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昭和29年に幾春別で生まれました。多分5歳くらいまでいて、幌内小学校に入学式しました。幾春別では坂を下った先に生家の炭住があり、その先に炭鉱の浴場がありました。保育園、幼稚園などはなく近所の子供達と遊んでいたのでしょう。父が北炭の技術者だったので、幌内小学校から新幌内小学校に転校し、三笠中央中学校に入学し、夕張の千代田中学校に転校しました。学んだ小学校、中学校は全て廃校となり、寂しいですが、この映像を観て、華やかだった当時の三笠と元気だった父母を思い出しました。有難う。
弥生駅から三笠高校まで汽車通学したが、高校はF組だ。はるか昔の思い出になった。2024,6,9 深夜😂
今から140年も前に三笠の炭鉱が開業し、北海道経済の大車輪として石炭産業が活況を極め、衰退し、現在に至る。その間、戦争や、炭鉱坑道で命を落とした多くの悲劇、人々の暮らしがあって今の廃れたすがたに胸が熱くなる。 坑口跡に立ち、足元の地底430mもの深くて狭い坑道で仕事した人、そこで非業の死を遂げた人々の心中に思いを馳せた。
1961年弥生駅から三笠高校まで汽車通学していた。高校は坊主頭だった。生徒会長根本君と廃止運動した若さが懐かしい。
この映像の制作年が1988年というのも驚き。この頃はとっくにバブル景気で国内全国が浮かれまくって映像なんかも妙に明るくお茶られてたモノで溢れてた印象だったけど、他の古い映像と比べても違いが無い程硬派な演出なのが驚き。
今の若い人達は黒いダイヤと言う言葉を知っているのでしょうか?まさに石炭は黒いダイヤでした。そのダイヤに係わる方たちがこんなにいたのですね、私は1955年音威子府の咲来の生まれです。当時の暖房はこの黒い石炭でした、ストーブが真っ赤になり私たちを温めてくれた思い出は永遠に忘れません。貴重な映像ありがとうございます。
「黒いダイヤ」ならぬ「黒いそば」で有名だった音威子府駅の駅そば屋「常盤軒」のご主人が先日(2021.2.7)亡くなられ、店も閉業となりました。自分は2年前運よく食することができました。ホーム上にあった時代も知っています。咲来は国道沿いに「咲来そば」ののぼりを掲げた店ができ、観光客や地元の人でにぎわっていますね。上音威子府は残ってた駅舎も崩壊後はきれいに跡形もなく更地化。駅周辺の民家はゼロに。天塩川温泉、咲来、筬島の3駅はJR北海道から廃止を突き付けられましたが、村が頑張って存続プロジェクト掲げていますね。
@@Su---- 様情報提供をありがとうございました。昭和当時の常盤軒の自宅は新聞も扱っており、私も10歳の時から新聞配達をしていました。当時は約5千人の村でしたので、それなりの配達軒数がありました。音威子府小学校は1クラスでしたが中学からは筬島、上音威子府は音威子府に集まりいきなり2クラスになり楽しかった想いでがあります。咲来は別でしたが・・・当時は天塩川温泉駅はありませんでした。今は、上音威子府も筬島も何もないのですね?寂しくなりました、上音威子府にあった北海道大学の大学演習林もグーグルで確認できませんね。
@@northfox0912 さま筬島は上音威子府に比べると国道がすぐ脇を通っていないものの、まだ数戸の民家や農家の方が住まれています。駅前は何もなくなりましたが、近くの小学校跡を「砂澤ビッキ美術館」にして作品を展示、穴場的な観光客の立ち寄り場になっています。天塩川温泉の施設は今は村営ではなくなりましたが、宗谷本線は国鉄乗降場からJR駅に昇格以降、温泉とともに旅雑誌で取り上げられる機会も多くなり、一日数本の鉄道で訪れる人もちらほら見かけます。昨今では「だれもいない秘境駅で降りてみる」という鉄道愛好ジャンルも確立されてきたため、なんとかこのまま駅として存続させてほしいですね。幌延町はその町内のJR線「秘境駅」を逆手にとって、マニア向けや観光アイテムとしてうまく活用し、売り出しています。
