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とても立派なこと、感銘を受けました。
私の祖父は松山基地で「紫電」に搭乗してB29と戦いました祖父は海軍第6航空隊所属で零式21型を受領し空母「加賀」に乗りミッドウェー島占領後に駐留すべく二個小隊の一員でした部隊の大半は角田少将麾下の第二機動部隊空母「龍壌」「隼鷹」に乗座してアリューシャンへ向かいました機体は96式が予定されたのですが何故が零式21型を受領したそうです(結果アクタン島で鹵獲)加賀は対空戦に忙しく祖父等にも迎撃を命令し発艦しました加賀は被弾して火災をおこしやむを得ず空母「飛龍」に着艦補給後に対空戦の為に発艦し雷撃隊が帰還後に再び着艦補給最後の攻撃前に発艦して哨戒中に飛龍被弾 駆逐艦脇に着水内地帰還後直ぐに204航空隊にてトラック基地に転進 以降2年間の軍務内容は不明204航空隊解隊後はフィリピン迄転進して「神風特別自爆隊」の護衛を務め愛機を置いて内地に帰還しました松山基地へ新機材受領後に沖縄方面に進出する筈が臨時徴用され343航空隊に仮所属「くろさわ」さんなる方から「紫電」を与えられ訓練の後に迎撃戦闘機隊として奮戦部隊は九州へ転進しましたが祖父は松山基地に残り任期を果たしてましたが着陸時に脚を壊して修理中に終戦数日後大分から疎開していた爆撃機の彗星の胴体に収まり加古川基地に向かいましたが破壊され鶉野基地に着陸して現地解散し和歌山県に身を隠し木を切ってました航空自衛隊入隊が決まると貴重な戦時の品を息子等に焼かせました航空自衛隊ではF86の単独飛行に成功しましたが自らジェット特性無しと判断し教官を務めましたが後に発病し二尉にて病没海軍時代の撃墜数は9機 撃破9機ミッドウェー海戦の戦績や共同撃墜数含まれていないとの事あらゆる戦友会にも所属しなかった祖父が余り戦時の事を語りませんでしたが酒が入ると「戦わない軍隊が最強なんや」「零式は戦闘機としては一流だが飛行機としては三流」「B29はフタ丸(20㍉)撃ち込んでもビクともせえへん」など語りました😮
@@奥田圭亮-k5h 物凄い戦歴の猛者ですね。これだけの死地をかいくぐって来られたのは、類稀な幸運の持ち主だったのでしょう。頭が下がります。
@@HugeTabby 様祖父の二人の息子も孫の私も関心が薄く唯一従兄弟が熱心に調べまして先の記載になりました祖父は戦時資料品を焼き捨て話さない人でしたが航空自衛隊入隊が決まった時にフィリピン以降の話を病床時にミッドウェイの話をして亡くなりました204空時代の約2年は全く分かりませんでして従兄弟もお手上げで祖母によるとその間は自宅に帰らなかったとのことです私が生まれたときに男児を喜び「案山子飛行機に乗ってたぞ~」と上機嫌に抱っこしてくれました従兄弟曰く「紫電」は前からみたら案山子みたいにみえたのかも?
@@奥田圭亮-k5h 私の父の姉は、女学校出たばかりで、女子挺身隊のメンバーとして中島飛行機の工場に動員されて過労死しましたが、やはり親族はあまり私には伯母のことを教えてもらえませんでした。近所のお年寄りたちから、ものすごい美少女だった、とか、お茶目な女の子だった、とは聞きました。父は、椿の花と日本画を描くのが好きで、お葬式は神式で、あの地方ではよくあった紅白幕を使っての葬儀だった、と数回聞いただけです。梅干しがカビると家から死人が出る、とか、死人が出る家にはカラスが集まって来る、という田舎の言い伝えが本当に起こった、とも聞きました。私は、伯母の髑髏と改葬の時に対面しているので、強い縁を感じています。祖父が、伯母を偲んで家の前に植えたらしい椿の木の近くで遊ぶのが、なぜか好きでした。(その時は、その椿の木の由来は知りませんでした。)高校に入る頃に、近所の1学年上の別の高校の伯母の遺影にそっくりな女の子が、私に好意を持っていたのですが、近親相姦みたいなので、お付き合いはしませんでした。胸が大きな子だったので、伯母もしっかり食べていたら、こんな体型になっていたのかな?と密かに思いました。とにかく、戦争に関わった🪖人は、多くを語りたがらなかったみたいです。
