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真夏でめっちゃ暑かったですが、話す内容も熱かったです!いまもこの人が案内しているかは不明ですが、何度でも行きたい場所ですね~。とても貴重な話し手だと思います。
懐かしい。呉出身です。小学生の頃、海上自衛隊呉教育隊の水泳教室に通っていました。桜の時期になると、みんなで江田島の幹部候補生学校へ花見に行きました。赤レンガの周りにキレイな桜が咲いていました。90年代のことです。
案内人の方が、説明しながら後ろ向き歩きされていらっしゃっることに、驚きと敬意を表します‼️
江田島の参考資料館に死ぬ前に一度行きたかったので、この動画配信はとても嬉しいです。配信ありがとうございました。
私は仕事で伺ってました。海軍兵学校の景色は、心にしみる風景です。多くの自衛隊員の方々に大変お世話になりました。
行きたい!ガイドさん話が上手い。てか大和ってめちゃくちゃ大きな戦艦だったんだ!💡かっこいい
素晴らしい! 22:08の気を付け!ガイドに感動しました。40数年前高校時分に江田島でカッター訓練を受けた記憶が蘇りました。今は鬼籍に入ったS4生まれの父も旧制中学時代に前倒し?で海兵を受験したけど歯が立たんかった(笑)と言っていたなぁ
私の父もそうでした。
私と家内の一族は戦前から高学歴者(旧制高校→旧制官立大学レベル)が多いのですが、陸軍幼年学校・陸軍士官学校・海軍三校(兵学校・機関学校・経理学校)に行った人は一人もいません。なお「俺は陸軍幼年学校を受けたが落ちた」という人は3人いました。3人とも、その後は旧制高校→旧制官立大学のエリートコースに乗れましたので、陸軍幼年学校に行くのが如何に難しかったか想像できます。
還暦すぎの者です。昔、西日本から東大進学して、祖父の知り合いに保証人になってもらいました。高校長がご自分が戦時中、旧制高校に四修で進学したと自慢して、音楽の時間に寮歌ばかり歌わされた良からぬ思い出はあったものの、どこの寮歌も、大衆社会を睥睨しながら飲んだり学んだりしてる雰囲気で、昭和史をリアルには分かっていなかったので、戦前はいいなと思ってました。その保証人は、一高、東大、官僚、議員の経歴でしたが、名刺を見たら弁護士とあって、司法試験も受けたんですかと聞いたら、受けなくても法曹になれた時代があったんだそうで、軍艦に乗って欧州まで行ったとか、昔はエリートだったんだなと思いました。寮歌祭なるものに、軍学校卒業者も参加していたと知り、軍学校に寮歌は似合わない感じがしたというか、軍学校への進学者は、本当は旧制高校に行きたかったけども、月謝の問題などであきらめた感じと思ってました。しかしWIKI の陸軍幼年学校に藤井非三四は、地方幼年学校(生徒150名)の運営経費が、生徒600人の旧制高等学校のそれとほぼ同額であり、幼年学校で「生徒1名に対し、教職員2名」の体制が取られていたことに言及し、今日に至るまで、日本でもっとも整備された教育機関は陸軍幼年学校だった、と述べたとありましたし、旧制高校のような教育内容も多かったようなので、おっしゃるように、特に太平洋戦争のかなり前は、難関の人気コースだったようですね。海軍兵学校の学生が出身の田舎に帰ると、地元で講演したとかいう記事を見たことがありますし、我妻栄先生と岸信介氏は首席争いしたとか聞きましたが、その兄の佐藤市郎中将が、海軍で一番頭が良かったとか、目が回ります。ただ、どこの国も上に行けば難しいのでしょうが、佐藤市郎、堀悌吉のように、良識的な人はすぐに予備役になるし、堀栄三のように優秀な人は戦後黙ってしまうのに、源田実、瀬島龍三らは、倫理的に謎めくし、エリート教育も難しいですね。 長々済みません
