Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
疾風のパイロットだったというご老人存じております。訓練に加えものすごい勉強量で、今の若い人たちにはわからないでしょうね、とおっしゃってました。短いお言葉でしたが実に実感こもってました。
航空自衛隊の戦闘機パイロットもかなり勉強させられるそうです。
日本軍機の中では、疾風が一番シュットしてかっこいいんだよ。
疾風は確かに格好いいし強そう死んだ祖父も言ってましたでも五式戦闘機(空冷)と零戦もいかにも日本機らしい精悍さと美しさを感じさせる容姿を併せ持つ素晴らしい戦闘機を作った日本の技術とこれらの飛行機に誇りを感じます
戦闘機じゃないけど99式襲撃機…簡単なスペックだけをみたら微妙だけど空のワークホースとしての活躍が好き
飛燕のほうがスマートだと思うけど?技術力と資源の無さが日本機の足を引っ張りましたね
@@ehehe123456 飛燕の計算間違えて頑丈に作り過ぎたって逸話好き
@@sei-un 頑丈な機体のお陰で急降下でアメリカの戦闘機から逃げられたらしいですね
ロッキードP38に乗る米軍の撃墜王(日本機38機撃墜)トーマス.マクガイアを撃ち落としたのが疾風だったんだよな、大したものだよ疾風は、、👏👏👏🇯🇵🇯🇵🇯🇵😃😃😃
諸説あって、マクガイアを落としたのは、隼のほうで、疾風が落としたのは、両機の方でたまたま、爆撃任務中に空戦をしている友軍に遭遇して、爆装したまま空戦に参加したそうです。マクガイアは、敵が隼1機だと油断して格闘戦に入り、逆に小隊4機が追い立てられることになり、両機を守る為に無理な機動をして墜落してます。その空戦でパニックになっていたので、疾風は反撃を受けることなく両機のP38を撃墜しました。疾風のパイロットは、マラリアで意識朦朧としながら戦っていたそうです。
yuta S 返信ありがとうございましすいずれにせよ高度1000メートル程の低空域での戦闘だったらしいですね、本来、低高度低速なら日本機の得意な空域、この当時マクガイア編隊は油断というか少し日本軍を侮っていた部分があったかも知れませんね、増槽を捨てずに戦闘に入れとの指示をしていとの説、、🙏🙏🙏😓😓😓
@@yutas8710 マラリアで朦朧としながら敵を撃ち落とすとか凄い腕前ですね!!!
@@yutas8710 マクガイヤと落としたのは、折鶴の戦隊マークをつけた飛行第54戦隊のベテラン・パイロット杉本准尉で、マクガイヤを撃墜したものの杉本機も被弾して不時着したところをフィリピン・ゲリラに襲われて殺害されてしまいました。杉本准尉とマクガイヤが、いわば相討ちになったところへ、別の飛行戦隊の福田軍曹の四式戦が突入してきて、マクガイアの列機のリットメイヤーを一撃で撃墜したのです。このとき福田軍曹は初陣であり、興奮のあまり爆装のまま一文字に突入したのですが、このリットメイアも、米陸軍航空隊のエースですから、薩摩隼人の福田軍曹の燃え上がる闘志が大金星を挙げたのでした。福田軍曹は生き延びて終戦を迎え、郷里の鹿児島に復員したのでした。
追記、ちなみにこのとき杉本准尉の乗っていたのは一式戦隼の3型ですね。54戦隊は北千島に残億隊を残していて、そこにあった残骸をもとにリバース・エンジニアリングで復元したのが、今飛行可能な、グラマンF4Fのエンジンを積んだ隼です。この機は黄色い折鶴を図案化したマークをつけています。
感動しました。日本陸軍航空隊も捨てたものではない。整備体系を全軍に徹底し、燃料の開発を重視すれば、恐ろしい戦力になった。悔やまれれる。日本軍全般に総合戦力を組織化する力に問題があるのかと思っている。動画作成者の優れた指摘に敬意を。
@2 takauji 松根油ですね。
低品質エンジンオイルと91オクタンじゃね
一番の問題はパイロットでしょ初戦でパイロットの命を消耗品扱いした結果ろくすっぽ空戦術をマスターしてない未熟なパイロットばかりじゃその性能も無駄になった。
整備に関しては、フィリピンで戦った第四航空軍は直前までニューギニアで戦っていた。転身に際して、司令部要員が先行して航空機等で離脱、次に生存操縦士を段取りして、整備 補給要員は置き去りに近い状態でした。更に、ニューギニアに持ち込んだ貴重な整備機器、飛行場の作業機材を放棄した後、フィリピンでは機材不足が大きな問題となりました。第四航空軍の司令部が、敵前逃亡を繰り返したのは、残念な歴史で、軍管理の航空機があったから、余計に逃げやすかった。
昭和17年2月にオランダから奪い取ったパレンバン油田だけで日本には十分な産出量がありました。石油精製施設も無傷で手に入れ100オクタンの燃料が使えるようになったんです。ところが海軍の方が軍艦を動かすのに大量の燃料が必要なのに、占領した場所は陸軍の方が産出量が多く海軍はわずかだった。陸軍は海軍に譲らず、海軍は本国への輸送に協力せず、連合軍の通商破壊でタンカー沈められ、しまいには空襲で施設を破壊されるようになる。こんなバカやってて勝てるわけがないでしょう。
俺のオヤジは終戦時18才で軍事工場で誉を作っていた。工作機械の精度がガタガタで、絶対回らないエンジンを作っていた。終戦時、木曽川の河川敷にゴロゴロ放置されていたらしい。ひまし油が余っていたから、天ぷらを揚げたらしい?で、ピーピードンドン・・・・・
中島飛行機、今のスバルですね。しかし疾風のスタイルは本当に素晴らしい。日本の最高傑作戦闘機だと思っています。
特に風防から垂直尾翼にかけてのラインは、まったくもって惚れ惚れするぐらい
一式戦二式戦からの技術開発や経験が生きた(しかも生産性も考慮されている)、日本陸海軍戦闘機の中でも最高傑作と呼べる戦闘機ですよね
雑誌で見たのですが、その垂直尾翼、微妙にラインを変えた形を何通りも試してるのだそうです。
日米で整備の差があったことは非常に参考になりました。
他のSNSで否定されてしまいましたが、当時の日本は見て覚えるが当たり前で統制された教育がされて無かった事と定期点検と言う概念も希薄で壊れてから直すと言う有様で当然ながら定期点検をしないので整備兵も機材に慣れなくて部品の取り換えも儘為らなかった様です。更に欧米では当たり前だった戦場では不具合が出た部品は一気に取り換えて不具合の有った部品は後方に送って直すって発想も無かったので戦場でベテラン整備員が壊れた部品を直す凄い手間をかけてました。本国の日本にも消耗品の部品を送るって発想も希薄で全ては現地で何とかしろ!が当たり前でしたので複雑な疾風の稼働率が悪かったのも当然でしたね。ドイツは其の点では部品を変えるだけなので未熟な整備員でも完璧に仕上げて高い稼働率を誇ってました。部品の供給が出来なくなって一気にドイツ空軍もダメに為りましたけどね。これも日本の工業力の脆弱性がモロに出ましたね。私は最近まで自動車工場に居ましたが最近まで先輩は意地悪で教えもしないでへまをするとスパナが飛んで来る有様だった様ですので、80年前の日本では10年我慢して一人前でしたが、それでは戦争に間に合わないので整備体制も日本の敗戦の大きな原因だったのでしょうね。残念に思います。
@@亨-o3t 貴重な体験記に感謝
面白いぐらい、ためになる話。ありがとう。
四式戦は日本機中でも最も好きな大戦機です。昔、出張の合間にロンドンの科学博物館にいったときに誉(ハ45)が綺麗な状態で保管されているのを見たことがあります。設計で背伸びしすぎだったかもしれいけコンパクト高性能で評価されていたのだと思う。
オチャラケのキャラクターが出てくる似た動画よりも、なぜか落ち着いて見ていられる。
ゆっくりしていけないんですね…?
主さん、良質な動画いつもありがとうございます✨たくさんある解説動画では早口とBGMで聞き取りづらいモノが多いなか、聞き取りやすく写真も多いこのチャンネルはありがたいです!今度は赤城上げてください!✨😭
入間基地で実物を飛んだのを見に行った。今は飛べなくなって知覧の博物館に展示されている。ハイオクのガソリンを使ってあげたかったね。
当時、日本では最高のオクタン価燃料は台湾の屏東基地(海軍)にあったらしいけど、せいぜい85価くらいだったみたいですね。戦後、米軍が整備して米軍燃料を使った試験飛行では、恐るべき性能を発揮したとか…
@@nangokuizumi インドネシアのパレンバン油田施設を占領してから100オクタンの燃料が使えるようになりました。ところが陸軍が占領したところは産出量が多く、海軍の占領したところは産出量が少なかった。海軍は陸軍と交渉しますが陸軍は譲らず、日本への輸送に海軍は協力せず、せっかく手に入れた石油施設を生かしきれなかったようです。バカバカしい話です。
緒戦の頃なまだしも、戦局悪化の一途を辿っていた1944・45年頃に、2年間で生産機数が3500機とうのは、立派と言うより驚異的だと思いますね。これは、部品点数の削減、生産工数の低減に留意した結果でしょうね。疾風のエンジンに高オクタンの燃料、2段2速の過給器を装着させて、高度9000m以上の高度でP-51ムスタングと空中戦を戦わして見たかったですね。勝者は、疾風かムスタングか?興味がありますね。
ま、普通にマスタングが勝つわな。仮に疾風のエンジンが高オクタンの燃料、2段2速の過給器搭載にアップグレードできたとして、相手になるのは史実でも終戦前に配備が始まっていたP51Hとなるけど、これは今までのマスタングのエンジン出力強化+軽量化版というバケモノとなる。機体性能だけでなく信頼性や整備性も上。
一対一ならわかりません。なぜなら親父が空中戦でP51と赤トンボみたいな複葉機で、戦っていたのを見てました。結果引き分け。6戦あったそうです。
6000mじゃないと勝てないと思う
@@駐存路陣複葉機はめちゃくちゃ運動性よくて数百キロ速さが違うから戦いづらいだろうね
品質管理を「しなかった」のが量産できた最大の理由
物資の少なかった日本がここまでの戦闘機が作れたって凄いな
まったくです、松の根から 松根油を生成していたとか⁉️ 親父が言ってました。 酔っぱらうといつも松根油の話し。笑
池田勇人 てな所得倍増計画疾風の勇人の異名がある月光仮面みたいな政治家だよ
当時残念なのはアメリカの工業力には及ばなかった事ですね。資源もなかったし
海軍も喧嘩しないで四式戦や五式を使わせてもらえばよかったんや
@@kawasemi8717 さま コミンテルンの暗躍で撹乱されてましたからどうにもならない状態だったようです。山本五十六なんかひどいもんです。
疾風は良い戦闘機だと思いますし戦争末期に3500機も造れたのは陸軍の航空行政が良かったからでしょう。陸軍は1式戦隼以来、2式鍾馗,3式飛燕,4式疾風,5式と送り出し相応の戦果あったが海軍は新型機開発が遅れ零戦を改悪造しながら終戦まで使わざるを得なかった。海軍は設計陣に必要以上横やりを入れ開発を遅らせ、陸軍は設計陣に比較的自由に開発させたと聞きます。零戦の主任設計者の堀越技師は海軍が無茶言わなければ1500馬力金星エンジンを積んだ零戦54型は1943年春には戦場に送ることが出来、ヘルキャットを阻止する事ができたであろうと回想しています。ちなみに生産数は零戦 隼 疾風の順です
その生産数も零戦や隼が数年掛けての生産数だったのに対し、四式戦は一年くらいで3000機以上の生産数ですからね。いかに生産性を考慮した設計がなされていたかの証明でもあります。
いや、海軍は燃料の心配で主力戦闘機(零戦)の燃費が悪くなるのを懸念して燃費の良い栄エンジンにこだわっていたんだそうだ。みんな貧乏が悪いんだ(涙)
@@novaman6244 実戦部隊からも、大変なラブコールを受けてました。記憶してます。
兵学校には、なまじ機械の授業が有るから、海軍士官は機械に口を出す。生半可は素人より質が悪い!
