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【本田宗一郎さんの逸話】➀第二期F1復帰前に、若手のエンジニアがF1復帰を懇願した時、「わかった、F1の金はホンダが出そう」「だが、泊まる所と食う金は自分持ちだぞ」と、言ったらしい。②ターボが全面的に禁止になる時、不満だらけだったF1スタッフに「ホンダだけがターボ禁止なのか?違うのか、馬鹿な奴等だ」「HONDAだけに規制をするのは賢いが、すべて同じ条件ならホンダが一番速く一番良いエンジンを作るのにな」「で、話ってのはなんだ?」と言って、不満を抑え込んだとか。これ、メッチャ好き。
東金詩は
ホンダが撤退を発表した後のセナのインタビュー後に、セナが泣きながらパドックの奥に走り去っていったのは印象的でしたね。
第二期は日本の相撲で例えるならHONDAは外国人力士みたいな感じだったのかもしれませんね。盛り上がるのは良いけど、勝ち続けるとケチ付けられるような…
F-1といえばマクラーレンホンダあのカラーリング形全てがカッコ良くまた中嶋悟さんのティレルホンダ最高でした。
いちばん好きな時のF1だなあこの後はしばらくウィリアムズルノーの黄金期だったんだよなあ今思えばおそらくF1が楽しくて、輝いていた時だと言えるかも
Hondaの50周年の際の社史には本田宗一郎さんが勝ち過ぎた、このままは良くないと欧州のF1の空気を読んだという趣旨の記述がありますね。マクラーレンMP4/7が名車か迷車かは別にしてタイミング的に良かったのは間違いないですね。
MP4/4 の正常進化のマシンが見たかったですね人権人権とかいいながら、実はヨーロッパの差別主義は意外と根が深いメルセデス有利なシーズン中レギュレーション変更とかレッドブルホンダにも同じようなことしたよね
ホンダ編見て思ったけど、次はマキF1やコジマF1の解説動画も見てみたい。
セナとプロストがチャンピオンになれた頃のマクラーレンは最強だったかも
16戦16勝できたのに、何故に、二人で抜き合い争いしたんだ!
この時のホンダがテレメトリーシステムやらレース毎のエンジンのバージョンアップとかやり出したので、それまで草レースレベルのF1が一気に金の掛かる物になってしまった。今になって冷静になると、このタイミングで大企業のホンダが参戦したことがF1にとって本当に良かったのか考えてしまうことが多々ある。
いつもホンダは良くも悪くも後々に大きな影響を残すんですよね特に3期ではブラウンGPとして参戦したホンダ製のBGP001(=RA109)が圧倒的な速さでダブルタイトルを取ったこと自体もそうですし搭載していたダブルディフューザーが昨年までの抜きづらいマシンの原因の1つにもなってしまってますし極め付けは昨年タイトル争いで苦しめられた最大のライバルすら元は自分達が生み出してるっていう…笑
時代の流れみたいなもんで、ホンダの参戦がなくてもいずれはそうなっていたんじゃないかな
マクラーレンホンダ時代 V6ターボ V10NA V12NA全てのエンジンレイアウトでチャンピオン獲ったもんなあ〜
この時代の熱狂振りですけど。年の離れた知り合いが言うには、当時 三井物産に出入りしてた彼は社屋に有る本屋さんで、O.Lさんが F-1誌を立ち読みしてるのを目にしてる。
大昔、鈴鹿F1のチケットは入手しにくく、知り合いの知り合いの電〇ルートから手に入れました。スナックのおねーちゃんと車中泊で観戦に行き、お土産のグッズで取引先のOLと食事デートもいたしました。大変懐かしい思い出です。
スピリットホンダ時代はシャシーだけがF-2流用じゃなくて、エンジン本体も流用品でした。2000㏄V6をストロークダウンして1500㏄にしたから、超ショートストロークで排ガス温度がコントロールできず、IHIのターボを壊しまくっていました。
海老沢泰久さんの「F-1地上の夢」によれば、ビッグボア&ショートストロークで超高回転を目指すのが、ホンダエンジンのアイデンティティだった。それが変わったのは、排ガス規制対策で徹底的に燃焼効率を研究した桜井淑敏さんたちがF-1プロジェクトに入ってから。ということらしい。
実は1980年にロンデニスはホンダへF1エンジンの供給を打診しているんですよね直後TAGターボを受け取ることになってるけど、その後のホンダF1エンジンを受け取り大活躍をしているので先見の明があったんですな。
HONDAは凄い。個人で始めたF1チーム『ライフ』の動画みたけど、雲泥の差だ。こんなメーカーがあることを自慢できる。
あとこのときのホンダのスタッフの大勢が子供にあんまし会えなくて「あんた誰?」とか言われたとか書いてあった。お気の毒に…まあ中嶋も引退する時子供はやっと相手してもらえると思ったらまたレース活動始められてがっかりという話もあったな。もっともそのがっかりしていた子供も同じ道に進むとは。
第2期のF-1活動撤退をスクープしたのは確か集英社の週間プレイボーイの[ホンダF-1撤退!マクラーレン.トヨタ誕生か?]なんと❗後のトヨタF-1参戦を予測する記事まで当時書いてあったんですよ。
ロズベルグ&マンセルがいちばんHONDAエンジンに合ってる気がする!
