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ぼくはもうすぐ還暦です。もし、日本を滅ぼす敵が居たら宮古島の漁師さんのように自分が,我が皇国を守るために自分のできることをこれから考えていきます。歳を重ねても先ずは自分がこの国を守る,守れることを考えさせられる小名木先生の講座でした。我が国が攻められたら,自分のできることを考えて戦えることができるんだと考えさせられました。ありがとうございます。
古代の防人の頃から、日本人が故郷をまもろうとする精神は一貫していると思います。トロイの木馬ではありませんが、徳川末期から一部の不逞の下級武士が裏木戸を開け、多くの魔物を引き入れ、みずからも魔物の持ってきた金銀に目がくらんで売国奴、いわば成り歩となって、国内から日本を攪乱しはじめたわけです。今も、世界情勢を鑑みてまともな国防をコッカイという京劇(支那に操られているからこういう表現をとっています)で邪魔してくる。みな、生粋のにっぽんじんじゃないのです。いつまでもウジウジしてると、またテレビや新聞にダマされていると、ついに魔物に獲られます。魔物って言うのは、はっきり言えば欧州の王族・その縁戚で最も狡猾凶暴なろすけです。しなぽこは、前座ですよ。おお恐ろしい。
熱いお話し素晴らしいです甦れ日本甦れ日本人明るい未来を目指せ
久松五勇士、素晴らしい。今の日本の政治家に彼らのような愛国心を持ってもらいたい。
今の自民党にはモラル無き元コリアン達が大勢入り込んで日本が弱くなるようにしているのです。グローバリストの竹中平蔵は元コリアンであり派遣法制定により若者の収入減、不安定雇用により若者が結婚出来ず少子化しているのです。新しく立ち上がっていきた参政党等の新党を応援しましょう。
そ れ な
まったくお話しの通りだと思います、私は67才になりますが父は2度召集されて戦地に行きました、子供の頃には戦争の話しは殆んど聞かされて来ませんでした、講師の話で父を思い出しますこれからもお元気で、日本をかっこ良く。
昭和36年生まれのジジイです。私の小学校の授業なんてこんな感じでしたね。丁字戦法だとか興奮して聞いていました。自習の時間なんか教頭先生がやってきて真珠湾攻撃の奇襲の話をされていました。私の地元は関行男中佐の出身地ですが、中学校では朝礼で、校長先生が全校生徒を前に「戦争はいけない事だが命を懸けて国を守ることは素晴らしいことだと」話されていました。昔の話です。
かつて南米チリに留学していた時に、同級生から日露戦争の事をたくさん尋ねられました。聞けば、日本海海戦で活躍した巡洋艦にチリから売却された(日本は対価を支払っているが実質は譲渡だったと聞きました)艦があり、それをとても誇りに思っており今でもチリの歴史の授業でしっかり教わるのだと。小さな島国の日本が大国ロシアを打ち破り他の大国に衝撃を与えたのはもちろん、チリのような国もこの勝利で日本からとても勇気をもらった、例えその後アメリカに負けたと言っても常に日本の行動は他の小国を勇気づける正義の戦いだった、それらにとても感謝しているし、尊敬しているのだと、そしてそれを「いつか日本人に会うことがあれば直接感謝を伝えたかった」のだと何人もの人に言われ、当時は日本の歴史教育で(歴史は好きでしたがほぼ何も知らされずわからずだったので)知らなかった私はそれらを聞かされる度に何かとても恥ずかしく、ただそれらを聞くしか出来なかったのを覚えています。今思えば、せめて巡洋艦の件だけでもしっかりと礼を言えるくらいの知識は持っておくべきだったと恥じています。この件も、当時の日本を取り巻く世界情勢を理解する上でもわかりやすい分野かと思いますので、結美大学で取り扱っていただけたらと思います(私のようにしっかりと感謝を述べることも出来ずに帰国してしまう人をこれ以上増やさないためにも……)
追記しますチリでも、その隣国アルゼンチンでも、「日本海海戦」は「日本海海戦」でした。「東海海戦」などとは誰も言っていなかったし、言い換える事もしていなかったです。聞いた事も無かったです。「日本海」は隣国以外の世界中で、今も昔も「日本海」です。
教育大事ですね。
@@saveiro9947 世界的には対馬海戦と聞いたことがありますが、チリ、アルゼンチンでは日本海海戦ですね😋有り難う御座います😋
@@saveiro9947 アルゼンチンから譲渡された巡洋艦も参加し、そこにはアルゼンチン海軍の観戦武官が乗艦を。その報告書が近年、和訳され出版されていましたね。
いい話ですね。私もそんなロジックが明確にあるのにそれを知らない日本人に対してどう言ったらいいのか言わないのかその人達を馬鹿のままにさせておくこともできるけど言った方がいいのかバカは何も知らないからバカでいられるんだなあ
久松五勇士の様に、日本の本土から離れた離島の住民ですら当時の日本と国際的な情報やバルチック艦隊の情報と危険性を知り、命懸けでも知らせる価値があるとの認識していた状態や基礎教育がされていた所が凄いと思う。当時の欧米ですら庶民の識字率は低く、支配する側と支配される側に分かれていたので、欧米の庶民ですらここまでの教育と国家の状況を知らない中で生活をしていた事と比較すると、当時の日本国の凄さが分かる。
いつも先生の話し 勉強になります。現代を生きる日本の男として先人の日本人の方々に恥ずかしい事のないように生きるように自分自身務めたいと思います。いつもありがとうございます。
れ
こんな歴史初めて聞きました。私達日本国民一人一人がこの久松5勇士のような心持で、政治家を選ぶ姿勢。自分たち一人ひとりが問題なんですね。愚かな国民にならないように、意識改革勉強になります。
新婚生活のときに宮古島行きました。久松五勇士の碑に手を合わせました。遠い離島でも日本人の心があり、愛国心がある。後世に伝えたい日露戦争の小話ですね。
宮古島の人です久松五勇士は島の誇りです!!!!敵に銃撃されるかもしれない中、必死にサバニを漕いで「敵艦見ゆ」の電報を打った宮古の海人。本当にすごい!!!宮古島では「久松五勇士」のお菓子が売ってますので、是非共食べてみてください!ちなみに我が家の隣近所に「日本」という屋号の家がありますが、そこのじいさんが日露戦争の際、それは大変な愛国心の方で、日本の連戦連勝のニュースを聞くや、日の丸を掲げていたそうです。いつしかそれが屋号になり「ジャパン(日本)」になっているわけであります。
いや〜っ‼️いつもいつも楽しく拝聴させて頂いています。小名木弁士の講義は面白くて、しかも勉強になる‼️
海上自衛隊舞鶴教育隊に昭和39年に入隊しました。その頃の上官は殆どが特攻隊や、ミットウェー海戦の生き残りなど様々な経験をした上官ばかりでした。5月28日になると上官の上官が日本海戦の話をしてくれました。正に小名木先生の言う通の生き証人の話をしてくれましたよ。
11月23日は本当は勤労感謝の日ではない。戦後GHQに遠慮して適当にこじつけて決めた記念日。本来は新嘗祭(にいなめさい)。収穫した稲の初穂を神様にお供えして自然に感謝をする日。皇居内でもその儀式は行われています。
23日、仕事柄、氷川神社の近くを通ると稲穂を手にした方をみました。そういうことだったんですね。
日本のいいところを全部潰そうとしてるんですね
紀元節2/11明治節11/3新嘗祭11/23.......元の名称に戻して貰いたいですね。陸軍記念日海軍記念日は跡形すらない
世界には黙って元の祝日の名前にこそっと修正していけば??? 建国記念日もそうだしw 「の」でワンクッションいれてごまかすんじゃなしにw
小名木先生、頑張れ!これから、拝聴致します。
今週 横須賀の三笠公園に戦艦三笠を見学しに行くので、最高のタイミングでお話を聞けて嬉しいです✨子供数人を連れていくので、いかに凄い戦いをした船なのか、話して聞かせたいと思います❗
もう既に行ったのでしょうが、艦内に掲げられた久松五勇士の写真を見ましたか?海戦からずうっと後に撮られた写真で亡くなった人も居ますが皆良い面構えしてますよね。
私はついこの前の3連休最終日に行きましたおw
お話を聞いていて、聯合艦隊の乗組員全員は生きて帰るつもりはなかっただろうなと思いました。普通に考えたら倍の戦艦を持つ敵に勝てるわけがないので、差し違える覚悟で日本を守ってくださったのですね。その気持ちに涙が出てきました。日本がロシアに負けていたら、今も有色人種は全て植民地の人間として奴隷のような扱いだっただろうなと思うとその歴史の岐路に慄然たる思いがいたします。ちなみに小さい船で、大きい船に近づいて攻撃するという戦法は、確か元寇の時にも取られた戦法でしたね。先生のユーチューブ動画、いつも楽しみにしています。これからも素晴らしい歴史の話をよろしくお願いいたします。
ら、、、
海上自衛隊は軍隊、海上保安庁は警察組織 その意味で小名木先生のご意見は第1戦隊は第一線、第2戦隊は予備役みたいな感じだったのでは?
詳細な感動的な解説ありがとうございました。この後、何度も繰り返し見ようと思います。
私も繰り返し見ようと思いました。
鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日)日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。さらに枢密顧問官も兼任した。枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切って、ポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終戦へと導いた。日本海軍は対ロシア戦のため、アルゼンチンの発注でイタリアにおいて建造され竣工間近であった装甲巡洋艦「リバタビア」を急遽購入し[5]、同艦は「春日」と命名され、鈴木がその回航委員長に任じられた[5]。「春日」とその僚艦「日進」が日本に近付いた1904年(明治37年)2月、日本が仕掛ける形で日露戦争が始まった。日本に到着した鈴木はそのまま「春日」の副長に任命され[6]、黄海海戦にも参加している[7]。その後第五駆逐隊司令を経て[8]、翌1905年(明治38年)1月に第四駆逐隊司令に転じ[9]、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い[8]、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦である戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、同「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどの戦果を挙げ[10]、日本海海戦の勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献している[11]。この武勲により、功三級金鵄勲章を受章する。1912年(大正元年)、妻とよが33歳で死去。1914年(大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。翌年1915年(大正4年)、東京女子高等師範学校付属幼稚園の教員だったが、同幼稚園の児童を孫に持っていた菊池大麓の推薦により、裕仁の教育係を勤めていた足立たかと再婚。1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。海軍出の侍従長1929年(昭和4年)に昭和天皇と皇太后・貞明皇后の希望で、予備役となり侍従長に就任した。鈴木自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった[14]。一方で宮内省側でも青年将校らの動向は当時懸念されており、「若し軍人が宮中に武装してきたらどうするか」が論議されたときには、鈴木は即座に「軍人でもなんでも無法の者は撃て」と述べたという[。
日露戦争の勝利も不断の努力が実を結んだ勝利だったんですね魚雷による至近距離からの高度な戦いや宮古島からの必死の移動も命がけの勇敢な行動日本人は太古から続く勇敢な海洋民族かっこいいです!
宮古島の英雄の話しは、本当ですよ以前宮古島出身の人から聞いたことがあります。誇らしげ語っていました。またバルチック艦隊を発見した船は日本郵船の信濃丸です。
鈴木貫太郎といえば、NHKの坂の上の雲では赤井英和が演じてましたね。バルチック艦隊がどちらから来るか迷いに迷っていた秋山真之に対し「参謀がそんな顔してちゃいけないな」と、慣れない標準語で大根役者ぶりを発揮していました。彼が登場したのはこの1シーンのみ。名の知れた俳優をチョイ役で起用するのは何故だろうと思っていましたが、実はそれだけ重要な人物だったんですね。
1905年の日本海海戦で1995年に発明されて間もない無線電信器が大きな役割を果たしています。なんと1903年には通信距離1000kmの三六式無線電信機をほぼ全部の船に搭載極めて有利に戦闘を行えたようです。それと縦列では前向きの砲しか使えませんが横列では前向き、後ろ向きのすべての砲が使えるので大砲が2倍になります。
シンガポールに在住してした(からゆきさん)はバルチック艦隊を観て,祖国日本が滅びる嘆き悲しみ、持ってる全財産を日本公館に差し出したそうです。
T字戦法と言われても、ぼんやりとそうなの?としかおもわずいまいち実感が湧かなかったが、小舟での突撃戦法と聞いて妙に納得した。昔の来島だか村上だかの水軍の戦い方とか、開国の際の江戸防衛戦略などにも通じている戦い方で、日本らしい戦い方だと思い納得した。
素晴らしき‼️愛国日本民族に拍手一礼を‼️
日本海海戦のあとイギリスではドレットノート級 戦艦が建造され大艦巨砲のドクトリンが始まります。いつも楽しみにしております。
超弩級の語源と聞いた事があります。
実は戦艦三笠は横須賀に係留されています。私が子供の頃、30年以上前は乗り込むこともできました。そのとき、日本海海戦の映画を戦艦の中で見た記憶もあります。それぐらいの記憶しかありません。皆さんも横須賀に行った折には乗ってみてください。
係留というより固められてますよね。爆 このまえはとバスツアーで見てきました。
海戦に勝利したのは、将兵の勇気と厳しい訓練のたまものも勝利の大きな原因と思いますが、遥かバルト海からの厳しい長い航海で疲弊していた事と戦力差、日本を下手にみて侮っていた、二つの要因だと私は思います。歴史を振り返る時、良い点ばかりに、焦点を当て美化すると、同じ過ちを起こす要因に成ると思います。
WOWsで駆逐艦使ってますが基本はジグザグ航行で敵艦まで近づいて魚雷をぶっ放します巡洋艦が周りを固めている場合は無理に接近せずに味方の戦艦に巡洋艦の相手を任せますしかし、戦艦一隻の場合は積極的に攻めます。戦艦にとって最も脅威となる存在は空母の次に駆逐艦かもしれません。戦艦の主砲は滅多に駆逐艦には当たらないのです副砲も付いていますが威力が低いです。故に、高速で肉薄してくる駆逐艦は戦艦より脅威度が高いのです。
毎回楽しみに拝聴しております
政治家、マスコミ、財界人に、耳をかっぽじって聞いてもらいたいね。
本日天気晴朗なれども波高し当時いたかわからないけど、スパイを警戒していそうなくらい短文で必要最低限以上言わないこれがかっこいい
実家に古い写真が残っており、バルチック艦隊を迎え撃つため門司港から出港する艦に乗る前に家族で写真館で写真を撮ったものが残っています。
私は、海軍の信濃丸のバルチック艦隊発見は、知っていましたが名もない宮古島の漁民の方々の奮闘もあったのですね❗
子供のころ、久松五勇士の話を宮古島生まれ(1906)の父親から聞きました。
当時のロシア艦隊は3つ、 極東旅順艦隊 黒海艦隊 バルチック艦隊
ブラボー 小名木老🙌
古い字も戦後消されたものがたくさんある様ですね。意味を知ると自ずと精神性に作用するのも日本人の特性です。取り戻したいですね。
小名木先生のおっしゃる通りですね。全くどこの国の為に教科書検定があるのですかね。
やっぱいろんな視点から見て考えるのが大事やな
お話し、いつもありがとうございます。🙇
「日本をかっこよく」がテーマであるとしても、バルティック艦隊は劣悪な石炭しか積めておらず、船の速度も十分に出ない、乗組員は長期の船上待機で疲弊しており、最低最悪な状態であったことも少しは勝利の一因だと言及してほしかったです。
なぜ?