@@Su---- 様情報提供ありがとうございます。上音威子府は全滅?ですね、中学に進学し最初に出来た友人が上音威子府からの満〇(まん〇)と言う名でした・・・※個人情報ですので全部は表示できませんね。筬島も当時の筬島小学校の校長の娘さんが通学して来ました、記憶が表れて来て、今楽しい気持ちです。色々思い出させて頂いたSuさんに感謝いたします。参考ですが、音威子府そばは都内では赤坂・千葉県内では茂原市で食することが出来ます、どちらも音威子府の看板ですね、特に茂原の蕎麦屋さんは音威子府の出身のようです。近い内訪れたいと考えています。最後に西野さんのご冥福をお祈りいたします。
@@northfox0912 さま上音威子府駅は昭和45年には無人駅化。天北線廃止時には既に無人地帯になっていたっぽいです。廃線後10年くらいは駅舎が残っていて、当初は工事現場のもの置き場みたいな使われ方をしていましたが、その後は冬季の雪の重みでどんどんひしゃげて行き、最後には倒壊したようです。放置しておくと危ないため、JRか行政がきれいに整地したのかもしれません。咲来や上音威子府を含め、最近ではネットで詳しい調査をしている方がいますので、こちらにご紹介しておきます。www.dodoshiryo-hokkaido.info/tedium/post/sakkuru-1990swww.dodoshiryo-hokkaido.info/tedium/post/kami-otoineppu上音威子府は昔の住民の方も集まって駅跡の碑の除幕式を行ったようです。nociw.localinfo.jp/pages/1039677/kamiotoineppu「音威子府そば」が東京に店を出した話はネットニュースでも紹介されていました。コロナが落ち着いたら私も訪れてみようと思っています。
この映像は三笠の鉄道博物館でも上映している。まだ幌内炭鉱も操業していて活気が残っている頃の貴重な映像です。幌内線の痕跡はここ数年で保存施設以外はほとんど消滅してしまいました。今見るとこんなに人がいたんだと驚いてしまいます。当時は高校一年生だったので学生が懐かしいです。唐松駅跡に温泉に行く途中でよく立ち寄りますが、草むらや林になっていて、今からでは想像も出来ない立派な道路があったり駅周辺の賑わいにも驚きました。弥生駅跡などは道路も舗装道路から砂利道同然にまで荒廃しています。
三笠鉄道村、幌内炭鉱景観公園を巡った中で唐松駅や三笠駅跡にも寄りました。現役時代の光景を見られて感激です。
この動画を見てる幌内小学校の人いますか。幌内小学校が焼ける前、後も知ってます。春日台に住んでました。今、Google mapで検索しましと、辛うじて我が家の跡地が見れました。小さい頃は、川は黒いと思っていて、本州に来て川はそんな色をしていないのを知りました。当時の友人の名前も薄らと覚えてるくらいの年齢になってしましました。中村君、千葉君、梅木君、水戸君。先生の名前も思い出しました。五十嵐先生、青木先生、日暮先生。どうしているやら。
私は住吉小でした。子供の頃住んでいた新栄町の炭住が写っていて、本当に懐かしかった~。墓参りに行ったついでに住んでいた所を車で行ってみたけど、野っぱらで何も無いですねぇ。高校生の時、友達の友達で日暮君って居ましたよ。ちなみに私は1960年生まれです。