ターボ禁止は数年前から通達されてた。別にホンダ叩きでは無いF1で最も技術的に叩かれたのは90年台のウイリアムルノーだ、しかも翌年突然に複数の技術が禁止された。イギリスとフランスの連合が差別されてるとは思わないF1を長く見てたわかるが数年毎に大きなルール変更がある。その時たまたま日系サプライヤーが損をする時だってある。
欧州は東洋に敗れるのを悔しく思ってる。中島悟を乗せろと言ったが断られたのは当たり前の返事。中島悟は良いマシーンを手に入れたが、日本人のF-1優勝の夢は破れた。日本人でマスターズ優勝、F-1優勝、五輪100m優勝。この3つでどれが先かと問われてた。松山英樹がいなければ3つともまだまだ無理だったろう。最初のチャンスを得た中島悟では、到底夢の中の夢だった。
FW11は最大1200馬力程度でした(本当)
ターボからNAになった時ホンダがエンジン供給のみならずマクラーレンのシャーシ等にも徹底的にメスを入れてギアボックスも共同開発する等していれば更にライバルとの差を広げられたと思いませんか?^^
この頃欧州にいましたが、ホンダがいくらF1で連勝しても、雑誌でホンダ車のハンドリングやエンジンがべた褒めされても、英国で量産しても、ホンダ車の人気はそれほどでもなかったです。日産車もでしたが。
厳しい燃料規制の結果 当時のF1エンジンの混合気は市販車のそれよりも薄い空燃比だったとか。
98年ベルギーのジョーダンは無限じゃなかった・・・?
ホンダV10を積んだティレル020はタイヤをピレリからグッドイヤーに変えたら1秒以上早く走れたって記事を読んだ記憶がある…
結果的にはタイヤ以前の問題が多すぎてティレル020はダメでしたね、、エンジンはサイコーだったのにね、、チームの懐事情が寂しかったのでホンダエンジン用のシャシー&駆動系等が開発出来なかったのが痛かったね、、
ティレル020は完全にエンジンパワーがシャーシ性能を上回っていたみたいですからね。前年のテストでも、ドライブシャフトが折れてしまうトラブルが多発してたそうです。シャーシを設計したハーベイ・ポスルスウェイトは、ホンダエンジンを搭載するのを嫌がっていたらしいです。
91年がグッドイヤーだったとしても、結局シャシー自体がアホほど重いホンダV10搭載のせいで超テールヘビーなのは変わらんので結局タイヤの偏磨耗で苦労したでしょうな、それでもGYなら成績はもっとマシだったのでは?とは思います。結果論になりますが020に搭載すべきエンジンはフォードHBが正解だったんでしょうね。
無限F1の本でV8で参戦するかもしれなかったと言うのを知り若し実現していたら中嶋が所属していたロータスやティレルに供給していたでしょうね、そしてシャーシ等にも徹底的にメスを入れる等すれば中嶋も優勝出来ていたと思いませんか?^^
@@HZred5 有る意味❗、HONDAV10エンジンのトルクも強大で‼ ティレルのギアボックスやドライブシャフトに負担が掛かりすぎて!? リタイアしまくってた印象が強い思い出しか無いんだねぇ~😂🙏✨👍🏁~💨❕❕
ホンダエンジンは最高のパワーでF1を盛り上げ⤴️⤴️。本当に本田素一郎はすごい😆⤴️。1987年 ウィリアムズホンダ ネルソンピケがF1チャンピオン。1988年 マクラーレンホンダ アイルトンセナ。1989年 マクラーレンホンダ アランプロスト。1990年 1991年 アイルトンセナが3回目のF1チャンピオン。本当に1986年から1991年はホンダエンジン強かったね。マンセル ピケ 中島悟 アランプロスト ベルガ一 アイルトンセナ。そして1987年~1992年までモナコグランプリで6年連続勝利ですねぇ。1988年シーズンはマクラーレンホンダが16戦で15レ一ス勝利。
ジャン・マリー・バレストルとマックス・モズレーの差が両国の好感度の差かな。
バレストルってホンダ相手にいつも顔真っ赤だったね愛国心もさることながら、燃費競争とかポップオフバルブ作動精度問題とか恥っかきも色々で…
海外在住二十数年になりますが今のホンダのブランドイメージはF1によって作られたと言っても過言ではありません。セナと組んだのも非常にホンダのイメージアップに繋がりましたね。しかし日本人ドライバーに関しては中島悟も佐藤琢磨も海外での評価は残念ながらイマイチです。日本人で海外の評価が高かったのは小林可夢偉くらいでしょう。セナは日本だけではなくヨーロッパや南米でも伝説的ドライバーですね。
琢磨はアメリカでは有名。可夢偉はザウバー時代のオンボードが流れれば必ずもう一度乗ってくれというコメントがひとつはある。中島は流石にイマイチやな…スーパーgtでは2年に一度くらい中島レーシングが勝つけど…
佐藤琢磨はアメリカでの評価は高いですし、インディ500を2度も制覇して「海外での評価はイマイチ」は流石にないでしょう中嶋さんも評価は高いですよポスルスウェイトは「レース運びがプロフェッショナル」ハントは「勇気とスキルが無きゃああは走れない」「繊細なテクニックを持っている」とピケも「スムーズでとても良い走りをする」「高速コーナーでは彼のほうが速い」とかなりの高評価を得ています。ただ全員がその後に口を揃えて「ただしF1のワイドタイヤを振り回せるだけの腕力がない」可夢偉はやっぱり大きな後ろ盾がないことでしょうね、それさえあればもっと活躍の舞台も多かったはず
当時国内F2で敵なし状態だったので「中嶋悟がF1に乗ったらどうなるんだろう」という期待はありました。
トヨタ・ヤマハにもなし得なかった日本唯一 チャンピオンエンジンは後にも先にもホンダだけ。
ボカシの画像すきでない
今回も、F1とインディで勝ちながら、前回もF1のルールまで変えられる位常勝なのに、なぜHONDAはFR4ドアのライトウエイトスポーツを出さないのか不思議でならない。ドイツ車のお株を取り、F1からも撤退しなくて良くなるのに。
いっぱし?いったん?どっち?