@田中一郎 たくなww例えば、タイガー対Tー34・・リングサイドで一対一を観賞するとすれば結果は明白だが・・蟻と象!数が圧倒的だよね。別角度の見識ではあるが、もう後数年早く登場すればとか、震電だの秋水だの・・後なんだ?262のコピーwww無理無理!戦局は変わらないよ❗なぜなら敵もそれなりだから:-)何だった?1万五千まで上がってアメリカ本土爆撃とか笑笑タイガーキャットの餌食がいいとこだろう⁉️「丸」を40年愛するじぃじ1957
陸軍海軍が統合して機体や人材を活用できていたらもっと活躍出来てたかも
ほんとそれ。もっとも悔やまれる「たら・れば」ですね。
現実陸軍「海軍が戦闘機開発に困ってるみたいだから研究用サンプルとして四式戦2機を無償譲渡するね」海軍「陸軍ごときが使ってる戦闘機なんぞ研究の足しになるものか!!」終戦時、倉庫で埃を被っている四式戦2機が発見されたという・・・
空軍創立した英仏。陸海両軍で活躍した航空機は皆無。
中島飛行機は今のスバル(富士重工)
疾風は知っていましたが何故あの高性能の機体が稼働率が悪かったのかわかりました。うp主さんありがとうございます。3式戦飛燕にしても戦後アメリカのエンジンオイルと燃料を入れて飛ばしたら、日本の公式性能より良かったと聞かされて物資が無い状態でもスゴイ飛行機を作っていた我が国を誇るとともに、燃料やオイルそして点検等が至らなかったことが悔しいですね。三菱の方から終戦頃は松脂まで使って燃料に混ぜ、ゼロ戦飛ばしていたと聞いたこともあります。
戦後にアメリカのハイオク航空機用ガソリンを入れて飛ばしたら、690km 以上の速度がでたと聞いています。最高の日本軍機でした。良き整備と操縦士に恵まれた時は、ムスタングなどにもまさる最強の戦闘機だったとのこと。
計算値です
疾風も性能も良かったと聞いていました。
47戦隊の事績は初めて知りました。特別なことではなく、組織的に整備をきちんと行っただけで稼働率を向上できたということは、改めて考えるとある意味衝撃的ですね。3500機の疾風に組織的な整備が組み合わされたら、それなりの戦果が見込めたのでは…当時の陸軍内での整備部門の扱いがどうだったのかわかりませんが、なにやら「輜重輸卒が兵隊ならば、ちょうちょトンボも鳥のうち」的なものを感じないでもありません。あの頃の万般に渡って言えることでしょうが、発想はよくても工業力が追いついてない。組織運用が下手でせっかくのアイデアが眠ってしまった例も多い。まだまだ国家として近代化途上だったということでしょうか。これに学んだ戦後は、世界最高レベルの工業力を達成したわけですが…
47戦隊は壊れる前に定期的に部品を変えてたわけですが、部品の供給が十分あったからできたことでしょう。全部の部隊が同じことをやろうとして部品の供給ができたかという疑問もあります。整備兵については加藤隼戦闘隊の歌詞の2番に出てくるくらいですので、軽んじられてはいなかったのではないかと思いますが、あまり戦記物とか読んでいないのではっきりとは分かりません。
疾風かっこいいなぁ~
動けた最後の疾風を日本に返還したらボロボロにされてしまったそうです……
@@hyuga_tamamo 戦争が 終わったならみたいな?
@@海グン さあ
40年前には中島飛行機のあった群馬県太田市のアンティークショップでは、疾風のタイヤなど戦闘機の部品を売っていました。あの時買っておけばよかった…
疾風も終戦に近くなるとプラグも不足(品質も悪い)交換のプラグも不足で取り外した古いプラグの接点を研磨して使っているしエンジンオイルが余計に不足して芦花して再利用していてこんなふうにまともに稼働したのか不思議❗
ピストン・エンジンの飛行機のプラグというのは、2020年の今現在でも50飛行時間毎に取り外して、研磨し、電極間隙を調整して、中心電極が直径の半分に磨耗するまで使っています。そういうことではなく、開戦時から日本のプラグは高空におけるコロナ放電に対する絶縁などの本来の性能が欧米に比して劣っていたのです。飛行第25戦隊の戦隊長である村岡少佐(戦後陸自ヘリコプター部隊の陸将)の手記に、あるとき、自分の隼のエンジンの調子がバカに良いので、整備兵に、何か特別なことをしたのか?とたずねたところ、ウチの部隊が撃墜したP47 サンダーボルトのプラグを付けてみたのです。と答えたとのこと、少佐が「おいおい、よくプラグの穴の寸法が合ったな」というと、整備兵は「いや、少しキツかったのですが、なんとか入りました。」というので、そうかそうかと言うしかなかった、とありました。
陸軍機の方が海軍機より洗練されてたように思えます。
恐らく発艦などと関係があるのではないでしょうか
@@i_ORIX 雷電や紫電(改)は陸上での運用が前提なので、空母云々よりそもそも海軍の航空行政が稚拙というか本腰入れてないというか将来に対する展望がないというか・・・
かつて96艦戦が傑作機だと自信満々で三菱の担当者が陸軍仕様にして売り込んだのだが、陸軍はメンツがあるのか改めて3社(三菱、川崎、中島)に試作機競合させて中島製戦闘機(97戦)を採用した。三菱の技術者はその時すでにやる気無かったらしい。以来陸軍に三菱は戦闘機を作ってない。また、海軍が零戦を採用、実戦で活躍させてる時に陸軍では格闘戦が固定脚の97戦より劣る(当たり前ですが)とかでキ43(後の隼)を不採用にしている。さらに海軍がドイツでDB601エンジンのライセンスを取る(後の熱田エンジン)寸前に陸軍も横やり的にライセンスを取る暴挙(後のハ‐40エンジン)をおかしている。日本政府としてライセンスを取れば半額なのにとヒトラーに笑われたとか(笑)
キャノピーが翼の後ろに有るのが、引き締まって見えるからかな?海軍機は三点着陸するので、主翼前縁越しに真下が見たいのです。
海軍の方が無茶な要求仕様を出してくるから戦闘機に関しては比較的奇抜でリスキーな設計になりがちその分自動空戦フラップとか操縦系統の改良とか層流翼みたいな画期的な技術の適用例も多いメリットがある対して陸軍機はどれも概ね堅実で保守的な設計だから失敗が少ない
ナイス動画!
死に物狂いの戦いをしている時に、工作精度のユルさでひどい苦労をしたからこそ戦後の日本の技術者は世界に誇れる工業力を維持できたのでしょう。
同感です。当時は部品図面の寸法に的確な公差もなく、ほとんど現合に近かったと、中島飛行機宇都宮製作所で旋盤工をしていた父が言っていました。(戦後の頃)したがって部品に互換性がなく苦労したようです。しかし職人技の技能はすごかったようで、現在のようなマイクロメーターのない時代に、パス(軸径などを測定するな単純な測定工具)だけで百分の一ミリを割り出すことができたといいます。日本の工業力は、こういった伝統を受け継いでいるのかも知れません。
ここだけの話ですが、前半の侵攻期に連れていった整備兵。後半の本土決戦準備期に、置いてけぼり。おかげで、本土空襲にも会わず。戦後、復員して引く手あまたで50年代産業復興だとか。
俺、「疾風」っていう言葉だけは一番懐かしく思う。
中島飛行機は化け物みたいな飛行機ばっか生み出してるな(良い意味で)
四式が優れてるのはまちがいない。が、それも一式(隼)からの基本設計が優れてたからだと思う。海軍系の“零式”からの流れとは違う。
大東亜戦争全期間を通じて日本最強の戦闘機は疾風で間違いありません。
紫電改は疾風ほどではないが高速で、運動性と加速力、火力が優れてた。剣部隊の紫電改と47戦隊の疾風なら互角に近い戦いができたと思う。47戦隊以外の疾風は五式戦に負ける。
別スレで紫電改は格闘戦に長けていて、疾風は一撃離脱に優れている。まず一対一の格闘戦に疾風はしない。分が悪い戦況には付き合わないはず❗本土決戦では、性能が劣った機体で多数の敵戦闘機に向かうのは自殺行為❗格闘戦に有利な紫電改が少なからず成果を上げたのは当たり前!!!400機の少ない新鋭機は相手からしてみれば、油断して立ち向かい、フタを開けたら殺られていた!!!といった所か???