naochi Sさん初めまして、たまたまこの動画を見つけて(2021,7/12)本当に懐かしい思いです私は本格的にPCを初めて16年程で現在は自作機を使用しています、またおそらく貴方より年上と思います(1945生)、私は北星町坂の上の長屋に住んでいました幌小中三笠高の卒業者です同級生にちびまる子ちゃんナレーターキートン 山田さんがおります現在の居住地は神奈川県ですが7,8年前に幌内に訪れた事があります当時を知る者としてその寂れように涙が溢れる思いでした当時の春日台坂の上あたりと幌中近辺の様相が変わり所在の確認が取れませんでしたが幌小を訪れ訪問者ノートに記名しましたがグラウンドは灌木が生い茂ていました、現在でも私の妻の兄弟や同級生が三笠市柏町近辺に住んでいますがこの年齢になると中々帰省もかなえません、貴方も健康に留意されお過ごしください。 長々とすみませんでした。
今という時代が先輩たちの努力の上にあると痛感します。とてもいい映像ですね。
10年以上前に引き払うまで祖父母が幌内線沿線に住んでおり、祖母がさよなら列車に乗ったそうです。ちなみに両親とも高校時代は幌内線で通学しており、デゴイチが牽いた文字通りの汽車だったとか。
最後の運行、当時私は専門学校生でした。普段からバスばかり利用していて、数年後三笠に帰ったらもう駅はないと…今思うと列車も利用してればよかったなと思いながら拝見しました。
鉄道好きという訳ではありませんが、何故かこの映像に出会いました。高校生まで栄町に住んでおり、小学生の頃はよく友達と幌内線の線路で遊んでいました。その後レールは撤去され、今では住宅が建ち並び当時の面影はほとんど残っていないようです。北海道に戻る機会があったら、栄町を散策したいと思いました。
@takafumikun1 そうです!今はもう風景変わっているでしょうが。マルタカ懐かしいですね!トラッドとかいう駄菓子屋さんもありましたね。
@takafumikun1 そうだったのですね!ラブホ街、今も営業しているのかな?僕は幼稚園から高校まで栄町に住んでいました。静かな住宅街で良いところですよね。懐かしすぎて、また住みたくなってきちゃいました笑
祖父の車で岩見沢への行き帰りに件のラブホ街通ってましたが、なんでこんなところにホテルがいっぱいあるんだろうと幼心に思ってました(笑)
本当に貴重な映像ですね。まさかUA-camで、鉄道村で流れている映像がみられるとは。とても感激です!鉄道村に行くと必ずこの映像を見てます。小さい頃から何回見たかわからないくらいです(^^;;鉄道村の方は、海援隊の「思えば遠くへ来たもんだ」とそれをもとにしたBGMが流れますけど、こちらの方は流れないのにびっくりしました(^^;;それはさておき、本当にこの映像はいつまでも残したいものですね。北海道の鉄道の歴史、それから幌内線、今はない沿線風景などがこうして映像で残っていることに感動します。
当時この電車に乗りました。貴重な映像有難うございます。
開国、日本で三番目の鉄道、炭鉱、そして時代の移り変わり等を見て、北海道の冬の厳しさは都会人には知るよしのないものながら、化石燃料が普及するまでの日本史を垣間見た気がいたしました。子供の頃に北海道出身だった小学校の担任の先生から、岩波新書(青)391「追われゆく坑夫たち」という書籍を中心に、炭鉱労働や部落の事を勉強したのを思い出させてくださいました。石炭は資源に乏しい日本を確かに支えてきたのですよね。そしてエネルギー需要の変革、環境問題を経て、今が2016年であることを この動画の40分あまりの中に凝縮して感じた次第です。貴重な映像を公開してくださり、ありがとうございました。
Jacob
石炭列車が通過した後には石炭拾いのおばちゃんが歩いていたっけ。懐かしい。