@@_masayan ホンマドス😋 日英同盟を締結することで英国の殖民地の港町は露国艦隊の寄港を拒否して、露国艦隊の水兵は疲労困憊しておりましたね。日本の戦略です✌️
日露戦争史を読むと、バルチック艦隊が遅れている間の訓練射撃で消費した弾の数よりも、実際に実戦で使った弾の方が少なかったそうです。すべてを言及するなら、そういうところも言及しないといけないことになりますものね。それらを総合して、「勝った方が強かった」で良いのかと思います。
正直ロシアはモンゴル帝国にずっと抑え込まれてて欲しかった位ソ連時代からずっと世界に迷惑かけまくり。
そのソ連を創ったのはユダヤの金融資本です。きちんと勉強しましょうね。
プーチン大統領は、少なくともDSに対峙すると思われます。もちろんロシアと日本の国益は異なります。
「天気晴朗なれども波高し」とは、敵艦との距離を測るには好天に恵まれてはいるが、波が高いから砲撃に於いては艦のピッチングによる砲身の上下に注意せよ、という戦闘での重要な注意だったと聞いた覚えがあります。「波高し」にどのような意味が込められていたのかも、しっかり伝えていきたいものです。
私が中学、高校で学んだ(50年前)日露戦争とは「陸戦での戦場になった中国北東部の人民は大変苦しんだ、いい迷惑だった。海戦ではかろうじて勝てた」程度で日本を悪者にしたつまらないものでした。全国の学校回って教えてほしいです。
私の小学生時代は敗戦後の自虐史観が開始された時でしたが、担任から日露戦争などの話を聞かされて、敗戦で沈みがちな気持ちを鼓舞されました。その時は、小名木氏が紹介された「T」字作戦は、「イ」号作戦と説明されました。多分、戦争中は、アルファベット禁止の時代なので、「T」を「イ」に変更して教えられた名残りでしょう。沖縄漁民がバルチック艦隊の第一発見者であることも話されて、記憶に残っていますが、小名木氏が説明されたように、無線設備のある島まで行くのに時間がかかり、その間にバルチック艦隊を日本の偵察船が発見して本隊に知らせたので、漁民達は、第一発見者とは見なされず、20年ほど後で、その功績が見直されて沖縄県知事に表彰され、顕彰碑が建てられたとの由です。 なお、以前の小名木氏の日清戦争の講義の際、日本側の戦死者13,000人のうち感染症の病死者が12,000人と説明されましたが、病死者12,000人のうち4,000人は脚気による死亡者です。陸軍の主食は白米だったが、軍医長の森鴎外は、感染症であることに固執したので、脚気での死亡者が多かったそうです。海軍の軍医長(名前は不詳)は、脚気の弊害に気付き、麦飯に変更したので、海軍では、脚気による死亡者は皆無だったそうです。江戸時代の江戸町民の主食は白米だったので脚気が多く、「江戸わずらい」と称されていたとの由。
日英同盟を締結したのが大きかった。
先生、いつもありがとうございます❗️感動しました💪👍
横須賀に在るイギリス製の船「戦艦三笠」の上で日英同盟を成立して欲しい。
んでまたアメリカが嫉妬してくるわな。
本当の歴史教育です。TKS。
まだ山本性になる前の高野五十六少尉が筒発で指を一本失ったのもこの戦いですよね。
T字戦法は砲戦力の有効活用より、取り逃がさないための運動。小部隊のウラジオストック艦隊の通商破壊も捕捉は難しく逃げ込まれると厄介
各種資料を見ると、日本海軍が相手の進行方向の頭を押さえようとする動きになっていますね。敵前大回頭で同航戦に持ち込んで相手に食い下がり、どちらかが斃れるまで殴り合う砲撃戦での決着を目論んだ艦隊司令部の意思が読み取れます。
@@akirakajiwara9478 旅順艦隊を迎撃した時、一斉回頭した時に逆を取られて危うく逃がしそうになった。この時は敵旗艦ブリッジへのラッキーヒットで敵の指揮が混乱してどうにかなった、この教訓への対応
世界の海戦史では1805年のトラファルガ―海戦のネルソン提督のニッチ(近接)戦法と日本海海戦の東郷提督の東郷タ―ンが銘記されると。T‐字戦法の言葉は作戦に記載されず、後の評論家の解釈と聞いておりますね😃 日本に天佑神助がありましました🙏
今日も勉強させて頂きました。全ての日本人で日本を守る。今の日本でそれが出来るでしょうか?疑問です。
教科書や小説では知りえない史実を、落語の真打のような語り口で語っていただきありがとうございます。とても、勉強になります。本当の意味で「大学」ですね!(^^)!
私
いやさすが……大和魂ってやつを感じた。久松五勇士この事友達に教えてみよ。
鬼貫かっこいい👹しかも千葉出身とか嬉しい❗️
坂の上の雲で,中国の村を行軍する陸軍の将校に老人がくってかかる場面があります。従軍記者の正岡子規は老人が何を言ったか隊長に尋ねると,「日本の兵隊さんありがとうと言った」と答え,真偽はともかく,いかにも日本軍が中国で略奪など非人道的なことをしていたと想像させられました。
坂の上の雲 いいドラマだったなぁ。広瀬の閉塞作戦は凄かった。坂の上のポニョもよかったが。
スタビライザーとか、ジャイロは船の揺れを制限する装置だったと思います。
結構前になるが、横須賀に着底して記念館になっている三笠を見に行った事があるが、意外と小さいことに驚いた。というか現代の艦艇が大きいことがよくわかる。
あの三笠をダンスパーティーなどいかがわしいことに使ったメリケン野郎めwと思うのは少なくないですよね。
三笠といったら戦艦かバレーボールの Mikasaかっていうくらいのw
話が講談調でとても面白く拝見しました。画中で歴史を見る「本体と部品」の話がありましたが「部品」として見てもいい動画です作者が触れなかった点で、一般人がWikipediaを研究しての視点を掲載させて下さい記、露艦の砲弾は、徹甲弾で甲板に穴を空けても沈まない(喫水付近に当たらなければ)日本の砲弾は、榴弾を併用しており、砲弾の中に火薬(下瀬火薬)を詰めて、先端にスイッチ(伊集院信管)を付けたもので着弾すると、甲板でも・海面でも、砲弾が破裂して破片が火の玉になって降り注いだ榴弾の砲弾は発射する砲筒の中で爆発する危険があったものだが、日本は改善・進化させていた燃える構造物の無い露艦が炎に包まれていた(日本艦に乗船の観戦武官アルゼンチンのガルシア大佐の談)敵前回頭は、露艦の砲弾の被害の程度を予測できていたから・・と思える(実際の三笠を見学しても・・)日清日露の頃は東アジアだけの局地戦で、特に露との戦では、露の歩兵は中央アジアを越えて、艦隊はケープタウンを越えて・・・で、陸戦は被害が甚大でも諦めずに補充の効く日本の方が有利でしたね(日本は朝鮮半島を障害なく運べるようになっていた)で、太平洋戦争では武器火力の運搬手段が格段に向上して(航空機・船舶・トラック・・)日本は真珠湾・シンガポールまで行けた、米は東京まで来れた(米はロンドン・ベルリンまで行けた)運搬補充する「産業力」が勝敗を決める・・・その見通しを誤ったのが日本の敗戦でしょう今はミサイルに核を載せて10分15分で到着する事に注意です
日露戦争に勝利していなかったら今の日本はないと思います。
日露戦争は、ロシアのバルチック艦隊は黒海に有り、日英同盟で日本に来るのに英国はスエズ運河を使わせ無かったので其れで遠回りして日本に行く事に成った。ロシアの艦隊が途中で英国の植民地で食料や水の補給を拒否されて日本に来た。其れでバルチック艦隊は食料や水も無く疲れ果てていた。
日露戦争が一番好きです。旅順艦隊撃滅、203髙地、乃木将軍、陸軍が有っての日本海海戦と思ってます。陸軍の活躍は教えない学校教育はおかしいな~って思います。
連合艦隊ってそう言う意味だったんだ
日本国の民の“こころ”… 確かに、受け取りました😃
航空主兵論が始まる前に戦艦が動く的になってしまっていたのか・・・駆逐艦恐るべし
日露戦争は日英同盟も大きな役割を果たしましたね。
天気晴朗なれど波高し=小型艦艇は使えません
戦艦と巡洋艦には船首に菊の御紋が付いていますが、消耗艦とされた駆逐艦や潜水艦には菊の御紋は付いていません。
日本艦隊の幸運なところは、下瀬火薬(ピクリン酸火薬)と伊集院信管の採用で、バルチック艦隊の戦闘艦の艦橋を灼熱の炎で覆いつくし焼き尽くしたことかな。バルチック艦隊は付随していた石炭運搬船を上海に帰していたので、結果として各艦の艦橋に備蓄石炭が山盛りになっていたのが、ロシア艦隊の不運かな。
現代のイージス艦が小さいのは強力なミサイルが出来たからでしょう。昔は大きな大砲を積むために艦が大きくなっていきました。
戦艦三笠の実物を昔観に行きましたが余りにも小さな船で驚きましたこんな船でも当時は大型戦艦と言われていましたが海戦で砲弾がまともに当たったら被害も甚大だったと思う船体に大きな穴が 戦艦でもたった30センチしか厚みのないのには驚きました
久松五勇士の話は三船敏郎主演の「日本海大海戦」と言う映画にも描かれていた。1969年の映画だけど、この映画が制作された当時はまだ、戦前や戦時中の日本を知ってる人達もご健在だったので、まともな歴史観で戦争映画が作られてた時代だったんだなって思った。近年の映画は基本的に「戦争は悪であり悲劇」としてしか描かず、しかも「反日的自虐史観」の戦争映画ばかりで、観ていても本当に浅はかでつまらないなぁ。
・三笠(みかさ)大日本帝国海軍の戦艦。日露戦争の日本海海戦で連合艦隊旗艦を務めた。神奈川県横須賀市に現存し、公開されており、世界の三大記念艦の一つとされる。1903年(明治36年)7月24日、皇族軍人の伏見宮博恭王(海軍大尉、9月26日に少佐進級)が「三笠」に着任、後部砲塔(主砲)を指揮する第三分隊長となった[11]。12月28日、「三笠」は連合艦隊旗艦となった。・クニャージ・スヴォーロフ ロシア海軍が日露戦争前に建造した前弩級戦艦であり、ボロジノ級の4番艦である。艦名はロシア語で「公爵スヴォーロフ」を意味し、ロシア帝国の大元帥に叙された、常勝不敗の伝説的な指揮官アレクサンドル・スヴォーロフに由来する。日本海海戦においてバルチック艦隊旗艦を務めたことで知られる。スワロフ、スウォーロフとも表記される。・連合艦隊2個以上の艦隊で編成された帝国海軍中核部隊である。明治初期、海軍はそれまで有力艦・新鋭艦で編成された主力部隊を「常備艦隊」、老巧艦などで編成された沿岸防備のための二線級部隊を「警備艦隊」と称していた。軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が警備艦隊を「西海艦隊」と改名し、常備艦隊と西海艦隊をもって「連合艦隊」を組織するという案を出した。これが連合艦隊編成のきっかけとなり、日清戦争開戦の6日後にはじめて連合艦隊が編成された。以降日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降常設となった。・旅順艦隊ロシア太平洋艦隊(以下旅順艦隊と記述)司令長官であり、優れた海軍軍人であったステパン・マカロフ中将が、日本海軍連合艦隊(以下連合艦隊と記述)との一連の戦闘により戦死する。その後任として司令長官職を代行することとなったヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将は、防備の堅い旅順港に出来るだけ閉じこもり、連合艦隊との直接的な衝突を避け艦隊を温存するという消極的な行動を見せていたが、極東総督エヴゲーニイ・アレクセーエフは旅順艦隊に対しウラジオストクへの回航を強く命令した。・バルチック艦隊バルト海に根拠地をおく旧ロシア帝国、旧ソ連邦、ロシア連邦の艦隊。日露戦争の際にその主力艦隊が極東に派遣され、明治三八年(一九〇五)五月の日本海海戦において日本の連合艦隊に攻撃され全滅した。・ウラジオ艦隊ロシア帝国の極東・太平洋方面における戦術的艦隊合同である。ウラジオストクに根拠地を置いたロシア帝国海軍バルト艦隊の分遣隊[注 3]のひとつで、一等巡洋艦4隻(装甲巡洋艦3隻と防護巡洋艦1隻)と補助巡洋艦1隻を主力として編成された。一般に、ウラジオストク艦隊とも呼ばれる。日本では浦塩艦隊(うらじおかんたい)とも呼ばれた。1903年に編成され、1906年に解隊した。日本海海戦交戦勢力 大日本帝国ーロシア帝国指導者・指揮官ー東郷平八郎大将 ロジェストヴェンスキー中将戦力戦艦4隻装甲巡洋艦8隻巡洋艦15隻他全108隻[注釈 1]戦艦8隻海防戦艦3隻装甲巡洋艦3隻巡洋艦6隻日本海海戦敵前大回頭14時05分、敵を南微東に距離8,000mで臨んだ時、東郷は急転回での左回頭(=取舵一杯の命令を下した)を命じ14時07分に先頭の三笠は回頭を終え東北東へ定針した。東郷による報告書ではこれを「敵の先頭を斜に圧迫し」としている。海戦図に拠れば「三笠」は右横ほぼ正面に「クニャージ・スヴォーロフ」を望んでいた。三十分間での「決着」「クニャージ・スヴォーロフ」は右に変針し並航となるようにし同航戦を試みた。しかし「オスリャービャ」は左列先頭で日本側の各艦から距離が近かった、3本煙突で狙われやすかったなどが原因で集中砲火を浴び、戦闘開始早々攻撃力を失った(日本側の報告では「須臾にして撃破せられ」)。この30分間の砲戦で、バルチック艦隊は攻撃力を甚だしく失った。秋山はこの30分間で勝敗は決したと評している。撃沈という戦果は無いが、損害を大きく与えられるのは追撃の時でありここからは追撃戦であったと述べている。ステパン・オーシポヴィチ・マカロフユリウス暦1848年12月27日(グレゴリオ暦1849年1月8日) - ユリウス暦1904年3月31日(グレゴリオ暦4月13日))ロシア帝国の海軍軍人、海軍中将、海洋学者。ロシア帝国科学アカデミー会員。海洋学に造詣の深い名将であったが、日露戦争において戦死した。