ドラマも小説もお話も教えられたことも聞いたこともない89歳です産まれて初めて「平家物語」を知りましたすみません。先生のご講義大変面白かったです有り難う御座いました。ホモサピエンス時代?から行われていたであろう「いくさ:戦争」について「戦の発端?」を勉強いたしました。世界中で何処も同じなんでしょうね、おとなしく考えてみると辛い歴史でありまた過去でありまた人類です。また一方でいろいろな矛盾いろいろな不充分に遭遇してもあきらめてはいけないとか聞きました(Boys be Ambitious)89歳でも希望を持ち続けたい気持ちです。
懐かしいお話を有難うございました。熊谷直実は、平敦盛を打ち取ったことで、世のはかなさを悟り、侍を辞して僧となって京都の黒谷に隠棲しましたが、そこには敦盛塚と呼ぶ箇所があって、直実と敦盛との墓が相対して立てられています。私の実家は、その近くでしたので、敦盛塚の周辺は、子供の頃の遊び場でした。
神戸の須磨寺に展示されている敦盛の青葉の笛を見ました。
先生の話は講談を聞いているみたいにとても引き込まれました。
特に平教経の話は面白かったです。
私が小学高学年の時に放送された「源義経」の大河ドラマでは、山口崇さんが演じていたと思うのですが、気性の激しい人というイメージだけはあったのですが、あんな最期を遂げた人と覚えていませんでした。でもあんなシーンがあったような。
「源義経」は大河ドラマにハマった時のもので、小学生ではあっても出演した人とか、人物名とか何故かよく覚えています。
日本の武士の精神の素晴らしさに感動しました。
ま
幼少期に歴史好きだった母がよく青葉の笛(熊谷次郎直実と平敦盛の話)をしてくれました。母はもう一つ、「七重八重、花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」の太田道灌の話が好きで、人生の無常、学問の大切さを教えてくれました。平成2年に母を亡くしましたが墓参りに行きたくなりました。
青葉の笛、とか太田道灌の、山吹の里の、話などゆかしい、たしなみのある
よいお母さんでしたね、今の若い母親たちのも見習ってもらいたいもんですね
@@武井健二-s5m
返信を読んでいたら込み上げるものがあり涙が止まらなくなってしまいました。
墓前では、お母さんの教育は間違ってなかったよ、こんなに褒めてくれる方がいたよと報告してきます。きっと喜んでくれることでしょう。有難うございました。
平家の方々は、
リーダーシップとして清盛の後を継げる程の器がなかったにせよ、
後白河天皇の言いつけを立派に守り抜いた格好だったのですね。
戦場においてもなお、民を思う心に対しても、心を打ちます。
源平合戦も平家物語もこれまで興味があまりなく、
教科書程度にほんの一部分しか知らなかったので、
これだけ聴いただけでも印象が全然変わりました。
ありがとうございました。
居ながらにして京都の歴史の深さを学びました。有り難うございます。
先生のお話ありがとうございます。
吉川英治の「新・平家物語」で日本史好きになり、小学校高学年から
高校一年までかけて、読破しました。が、部分部分は絵巻のように覚えていても、大きな意味合いはよくわかりませんでした。
熊野水軍とか、歴史教科書には出てこない軍団がいたり、おもしろろいのですが、歴史って知れば知るほど、大きな流れを見失うなうものです。
このユーチューブを見て、古代から現代における目に鱗がたくさんあって、とてもおもしろく拝聴しています。
僕の故郷,北九州市門司区甲辰神社に知盛のお墓がこっそりあります。
あの出光興産創業者の出光佐三も挙式を
あげられました。
ドラマも小説もお話も教えられたことも聞いたこともない89歳です産まれて初めて「平家物語」を知りましたすみません。先生のご講義大変面白かったです有り難う御座いました。ホモサピエンス時代?から行われていたであろう「いくさ:戦争」について「戦の発端?」を勉強いたしました。世界中で何処も同じなんでしょうね、おとなしく考えてみると辛い歴史でありまた過去でありまた人類です。また一方でいろいろな矛盾いろいろな不充分に遭遇してもあきらめてはいけないとか聞きました(Boys be Ambitious)89歳でも希望を持ち続けたい気持ちです。
萩原耕介様 89歳におなりになられて、UA-camを拝見されコメントされている事に驚きを隠せません!小名木先生同様尊敬致します。私の先祖は平家でありますが、この話しを聞き単に敗れた訳でなく、むしろ源氏側に対し相手を敬う武士道を貫いてくれた平家側に尊敬の念を抱き、平家側で良かったとまで感じました。萩原耕介様、長生きされて下さい。
面白かったです!