萱野駅近くに住んでいた祖母も若い頃に石炭列車からこぼれた石炭拾ってたと聞きました。それと小樽まで石炭運んだ帰りの貨車には干したニシンを積んでたそうです。
私が社会人になった年に廃止になってしまいました。研修で北海道に戻り、札幌までの通勤を自宅から許されましたが、朝の一番列車で札幌に向かう必要がありました。研修が終わり、東京に戻ると廃線。私を送り出してくれた幌内線でした。今も三笠に戻ると、三笠駅周辺をゆっくり散策します。いつまで戻れることか。
昭和36年入学した三笠高校の同級生に貴方と同姓の女子がいました。三笠小学校の映像も拝見しました。懐かしい思い出が甦ります。
@@竹原博愛 様こんにちは 三笠市の実家には両親が元気に過ごしております。私と同姓の方がとのことでしたが、残念ながら私の親戚では無いようです。私は、藤幼稚園・三笠小学校・三笠中学校・三笠高等学校と進みその後は北海道を出てしまいました。三笠の映像は、掲載可能な画像もあるので、故郷の紹介として載せたいと思います。メッセージを記載いただき、ありがとうございました。
@@super_dolphin_papa様 関西在住で若い頃は毎年出かけていましたが、今はネットで楽しんでいます。これからも期待しています。
@@竹原博愛 様関西方面は、仕事で伺うこともありますが、現在は全てテレワークになっています。伊丹空港、関西空港は、飛行機が好きなので、出張の時に立ち寄ることもあります。京都は、三笠高校の修学旅行で行ったきりで、旅行として行ったことは無いです。USJは行きました。また、何かしら掲載いたしますので、気長にお待ちいただければと思います。
自分は萱野駅近くの出身で萱野駅にもよく遊びに行ってましたが、電車が走ってる映像を見たのは初めてです!幌内線の駅跡は全部見てますが、本当に走ってたんですね。貴重な映像ありがとうございます。
萱野駅はライダーハウスになってますね。駅から線路沿い、三笠寄りの農業倉庫は当時のまま残ってますよ。すぐ近くの高速道路の脇には、地元の食素材を生かしたオシャレな「畑の中のレストラン」なんてのもできてます。
自分の母親もまさに萱野駅近くの出身で、10年以上前に引き払う前までは祖父母が住んでいましたが、小さい頃に祖母と幌内線に乗ったことがあります。萱野出身のお方をUA-camのコメント欄でお見掛けするとは思いませんでした!
萱野駅の前に叔父と叔母の家があったので、小学生の頃遊びに行った時、列車が通って行くのみた記憶がありますね。懐かしい思い出がよみがえりました。
萱野の駅裏手に斜め三笠の方向、友達がいた。
いつも2両編成でがらがらの列車が、最終日だけ6両編成で人を満載して走りました。皮肉ながらも悲しく感じました。
2両どころか1両もありましたが、今の北海道だと電化区間以外1両ばっかりですね😅
幌内線は石原裕次郎が亡くなる数日前に廃線になったんだなあ
これ、三笠鉄道記念館で見られるやつだ…!
幾春別駅から昭和30年三笠高校入学しで汽車通学で昭和33年から岩教大へ昭和35年迄、貴重な鉄路でお世話になりました。奔別の旭ヶ丘町そして月見ヶ丘の坂を選炭場やボイラー煙突・ズリ山を見ながら………懐かしいなー。
今残っている路線の方が営業係数高いのにな。残念でならない
鉄矢が抜けているのが少し寂しい… が、ありがたい。
父親が北海道の国鉄の保線区で仕事をしており、定年前の最後の仕事で胆振管内の線路撤去を担当したと話してました。昔は北海道も色々な路線がありましたよね。懐かしく拝見させていただきました。