ジノヴィー・ペトロヴィチ・ロジェストヴェンスキー1848年10月30日(グレゴリオ暦11月11日) - 1909年1月1日(グレゴリオ暦1月14日))は、帝政ロシア海軍の軍人、最終階級は少将。日露戦争においてバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)の司令長官を務めた。日露戦争に際し、バルチック艦隊(第二太平洋艦隊)を編成して喜望峰経由で極東の地へ赴き、旅順の第一太平洋艦隊の増援とすることを皇帝に提案し、少将ながらこの艦隊の司令長官になる。その後、中将に昇格。ドッガーバンク事件など多くの事件を起こしつつ、アフリカを廻り、マダガスカルで2ヶ月以上も滞在し、マラッカ海峡を経て極東の地に着く。アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン 1848年3月29日 - 1925年1月16日)帝政ロシアの軍人。ロシア帝国陸軍大臣、日露戦争時のロシア満州軍総司令官を歴任した。日本の軍事力を高く評価、日本との軍事衝突には一貫して反対していたが、日露戦争開戦直前にロシア満州軍総司令官に任命され日本軍と直接対決する事となる。しかし実戦指揮能力や決断力・判断力に乏しく日本軍に連戦連敗し、奉天会戦に敗北した責任を取らされロシア満州軍総司令官を罷免され第1軍司令官に降格される。日露戦争後は軍中央から退き、第一次世界大戦ではロシア北部方面軍・第5軍を指揮しドイツ軍と戦うが大敗する。1916年7月、トルケスタン総督に転出し、折しも発生した1916年蜂起を武力鎮圧。その後2月革命の際に逮捕投獄されるが危険人物と見なされずにすぐに釈放され、晩年は故郷で教師として静かな余生を送る。ロマン・イシドロヴィチ・コンドラチェンコ1857年10月12日 - 1904年12月12日)は、帝政ロシアの軍人。ウクライナ人。日露戦争当時のシベリア第7狙撃兵師団長。旅順攻囲戦における実質的なロシア軍側の司令官。陸軍中将。旅順要塞司令官アナトーリイ・ミハイロヴィチ・ステッセリ中将は、コンドラチェンコの能力を信頼しほとんどの要塞防衛作戦計画を一任したため、要塞築城や防衛計画に関して専門家である彼のセンスを遺憾なく発揮することができ、旅順要塞を短期間で永久防塁に固められた近代要塞に変貌させた。1904年、日本第3軍による旅順攻撃が開始された際にも常に前線に立ち部下将兵を鼓舞し続けた。旅順港内のロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)から艦載砲を陸揚げした上で各要塞に配備して砲撃力を高め、堡塁からの機関銃による十字砲火や手榴弾・地雷・高圧電流を流した有刺鉄線を効果的に利用して日本軍歩兵の銃剣突撃を防ぎ、弾薬不足を補うために海軍から余剰武器を転用し、機雷を敵兵に向けて投げ落としたり、大砲に魚雷を装填して砲撃するなどの戦法も工夫し、日本軍に大きな損害を与えることに成功する。 またステッセリから叙勲権代行の権利を受けると、功績のあった将兵に自ら勲章を授与して激励した。部下将兵もコンドラチェンコの姿に勇気付けられ、必死になって戦った。12月5日に203高地が陥落、日本軍による砲撃によって旅順艦隊が全滅する。それでも彼の闘争心は衰えず、将兵を励まし続けたので兵士の士気も高かった。12月15日、東鶏冠山北堡塁の将兵を激励する為、コンドラチェンコ自身が視察に訪れた。一人の兵士に勲章を与え激励し、その場から離れようとしたその時に、日本軍の二十八糎砲の砲弾の直撃を受け戦死した[1]。コンドラチェンコの戦死は将兵たちに衝撃を与え、士気が大きく低下したと言われる。ステッセリが旅順開城・降伏を申し出たのは1905年1月1日のことであった。司馬遼太郎によれば戊辰戦争での北海道の二俣口の土方歳三の奮戦と類似すると評された・補記「黒潮の闘魂」(久松五勇士)創価合唱団作詞作曲奥平潤SGI4,919 回視聴2011/09/10ーUA-cam
この頃の日本海軍は賢い人が多かった様です。それに比し太平洋戦争頃の海軍はかなり劣っていたのではないでしょうか。東郷、秋山、権兵衛さんなどがいればもうちょっと違った結果が出たのでは。例えば開戦しないとか、ミッドウェー海戦をなんとか出来たとか、負けるにしてもましな負け方があったとか。
それに関しては、林千勝先生の動画がお勧めです。もうその時代は情報戦だったのです。。
当時の旅順では兵站が途絶えて艦隊は動かせる状態でないことを陸軍は知っていたが,海軍がせかすので仕方なく旅順攻略戦を行ったという説もある。これが事実なら,日本は情報戦に疎く無駄に兵を殺したことになり,太平洋戦争でも同様の過ちを犯したことにならないか。
素晴らしい! 還暦過ぎましたが勉強になります。学校で教えて欲しかった。今の子供達に学校で教えるようにしたい。3年以内に中学校の歴史教科書に日露戦争の意義を載せたい。
私の中の対バルチック艦隊戦は、坂ノ上の雲だなぁ…司馬さんは主観が強いから真実を知りたかったです!乃木大将の評価を伺いたいですm(_ _)m
三笠で使用してた測距儀はドイツのカールツワイス社の製品です。世界最高の品質を誇ってます。日本では、ソニーが採用してます。2000倍の拡大機としてキャノン、ニコンの製本を比較しましたが、比較にならなく、3倍の価格であるカールツワイス社の製品を購入しました。
乃木希典ー6奉天会戦詳細は「奉天会戦」を参照乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加した。第3軍は、西から大きく回り込んでロシア軍の右側背後を突くことを命じられ、猛進した。ロシア軍の総司令官であるアレクセイ・クロパトキンは、第3軍を日本軍の主力であると判断していた。当初は東端の鴨緑江軍を第3軍と誤解して兵力を振り分けていた。このため、旅順での激闘での消耗が回復していない第3軍も、進軍開始直後には予定通り進撃していた。しかし、西端こそが第3軍であることに気付いたクロパトキンが兵力の移動を行い第3軍迎撃へ投入、激戦となった。第3軍の進軍如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長・児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ」と述べた。児玉に言われるまでもなく進撃を続けていた乃木は激怒し、自ら所在する第3軍の司令部を最前線にまで突出させたが、幕僚の必死の説得により、司令部は元の位置に戻された[120]。その後も第3軍はロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けたが、進撃を止めなかった。こうした第3軍の奮戦によって、クロパトキンは第3軍の兵力を実際の2倍以上と誤解し、また、第3軍によって退路を断たれることを憂慮して、日本軍に対して優勢を保っていた東部および中央部のロシア軍を退却させた。これを機に形勢は徐々に日本軍へと傾き、日本軍は奉天会戦に勝利した[121]。アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn,1878-1950)は、「奉天会戦における日本軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になった」と述べた[122]。凱旋乃木は、日露戦争の休戦を奉天の北方に位置する法庫門において迎えた。この際、参謀の津野田是重に対し、日露講和の行く末について、戦争が長引くことは日本にとってのみ不利であること、賠償金はとれないであろうこと、および、樺太すべてを割譲させることは困難であることなどを述べている[123]。明治38年(1905年)12月29日、乃木は法庫門を出発し、帰国の途についた。明治39年(1906年)1月1日から5日間、旅順に滞在して砲台を巡視した後、大連を出航し、1月10日には宇品に、1月14日に東京・新橋駅に凱旋した[124]。乃木は1月21日付で第3軍司令官を退任し[125]、1月26日付で軍事参議官に親補され[126]、大正元年(1912年)9月13日の死去まで在任した[126]。乃木は、日露戦争以前から国民に知られていたが[127]、「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した[128]旅順要塞を半年あまりで攻略したことや、二人の子息を戦争で亡くしたことから、乃木の凱旋は他の諸将とは異なる大歓迎となり、新聞も帰国する乃木の一挙手一投足を報じた[129][130][105]。乃木を歓迎するムードは高まっていたが、対する乃木は、日本へ帰国する直前、旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念から、「戦死して骨となって帰国したい」、「日本へ帰りたくない」、「守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい」、「蓑でも笠でもかぶって帰りたい」などと述べ、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断った[131][132]。東京に到着後、乃木は直ちに宮中に参内し、明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読した。復命書の内容は、第3軍が作戦目的を達成出来たのは天皇の御稜威(みいつ)、上級司令部の作戦指導および友軍の協力によるものとし、また将兵の忠勇義烈を讃え戦没者を悼む内容となっている。自らの作戦指揮については、旅順攻囲戦では半年の月日を要したこと、奉天会戦ではロシア軍の退路遮断の任務を完遂出来なかったこと、またロシア軍騎兵大集団に攻撃されたときはこれを撃砕する好機であったにも関わらず達成できなかったことを挙げて、甚だ遺憾であるとした。乃木は復命書を読み上げるうち、自関の念の為に涙声となった。乃木は明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べたとされる[133]。乃木に対する世界的賞賛乃木が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦であったため、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価された[134]。また、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置も賞賛の対象となり、特に水師営の会見におけるステッセルへの処遇については世界的に評価された[135]。乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。また子供の名前や発足した会の名称に「乃木」の名や乃木が占領した「旅順」(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した[136]。加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよびイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された[137]。
勝利の立役者は漁民こういう事が語り継がれる事が大事ですね
小名木先生~講談師入ってるう~(笑)
「下瀬火薬 (ピクリン酸)は酷かった」と ロシア水兵が記してました
日本海海戦が世界中に与えた影響は非常に大きかった。世界の中でも極東に位置する島国日本が、当時の巨大帝国であるロシアを打ち破った事実は世界に驚愕を与えた。私の祖母は明治23年生まれで、日本海海戦の砲声を直に耳にした一人、そして当時の囃子歌を教えられた。この戦争の結果は日本と言う存在を世界に知らしめた衝撃的な出来事として驚きを以て受け止められた。多分に幸運もあったが、巧みな戦略と技術でロシアバルチック艦隊を打ち破ったことは改めて日本軍の、ひいては日本人の実力を認めざるを得なくなった分岐点になった。囃子歌は「日本の乃木さんが凱旋す雀目白ロシア野蛮国クロパトキン金の玉負けて逃げるはチャンチャン坊棒で殴るは犬殺し吝ん坊の柿の種猫は炬燵でぐーぐーぐー・・・と言ったものでした。