お話を聞いていると場面が目に浮かぶようでした。歴史の表面しか知らないことは罪だしもったいないと思います。
おもしろかった。
史跡めぐりしたいなあ。
落語「源平盛衰記」では、最後に平教経(のりつね)が平徳子(とくこ・清盛の娘)の吹く笛の音につられて踊ったことになっている.「踊る平家、久しからず」.
(キャラクターの教経が笛を持っているのは、この辺りのつながりかも).
私が皇居に勤労奉仕に行った昭和時代は、菊の御紋が入ったたばこ一箱を戴きました。
「耳なし芳一」を思い出しました。
楽しみにしてました😊
機会がありましたら、大和田健樹作詞、田村寅蔵作曲の「青葉の笛(敦盛と忠度)」も併せてご紹介ください。日本人の心を強く揺さぶる歌詞と深く染み入る旋律を多くの方に味わっていただけたら、と思います。
私も先祖が平家の出。源氏と平家の真実が分かりました。先祖は敗れたとは言え、勇ましくまた源氏を敬う武士道を貫いた壇ノ浦までの戦いを知り、むしろ平家側で良かったと思い、また教科書等では真逆の印象で思ってました。
ところで一つ質問なのですが、平家は桓武天皇の直系の末裔・源氏は清和天皇の直系の末裔とありますが、直系とは血族とは関係なく従えていた者の一族と言う意味なのでしょうか?
小名木先生、沢山の真実を語って下さり、心からありがとうございます。
小名木氏は現代の講談師・講釈師ですね。若者は国起こす半導体師を目指せるか?……燃え上がる光の如く、燃え盛る帆舟の如く、❝間奏❞万葉の大和心根と大いなる天之祖霊の御胸に、「国起こす礎として」今ここに立ち上がりぬ。「長谷部秀郷。End.Roll」
小名木先生お芝居上手いですよね。
聞き入っちゃいました!!!!
わたしの先祖は平家の士族だったそうなので、平家物語って親近感湧いてたんですよね。
でも実は源氏の味方してたりというのが驚きでした😮
確かうちの先祖は平家の味方の一族だったと思いますが💧
現文で読んでみようと思いますヽ(•̀ω•́ )ゝ
面白い
闘うことを忘れた民族、家は滅びる運命だ、源氏とのたたかいよりも白河上皇との戦いだったのでは
読んだなー新平家物語
二回
ただ何の知識もなくて読んだので深く知ることは出来なかったかもですが
それでも面白かった覚えはあります。
出来れば人物の名前にもっとカナを振って欲しかった(笑)
波の下にも都のさぶらふ
見るべきものは見ゆ
こんにちは
勤労奉仕 恩賜のタバコ 一族で吸いました
百田尚樹先生の「日本国記」を読みながら平家物語が気になっていたので、とても楽しく拝聴させていただきました。
あと、平教経として採用されてるイラストは義経のイラストですよ(^^)
そういえば北辰一刀流の千葉周作は千葉家の末裔だと・・・
先生の少し前の世代は立川文庫で真田十勇士だの猿飛佐助だの、霧隠才蔵だの・・・
義賊児雷也だの、石川五右衛門だのを読んでいたそうですが・・・
あるいは講談調の話し方はそのせいかもしれませんね。
やはり列伝体のほうが色々と身に付くんでしょうかね・・・
学校の授業より漫画のほうが・・・
畠山 重忠(はたけやま しげただ)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれた(畠山重忠の乱)。館は、鎌倉筋替橋の東南。存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。
北条 時政(ほうじょう ときまさ)
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士。北条氏の一門。武将。伊豆国の在地豪族の北条時家か北条時方(もしくは時兼)の子。北条政子、北条義時の父。鎌倉幕府の初代執権。家系は桓武平氏平直方流を称する北条氏であるが、直方流は仮冒で伊豆国の土豪出身という説もある。
土肥 実平(どひ さねひら / どい - )
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。桓武平氏良文流中村宗平の次男。相模土肥氏の祖であり、小早川氏の祖とされる。
相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を務め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた。現在のJR東海道本線湯河原駅から城願寺の辺りが居館であったと言われている。
梶原 景時(かじわら かげとき)
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人。
石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。源義経と対立した人物として知られるが、頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。
三浦 義澄(みうら よしずみ)
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦介義明の次男。十三人の合議制の一人。
千葉 常胤(ちば つねたね)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。千葉氏を豪族から御家人の地位まで登らしめた千葉家中興の祖といわれる。常胤以降、一族は諱に「胤」の一字を受け継ぐことが多くなる。鎌倉幕府成立に貢献した有力御家人の一人[1]。
上総介広常(かずさのすけひろつね)。