美しい戦闘機。特に垂直尾翼の形状が芸術的。知覧特攻平和会館に行き、見惚れていました。
なるほど、疾風の稼働率を上げる為に、その様な隠れた努力がなされたんですね。感慨深い動画に感謝しますm(_ _)m
米軍のガンカメラでバリバリ撃ち込まれても、破片が飛び散る以外全然出火しない疾風や紫電改の映像は、凄かったです。もっと早く防弾ガラスや防弾タンク等が取り付けられて居たら、ベテランパイロットが失われずに済んだのに、惜しいです。。。
前縁がピシッと真っ直ぐなのがカッコいい。よい燃料があれば、、、ラジコン飛ばしてました。
多分物資不足だったのだろうけど、こまめに部品を交換するという発想が当時の日本にはなかったんでしょうね。某設計技師から戦後ディスられたせいでハ45は欠陥エンジンとの評価が定着していたけど、アメリカが部品交換してハイオクタン燃料で飛ばしたら格段の性能を発揮したとのエピソードからわかるとおり、エンジンに欠陥はなく戦争末期の品質の低下が不調の最大の原因。だからこれは三菱のハ43も量産となれは同じ事が生じていたはず。
そう、ハ43が大丈夫って根拠がまるで無いんですよね、試作段階でボロボロとボロが発覚していますから、まあ誉を貶す事に執念を燃やしている人達にとりそういう都合の悪いところは「wikiに書いてある事なんて信用できない」と一蹴するんでしょうけどねw
知覧の疾風は日本に返還されずに、アメリカにあれば今でも飛んでたと思う。勿体ない...
同感です!歪んだ平和主義者の批判の対象にもなりますしね。
入間基地の空を舞う姿が目に焼き付いています。
その通りです、その考えには理解します。
疾風、超スタイリッシュでかっこいいですねー。(*^_^*)
勝つ事をデザインしたらカッコ良くなってきた。
FW190よりも洗練されていた。
P51に負け。つまり、同じ?私は、Fw190D 液冷型がいいな(^o^)やっぱり、Me262に負けだよね❗4式から5式に至った経緯は、日本空戦史の悲劇かも?この動画ですよ!。
さすがスバルの前身の会社。
僕が若いとき、実家にトヨタ1300cc のバンがあった。当時アルバイトで、呉服商をやっている人のお抱え運転手をやってたんだが、その車がスバル1000だった。 トヨタのバンとは全く違うそのスムーズなエンジン回転、加速力、視界の良さ等に本当に感激したことを覚えてますね。当時からスバルは様々な先進的技術投入していて、それは現在何処のメーカーでも採用するものとなった。本当に10年くらい先を行っているメーカーだった。
フォレスターをスバルを考える。
エアロスバルとか戦後も飛行機を作ってましたね。
GHQの指導により中島飛行機は解体されて、後にスカイラインGT-Rを製造したプリンス自動車も末裔。未確認情報では有ります、主要エンジニア達はプリンスを創立したそうです。スバルはスクーターを作り、社員の糊口をしのいだそうです。
海軍が最後まで主力戦闘機を零戦としていたのに対し、陸軍は次々と新しい戦闘機を開発していったことに注目されて然るべきだと思います。海の上と陸の上という差を差し引いても、陸軍の開発熱の高さは際立っていると思います。海軍の方が合理的なのに対して、陸軍が非合理的な精神力に頼った、という言説をしばしば見かけますが、それは誤りで、本来敗戦に対して重い責任を負うべき筈だった海軍側が、その責任を陸軍側に押し付けようとしたプロパガンダだったと感じています。長い間支那大陸で、国民党軍やソ連軍等と戦っていたからこそ教訓を得つつ、新鋭機の開発を何よりも重視していたと思います。情報を軽視していたというのも嘘で、非常に詳しい戦闘情報と世界情勢分析を天皇に上奏していました。
予防保全を疎かにする企業は、悲しいかな今の日本にもあるんだよね・・・。成果に繋がらないんだよ、故障修理は数字に表れるけど、予防保全は数字になかなか出ない。極端な成果主義者は予防を嫌う。数字に直結しないからね。
そう、残念ながら今も人の意識としてはあまり変わってないんですよねえ
中島飛行機は今のスバル自動車(富士重工業)の前身になった会社ですね!
エーリッヒハルトマン 航空証明が厳しいから飛行可能な状況のものを飛ばせる状態で維持するのは厳しいけどその後がその後だからナニも言えないですねせめて静態保存でもいいから良い状態で保存してほしかった
動画見ても、米見ても凄いのがわかる
疾風正にハヤテの様に現れて去っていく整備がいかに大事か?
疾風の名前は労働雑誌【力】(ちから)で一般公募で選ばれた名前だそうです。
工場に動員された女子高生が、疾風の外板を貼り付ける作業をしていたらしい。初めから外板には鋲穴が付いていて後は機体に沿って鋲を打っていくだけで、誰でも出来る様生産効率を良くしたつもりらしいが。その時女子高生だったお婆ちゃん曰く「始めのうちは打ち込む位置と穴があっていたけど、だんだんズレて来て終いには外板を余らせて終わってしまった、これに乗る兵隊さんの事を思うと申し訳ない気持ちになった」と手記に書いてあった。良い物を作っても品質が悪けりゃねぇ、それを頑張って品質を上げていた整備兵がいたとは
岩橋少佐、マジイケメン。
提督の決断では。かなり使えました。まさに決戦機でした。
独飛47は先整備・定期整備を徹底していたわけですが、今の航空機の整備と同じやり方。本来、自動車でもやるべきなのに・・・・みんな後整備なんだよなぁ
流石、SUBARUの前進企業の造った機体だ。
中島飛行機は海軍機も作っていたぞ。川崎は陸軍にだけ飛行機を作っていたけど
97式艦上攻撃機も中島飛行機が作ってたんだよね
零戦もライセンス生産してますね。三菱から送られた治具が精度低くて、試飛行は命懸けと言われました。
ニッサン(プリンス)の前身でもあります
なんだかんだ言ってもアメリカでは〝飛行可能〟な状態で還してくれたのですよね。それが、管理の出来ない状況のもとで〝飛行不能〟になってしまったのはとても残念な事ですね。現在、〝知覧〟で〝展示〟されているのがその機体ですね。
米のヘルキャットやムスタングも撃墜した最強の戦闘機です。
それは公平なコメントではない。逆に撃墜もされている。
もちろん落とされました。しかし、アメリカも少なからず脅威を感じてた戦闘機で間違いないから、フランクという当時珍しいニックネームをつけた。と書いてありました。
剣部隊と47戦隊を見ると、整備の重要性がよくわかる。疾風はハ45に固執せず、将来的にMK9を使用することを前提にハ112-Ⅱを使えば良かったと思う。信頼性と整備性はハ112-Ⅱの方が圧倒的に上だし、運転制限したハ45よりも高性能。
満州飛行機が作ってる。悪くはなかったらしい
疾風、陸軍の戦闘機で敗戦近くで、よく性能をよく発揮できたことは、良かったこと、誉エンジンを付けていたと聞いていました。日本の技術です。
未熟な整備士では整備出来ない発動機、、、
無理な小型化が祟って整備の難しい複雑巧緻な設計になった上、良質な潤滑油や高オクタン価ガソリンの不足・整備教育体制の不備等で本来の性能を発揮出来ない事が相次いだ誉発動機。まあちゃんと整備出来ればP-47やP-51と戦えるだけの実力を発揮出来るだけ、カモ扱いされていた三式戦闘機に比べればマシな方なのかもしれない・・・。ちなみに日本が2000馬力級エンジンの開発運用に悪戦苦闘している間、米独では2500~3000馬力級レシプロエンジン及びジェットエンジンの開発・配備が進んでいたという残酷な現実・・・。
プラグも良品に交換しての性能試験だったようです。
金星64型エンジンを積んだ機体を試してみたかったね。稼働率は上がったのでは?
85戦隊と47戦隊の活躍はすごいなぁP51を撃墜してたんだな🛩🛫
映画、山本五十六を見やがれw💢
スバルには「キ番号」や「ハ番号」を受け継いで欲しかったような…
たぶん、ハ番号はともかく、シ(車体)番号がまずかったのでは?
刈谷って、あの・・・調布の第244戦隊の三式といい、整備技術体制を確立した部隊は稼働率が高かったというより、他が低すぎたんですね
真面目な議論がされている雰囲気なので、若干場違いかもしれない話題だが敢えて書かせて頂きますが……。個別の機のカタログスペックも勿論重要ではあるが、戦争は技術競演会ではないので、適材適所とでもいうのか、局面に応じて如何に使えるかが大事なのではないかと思います。ソードフィッシュなんぞでもタラントの手柄で名機扱いらしいし、また、よく云われる五式戦闘機にしても、遠距離を越えて来襲する敵機を本土で迎撃すればこそP51相手に渡り合えたと云う人もいます。(私自身は当時の当事者の努力をないがしろにする気は全くありません)そこで、というか、本スレの趣旨とは若干場違いかも知れないのですが、B29の来襲を防止するのが目的ならば(勿論防空戦闘機は強力なのに越したことはない)、なぜ出元のマリアナで防げなかったか、その企図は無かったのか、今に至るも語られないのは不思議です。サイパンが失陥して、東條内閣は潰れました。本土空襲が避けがたくなったからです。裏を返せば、サイパン(やテニアン)の飛行場から敵機が飛ばせなければいいので、極端な話、サイパンやテニアンの海港封鎖は出来なかったのか。早い話が、大変な燃料食い(零戦十数機分と聞きます。編隊となれば尚更です)であるB29の燃料を絶てば飛べないわけで、両港に入る航空燃料タンカーを半分沈め得れば、飛機数は半分になります。港そのものを封鎖できなくとも、太平洋上の数点(サイパン、テニアン、更に加えればハワイ)を往来するタンカーを狙えばいい。対潜兵力を割かざるを得ない状態に持ち込めば、半身不随の艦隊となった状態では、それだけでも意味があります。ザッパな話ですみませんが、昼夜何処に来るか分からぬ敵機を本土で網を張って苦手な高高度戦闘に持ち込まれるより、防戦として考えれば有効かと思います。サイパン失陥直後には、戦艦大和をサイパンにのしあげるとか、水陸両用戦車で逆上陸を仕掛けるとか、そんな計画?もあったやに聞きますが、こうした個々の兵器のスペックに依拠する作戦?なり話題が出ても、トータルの状況下で適材適所に使うにはどうするか、これが出てこないのがどうも???なのです。う~ん、言いたいこと上手く言えん。
「日本万歳」うんうん。ラバウルみたいな遠くに戦備をつぎ込むよりサイパン強化してた方が数倍良い。ゼロ戦は制空戦闘よりも対潜水艦戦闘に使う方が中期以後は価値が在る。大和はサイパン強化の一つとして敵の攻撃前にサイパンで着底砲台を覚悟。ソロモンで飛行機を大量に失うのもばかげてる・・・全部をサイパンで使用し上陸軍阻止に使えば良かったのに、と思う。
サイパン防衛は時の参謀本部が、敵上陸に対応可能な兵力と必要な資材/資源を見積もり、所要量を積み出した時点で「サイパンは難攻不落になりました」と大見得をきりました。ん?最近誰かが積み出しも終らないワクチンに「確保しました」とか大見得を切ってませんでしたか?