萱野駅から右手に行った線路沿いに住んでいた祖父の年子の弟で自分から見た大叔父がやはり元国鉄の保線区で仕事しており、母が結婚前に保育士していた保育所の園児の親御さん(国鉄の機関士)とお知り合いだったそうで母がC57の写真パネル頂いて祖父母の家に飾ってありましたが、15年前に引き払った時にもらってきました。
国鉄からいまのJRに至るまで基幹的な路線として機能してゐる路線でももともと私営である場合が多い。意外といへばさうかもしれないが強制的に国有化せられてゐる路線も少なくない。
冒頭のDE10-1739まだ現役の機関車ですね。
釜石鉱山鉄道「三番目はうちだぞ」
なんでBGMがいちいち怖いんだw
この時代からさらに北海道は廃線は広がりやがて全ての電車廃止され北海道に鉄道は無くなるであろう。
昭和29年に幾春別で生まれました。多分5歳くらいまでいて、幌内小学校に入学式しました。幾春別では坂を下った先に生家の炭住があり、その先に炭鉱の浴場がありました。保育園、幼稚園などはなく近所の子供達と遊んでいたのでしょう。父が北炭の技術者だったので、幌内小学校から新幌内小学校に転校し、三笠中央中学校に入学し、夕張の千代田中学校に転校しました。学んだ小学校、中学校は全て廃校となり、寂しいですが、この映像を観て、華やかだった当時の三笠と元気だった父母を思い出しました。有難う。
弥生駅から三笠高校まで汽車通学したが、高校はF組だ。はるか昔の思い出になった。
2024,6,9 深夜😂
今から140年も前に三笠の炭鉱が開業し、北海道経済の大車輪として石炭産業が活況を極め、衰退し、現在に至る。その間、戦争や、炭鉱坑道で命を落とした多くの悲劇、人々の暮らしがあって今の廃れたすがたに胸が熱くなる。 坑口跡に立ち、足元の地底430mもの深くて狭い坑道で仕事した人、そこで非業の死を遂げた人々の心中に思いを馳せた。
1961年弥生駅から三笠高校まで汽車通学していた。
高校は坊主頭だった。生徒会長根本君と廃止運動した若さが懐かしい。
この映像の制作年が1988年というのも驚き。この頃はとっくにバブル景気で国内全国が浮かれまくって映像なんかも妙に明るくお茶られてたモノで溢れてた印象だったけど、他の古い映像と比べても違いが無い程硬派な演出なのが驚き。
今の若い人達は黒いダイヤと言う言葉を知っているのでしょうか?
まさに石炭は黒いダイヤでした。
そのダイヤに係わる方たちがこんなにいたのですね、私は1955年
音威子府の咲来の生まれです。
当時の暖房はこの黒い石炭でした、ストーブが真っ赤になり私たちを
温めてくれた思い出は永遠に忘れません。
貴重な映像ありがとうございます。
「黒いダイヤ」ならぬ「黒いそば」で有名だった音威子府駅の駅そば屋「常盤軒」のご主人が先日(2021.2.7)亡くなられ、店も閉業となりました。自分は2年前運よく食することができました。ホーム上にあった時代も知っています。咲来は国道沿いに「咲来そば」ののぼりを掲げた店ができ、観光客や地元の人でにぎわっていますね。上音威子府は残ってた駅舎も崩壊後はきれいに跡形もなく更地化。駅周辺の民家はゼロに。天塩川温泉、咲来、筬島の3駅はJR北海道から廃止を突き付けられましたが、村が頑張って存続プロジェクト掲げていますね。
@@Su---- 様
情報提供をありがとうございました。
昭和当時の常盤軒の自宅は新聞も扱っており、私も10歳の時から新聞配達をしていました。
当時は約5千人の村でしたので、それなりの配達軒数がありました。
音威子府小学校は1クラスでしたが中学からは筬島、上音威子府は音威子府に集まりいきなり2クラスになり楽しかった想いでがあります。
咲来は別でしたが・・・
当時は天塩川温泉駅はありませんでした。
今は、上音威子府も筬島も何もないのですね?
