【毛利元就解説】第二十五話・防長経略前編、崩壊する大内領国【豪族達と往く毛利元就の軌跡】
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- Опубліковано 1 гру 2024
- #毛利元就 #ゆっくり解説 #東方project
第二十四話: • 【毛利元就解説】第二十四話・厳島の戦い後編、...
第二十六話:12月14日公開予定
初めましての人は初めまして、しかかくと申します。
今回は厳島の戦い直後から始まった毛利元就による大内家滅亡戦・防長経略について解説いたします。毛利家がいかにして大内家を攻めたのかについて知っていただけると幸いです。
・参考文献
「毛利元就卿伝」「新裁軍記」「萩藩閥閲録」
大内氏歴史文化研究会『大内氏の世界をさぐる』
光成準治編『戦国武将列伝9 中国編』
新名一仁編『戦国武将列伝11 九州編』
河合 正治『安芸毛利一族』
岸田 裕之『毛利元就ー武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』
池 享 『毛利領国の拡大と尼子・大友氏』
布引 敏雄「戦国大名毛利氏と地下人一揆」
和田 秀作「周防右田氏の相伝文書について」
和田 秀作「「譜録」小方三郎左衛門忠次の翻刻と紹介」
原 慶三「尼子氏の石見国進出をめぐってー石見銀山、吉川・小笠原氏との関係を中心にー」
佐伯 徳哉「尼子氏興亡・毛利氏勃興をめぐる領域的支配と地域出雲西部・石見地域を中心に」
石畑 匡基「戦国期における毛利氏の出雲支配と毛利元康」
堀本 一繁「一五五〇年代における大友氏の北部九州支配の進展」
・使用楽曲
針の音楽: / @harimusic896
『音降る神霊廟』『やまとごはん』『音降る幻想郷』より
(アレンジ:白鷺ゆっきー 様)
唯道是真 「音降る神霊廟」より
斑鳩の伽藍 「やまとごはん」より
ひび割れた金魚鉢 「音降る神霊廟」より
不咲蕾未咲蕾 「音降る神霊廟」より
夜の腐踏会 「音降る神霊廟」より
大和に散らばる不思議な森 「やまとごはん」より
・使用サムネイル
『豪族達の神楽祭』(絵:友部キヌコ 様)
/ kinuk
・使用立ち絵
豊聡耳神子・物部布都・蘇我屠自古
(原作:東方project、 絵:真田源次郎ベル助 様)
/ berusuke_sanada
・地図:国土地理院
・他イラスト:イラストAC
・効果音:効果音ラボ
NicoNico; www.nicovideo.....
Twitter; / squaredeerhorn
大内義興解説から見てるので義興・義隆2代で築き上げた大内領国が崩壊するのは悲しくなりますね。
自分的には凄く特別な存在である
大内世界を崩壊させた陶晴賢が1番罪深い。海外に繋がる水平面の広さと
代々の貢献で築き上げた朝廷/官位に於ける垂直面の高さ。海峡を挟む領国が崩壊して毛利家の最大版図ですら大内家が持っていた実力の脚元にも及ばなかったと思う。残念
お疲れ様でした。
やはりゆっくりボイスはこのままのが聞きやすいです。
大友義鎮との交渉はかなり巧みな交渉だな。
実弟を見捨てる利点を説き伏せる手腕とは。
後に大友が大内に乗っ取られるかもとでも吹き込んだんだろうか…?