1500ccで1500馬力は化け物過ぎるw 今のエンジンより馬力ある説w
80年代のターボエンジンと現在のターボ付きパワーユニットは全くの別物ですからね~ターボエンジン時代は馬力至上主義でどっかん仕様でしたね~
@@kenken-so1pt 性能は今で、パワーは昔ですねーw
予選の時は、もっと出てたと聞いた事があります。
@@kenken-so1pt ミスファイアリングシステム等を付けていればそのドッカンやターボラグも完璧に消え更に速く扱い易いエンジンになっていたと思いませんか?^^
@@kenken-so1pt レーシングオンの当時の開発者のインタビューではIHIも特別チームを作ってタービン開発をしていたようで馬力を出しつつNAのようにレスポンスが良かったと書かれていました。プロストもほんとにターボ?と首をかしげていたほど
88年はホンダが唯一落とした第12戦イタリアGPが印象に残ってます。最後の2周でセナが接触し、そのままリタイア。フェラーリがワンツーフィニッシュを決めました。同年8月のエンツォが亡くなったこともあり、フェラーリ執念の優勝という向きもありましょう。ですが、問題はセナが接触したドライバーであります。病欠したマンセルに代わってウィリアムズ からスポット参戦したドライバーの名はシュレッサー。68年のホンダ第1期F1で事故死したジョー・シュレッサーの甥であるジャン・ルイ・シュレッサーだったのです。このことを知ったときには背筋が凍り付きましたね。マクラーレン・ホンダの全線全勝という空前絶後、今後もおそらく達成する者のいない歴史に残る大記録を阻んだのはシュレッサー家の人間だったという・・・。しかも、ジャン・ルイがF1に参戦したとは唯一このときだけ。故意の事故ではないのは映像を見れば明らかです。では単なる偶然だったのか? たぶんそれは違いますね。ホンダの夢を断ち切ったのは本田宗一郎のエゴによって殺されたジョー・シュレッサーの怨念によるものではなかったのかと私は考えます。まさに因果応報。つまりは20年後の死者による復讐ですよ。この瞬間どんな気持ちだったのか、本田宗一郎にはぜひ聞きたかったです。
ウィリアムスはこの頃からしくじっているんですねまぁ、88年からのルノーでの下積みがあたから92年からの黄金期があったのかもしれないけどでも88年はロータスホンダより、ウィリアムスホンダとして中島選手が出ていれば、もっと飛躍していたかもと考えると残念
そりゃマンセル降ろして中嶋乗せろと言われても拒否するでしょ。そんなコトしたら英国で袋叩きだし。
実力も未知数なのに国籍を理由にトップチームに入れろって言われて「うん」って言うチームを聞いたことがない。※ただし97年除く
当時一般的な視点から見た限りでは、ホンダは負け逃げにしか見えませんでした。V 12エンジンを投入した事がトドメに思えました。最新の技術満載のウィリアムズルノーと ホンダのエンジンパワーに頼りきりだったマクラーレンとじゃね^^;ちなみにホンダは90年もフェラーリ+プロストマンセルに けっこうヤラれていましたしね^^;
私も同感に思います。セナ選手が川井さんのインタビューでカメラ目線でホンダの技術者に向けての奮起を促すコメントはショックでした。92年にウイリアムズに負けての撤退って印象が強いです。ホンダスピリッツで、93年以降もマクラーレンじゃなくてもいい、他のチームでもいいので、王者となったウイリアムズに挑戦してもらいたかったです。