素晴らしい設計陣、ゼロ戦や一式戦にも疾風の様な設計思想があったらと思いました。紫電改と同じエンジン初めて知りました。海軍と陸軍の兵器部分は、混ざらないと思ってました。
エンジン関係は陸海軍で少し変わる部分があるけど基本同じモノ使っていますよ。1式陸攻と97式重爆も同じだし5式戦と彗星艦爆の33型以降も同じです。後は隼と零戦も同じモノ使ってた時期もあります。疾風も紫電改と同じ意味ですね。特にエンジン関係では三菱は好まれてました。(馬力もあり日本の事情に合わせたことで稼働も良く戦争後半では主力機の殆どに使われた)中島は1000馬力までは評価良いけど1500馬力以降は誉のようにガタ落ちになりがちだったそうです。愛知と川崎は・・・・うん致し方ないですね。
@@暁狭霧 詳しいから、助かりました。いろいろ知っていますね。昔に成りますが、戦闘機に興味を持つのは中学生の頃プラモデル沢山作りました。が、使用される部品がどう関わっているか?までは、調べないでいました。
@@暁狭霧 戦闘機には、1500から2000馬力は、必要ですね。いろいろドイツ、イギリス、アメリカの戦闘機を見ますが、初めのゼロ戦や隼のエンジンの馬力は少ないと思ってます。
大馬力なので爆弾搭載量も大きく、戦闘爆撃機としても優秀だったと聞いたことがあります。
さすがにお詳しいですね。疾風一つでいろいろな作戦に出撃していたと、書いてありました。皆さんご存知の様に、燃料、部品の問題はあったが、一つの機体で防空、爆撃、輸送の護衛他、大車輪の動きをしてました。パイロットから大変支持されていたと聞かされました。
搭載量は飛燕や隼と変らないけどそれを装備して高速で飛行出来るのは疾風だけかな?
特攻機ですね。ちなみに護衛は使い古しの隼Ⅱ型
宇都宮空襲まで、小生の父は中島飛行機宇都宮製作所で四式戦闘機「 疾風 」の製造に携わっていた旋盤工の職人で、戦後も自分専用の手作り鍛造バイト(旋盤で切削加工を行う工具)を鉄製トランクに入れ大事に持っていたのを覚えています。きっと宝物だったのかも知れません。また父の同僚は群馬の小泉工場で零式艦上戦闘機五二型の生産に携わっていたと聞きます。その同僚が【ああ~俺たちは戦地にも行かず、若者たちの死に道具を作っているんだ。】と嘆いていたことを、戦後(小学生の頃)よく聞かされたことを覚えています。とかく性能とかが論じられますが、製造現場ではこのような苦悩があったのですね。ちなみに、父の鉄製トランクの中にバイトと一緒に部品の青図(Wikipedia参照)が入っていたのを覚えています。どこにいったのだろう。現在では貴重なもののはず。
加速を重視して回転半径の小さいプロペラであれだけの速度が出せたことがすごい。 もうワンサイズ大きなプロペラを装備したら最高速はもっと上がったんじゃないかと思う。
戦前にライセンス生産されたルイス・ハミルトン製のプロペラを終戦まで使い続けて、オリジナルのプロペラ機構を自力開発出来なかった時点で・・・(涙)
@@novaman6244 たしか疾風はラチエの電動プロペラでハミルトンスタンダート製の油圧プロペラでは無かったはず?ルイスハミルトンはF-1ドライバーですよ(笑)
@@コウダイ-r1v どうも間違えて書いてしまったようですね。これは失礼(笑)
プロペラはヤマハが作ってましたが疾風もそうでしょうか?
重戦か軽戦で登場してほしかったですね。五式戦の稼働率を考えるとエンジンの選択が間違っていたような気がしますね。格闘戦を最後まで重視した結果スピードを犠牲にしてしまった事が残念ですね。軍部が好き勝手な要求が全てですがね。ドイツの軍部は先を読んだ戦闘機開発をしていたのが大きな違いですね。ガソリンオクタン価が少ないドイツがあれだけのことが出来たのは考え方の違いなんでしょうね。
私が一番好きな戦闘機
一晩でB29を3機撃墜した黒江 保少佐の凄さは圧巻です。
稼働率が高く、現場からの評価が高かったのは五式戦。当たり前の整備が出来ない状況でも稼働率が高かった。
五式戦闘機の試験における模擬空戦では、力量同等の操縦士が何度機体を交換して行っても五式戦闘機が四式戦闘機を圧倒し、操縦士たちが四式戦闘機の生産を中止し五式戦闘機に一本化すべきだと意見具申したことは有名な話ですよね。優れたエンジンがあれば、三式戦闘機が最優秀機体だったんですね。
五式戦は、疾風の問題点を洗い出して造ったから良くてあたり前、戦況から空戦よりも、一撃離脱に戦法が変わった。この点で疾風が合っている為、生産数が多かった。
そう、あと47戦隊の整備班の場合中島の技術者達と繋がりがあったらしい、当たり前の整備システムを全軍規模で構築しなかったのがそもそもの間違い、とりあえず中島のエンジン班が全国行脚して疾風配備の各基地を訪問し整備班に誉の整備講習会を開いて整備マニュアルを逐次更新し配布すれば良いだけだよ、特に資源を浪費するわけでもないし技術的困難があるわけでもない、やろうと思えばできた事をやらずに整備が難しく稼働率が低いというのはいただけない。あと、五式戦のがマシとか誉が悪いとか言ってみても日本も遅かれ早かれ2000馬力級エンジンやジェットにステップアップしなければ性能が乖離しすぎて五式戦でも戦闘継続不可能になるので、人の意識や組織面で抜本的な構造改革をしない限り、疾風や誉でなくても直面していた問題にすぎない。
日本の整備兵の教育は間違えていたんじゃないかと言われてますね。出来不出来の差が大きすぎる。
その辺は個人的には評価が厳しすぎるんじゃないかと思います。戦争がはじまり急速に航空機の生産数が増えてしまったのに対し、優秀な整備士がそれに追いつけるほど用意できたかと言うと難しかっただろうと考えられ、即席の整備士が多かったのではないかと考えられます。中島のエンジン班とて、新型や改良に追いまくられていたのではないでしょうか、整備の為に行脚する暇は無かったものと考えられます。問題を抱えたものを動かせるようにするとなると、知識や経験や感覚や勘レベルが要求されると思われ、マニュアルで何とかなるレベルではなかったんじゃないかとシロートながら推測します。「稼働率が低いというのはいただけない」気持ちはわかりますが、そうせざるを得ない状況だった、というのが実情だったんでしょうね、それは動画見ただけで感じられることですし。
@@keroro20301 47戦隊の整備兵が他の部隊の整備兵よりも知識や経験や感覚や勘レベルが特段優れていたわけではない、彼等もわからないから(新エンジンなのだから当たり前)中島の技術者に尋ねて整備を覚えていった、現代の自動車整備などでもキチンと教育を受け知識と経験を積んだマトモな整備工はまず車種ごとに整備マニュアルを参照する、それでわからなければメーカーに聞く、当たり前の事だよ、マニュアル見るのメンドクサイなーどこどこのクルマは経験則でこうだろう感覚的にこうだろうみたいな整備をすると後で痛い目見るからね、整備マニュアルを見ずに経験とか勘で整備するような整備工は整備工として信用ならんよ。
操縦士だった叔父が戦争末期、国外から操縦士達が呼び戻され本土決戦に備えたとき、この戦闘機をあてがわられたかと・・・それまでは紫電改に乗っていたらしい。その頃の話を聞くと結構人間的で面白かった
四式戦は陸軍機、紫電改は海軍機なんですが?
@@スサナル 自分が間違えてたかもしれません(飛行機詳しくないので)以前見た叔父の写真には零戦みたいなずんぐりした飛行機じゃなくてスリムな機体で戦闘機ってイメージより大きいのが印象的でした。
@@けい-c2o1w 陸軍の戦闘機でスマートな機体なら一式戦 「隼」或いは三式戦「飛燕」辺りかと思います。五式戦闘機は飛燕のエンジンを空冷式星型に替えた物ですが、これは二十年四月ころから内地の部隊に配属された物ですから外地には出ていません。海軍は零戦以外の戦闘機は「雷電」と「紫電と紫電改」、後は水上戦闘機の「二式水戦」(零戦がベース)と「強風」(紫電のベース機)位ですがどちらもスマートとは言い難いです。他には陸軍も海軍も双発の戦闘機が有りますが今回は関係無いと思いますので省略しました。
@@スサナル 詳しく教えていただき有り難うございます。今度本人に何に乗っていたのか聞いてみます(認知機能の低下で忘れているかも・・)叔父からは詳しくは聞いてないのですが終戦は千葉の飛行隊?で迎えたらしいです。
海軍も陸軍も喧嘩しないでうまくやれば17式戦闘機も早くで来たかもしれない
栄エンジンンのオイルはテキサコ社製のエヤプレインオイルNo.120だったそうだけど、誉エンジンも同じだったのかな?
