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元々の大内嫡流は大寧寺の変によって滅んでしまっていたとはいえ、いざ本当に大内家が滅んでしまうと強敵を倒した達成感などではなく、元就が駆け抜けた若き日の大内家がこの世から消えてしまった無常さの方がずっと強いなぁ
父や兄が大内からの重圧から酒に逃げて生命を削ったのはなんだったのか、となりそうですね。
元就が五奉行に対して辛口な書状を残している背景が理解出来ました。ありがとうございました。
今回もとても面白かったです「周防長門を乗っ取った」という意味では陶も毛利もある種共通しているんですが、悪戦苦闘しているにせよ元就や隆元はなんとか周防長門を治めようとしているのに対して、本当に陶はあのクーデターで何がしたかったのか、改めてよくわからなくなりましたね…
しかかく様、大内家について詳しく解説していただき感謝します。本当にありがとうございます。
ありがとうございます!大内家については解説できていないものが全然残っておりますので、どこかでまた動画を作る機会はあるかと思っています。
国人上がりがいきなり大名になって統治機構がついていかないのはしゃあないよな。空前絶後って言ってもいいくらいの仕事量が増えた挙げ句元就に辛辣なこと言われないかん五奉行もそれはそれで大変そうだなあと思いました。
とても興味深い内容でした。表面的な事だけでなく実務的な支配までの言及、勉強になります。
苦労が絶えないですね毛利家。統治するって大変なんだなあ
現地で研究している方によると、大内義長には介丸という息子がおり、義長の自害後は守役の下で帰農し、師事した方の名字に変えて医師を務めるなど子孫を残したそうです。
下っ端の兵なんて、乱取りが戦に出る唯一のメリットみたいなのもので、上が乱暴狼藉を取り締まろうとしても、言うこと聞かないし、兵に戦ってもらうためにも、上も強くは出れなかったのでしょうね。毛利に限らず、この時代の侵攻なんてどこもこんなものだったのかな。
更新ありがとうございます。大内家を滅ぼして万々歳というわけにはならなかったのですね、急に領土が拡大して滅ぼした大名の家臣も上手く使わないと統治が難しいのは何処の戦国大名も同じですがその点元就はかなり上手くやってますね。
大内義長の辞世さそふとて なにか恨みん とききては 嵐のほかに 花もこそ散れ人に引かれ誘われた先で死ぬ運命だったが、何も恨まない。嵐などなくとも、花は時がくれば必ず散るものなのだ。合掌。
大内に恩を感じてた人たちにとっての、恩ある大内は大寧寺の変で滅んでしまっていてこの時の大内に対しては、命を懸けるほどは恩を感じてはなかったんでしょうかねぇ
いつも動画アップされるのを楽しみにし拝見させて頂いてます。今まで自分の読書量では、よく把握出来ていなかった詳細な「狼藉問題の内容」「支配体制の仕組みとその後」が分かりやすい解説で理解するのに為になりました。本当に、毎回素晴らしい内容の動画を見させ続けてもらえてる事に大変感謝してます。次回の超ネガティブ隆元君編(?)も楽しみにしてます!ご先祖の領主様「宍戸家」を世間に認知してもらい「毛利は4本の矢!」と密かに署名活動したいと思ってる者でした。笑
細かいことで本当に申し訳ありません。6:17『防府(ほうふ)』かと思います。動画すごく楽しませていただきました!続きが待ち遠しいです!!
山口の人間ですが、上の世代の方には「ぼうふ」と言われる方が少なからずおられましたそれが地域でのローカルな呼び方なのか、古い呼び方でそういう読みがあったのかは分かりませんが、どちらも間違いではないと思います
@@いのうえもといそうかもしれませんね。私も防府ではありませんが何年か山口県西部に住んでいたことがあったので、少し違和感を感じてしまいました。調べたら『ぼうふ』と読む場合もあるみたいで、完全に私の思い込みでした。お恥ずかしい限りです。地名って難しいですよね笑
浅井長政が「あさい」なのか「あざい」なのか当時は紛れが有り得そうですね。
人材は一朝一夕じゃ育たないし、かといって一門や譜代を差しおいて新参者を重用はできないし…元就も頭を痛めてただろうなあ
すでに防長の民には大寧寺の変で大内は滅んだものとされたような流れでしたね。
ううむ弘中隆兼が自害しておらずにいれば周防の統治はもっとやり易かったのかなぁと思ってしまうね
大内家臣団は変に生真面目で、要領が。。。
守護の武田や大友に守護代上がりの尼子や上杉(長尾)も土豪の管理にはめちゃくちゃ苦戦してるんでまあ国衆上がりの毛利なら押して知るべしですね
大国であった大内家の奉行人のノウハウは新領国統治に置いて重宝しそうだもんなぁ
よっ!待ってました!