僕の亡くなった叔父さんは、伊号潜水艦の乗組員で、回天での特攻隊員で、特攻予定だったのが終戦により命拾いをして無事に戻って来ました。 叔父さんの回天での特攻予定日は、8月20日頃だったと聞きました。僕が小学6年頃だったので特攻の意味もよくわからなくて、、、、。今になってもっともっと詳しく聞いておけば良かったなと思うのですが、、、。小学生ではね、、。それにしてもこの案内人の方の個性あふれる案内についつい聞き入ってしまいました。お客さんを笑わせようとしてるサービス精神が素晴らしいですね。海軍愛の深さを感じました。 気合の入った 気をつけっ!! が最高でした。😀😀😀😀😀😀
この方は本当に素晴らしい案内をしてくださります☺️先日久しぶりにお会いしましたがまだ案内をされていて嬉しかったです😊
お疲れ様です。たまたまですがこの動画を見させて頂きました。ホントに説明上手いですね私の兄が長いこと海上自衛隊にいましたのと江田島で若い時教官をしていましたので興味を持って見ました。兄は現在82歳です呉にいます。ひょとして名前を言えば解るかもしれませんね。その時江田島に訪ねて行ったのを思い出しました。これからもツアー案内頑張って下さい。個人的な意見ですが、戦争をしない、させない抑止力の為軍備増強は当たりまえの話と思いますyou tube動画からの情報では5月の連休中に何か大きな変化があるかもしれませんね。
家の義父が終戦時千葉大学の学生だった頃海軍兵学校の生徒達が編入してきたそうだが英語もその他の外国語もそれ以外の教科も群を抜いてできたそうでとても敵わなかったそうだ。義父もそれに影響され英語は、かなり勉強したらしく死ぬまで英語はかなり明るかった。
義父様も当時の良家の父上の方ですね。田舎は殆どは高等小学校卒(2024年現在、100歳以上)で高等女学校・旧制中学への進学は今の大学進学より低かったと聞いています。私が20歳代の頃、海兵・陸士・陸幼卒の方と身近に接して来ました。義理父上を尊敬されておられましたね。合掌 礼拝
歴史の一端を垣間見た気がする。何故だか泣けてきた。とても貴重な映像をありがとうございます。
私は、30年くらい前、ここを見学しました。はじめに案内のかたから、「ここは観光地ではありません、厳粛な気持ちで見学してください」と、言い渡されました。
コメント失礼致します。大東亜戦争で大活躍した私が大尊敬する菅野直中佐もこの場所で青春を送り、勉学や訓練に精を出していたんだな・・と思いながら拝見しました。貴重な映像をありがとうございます。
ありがとうございます!そうですね。海軍兵学校は、多くの偉人が輩出されています。当時をイメージしながら見学するのもいいですね。神聖な空気も漂ってますが、案内する人が柔らかく説明してくれます。
まぁ日の当たる海軍兵学校も良いけども、海軍特年兵も取り上げてほしかった、うちの亡くなった親爺も海軍特年兵の四期生、終戦間際に入隊してます、一期生二期生は十五、六歳で最前線で数多戦死してます、兵学校のエリートみたいに日の当たるとこではなく、日陰の存在です、戦艦大和では、将来有る士官候補生は、退艦させられてますが、親爺の先輩の特年兵達は十五、六歳でもそのままの配置で戦死してます‼️
私も撮影された2017年のお盆の時期に見学に行きました。動画と同じルートを当時の記憶を思い起こしながら拝見しました。この動画のガイドの方とは違いましたが、その方も楽しく冗談を織り交ぜ、色々詳しく案内してくださったのを覚えています。教育参考館。もい一度訪れてみたいです。
「ワシらは他人様の子供にここで死んでくれと頼めるよう教練を積んできた」と解説された時には感じるものがありました。
懐かしい
14.15年前に行きました.このガイドさんに案内していただきました.楽しい想い出です.