疾風が隼並みに簡単な整備性が有って1800馬力が出てれば結構頑張れたと思うので残念ですね。とは言へ当時の日本の技術力を超えてたので如何にも為らなかったのでしょうね。
戦闘機の性能などハード面ばかりが注目されるが、やはり定期的なメンテナンス整備のソフト面を重視しなかったことも負けるべくして負けた戦争だったのだろう。現代で言えば一切メンテをせず不調なら使い捨ての家電製品みたいなやり方では人命は救えないと言うことだな。
いえ、それ以前に燃料に松やにとか混ぜてボロになってる時点で性能云々以前の問題かと。
日本の傑作機。デザインは素晴らしい。性能も良いし持っと早く出せたならマリアナの七面鳥わ言わせない気持ちです。
デザインは本当に素晴らしい。作ったのは中島飛行機、そしてそれが現代のスバルに変身。
元々七面鳥は防弾装備のなかった零戦が始まり、と書いてありました。
@@駐存路陣 さん零戦/九九艦爆/九七艦攻の三兄弟が、空中指揮も出来ずに米戦闘機群に突っ込んだのが七面鳥です。
いくら性能が良くても、対空砲弾のVT信管は近くに飛行機があれば命中しなくとも爆発します。だから七面鳥撃ちなのです。
勉強になります。🤔重爆機の富嶽も幻で終わりましたね。富嶽の情報もよろしくお願いします。
赤鼻のエースかっこいいなぁ
チャンネル登録しました‼
kirishima999 さん、チャンネル登録ありがとうございます!!
@@梟軍事情報局 いえいえ、これからも頑張って下さい❕
日本の戦闘機の中で1番美しい戦闘機
米軍が「フランク」と呼んでいた日本陸軍最強戦闘機で、米のF6FヘルキャットやP51ムスタングも、撃墜しています。
四式は世界一好きな戦闘機です。なにより空冷なのに美しい。美しさは強さです。P51より強かったと信じます。俺だけはね。
試作機や試験時と現場では 燃料の質に結構な差が有り現場では性能が落ちることが良く有ったとか
今まで聞いている日本製品の部品の品質、加工精度から、整備では何とかなるような問題ではないように思われますが、にわかには信じがたい話ですね。
当時、工場から出荷されるすべての誉エンジンが定格出力を出せなかったわけではありません。実際、フィリピンでアメリカ軍に鹵獲され、好評価を得た機体のハ45は完全な量産品でした。また、不適切な組み立てによる不具合もあり、生産ラインから得たパーツを熟練者が組み立てた結果定格の出力が出たそうです。47戦隊では整備マニュアルの活用、定期的なオーバーホールや飛行時間の管理、不具合の報告などを徹底していたため、故障の前触れに適切に対処することができ、結果稼働率を高く保てたのではないかと考えられます。(当時、整備マニュアルはあったもののあまり活用できていない部隊が多かったそうです。)もちろん整備でなんとかならないような不良品もあったと思いますが、エンジンは個体よりも多く生産されていて、一応交換が利くようになっていました。(海軍ではアツタエンジン搭載の彗星の生産を停止しても、エンジンの生産は一定のペースで続けていました)稼働率が高くてもその全てが定格通りの出力を出せていたかはわかりません。
他に考えられる理由としては、その部隊にのみメカニックと交換部品を優先的に・集中的に投入されていた可能性はありそうですね、たぶんパイロットも選り抜きの人たちが配属されていたんじゃないかと考えられますね。敵味方において戦闘記録・戦果のすり合わせもある程度行えているでしょうから、そういった記録から考えても稼働できていた飛んでいたこと自体はきっとそうなのでしょう。まあ、大本営発表的な物もあるから一概には言えませんが、にわかには信じがたい話は、ゼロ戦とか大和とかイ号潜水艦とかでも結構ありますから、その部隊に関しては整備で何とかなるレベルだったのでしょう。
文林堂 世界の傑作機№19陸軍4式戦闘機 疾風に同じ事書いてあったw
四式戦はどちらかというと重戦闘機ですよね?
出始めは重戦闘機でしたが、アメリカからさらに大きく重い単座戦闘機がでたので、中戦闘機でもいいかも。一撃離脱は軽くパワーが低いと難しい。
Nice aircraft.
疾風は海軍の紫電改と比較されるが、量産効果は圧倒的に疾風であり中島の疾風の戦争貢献は非常に高かった。日本軍期待の2000馬力の疾風は広く前線に配置され陸軍機では一式戦に続く疾風は陸海軍通じて最大の貢献機であった。600キロを超える戦闘機は世界に太刀打ちできる日本最後の実戦向き戦闘機であった。紫電改は惜しいことに生産数が限られ苦戦する海軍の前線には配備できなかった。疾風がもう一年早かったら戦況は変わったかも知れない。
アメリカが、日本最高の戦闘機と評価したのは、皮肉にも、陸軍、中島とは!?
日本車のエンジン技術の基礎はここにあったのかと感じます。高出力、コンパクト化は今も昔も日本のエンジニアの持つ執念のよう。
問題は使う燃料のオクタン価化かな?あとはプラグやらパッキンなんだよなんかの消耗品が全線までよく届いたな‼️
前線まで届かんよ。疾風が登場したのは1944年のフィリピン戦。日本の輸送船が最も多数撃沈された年で、敵のグラマンも圧倒的多数になってた。ラバウル航空戦のころじゃないと。
当時の戦闘機戦は目視による機関銃戦だから、速度は必要だったのだろう。まあ高度有利による速度有利もあるけど。たしか、初めてF6Fと戦闘した零戦パイロットの岩崎さんの書記にも速度がもっと必要だと書かれていたな。
大出力高速戦闘機は当時の流れとして正しかったが、エンジンが本来の性能を出せなければ旋回性能不足な機体になってしまう。素質は良かったのに惜しい戦闘機。
何もかもが不足していく中で戦争を続けていくという矛盾がそのまま戦闘機のコンディションにも影響する訳で、いくら高性能な機体でも劣悪な燃料や間に合わせのパーツではね
結局、エンジントラブル続きの日本の戦闘機たちは、質の悪い燃料に不完全な整備で誕生してたんですよね。多分、アメリカ軍から大量にP51鹵獲してもすぐにエンジン不調になる予感しか無い
正式ではなく制式だよ。
ご指摘ありがとうございます。字幕を自動作成から切り替え、修正いたしました。
美しい!
震電の解説お願いします!!!!!!
有利な位置からの一撃離脱が主流で速度性能に重きを置く米軍からすれば疾風が選ばれるのは当然だな
疾風のパイロットだったというご老人存じております。訓練に加えものすごい勉強量で、今の若い人たちにはわからないでしょうね、とおっしゃってました。短いお言葉でしたが実に実感こもってました。
航空自衛隊の戦闘機パイロットもかなり勉強させられるそうです。
日本軍機の中では、疾風が一番シュットしてかっこいいんだよ。
疾風は確かに格好いいし強そう
死んだ祖父も言ってました
でも五式戦闘機(空冷)と零戦もいかにも日本機らしい精悍さと美しさを感じさせる容姿を併せ持つ素晴らしい戦闘機を作った日本の技術とこれらの飛行機に誇りを感じます
戦闘機じゃないけど99式襲撃機…簡単なスペックだけをみたら微妙だけど
空のワークホースとしての活躍が好き
飛燕のほうがスマートだと思うけど?技術力と資源の無さが日本機の足を引っ張りましたね
@@ehehe123456 飛燕の計算間違えて頑丈に作り過ぎたって逸話好き
@@sei-un 頑丈な機体のお陰で急降下でアメリカの戦闘機から逃げられたらしいですね
ロッキードP38に乗る米軍の撃墜王(日本機38機撃墜)トーマス.マクガイアを撃ち落としたのが疾風だったんだよな、
大したものだよ疾風は、、👏👏👏🇯🇵🇯🇵🇯🇵😃😃😃
諸説あって、マクガイアを落としたのは、隼のほうで、疾風が落としたのは、両機の方でたまたま、爆撃任務中に空戦をしている友軍に遭遇して、爆装したまま空戦に参加したそうです。マクガイアは、敵が隼1機だと油断して格闘戦に入り、逆に小隊4機が追い立てられることになり、両機を守る為に無理な機動をして墜落してます。その空戦でパニックになっていたので、疾風は反撃を受けることなく両機のP38を撃墜しました。疾風のパイロットは、マラリアで意識朦朧としながら戦っていたそうです。
yuta S
返信ありがとうございましす
いずれにせよ高度1000メートル程の低空域での戦闘だったらしいですね、本来、低高度低速なら日本機の得意な空域、
この当時マクガイア編隊は油断というか少し日本軍を侮っていた部分があったかも知れませんね、増槽を捨てずに戦闘に入れとの指示をしていとの説、、
🙏🙏🙏😓😓😓
@@yutas8710 マラリアで朦朧としながら敵を撃ち落とすとか凄い腕前ですね!!!