寂しくなりました、上音威子府にあった北海道大学の大学演習林もグーグルで確認できませんね。
@@northfox0912 さま
筬島は上音威子府に比べると国道がすぐ脇を通っていないものの、まだ数戸の民家や農家の方が住まれています。駅前は何もなくなりましたが、近くの小学校跡を「砂澤ビッキ美術館」にして作品を展示、穴場的な観光客の立ち寄り場になっています。天塩川温泉の施設は今は村営ではなくなりましたが、宗谷本線は国鉄乗降場からJR駅に昇格以降、温泉とともに旅雑誌で取り上げられる機会も多くなり、一日数本の鉄道で訪れる人もちらほら見かけます。昨今では「だれもいない秘境駅で降りてみる」という鉄道愛好ジャンルも確立されてきたため、なんとかこのまま駅として存続させてほしいですね。幌延町はその町内のJR線「秘境駅」を逆手にとって、マニア向けや観光アイテムとしてうまく活用し、売り出しています。
@@Su---- 様
情報提供ありがとうございます。
上音威子府は全滅?ですね、中学に進学し最初に出来た友人が上音威子府
からの満〇(まん〇)と言う名でした・・・※個人情報ですので全部は表示できませんね。
筬島も当時の筬島小学校の校長の娘さんが通学して来ました、記憶が表れて来て、今楽しい気持ちです。
色々思い出させて頂いたSuさんに感謝いたします。
参考ですが、音威子府そばは都内では赤坂・千葉県内では茂原市で食する
ことが出来ます、どちらも音威子府の看板ですね、特に茂原の蕎麦屋さんは音威子府の出身のようです。
近い内訪れたいと考えています。
最後に西野さんのご冥福をお祈りいたします。
@@northfox0912 さま
上音威子府駅は昭和45年には無人駅化。天北線廃止時には既に無人地帯になっていたっぽいです。廃線後10年くらいは駅舎が残っていて、当初は工事現場のもの置き場みたいな使われ方をしていましたが、その後は冬季の雪の重みでどんどんひしゃげて行き、最後には倒壊したようです。放置しておくと危ないため、JRか行政がきれいに整地したのかもしれません。
咲来や上音威子府を含め、最近ではネットで詳しい調査をしている方がいますので、こちらにご紹介しておきます。
www.dodoshiryo-hokkaido.info/tedium/post/sakkuru-1990s
www.dodoshiryo-hokkaido.info/tedium/post/kami-otoineppu
上音威子府は昔の住民の方も集まって駅跡の碑の除幕式を行ったようです。
nociw.localinfo.jp/pages/1039677/kamiotoineppu
「音威子府そば」が東京に店を出した話はネットニュースでも紹介されていました。コロナが落ち着いたら私も訪れてみようと思っています。
この映像は三笠の鉄道博物館でも上映している。まだ幌内炭鉱も操業していて活気が残っている頃の貴重な映像です。幌内線の痕跡はここ数年で保存施設以外はほとんど消滅してしまいました。今見るとこんなに人がいたんだと驚いてしまいます。当時は高校一年生だったので学生が懐かしいです。唐松駅跡に温泉に行く途中でよく立ち寄りますが、草むらや林になっていて、今からでは想像も出来ない立派な道路があったり駅周辺の賑わいにも驚きました。弥生駅跡などは道路も舗装道路から砂利道同然にまで荒廃しています。
三笠鉄道村、幌内炭鉱景観公園を巡った中で唐松駅や三笠駅跡にも寄りました。
現役時代の光景を見られて感激です。
この動画を見てる幌内小学校の人いますか。幌内小学校が焼ける前、後も知ってます。
春日台に住んでました。今、Google mapで検索しましと、辛うじて我が家の跡地が見れました。
小さい頃は、川は黒いと思っていて、本州に来て川はそんな色をしていないのを知りました。
当時の友人の名前も薄らと覚えてるくらいの年齢になってしましました。
中村君、千葉君、梅木君、水戸君。
先生の名前も思い出しました。
五十嵐先生、青木先生、日暮先生。
どうしているやら。
私は住吉小でした。子供の頃住んでいた新栄町の炭住が写っていて、本当に懐かしかった~。