私は兵学校35期卒業生、茨城出身大和田芳之助少将の義理の息子、栃木出身倉持昌信中佐を大叔父に持つ者です。彼等もここに来た事はあったのかもしれないと思いを馳せました。
案内人のおっちゃんの広島のアクセントが懐かしい~
30年位前卒業式にいきました。歴史ある立派な建物にビックリしました。岸壁でのボウフレ、英霊の方達が出撃される時に行われたとききました。なぜかしら涙が溢れました。
この案内の方、素晴らしいですね。この方の案内ツアーを受けてみたいものですね❤
もう亡くなった祖父が海軍兵学校にいました 話を聞いたのは小学生だったのであんまり理解できなかったのですが...(何かに残せば良かった😭)原爆被爆したのも江田島と言ってた気が 一度行ってみたいです
防大より一般大卒が多いのか、でも偉くなるのは防大が多いよね、陸軍の幼年学校と中卒と同じだね😮
何方か?私のコメントに高評価ありがとうございます‼️将来を担うべき兵学校出身の候補生は、将来の日本のために海上特攻隊の大和から退艦させられたのでしょうね、十四歳で志願して、まだ幼くして海軍特別年少兵の一期生二期生で大和に対置に付いていた特別年少兵には将来の日本のために成らない‼️と海軍上層部は思ったのでしょうね‼️
僕が江田島を見学したのは30年以上前で現役自衛官の方が案内してくれました。ガイド的なお話はなく先導していただいた感じでした、動画最後の建物は記憶にないです。
案内されてる方は吉本の人ですか😄
倉橋島にいた時2回見学に行きました 呉の方も海自の護衛艦の練習船を見学しました
行きたい🎉
終戦時の在校生全部には東大に入れるほどの実力は無かったでしょうね。兵学校が東大に並ぶ難関校と言われたのは平和時の200人ぐらいの定員の時代だから。でも戦乱と学徒動員で高等教育を受けた大学出身者が大幅に減少したから、復興のために、たくさんの若者に高等教育を施すことは、国レベルで必要な措置だったと思います。いかに昔は教育を重視していたかが分かると思います。
戦前は一番海兵二番は東大三番は陸士旧制中学校で学年で3名
各中学で1位2位が兵学校や陸軍士官学校に行き、その中の成績優秀者が参謀本部や陸軍大学校に行く。それらの集団が大本営…、優秀とは?(笑)になります。官僚や潰れた大企業みても成績優秀者と実務の結果は一致しないのがよく分かる。
本当におっしゃる通りだと思います。実戦で名を馳せた恩賜組は40期の山口多聞少将位で、駆逐艦や潜水艦を率いたり艦長として活躍された方は、兵学校では中の下の成績の方ばかりだと思います。頭の良さはともかくとして勝負度胸や機敏な判断力や行動力と頭の良さは比例していませんよね。成績が中の下だと良くて大佐までで、中佐で終る人達で将官クラスにはなれない人々の方が、実戦では活躍されていたと思いますね。まあその人達でも兵学校に合格したエリートで頭も良いのですが、兵学校では同期でも昇級が一番遅れたりする人達でしたからね。入学した時から卒業しても成績順位は一生付いて周りました。でもハンモックナンバーは多少変動するので、成績中レベルでも将官になれる事はありました。
25:50 77期生 江田島で最後の卒業生?昭和20年10月1日卒業の75期が最後の卒業生ですね。76期77期は終戦時に終了証書が与えられています。重箱の隅で申し訳ありませんが事実は事実なので悪しからず。
誤字を修正します。終了証書ではなく修了証書でした。
終戦間際は粗製乱造でかなりレベル下がった
3,400人も受け入れるって、すごいですよね。大講堂の収容人数は2千人と話しているのに、どうやって入校式をしたんだとか思います。それだけ逼迫していたのでしょうけど、とてもまともな教育は出来なかったでしょうね。
江田島には収容できなかったので大原分校、岩国分校ができたそうです。
こんにちは。コメント失礼します。記載の通りあまりにも大人数の為校庭で実施し、兵学校生徒でも短剣を吊るので在校生から不足分は短剣を借りたということになります。元海自
それ以前は合格者は100名前後で多くても200名程度ですから、如何に異常な人数か分かりますよね。余りにも戦局が悪化して士官の戦死率が高かった為に大量に育成されて、しかも四年だった課程も三年から二年半など、どんどん短縮されて行きましたからね。陸軍が敵国語として英語教育を廃止した時に、井上成美が兵学校長の時に英語教育を残した事で、戦後に他の大学などに転校する事に役立ちましたよね。そんなに大量に士官教育を無理して行うぐらいでしたら、叩き上げの下士官や特務少尉や機関学校生など指揮官に任命したら良いのですが、全ては兵学校卒でないと機関大佐がいても新任の十代の少尉候補生が俺が先任だと指揮をする始末でした。どんなに優秀でも兵学校を卒業したばかりの少年が艦や人を実戦で動かせるものではありませからね。
77期の短現ですが大竹で回天練習していました。戦争終わって卒業できませんでした。
軍の幹部がいつから高貴になったのだろう?😂
兎角、大衆庶民向けのコメントで建前論が日本では主流となっていますが、こちらの案内はユ-モアを交え広島弁で本音で喋ってられますね。現在の自衛隊の幹部候補生(防大・一般大学卒者)と戦中の海軍兵学校生徒の選抜項目がやや、違っているように感じます。← 先輩・上司・知人の父上から直接、ヒアリングです。現在の学力だけと違い、学力・身体検査・面接(適切)・その他(X)に、パスされていました。団塊世代の少し後か私の世代ですが、祖父母(明治生まれ)~両親~先輩・上司から戦中までの実話を聞いています。良い・悪いは別に旧い日本は無くなりつつ、あります。今の60代も後30年すれば亡くなるか、判断力無くなり~その時の日本を考える高齢者になりました。
ただの戦後生まれがエラそうに😄😄😄😄😄オレも戦後生まれ😂😂😂
根本听不见,这么小声还想开军舰?!!重来!!!