乃木希典ー10人物・逸話元帥府に列せられる前に殉死現役の陸軍大将として軍事参議官に親補されていた乃木は、大正元年(1912年)に満62歳で殉死しており、前述の通り元帥府には列せられていない。しかし、乃木が殉死せずにもっと長生きしていれば、彼が元帥府に列せられていた可能性は高いとする説が有力である。明治40年(1907年)に乃木が学習院長を兼任した時に、陸軍将校分限令の規定によって予備役に編入されるべきところを、明治天皇の勅命により現役に留まるという異例の人事がなされたことについて、桑原嶽は「これは当然、終身現役である元帥への昇進の含みもあったからであろう。」と述べている[140]。もしも乃木が明治天皇に殉死していなかったら、乃木はいずれ元帥府に列せられたかどうかにつき、軍事史家の横山恵一は「歴戦の功将、人格高潔な武将という点で元帥を選考するなら、乃木は将に将たる器で、選に入ったのではないですか。」と述べ、秦郁彦は「〔乃木が〕生きていれば大正四年〔1915年〕に長谷川好道、貞愛親王、川村景明といっしょにね。」と述べている[219]。実際には前述の通り、乃木に元帥の称号を贈る話は生前からあったものの、本人がこれを固辞していたとも言われている。日露戦争における自責の念乃木は、日露戦争において多くの兵士を無駄に死なせてしまったことを心底から悔い、生涯にわたって自責の念に苛まれ続けていた。乃木が前述の通り元帥の称号を断り、最終的に割腹自殺したのも、日露戦争で多くの兵士を死なせたことに対する自責の念が最大の理由だったとする意見は根強い。前述の通り、日露戦争で多くの兵士を死なせたことを明治天皇に詫びた際にも、乃木は自ら死んで責任を取ることを希望したが、明治天皇は乃木の心情に理解を示しながらも、今はまだ死ぬべき時ではないと乃木を窘め、どうしても死にたいのであれば自分が死んだ後にしてもらいたい旨を述べて、その場は乃木の自殺を押しとどめたという。時間があれば戦死者の遺族を訪問し、「乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい」と述べていた[220]。東郷平八郎や上村彦之丞と共に、長野における戦役講演に招かれた際も乃木は勧められても登壇せず、その場に立ったまま、「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」とだけ言ったきり落涙し、それ以上何も言えなくなってしまった。その場に居合わせた人々も皆、乃木の心情を慮って涙したという[221]。乃木は日露戦争で二人の息子を失った後、陸軍時代の部下であった佐藤正から養子を勧められていたが、乃木自身は戦争で多くの兵士を死なせた自責の念から、養子を取らず乃木家を断絶させる覚悟であると手紙に綴っている[222]。戦傷病者へのいたわり廃兵院を再三にわたって見舞い、多くの寄付を行った。乃木は、他者から寄贈を受けた物があると、そのほとんどを廃兵院に寄贈した[223]。そのため、廃兵院の入院者は乃木を強く敬愛し、乃木の死を聞いて号泣する者もあり、特に重体の者以外は皆、乃木の葬儀に参列した。また、廃兵院内には、乃木の肖像画を飾った遥拝所が設けられた[223][224]。上腕切断者のために自ら設計に参加した乃木式義手を完成させ、自分の年金を担保に製作・配布した。この義手で書いたという負傷兵からのお礼を述べる手紙が乃木宛てに届き、乃木は喜んだという[225]。辻占売りの少年乃木大将と辻占売りの少年(旧乃木邸内)少将時代の乃木が、明治24年に訪れた金沢の街で辻占売りをする当時8歳の今越清三郎少年を見かけた。その少年が父親を亡くしたために幼くして一家の生計を支えていることを知り、少年を励まし当時としてはかなりの大金である金2円を渡した。少年は感激して努力を重ね、その後金箔加工の世界で名をなしたという逸話によるものである。乃木の人徳をしのばせる逸話であり、後に旅順攻囲戦を絡めた上で脚色され「乃木将軍と辻占売り」という唱歌や講談ダネで有名になった[226]。写真の銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和43年に六本木六丁目の旧毛利家の池(ニッカ池)の畔に建立され、その後六本木六丁目開発の際に旧乃木邸へ移されたものである。楠木正成に対する尊敬乃木は楠木正成を深く崇敬した。乃木の尽忠報国は正成を見習ったものである。乃木は正成に関する書物をできる限り集め考究した。正成が子の正行と別れた大阪府三島郡島本町の史蹟桜井駅跡の石碑の「楠公父子訣別之所」という文字は乃木によって書かれたものである。そして、乃木は楠木正成について次のような歌を詠んでいる[227]。いたづらに立ち茂りなば楠の木も いかでかほりを世にとどむべき根も幹も枝ものこらず朽果てし 楠の薫りの高くもあるかな国史学者・笹川臨風は、「乃木将軍閣下は楠公以降の第一人なり」と乃木を評しており[228]、伏見宮貞愛親王は乃木について、「乃木は楠木正成以上の偉い人物と自分は思う」「乃木の忠誠、決して楠公のそれに下るべからず」と述べている[229]。健康状態若い頃より歯が悪く、43歳の時点ですでに下顎に数本の歯が残っているのみであり、明治24年(1891年)には入れ歯が合わないことを理由とする休職願を陸軍大臣・高島鞆之助に提出している[230]。乃木が読んだ漢詩唱歌に詠われた水師営の棗の木(乃木邸内)乃木は静堂の号を持ち漢詩[注釈 29]をよくした。乃木が作成した漢詩の中でも『金州城外の作』、『爾霊山』および『凱旋』は特に優れているとされ、「乃木三絶」と呼ばれている[231]。以下、乃木が詠んだ漢詩の一部を挙げる[232]。金州城外の作山川草木轉荒涼 (山川草木転(うた)た荒涼)十里風腥新戰場 (十里風腥(なまぐさ)し新戦場)征馬不前人不語 (征馬前(すす)まず人語らず)金州城外立斜陽 (金州城外斜陽に立つ)爾霊山爾靈山嶮豈難攀 (爾霊山(にれいさん)の険豈に攀(よ)ぢ難からんや)男子功名期克艱 (男子功名克艱(こっかん)を期す)鐵血覆山山形改 (鉄血山を覆いて山形改まる)萬人齊仰爾靈山 (万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山)爾霊山は203高地の当字。爾(なんじ)の霊の山という掛詞である。凱旋皇師百萬征強虜 (皇師百萬強虜を征す)野戰攻城屍作山 (野戦攻城屍山を作(な)す)愧我何顔看父老 (愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父老に看(まみ)えん)凱歌今日幾人還 (凱歌今日幾人か還る)富岳を詠ず崚曾富嶽聳千秋 (崚曾たる富岳千秋に聳(そび)ゆ)赫灼朝暉照八州 (赫灼たる朝暉八洲を照らす)休説區々風物美 (説くを休めよ区々風物の美)地靈人傑是神州 (地霊人傑是れ神州)碑文の揮毫乃木希典が揮毫した文字を刻んだ石碑。篆書体による「彰忠碑」の文字の脇に「希典書」とある。荻窪八幡神社乃木は、個人の依頼による揮毫はほとんど断ったが、公共のための揮毫は快諾した。今も全国各地に残る日露戦争の戦没者を記念する「彰忠碑」や「忠魂碑」、桜井駅跡の「楠公父子訣別之所」碑(写真)などで、乃木の筆蹟を見ることができる。
毎回、よくご存じですね、ありがとうございます。
有機的の意味って深いんですね
ツッコミたい話が多く在るけど面白いよね。数百メートル先の大砲の弾って見えるの?見てから船が避けれるの?170キロを手漕ぎで?まぁでも、近接の下りは初めてで楽しくなりました!
この先生のお話はウソが多いと思います。巡洋艦が50mまで接近して魚雷を発射したから、云々はちとあり得ない感じ。恐らく火災が発生して相手からの攻撃もない状態でトドメを刺すために近づき魚雷を・・・というのを大袈裟に言ってるのだと思います。またケネディーの魚雷艇の部分も、何故に活躍したかの理由が全くウソですね。小さい方が良いとか。
有り難うございます。
三国志演義と正史三国志は全く別物という認識があるのに、史実と司馬史観は何故かごっちゃにされるの不思議ですよね。司馬遼太郎は歴史上の人物をモチーフにした息抜きエンタメ小説家ですよ?時代劇だって話を盛ったフィクションですよ?司馬遼太郎を読んで歴史を知った気になってたり、歴史認識が違うと怒ってる人はぶっちゃけおめでたいです(笑)
日本の教育に何らかの圧力が加わってるとしか思えんな。
バルチック艦隊は、ヨーロッパから日本海までろくな補給もなく、イギリス軍の妨害を受けながら何ヵ月もかけて移動したので、日本海に到着した時は疲弊して戦える状態では無くて、十分準備していた連合艦隊にあっさり負けたと理解しています。
乃木希典ー4※一将功成りて万骨枯る・・・乃木大将の人柄から言えば、これに耐え難かったのではなく、自身にとっての吉田松陰や久坂玄瑞がそうであったように切腹を以て青年への訓示としたのであろう。この点は「殉死」にみられる乃木象ではなく、それを現代的感覚で受け入れる現代人に不足があると見なければなるまい。これも玉木文之進の教育によるものか。一面的、短絡的な見方では彼は見えてこない。日露戦争への従軍馬蹄銀事件による休職台湾総督を辞任した後休職していた乃木は、明治31年(1898年)10月3日、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職した。しかし、明治34年(1901年)5月22日、馬蹄銀事件[注釈 15]に関与したとの嫌疑が乃木の部下にかけられたことから、休職を申し出て帰京した。表向きの休職理由は、リウマチであった[86]。乃木は計4回休職したが、この休職が最も長く、2年9か月に及んだ。休職中の乃木は、従前休職した際と同様、栃木県那須野石林にあった別邸で農耕をして過ごした。農業に勤しみつつも、乃木はそれ以外の時間はもっぱら古今の兵書を紐解いて軍事研究にいそしみ、演習が行われると知らされれば可能な限り出向き、軍営に寝泊まりしてつぶさに見学してメモをとり、軍人としての本分を疎かにはしなかった[87]。復職と出撃日露戦争開戦の直前である明治37年(1904年)2月5日、動員令が下り、乃木は留守近衛師団長として復職した。しかし、乃木にとって「留守近衛師団長」という後備任務は不満であった[88]。5月2日、第3軍司令官に任命された。乃木はこれを喜び、東京を出発する際に見送りに来た野津道貫陸軍大将に対し、「どうです、若返ったように見えませんか? どうも白髪がまた黒くなってきたように思うのですが」と述べている[89][90]。同年6月1日、広島県の宇品港を出航し、戦地に赴いた。[91]。乃木が第3軍の司令官に起用された背景について、「司令官のうち、薩摩出身者と長州出身者とを同数にすべきである」という、藩閥政治の結果とする主張もある[92]。しかし、第3軍編成時(乃木の任命時)の各軍司令官をみると、薩摩出身者は第1軍司令官の黒木為楨だけであって、薩長同数ではない。満州軍総司令官の大山巌や第4軍司令官の野津道貫も薩摩出身者だが、この2人が任命されたのは第3軍編成の後である。また、既に出征している第1軍および第2軍の師団長(中将クラス)6名のうち3名が長州出身者だが、薩摩出身者は1名に過ぎない。そもそも、乃木は中将では最古参の明治28年昇進組であり、同期の岡沢精が侍従武官長を拝命していたため、乃木の大将就任と第3軍司令官任命は、通常の序列人事として順当である。乃木が日本を発つ直前の5月27日、長男の勝典が南山の戦いにおいて戦死した。乃木は広島で勝典の訃報を聞き、これを東京にいる妻・静子に電報で知らせた。電報には、名誉の戦死を喜べと記載されていたといわれる。勝典の戦死は新聞でも報道された[93]。
細かいこと言ってすいませんがアルファベットのT字戦法じゃなくて、甲乙丙丁の丁字戦法ではなかったですかね?
また間違えてますね。
なるほど。
びっくりするオリジナルなご教示、ありがとうございました。
ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい、ありがたや、ありがたや、ありがたやですねぇ、ばんざーい🎵
おはようございますはじめましてむすび大学 先生渡邊弘幸と言います豊橋市に住んでいます独身、会社員、55歳精神身体障害者です頭が悪いです(泣)としおりで精神身体障害者、頭が悪くすみませんでした(泣)はじめてYou Tubeを拝見致しました(泣)僕は、頭が悪いですが中学生、高校生の時の社会、歴史時間の大好きでしたが一つ一つの内容がもっと知りたかったでしたが便利な世の中になってYou Tubeでこんなに詳しく日露戦争の内容が学校の時よりも分かり凄く嬉しいかったです(泣)先生(泣)もっともっと日露戦争の奥深くYou Tubeで配信して欲しいです学校のじぎょより先生の説明の方が僕は先生の説明の方がいいです✨例は違いますが何だか(泣)学校のじぎょは手抜きです(泣)韓国と同じです(泣)何でも手抜きはいけません✨アメリカのシールズ訓練学校でも教官が言われたこんなにをしっかりとやらなくて一人前のシールズ隊員にはなれません✨訓練でいい加減な事をやっていたら戦場では全滅です(泣)僕の会社の仕事場の亡くなった先輩、退職されました先輩が良く口酸っぱく人が観ていなくてもなまけていればすぐに分かると僕にご指導頂きました✨その先輩達は僕に対しては怒る、怒鳴るは一切言わないです✨ちゃんと仕事を先輩達が観ていなくてもちゃんとやっていたら怒りません。少しミスがあってもちゃんと謝れば怒る、怒鳴るは一切言わない先輩方々でした(泣)先輩方々が今現在(泣)いませんが僕の頭が悪いですが僕の頭の中、心の中にいつも見守ってくれています(泣)僕の先輩方々はやっぱり立派な先輩方々だなと思いました(泣)ロシアのオペラ劇場を建設しました日本人捕虜の方々が捕虜であってもロシア人兵隊が観ていなくて日本人捕虜の方々は真面目に仕事して立派なオペラ劇場を建設して捕虜でも後々に日本を恥じる用な建設をしてはいけない未来の日本に恥じる事が無い様にオペラ劇場を建設をして頂た先輩達に恥じない様にして行きたいです(泣)先生(泣)先生観たいに文章が書く事が出来なく、分かりにくくて本当にすみませんでした(泣)僕も(泣)文章を一生懸命に書いています(泣)本当に(泣)もっともっと日露戦争のその他の出来事を知りたです(泣)お忙しい中すみませんがYou Tubeを配信して欲しいです(泣)宜しくお願い致します(泣)お身体に十分お気をお気を付けて下さいm(_ _)m
高杉晋作がその戦法使ってましたね
最近の教科書は自虐というより、自己矮小化というべきか、大した歴史ではないよと言いたいのか、読まされる子供がかわいそうだ。文科省の程度が知れる。新東宝の明治天皇と日露戦争の映画を見せるべきだ。社運を賭けたと言われた映画です。
局部最適にもならない局部説明を教えるシステムと受験至上主義が学ぶ意欲をすいでいるのではないかなと私は感じます。沖縄独立とか言っている多くは外国勢力に影響されている人達も多いのでは?