「操」って他家の書状ではほとんど見られず、毛利家関連の書状で散見される単語ですよね。申操、取操、仰操などの用例があるけど、読み方は「あやつり」でいいのかな。戦国古文書用語辞典(東京堂出版)では「おこない【操】」となっていて、辞典の例文も動画でも引用されていた萩藩閥閲録32赤川勘解由の元就書状にある「此等之趣、操何篇此競をさまされす様ニ短足候ハてハにて候」が引かれている。
追記です。「操」に関してですが、専門機関に問い合わせたところ「中国地方においては、あやつりと読み調略の意がある」との回答をいただきました。失礼いたしました。
しかかくさんいつも投稿ありがとうございます。元就公は相変わらず機敏で余念がなく辛口で、家臣たちは苦労したことでしょうね。個人の力量を差し引いても、当時の大内家文官の教養や知見レベルを安芸の片田舎から急成長した毛利の奉行衆に求めるのは酷な話で、ちょっと可哀想です😂
大内義長、お疲れ様。よく頑張ったよ。
焙烙火矢は鎌倉時代には、すでに存在していたらしいですが、いつから村上水軍、毛利水軍、乃美水軍らが使うようになったか、ご存じでしたら、いつか解説していただきたいです。少なくても1576年(天正4年)の織田水軍と戦ったの第一次木津川口の戦いでは使われているようですが、硝石は宗麟が宣教師たちに頼んで毛利の手に渡らないようにし、大友が同盟相手であった美作の牧兵庫助尚春あら高田硯を贈られてきた返礼に硝石を贈ったという話も聞いたことがあるので、かなりの量の硝石が大友に入ってきていたと思われます。しかし日本海を使うことで博多に入ってくる硝石を石見銀で取り引きすることができたので毛利への流入を完全には止められなかったのでしょうね。
飯田興秀及び長秀は主君に殉じた又は大友家に亡命したのではなく、毛利家に降伏して山口奉行人として再雇用されたということですか?
@@オットーカリウス-s1l その通りです。というよりwikiの飯田は編集者(というより地元史誌が)別族の飯田(はんだ)氏と混同しており、かつ後世の盛られた話という二重の意味でめちゃくちゃな内容になっています。
@@SquareDeerHorn 飯田(はんだ)氏っていたんですか?回答ありがとうございます。
5:36 7:16 9:02 13:45 17:01 17:26 18:46 19:17 21:13
しかかくさん、投稿お疲れ様です。遂に大内義長の死により、鎌倉から続いた名門大内氏が滅亡し、毛利氏「国家」の拡大となりました。狼藉・横領等のオンパレードも同時並行で開催されましたが、しかかくさんのおっしゃられた通り、やはり毛利氏の弱みはここで出てしまいました。元就も来たる尼子戦に向けて、何とかしてこれを食い止めなければならない、早急な課題だったと思います。そのための山口奉行でしたが、永禄”元年”に終わったことを鑑みると、永禄改元に合わせたようにも見られましたが、元就が三好氏の改元に反対していたことから、あまり関係しないのではないでしょうか。岩正氏も興致以外にも、元就を饗応した宮内丞もいて、義隆代から言えば古参ではあります。これ一つ確認なのですが、オッキーのコーナーで飯田興秀が従五位下になっていますが、『歴名土代』から弘治2年には従五位上に昇叙しているので、違うのではないでしょうか。あと、従五位下=毛利元就が主君で、従五位上=飯田興秀が毛利家の下で働いていること自体、当時では相当レアすぎることですね。次回、隆元が当主を諦める過程が今回からも垣間見えてはいましたが、どうなるか楽しみです。
情報ありがとうございます!『歴名土代』を見ると確かに弘治2年10月7日に源(飯田)興秀が従五位上に昇叙しておりますね。(大内家滅亡の危機に何で朝廷へ献金しているのかは釈然としませんが・・・)次回動画に入れさせていただきます。大内義隆も自身より官位が上の”公家”を抱えていましたが、こうした家臣の方が官位・権威が上になる現象はかなり珍しいと私も思います。
@@SquareDeerHorn ありがとうございます。来年もまたよろしくお願いします。よいお年をお迎えくださいますよう申し上げます。
大庭賢兼はそうか鎌倉殿の13人に出ていた大庭一族か!