東郷平八郎所縁の者です。東郷平八郎が一番心残りだったのは乃木希典先生の203高地での武士道で果敢に戦った姿です。江田島に行きました。東郷平八郎の遺髪があると聞いたからです。中に入ると撮影禁止でした。遺髪も見ることは出来ませんでした。しかし、一番心に熱いものを感じたのは、祭壇を作り、白布を敷いて、特攻隊で亡くなられた英霊の名前を一人ひとり筆で記し、花を活け、水や供物を供え、線香を灯していた事でした。今も尚、海自では命がけで国を護る大和魂がしっかり受け継がれているのだと肌で感じました。私も素適な日本の興廃の危機に際し全てを捨て己を庇うことなく不条理に立ち向かっています。丁字の索で桜の美学を楽しむつもりです。結果ではなくたとえ全く歯が立たなくても、罪のない子ども達に笑顔で過ごせる未来を残す為に命ある限り決して諦めません。自衛隊員の皆様のご武運を祈ります。
真夏でめっちゃ暑かったですが、話す内容も熱かったです!
いまもこの人が案内しているかは不明ですが、何度でも行きたい場所ですね~。
とても貴重な話し手だと思います。
懐かしい。呉出身です。小学生の頃、海上自衛隊呉教育隊の水泳教室に通っていました。桜の時期になると、みんなで江田島の幹部候補生学校へ花見に行きました。赤レンガの周りにキレイな桜が咲いていました。90年代のことです。
案内人の方が、説明しながら後ろ向き歩きされていらっしゃっることに、驚きと敬意を表します‼️
江田島の参考資料館に死ぬ前に一度行きたかったので、この動画配信はとても嬉しいです。
配信ありがとうございました。
私は仕事で伺ってました。
海軍兵学校の景色は、心にしみる風景です。
多くの自衛隊員の方々に大変お世話になりました。
行きたい!ガイドさん話が上手い。
てか大和ってめちゃくちゃ大きな戦艦だったんだ!💡かっこいい
素晴らしい! 22:08の気を付け!ガイドに感動しました。40数年前高校時分に江田島でカッター訓練を受けた記憶が蘇りました。今は鬼籍に入ったS4生まれの父も旧制中学時代に前倒し?で海兵を受験したけど歯が立たんかった(笑)と言っていたなぁ
私の父もそうでした。
私と家内の一族は戦前から高学歴者(旧制高校→旧制官立大学レベル)が多いのですが、陸軍幼年学校・陸軍士官学校・海軍三校(兵学校・機関学校・経理学校)に行った人は一人もいません。なお「俺は陸軍幼年学校を受けたが落ちた」という人は3人いました。3人とも、その後は旧制高校→旧制官立大学のエリートコースに乗れましたので、陸軍幼年学校に行くのが如何に難しかったか想像できます。
還暦すぎの者です。
昔、西日本から東大進学して、祖父の知り合いに保証人になってもらいました。
高校長がご自分が戦時中、旧制高校に四修で進学したと自慢して、音楽の時間に寮歌ばかり歌わされた良からぬ思い出はあったものの、どこの寮歌も、大衆社会を睥睨しながら飲んだり学んだりしてる雰囲気で、
昭和史をリアルには分かっていなかったので、戦前はいいなと思ってました。
その保証人は、一高、東大、官僚、議員の経歴でしたが、名刺を見たら弁護士とあって、
司法試験も受けたんですかと聞いたら、受けなくても法曹になれた時代があったんだそうで、
軍艦に乗って欧州まで行ったとか、昔はエリートだったんだなと思いました。
寮歌祭なるものに、軍学校卒業者も参加していたと知り、軍学校に寮歌は似合わない感じがしたというか、
軍学校への進学者は、本当は旧制高校に行きたかったけども、月謝の問題などであきらめた感じと思ってました。
しかしWIKI の陸軍幼年学校に