子供の頃、雑誌でバルチック艦隊を破ったのは戦術もさることながら、新発明の下瀬火薬( ピクリン酸 )の威力によるものが大きかった。と読んだ記憶があります。一兵士として海戦に従軍していた山本五十六は敵の砲撃で指を失ったとかも書かれてました。
いやそうなんですよ、もっと詳しく言うと下瀬火薬のほかに世界初の実用になる無線電信装置、日本海軍の極めて高い練度と射撃精度、天気晴朗なれども波高しによる天候が味方したこと。敵はよく見えるけれど波は高いため下手糞だと当たらない、そのため極めて危険な敵前回頭をしてもあまり被弾しなかった。日本軍はお金がないため外すともったいないから、砲身に小銃を固定して徹底的に練習したそうです。したがって日本軍の砲弾はよく当たったそうです。これは日本軍の伝統で今でも自衛隊の射撃砲撃精度は極めて高いそうです。下瀬火薬は鉄と反応するため被弾すると鉄の構造物がみんな溶けたり曲がったりで沈まなくてもスクラップ状態だそうです。
当たれば火薬の爆発力で水兵が負傷し大砲打つ人居なくなりますからね。沈めなくても戦力無力化できる。
山本五十六は海軍兵学校を卒業しているので一兵士ではなく少尉候補生で日進乗組
ぼくはもうすぐ還暦です。
もし、日本を滅ぼす敵が居たら宮古島の漁師さんのように自分が,我が皇国を守るために自分のできることをこれから考えていきます。
歳を重ねても先ずは自分がこの国を守る,守れることを考えさせられる小名木先生の講座でした。
我が国が攻められたら,自分のできることを考えて戦えることができるんだと考えさせられました。
ありがとうございます。
古代の防人の頃から、日本人が故郷をまもろうとする精神は一貫していると思います。トロイの木馬ではありませんが、徳川末期から一部の不逞の下級武士が裏木戸を開け、多くの魔物を引き入れ、みずからも魔物の持ってきた金銀に目がくらんで売国奴、いわば成り歩となって、国内から日本を攪乱しはじめたわけです。今も、世界情勢を鑑みてまともな国防をコッカイという京劇(支那に操られているからこういう表現をとっています)で邪魔してくる。みな、生粋のにっぽんじんじゃないのです。いつまでもウジウジしてると、またテレビや新聞にダマされていると、ついに魔物に獲られます。
魔物って言うのは、はっきり言えば欧州の王族・その縁戚で最も狡猾凶暴なろすけです。しなぽこは、前座ですよ。おお恐ろしい。
熱いお話し素晴らしいです甦れ日本甦れ日本人明るい未来を目指せ
久松五勇士、素晴らしい。今の日本の政治家に彼らのような愛国心を持ってもらいたい。
今の自民党にはモラル無き元コリアン達が大勢入り込んで日本が弱くなるようにしているのです。グローバリストの竹中平蔵は元コリアンであり派遣法制定により若者の収入減、不安定雇用により若者が結婚出来ず少子化しているのです。新しく立ち上がっていきた参政党等の新党を応援しましょう。
そ れ な
まったくお話しの通りだと思います、私は67才になりますが父は2度召集されて戦地に行きました、子供の頃には戦争の話しは殆んど聞かされて来ませんでした、講師の話で父を思い出しますこれからもお元気で、日本をかっこ良く。
昭和36年生まれのジジイです。私の小学校の授業なんてこんな感じでしたね。丁字戦法だとか興奮して聞いていました。自習の時間なんか教頭先生がやってきて真珠湾攻撃の奇襲の話をされていました。私の地元は関行男中佐の出身地ですが、中学校では朝礼で、校長先生が全校生徒を前に「戦争はいけない事だが命を懸けて国を守ることは素晴らしいことだと」話されていました。昔の話です。
かつて南米チリに留学していた時に、同級生から日露戦争の事をたくさん尋ねられました。聞けば、日本海海戦で活躍した巡洋艦にチリから売却された(日本は対価を支払っているが実質は譲渡だったと聞きました)艦があり、それをとても誇りに思っており今でもチリの歴史の授業でしっかり教わるのだと。
小さな島国の日本が大国ロシアを打ち破り他の大国に衝撃を与えたのはもちろん、チリのような国もこの勝利で日本からとても勇気をもらった、例えその後アメリカに負けたと言っても常に日本の行動は他の小国を勇気づける正義の戦いだった、それらにとても感謝しているし、尊敬しているのだと、そしてそれを「いつか日本人に会うことがあれば直接感謝を伝えたかった」のだと何人もの人に言われ、当時は日本の歴史教育で(歴史は好きでしたがほぼ何も知らされずわからずだったので)知らなかった私はそれらを聞かされる度に何かとても恥ずかしく、ただそれらを聞くしか出来なかったのを覚えています。
今思えば、せめて巡洋艦の件だけでもしっかりと礼を言えるくらいの知識は持っておくべきだったと恥じています。
この件も、当時の日本を取り巻く世界情勢を理解する上でもわかりやすい分野かと思いますので、結美大学で取り扱っていただけたらと思います(私のようにしっかりと感謝を述べることも出来ずに帰国してしまう人をこれ以上増やさないためにも……)
追記します
チリでも、その隣国アルゼンチンでも、「日本海海戦」は「日本海海戦」でした。
「東海海戦」などとは誰も言っていなかったし、言い換える事もしていなかったです。聞いた事も無かったです。
「日本海」は隣国以外の世界中で、今も昔も「日本海」です。
教育大事ですね。
@@saveiro9947
世界的には対馬海戦と聞いたことがありますが、チリ、アルゼンチンでは日本海海戦ですね😋
有り難う御座います😋
@@saveiro9947 アルゼンチンから譲渡された巡洋艦も
参加し、そこにはアルゼンチン海軍の観戦武官が
乗艦を。
その報告書が近年、和訳され出版されていましたね。
いい話ですね。
私もそんなロジックが明確にあるのに
それを知らない日本人に対して
どう言ったらいいのか言わないのか
その人達を馬鹿のままにさせておくこともできるけど
言った方がいいのか
バカは何も知らないからバカでいられるんだなあ
久松五勇士の様に、日本の本土から離れた離島の住民ですら当時の日本と国際的な情報やバルチック艦隊の情報と危険性を知り、命懸けでも知らせる価値があるとの認識していた状態や基礎教育がされていた所が凄いと思う。
当時の欧米ですら庶民の識字率は低く、支配する側と支配される側に分かれていたので、欧米の庶民ですらここまでの教育と国家の状況を知らない中で生活をしていた事と比較すると、当時の日本国の凄さが分かる。
いつも先生の話し 勉強になります。
現代を生きる日本の男として
先人の日本人の方々に恥ずかしい事のないように生きるように自分自身務めたいと思います。いつもありがとうございます。
れ
こんな歴史初めて聞きました。私達日本国民一人一人がこの久松5勇士のような心持で、政治家を選ぶ姿勢。
自分たち一人ひとりが問題なんですね。愚かな国民にならないように、意識改革勉強になります。
新婚生活のときに宮古島行きました。久松五勇士の碑に手を合わせました。
遠い離島でも日本人の心があり、愛国心がある。
後世に伝えたい日露戦争の小話ですね。
宮古島の人です
久松五勇士は島の誇りです!!!!
敵に銃撃されるかもしれない中、必死にサバニを漕いで「敵艦見ゆ」の電報を打った宮古の海人。本当にすごい!!!
宮古島では「久松五勇士」のお菓子が売ってますので、是非共食べてみてください!
ちなみに我が家の隣近所に「日本」という屋号の家がありますが、そこのじいさんが日露戦争の際、それは大変な愛国心の方で、日本の連戦連勝のニュースを聞くや、日の丸を掲げていたそうです。いつしかそれが屋号になり「ジャパン(日本)」になっているわけであります。
いや〜っ‼️いつもいつも楽しく拝聴させて頂いています。小名木弁士の講義は面白くて、しかも勉強になる‼️
海上自衛隊舞鶴教育隊に昭和39年に入隊しました。その頃の上官は殆どが特攻隊や、ミットウェー海戦の生き残りなど様々な経験をした上官ばかりでした。
5月28日になると上官の上官が日本海戦の話をしてくれました。
正に小名木先生の言う通の生き証人の話をしてくれましたよ。
11月23日は本当は勤労感謝の日ではない。戦後GHQに遠慮して適当にこじつけて決めた記念日。
本来は新嘗祭(にいなめさい)。収穫した稲の初穂を神様にお供えして自然に感謝をする日。
皇居内でもその儀式は行われています。
23日、仕事柄、氷川神社の近くを通ると稲穂を手にした方をみました。そういうことだったんですね。
日本のいいところを全部潰そうとしてるんですね
紀元節2/11明治節11/3新嘗祭11/23.......元の名称に戻して貰いたいですね。陸軍記念日海軍記念日は跡形すらない
世界には黙って元の祝日の名前にこそっと修正していけば??? 建国記念日もそうだしw 「の」でワンクッションいれてごまかすんじゃなしにw
小名木先生、頑張れ!
これから、拝聴致します。
今週 横須賀の三笠公園に戦艦三笠を見学しに行くので、最高のタイミングでお話を聞けて嬉しいです✨
子供数人を連れていくので、いかに凄い戦いをした船なのか、話して聞かせたいと思います❗
もう既に行ったのでしょうが、艦内に掲げられた久松五勇士の写真を見ましたか?海戦からずうっと後に撮られた写真で亡くなった人も居ますが皆良い面構えしてますよね。
私はついこの前の3連休最終日に行きましたおw
お話を聞いていて、聯合艦隊の乗組員全員は生きて帰るつもりはなかっただろうなと思いました。普通に考えたら倍の戦艦を持つ敵に勝てるわけがないので、差し違える覚悟で日本を守ってくださったのですね。
その気持ちに涙が出てきました。
日本がロシアに負けていたら、今も有色人種は全て植民地の人間として奴隷のような扱いだっただろうなと思うとその歴史の岐路に慄然たる思いがいたします。
ちなみに小さい船で、大きい船に近づいて攻撃するという戦法は、確か元寇の時にも取られた戦法でしたね。
先生のユーチューブ動画、いつも楽しみにしています。これからも素晴らしい歴史の話をよろしくお願いいたします。
ら、、、
海上自衛隊は軍隊、海上保安庁は警察組織 その意味で小名木先生のご意見は第1戦隊は第一線、第2戦隊は予備役みたいな感じだったのでは?
詳細な感動的な解説ありがとうございました。この後、何度も繰り返し見ようと思います。
私も繰り返し見ようと思いました。
鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日)
日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従一位勲一等功三級男爵。海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。予備役編入後に侍従長に就任。さらに枢密顧問官も兼任した。枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。陸軍の反対を押し切って、ポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦を終戦へと導いた。
日本海軍は対ロシア戦のため、アルゼンチンの発注でイタリアにおいて建造され竣工間近であった装甲巡洋艦「リバタビア」を急遽購入し[5]、同艦は「春日」と命名され、鈴木がその回航委員長に任じられた[5]。
「春日」とその僚艦「日進」が日本に近付いた1904年(明治37年)2月、日本が仕掛ける形で日露戦争が始まった。日本に到着した鈴木はそのまま「春日」の副長に任命され[6]、黄海海戦にも参加している[7]。その後第五駆逐隊司令を経て[8]、翌1905年(明治38年)1月に第四駆逐隊司令に転じ[9]、持論だった高速近距離射法を実現するために猛訓練を行い[8]、部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦である戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、同「ナヴァリン」、同「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどの戦果を挙げ[10]、日本海海戦の勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献している[11]。この武勲により、功三級金鵄勲章を受章する。1912年(大正元年)、妻とよが33歳で死去。
1914年(大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。翌年1915年(大正4年)、東京女子高等師範学校付属幼稚園の教員だったが、同幼稚園の児童を孫に持っていた菊池大麓の推薦により、裕仁の教育係を勤めていた足立たかと再婚。1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。
海軍出の侍従長
1929年(昭和4年)に昭和天皇と皇太后・貞明皇后の希望で、予備役となり侍従長に就任した。鈴木自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。
昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった[14]。一方で宮内省側でも青年将校らの動向は当時懸念されており、「若し軍人が宮中に武装してきたらどうするか」が論議されたときには、鈴木は即座に「軍人でもなんでも無法の者は撃て」と述べたという[。
日露戦争の勝利も不断の努力が実を結んだ勝利だったんですね
魚雷による至近距離からの高度な戦いや宮古島からの必死の移動も命がけの勇敢な行動
日本人は太古から続く勇敢な海洋民族かっこいいです!
宮古島の英雄の話しは、本当ですよ以前宮古島出身の人から聞いたことがあります。誇らしげ語っていました。またバルチック艦隊を発見した船は日本郵船の信濃丸です。
鈴木貫太郎といえば、NHKの坂の上の雲では赤井英和が演じてましたね。バルチック艦隊がどちらから来るか迷いに迷っていた秋山真之に対し「参謀がそんな顔してちゃいけないな」と、慣れない標準語で大根役者ぶりを発揮していました。彼が登場したのはこの1シーンのみ。名の知れた俳優をチョイ役で起用するのは何故だろうと思っていましたが、実はそれだけ重要な人物だったんですね。
1905年の日本海海戦で1995年に発明されて間もない無線電信器が大きな役割を果たしています。なんと1903年には通信距離1000kmの三六式無線電信機をほぼ全部の船に搭載極めて有利に戦闘を行えたようです。それと縦列では前向きの砲しか使えませんが横列では前向き、後ろ向きのすべての砲が使えるので大砲が2倍になります。
シンガポールに在住してした(からゆきさん)はバルチック艦隊を観て,祖国日本が滅びる嘆き悲しみ、持ってる全財産を日本公館に差し出したそうです。
T字戦法と言われても、ぼんやりとそうなの?としかおもわずいまいち実感が湧かなかったが、小舟での突撃戦法と聞いて妙に納得した。
昔の来島だか村上だかの水軍の戦い方とか、開国の際の江戸防衛戦略などにも通じている戦い方で、日本らしい戦い方だと思い納得した。
素晴らしき‼️
愛国日本民族に
拍手一礼を‼️
日本海海戦のあとイギリスではドレットノート級 戦艦が建造され大艦巨砲のドクトリンが始まります。いつも楽しみにしております。
超弩級の語源と聞いた事があります。
実は戦艦三笠は横須賀に係留されています。私が子供の頃、30年以上前は乗り込むこともできました。そのとき、日本海海戦の映画を戦艦の中で見た記憶もあります。それぐらいの記憶しかありません。皆さんも横須賀に行った折には乗ってみてください。
係留というより固められてますよね。爆 このまえはとバスツアーで見てきました。
海戦に勝利したのは、将兵の勇気と厳しい訓練のたまものも勝利の大きな原因と思いますが、遥かバルト海からの厳しい長い航海で疲弊していた事と戦力差、日本を下手にみて侮っていた、二つの要因だと私は思います。歴史を振り返る時、良い点ばかりに、焦点を当て美化すると、同じ過ちを起こす要因に成ると思います。
WOWsで駆逐艦使ってますが
基本はジグザグ航行で敵艦まで近づいて魚雷をぶっ放します
巡洋艦が周りを固めている場合は無理に接近せずに味方の戦艦に巡洋艦の相手を任せます
しかし、戦艦一隻の場合は積極的に攻めます。
戦艦にとって最も脅威となる存在は空母の次に駆逐艦かもしれません。
戦艦の主砲は滅多に駆逐艦には当たらないのです副砲も付いていますが威力が低いです。故に、高速で肉薄してくる駆逐艦は戦艦より脅威度が高いのです。
毎回楽しみに拝聴しております
政治家、マスコミ、財界人に、耳をかっぽじって聞いてもらいたいね。
本日
天気晴朗
なれども
波高し
当時いたかわからないけど、スパイを警戒していそうなくらい短文で必要最低限以上言わないこれがかっこいい
実家に古い写真が残っており、バルチック艦隊を迎え撃つため門司港から出港する艦に乗る前に家族で写真館で写真を撮ったものが残っています。
私は、海軍の信濃丸のバルチック艦隊発見は、知っていましたが名もない宮古島の漁民の方々の奮闘もあったのですね❗
子供のころ、久松五勇士の話を宮古島生まれ(1906)の父親から聞きました。
当時のロシア艦隊は3つ、
極東旅順艦隊
黒海艦隊
バルチック艦隊
ブラボー 小名木老🙌
古い字も戦後消されたものがたくさんある様ですね。意味を知ると自ずと精神性に作用するのも日本人の特性です。取り戻したいですね。
小名木先生のおっしゃる通りですね。全くどこの国の為に教科書検定があるのですかね。
やっぱいろんな視点から見て考えるのが大事やな
お話し、いつもありがとうございます。🙇
「日本をかっこよく」がテーマであるとしても、バルティック艦隊は劣悪な石炭しか積めておらず、船の速度も十分に出ない、乗組員は長期の船上待機で疲弊しており、最低最悪な状態であったことも少しは勝利の一因だと言及してほしかったです。
なぜ?
