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昭和33年に設立された高森親鸞会と受け止めています。歴史ある浄土真宗(西と東)が認めていない宗派!残念ですが、やはり新興宗教の何ものでもないと思います。念仏も称えず、み教えの法話もされない動画を皆さんはどのように受け止めておられるのでしょうか💦
難しすぎます。ぜひ菊谷先生とコラボして頂きたい。
とりあえずお金をせびられた時には抜けた方がいいですよ。あと勧誘を強制される時ね
それはそうと、親鸞会の皆様は、お葬式やお墓は、それぞれのご実家の菩提寺にお願いするのでしょうか???
何時も拝聴しています。唐突ですが渡邉先生は信心を頂いておりますか?教えください。
「新興宗教」「新宗教」と言われる理由は教義上の問題というより、偽装勧誘・ダミーサークルなどの布教方針にあるのでは?
偽装勧誘については、私たち一人一人のものの見かたであるでしょう。その動機が我利で目的が金儲けであるなら偽装勧誘となりますし、その動機が慈悲で目的が自利利他であるなら方便と言えるでしょう。あなたは、親鸞会の先生がたの布教活動を見られてどう思われるでしょうか。親鸞会ですが仏教の話を聞きませんか?などとアプローチしていたなら今頃、菊谷先生や筬島先生、添谷先生も別の人生を歩まれていたかも知れませんし、先生方に現にいま救われている人たちの運命もまた変わったことでしょう。死んだ子どもを生きかえらせてあげるから、死者のてでいない家からけし粒をもらってきなさい。と言われたお釈迦様に嘘つきとは誰も言わないでしょう。
私は貴会の勧誘の方針を否定していませんよ。世間一般で言われる「新宗教」「新興宗教」の特徴のひとつとして「名前を隠した上での勧誘」があるのではないかと申し上げただけです。
@@user-ue3bi4yq3i久直 長濱様はじめまして。青様とのコメントのやり取りを、繰り返し拝読いたしました。お釈迦様の同苦の智慧は、慈悲心そのものから発せられた対機説法であると同時に普遍的なので、人々の心を揺さぶり、語り継がれておりますけれども、菊谷氏や筬島氏が会員になられた経緯や、今現在、大学生を中心にサークル活動と見せかけて誘い、コミュニティに馴染んでしまったところで正体を明かす姑息な手法・偽装と、受け入れ難い現実を前にして、どうしようもなく、心の底から湧き上がる悲哀、途方に暮れた人間の救済のための方便とを無理矢理つなげて正当化するのは、違和感しかないですね😅💦
@@user-dg8oy4jx7hさま、私のコメントは非表示となったようです。私にもあなたを非難する気はございませんでした。非礼があったことをお詫び申し上げます。何とぞお許しください。それから私は親鸞会の者ではございません。ご承知おきください。
@@user-ue3bi4yq3i様非表示になったのではなく、「人気順」の表示を「新しい順」にすれば観られますよ。
渡部隆志様自己認識と他者評価は、分けて考えたならば、僧侶のいない親鸞会を、浄土真宗の新宗教と評価している方がいるのも頷けますし、むしろ、旧態依然としたシステムに縛られない、苔むした抹香臭い、権威主義体制の葬式仏教とは決別した新興宗教であると率直にお認めになられた方が、若者からも支持されると思います❤(親鸞会の講師陣のプライドと、会員向けに、宗教離れの現実を直視して、結束を強めるための、さまざまな受け止めの段階にある会員の信仰心、会員であっても、未だ信心を得ていない人々への教義上の方便としての「正統性」のご主張に聞こえます)
新興宗教の会長の書いた本を根拠に出したところで新興宗教ではないという根拠にはならんでしょ。
訂正します、「仇桜」でした。
動画拝見いたしました。高森親鸞会様でお考えになる基準でございますので高森親鸞会様からして、それはそれでよろしいのだろうと思います。他と比較した場合、他の側から言えば異なる事もあるのだろうとは思いますが。