藤井非三四は、地方幼年学校(生徒150名)の運営経費が、生徒600人の旧制高等学校のそれとほぼ同額であり、幼年学校で「生徒1名に対し、教職員2名」の体制が取られていたことに言及し、
今日に至るまで、日本でもっとも整備された教育機関は陸軍幼年学校だった、と述べたとありましたし、
旧制高校のような教育内容も多かったようなので、
おっしゃるように、特に太平洋戦争のかなり前は、難関の人気コースだったようですね。
海軍兵学校の学生が出身の田舎に帰ると、地元で講演したとかいう記事を見たことがありますし、
我妻栄先生と岸信介氏は首席争いしたとか聞きましたが、
その兄の佐藤市郎中将が、海軍で一番頭が良かったとか、目が回ります。
ただ、どこの国も上に行けば難しいのでしょうが、
佐藤市郎、堀悌吉のように、良識的な人はすぐに予備役になるし、堀栄三のように優秀な人は戦後黙ってしまうのに、
源田実、瀬島龍三らは、倫理的に謎めくし、エリート教育も難しいですね。 長々済みません
僕の亡くなった叔父さんは、伊号潜水艦の乗組員で、回天での特攻隊員で、特攻予定だったのが終戦により命拾いをして無事に戻って来ました。 叔父さんの回天での特攻予定日は、8月20日頃だったと聞きました。僕が小学6年頃だったので特攻の意味もよくわからなくて、、、、。今になってもっともっと詳しく聞いておけば良かったなと思うのですが、、、。小学生ではね、、。それにしてもこの案内人の方の個性あふれる案内についつい聞き入ってしまいました。お客さんを笑わせようとしてるサービス精神が素晴らしいですね。海軍愛の深さを感じました。 気合の入った 気をつけっ!! が最高でした。😀😀😀😀😀😀
この方は本当に素晴らしい案内をしてくださります☺️
先日久しぶりにお会いしましたがまだ案内をされていて嬉しかったです😊
お疲れ様です。たまたまですがこの動画を見させて頂きました。ホントに説明上手いですね
私の兄が長いこと海上自衛隊にいましたのと江田島で若い時教官をしていましたので興味を持って見ました。
兄は現在82歳です呉にいます。ひょとして名前を言えば解るかもしれませんね。
その時江田島に訪ねて行ったのを思い出しました。これからもツアー案内頑張って下さい。
個人的な意見ですが、戦争をしない、させない抑止力の為軍備増強は当たりまえの話と思います
you tube動画からの情報では5月の連休中に何か大きな変化があるかもしれませんね。
家の義父が終戦時千葉大学の学生だった頃海軍兵学校の生徒達が編入してきたそうだが英語もその他の外国語もそれ以外の教科も群を抜いてできたそうでとても敵わなかったそうだ。
義父もそれに影響され英語は、かなり勉強したらしく死ぬまで英語はかなり明るかった。
義父様も当時の良家の父上の方ですね。田舎は殆どは高等小学校卒(2024年現在、100歳以上)で高等女学校・旧制中学への進学は今の大学進学より低かったと聞いています。私が20歳代の頃、海兵・陸士・陸幼卒の方と身近に接して来ました。義理父上を尊敬されておられましたね。合掌 礼拝
歴史の一端を垣間見た気がする。
何故だか泣けてきた。
とても貴重な映像をありがとうございます。
私は、30年くらい前、ここを見学しました。はじめに案内のかたから、「ここは観光地ではありません、厳粛な気持ちで見学してください」と、言い渡されました。
コメント失礼致します。
大東亜戦争で大活躍した私が大尊敬する菅野直中佐もこの場所で青春を送り、勉学や訓練に精を出していたんだな・・と思いながら拝見しました。
貴重な映像をありがとうございます。
ありがとうございます!
