、大阪っちゅうたら、やっぱり南海ですわ。」
「阪神が何したっちゅうねん、ありゃあ、所詮、兵庫ですわ。」
これは、凄ぇーなと思いましたよ。
スポーツ中継時に放映権料に味を占めて釣り上げたら逃げられたという話も
野村さんも、金満球団にいたら、今の時代なら、年俸10億くらいは貰っててんだろうなあ🥹
あぶさんがなかったら埋もれていた選手や球団の話がどれだけあったかわからんくらい南海はおわってた。そりゃノモさんと仲よくなるよな水島先生
南海ホークスは、鶴岡一人さんがいなかったら、単なる弱小チームで終わったかもしれない。
広瀬さんによると監督に就任した頃(1978年)から何時球団がなくなってもおかしくないというのを予感していたそうで、その予感が10年後に的中することになります。
前後に致命的な沿線事故複数起こして親会社も財政が火の車だったらしいね
元々阪急近鉄は比べ物にならず、同じくそこまで大きくない阪神京阪よりも企業規模が小さかったし
関空開港を視野にいれた難波エリアの再開発及びインフラ整備の融資の条件として銀行筋から突きつけられたのがホークス売却でしたね。
阪急も同様の理由で「歌劇団かブレーブスのどちらかを売れ」と銀行筋から突きつけられましたね。
エース杉浦忠,皆川睦雄,打者野村克也,広瀬淑功
あの野村監督は「南海を解雇さるなら南海電車に飛び込んで死にます❗」と会社をおどかしたそうです。
さる → される
ケータイ入力なら
「され」で一度確定してから
「る」を入力します。
フリック入力なら快適ですよ😂
普通に戦争に行って部下を率いてたって、凄すぎる。昔は当たり前にそんな人はいたと思うけど今の人には真似できない
寮も今みたいに環境が悪すぎて、新人選手の親が連れ帰るエピソードはめっちゃ共感できるね
近鉄もありそう😅
@@zaikou4618
中根がyoutubeで言うてたけど
そんな感じのエピソードはあったみたいね
@@tommy3431 さん
金村義明さんが、近鉄と西武の選手寮は、さんざんネタにしていましたからね。
@@zaikou4618様。
近鉄の球友寮、改築前は風呂の追い焚きができなかったそうです😖
@@対馬裕也 さん
ナイター帰りの選手は悲惨な思いをしたでしょうね。
ワシの目の黒い内は絶対に身売りせん!っと言い切った川勝オーナーが懐かしい
川勝さん死去した3~4か月後に身売り決定したが いま振り返るとほぼ即決状態で手放したんだろな
川勝夫人が「主人も亡くなられましたのでもういいです」と語られた話もありましたね。
経営譲渡が噂されていた時から川勝オーナーが「わしが健在な間は身売りするつもりはない」と言っていたために、その話が遅々として進まなかったと聞いています。
南海球団の発足は戦前の1938年からですよ~
南海ホークスのネタ(面白エピソード)でないものがいくつかありました。
福岡ダイエーホークスになって福岡移転後の平和台球場使用は
新球場の福岡ドームが建設されるまでの一時しのぎです。
南海ホークスは関係ありませんね。
なんか福岡を馬鹿にされて
嫌な気分になる動画。
たまに、鷹の祭典で、大阪ドーム興行で戻って来てるけどな
キャンプ地が呉。いつも雪かきスタート😆
ラストイヤーはバナザードを高年俸で入団させた代わりに予算が無くなり、和歌山に戻った記憶が。
呉の前は和歌山県田辺だった時期も。
南海ホークスは私の青春そのもの…野村監督がお辞めになられてからは
’80年代はまさに暗黒時代…よく明石家さんまさんに『パリーグ最下位は南海ホークスの指定席…』なんてイジられていたネ😅
なんばのど真ん中にあって貧乏なの今だったら絶対あり得んわな😂😂😂
子供の頃、週末に大阪球場に観戦に行く道すがら多くの人たちが球場に向かっているのです。
球場入ってスタンドを見ると閑古鳥。子供としては?あの人の群れは外野のJRA場外馬券売り場に行く人たちだった。
穴吹監督時代、コーチ会議のコーヒー代を巡って社長と揉めたらしいな
南海…。好きだったな😅
ある意味太平洋&クラウンライター末期と似てる
ライオンズ末期は、当時のオーナーの政治力がかなり関係していましたからね(詳しい話は「中村長芳」で検索して見て下さい)
@@原田寛-e3u 太平洋クラブ・クラウンライター時代 練習用⚾ボールは他球団の半分しか支給されず 一軍選手は消しゴムで汚れを落として再利用してた
遠征先では他球団の練習用⚾ボールを失敬する選手も少なくなかった 平和台の練習用ボールには他球団のボールが混じってた
サッカーの岡田監督はホークスファンだったらしい。
えっ、岡田監督って後に、FC今治のオーナーになった岡田さんの事ですよね?それを知って更に、岡田さんに親しみが湧きました!!