プラザ合意が造った経済史的な事件でもあるのでこのタイミングでの撤退は会社としては当然の選択。
プラザ合意は1985年ですよ
HONDAはSEXじゃあるまいし、F1を出たり入ったり。今後、今までのエンジン技術を捨てEVに切替えるとか。TOYOTAが正解だと思う。
ホンダはピケじゃなくてマンセルを優遇して欲しかったマンセルはピケより速かったし、信頼性のある速いマシンに乗せれば圧倒的に速いのは92年に証明している中嶋をウイリアムズにというのはちょっと無理があるでしょ
確かロータスホンダで櫻井監督が、中嶋さんのタイムだとセナより2周遅れになるから燃費は気にしなくていいって特集番組で言ってたのを思い出した。
ピケじゃなくマンセルを優遇しろというのはお門違いもいいとこで実際はウィリアムズが露骨にマンセルを贔屓していたので非・ヨーロッパのアウトサイダー同士ということもありホンダはピケに同情的になったというだけホンダとしてはマンセルもピケも優遇なんてしてないよこれはセナプロ問題と同じホンダが不公平をしていたかのようなミスリードは止めていただきたいものですねえ
確か、中嶋さんをウイリアムズにってのは、85、86年のウイリアムズの活躍は日本でテストを繰り返してくれた中嶋さんのあっての事だし、中嶋さんもF1に行きたかったから、打診した日本人的な発想だと思います。ただ、ホンダがマンセルを優先する事はなかったと思います。チーム無線のまだまだだった80年代前半に、レース展開に応じて、自身の判断でマシンを労る走りをしていたネルソンをホンダは買ってたし、ウイリアムズに中嶋さんを断られた時、ネルソンを推薦したのはホンダだったからね。
会長が差別主義者ならf1も終わり
【本田宗一郎さんの逸話】
➀
第二期F1復帰前に、若手のエンジニアがF1復帰を懇願した時、
「わかった、F1の金はホンダが出そう」
「だが、泊まる所と食う金は自分持ちだぞ」
と、言ったらしい。
②
ターボが全面的に禁止になる時、不満だらけだったF1スタッフに
「ホンダだけがターボ禁止なのか?違うのか、馬鹿な奴等だ」
「HONDAだけに規制をするのは賢いが、すべて同じ条件ならホンダが一番速く一番良いエンジンを作るのにな」
「で、話ってのはなんだ?」
と言って、不満を抑え込んだとか。
これ、メッチャ好き。
東金詩は
ホンダが撤退を発表した後のセナのインタビュー後に、セナが泣きながらパドックの奥に走り去っていったのは印象的でしたね。
第二期は日本の相撲で例えるならHONDAは外国人力士みたいな感じだったのかもしれませんね。
盛り上がるのは良いけど、勝ち続けるとケチ付けられるような…
F-1といえばマクラーレンホンダあのカラーリング形全てがカッコ良くまた中嶋悟さんのティレルホンダ最高でした。
いちばん好きな時のF1だなあ
この後はしばらくウィリアムズルノーの黄金期だったんだよなあ
今思えばおそらくF1が楽しくて、輝いていた時だと言えるかも
Hondaの50周年の際の社史には本田宗一郎さんが勝ち過ぎた、このままは良くないと欧州のF1の空気を読んだという趣旨の記述がありますね。マクラーレンMP4/7が名車か迷車かは別にしてタイミング的に良かったのは間違いないですね。
MP4/4 の正常進化のマシンが見たかったですね
人権人権とかいいながら、実はヨーロッパの差別主義は意外と根が深い
メルセデス有利なシーズン中レギュレーション変更とか