そうですね。海軍兵学校は、多くの偉人が輩出されています。
当時をイメージしながら見学するのもいいですね。
神聖な空気も漂ってますが、案内する人が柔らかく説明してくれます。
まぁ日の当たる海軍兵学校も良いけども、海軍特年兵も
取り上げてほしかった、
うちの亡くなった親爺も海軍特年兵の四期生、終戦間際に入隊してます、一期生二期生は十五、六歳で最前線で数多戦死してます、兵学校のエリートみたいに日の当たるとこではなく、日陰の存在です、戦艦大和では、将来有る士官候補生は、退艦させられてますが、親爺の先輩の特年兵達は十五、六歳でもそのままの配置で戦死してます‼️
私も撮影された2017年のお盆の時期に見学に行きました。動画と同じルートを当時の記憶を思い起こしながら拝見しました。
この動画のガイドの方とは違いましたが、その方も楽しく冗談を織り交ぜ、色々詳しく案内してくださったのを覚えています。
教育参考館。もい一度訪れてみたいです。
「ワシらは他人様の子供にここで死んでくれと頼めるよう教練を積んできた」と解説された時には感じるものがありました。
懐かしい
14.15年前に行きました.このガイドさんに案内していただきました.楽しい想い出です.
私は兵学校35期卒業生、茨城出身大和田芳之助少将の義理の息子、
栃木出身倉持昌信中佐を大叔父に持つ者です。
彼等もここに来た事はあったのかもしれないと思いを馳せました。
案内人のおっちゃんの広島のアクセントが懐かしい~
30年位前卒業式にいきました。歴史ある立派な建物にビックリしました。岸壁でのボウフレ、英霊の方達が出撃される時に行われたとききました。なぜかしら涙が溢れました。
この案内の方、素晴らしいですね。この方の案内ツアーを受けてみたいものですね❤
もう亡くなった祖父が海軍兵学校にいました 話を聞いたのは小学生だったのであんまり理解できなかったのですが...(何かに残せば良かった😭)原爆被爆したのも江田島と言ってた気が 一度行ってみたいです
防大より一般大卒が多いのか、でも偉くなるのは防大が多いよね、陸軍の幼年学校と中卒と同じだね😮
何方か?私のコメントに高評価ありがとうございます‼️
将来を担うべき兵学校出身の候補生は、将来の日本のために海上特攻隊の大和から退艦させられたのでしょうね、
十四歳で志願して、まだ幼くして海軍特別年少兵の一期生二期生で大和に対置に付いていた特別年少兵には将来の
日本のために成らない‼️と
海軍上層部は思ったのでしょうね‼️
僕が江田島を見学したのは30年以上前で現役自衛官の方が案内してくれました。
ガイド的なお話はなく先導していただいた感じでした、動画最後の建物は記憶にないです。
案内されてる方は吉本の人ですか😄
倉橋島にいた時2回見学に行きました 呉の方も海自の護衛艦の練習船を見学しました
行きたい🎉
終戦時の在校生全部には東大に入れるほどの実力は無かったでしょうね。
兵学校が東大に並ぶ難関校と言われたのは平和時の200人ぐらいの定員の時代だから。
でも戦乱と学徒動員で高等教育を受けた大学出身者が大幅に減少したから、復興のために、たくさんの若者に高等教育を施すことは、国レベルで必要な措置だったと思います。
いかに昔は教育を重視していたかが分かると思います。
戦前は一番海兵
二番は東大
三番は陸士
旧制中学校で
学年で3名
各中学で1位2位が兵学校や陸軍士官学校に行き、その中の成績優秀者が参謀本部や陸軍大学校に行く。
それらの集団が大本営…、優秀とは?(笑)になります。
官僚や潰れた大企業みても成績優秀者と実務の結果は一致しないのがよく分かる。
本当におっしゃる通りだと思います。
実戦で名を馳せた恩賜組は40期の山口多聞少将位で、駆逐艦や潜水艦を率いたり艦長として活躍された方は、兵学校では中の下の成績の方ばかりだと思います。
頭の良さはともかくとして勝負度胸や機敏な判断力や行動力と頭の良さは比例していませんよね。
成績が中の下だと良くて大佐までで、中佐で終る人達で将官クラスにはなれない人々の方が、実戦では活躍されていたと思いますね。
まあその人達でも兵学校に合格したエリートで頭も良いのですが、兵学校では同期でも昇級が一番遅れたりする人達でしたからね。
入学した時から卒業しても成績順位は一生付いて周りました。でもハンモックナンバーは多少変動するので、成績中レベルでも将官になれる事はありました。
25:50 77期生 江田島で最後の卒業生?