@@yutas8710 マクガイヤと落としたのは、折鶴の戦隊マークをつけた飛行第54戦隊のベテラン・パイロット杉本准尉で、マクガイヤを撃墜したものの杉本機も被弾して不時着したところをフィリピン・ゲリラに襲われて殺害されてしまいました。杉本准尉とマクガイヤが、いわば相討ちになったところへ、別の飛行戦隊の福田軍曹の四式戦が突入してきて、マクガイアの列機のリットメイヤーを一撃で撃墜したのです。このとき福田軍曹は初陣であり、興奮のあまり爆装のまま一文字に突入したのですが、このリットメイアも、米陸軍航空隊のエースですから、薩摩隼人の福田軍曹の燃え上がる闘志が大金星を挙げたのでした。福田軍曹は生き延びて終戦を迎え、郷里の鹿児島に復員したのでした。
追記、ちなみにこのとき杉本准尉の乗っていたのは一式戦隼の3型ですね。54戦隊は北千島に残億隊を残していて、そこにあった残骸をもとにリバース・エンジニアリングで復元したのが、今飛行可能な、グラマンF4Fのエンジンを積んだ隼です。この機は黄色い折鶴を図案化したマークをつけています。
感動しました。日本陸軍航空隊も捨てたものではない。整備体系を全軍に徹底し、燃料の開発を重視すれば、
恐ろしい戦力になった。悔やまれれる。日本軍全般に総合戦力を組織化する力に問題があるのかと思っている。
動画作成者の優れた指摘に敬意を。
@2 takauji 松根油ですね。
低品質エンジンオイルと91オクタンじゃね
一番の問題はパイロットでしょ
初戦でパイロットの命を消耗品扱いした結果ろくすっぽ空戦術をマスターしてない未熟なパイロットばかりじゃその性能も無駄になった。
整備に関しては、フィリピンで戦った第四航空軍は直前までニューギニアで戦っていた。
転身に際して、司令部要員が先行して航空機等で離脱、次に生存操縦士を段取りして、整備 補給要員は置き去りに近い状態でした。
更に、ニューギニアに持ち込んだ貴重な整備機器、飛行場の作業機材を放棄した後、フィリピンでは機材不足が大きな問題となりました。
第四航空軍の司令部が、敵前逃亡を繰り返したのは、残念な歴史で、軍管理の航空機があったから、余計に逃げやすかった。
昭和17年2月にオランダから奪い取ったパレンバン油田だけで日本には十分な産出量がありました。石油精製施設も無傷で手に入れ100オクタンの燃料が使えるようになったんです。ところが海軍の方が軍艦を動かすのに大量の燃料が必要なのに、占領した場所は陸軍の方が産出量が多く海軍はわずかだった。陸軍は海軍に譲らず、海軍は本国への輸送に協力せず、連合軍の通商破壊でタンカー沈められ、しまいには空襲で施設を破壊されるようになる。こんなバカやってて勝てるわけがないでしょう。
俺のオヤジは終戦時18才で軍事工場で誉を作っていた。工作機械の精度がガタガタで、絶対回らないエンジンを作っていた。
終戦時、木曽川の河川敷にゴロゴロ放置されていたらしい。
ひまし油が余っていたから、天ぷらを揚げたらしい?で、ピーピードンドン・・・・・
中島飛行機、今のスバルですね。しかし疾風のスタイルは本当に素晴らしい。
日本の最高傑作戦闘機だと思っています。
特に風防から垂直尾翼にかけてのラインは、まったくもって惚れ惚れするぐらい
一式戦二式戦からの技術開発や経験が生きた(しかも生産性も考慮されている)、日本陸海軍戦闘機の中でも最高傑作と呼べる戦闘機ですよね
雑誌で見たのですが、
その垂直尾翼、微妙にラインを変えた形を何通りも試してるのだそうです。
日米で整備の差があったことは非常に参考になりました。
他のSNSで否定されてしまいましたが、当時の日本は見て覚えるが当たり前で統制された教育がされて無かった事と定期点検と言う概念も希薄で壊れてから直すと言う有様で当然ながら定期点検をしないので整備兵も機材に慣れなくて部品の取り換えも儘為らなかった様です。更に欧米では当たり前だった戦場では不具合が出た部品は一気に取り換えて不具合の有った部品は後方に送って直すって発想も無かったので戦場でベテラン整備員が壊れた部品を直す凄い手間をかけてました。本国の日本にも消耗品の部品を送るって発想も希薄で全ては現地で何とかしろ!が当たり前でしたので複雑な疾風の稼働率が悪かったのも当然でしたね。ドイツは其の点では部品を変えるだけなので未熟な整備員でも完璧に仕上げて高い稼働率を誇ってました。部品の供給が出来なくなって一気にドイツ空軍もダメに為りましたけどね。これも日本の工業力の脆弱性がモロに出ましたね。私は最近まで自動車工場に居ましたが最近まで先輩は意地悪で教えもしないでへまをするとスパナが飛んで来る有様だった様ですので、80年前の日本では10年我慢して一人前でしたが、それでは戦争に間に合わないので整備体制も日本の敗戦の大きな原因だったのでしょうね。残念に思います。
@@亨-o3t 貴重な体験記に感謝
面白いぐらい、ためになる話。ありがとう。
四式戦は日本機中でも最も好きな大戦機です。
昔、出張の合間にロンドンの科学博物館にいったときに誉(ハ45)が綺麗な状態で保管されているのを見たことがあります。設計で背伸びしすぎだったかもしれいけコンパクト高性能で評価されていたのだと思う。
オチャラケのキャラクターが出てくる似た動画よりも、なぜか落ち着いて見ていられる。
ゆっくりしていけないんですね…?
主さん、良質な動画いつもありがとうございます✨
たくさんある解説動画では早口とBGMで聞き取りづらいモノが多いなか、聞き取りやすく写真も多いこのチャンネルはありがたいです!
今度は赤城上げてください!✨😭
入間基地で実物を飛んだのを見に行った。今は飛べなくなって知覧の博物館に展示されている。ハイオクのガソリンを使ってあげたかったね。
当時、日本では最高のオクタン価燃料は台湾の屏東基地(海軍)にあったらしいけど、せいぜい85価くらいだった
みたいですね。戦後、米軍が整備して米軍燃料を使った試験飛行では、恐るべき性能を発揮したとか…
@@nangokuizumi インドネシアのパレンバン油田施設を占領してから100オクタンの燃料が使えるようになりました。ところが陸軍が占領したところは産出量が多く、海軍の占領したところは産出量が少なかった。海軍は陸軍と交渉しますが陸軍は譲らず、日本への輸送に海軍は協力せず、せっかく手に入れた石油施設を生かしきれなかったようです。バカバカしい話です。
緒戦の頃なまだしも、戦局悪化の一途を辿っていた1944・45年頃に、2年間で生産機数が3500機とうのは、立派と言うより驚異的だと思いますね。これは、部品点数の削減、生産工数の低減に留意した結果でしょうね。
疾風のエンジンに高オクタンの燃料、2段2速の過給器を装着させて、高度9000m以上の高度でP-51ムスタングと空中戦を戦わして見たかったですね。勝者は、疾風かムスタングか?興味がありますね。
ま、普通にマスタングが勝つわな。
仮に疾風のエンジンが高オクタンの燃料、2段2速の過給器搭載にアップグレードできたとして、相手になるのは史実でも終戦前に配備が始まっていたP51Hとなるけど、これは今までのマスタングのエンジン出力強化+軽量化版というバケモノとなる。機体性能だけでなく信頼性や整備性も上。
一対一ならわかりません。なぜなら親父が空中戦でP51と赤トンボみたいな複葉機で、戦っていたのを見てました。結果引き分け。6戦あったそうです。
6000mじゃないと勝てないと思う
@@駐存路陣
複葉機はめちゃくちゃ運動性よくて数百キロ速さが違うから戦いづらいだろうね
品質管理を「しなかった」のが量産できた最大の理由
物資の少なかった日本がここまでの戦闘機が作れたって凄いな
まったくです、松の根から 松根油を生成していたとか⁉️ 親父が言ってました。 酔っぱらうといつも松根油の話し。笑
池田勇人 てな
所得倍増計画
疾風の勇人の異名がある
月光仮面みたいな政治家だよ
当時残念なのはアメリカの工業力には及ばなかった事ですね。資源もなかったし
海軍も喧嘩しないで四式戦や五式を使わせてもらえばよかったんや
@@kawasemi8717 さま コミンテルンの暗躍で撹乱されてましたからどうにもならない状態だったようです。山本五十六なんかひどいもんです。
疾風は良い戦闘機だと思いますし戦争末期に3500機も造れたのは陸軍の航空行政が良かったからでしょう。陸軍は1式戦隼以来、2式鍾馗,3式飛燕,4式疾風,5式と送り出し相応の戦果あったが海軍は新型機開発が遅れ零戦を改悪造しながら終戦まで使わざるを得なかった。海軍は設計陣に必要以上横やりを入れ開発を遅らせ、陸軍は設計陣に比較的自由に開発させたと聞きます。零戦の主任設計者の堀越技師は海軍が無茶言わなければ1500馬力金星エンジンを積んだ零戦54型は1943年春には戦場に送ることが出来、ヘルキャットを阻止する事ができたであろうと回想しています。
ちなみに生産数は零戦 隼 疾風の順です
その生産数も零戦や隼が数年掛けての生産数だったのに対し、四式戦は一年くらいで3000機以上の生産数ですからね。
いかに生産性を考慮した設計がなされていたかの証明でもあります。
いや、海軍は燃料の心配で主力戦闘機(零戦)の燃費が悪くなるのを懸念して燃費の良い栄エンジンにこだわっていたんだそうだ。
みんな貧乏が悪いんだ(涙)
@@novaman6244 実戦部隊からも、大変なラブコールを受けてました。記憶してます。
兵学校には、なまじ機械の授業が有るから、海軍士官は機械に口を出す。
生半可は素人より質が悪い!