渡部先生いつも本当にありがとうございます。真宗聖典の根拠を縦横無尽にご教示していただき教学の理解が一層深まります。聴聞させていただいてワクワクしながら法楽しております。心より深く感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。釈尊出世の本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
どんな宗教もはじめは新興宗教や新宗教なのでは? 否定するようなものではないように思います。
とても説得のある御説法有難うございました
正統とか異端というよりも、親鸞聖人の教えをそのまま伝えているのは親鸞会 親鸞聖人の教えを誤って伝えているのは”現在の”本願寺
ありがとうございます。親鸞聖人の教えがよく分かりました。「新興宗教」どころか、親鸞聖人の教えそのままを教義とされているのですね。
要するにね、親鸞の生きた時代は楽しみが殆どなく、考えることと言えば死んだらどうなるか、そればっかりだったのですよ。すべての人が。だから、それをはっきりさせたいと親鸞は思った。そして法然に出会った時、弥陀の本願を信心するしかその方法はない、 そう考えたのです。そして繰り返し繰り返し信心を深め、よしこれで極楽往生間違いなしと思った時、南無阿弥陀仏と唱えたのです。つまり、阿弥陀仏も極楽浄土も本当にあるのやらないのやら分からないのなら、とにかく信じようと。そして分からないけれども、自分の中で確信したと思った時、自分は救われたと考えただけです。これ誰でもできます。信じ抜くことです。そして絶対間違いない、極楽往生出来ると心底思う事です。そしたら、生きるのが楽になりますよ。本当かどうか確かめようもない事だけど、心底信じたのだからもうそれで良いのです。宗教とはそんなものです。「明日ありと思う心の徒桜…」そんな、急ぐ必要もなかったのにね。だから、何が言いたいかというと、弥陀の誓願を心から信じ込み、ああ良かった、これで私も極楽往生間違いなしと思い込む事です。ただ、それだけで良い。それでこの世を楽に生きて行けるのです。浄土真宗、そんなに難しく考える必要ないのです。
南無阿弥陀仏
親鸞会を否定することは、当然、親鸞聖人、そして釈迦牟尼仏、更に言えば、阿弥陀如来までを否定することになります。南無阿弥陀仏m(__)m
1 御名号本尊2 平生業成3 唯信独達S氏は、同じことを説くのでしょうか。先生のお話に凄く説得力を感じます。ありがとうございました
同感です 1.に関しては 蓮如上人の御文を素直に受け取めればいいのに 本願寺の現実が蓮如上人の御言葉と違っているので言い訳ばかり 2.に関しては 一念でハッキリ業成するという親鸞会と差別化したいのか 一念はだんだんとしたボンヤリしたものと本願寺の坊さんの中にいう人がいて それこそだんだんとお聖教から遠のいく 3.に関しては 唯信独達の信のすばらしさがわからない本願寺の坊さんがいて 絶対の幸福でないという坊さんがいる 阿弥陀様の救いは絶対でないとその坊さんはいいたいのか いつ崩れてしまうかわからない不安なものが阿弥陀様の救いなのか よくよく反省をして親鸞聖人の御教えを伝えてほしい 渡部先生の御説法はとても説得力がありました
教義上の相違点があるのは、広く、社会一般のシステムにも言えますし、一人一人の人間が、まったく違う環境で育ち、同じモノを見ても、感じ方や受け止め方がそれぞれ違うように、それが、宗教やイデオロギーになった途端に、組織の同調圧力に従って「分かったフリ」や、経験値を鵜呑みにしたり、逆に、理想論を杓子定規に現実に当てはめようと足掻くから、歪みが生じるのであって、親鸞会も、今、若者世代への布教が芳しくない状況を直視して、責任世代の講師陣は、従来の教条主義を刷新して、浄土真宗の本質を伝えるためにも、宗教組織維持のための会員ではなく、会員の絶対的な幸福のための組織に改善するために、本気で世代交代に取り組まれる時かと存じます🫡
昭和33年に設立された高森親鸞会と受け止めています。歴史ある浄土真宗(西と東)が認めていない宗派!