大庭一族は吉見氏に付いて来た者達から始まって、中には益田家の家臣になった者や大内氏の家臣になった者などさまざまいますね。
元主家に対する軍事行動・乱暴狼藉・無限横領地獄・小国から急拡大した故の人材不足/組織不備…これは、元就アゲをすべき大河ドラマでは扱えないよな…
個人的にはそういう無いない尽くしの所からの四苦八苦しながらの体制構築とかが評価点高いのですが、そういう地味な話は受けませんか。
6:34 陶晴賢、お前、何年も謀叛すること考えたのに何も考えが無かったのか…それとも考えた末の結論がそれだったのか反乱で果実を得るには、無理と無茶を乗り越えるほどの力が必要なんですね
西国一の大名として、権勢を誇った大内家をその手で滅ぼしたとき、元就は何を思っただろうか…出来れば、今回紹介しきれなかった旧大内家奉行人たちも紹介していただけると幸いです。次回も楽しみに待ってます!
大内は大寧寺で滅びました。毛利氏ではなく身内に滅ぼされたんです。陶が余計な事したから滅びたんです。毛利氏が滅ぼしたのは大内家の残滓です。残党です。
是非とも明治維新まで続けてほしい!
ちい(さくてかわいいジイ)さま好き
弘中隆兼が生き残っていたらとは、やっぱり思うわな。
これ見ると陶は変を起こして何がやりたかったのかほんと疑問。
頭が足りてなかったから謀叛を起こしたんだと思います。
以上、大河ドラマでは1分程度の内容でした。
寄り合い所帯の毛利氏らしく、統制の緩さが出てますね。当主を中心とした官僚団の組織が急がれますが・・・って隆元お前何やっとんの!?
やめてその言葉は隆元に刺さる…
素晴らしく見ごたえのある動画だと思います一次資料からのみ史実を史実として解説するのは確かに中級者以上向きですがだからこそ喜ばれると思いますし楽しませていただいております。一方で投稿主が面白く思っては居ないウィキペディア丸写しのような動画でも初級者の導入としては一定の効果もあり住み分けとして考えてくれたらと思っておりますまた、そういった粗製乱造に近い動画とは別のドラマ仕立ての有名投稿主の動画に対してUP主の意図に反しての批判も散見され誤解の温床になっているかと「諸説」と言いながら一次資料と最新の研究及び専門研究者の引用もしっかりしているタイプですのでおすすめ動画の連携表示の問題から意図せず目立ってしまいおかしな争いになることも危惧していますあれを批判するなら時代劇や大河ドラマ、歴史漫画も怪しくなってしまうわけで史実では無く娯楽としての部分とのすみ分けをUP主さんはわかっていても視聴者の中には誤解して噛みつく人も出てくるかもしれませぬのでなるべく他動画への思いは少し抑えて自分らしい動画で続けてほしいなと思っています素晴らし動画をたくさん見させていただきました、応援させていただきます(今回の動画では無く過去動画への反応になってしまった事お許しください)
市川さん奥さんも有名な人でしたっけ?