@田中一郎
たくなww
例えば、タイガー対Tー34・・リングサイドで一対一を観賞するとすれば結果は明白だが・・
蟻と象!数が圧倒的だよね。
別角度の見識ではあるが、もう後数年早く登場すればとか、震電だの秋水だの・・後なんだ?262のコピーwww
無理無理!戦局は変わらないよ❗
なぜなら敵もそれなりだから:-)
何だった?1万五千まで上がってアメリカ本土爆撃とか笑笑
タイガーキャットの餌食がいいとこだろう⁉️
「丸」を40年愛するじぃじ1957
陸軍海軍が統合して機体や人材を活用できていたらもっと活躍出来てたかも
ほんとそれ。もっとも悔やまれる「たら・れば」ですね。
現実
陸軍「海軍が戦闘機開発に困ってるみたいだから研究用サンプルとして四式戦2機を無償譲渡するね」
海軍「陸軍ごときが使ってる戦闘機なんぞ研究の足しになるものか!!」
終戦時、倉庫で埃を被っている四式戦2機が発見されたという・・・
空軍創立した英仏。
陸海両軍で活躍した航空機は皆無。
中島飛行機は今のスバル(富士重工)
疾風は知っていましたが何故あの高性能の機体が稼働率が悪かったのかわかりました。
うp主さんありがとうございます。
3式戦飛燕にしても戦後アメリカのエンジンオイルと燃料を入れて飛ばしたら、日本の公式性能より良かったと聞かされて物資が無い状態でもスゴイ飛行機を作っていた我が国を誇るとともに、燃料やオイルそして点検等が至らなかったことが悔しいですね。
三菱の方から終戦頃は松脂まで使って燃料に混ぜ、ゼロ戦飛ばしていたと聞いたこともあります。
戦後にアメリカのハイオク航空機用ガソリンを入れて飛ばしたら、690km 以上の速度がでたと聞いています。最高の日本軍機でした。良き整備と操縦士に恵まれた時は、ムスタングなどにもまさる最強の戦闘機だったとのこと。
計算値です
疾風も性能も良かったと聞いていました。
47戦隊の事績は初めて知りました。
特別なことではなく、組織的に整備をきちんと行っただけで稼働率を向上できたということは、改めて考えるとある意味衝撃的ですね。
3500機の疾風に組織的な整備が組み合わされたら、それなりの戦果が見込めたのでは…
当時の陸軍内での整備部門の扱いがどうだったのかわかりませんが、なにやら「輜重輸卒が兵隊ならば、ちょうちょトンボも鳥のうち」的なものを感じないでもありません。
あの頃の万般に渡って言えることでしょうが、発想はよくても工業力が追いついてない。
組織運用が下手でせっかくのアイデアが眠ってしまった例も多い。
まだまだ国家として近代化途上だったということでしょうか。
これに学んだ戦後は、世界最高レベルの工業力を達成したわけですが…
47戦隊は壊れる前に定期的に部品を変えてたわけですが、部品の供給が十分あったからできたことでしょう。全部の部隊が同じことをやろうとして部品の供給ができたかという疑問もあります。
整備兵については加藤隼戦闘隊の歌詞の2番に出てくるくらいですので、軽んじられてはいなかったのではないかと思いますが、あまり戦記物とか読んでいないのではっきりとは分かりません。
疾風かっこいいなぁ~
動けた最後の疾風を日本に返還したらボロボロにされてしまったそうです……
@@hyuga_tamamo 戦争が 終わったならみたいな?
@@海グン さあ
40年前には中島飛行機のあった群馬県太田市のアンティークショップでは、疾風のタイヤなど戦闘機の部品を売っていました。
あの時買っておけばよかった…
疾風も終戦に近くなるとプラグも不足(品質も悪い)交換のプラグも不足で取り外した古いプラグの接点を研磨して使っているしエンジンオイルが余計に不足して芦花して再利用していてこんなふうにまともに稼働したのか不思議❗
ピストン・エンジンの飛行機のプラグというのは、2020年の今現在でも50飛行時間毎に取り外して、研磨し、電極間隙を調整して、中心電極が直径の半分に磨耗するまで使っています。そういうことではなく、開戦時から日本のプラグは高空におけるコロナ放電に対する絶縁などの本来の性能が欧米に比して劣っていたのです。飛行第25戦隊の戦隊長である村岡少佐(戦後陸自ヘリコプター部隊の陸将)の手記に、あるとき、自分の隼のエンジンの調子がバカに良いので、整備兵に、何か特別なことをしたのか?とたずねたところ、ウチの部隊が撃墜したP47 サンダーボルトのプラグを付けてみたのです。と答えたとのこと、少佐が「おいおい、よくプラグの穴の寸法が合ったな」というと、
整備兵は「いや、少しキツかったのですが、なんとか入りました。」というので、そうかそうかと言うしかなかった、とありました。
陸軍機の方が海軍機より洗練されてたように思えます。
恐らく発艦などと関係があるのではないでしょうか
@@i_ORIX
雷電や紫電(改)は陸上での運用が前提なので、空母云々よりそもそも海軍の航空行政が稚拙というか本腰入れてないというか将来に対する展望がないというか・・・
かつて96艦戦が傑作機だと自信満々で三菱の担当者が陸軍仕様にして売り込んだのだが、陸軍はメンツがあるのか改めて3社(三菱、川崎、中島)に試作機競合させて中島製戦闘機(97戦)を採用した。三菱の技術者はその時すでにやる気無かったらしい。以来陸軍に三菱は戦闘機を作ってない。
また、海軍が零戦を採用、実戦で活躍させてる時に陸軍では格闘戦が固定脚の97戦より劣る(当たり前ですが)とかでキ43(後の隼)を不採用にしている。
さらに海軍がドイツでDB601エンジンのライセンスを取る(後の熱田エンジン)寸前に陸軍も横やり的にライセンスを取る暴挙(後のハ‐40エンジン)をおかしている。日本政府としてライセンスを取れば半額なのにとヒトラーに笑われたとか(笑)
キャノピーが翼の後ろに有るのが、引き締まって見えるからかな?
海軍機は三点着陸するので、主翼前縁越しに真下が見たいのです。
海軍の方が無茶な要求仕様を出してくるから戦闘機に関しては比較的奇抜でリスキーな設計になりがち
その分自動空戦フラップとか操縦系統の改良とか層流翼みたいな画期的な技術の適用例も多いメリットがある
対して陸軍機はどれも概ね堅実で保守的な設計だから失敗が少ない
ナイス動画!
死に物狂いの戦いをしている時に、工作精度のユルさでひどい苦労をしたからこそ戦後の日本の技術者は世界に誇れる工業力を維持できたのでしょう。
同感です。当時は部品図面の寸法に的確な公差もなく、ほとんど現合に近かったと、中島飛行機宇都宮製作所で旋盤工をしていた父が言っていました。(戦後の頃)したがって部品に互換性がなく苦労したようです。しかし職人技の技能はすごかったようで、現在のようなマイクロメーターのない時代に、パス(軸径などを測定するな単純な測定工具)だけで百分の一ミリを割り出すことができたといいます。日本の工業力は、こういった伝統を受け継いでいるのかも知れません。
ここだけの話ですが、前半の侵攻期に連れていった整備兵。
後半の本土決戦準備期に、置いてけぼり。
おかげで、本土空襲にも会わず。
戦後、復員して引く手あまたで50年代産業復興だとか。
俺、「疾風」っていう言葉だけは一番懐かしく思う。
中島飛行機は化け物みたいな飛行機ばっか生み出してるな(良い意味で)
四式が優れてるのはまちがいない。が、それも一式(隼)からの基本設計が優れてたからだと思う。
海軍系の“零式”からの流れとは違う。
大東亜戦争全期間を通じて日本最強の戦闘機は疾風で間違いありません。
紫電改は疾風ほどではないが高速で、運動性と加速力、火力が優れてた。剣部隊の紫電改と47戦隊の疾風なら互角に近い戦いができたと思う。47戦隊以外の疾風は五式戦に負ける。
別スレで紫電改は格闘戦に長けていて、疾風は一撃離脱に優れている。まず一対一の格闘戦に疾風はしない。分が悪い戦況には付き合わないはず❗本土決戦では、性能が劣った機体で多数の敵戦闘機に向かうのは自殺行為❗格闘戦に有利な紫電改が少なからず成果を上げたのは当たり前!!!400機の少ない新鋭機は相手からしてみれば、油断して立ち向かい、フタを開けたら殺られていた!!!といった所か???
美しい戦闘機。特に垂直尾翼の形状が芸術的。知覧特攻平和会館に行き、見惚れていました。
なるほど、疾風の稼働率を上げる為に、その様な隠れた努力がなされたんですね。感慨深い動画に感謝しますm(_ _)m
米軍のガンカメラでバリバリ撃ち込まれても、破片が飛び散る以外全然出火しない疾風や紫電改の映像は、凄かったです。もっと早く防弾ガラスや防弾タンク等が取り付けられて居たら、ベテランパイロットが失われずに済んだのに、惜しいです。。。
前縁がピシッと真っ直ぐなのがカッコいい。
よい燃料があれば、、、
ラジコン飛ばしてました。
多分物資不足だったのだろうけど、こまめに部品を交換するという発想が当時の日本にはなかったんでしょうね。某設計技師から戦後ディスられたせいでハ45は欠陥エンジンとの評価が定着していたけど、アメリカが部品交換してハイオクタン燃料で飛ばしたら格段の性能を発揮したとのエピソードからわかるとおり、エンジンに欠陥はなく戦争末期の品質の低下が不調の最大の原因。だからこれは三菱のハ43も量産となれは同じ事が生じていたはず。
そう、ハ43が大丈夫って根拠がまるで無いんですよね、試作段階でボロボロとボロが発覚していますから、
まあ誉を貶す事に執念を燃やしている人達にとりそういう都合の悪いところは「wikiに書いてある事なんて信用できない」と一蹴するんでしょうけどねw
知覧の疾風は日本に返還されずに、アメリカにあれば今でも飛んでたと思う。勿体ない...
同感です!歪んだ平和主義者の批判の対象にもなりますしね。
入間基地の空を舞う姿が目に焼き付いています。
その通りです、その考えには理解します。
疾風、超スタイリッシュでかっこいいですねー。(*^_^*)
勝つ事をデザインしたらカッコ良くなってきた。
FW190よりも洗練されていた。
P51に負け。つまり、同じ?私は、Fw190D 液冷型がいいな(^o^)
やっぱり、Me262に負けだよね❗
4式から5式に至った経緯は、日本空戦史の悲劇かも?この動画ですよ!。
さすがスバルの前身の会社。
僕が若いとき、実家にトヨタ1300cc のバンがあった。当時アルバイトで、呉服商をやっている人のお抱え運転手をやってたんだが、その車がスバル1000だった。 トヨタのバンとは全く違うそのスムーズなエンジン回転、加速力、視界の良さ等に本当に感激したことを覚えてますね。
当時からスバルは様々な先進的技術投入していて、それは現在何処のメーカーでも採用するものとなった。本当に10年くらい先を行っているメーカーだった。
フォレスターを
スバルを考える。
エアロスバルとか戦後も飛行機を作ってましたね。
GHQの指導により中島飛行機は解体されて、後にスカイラインGT-Rを製造したプリンス自動車も末裔。未確認情報では有ります、主要エンジニア達はプリンスを創立したそうです。スバルはスクーターを作り、社員の糊口をしのいだそうです。
海軍が最後まで主力戦闘機を零戦としていたのに対し、陸軍は次々と新しい戦闘機を開発していったことに注目されて然るべきだと思います。海の上と陸の上という差を差し引いても、陸軍の開発熱の高さは際立っていると思います。海軍の方が合理的なのに対して、陸軍が非合理的な精神力に頼った、という言説をしばしば見かけますが、それは誤りで、本来敗戦に対して重い責任を負うべき筈だった海軍側が、その責任を陸軍側に押し付けようとしたプロパガンダだったと感じています。長い間支那大陸で、国民党軍やソ連軍等と戦っていたからこそ教訓を得つつ、新鋭機の開発を何よりも重視していたと思います。情報を軽視していたというのも嘘で、非常に詳しい戦闘情報と世界情勢分析を天皇に上奏していました。
予防保全を疎かにする企業は、悲しいかな今の日本にもあるんだよね・・・。
成果に繋がらないんだよ、故障修理は数字に表れるけど、予防保全は数字になかなか出ない。
極端な成果主義者は予防を嫌う。数字に直結しないからね。
そう、残念ながら今も人の意識としてはあまり変わってないんですよねえ
中島飛行機は今のスバル自動車(富士重工業)の前身になった会社ですね!