@@_masayan
ホンマドス😋 日英同盟を締結することで英国の殖民地の港町は露国艦隊の寄港を拒否して、露国艦隊の水兵は疲労困憊しておりましたね。日本の戦略です✌️
日露戦争史を読むと、バルチック艦隊が遅れている間の訓練射撃で消費した弾の数よりも、実際に実戦で使った弾の方が少なかったそうです。すべてを言及するなら、そういうところも言及しないといけないことになりますものね。
それらを総合して、「勝った方が強かった」で良いのかと思います。
正直ロシアはモンゴル帝国にずっと抑え込まれてて欲しかった位
ソ連時代からずっと世界に迷惑かけまくり。
そのソ連を創ったのはユダヤの金融資本です。
きちんと勉強しましょうね。
プーチン大統領は、少なくともDSに対峙すると思われます。もちろんロシアと日本の国益は異なります。
「天気晴朗なれども波高し」とは、敵艦との距離を測るには好天に恵まれてはいるが、波が高いから砲撃に於いては艦のピッチングによる砲身の上下に注意せよ、という戦闘での重要な注意だったと聞いた覚えがあります。「波高し」にどのような意味が込められていたのかも、しっかり伝えていきたいものです。
私が中学、高校で学んだ(50年前)日露戦争とは「陸戦での戦場になった中国北東部の人民は大変苦しんだ、いい迷惑だった。海戦ではかろうじて勝てた」程度で日本を悪者にしたつまらないものでした。全国の学校回って教えてほしいです。
私の小学生時代は敗戦後の自虐史観が開始された時でしたが、担任から日露戦争などの話を聞かされて、敗戦で沈みがちな気持ちを鼓舞されました。その時は、小名木氏が紹介された「T」字作戦は、「イ」号作戦と説明されました。多分、戦争中は、アルファベット禁止の時代なので、「T」を「イ」に変更して教えられた名残りでしょう。沖縄漁民がバルチック艦隊の第一発見者であることも話されて、記憶に残っていますが、小名木氏が説明されたように、無線設備のある島まで行くのに時間がかかり、その間にバルチック艦隊を日本の偵察船が発見して本隊に知らせたので、漁民達は、第一発見者とは見なされず、20年ほど後で、その功績が見直されて沖縄県知事に表彰され、顕彰碑が建てられたとの由です。
なお、以前の小名木氏の日清戦争の講義の際、日本側の戦死者13,000人のうち感染症の病死者が12,000人と説明されましたが、病死者12,000人のうち4,000人は脚気による死亡者です。陸軍の主食は白米だったが、軍医長の森鴎外は、感染症であることに固執したので、脚気での死亡者が多かったそうです。海軍の軍医長(名前は不詳)は、脚気の弊害に気付き、麦飯に変更したので、海軍では、脚気による死亡者は皆無だったそうです。江戸時代の江戸町民の主食は白米だったので脚気が多く、「江戸わずらい」と称されていたとの由。
日英同盟を締結したのが大きかった。
先生、いつもありがとうございます❗️
感動しました💪👍
横須賀に在るイギリス製の船「戦艦三笠」の上で日英同盟を成立して欲しい。
んでまたアメリカが嫉妬してくるわな。
本当の歴史教育です。TKS。
まだ山本性になる前の高野五十六少尉が筒発で指を一本失ったのもこの戦いですよね。
T字戦法は砲戦力の有効活用より、取り逃がさないための運動。小部隊のウラジオストック艦隊の通商破壊も捕捉は難しく逃げ込まれると厄介
各種資料を見ると、日本海軍が相手の進行方向の頭を押さえようとする動きになっていますね。
敵前大回頭で同航戦に持ち込んで相手に食い下がり、どちらかが斃れるまで殴り合う砲撃戦での決着を目論んだ艦隊司令部の意思が読み取れます。
@@akirakajiwara9478 旅順艦隊を迎撃した時、一斉回頭した時に逆を取られて危うく逃がしそうになった。この時は敵旗艦ブリッジへのラッキーヒットで敵の指揮が混乱してどうにかなった、この教訓への対応
世界の海戦史では1805年のトラファルガ―海戦のネルソン提督のニッチ(近接)戦法と日本海海戦の東郷提督の東郷タ―ンが銘記されると。
T‐字戦法の言葉は作戦に記載されず、後の評論家の解釈と聞いておりますね😃 日本に天佑神助がありましました🙏
今日も勉強させて頂きました。全ての日本人で日本を守る。今の日本でそれが出来るでしょうか?疑問です。
教科書や小説では知りえない史実を、落語の真打のような語り口で語っていただきありがとうございます。
とても、勉強になります。本当の意味で「大学」ですね!(^^)!
私
いやさすが……大和魂ってやつを感じた。久松五勇士この事友達に教えてみよ。
鬼貫かっこいい👹しかも千葉出身とか嬉しい❗️
坂の上の雲で,中国の村を行軍する陸軍の将校に老人がくってかかる場面があります。従軍記者の正岡子規は老人が何を言ったか隊長に尋ねると,「日本の兵隊さんありがとうと言った」と答え,真偽はともかく,いかにも日本軍が中国で略奪など非人道的なことをしていたと想像させられました。
坂の上の雲 いいドラマだったなぁ。広瀬の閉塞作戦は凄かった。坂の上のポニョもよかったが。
スタビライザーとか、ジャイロは船の揺れを制限する装置だったと思います。
結構前になるが、横須賀に着底して記念館になっている三笠を見に行った事があるが、意外と小さいことに驚いた。
というか現代の艦艇が大きいことがよくわかる。
あの三笠をダンスパーティーなどいかがわしいことに使ったメリケン野郎めwと思うのは少なくないですよね。
三笠といったら戦艦かバレーボールの Mikasaかっていうくらいのw
話が講談調でとても面白く拝見しました。画中で歴史を見る「本体と部品」の話がありましたが
「部品」として見てもいい動画です
作者が触れなかった点で、一般人がWikipediaを研究しての視点を掲載させて下さい
記、露艦の砲弾は、徹甲弾で甲板に穴を空けても沈まない(喫水付近に当たらなければ)
日本の砲弾は、榴弾を併用しており、砲弾の中に火薬(下瀬火薬)を詰めて、先端にスイッチ(伊集院信管)を付けたもので
着弾すると、甲板でも・海面でも、砲弾が破裂して破片が火の玉になって降り注いだ
榴弾の砲弾は発射する砲筒の中で爆発する危険があったものだが、日本は改善・進化させていた
燃える構造物の無い露艦が炎に包まれていた(日本艦に乗船の観戦武官アルゼンチンのガルシア大佐の談)
敵前回頭は、露艦の砲弾の被害の程度を予測できていたから・・と思える(実際の三笠を見学しても・・)
日清日露の頃は東アジアだけの局地戦で、特に露との戦では、露の歩兵は中央アジアを越えて、艦隊はケープタウンを越えて・・・
で、陸戦は被害が甚大でも諦めずに補充の効く日本の方が有利でしたね(日本は朝鮮半島を障害なく運べるようになっていた)
で、太平洋戦争では武器火力の運搬手段が格段に向上して(航空機・船舶・トラック・・)
日本は真珠湾・シンガポールまで行けた、米は東京まで来れた(米はロンドン・ベルリンまで行けた)
運搬補充する「産業力」が勝敗を決める・・・その見通しを誤ったのが日本の敗戦でしょう
今はミサイルに核を載せて10分15分で到着する事に注意です
日露戦争に勝利していなかったら
今の日本はないと思います。
日露戦争は、ロシアのバルチック艦隊は黒海に有り、日英同盟で日本に来るのに英国はスエズ運河を使わせ無かったので其れで遠回りして日本に行く事に成った。ロシアの艦隊が途中で英国の植民地で食料や水の補給を拒否されて日本に来た。其れでバルチック艦隊は食料や水も無く疲れ果てていた。
日露戦争が一番好きです。
旅順艦隊撃滅、203髙地、乃木将軍、陸軍が有っての日本海海戦と思ってます。
陸軍の活躍は教えない学校教育はおかしいな~って思います。
連合艦隊ってそう言う意味だったんだ
日本国の民の“こころ”… 確かに、受け取りました😃
航空主兵論が始まる前に戦艦が動く的になってしまっていたのか・・・
駆逐艦恐るべし
日露戦争は日英同盟も大きな役割を果たしましたね。
天気晴朗なれど波高し=小型艦艇は使えません
戦艦と巡洋艦には船首に菊の御紋が付いていますが、消耗艦とされた駆逐艦や潜水艦には菊の御紋は付いていません。
日本艦隊の幸運なところは、下瀬火薬(ピクリン酸火薬)と伊集院信管の採用で、バルチック艦隊の戦闘艦の艦橋を灼熱の炎で覆いつくし焼き尽くしたことかな。バルチック艦隊は付随していた石炭運搬船を上海に帰していたので、結果として各艦の艦橋に備蓄石炭が山盛りになっていたのが、ロシア艦隊の不運かな。
現代のイージス艦が小さいのは強力なミサイルが出来たからでしょう。
昔は大きな大砲を積むために艦が大きくなっていきました。
戦艦三笠の実物を昔観に行きましたが余りにも小さな船で驚きましたこんな船でも当時は大型戦艦と言われていましたが海戦で砲弾がまともに当たったら被害も甚大だったと思う船体に大きな穴が 戦艦でもたった30センチしか厚みのないのには驚きました
久松五勇士の話は三船敏郎主演の「日本海大海戦」と言う映画にも描かれていた。
1969年の映画だけど、この映画が制作された当時はまだ、戦前や戦時中の日本を知ってる人達もご健在だったので、まともな歴史観で戦争映画が作られてた時代だったんだなって思った。
近年の映画は基本的に「戦争は悪であり悲劇」としてしか描かず、しかも「反日的自虐史観」の戦争映画ばかりで、観ていても本当に浅はかでつまらないなぁ。
・三笠(みかさ)
大日本帝国海軍の戦艦。日露戦争の日本海海戦で連合艦隊旗艦を務めた。神奈川県横須賀市に現存し、公開されており、世界の三大記念艦の一つとされる。1903年(明治36年)7月24日、皇族軍人の伏見宮博恭王(海軍大尉、9月26日に少佐進級)が「三笠」に着任、後部砲塔(主砲)を指揮する第三分隊長となった[11]。12月28日、「三笠」は連合艦隊旗艦となった。
・クニャージ・スヴォーロフ
ロシア海軍が日露戦争前に建造した前弩級戦艦であり、ボロジノ級の4番艦である。艦名はロシア語で「公爵スヴォーロフ」を意味し、ロシア帝国の大元帥に叙された、常勝不敗の伝説的な指揮官アレクサンドル・スヴォーロフに由来する。日本海海戦においてバルチック艦隊旗艦を務めたことで知られる。スワロフ、スウォーロフとも表記される。
・連合艦隊
2個以上の艦隊で編成された帝国海軍中核部隊である。明治初期、海軍はそれまで有力艦・新鋭艦で編成された主力部隊を「常備艦隊」、老巧艦などで編成された沿岸防備のための二線級部隊を「警備艦隊」と称していた。軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が警備艦隊を「西海艦隊」と改名し、常備艦隊と西海艦隊をもって「連合艦隊」を組織するという案を出した。これが連合艦隊編成のきっかけとなり、日清戦争開戦の6日後にはじめて連合艦隊が編成された。以降日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降常設となった。
・旅順艦隊
ロシア太平洋艦隊(以下旅順艦隊と記述)司令長官であり、優れた海軍軍人であったステパン・マカロフ中将が、日本海軍連合艦隊(以下連合艦隊と記述)との一連の戦闘により戦死する。その後任として司令長官職を代行することとなったヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将は、防備の堅い旅順港に出来るだけ閉じこもり、連合艦隊との直接的な衝突を避け艦隊を温存するという消極的な行動を見せていたが、極東総督エヴゲーニイ・アレクセーエフは旅順艦隊に対しウラジオストクへの回航を強く命令した。
・バルチック艦隊
バルト海に根拠地をおく旧ロシア帝国、旧ソ連邦、ロシア連邦の艦隊。日露戦争の際にその主力艦隊が極東に派遣され、明治三八年(一九〇五)五月の日本海海戦において日本の連合艦隊に攻撃され全滅した。
・ウラジオ艦隊
ロシア帝国の極東・太平洋方面における戦術的艦隊合同である。ウラジオストクに根拠地を置いたロシア帝国海軍バルト艦隊の分遣隊[注 3]のひとつで、一等巡洋艦4隻(装甲巡洋艦3隻と防護巡洋艦1隻)と補助巡洋艦1隻を主力として編成された。一般に、ウラジオストク艦隊とも呼ばれる。日本では浦塩艦隊(うらじおかんたい)とも呼ばれた。1903年に編成され、1906年に解隊した。
日本海海戦交戦勢力
大日本帝国ーロシア帝国
指導者・指揮官ー東郷平八郎大将 ロジェストヴェンスキー中将
戦力
戦艦4隻
装甲巡洋艦8隻
巡洋艦15隻
他全108隻[注釈 1]
戦艦8隻
海防戦艦3隻
装甲巡洋艦3隻
巡洋艦6隻
日本海海戦
敵前大回頭
14時05分、敵を南微東に距離8,000mで臨んだ時、東郷は急転回での左回頭(=取舵一杯の命令を下した)を命じ14時07分に先頭の三笠は回頭を終え東北東へ定針した。東郷による報告書ではこれを「敵の先頭を斜に圧迫し」としている。海戦図に拠れば「三笠」は右横ほぼ正面に「クニャージ・スヴォーロフ」を望んでいた。
三十分間での「決着」
「クニャージ・スヴォーロフ」は右に変針し並航となるようにし同航戦を試みた。しかし「オスリャービャ」は左列先頭で日本側の各艦から距離が近かった、3本煙突で狙われやすかったなどが原因で集中砲火を浴び、戦闘開始早々攻撃力を失った(日本側の報告では「須臾にして撃破せられ」)。この30分間の砲戦で、バルチック艦隊は攻撃力を甚だしく失った。秋山はこの30分間で勝敗は決したと評している。撃沈という戦果は無いが、損害を大きく与えられるのは追撃の時でありここからは追撃戦であったと述べている。
ステパン・オーシポヴィチ・マカロフ
ユリウス暦1848年12月27日(グレゴリオ暦1849年1月8日) - ユリウス暦1904年3月31日(グレゴリオ暦4月13日))
ロシア帝国の海軍軍人、海軍中将、海洋学者。ロシア帝国科学アカデミー会員。海洋学に造詣の深い名将であったが、日露戦争において戦死した。
ジノヴィー・ペトロヴィチ・ロジェストヴェンスキー