墓参りに行ったついでに住んでいた所を車で行ってみたけど、野っぱらで何も無いですねぇ。
高校生の時、友達の友達で日暮君って居ましたよ。ちなみに私は1960年生まれです。
naochi Sさん初めまして、たまたまこの動画を見つけて(2021,7/12)本当に懐かしい思いです私は本格的にPCを初めて16年程で現在は自作機を使用しています、またおそらく貴方より年上と思います(1945生)、私は北星町坂の上の長屋に住んでいました幌小中三笠高の卒業者です同級生にちびまる子ちゃんナレーターキートン 山田さんがおります現在の居住地は神奈川県ですが7,8年前に幌内に訪れた事があります当時を知る者としてその寂れように涙が溢れる思いでした当時の春日台坂の上あたりと幌中近辺の様相が変わり所在の確認が取れませんでしたが幌小を訪れ訪問者ノートに記名しましたがグラウンドは灌木が生い茂ていました、現在でも私の妻の兄弟や同級生が三笠市柏町近辺に住んでいますがこの年齢になると中々帰省もかなえません、貴方も健康に留意されお過ごしください。
長々とすみませんでした。
今という時代が先輩たちの努力の上にあると痛感します。
とてもいい映像ですね。
10年以上前に引き払うまで祖父母が幌内線沿線に住んでおり、祖母がさよなら列車に乗ったそうです。
ちなみに両親とも高校時代は幌内線で通学しており、デゴイチが牽いた文字通りの汽車だったとか。
最後の運行、当時私は専門学校生でした。普段からバスばかり利用していて、数年後三笠に帰ったらもう駅はないと…今思うと列車も利用してればよかったなと思いながら拝見しました。
鉄道好きという訳ではありませんが、何故かこの映像に出会いました。
高校生まで栄町に住んでおり、小学生の頃はよく友達と幌内線の線路で遊んでいました。
その後レールは撤去され、今では住宅が建ち並び当時の面影はほとんど残っていないようです。
北海道に戻る機会があったら、栄町を散策したいと思いました。
@takafumikun1 そうです!今はもう風景変わっているでしょうが。マルタカ懐かしいですね!トラッドとかいう駄菓子屋さんもありましたね。
@takafumikun1 そうだったのですね!
ラブホ街、今も営業しているのかな?
僕は幼稚園から高校まで栄町に住んでいました。静かな住宅街で良いところですよね。
懐かしすぎて、また住みたくなってきちゃいました笑
祖父の車で岩見沢への行き帰りに件のラブホ街通ってましたが、なんでこんなところにホテルがいっぱいあるんだろうと幼心に思ってました(笑)
本当に貴重な映像ですね。まさかUA-camで、鉄道村で流れている映像がみられるとは。とても感激です!
鉄道村に行くと必ずこの映像を見てます。小さい頃から何回見たかわからないくらいです(^^;;
鉄道村の方は、海援隊の「思えば遠くへ来たもんだ」とそれをもとにしたBGMが流れますけど、こちらの方は流れないのにびっくりしました(^^;;
それはさておき、本当にこの映像はいつまでも残したいものですね。北海道の鉄道の歴史、それから幌内線、今はない沿線風景などがこうして映像で残っていることに感動します。
当時この電車に乗りました。貴重な映像有難うございます。
開国、日本で三番目の鉄道、炭鉱、そして時代の移り変わり等を見て、北海道の冬の厳しさは都会人には知るよしのないものながら、化石燃料が普及するまでの日本史を垣間見た気がいたしました。子供の頃に北海道出身だった小学校の担任の先生から、岩波新書(青)391「追われゆく坑夫たち」という書籍を中心に、炭鉱労働や部落の事を勉強したのを思い出させてくださいました。石炭は資源に乏しい日本を確かに支えてきたのですよね。そしてエネルギー需要の変革、環境問題を経て、今が2016年であることを この動画の40分あまりの中に凝縮して感じた次第です。
貴重な映像を公開してくださり、ありがとうございました。
Jacob
石炭列車が通過した後には石炭拾いのおばちゃんが歩いていたっけ。
懐かしい。
萱野駅近くに住んでいた祖母も若い頃に石炭列車からこぼれた石炭拾ってたと聞きました。それと小樽まで石炭運んだ帰りの貨車には干したニシンを積んでたそうです。