レッドブルホンダにも同じようなことしたよね
ホンダ編見て思ったけど、次はマキF1やコジマF1の解説動画も見てみたい。
セナとプロストがチャンピオンになれた頃のマクラーレンは最強だったかも
16戦16勝できたのに、何故に、二人で抜き合い争いしたんだ!
この時のホンダがテレメトリーシステムやらレース毎のエンジンのバージョンアップとかやり出したので、それまで草レースレベルのF1が一気に金の掛かる物になってしまった。
今になって冷静になると、このタイミングで大企業のホンダが参戦したことがF1にとって本当に良かったのか考えてしまうことが多々ある。
いつもホンダは良くも悪くも
後々に大きな影響を残すんですよね
特に3期ではブラウンGPとして参戦した
ホンダ製のBGP001(=RA109)が
圧倒的な速さでダブルタイトルを
取ったこと自体もそうですし
搭載していたダブルディフューザーが
昨年までの抜きづらいマシンの
原因の1つにもなってしまってますし
極め付けは昨年タイトル争いで
苦しめられた最大のライバルすら
元は自分達が生み出してるっていう…笑
時代の流れみたいなもんで、ホンダの参戦がなくてもいずれはそうなっていたんじゃないかな
マクラーレンホンダ時代 V6ターボ V10NA V12NA全てのエンジンレイアウトでチャンピオン獲ったもんなあ〜
この時代の熱狂振りですけど。
年の離れた知り合いが言うには、当時 三井物産に出入りしてた彼は社屋に有る本屋さんで、O.Lさんが F-1誌を立ち読みしてるのを目にしてる。
大昔、鈴鹿F1のチケットは入手しにくく、知り合いの知り合いの電〇ルートから手に入れました。スナックのおねーちゃんと車中泊で観戦に行き、お土産のグッズで取引先のOLと食事デートもいたしました。大変懐かしい思い出です。
スピリットホンダ時代はシャシーだけがF-2流用じゃなくて、エンジン本体も流用品でした。
2000㏄V6をストロークダウンして1500㏄にしたから、超ショートストロークで排ガス温度がコントロールできず、IHIのターボを壊しまくっていました。
海老沢泰久さんの「F-1地上の夢」によれば、ビッグボア&ショートストロークで超高回転を目指すのが、ホンダエンジンのアイデンティティだった。それが変わったのは、排ガス規制対策で徹底的に燃焼効率を研究した桜井淑敏さんたちがF-1プロジェクトに入ってから。ということらしい。
実は1980年にロンデニスはホンダへF1エンジンの供給を打診しているんですよね
直後TAGターボを受け取ることになってるけど、その後のホンダF1エンジンを受け取り
大活躍をしているので先見の明があったんですな。
HONDAは凄い。個人で始めたF1チーム『ライフ』の動画みたけど、雲泥の差だ。
こんなメーカーがあることを自慢できる。
あとこのときのホンダのスタッフの大勢が子供にあんまし会えなくて「あんた誰?」とか言われたとか書いてあった。
お気の毒に…
まあ中嶋も引退する時子供はやっと相手してもらえると思ったらまたレース活動始められてがっかりという話もあったな。
もっともそのがっかりしていた子供も同じ道に進むとは。
第2期のF-1活動撤退をスクープしたのは確か集英社の週間プレイボーイの[ホンダF-1撤退!マクラーレン.トヨタ誕生か?]なんと❗後のトヨタF-1参戦を予測する記事まで当時書いてあったんですよ。
ロズベルグ&マンセルがいちばんHONDAエンジンに合ってる気がする!