房総平氏惣領家頭首であり、源頼朝の挙兵に呼応して平家との戦いに臨んだ。
源 義重(みなもと の よししげ / 新田 義重 にった よししげ)
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。新田氏の祖。武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の孫。新田氏本宗家(上野源氏)の初代であり、上野国新田荘を本拠としたため新田義重と称する。新田義貞は仍孫にあたる。
源 義清(みなもと の よしきよ)
平安時代末期の武将。仁木氏、細川氏、戸賀崎氏(戸崎氏)の祖。足利義清。通称は矢田判官代(やたのはんがんだい)。足利氏の祖・源(足利)義康の庶長子として誕生[2]。本拠の下野国足利荘は嫡子である異母弟・義兼が継ぎ、庶長子である義清は伯父であり岳父の源(新田)義重の猶子となり、上野国八幡荘の矢田郷を獲得したという。
足利 尊氏(あしかが たかうじ)
鎌倉時代末期から室町時代(南北朝時代)前期の武将。鎌倉幕府の御家人。足利貞氏の次男。室町幕府初代征夷大将軍[2](在職:1338年 - 1358年)、足利将軍家の祖。姓名は源尊氏(みなもと の たかうじ)。
新田 義貞(にった よしさだ)
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。建武の元勲の1人。
楠木 正成(くすのき まさしげ)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。出自不詳。自称は橘氏後裔。息子に正行、正時、正儀。
元弘の乱(1331年 - 1333年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。建武の元勲の1人。
北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)
鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿、歴史家。著書の『神皇正統記』で名高い。源氏長者、南朝従一位准大臣、准三后。贈正一位。後醍醐天皇側近「後の三房」の筆頭。後村上天皇の治世下でも、興国5年/康永3年(1344年)春に吉野行宮に帰還してから、正平9年/文和3年4月17日(1354年5月10日)に没するまで、南朝を実質的に指揮した。建武の元勲の1人。
北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)
鎌倉時代末期から南北朝時代の南朝公卿・武将。『神皇正統記』を著した准三后北畠親房の長男。主著に『北畠顕家上奏文』。南朝従二位権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍、贈従一位右大臣。鎮守府大将軍として義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国に下向した(陸奥将軍府)。のち足利尊氏との戦い建武の乱が起こると、西上し、第一次京都合戦で新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。
名和 長年(なわ ながとし)
日本の南北朝時代の武将。伯耆(キ)守であったことから、同じく建武の新政下で重用された楠木正成、結城親光、千種忠顕と合わせて「三木一草」と称された。長年が発給した文書は現存数が少なく、その他の長年、及び名和氏に関する史料も少ない[4]。
日野 資朝(ひの すけとも)
鎌倉時代後期の公卿・儒学者・茶人。藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野俊光の次男。官位は従三位・権中納言、贈従二位。
中流貴族の次男に生まれ、自身の才学で上級貴族である公卿にまで昇った。
日野 俊基(ひの としもと)
鎌倉時代後期の公家。藤原北家真夏流日野家、刑部卿・日野種範の子。官位は従四位下・右中弁[2]、贈従三位。
日野 邦光(ひの くにみつ)
南北朝時代の公卿。藤原北家真夏流日野家、権中納言・日野資朝の子。官位は従三位・権中納言(南朝)、贈正三位。南朝に仕えた。幼名を阿新丸(くまわかまる)といい、『太平記』巻2「阿新殿事」に見える敵討の逸話によって古来著名である。
織田信長が好んだ舞踏敦盛に繋がるのか、金沢に旗源平という遊びの旗🙄壇ノ浦の平家は今の左巻きやな🤭義経の八艘跳びも実は逃亡やったの🤣
皇居勤労奉仕は運がよくなくても両陛下の御会釈はありますよ(記念品も貰えます)いい加減なことを言わないでください。
恩賜の煙草や紅白餅、西陣織りの小総など有名な物も多いですよね。
皇室関連の大規模行事があった際には周辺の官公庁や企業にも配られます。
ウチも恩賜の煙草30箱程入ったケースと、菊の御紋入り記念メダルを頂きました。
講談社ww
一ノ谷の合戦の解説が史実と全然違います、余りにも酷すぎる。しっかりと調べましたか?
もう少しまともな解説をお願いしますよ、平家物語だってそんな風に書いていない筈、先生しっかりして下さいよ。因みに壇ノ浦も解説がおかしい!
そんな事あんの?打たれるのに立ってる。。。?
誰もやらなくなるし
何の意味ががあんのかな。
あまり日本てそんな無駄な不審なことするのは
利益がない
治水もしてました。してないとは何事ですか?嘘で平家を貶めるのですか?