なぜ杉松千代丸の家督継承で秋月文種に相談してるのでしょうか
恐らく生き残った杉重矩・重輔の関係者を捜索していた折に、当時大友家との交渉時につながりができた秋月にも情報を求めていたのだと思われます。その結果杉重良は山口にいるのがわかり、杉家の家督を継ぐのですが、その際に文種が何らかのとりなしをしていた可能性があります。この後文種は大友家に攻められ自害、その子秋月種実は毛利領に逃亡しますが、種実は隆元と兄弟契約をしていますし大友家との盟約を破ってでも種実の本拠への帰還を援助するという結構な優遇をしていることを考えると、毛利家は文種に何かしらの恩があったと考えられますが管見の限りでははっきりしていません・・・
毛利がまるで大国のようだ
元々の大内嫡流は大寧寺の変によって滅んでしまっていたとはいえ、いざ本当に大内家が滅んでしまうと
強敵を倒した達成感などではなく、元就が駆け抜けた若き日の大内家がこの世から消えてしまった無常さの方がずっと強いなぁ
父や兄が大内からの重圧から酒に逃げて生命を削ったのはなんだったのか、となりそうですね。
元就が五奉行に対して辛口な書状を残している背景が理解出来ました。ありがとうございました。
今回もとても面白かったです
「周防長門を乗っ取った」という意味では陶も毛利もある種共通しているんですが、悪戦苦闘しているにせよ元就や隆元はなんとか周防長門を治めようとしているのに対して、本当に陶はあのクーデターで何がしたかったのか、改めてよくわからなくなりましたね…
しかかく様、大内家について詳しく解説していただき感謝します。本当にありがとうございます。
ありがとうございます!大内家については解説できていないものが全然残っておりますので、どこかでまた動画を作る機会はあるかと思っています。
国人上がりがいきなり大名になって統治機構がついていかないのはしゃあないよな。空前絶後って言ってもいいくらいの仕事量が増えた挙げ句元就に辛辣なこと言われないかん五奉行もそれはそれで大変そうだなあと思いました。
とても興味深い内容でした。
表面的な事だけでなく実務的な支配までの言及、勉強になります。
苦労が絶えないですね毛利家。統治するって大変なんだなあ
現地で研究している方によると、大内義長には介丸という息子がおり、
義長の自害後は守役の下で帰農し、師事した方の名字に変えて医師を務めるなど子孫を残したそうです。
下っ端の兵なんて、乱取りが戦に出る唯一のメリットみたいなのもので、上が乱暴狼藉を取り締まろうとしても、言うこと聞かないし、兵に戦ってもらうためにも、上も強くは出れなかったのでしょうね。
毛利に限らず、この時代の侵攻なんてどこもこんなものだったのかな。
更新ありがとうございます。大内家を滅ぼして万々歳というわけにはならなかったのですね、急に領土が拡大して滅ぼした大名の家臣も上手く使わないと統治が難しいのは何処の戦国大名も同じですがその点元就はかなり上手くやってますね。
大内義長の辞世
さそふとて なにか恨みん とききては 嵐のほかに 花もこそ散れ
人に引かれ誘われた先で死ぬ運命だったが、何も恨まない。嵐などなくとも、花は時がくれば必ず散るものなのだ。
合掌。
大内に恩を感じてた人たちにとっての、恩ある大内は大寧寺の変で滅んでしまっていて
この時の大内に対しては、命を懸けるほどは恩を感じてはなかったんでしょうかねぇ
いつも動画アップされるのを楽しみにし拝見させて頂いてます。
今まで自分の読書量では、よく把握出来ていなかった詳細な「狼藉問題の内容」「支配体制の仕組みとその後」が分かりやすい解説で理解するのに為になりました。
本当に、毎回素晴らしい内容の動画を見させ続けてもらえてる事に大変感謝してます。
次回の超ネガティブ隆元君編(?)も楽しみにしてます!
ご先祖の領主様「宍戸家」を世間に認知してもらい「毛利は4本の矢!」と密かに署名活動したいと思ってる者でした。笑
細かいことで本当に申し訳ありません。6:17『防府(ほうふ)』かと思います。動画すごく楽しませていただきました!続きが待ち遠しいです!!
山口の人間ですが、上の世代の方には「ぼうふ」と言われる方が少なからずおられました
それが地域でのローカルな呼び方なのか、古い呼び方でそういう読みがあったのかは分かりませんが、どちらも間違いではないと思います
@@いのうえもといそうかもしれませんね。私も防府ではありませんが何年か山口県西部に住んでいたことがあったので、少し違和感を感じてしまいました。調べたら『ぼうふ』と読む場合もあるみたいで、完全に私の思い込みでした。お恥ずかしい限りです。地名って難しいですよね笑
浅井長政が「あさい」なのか「あざい」なのか
当時は紛れが有り得そうですね。
人材は一朝一夕じゃ育たないし、かといって一門や譜代を差しおいて新参者を重用はできないし…
元就も頭を痛めてただろうなあ
すでに防長の民には大寧寺の変で大内は滅んだものとされたような流れでしたね。
ううむ弘中隆兼が自害しておらずにいれば周防の統治はもっとやり易かったのかなぁと思ってしまうね
大内家臣団は変に生真面目で、要領が。。。
守護の武田や大友に守護代上がりの尼子や上杉(長尾)も土豪の管理にはめちゃくちゃ苦戦してるんで
まあ国衆上がりの毛利なら押して知るべしですね
大国であった大内家の奉行人のノウハウは新領国統治に置いて重宝しそうだもんなぁ
よっ!待ってました!