昭和20年10月1日卒業の75期が最後の卒業生ですね。
76期77期は終戦時に終了証書が与えられています。
重箱の隅で申し訳ありませんが事実は事実なので悪しからず。
誤字を修正します。終了証書ではなく修了証書でした。
終戦間際は粗製乱造でかなりレベル下がった
3,400人も受け入れるって、すごいですよね。
大講堂の収容人数は2千人と話しているのに、どうやって入校式をしたんだとか思います。
それだけ逼迫していたのでしょうけど、とてもまともな教育は出来なかったでしょうね。
江田島には収容できなかったので大原分校、岩国分校ができたそうです。
こんにちは。コメント失礼します。
記載の通りあまりにも大人数の為校庭で実施し、兵学校生徒でも短剣を吊るので在校生から不足分は短剣を借りたということになります。元海自
それ以前は合格者は100名前後で多くても200名程度ですから、如何に異常な人数か分かりますよね。
余りにも戦局が悪化して士官の戦死率が高かった為に大量に育成されて、しかも四年だった課程も三年から二年半など、どんどん短縮されて行きましたからね。
陸軍が敵国語として英語教育を廃止した時に、井上成美が兵学校長の時に英語教育を残した事で、戦後に他の大学などに転校する事に役立ちましたよね。
そんなに大量に士官教育を無理して行うぐらいでしたら、叩き上げの下士官や特務少尉や機関学校生など指揮官に任命したら良いのですが、全ては兵学校卒でないと機関大佐がいても新任の十代の少尉候補生が俺が先任だと指揮をする始末でした。
どんなに優秀でも兵学校を卒業したばかりの少年が艦や人を実戦で動かせるものではありませからね。
77期の短現ですが大竹で回天練習していました。戦争終わって卒業できませんでした。
軍の幹部がいつから高貴になったのだろう?😂
兎角、大衆庶民向けのコメントで建前論が日本では主流となっていますが、こちらの案内はユ-モアを交え広島弁で本音で喋ってられますね。現在の自衛隊の幹部候補生(防大・一般大学卒者)と戦中の海軍兵学校生徒の選抜項目がやや、違っているように感じます。← 先輩・上司・知人の父上から直接、ヒアリングです。現在の学力だけと違い、学力・身体検査・面接(適切)・その他(X)に、パスされていました。団塊世代の少し後か私の世代ですが、祖父母(明治生まれ)~両親~先輩・上司から戦中までの実話を聞いています。良い・悪いは別に旧い日本は無くなりつつ、あります。今の60代も後30年すれば亡くなるか、判断力無くなり~その時の日本を考える高齢者になりました。
ただの戦後生まれがエラそうに😄😄😄😄😄
オレも戦後生まれ😂😂😂
根本听不见,这么小声还想开军舰?!!重来!!!
東郷平八郎所縁の者です。東郷平八郎が一番心残りだったのは乃木希典先生の203高地での武士道で果敢に戦った姿です。
江田島に行きました。東郷平八郎の遺髪があると聞いたからです。中に入ると撮影禁止でした。遺髪も見ることは出来ませんでした。しかし、一番心に熱いものを感じたのは、祭壇を作り、白布を敷いて、特攻隊で亡くなられた英霊の名前を一人ひとり筆で記し、花を活け、水や供物を供え、線香を灯していた事でした。今も尚、海自では命がけで国を護る大和魂がしっかり受け継がれているのだと肌で感じました。
私も素適な日本の興廃の危機に際し
全てを捨て己を庇うことなく不条理に立ち向かっています。
丁字の索で桜の美学を楽しむつもりです。結果ではなくたとえ全く歯が立たなくても、罪のない子ども達に笑顔で過ごせる未来を残す為に命ある限り決して諦めません。
自衛隊員の皆様のご武運を祈ります。