私が社会人になった年に廃止になってしまいました。研修で北海道に戻り、札幌までの通勤を自宅から許されましたが、朝の一番列車で札幌に向かう必要がありました。研修が終わり、東京に戻ると廃線。私を送り出してくれた幌内線でした。今も三笠に戻ると、三笠駅周辺をゆっくり散策します。いつまで戻れることか。
昭和36年入学した三笠高校の同級生に貴方と同姓の女子がいました。三笠小学校の映像も拝見しました。懐かしい思い出が甦ります。
@@竹原博愛 様
こんにちは 三笠市の実家には両親が元気に過ごしております。
私と同姓の方がとのことでしたが、残念ながら私の親戚では無いようです。
私は、藤幼稚園・三笠小学校・三笠中学校・三笠高等学校と進みその後は北海道を出てしまいました。
三笠の映像は、掲載可能な画像もあるので、故郷の紹介として載せたいと思います。
メッセージを記載いただき、ありがとうございました。
@@super_dolphin_papa様 関西在住で若い頃は毎年出かけていましたが、今はネットで楽しんでいます。これからも期待しています。
@@竹原博愛 様
関西方面は、仕事で伺うこともありますが、現在は全てテレワークになっています。
伊丹空港、関西空港は、飛行機が好きなので、出張の時に立ち寄ることもあります。
京都は、三笠高校の修学旅行で行ったきりで、旅行として行ったことは無いです。
USJは行きました。
また、何かしら掲載いたしますので、気長にお待ちいただければと思います。
自分は萱野駅近くの出身で萱野駅にもよく遊びに行ってましたが、電車が走ってる映像を見たのは初めてです!
幌内線の駅跡は全部見てますが、本当に走ってたんですね。貴重な映像ありがとうございます。
萱野駅はライダーハウスになってますね。駅から線路沿い、三笠寄りの農業倉庫は当時のまま残ってますよ。すぐ近くの高速道路の脇には、地元の食素材を生かしたオシャレな「畑の中のレストラン」なんてのもできてます。
自分の母親もまさに萱野駅近くの出身で、10年以上前に引き払う前までは祖父母が住んでいましたが、小さい頃に祖母と幌内線に乗ったことがあります。萱野出身のお方をUA-camのコメント欄でお見掛けするとは思いませんでした!
萱野駅の前に叔父と叔母の家があったので、小学生の頃遊びに行った時、列車が通って行くのみた記憶がありますね。
懐かしい思い出がよみがえりました。
萱野の駅裏手に斜め三笠の方向、友達がいた。
いつも2両編成でがらがらの列車が、最終日だけ6両編成で人を満載して走りました。皮肉ながらも悲しく感じました。
2両どころか1両もありましたが、今の北海道だと電化区間以外1両ばっかりですね😅
幌内線は石原裕次郎が亡くなる数日前に廃線になったんだなあ
これ、三笠鉄道記念館で見られるやつだ…!
幾春別駅から昭和30年三笠高校入学しで汽車通学で昭和33年から岩教大へ昭和35年迄、貴重な鉄路でお世話になりました。奔別の旭ヶ丘町そして月見ヶ丘の坂を選炭場やボイラー煙突・ズリ山を見ながら………懐かしいなー。
今残っている路線の方が営業係数高いのにな。
残念でならない
鉄矢が抜けているのが少し寂しい… が、ありがたい。
父親が北海道の国鉄の保線区で仕事をしており、定年前の最後の仕事で胆振管内の線路撤去を担当したと話してました。昔は北海道も色々な路線がありましたよね。懐かしく拝見させていただきました。
萱野駅から右手に行った線路沿いに住んでいた祖父の年子の弟で自分から見た大叔父がやはり元国鉄の保線区で仕事しており、母が結婚前に保育士していた保育所の園児の親御さん(国鉄の機関士)とお知り合いだったそうで母がC57の写真パネル頂いて祖父母の家に飾ってありましたが、15年前に引き払った時にもらってきました。
国鉄からいまのJRに至るまで基幹的な路線として機能してゐる路線でももともと私営である場合が多い。意外といへばさうかもしれないが強制的に国有化せられてゐる路線も少なくない。
冒頭のDE10-1739まだ現役の機関車ですね。
釜石鉱山鉄道「三番目はうちだぞ」
なんでBGMがいちいち怖いんだw
この時代からさらに北海道は廃線は広がりやがて全ての電車廃止され北海道に鉄道は無くなるであろう。