南海時代に私の地元でキャンプをしていて、何回か見に連れて行ってもらいましたよ
監督時代は山本一人ですよ
確かに、鶴岡一人氏は、一時山本姓を名乗っていたが、後に鶴岡姓に戻している。
長嶋さんが入団したかったのは巨人と阪急とのコメントありましたが、立教時代のシゴキから逃げ出そうと中退を前提にドラゴンズの関係者に会ってる筈です。
その話は、元中日ドラゴンズ合宿所寮長だった坪内道則氏の「野球バカ一代」(書籍では「風雪の中の野球半世紀」と改題)にも書かれて居ましたが、当時の中村中日球団代表に説得されて断念したとか。
ここまで来ると笑うしか無いよ!
今でも、「大阪に南海かや(返)さんかい」とボヤいている老人はいる。
そんな愚痴を言う大阪人は、南海ホークス、阪急ブレーブス、近鉄バファローズが無くなった為に、「 タイガースの噛ませ犬が居らへんさかいに、オープン戦と交流戦がおもろ無い‼️」って、吼えています。
今の南海電鉄が球団どころか
会社自体を存続させるの
ギリギリやと知らんのかそのじいさん。
@@mantmonk 様。
沿線人口、特に和歌山が減少していますからね。
実際貴志川線も手離していますしね。
みさき公園も閉めましたし。
南海ホークスは大黒字になっているかもしれません。大阪といえば南海ホークス、タイガースよりも人気がありました。大阪球場は難波にあったのですから。
鶴岡氏まさに名勝でしたね。
昭和50年代のパリーグ球団は、どこも大変だったという。ライバル球団ではありますが、九州野球株式会社(クラウンライター)も貧乏で、練習用のボールは他球団がシートバッティングした時に、こっそり球を拾い、それを利用していたという逸話がありました。
スカウトが大変だったようですが、それに引き換え、仕事はちゃんとしていましたね。
吉田豊彦、加藤伸一、吉田博之あたりは、他球団も狙っていた人材だと思います。
正しくは「福岡野球株式会社」(太平洋クラブ→クラウンライター)。
南海ホークスの転落劇・・・今も忘れられません。そういえば、近年の西武ライオンズ・・・南海ホークスの転落劇の後追いをしている様な・・・
大阪球場の閉鎖された1990年は
すでに球団売却後で福岡ダイエーホークスとして福岡へ移転していますよ。
だから南海ホークスのネタ(面白エピソード)ではありません。
元々、杉浦を南海に誘った(大学時代から南海とのつながりを作った)のは長嶋茂雄です。
当時関西には阪神・阪急・近鉄・南海と4つもプロ野球チームがあったので、牌(観客)の取り合いしてたように思う。
優勝したら年俸上げないとダメだから、ほどほどに頑張ってほしい…の阪神ってまだマシだったんだな。
ドラゴンズも2010年、2011年と連覇したのに落合さん斬られた。どこの球団も一緒なんですね。
今はもう電鉄や新聞社が球団を持つ時代ではないってこと。
今の主流はIT企業だし。
40半ばの自分がプロ野球に興味を持ち始めた小さい頃の80年代半ば、南海、ロッテ、日ハムは、パ・リーグの「超地味球団」ていう括りのイメージだった。
ファミスタでは「レイルウェイズ」「フーズフーズ」とまとめられてしまうくらいの存在
1984年に近鉄対阪急の試合をナゴヤ球場に観に行き、入場券を買ったら、ポール際の席の券を渡されて、空いている席で観ていいと言われた。
親会社が傾く、不思議な球団(ソフトバンクもいずれ・・・)。
聞いてる方は面白いけど、やってた選手は、大変だっただろうなあ。まあ 近鉄も 結構酷いエピソードは あったが。
まあ例の「黒い霧事件」の頃から昭和末期までのパ・リーグは、西武という例外を除いてつねに貧乏ネタに事欠かなったし、それを考えたら今のプロ野球界は何かにつけて恵まれている気にもなるわな。。。
近鉄球団の貧乏、ドケチぶりは金村という語り部が面白おかしく度々語ってますが
南海OBにはそのような人材はいなかったか。
6:30~キャベツ炒めなんて立派なモノではありませんよw
大阪球場の職員食堂の主菜は馬鈴薯とキャベツの切れ端を薄めた醤油で煮付けたものだけだった エピを近藤唯之氏の書籍で読んだのを記憶していますw
羽振りが良かった頃は選手寮のメニューを料理研究家の土井勝さん(善晴さんのご父君)が監修されていたそうです。
もうアメリカのマイナーリーガーの方が
食に恵まれてる感じやんそれ。
ノムさん、猛禽類に縁がなかったんですね💦
鷹(ホークス)に鷲(イーグルス)?