ターボ禁止は数年前から通達されてた。別にホンダ叩きでは無い
F1で最も技術的に叩かれたのは90年台のウイリアムルノーだ、しかも翌年突然に複数の技術が禁止された。イギリスとフランスの連合が差別されてるとは思わない
F1を長く見てたわかるが数年毎に大きなルール変更がある。その時たまたま日系サプライヤーが損をする時だってある。
欧州は東洋に敗れるのを悔しく思ってる。中島悟を乗せろと言ったが断られたのは当たり前の返事。
中島悟は良いマシーンを手に入れたが、日本人のF-1優勝の夢は破れた。
日本人でマスターズ優勝、F-1優勝、五輪100m優勝。この3つでどれが先かと問われてた。
松山英樹がいなければ3つともまだまだ無理だったろう。
最初のチャンスを得た中島悟では、到底夢の中の夢だった。
FW11は最大1200馬力程度でした(本当)
ターボからNAになった時ホンダがエンジン供給のみならずマクラーレンのシャーシ等にも徹底的にメスを入れてギアボックスも共同開発する等していれば更にライバルとの差を広げられたと思いませんか?^^
この頃欧州にいましたが、ホンダがいくらF1で連勝しても、雑誌でホンダ車のハンドリングやエンジンがべた褒めされても、英国で量産しても、ホンダ車の人気はそれほどでもなかったです。日産車もでしたが。
厳しい燃料規制の結果 当時のF1エンジンの混合気は市販車のそれよりも薄い空燃比だったとか。
98年ベルギーのジョーダンは無限じゃなかった・・・?
ホンダV10を積んだティレル020はタイヤをピレリからグッドイヤーに変えたら1秒以上早く走れたって記事を読んだ記憶がある…
結果的にはタイヤ以前の問題が多すぎてティレル020はダメでしたね、、
エンジンはサイコーだったのにね、、
チームの懐事情が寂しかったのでホンダエンジン用のシャシー&駆動系等が開発出来なかったのが痛かったね、、
ティレル020は完全にエンジンパワーがシャーシ性能を上回っていたみたいですからね。
前年のテストでも、ドライブシャフトが折れてしまうトラブルが多発してたそうです。
シャーシを設計したハーベイ・ポスルスウェイトは、ホンダエンジンを搭載するのを嫌がっていたらしいです。
91年がグッドイヤーだったとしても、結局シャシー自体がアホほど重いホンダV10搭載のせいで超テールヘビーなのは変わらんので
結局タイヤの偏磨耗で苦労したでしょうな、それでもGYなら成績はもっとマシだったのでは?とは思います。
結果論になりますが020に搭載すべきエンジンはフォードHBが正解だったんでしょうね。
無限F1の本でV8で参戦するかもしれなかったと言うのを知り若し実現していたら中嶋が所属していたロータスやティレルに供給していたでしょうね、そしてシャーシ等にも徹底的にメスを入れる等すれば中嶋も優勝出来ていたと思いませんか?^^
@@HZred5 有る意味❗、HONDAV10エンジンのトルクも強大で‼ ティレルのギアボックスやドライブシャフトに負担が掛かりすぎて!? リタイアしまくってた印象が強い思い出しか無いんだねぇ~😂🙏✨👍🏁~💨❕❕