潜在的に自身の立場を脅かしうるものと言う意味では実弟ってかなりの物ですからね…
二階崩れとか大友家にもいろいろあったから、義鎮一人の判断というより家中の支持基盤(国衆)に兵を出したくない流れがあったのかもしれません。大内家がグダグダの時に遠征して大友軍が対毛利の主力になるとコストが増大します。兵站面でも現地の大内が全くあてにならない状態で、自腹を切って周防まで行きたい家臣が少なかったのではないでしょうか。他家の頭領一人を救っても、大友家臣団には何の利益もないですから。
元就にしても備後・備中方面に過去何度か兵を出して東側の国衆の信用をある程度得ていればこそ、退潮期にあったとはいえ西の大内と北の尼子に何とか対応できたわけで。そういう政治的な実績(自領を保護してくれる頭領への信頼)があればこそ、背後を気にせず冒険的な遠征ができると思います。
後北条家が善政を強いて民から慕われていた話はよく耳に入ってきますが毛利家のこういった話は聞いたことがありませんので合戦もいいですが、たまには政に関する視点から見た毛利家の解説動画も期待しています
隆元は内政・財務能力に長けていたそうですが父の元就はどうだったのでしょう
遠く離れた越前の朝倉宗滴からも評価された名将でもありますが分かれば元就存命時代の年貢率なども知りたいです
ただ輝元は秀吉の死後に高い年貢率を課していたので山代慶長一揆を起こされていますね
しかかくさんから見た元就、隆元、輝元の3人の内政面の評価をお聞きしたいです
毎度濃厚なお話ありがとうございます
義鎮は同盟や従属大名どころか身内や仲間にも冷淡なところあるからなぁ この後も少弐政興や大内輝弘、一条兼定等結構切り捨てまくるし
一族自体が定期的に身内争い(義鑑と菊池義武→二階崩れ→義武がまた反乱)してるし嫁の実家の奈多宮も寺社奉行の傘着て結構横柄な態度で宇佐神宮等豊前寺社とトラブル起こしてるし、身内への情なんて…ってところもあったんだろうか 原田氏や秋月氏が大人しくなるきっかけになれば良いかなって打算もあったのかな?→毛利との短期的な不可侵締結
同族の立花氏とかもそうですよね…
そこを討ったことで戸次さんが立花氏を継ぐことになりましたし…
大内義長 、よく頑張ったと思います。 内藤隆世しか守護代が残っていなかったので、防長経略の前にほぼ詰んでた状態と言えます。 大内義長 が2年間耐えたのは、それなりに信望と実力があったことでしょう。 兄が居る豊後に亡命しても無下にはされなかったと思いますが、周防・長門に残り戦い続けた精神を讃えたいです。
内藤興盛を始め、大内家臣団、特に武断派が大内義長の新体制を固めていた上、九州最大勢力を誇っていた大友氏が親族であったので、滅びる事は無さそうに思えた体制ではありましたが、
大寧寺の変に際して、公卿、それも摂関家の重鎮を殺害していましたから、
朝廷は、新当主、義長に、家臣の隆房と変わりない官位しか与えなかったし、京の中央政権からは見放された形での体制の上、認められた守護国も今の山口県の範囲のみでした。
実家の大友家も、義長の危機に際して、見限りましたから、陶のクーデターは、全国区で見れば、歓迎されないものでした。
やり方が正しければ、滅びない体制だったはずです。
旧大内体制派の、吉見氏の反乱すら、苦戦していましたから。
毛利が大内に勝ったのではなく、新当主の隆元の大内義隆へのご恩の熱い想いが元就すら動かし、周辺国衆が大内の後継勢力は毛利であると認めざるを得なくなったのも大きい。
吉見の根強い抵抗も結構効いていました。
楽しみです、あと二日!
めっちゃ気になるとこで引くやん
いつも勉強になり楽しい動画ありがとうございます
個人的に、大内との因果の終わりがすんごく気になるので次も楽しみに待ってます
まぁ、大内が滅んでも因果は残るんですが。。
毛利が好きと思ってる割に動画見るたびに知識のなさに打ちひしがれるのですけど
逆に、毎回新鮮に楽しく見てます
寒くなってきますが、いろいろご自愛ください
続きは勿論、楽しみにしてます
いやー、いつも楽しみです
大内側はここまでボロボロだと、むしろ良く須々万沼城で粘れたなという感じですね。
逆に尼子はこのチャンスで石見銀山までしか進出出来ないのって感じ。
まぁ石見銀山があれば良いとこあるだろうしね
通説を信じ込む危うさを感じられるいい動画ですね。
新宮党粛清によって尼子は揺らいだ訳ではないし、もし毛利がここまで栄華を極めなければ、井上一党粛清で力を弱めたと言われかねなかったし、大内義長も2年にわたり毛利の猛攻をよく耐えた…。
毛利家を解説するものでもサラっと済まされる傾向のある防長経略を、ここまで丁寧に解説していただきありがとうございます。
個人的には小寺元武が大友家とどんな交渉をしていたか、知りたいものです。
山口市民です
大内文化とか言われても今ひとつピンとこず、江戸時代以降、幕末などの影響か山口は毛利領という印象が子供の頃からありました
しかし、応仁の乱以降の大内の盛衰の動画を見てきて、ついに大内滅亡となると複雑な気持ちです
今回も詳しい動画楽しく拝見しました
いや、本当、小寺元武はどうやってここまで上手いこと交渉できたんでしょうね…
いくら色々条件が重なったとはいえ…
やっときた!!