燕(スワローズ)も
@@yukioogami9137 さん
燕(つばめ)は、猛禽類では無くて普通の鳥類ですが‥‥‥‥
むしろ、「鳥以外」に縁がなかったのでは?阪神では最下位しか経験してないし…
@@原田寛-e3u スワローズの事,頭から抜けてました😅
鶴岡一人氏は、確か独身時代は山本一人って言っていました。
今から57年前の昭和42年4月に、南海電鉄の急行電車が、男里川橋梁で踏切に立ち往生していたトラックと衝突事故を起こし、多数の死者や負傷者を出す事故を起こしたことを境に、この年だけでこの事故を含めて3度も脱線事故を起こしていたそうで、当時の運輸省の役人から「本業の鉄道輸送が疎かになっているのに、球団経営なんかやっとる場合か!」と大変なお叱りを受けたそうです。鉄道であれば安全面における設備投資、球団であれば、観客動員のために選手に投資するのが本来ですが、どちらもカネの使い方がヘタだったために、こんなことになったんでしょうね。南海電鉄は日本最古の鉄道会社で、まもなく創業140年を迎えるそうですが、鉄道も球団もただ古いだけで、伝統というものがありませんでしたね。
南海時代貧乏で成績悪かったけど、ダイエーになっても最初は弱くて絶望してた時期がある。そこからよくここまで来たな…。
僕は、その89〜94年までダイエーを応援していました。王監督就任以降、僕はダイエーと関わってなかったので……。
南海は名門中の名門でした。セ・リーグの伝統の一戦って阪神 ー 巨人ですが
当時のパ・リーグだと伝統ではないですが、南海 ー 西鉄 が一番の人気カードだったそう。
紆余曲折、下落してしまう出来事もあり成績も伴わず経営難となり親会社の熱意も薄れ
最終的に身売りとなってしますのですが、南海に限らず関西の私鉄が撤退していく
きっかけにもなりました。
しますの → しまうの
キーボードの打ち間違いでした。
ご指摘ありがとうございます。
最後の二つは盛りすぎですね。ダイエー初期の平和台は福岡ドームができるまでの間ですし、オリックスと共同で行われた「大阪クラシック」ではホークスは南海ホークスのユニホームで試合をしました。毎年1試合は大阪で試合をしていますのである意味でホークスは大阪に帰ってきます。
すごい球団ですね😅
こんな所でも門田選手は痩せなかったんですね😅
コーラがぶ飲みしすぎで糖尿になった
アキレス腱切るまではむしろ俊足巧打の薬やるまでのバリーボンズみたいな選手だったらしいね
子供の会は外野だけで無く内野席も無料
あと、みさき公園とさやま遊園の入場券6セットも
こんな待遇でやる気出せ!ってそりゃ無理よな!何十年もBクラスだったのもうなずける。
口は出すが金は出さん最悪な球団。
無くなって当然。
初メマシテ😊
このころの電鉄球団はけちばっか南海だけではない
暗黒パリーグから応援してますが当時のパリーグはこんなもんです。その頃の方々のご苦労が分かります。今はパの環境も良くなりました。感無量です。
子供の頃、人気のないパリーグの常に最下位の南海が気になっていました。その後「あぶさん」を読み、その頃の思いもあり、すっかり南海びいき(当時すでにダイエー笑)になっていました。
元G大阪の宮本恒靖は小学生の頃、南海ホークスのファンクラブの会員だったそう。
球団幹部らと監督コーチらとのスタッフ会議で出されたコーヒーをみた球団幹部が「このコーヒー代は誰が出しますねん?会社は出しませんで!」と信じられない言葉。
怒り爆発のコーチ陣を抑えて穴吹監督が「分かった。ワシが出すから…」と。
今でも信じられない穴吹さんの「私買います事件」は貧困球団最大級のエピソードかと。
面白エピソード
80億使って11連敗
某百貨店勤務時代ホークスファン倶楽部に入って居ました 年会費1000円 大阪球場でのペナントレース見放題(笑)仕事のストレスをヤジで発散していました
高島屋さんですか。
お世話になった方が泉州人のホークスファンでしたから。ダイエーに身売りされてもなお。教員でしたけど、阪神ファンの学生を前に(当時監督就任した)ノムさんのことを話したりね。
こういう方々がいるのも福岡のホークスが早くから黒字だった理由なんだろうなあ。
長嶋さんがプロ入りする頃は既に父親は他界されていました。だから両親の反対と言うのは間違っています。お母さんは反対されたようですね。鶴岡監督は関東の子は関東のチームに行ったらエエやないかと言ったそうです。
川勝オーナーが亡くなって身売りでしょう。
悪い話ばっかりではないよ
1リーグ時代は大阪で一番人気は南海だったんだよ。
逆に阪神は全然人気無くて、巨人戦以外はいつもガラガラ。
そういや、80年代に球場前にあったマクドナルド(現在も存続)にいつもドカベン香川が買いに来てたなw
東西対決、東は巨人、西は南海でした。
阪神はうまいことしたな!
広島の呉で雪キャンプ。
最終年はついに隣県和歌山の中紀の湯浅でキャンプ。
なぎの里球場のこけら落としキャンプだったけど、2軍規模の町民球場。その横の国民宿舎みたいな所が選手宿舎。
12球団で唯一室内練習場がないので雨が振ったらキャンプ中練習はお休み。
これのケチり具合かトニー・バナザードを招聘できたのかも。
和歌山県田辺がキャンプ地だった時期もございましたね。