ホンダエンジンは最高のパワーでF1を盛り上げ⤴️⤴️。本当に本田素一郎はすごい😆⤴️。1987年 ウィリアムズホンダ ネルソンピケがF1チャンピオン。1988年 マクラーレンホンダ アイルトンセナ。1989年 マクラーレンホンダ アランプロスト。1990年 1991年 アイルトンセナが3回目のF1チャンピオン。本当に1986年から1991年はホンダエンジン強かったね。マンセル ピケ 中島悟 アランプロスト ベルガ一 アイルトンセナ。そして1987年~1992年までモナコグランプリで6年連続勝利ですねぇ。1988年シーズンはマクラーレンホンダが16戦で15レ一ス勝利。
ジャン・マリー・バレストルとマックス・モズレーの差が両国の好感度の差かな。
バレストルってホンダ相手にいつも顔真っ赤だったね
愛国心もさることながら、燃費競争とかポップオフバルブ作動精度問題とか恥っかきも色々で…
海外在住二十数年になりますが今のホンダのブランドイメージはF1によって作られたと言っても過言ではありません。
セナと組んだのも非常にホンダのイメージアップに繋がりましたね。
しかし日本人ドライバーに関しては中島悟も佐藤琢磨も海外での評価は残念ながらイマイチです。
日本人で海外の評価が高かったのは小林可夢偉くらいでしょう。
セナは日本だけではなくヨーロッパや南米でも伝説的ドライバーですね。
琢磨はアメリカでは有名。可夢偉はザウバー時代のオンボードが流れれば必ずもう一度乗ってくれというコメントがひとつはある。中島は流石にイマイチやな…スーパーgtでは2年に一度くらい中島レーシングが勝つけど…
佐藤琢磨はアメリカでの評価は高いですし、インディ500を2度も制覇して「海外での評価はイマイチ」は流石にないでしょう
中嶋さんも評価は高いですよ
ポスルスウェイトは「レース運びがプロフェッショナル」
ハントは「勇気とスキルが無きゃああは走れない」「繊細なテクニックを持っている」と
ピケも「スムーズでとても良い走りをする」「高速コーナーでは彼のほうが速い」
とかなりの高評価を得ています。ただ全員がその後に口を揃えて「ただしF1のワイドタイヤを振り回せるだけの腕力がない」
可夢偉はやっぱり大きな後ろ盾がないことでしょうね、それさえあればもっと活躍の舞台も多かったはず
当時国内F2で敵なし状態だったので「中嶋悟がF1に乗ったらどうなるんだろう」という期待はありました。
トヨタ・ヤマハにもなし得なかった
日本唯一 チャンピオンエンジンは後にも先にもホンダだけ。
ボカシの画像すきでない
今回も、F1とインディで勝ちながら、前回もF1のルールまで変えられる位常勝なのに、なぜHONDAはFR4ドアのライトウエイトスポーツを出さないのか不思議でならない。ドイツ車のお株を取り、F1からも撤退しなくて良くなるのに。
いっぱし?いったん?どっち?