残念ですが、やはり新興宗教の何ものでもないと思います。
念仏も称えず、み教えの法話もされない動画を皆さんはどのように受け止めておられるのでしょうか💦
難しすぎます。
ぜひ菊谷先生とコラボして頂きたい。
とりあえずお金をせびられた時には抜けた方がいいですよ。あと勧誘を強制される時ね
それはそうと、親鸞会の皆様は、お葬式やお墓は、それぞれのご実家の菩提寺にお願いするのでしょうか???
何時も拝聴しています。唐突ですが渡邉先生は信心を頂いておりますか?教えください。
「新興宗教」「新宗教」と言われる理由は教義上の問題というより、偽装勧誘・ダミーサークルなどの布教方針にあるのでは?
偽装勧誘については、私たち一人一人のものの見かたであるでしょう。その動機が我利で目的が金儲けであるなら偽装勧誘となりますし、その動機が慈悲で目的が自利利他であるなら方便と言えるでしょう。あなたは、親鸞会の先生がたの布教活動を見られてどう思われるでしょうか。親鸞会ですが仏教の話を聞きませんか?などとアプローチしていたなら今頃、菊谷先生や筬島先生、添谷先生も別の人生を歩まれていたかも知れませんし、先生方に現にいま救われている人たちの運命もまた変わったことでしょう。死んだ子どもを生きかえらせてあげるから、死者のてでいない家からけし粒をもらってきなさい。と言われたお釈迦様に嘘つきとは誰も言わないでしょう。
私は貴会の勧誘の方針を否定していませんよ。世間一般で言われる「新宗教」「新興宗教」の特徴のひとつとして「名前を隠した上での勧誘」があるのではないかと申し上げただけです。
@@user-ue3bi4yq3i
久直 長濱様
はじめまして。青様とのコメントのやり取りを、繰り返し拝読いたしました。
お釈迦様の同苦の智慧は、慈悲心そのものから発せられた対機説法であると同時に普遍的なので、人々の心を揺さぶり、語り継がれておりますけれども、菊谷氏や筬島氏が会員になられた経緯や、今現在、大学生を中心にサークル活動と見せかけて誘い、コミュニティに馴染んでしまったところで正体を明かす姑息な手法・偽装と、受け入れ難い現実を前にして、どうしようもなく、心の底から湧き上がる悲哀、途方に暮れた人間の救済のための方便とを無理矢理つなげて正当化するのは、違和感しかないですね😅💦
@@user-dg8oy4jx7hさま、私のコメントは非表示となったようです。私にもあなたを非難する気はございませんでした。非礼があったことをお詫び申し上げます。何とぞお許しください。それから私は親鸞会の者ではございません。ご承知おきください。
@@user-ue3bi4yq3i様
非表示になったのではなく、「人気順」の表示を「新しい順」にすれば観られますよ。
渡部隆志様
自己認識と他者評価は、分けて考えたならば、僧侶のいない親鸞会を、浄土真宗の新宗教と評価している方がいるのも頷けますし、むしろ、旧態依然としたシステムに縛られない、苔むした抹香臭い、権威主義体制の葬式仏教とは決別した新興宗教であると率直にお認めになられた方が、若者からも支持されると思います❤
(親鸞会の講師陣のプライドと、会員向けに、宗教離れの現実を直視して、結束を強めるための、さまざまな受け止めの段階にある会員の信仰心、会員であっても、未だ信心を得ていない人々への教義上の方便としての「正統性」のご主張に聞こえます)
新興宗教の会長の書いた本を根拠に出したところで新興宗教ではないという根拠にはならんでしょ。
訂正します、「仇桜」でした。
動画拝見いたしました。
高森親鸞会様でお考えになる基準でございますので
高森親鸞会様からして、それはそれでよろしいのだろう
と思います。
他と比較した場合、他の側から言えば異なる事も
あるのだろうとは思いますが。