1848年10月30日(グレゴリオ暦11月11日) - 1909年1月1日(グレゴリオ暦1月14日))は、帝政ロシア海軍の軍人、最終階級は少将。日露戦争においてバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)の司令長官を務めた。日露戦争に際し、バルチック艦隊(第二太平洋艦隊)を編成して喜望峰経由で極東の地へ赴き、旅順の第一太平洋艦隊の増援とすることを皇帝に提案し、少将ながらこの艦隊の司令長官になる。その後、中将に昇格。ドッガーバンク事件など多くの事件を起こしつつ、アフリカを廻り、マダガスカルで2ヶ月以上も滞在し、マラッカ海峡を経て極東の地に着く。
アレクセイ・ニコラエヴィッチ・クロパトキン 1848年3月29日 - 1925年1月16日)
帝政ロシアの軍人。ロシア帝国陸軍大臣、日露戦争時のロシア満州軍総司令官を歴任した。日本の軍事力を高く評価、日本との軍事衝突には一貫して反対していたが、日露戦争開戦直前にロシア満州軍総司令官に任命され日本軍と直接対決する事となる。しかし実戦指揮能力や決断力・判断力に乏しく日本軍に連戦連敗し、奉天会戦に敗北した責任を取らされロシア満州軍総司令官を罷免され第1軍司令官に降格される。日露戦争後は軍中央から退き、第一次世界大戦ではロシア北部方面軍・第5軍を指揮しドイツ軍と戦うが大敗する。1916年7月、トルケスタン総督に転出し、折しも発生した1916年蜂起を武力鎮圧。その後2月革命の際に逮捕投獄されるが危険人物と見なされずにすぐに釈放され、晩年は故郷で教師として静かな余生を送る。
ロマン・イシドロヴィチ・コンドラチェンコ
1857年10月12日 - 1904年12月12日)は、帝政ロシアの軍人。ウクライナ人。日露戦争当時のシベリア第7狙撃兵師団長。旅順攻囲戦における実質的なロシア軍側の司令官。陸軍中将。旅順要塞司令官アナトーリイ・ミハイロヴィチ・ステッセリ中将は、コンドラチェンコの能力を信頼しほとんどの要塞防衛作戦計画を一任したため、要塞築城や防衛計画に関して専門家である彼のセンスを遺憾なく発揮することができ、旅順要塞を短期間で永久防塁に固められた近代要塞に変貌させた。
1904年、日本第3軍による旅順攻撃が開始された際にも常に前線に立ち部下将兵を鼓舞し続けた。旅順港内のロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)から艦載砲を陸揚げした上で各要塞に配備して砲撃力を高め、堡塁からの機関銃による十字砲火や手榴弾・地雷・高圧電流を流した有刺鉄線を効果的に利用して日本軍歩兵の銃剣突撃を防ぎ、弾薬不足を補うために海軍から余剰武器を転用し、機雷を敵兵に向けて投げ落としたり、大砲に魚雷を装填して砲撃するなどの戦法も工夫し、日本軍に大きな損害を与えることに成功する。 またステッセリから叙勲権代行の権利を受けると、功績のあった将兵に自ら勲章を授与して激励した。部下将兵もコンドラチェンコの姿に勇気付けられ、必死になって戦った。
12月5日に203高地が陥落、日本軍による砲撃によって旅順艦隊が全滅する。それでも彼の闘争心は衰えず、将兵を励まし続けたので兵士の士気も高かった。12月15日、東鶏冠山北堡塁の将兵を激励する為、コンドラチェンコ自身が視察に訪れた。一人の兵士に勲章を与え激励し、その場から離れようとしたその時に、日本軍の二十八糎砲の砲弾の直撃を受け戦死した[1]。コンドラチェンコの戦死は将兵たちに衝撃を与え、士気が大きく低下したと言われる。ステッセリが旅順開城・降伏を申し出たのは1905年1月1日のことであった。司馬遼太郎によれば戊辰戦争での北海道の二俣口の土方歳三の奮戦と類似すると評された・
補記
「黒潮の闘魂」(久松五勇士)創価合唱団作詞作曲奥平潤SGI
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この頃の日本海軍は賢い人が多かった様です。それに比し太平洋戦争頃の海軍は
かなり劣っていたのではないでしょうか。東郷、秋山、権兵衛さんなどがいれば
もうちょっと違った結果が出たのでは。例えば開戦しないとか、ミッドウェー
海戦をなんとか出来たとか、負けるにしてもましな負け方があったとか。
それに関しては、林千勝先生の動画がお勧めです。もうその時代は情報戦だったのです。。
当時の旅順では兵站が途絶えて艦隊は動かせる状態でないことを陸軍は知っていたが,海軍がせかすので仕方なく旅順攻略戦を行ったという説もある。これが事実なら,日本は情報戦に疎く無駄に兵を殺したことになり,太平洋戦争でも同様の過ちを犯したことにならないか。
素晴らしい! 還暦過ぎましたが勉強になります。学校で教えて欲しかった。今の子供達に学校で教えるようにしたい。3年以内に中学校の歴史教科書に日露戦争の意義を載せたい。
私の中の対バルチック艦隊戦は、坂ノ上の雲だなぁ…
司馬さんは主観が強いから真実を知りたかったです!
乃木大将の評価を伺いたいですm(_ _)m
三笠で使用してた測距儀はドイツのカールツワイス社の製品です。世界最高の品質を誇ってます。日本では、ソニーが採用してます。2000倍の拡大機としてキャノン、ニコンの製本を比較しましたが、比較にならなく、3倍の価格であるカールツワイス社の製品を購入しました。
乃木希典ー6
奉天会戦
詳細は「奉天会戦」を参照
乃木率いる第3軍は、旅順要塞攻略後、奉天会戦にも参加した。第3軍は、西から大きく回り込んでロシア軍の右側背後を突くことを命じられ、猛進した。ロシア軍の総司令官であるアレクセイ・クロパトキンは、第3軍を日本軍の主力であると判断していた。当初は東端の鴨緑江軍を第3軍と誤解して兵力を振り分けていた。このため、旅順での激闘での消耗が回復していない第3軍も、進軍開始直後には予定通り進撃していた。しかし、西端こそが第3軍であることに気付いたクロパトキンが兵力の移動を行い第3軍迎撃へ投入、激戦となった。
第3軍の進軍如何によって勝敗が決すると考えられていたので、総参謀長・児玉源太郎は、第3軍参謀長・松永正敏に対し、「乃木に猛進を伝えよ」と述べた。児玉に言われるまでもなく進撃を続けていた乃木は激怒し、自ら所在する第3軍の司令部を最前線にまで突出させたが、幕僚の必死の説得により、司令部は元の位置に戻された[120]。
その後も第3軍はロシア軍からの熾烈な攻撃を受け続けたが、進撃を止めなかった。こうした第3軍の奮戦によって、クロパトキンは第3軍の兵力を実際の2倍以上と誤解し、また、第3軍によって退路を断たれることを憂慮して、日本軍に対して優勢を保っていた東部および中央部のロシア軍を退却させた。これを機に形勢は徐々に日本軍へと傾き、日本軍は奉天会戦に勝利した[121]。
アメリカ人従軍記者スタンレー・ウォシュバン(Stanley Washburn,1878-1950)は、「奉天会戦における日本軍の勝利は、乃木と第3軍によって可能になった」と述べた[122]。
凱旋
乃木は、日露戦争の休戦を奉天の北方に位置する法庫門において迎えた。この際、参謀の津野田是重に対し、日露講和の行く末について、戦争が長引くことは日本にとってのみ不利であること、賠償金はとれないであろうこと、および、樺太すべてを割譲させることは困難であることなどを述べている[123]。
明治38年(1905年)12月29日、乃木は法庫門を出発し、帰国の途についた。明治39年(1906年)1月1日から5日間、旅順に滞在して砲台を巡視した後、大連を出航し、1月10日には宇品に、1月14日に東京・新橋駅に凱旋した[124]。乃木は1月21日付で第3軍司令官を退任し[125]、1月26日付で軍事参議官に親補され[126]、大正元年(1912年)9月13日の死去まで在任した[126]。
乃木は、日露戦争以前から国民に知られていたが[127]、「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した[128]旅順要塞を半年あまりで攻略したことや、二人の子息を戦争で亡くしたことから、乃木の凱旋は他の諸将とは異なる大歓迎となり、新聞も帰国する乃木の一挙手一投足を報じた[129][130][105]。乃木を歓迎するムードは高まっていたが、対する乃木は、日本へ帰国する直前、旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念から、「戦死して骨となって帰国したい」、「日本へ帰りたくない」、「守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい」、「蓑でも笠でもかぶって帰りたい」などと述べ、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断った[131][132]。
東京に到着後、乃木は直ちに宮中に参内し、明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読した。復命書の内容は、第3軍が作戦目的を達成出来たのは天皇の御稜威(みいつ)、上級司令部の作戦指導および友軍の協力によるものとし、また将兵の忠勇義烈を讃え戦没者を悼む内容となっている。自らの作戦指揮については、旅順攻囲戦では半年の月日を要したこと、奉天会戦ではロシア軍の退路遮断の任務を完遂出来なかったこと、またロシア軍騎兵大集団に攻撃されたときはこれを撃砕する好機であったにも関わらず達成できなかったことを挙げて、甚だ遺憾であるとした。乃木は復命書を読み上げるうち、自関の念の為に涙声となった。乃木は明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上した。しかし天皇は、乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、という趣旨のことを述べたとされる[133]。
乃木に対する世界的賞賛
乃木が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦であったため、乃木は日露戦争を代表する将軍と評価された[134]。また、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置も賞賛の対象となり、特に水師営の会見におけるステッセルへの処遇については世界的に評価された[135]。乃木に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載した。また子供の名前や発足した会の名称に「乃木」の名や乃木が占領した「旅順」(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発した[136]。加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよびイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与された[137]。
勝利の立役者は漁民
こういう事が語り継がれる事が大事ですね
小名木先生~講談師入ってるう~(笑)
「下瀬火薬 (ピクリン酸)は酷かった」と ロシア水兵が記してました
日本海海戦が世界中に与えた影響は非常に大きかった。世界の中でも極東に位置する島国日本が、当時の巨大帝国であるロシアを
打ち破った事実は世界に驚愕を与えた。私の祖母は明治23年生まれで、日本海海戦の砲声を直に耳にした一人、そして当時の囃子
歌を教えられた。この戦争の結果は日本と言う存在を世界に知らしめた衝撃的な出来事として驚きを以て受け止められた。多分に
幸運もあったが、巧みな戦略と技術でロシアバルチック艦隊を打ち破ったことは改めて日本軍の、ひいては日本人の実力を認めざる
を得なくなった分岐点になった。囃子歌は「日本の乃木さんが凱旋す雀目白ロシア野蛮国クロパトキン金の玉負けて逃げるはチャン
チャン坊棒で殴るは犬殺し吝ん坊の柿の種猫は炬燵でぐーぐーぐー・・・と言ったものでした。
乃木希典ー10
人物・逸話
元帥府に列せられる前に殉死
現役の陸軍大将として軍事参議官に親補されていた乃木は、大正元年(1912年)に満62歳で殉死しており、前述の通り元帥府には列せられていない。しかし、乃木が殉死せずにもっと長生きしていれば、彼が元帥府に列せられていた可能性は高いとする説が有力である。
明治40年(1907年)に乃木が学習院長を兼任した時に、陸軍将校分限令の規定によって予備役に編入されるべきところを、明治天皇の勅命により現役に留まるという異例の人事がなされたことについて、桑原嶽は「これは当然、終身現役である元帥への昇進の含みもあったからであろう。」と述べている[140]。
もしも乃木が明治天皇に殉死していなかったら、乃木はいずれ元帥府に列せられたかどうかにつき、軍事史家の横山恵一は「歴戦の功将、人格高潔な武将という点で元帥を選考するなら、乃木は将に将たる器で、選に入ったのではないですか。」と述べ、秦郁彦は「〔乃木が〕生きていれば大正四年〔1915年〕に長谷川好道、貞愛親王、川村景明といっしょにね。」と述べている[219]。実際には前述の通り、乃木に元帥の称号を贈る話は生前からあったものの、本人がこれを固辞していたとも言われている。
日露戦争における自責の念
乃木は、日露戦争において多くの兵士を無駄に死なせてしまったことを心底から悔い、生涯にわたって自責の念に苛まれ続けていた。乃木が前述の通り元帥の称号を断り、最終的に割腹自殺したのも、日露戦争で多くの兵士を死なせたことに対する自責の念が最大の理由だったとする意見は根強い。
前述の通り、日露戦争で多くの兵士を死なせたことを明治天皇に詫びた際にも、乃木は自ら死んで責任を取ることを希望したが、明治天皇は乃木の心情に理解を示しながらも、今はまだ死ぬべき時ではないと乃木を窘め、どうしても死にたいのであれば自分が死んだ後にしてもらいたい旨を述べて、その場は乃木の自殺を押しとどめたという。
時間があれば戦死者の遺族を訪問し、「乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい」と述べていた[220]。