「操」って他家の書状ではほとんど見られず、毛利家関連の書状で散見される単語ですよね。
申操、取操、仰操などの用例があるけど、読み方は「あやつり」でいいのかな。
戦国古文書用語辞典(東京堂出版)では「おこない【操】」となっていて、辞典の例文も動画でも引用されていた萩藩閥閲録32赤川勘解由の元就書状にある「此等之趣、操何篇此競をさまされす様ニ短足候ハてハにて候」が引かれている。
追記です。「操」に関してですが、専門機関に問い合わせたところ「中国地方においては、あやつりと読み調略の意がある」との回答をいただきました。失礼いたしました。
しかかくさんいつも投稿ありがとうございます。
元就公は相変わらず機敏で余念がなく辛口で、家臣たちは苦労したことでしょうね。
個人の力量を差し引いても、当時の大内家文官の教養や知見レベルを安芸の片田舎から急成長した毛利の奉行衆に求めるのは酷な話で、ちょっと可哀想です😂
大内義長、お疲れ様。よく頑張ったよ。
焙烙火矢は鎌倉時代には、すでに存在していたらしいですが、いつから村上水軍、毛利水軍、乃美水軍らが使うようになったか、ご存じでしたら、いつか解説していただきたいです。
少なくても1576年(天正4年)の織田水軍と戦ったの第一次木津川口の戦いでは使われているようですが、硝石は宗麟が宣教師たちに頼んで毛利の手に渡らないようにし、大友が同盟相手であった美作の牧兵庫助尚春あら高田硯を贈られてきた返礼に硝石を贈ったという話も聞いたことがあるので、かなりの量の硝石が大友に入ってきていたと思われます。
しかし日本海を使うことで博多に入ってくる硝石を石見銀で取り引きすることができたので毛利への流入を完全には止められなかったのでしょうね。
飯田興秀及び長秀は主君に殉じた又は大友家に亡命したのではなく、毛利家に降伏して山口奉行人として再雇用されたということですか?
@@オットーカリウス-s1l その通りです。というよりwikiの飯田は編集者(というより地元史誌が)別族の飯田(はんだ)氏と混同しており、かつ後世の盛られた話という二重の意味でめちゃくちゃな内容になっています。
@@SquareDeerHorn 飯田(はんだ)氏っていたんですか?回答ありがとうございます。
5:36 7:16 9:02 13:45 17:01 17:26 18:46 19:17 21:13
しかかくさん、投稿お疲れ様です。
遂に大内義長の死により、鎌倉から続いた名門大内氏が滅亡し、毛利氏「国家」の拡大となりました。狼藉・横領等のオンパレードも同時並行で開催されましたが、しかかくさんのおっしゃられた通り、やはり毛利氏の弱みはここで出てしまいました。元就も来たる尼子戦に向けて、何とかしてこれを食い止めなければならない、早急な課題だったと思います。
そのための山口奉行でしたが、永禄”元年”に終わったことを鑑みると、永禄改元に合わせたようにも見られましたが、元就が三好氏の改元に反対していたことから、あまり関係しないのではないでしょうか。
岩正氏も興致以外にも、元就を饗応した宮内丞もいて、義隆代から言えば古参ではあります。
これ一つ確認なのですが、オッキーのコーナーで飯田興秀が従五位下になっていますが、『歴名土代』から弘治2年には従五位上に昇叙しているので、違うのではないでしょうか。あと、従五位下=毛利元就が主君で、従五位上=飯田興秀が毛利家の下で働いていること自体、当時では相当レアすぎることですね。
次回、隆元が当主を諦める過程が今回からも垣間見えてはいましたが、どうなるか楽しみです。
情報ありがとうございます!『歴名土代』を見ると確かに弘治2年10月7日に源(飯田)興秀が従五位上に昇叙しておりますね。(大内家滅亡の危機に何で朝廷へ献金しているのかは釈然としませんが・・・)次回動画に入れさせていただきます。
大内義隆も自身より官位が上の”公家”を抱えていましたが、こうした家臣の方が官位・権威が上になる現象はかなり珍しいと私も思います。
@@SquareDeerHorn ありがとうございます。来年もまたよろしくお願いします。よいお年をお迎えくださいますよう申し上げます。
大庭賢兼はそうか鎌倉殿の13人に出ていた大庭一族か!