近年「北条氏政や武田勝頼は最大版図を築いたから無能ではなかった」との意見を耳にしますが、支配領域の拡大は緩衝地帯の消滅と他の大勢力との接触で危機を招いてバブル崩壊につながるケースもあるから「最大版図=有能」論には単純には賛成できません。(織田信長も)
その意味では、厳島戦勝時点で安芸半国を飛び出して最大版図危機を乗り切った元就の舵取りこそ名人芸と称賛されるべきだと思います。
同感すぎて草
維持が大変なんですよね
@@sugisinfkk そもそも各勢力で条件が違うから横並びにして有能無能比較するマスコミや出版、歴史動画投稿系がおかしいのです。ですが、あえて言うなら、勝頼や氏政は時代の波に流された才能、元就は時代の波を乗り切った才能だと私は思うのです。
おお椙杜氏出たねえ 椙杜氏の氏神 椙杜八幡宮 よく行きます^^
防長攻略楽しみ。
20:34この時点で大友義鎮に使者派遣するには、これ以前から大友氏の動向を掴んでいる必要がある。
この時点:
08:42周防で地下人一揆対応してた頃
12:28石見で小笠原氏を孤立させつつあった頃
元就の思考視野の広さに驚嘆する。
よく分からなかった忍原崩れについて分かりやすく解説していただいてありがとうございました。話は変わりますが箸休めのマイナー武将紹介、吉川経基をリクエストします。毛利家悲願の内部庄返還の書状「毛利家文書166」とかにも名前が出てきてて史実では実際にどのような活躍をした人物なのか気になります。
「最大版図=有能」論って統治・防衛・維持という観点と、「領土拡大せざるを得ない理由」がすっぽり抜け落ちている場合が多いですね。
尼子経久・晴久も急拡大により最大版図を築いていますが、根底としては尼子家の出雲支配の正統性が脆弱な点を外征により覆い隠していた部分が多く、結果一度の敗戦(細沢山合戦・吉田郡山城の戦い)で急縮小、滅亡寸前まで追いやられております。
勝頼味。信玄の頃からそうで地図の色分けでは広大な武田領は山山山谷山水害の荒野山山山で極めて貧しい場所ばかり。武田が強い?悪い冗談だと思います。実際江戸時代に長い努力で治水用水が行われてやっと今の長野県が出来たので
元就の謀ごとは、理に適った手続きを必要なタイミングでちゃんと踏む
ことに見えますね。ここには国衆として機微を掴む事の苦労を知るからこそかと。次代の輝元も非常に苦労する領国という連合体の統治。それぞれに歴史を持つ国衆達の集合した姿が毛利ですから。
変な話だけど倫理的に弱みがある
大内家の状態はそれだけで安定性を欠きますね。良くない主君であったとしても義隆体制を崩して大内世界は実を無くしてしまった。毛利元就の行動は地域にとっては救済でもあったと思う。一連の流れで最大の利益を得たのは大友氏となるのが歴史の計り難さかな。
2:25 おそらく読み上げソフトの関係だとは思いますが、洞雲寺は「とううんじ」ではないでしょうか?少なくとも地元ではそう呼ばれていました
こう見ると、日本での領土奪取は大変ですね。山が多くて、小勢力があちこち居るから、平地みたいに一気呵成にいかない。
防長経略、あっさり滅びた印象でしたが、そう甘くなかったんですねー。
後編も期待です
14:52 「うっせぇわ」口羽通良
元就も晴久が相手なら元春じゃ分が悪い、って判断をしているのが面白いですね。単純な兵力差もあるでしょうが、一筋縄ではいかない相手という認識があったんですね。
戦線が伸び切っちゃったのが忍原崩れの原因だったんでしょうねぇ
というか同盟国でもある備後国衆を動かせなかったんでしょうかね?