東郷平八郎や上村彦之丞と共に、長野における戦役講演に招かれた際も乃木は勧められても登壇せず、その場に立ったまま、「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」とだけ言ったきり落涙し、それ以上何も言えなくなってしまった。その場に居合わせた人々も皆、乃木の心情を慮って涙したという[221]。
乃木は日露戦争で二人の息子を失った後、陸軍時代の部下であった佐藤正から養子を勧められていたが、乃木自身は戦争で多くの兵士を死なせた自責の念から、養子を取らず乃木家を断絶させる覚悟であると手紙に綴っている[222]。
戦傷病者へのいたわり
廃兵院を再三にわたって見舞い、多くの寄付を行った。乃木は、他者から寄贈を受けた物があると、そのほとんどを廃兵院に寄贈した[223]。そのため、廃兵院の入院者は乃木を強く敬愛し、乃木の死を聞いて号泣する者もあり、特に重体の者以外は皆、乃木の葬儀に参列した。また、廃兵院内には、乃木の肖像画を飾った遥拝所が設けられた[223][224]。
上腕切断者のために自ら設計に参加した乃木式義手を完成させ、自分の年金を担保に製作・配布した。この義手で書いたという負傷兵からのお礼を述べる手紙が乃木宛てに届き、乃木は喜んだという[225]。
辻占売りの少年
乃木大将と辻占売りの少年(旧乃木邸内)
少将時代の乃木が、明治24年に訪れた金沢の街で辻占売りをする当時8歳の今越清三郎少年を見かけた。その少年が父親を亡くしたために幼くして一家の生計を支えていることを知り、少年を励まし当時としてはかなりの大金である金2円を渡した。少年は感激して努力を重ね、その後金箔加工の世界で名をなしたという逸話によるものである。乃木の人徳をしのばせる逸話であり、後に旅順攻囲戦を絡めた上で脚色され「乃木将軍と辻占売り」という唱歌や講談ダネで有名になった[226]。写真の銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和43年に六本木六丁目の旧毛利家の池(ニッカ池)の畔に建立され、その後六本木六丁目開発の際に旧乃木邸へ移されたものである。
楠木正成に対する尊敬
乃木は楠木正成を深く崇敬した。乃木の尽忠報国は正成を見習ったものである。乃木は正成に関する書物をできる限り集め考究した。正成が子の正行と別れた大阪府三島郡島本町の史蹟桜井駅跡の石碑の「楠公父子訣別之所」という文字は乃木によって書かれたものである。そして、乃木は楠木正成について次のような歌を詠んでいる[227]。
いたづらに立ち茂りなば楠の木も いかでかほりを世にとどむべき
根も幹も枝ものこらず朽果てし 楠の薫りの高くもあるかな
国史学者・笹川臨風は、「乃木将軍閣下は楠公以降の第一人なり」と乃木を評しており[228]、伏見宮貞愛親王は乃木について、「乃木は楠木正成以上の偉い人物と自分は思う」「乃木の忠誠、決して楠公のそれに下るべからず」と述べている[229]。
健康状態
若い頃より歯が悪く、43歳の時点ですでに下顎に数本の歯が残っているのみであり、明治24年(1891年)には入れ歯が合わないことを理由とする休職願を陸軍大臣・高島鞆之助に提出している[230]。
乃木が読んだ漢詩
唱歌に詠われた水師営の棗の木(乃木邸内)
乃木は静堂の号を持ち漢詩[注釈 29]をよくした。乃木が作成した漢詩の中でも『金州城外の作』、『爾霊山』および『凱旋』は特に優れているとされ、「乃木三絶」と呼ばれている[231]。
以下、乃木が詠んだ漢詩の一部を挙げる[232]。
金州城外の作
山川草木轉荒涼 (山川草木転(うた)た荒涼)
十里風腥新戰場 (十里風腥(なまぐさ)し新戦場)
征馬不前人不語 (征馬前(すす)まず人語らず)
金州城外立斜陽 (金州城外斜陽に立つ)
爾霊山
爾靈山嶮豈難攀 (爾霊山(にれいさん)の険豈に攀(よ)ぢ難からんや)
男子功名期克艱 (男子功名克艱(こっかん)を期す)
鐵血覆山山形改 (鉄血山を覆いて山形改まる)
萬人齊仰爾靈山 (万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山)
爾霊山は203高地の当字。爾(なんじ)の霊の山という掛詞である。
凱旋
皇師百萬征強虜 (皇師百萬強虜を征す)
野戰攻城屍作山 (野戦攻城屍山を作(な)す)
愧我何顔看父老 (愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父老に看(まみ)えん)
凱歌今日幾人還 (凱歌今日幾人か還る)
富岳を詠ず
崚曾富嶽聳千秋 (崚曾たる富岳千秋に聳(そび)ゆ)
赫灼朝暉照八州 (赫灼たる朝暉八洲を照らす)
休説區々風物美 (説くを休めよ区々風物の美)
地靈人傑是神州 (地霊人傑是れ神州)
碑文の揮毫
乃木希典が揮毫した文字を刻んだ石碑。篆書体による「彰忠碑」の文字の脇に「希典書」とある。荻窪八幡神社
乃木は、個人の依頼による揮毫はほとんど断ったが、公共のための揮毫は快諾した。今も全国各地に残る日露戦争の戦没者を記念する「彰忠碑」や「忠魂碑」、桜井駅跡の「楠公父子訣別之所」碑(写真)などで、乃木の筆蹟を見ることができる。
毎回、よくご存じですね、ありがとうございます。
有機的の意味って深いんですね
ツッコミたい話が多く在るけど面白いよね。
数百メートル先の大砲の弾って見えるの?見てから船が避けれるの?170キロを手漕ぎで?まぁでも、近接の下りは初めてで楽しくなりました!
この先生のお話はウソが多いと思います。巡洋艦が50mまで接近して魚雷を発射したから、云々はちとあり得ない感じ。
恐らく火災が発生して相手からの攻撃もない状態でトドメを刺すために近づき魚雷を・・・というのを大袈裟に言ってるのだと思います。
またケネディーの魚雷艇の部分も、何故に活躍したかの理由が全くウソですね。小さい方が良いとか。
有り難うございます。
三国志演義と正史三国志は全く別物という認識があるのに、史実と司馬史観は何故かごっちゃにされるの不思議ですよね。司馬遼太郎は歴史上の人物をモチーフにした息抜きエンタメ小説家ですよ?時代劇だって話を盛ったフィクションですよ?司馬遼太郎を読んで歴史を知った気になってたり、歴史認識が違うと怒ってる人はぶっちゃけおめでたいです(笑)
日本の教育に何らかの圧力が加わってるとしか思えんな。
バルチック艦隊は、ヨーロッパから日本海までろくな補給もなく、イギリス軍の妨害を受けながら何ヵ月もかけて移動したので、日本海に到着した時は疲弊して戦える状態では無くて、十分準備していた連合艦隊にあっさり負けたと理解しています。
乃木希典ー4
※一将功成りて万骨枯る・・・乃木大将の人柄から言えば、これに耐え難かったのではなく、自身にとっての吉田松陰や久坂玄瑞がそうであったように切腹を以て青年への訓示としたのであろう。この点は「殉死」にみられる乃木象ではなく、それを現代的感覚で受け入れる現代人に不足があると見なければなるまい。これも玉木文之進の教育によるものか。一面的、短絡的な見方では彼は見えてこない。
日露戦争への従軍
馬蹄銀事件による休職
台湾総督を辞任した後休職していた乃木は、明治31年(1898年)10月3日、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職した。
しかし、明治34年(1901年)5月22日、馬蹄銀事件[注釈 15]に関与したとの嫌疑が乃木の部下にかけられたことから、休職を申し出て帰京した。表向きの休職理由は、リウマチであった[86]。乃木は計4回休職したが、この休職が最も長く、2年9か月に及んだ。
休職中の乃木は、従前休職した際と同様、栃木県那須野石林にあった別邸で農耕をして過ごした。農業に勤しみつつも、乃木はそれ以外の時間はもっぱら古今の兵書を紐解いて軍事研究にいそしみ、演習が行われると知らされれば可能な限り出向き、軍営に寝泊まりしてつぶさに見学してメモをとり、軍人としての本分を疎かにはしなかった[87]。
復職と出撃
日露戦争開戦の直前である明治37年(1904年)2月5日、動員令が下り、乃木は留守近衛師団長として復職した。しかし、乃木にとって「留守近衛師団長」という後備任務は不満であった[88]。
5月2日、第3軍司令官に任命された。乃木はこれを喜び、東京を出発する際に見送りに来た野津道貫陸軍大将に対し、「どうです、若返ったように見えませんか? どうも白髪がまた黒くなってきたように思うのですが」と述べている[89][90]。同年6月1日、広島県の宇品港を出航し、戦地に赴いた。[91]。
乃木が第3軍の司令官に起用された背景について、「司令官のうち、薩摩出身者と長州出身者とを同数にすべきである」という、藩閥政治の結果とする主張もある[92]。しかし、第3軍編成時(乃木の任命時)の各軍司令官をみると、薩摩出身者は第1軍司令官の黒木為楨だけであって、薩長同数ではない。満州軍総司令官の大山巌や第4軍司令官の野津道貫も薩摩出身者だが、この2人が任命されたのは第3軍編成の後である。また、既に出征している第1軍および第2軍の師団長(中将クラス)6名のうち3名が長州出身者だが、薩摩出身者は1名に過ぎない。そもそも、乃木は中将では最古参の明治28年昇進組であり、同期の岡沢精が侍従武官長を拝命していたため、乃木の大将就任と第3軍司令官任命は、通常の序列人事として順当である。
乃木が日本を発つ直前の5月27日、長男の勝典が南山の戦いにおいて戦死した。乃木は広島で勝典の訃報を聞き、これを東京にいる妻・静子に電報で知らせた。電報には、名誉の戦死を喜べと記載されていたといわれる。勝典の戦死は新聞でも報道された[93]。
細かいこと言ってすいませんが
アルファベットのT字戦法じゃなくて、甲乙丙丁の丁字戦法ではなかったですかね?
また間違えてますね。
なるほど。
びっくりするオリジナルなご教示、ありがとうございました。
ばんざーい、ばんざーい、ばんざーい、ありがたや、ありがたや、ありがたやですねぇ、ばんざーい🎵
おはようございます
はじめまして
むすび大学 先生
渡邊弘幸と言います
豊橋市に住んでいます
独身、会社員、55歳
精神身体障害者です
頭が悪いです(泣)
としおりで精神身体障害者、頭が悪くすみませんでした(泣)
はじめてYou Tubeを
拝見致しました(泣)
僕は、頭が悪いですが中学生、高校生の時の
社会、歴史時間の大好きでしたが一つ一つの内容がもっと知りたかったでしたが便利な世の中になってYou Tubeでこんなに詳しく日露戦争の内容が学校の時よりも分かり凄く嬉しいかったです(泣)
先生(泣)
もっともっと日露戦争の奥深くYou Tubeで
配信して欲しいです
学校のじぎょより
先生の説明の方が
僕は先生の説明の方がいいです✨
例は違いますが
何だか(泣)
学校のじぎょは
手抜きです(泣)
韓国と同じです(泣)
何でも手抜きはいけません✨
アメリカのシールズ訓練学校でも教官が言われたこんなにをしっかりとやらなくて一人前のシールズ隊員には
なれません✨
訓練でいい加減な事をやっていたら戦場では
全滅です(泣)
僕の会社の仕事場の
亡くなった先輩、退職されました先輩が良く口酸っぱく人が観ていなくてもなまけていればすぐに分かると僕に
ご指導頂きました✨
その先輩達は僕に対しては怒る、怒鳴るは一切言わないです✨
ちゃんと仕事を先輩達が観ていなくてもちゃんとやっていたら怒りません。
少しミスがあってもちゃんと謝れば怒る、怒鳴るは一切言わない先輩方々でした(泣)
先輩方々が今現在(泣)
いませんが僕の頭が悪いですが僕の頭の中、心の中にいつも見守ってくれています(泣)
僕の先輩方々はやっぱり立派な先輩方々だなと思いました(泣)
ロシアのオペラ劇場を建設しました日本人捕虜の方々が捕虜であってもロシア人兵隊が観ていなくて日本人捕虜の方々は真面目に仕事して立派なオペラ劇場を建設して捕虜でも
後々に日本を恥じる用な建設をしてはいけない未来の日本に恥じる事が無い様にオペラ劇場を建設をして頂た
先輩達に恥じない様にして行きたいです(泣)
先生(泣)
先生観たいに文章が書く事が出来なく、分かりにくくて本当にすみませんでした(泣)
僕も(泣)
文章を一生懸命に書いています(泣)
本当に(泣)
もっともっと日露戦争のその他の出来事を知りたです(泣)
お忙しい中すみませんがYou Tubeを配信して欲しいです(泣)
宜しくお願い致します(泣)
お身体に十分お気をお気を付けて下さい
m(_ _)m
高杉晋作がその戦法使ってましたね
最近の教科書は自虐というより、自己矮小化というべきか、大した歴史ではないよと言いたいのか、読まされる子供がかわいそうだ。文科省の程度が知れる。
新東宝の明治天皇と日露戦争の映画を見せるべきだ。社運を賭けたと言われた映画です。
局部最適にもならない局部説明を教えるシステムと受験至上主義が学ぶ意欲をすいでいるのではないかなと私は感じます。沖縄独立とか言っている多くは外国勢力に影響されている人達も多いのでは?
子供の頃、雑誌でバルチック艦隊を破ったのは戦術もさることながら、新発明の下瀬火薬( ピクリン酸 )の威力によるものが大きかった。と読んだ記憶があります。一兵士として海戦に従軍していた山本五十六は敵の砲撃で指を失ったとかも書かれてました。
いやそうなんですよ、もっと詳しく言うと下瀬火薬のほかに世界初の実用になる無線電信装置、日本海軍の極めて高い練度と射撃精度、天気晴朗なれども波高しによる天候が味方したこと。敵はよく見えるけれど波は高いため下手糞だと当たらない、そのため極めて危険な敵前回頭をしてもあまり被弾しなかった。日本軍はお金がないため外すともったいないから、砲身に小銃を固定して徹底的に練習したそうです。したがって日本軍の砲弾はよく当たったそうです。これは日本軍の伝統で今でも自衛隊の射撃砲撃精度は極めて高いそうです。下瀬火薬は鉄と反応するため被弾すると鉄の構造物がみんな溶けたり曲がったりで沈まなくてもスクラップ状態だそうです。
当たれば火薬の爆発力で水兵が負傷し大砲打つ人居なくなりますからね。沈めなくても戦力無力化できる。
山本五十六は海軍兵学校を卒業しているので一兵士ではなく少尉候補生で日進乗組