とても立派なこと、感銘を受けました。
私の祖父は松山基地で「紫電」に搭乗してB29と戦いました
祖父は海軍第6航空隊所属で零式21型を受領し空母「加賀」に乗りミッドウェー島占領後に駐留すべく二個小隊の一員でした
部隊の大半は角田少将麾下の第二機動部隊空母「龍壌」「隼鷹」に乗座してアリューシャンへ向かいました
機体は96式が予定されたのですが何故が零式21型を受領したそうです
(結果アクタン島で鹵獲)
加賀は対空戦に忙しく祖父等にも迎撃を命令し発艦しました
加賀は被弾して火災をおこしやむを得ず空母「飛龍」に着艦
補給後に対空戦の為に発艦し雷撃隊が帰還後に再び着艦補給
最後の攻撃前に発艦して哨戒中に飛龍被弾 駆逐艦脇に着水
内地帰還後直ぐに204航空隊にてトラック基地に転進 以降2年間の軍務内容は不明
204航空隊解隊後はフィリピン迄転進して「神風特別自爆隊」の護衛を務め愛機を置いて内地に帰還しました
松山基地へ新機材受領後に沖縄方面に進出する筈が臨時徴用され343航空隊に仮所属
「くろさわ」さんなる方から「紫電」を与えられ訓練の後に迎撃戦闘機隊として奮戦
部隊は九州へ転進しましたが祖父は松山基地に残り任期を果たしてましたが着陸時に脚を壊して修理中に終戦
数日後大分から疎開していた爆撃機の彗星の胴体に収まり加古川基地に向かいましたが破壊され鶉野基地に着陸して現地解散し和歌山県に身を隠し木を切ってました
航空自衛隊入隊が決まると貴重な戦時の品を息子等に焼かせました
航空自衛隊ではF86の単独飛行に成功しましたが自らジェット特性無しと判断し教官を務めましたが後に発病し二尉にて病没
海軍時代の撃墜数は9機 撃破9機
ミッドウェー海戦の戦績や共同撃墜数含まれていないとの事
あらゆる戦友会にも所属しなかった祖父が余り戦時の事を語りませんでしたが酒が入ると
「戦わない軍隊が最強なんや」
「零式は戦闘機としては一流だが飛行機としては三流」
「B29はフタ丸(20㍉)撃ち込んでもビクともせえへん」
など語りました😮
@@奥田圭亮-k5h 物凄い戦歴の猛者ですね。これだけの死地をかいくぐって来られたのは、類稀な幸運の持ち主だったのでしょう。頭が下がります。
@@HugeTabby 様
祖父の二人の息子も孫の私も関心が薄く唯一従兄弟が熱心に調べまして先の記載になりました
祖父は戦時資料品を焼き捨て話さない人でしたが航空自衛隊入隊が決まった時にフィリピン以降の話を
病床時にミッドウェイの話をして亡くなりました
204空時代の約2年は全く分かりませんでして従兄弟もお手上げで祖母によるとその間は自宅に帰らなかったとのことです
私が生まれたときに男児を喜び
「案山子飛行機に乗ってたぞ~」と上機嫌に抱っこしてくれました
従兄弟曰く「紫電」は前からみたら案山子みたいにみえたのかも?
@@奥田圭亮-k5h 私の父の姉は、
女学校出たばかりで、女子挺身隊のメンバーとして中島飛行機の工場に動員されて過労死しましたが、やはり親族はあまり私には伯母のことを教えてもらえませんでした。近所のお年寄りたちから、ものすごい美少女だった、とか、お茶目な女の子だった、とは聞きました。父は、椿の花と日本画を描くのが好きで、お葬式は神式で、あの地方ではよくあった紅白幕を使っての葬儀だった、と数回聞いただけです。梅干しがカビると家から死人が出る、とか、死人が出る家にはカラスが集まって来る、という田舎の言い伝えが本当に起こった、とも聞きました。私は、伯母の髑髏と改葬の時に対面しているので、強い縁を感じています。祖父が、伯母を偲んで家の前に植えたらしい椿の木の近くで遊ぶのが、なぜか好きでした。(その時は、その椿の木の由来は知りませんでした。)高校に入る頃に、近所の1学年上の別の高校の伯母の遺影にそっくりな女の子が、私に好意を持っていたのですが、近親相姦みたいなので、お付き合いはしませんでした。胸が大きな子だったので、伯母もしっかり食べていたら、こんな体型になっていたのかな?と密かに思いました。とにかく、戦争に関わった🪖人は、多くを語りたがらなかったみたいです。