大庭一族は吉見氏に付いて来た者達から始まって、中には益田家の家臣になった者や大内氏の家臣になった者などさまざまいますね。
元主家に対する軍事行動・乱暴狼藉・無限横領地獄・小国から急拡大した故の人材不足/組織不備…これは、元就アゲをすべき大河ドラマでは扱えないよな…
個人的にはそういう無いない尽くしの所からの四苦八苦しながらの体制構築とかが評価点高いのですが、そういう地味な話は受けませんか。
6:34 陶晴賢、お前、何年も謀叛すること考えたのに何も考えが無かったのか…それとも考えた末の結論がそれだったのか
反乱で果実を得るには、無理と無茶を乗り越えるほどの力が必要なんですね
西国一の大名として、権勢を誇った大内家をその手で滅ぼしたとき、元就は何を思っただろうか…
出来れば、今回紹介しきれなかった旧大内家奉行人たちも紹介していただけると幸いです。次回も楽しみに待ってます!
大内は大寧寺で滅びました。毛利氏ではなく身内に滅ぼされたんです。陶が余計な事したから滅びたんです。
毛利氏が滅ぼしたのは大内家の残滓です。残党です。
是非とも明治維新まで続けてほしい!
ちい(さくてかわいいジイ)さま好き
弘中隆兼が生き残っていたらとは、やっぱり思うわな。
これ見ると陶は変を起こして何がやりたかったのかほんと疑問。
頭が足りてなかったから謀叛を起こしたんだと思います。
以上、大河ドラマでは1分程度の内容でした。
寄り合い所帯の毛利氏らしく、統制の緩さが出てますね。
当主を中心とした官僚団の組織が急がれますが・・・って隆元お前何やっとんの!?
やめてその言葉は隆元に刺さる…
素晴らしく見ごたえのある動画だと思います
一次資料からのみ史実を史実として解説するのは確かに中級者以上向きですが
だからこそ喜ばれると思いますし楽しませていただいております。
一方で投稿主が面白く思っては居ないウィキペディア丸写しのような動画でも
初級者の導入としては一定の効果もあり住み分けとして考えてくれたらと思っております
また、そういった粗製乱造に近い動画とは別のドラマ仕立ての有名投稿主の動画に対して
UP主の意図に反しての批判も散見され誤解の温床になっているかと
「諸説」と言いながら一次資料と最新の研究及び専門研究者の引用もしっかりしているタイプですので
おすすめ動画の連携表示の問題から意図せず目立ってしまいおかしな争いになることも危惧しています
あれを批判するなら時代劇や大河ドラマ、歴史漫画も怪しくなってしまうわけで
史実では無く娯楽としての部分とのすみ分けをUP主さんはわかっていても
視聴者の中には誤解して噛みつく人も出てくるかもしれませぬので
なるべく他動画への思いは少し抑えて自分らしい動画で続けてほしいなと思っています
素晴らし動画をたくさん見させていただきました、応援させていただきます
(今回の動画では無く過去動画への反応になってしまった事お許しください)
市川さん奥さんも有名な人でしたっけ?
なぜ杉松千代丸の家督継承で秋月文種に相談してるのでしょうか
恐らく生き残った杉重矩・重輔の関係者を捜索していた折に、当時大友家との交渉時につながりができた秋月にも情報を求めていたのだと思われます。その結果杉重良は山口にいるのがわかり、杉家の家督を継ぐのですが、その際に文種が何らかのとりなしをしていた可能性があります。
この後文種は大友家に攻められ自害、その子秋月種実は毛利領に逃亡しますが、種実は隆元と兄弟契約をしていますし大友家との盟約を破ってでも種実の本拠への帰還を援助するという結構な優遇をしていることを考えると、毛利家は文種に何かしらの恩があったと考えられますが管見の限りでははっきりしていません・・・
毛利がまるで大国のようだ