1500ccで1500馬力は化け物過ぎるw 今のエンジンより馬力ある説w
80年代のターボエンジンと現在のターボ付きパワーユニットは全くの別物ですからね~
ターボエンジン時代は馬力至上主義でどっかん仕様でしたね~
@@kenken-so1pt 性能は今で、パワーは昔ですねーw
予選の時は、もっと出てたと聞いた事があります。
@@kenken-so1pt ミスファイアリングシステム等を付けていればそのドッカンやターボラグも完璧に消え更に速く扱い易いエンジンになっていたと思いませんか?^^
@@kenken-so1pt レーシングオンの当時の開発者のインタビューでは
IHIも特別チームを作ってタービン開発をしていたようで
馬力を出しつつNAのようにレスポンスが良かったと書かれていました。
プロストもほんとにターボ?と首をかしげていたほど
88年はホンダが唯一落とした第12戦イタリアGPが印象に残ってます。
最後の2周でセナが接触し、そのままリタイア。
フェラーリがワンツーフィニッシュを決めました。
同年8月のエンツォが亡くなったこともあり、
フェラーリ執念の優勝という向きもありましょう。
ですが、問題はセナが接触したドライバーであります。
病欠したマンセルに代わってウィリアムズ からスポット参戦した
ドライバーの名はシュレッサー。
68年のホンダ第1期F1で事故死したジョー・シュレッサーの
甥であるジャン・ルイ・シュレッサーだったのです。
このことを知ったときには背筋が凍り付きましたね。
マクラーレン・ホンダの全線全勝という
空前絶後、今後もおそらく達成する者のいない
歴史に残る大記録を阻んだのはシュレッサー家の人間だったという・・・。
しかも、ジャン・ルイがF1に参戦したとは唯一このときだけ。
故意の事故ではないのは映像を見れば明らかです。
では単なる偶然だったのか? たぶんそれは違いますね。
ホンダの夢を断ち切ったのは本田宗一郎のエゴによって殺された
ジョー・シュレッサーの怨念によるもの
ではなかったのかと私は考えます。
まさに因果応報。つまりは20年後の死者による復讐ですよ。
この瞬間どんな気持ちだったのか、
本田宗一郎にはぜひ聞きたかったです。
ウィリアムスはこの頃からしくじっているんですね
まぁ、88年からのルノーでの下積みがあたから92年からの黄金期があったのかもしれないけど
でも88年はロータスホンダより、ウィリアムスホンダとして中島選手が出ていれば、もっと飛躍していたかもと考えると残念
そりゃマンセル降ろして中嶋乗せろと言われても拒否するでしょ。
そんなコトしたら英国で袋叩きだし。
実力も未知数なのに国籍を理由にトップチームに入れろって言われて「うん」って言うチームを聞いたことがない。
※ただし97年除く
当時一般的な視点から見た限りでは、ホンダは負け逃げにしか見えませんでした。
V 12エンジンを投入した事がトドメに思えました。
最新の技術満載のウィリアムズルノーと ホンダのエンジンパワーに頼りきりだったマクラーレンとじゃね^^;
ちなみにホンダは90年もフェラーリ+プロストマンセルに けっこうヤラれていましたしね^^;
私も同感に思います。
セナ選手が川井さんのインタビューでカメラ目線でホンダの技術者に向けての
奮起を促すコメントはショックでした。
92年にウイリアムズに負けての撤退って印象が強いです。
ホンダスピリッツで、93年以降もマクラーレンじゃなくてもいい、
他のチームでもいいので、王者となったウイリアムズに挑戦してもらいたかったです。
プラザ合意が造った経済史的な事件でも
あるのでこのタイミングでの撤退は
会社としては当然の選択。
プラザ合意は1985年ですよ
HONDAはSEXじゃあるまいし、F1を出たり入ったり。今後、今までのエンジン技術を捨てEVに切替えるとか。TOYOTAが正解だと思う。
ホンダはピケじゃなくてマンセルを優遇して欲しかった
マンセルはピケより速かったし、信頼性のある速いマシンに乗せれば
圧倒的に速いのは92年に証明している
中嶋をウイリアムズにというのはちょっと無理があるでしょ
確かロータスホンダで櫻井監督が、中嶋さんのタイムだとセナより2周遅れになるから燃費は気にしなくていいって
特集番組で言ってたのを思い出した。
ピケじゃなくマンセルを優遇しろというのはお門違いもいいとこで
実際はウィリアムズが露骨にマンセルを贔屓していたので非・ヨーロッパのアウトサイダー同士ということもありホンダはピケに同情的になったというだけ
ホンダとしてはマンセルもピケも優遇なんてしてないよ
これはセナプロ問題と同じ
ホンダが不公平をしていたかのようなミスリードは止めていただきたいものですねえ
確か、中嶋さんをウイリアムズにってのは、85、86年のウイリアムズの活躍は日本でテストを繰り返してくれた中嶋さんのあっての事だし、中嶋さんもF1に行きたかったから、
打診した日本人的な発想だと思います。
ただ、ホンダがマンセルを優先する事はなかったと思います。
チーム無線のまだまだだった80年代前半に、レース展開に応じて、自身の判断でマシンを労る走りをしていたネルソンをホンダは買ってたし、ウイリアムズに中嶋さんを断られた時、ネルソンを推薦したのはホンダだったからね。
会長が差別主義者ならf1も終わり