一門に入った?三吉ら北備後衆を援兵をお願いすれば何とかなったんじゃないのかなと思いますが。
晴久直々だからきついかな?
当時備後南部は杉原盛重らが中心となって備中に遠征し備中最大の尼子方国衆である庄為資と元備中守護代家・石川源三と戦っていたので、あまり参陣できなかったと思われます。
また、「森脇覚書」によると忍原崩れに山内隆通らも参陣していたようなのですが、こちらも尼子軍の南下を考えるとそこまで兵は割けなかったのではないかと思います。
地元がメインの舞台として出てくるとやっぱりうれしいね。蹂躙されているけど
我が故郷に於ける武田信玄かな
この人絡み以外一切何も起きない
信濃国
大河ドラマでは1分もなかった話です。すぐに大内が滅亡していました。
18:55は須子(すこ)下総守では?
申し訳ありません、おっしゃる通りです。
豪族組がいた方がより聞きやすいね
高森城って旧美和町の城のやつか。旧玖珂町には高森高校、周防高森駅があるから最初その辺りかと思ったが地図では割とずれてるのでなんかおかしいなと思ってた。
お疲れさまでした。渋川義基がいつの間にか消えていました。悲しいです。
さて、山崎房勝でよかったのだと思いました。そして、杉重輔のこと、ありがとうございました。
そこで思ったのですが、陶五郎は、長房ととらえてよろしいでしょうか。そして、その古文書の出先はどこでしょうか。お伝えいただけたらと思います。
先々週に津和野城築城700年記念講演、そして本日山城サミットin益田があり、石見西部は大熱狂です。ぜひ、津和野城・七尾城ともに訪れていただきたいです。
宮内庁書陵部が一般公開している毛利家古文書(書籍ID:100257795)に該当の書状が収録されております。私もXにてよし さんという方にこの書状の存在を教えていただきました。
陶五郎=陶長房はほぼ断定しても良いかと思います。
@@SquareDeerHorn 宮内庁書陵部で早速拝見しました。確かに陶五郎と書かれており、模写といえどかなり信憑性が高いと思いました。
杉氏も陶氏もまだ不明である点もあるので、そこが明らかになってくるとまた面白そうです。
いつも興味深く拝見しています。細かいことで恐縮ですが、萩藩閥閲録所収の7月29日付山縣就相宛毛利元就書状の翻刻に誤字があるようです。
「某元之人数悉同道候ゐ」となっておりましたが、「同道候而」が正しいかと思います。取り急ぎご報告まで。
ご指摘ありがとうございます!
6:28 山代 8:00 11:44 石見 12:39 13:32 16:57 18:37 20:17 21:38 21:57
東方寸劇がある方が和む
吉川元春は生涯無敗と言われている中に忍原崩れが含まれないのはずるいよな。敗れたのはあくまで宍戸軍という扱いなのだろうか。
そもそも吉川元春が「生涯無敗」と言われ出したのが恐らく江戸後期頃と思われます(調べているのですがいまいち出所がはっきりしない)。
実際には庄為資との戦いや忍原崩れなど、若い頃の敗戦は史料から確認できますが、元就死後の老練なイメージがそのまま無敗のイメージに繋がったものと思われます(そもそも無敗と断定できる武将はまずいませんが)。
大内家、盛者必衰とは正にこの事。
尼子の2代爺いと孫ですがなかなか
無いレベルで英傑が続いた感じ。
その他の中国国衆曰く
毛利の爺いいつまでもタヒなねえな
尼子の孫は爺いより悪いな
てなってそう
防長経略中の毛利の背後を、尼子は攻めなかったのかね?元就が何か謀略でも仕掛け、動けなくしていたのかな?
というより、尼子は経久の頃から、ずっと西出雲の統治に苦労していた印象。西出雲担当の塩冶興久は反乱起こすし、興久死後の西出雲を担当したのが、新宮党。
西出雲絡みで、だいぶゴタゴタして、西へ戦線を延ばせないんやろなと思う。