渡部先生いつも本当にありがとうございます。真宗聖典の根拠を縦横無尽にご教示していただき教学の理解が一層深まります。聴聞させていただいてワクワクしながら法楽しております。心より深く感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。釈尊出世の本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
どんな宗教もはじめは新興宗教や新宗教なのでは? 否定するようなものではないように
思います。
とても説得のある御説法有難うございました
正統とか異端というよりも、親鸞聖人の教えをそのまま伝えているのは親鸞会 親鸞聖人の教えを誤って伝えているのは”現在の”本願寺
ありがとうございます。
親鸞聖人の教えがよく分かりました。
「新興宗教」どころか、親鸞聖人の教えそのままを
教義とされているのですね。
要するにね、親鸞の生きた時代は楽しみが殆どなく、考えることと言えば死んだらどうなるか、そればっかりだったのですよ。すべての人が。だから、それをはっきりさせたいと親鸞は思った。そして法然に出会った時、弥陀の本願を信心するしかその方法はない、 そう考えたのです。そして繰り返し繰り返し信心を深め、よしこれで極楽往生間違いなしと思った時、南無阿弥陀仏と唱えたのです。つまり、阿弥陀仏も極楽浄土も本当にあるのやらないのやら分からないのなら、とにかく信じようと。そして分からないけれども、自分の中で確信したと思った時、自分は救われたと考えただけです。これ誰でもできます。信じ抜くことです。そして絶対間違いない、極楽往生出来ると心底思う事です。そしたら、生きるのが楽になりますよ。本当かどうか確かめようもない事だけど、心底信じたのだからもうそれで良いのです。宗教とはそんなものです。「明日ありと思う心の徒桜…」そんな、急ぐ必要もなかったのにね。だから、何が言いたいかというと、弥陀の誓願を心から信じ込み、ああ良かった、これで私も極楽往生間違いなしと思い込む事です。ただ、それだけで良い。それでこの世を楽に生きて行けるのです。浄土真宗、そんなに難しく考える必要ないのです。
南無阿弥陀仏
親鸞会を否定することは、当然、親鸞聖人、そして釈迦牟尼仏、更に言えば、阿弥陀如来までを否定することになります。南無阿弥陀仏m(__)m
1 御名号本尊
2 平生業成
3 唯信独達
S氏は、同じことを説くのでしょうか。
先生のお話に凄く説得力を感じます。ありがとうございました
同感です 1.に関しては 蓮如上人の御文を素直に受け取めればいいのに 本願寺の現実が蓮如上人の御言葉と違っているので言い訳ばかり 2.に関しては 一念でハッキリ業成するという親鸞会と差別化したいのか 一念はだんだんとしたボンヤリしたものと本願寺の坊さんの中にいう人がいて それこそだんだんとお聖教から遠のいく 3.に関しては 唯信独達の信のすばらしさがわからない本願寺の坊さんがいて 絶対の幸福でないという坊さんがいる 阿弥陀様の救いは絶対でないとその坊さんはいいたいのか いつ崩れてしまうかわからない不安なものが阿弥陀様の救いなのか よくよく反省をして親鸞聖人の御教えを伝えてほしい 渡部先生の御説法はとても説得力がありました
教義上の相違点があるのは、広く、社会一般のシステムにも言えますし、一人一人の人間が、まったく違う環境で育ち、同じモノを見ても、感じ方や受け止め方がそれぞれ違うように、それが、宗教やイデオロギーになった途端に、組織の同調圧力に従って「分かったフリ」や、経験値を鵜呑みにしたり、逆に、理想論を杓子定規に現実に当てはめようと足掻くから、歪みが生じるのであって、親鸞会も、今、若者世代への布教が芳しくない状況を直視して、責任世代の講師陣は、従来の教条主義を刷新して、浄土真宗の本質を伝えるためにも、宗教組織維持のための会員ではなく、会員の絶対的な幸福のための組織に改善するために、本気で世代交代に取り組まれる時かと存じます🫡