エーリッヒハルトマン 航空証明が厳しいから飛行可能な状況のものを飛ばせる状態で維持するのは厳しいけどその後がその後だからナニも言えないですね
せめて静態保存でもいいから良い状態で保存してほしかった
動画見ても、米見ても凄いのがわかる
疾風正にハヤテの様に
現れて去っていく
整備がいかに大事か?
疾風の名前は労働雑誌【力】(ちから)で一般公募で選ばれた名前だそうです。
工場に動員された女子高生が、疾風の外板を貼り付ける作業をしていたらしい。
初めから外板には鋲穴が付いていて後は機体に沿って鋲を打っていくだけで、誰でも出来る様生産効率を良くしたつもりらしいが。
その時女子高生だったお婆ちゃん曰く「始めのうちは打ち込む位置と穴があっていたけど、だんだんズレて来て終いには外板を余らせて終わってしまった、これに乗る兵隊さんの事を思うと申し訳ない気持ちになった」と手記に書いてあった。
良い物を作っても品質が悪けりゃねぇ、それを頑張って品質を上げていた整備兵がいたとは
岩橋少佐、マジイケメン。
提督の決断では。かなり使えました。まさに決戦機でした。
独飛47は先整備・定期整備を徹底していたわけですが、今の航空機の整備と同じやり方。
本来、自動車でもやるべきなのに・・・・みんな後整備なんだよなぁ
流石、SUBARUの前進企業の造った機体だ。
中島飛行機は海軍機も作っていたぞ。川崎は陸軍にだけ飛行機を作っていたけど
97式艦上攻撃機も中島飛行機が作ってたんだよね
零戦もライセンス生産してますね。
三菱から送られた治具が精度低くて、試飛行は命懸けと言われました。
ニッサン(プリンス)の前身でもあります
なんだかんだ言ってもアメリカでは〝飛行可能〟な状態で還してくれたのですよね。それが、管理の出来ない状況のもとで〝飛行不能〟になってしまったのはとても残念な事ですね。
現在、〝知覧〟で〝展示〟されているのがその機体ですね。
米のヘルキャットやムスタングも撃墜した最強の戦闘機です。
それは公平なコメントではない。
逆に撃墜もされている。
もちろん落とされました。しかし、アメリカも少なからず脅威を感じてた戦闘機で間違いないから、フランクという当時珍しいニックネームをつけた。と書いてありました。
剣部隊と47戦隊を見ると、整備の重要性がよくわかる。
疾風はハ45に固執せず、将来的にMK9を使用することを前提にハ112-Ⅱを使えば良かったと思う。信頼性と整備性はハ112-Ⅱの方が圧倒的に上だし、運転制限したハ45よりも高性能。
満州飛行機が作ってる。
悪くはなかったらしい
疾風、陸軍の戦闘機で敗戦近くで、よく性能をよく発揮できたことは、良かったこと、誉エンジンを付けていたと聞いていました。日本の技術です。
未熟な整備士では整備出来ない発動機、、、
無理な小型化が祟って整備の難しい複雑巧緻な設計になった上、良質な潤滑油や高オクタン価ガソリンの不足・整備教育体制の不備等で本来の性能を発揮出来ない事が相次いだ誉発動機。まあちゃんと整備出来ればP-47やP-51と戦えるだけの実力を発揮出来るだけ、カモ扱いされていた三式戦闘機に比べればマシな方なのかもしれない・・・。
ちなみに日本が2000馬力級エンジンの開発運用に悪戦苦闘している間、米独では2500~3000馬力級レシプロエンジン及びジェットエンジンの開発・配備が進んでいたという残酷な現実・・・。
プラグも良品に交換しての性能試験だったようです。
金星64型エンジンを積んだ機体を試してみたかったね。稼働率は上がったのでは?
85戦隊と47戦隊の活躍はすごいなぁP51を撃墜してたんだな🛩🛫
映画、山本五十六を見やがれw💢
スバルには「キ番号」や「ハ番号」を受け継いで欲しかったような…
たぶん、ハ番号はともかく、シ(車体)番号がまずかったのでは?
刈谷って、あの・・・
調布の第244戦隊の三式といい、整備技術体制を確立した部隊は稼働率が高かったというより、他が低すぎたんですね
真面目な議論がされている雰囲気なので、若干場違いかもしれない話題だが敢えて書かせて頂きますが……。
個別の機のカタログスペックも勿論重要ではあるが、戦争は技術競演会ではないので、適材適所とでもいうのか、局面に応じて如何に使えるかが大事なのではないかと思います。
ソードフィッシュなんぞでもタラントの手柄で名機扱いらしいし、また、よく云われる五式戦闘機にしても、遠距離を越えて来襲する敵機を本土で迎撃すればこそP51相手に渡り合えたと云う人もいます。
(私自身は当時の当事者の努力をないがしろにする気は全くありません)
そこで、というか、本スレの趣旨とは若干場違いかも知れないのですが、B29の来襲を防止するのが目的ならば(勿論防空戦闘機は強力なのに越したことはない)、なぜ出元のマリアナで防げなかったか、その企図は無かったのか、今に至るも語られないのは不思議です。
サイパンが失陥して、東條内閣は潰れました。
本土空襲が避けがたくなったからです。
裏を返せば、サイパン(やテニアン)の飛行場から敵機が飛ばせなければいいので、極端な話、サイパンやテニアンの海港封鎖は出来なかったのか。
早い話が、大変な燃料食い(零戦十数機分と聞きます。編隊となれば尚更です)であるB29の燃料を絶てば飛べないわけで、両港に入る航空燃料タンカーを半分沈め得れば、飛機数は半分になります。
港そのものを封鎖できなくとも、太平洋上の数点(サイパン、テニアン、更に加えればハワイ)を往来するタンカーを狙えばいい。
対潜兵力を割かざるを得ない状態に持ち込めば、半身不随の艦隊となった状態では、それだけでも意味があります。
ザッパな話ですみませんが、昼夜何処に来るか分からぬ敵機を本土で網を張って苦手な高高度戦闘に持ち込まれるより、防戦として考えれば有効かと思います。
サイパン失陥直後には、戦艦大和をサイパンにのしあげるとか、水陸両用戦車で逆上陸を仕掛けるとか、そんな計画?もあったやに聞きますが、こうした個々の兵器のスペックに依拠する作戦?なり話題が出ても、トータルの状況下で適材適所に使うにはどうするか、これが出てこないのがどうも???なのです。
う~ん、言いたいこと上手く言えん。
「日本万歳」
うんうん。
ラバウルみたいな遠くに戦備をつぎ込むよりサイパン強化してた方が数倍良い。
ゼロ戦は制空戦闘よりも対潜水艦戦闘に使う方が中期以後は価値が在る。
大和はサイパン強化の一つとして敵の攻撃前にサイパンで着底砲台を覚悟。
ソロモンで飛行機を大量に失うのもばかげてる・・・
全部をサイパンで使用し上陸軍阻止に使えば良かったのに、と思う。
サイパン防衛は時の参謀本部が、敵上陸に対応可能な兵力と必要な資材/資源を見積もり、所要量を積み出した時点で「サイパンは難攻不落になりました」と大見得をきりました。
ん?最近誰かが積み出しも終らないワクチンに「確保しました」とか大見得を切ってませんでしたか?
素晴らしい設計陣、ゼロ戦や一式戦にも疾風の様な設計思想があったらと思いました。
紫電改と同じエンジン初めて知りました。海軍と陸軍の兵器部分は、混ざらないと思ってました。
エンジン関係は陸海軍で少し変わる部分があるけど基本同じモノ使っていますよ。1式陸攻と97式重爆も同じだし5式戦と彗星艦爆の33型以降も同じです。後は隼と零戦も同じモノ使ってた時期もあります。疾風も紫電改と同じ意味ですね。特にエンジン関係では三菱は好まれてました。(馬力もあり日本の事情に合わせたことで稼働も良く戦争後半では主力機の殆どに使われた)中島は1000馬力までは評価良いけど1500馬力以降は誉のようにガタ落ちになりがちだったそうです。愛知と川崎は・・・・うん致し方ないですね。
@@暁狭霧
詳しいから、助かりました。いろいろ知っていますね。昔に成りますが、戦闘機に興味を持つのは中学生の頃プラモデル沢山作りました。が、使用される部品がどう関わっているか?までは、調べないでいました。
@@暁狭霧
戦闘機には、1500から2000馬力は、必要ですね。いろいろドイツ、イギリス、アメリカの戦闘機を見ますが、初めのゼロ戦や隼のエンジンの馬力は少ないと思ってます。
大馬力なので爆弾搭載量も大きく、戦闘爆撃機としても優秀だったと聞いたことがあります。
さすがにお詳しいですね。疾風一つでいろいろな作戦に出撃していたと、書いてありました。皆さんご存知の様に、燃料、部品の問題はあったが、一つの機体で防空、爆撃、輸送の護衛他、大車輪の動きをしてました。パイロットから大変支持されていたと聞かされました。
搭載量は飛燕や隼と変らないけどそれを装備して高速で飛行出来るのは疾風だけかな?
特攻機ですね。
ちなみに護衛は使い古しの隼Ⅱ型
宇都宮空襲まで、小生の父は中島飛行機宇都宮製作所で四式戦闘機「 疾風 」の製造に携わっていた旋盤工の職人で、戦後も自分専用の手作り鍛造バイト(旋盤で切削加工を行う工具)を鉄製トランクに入れ大事に持っていたのを覚えています。きっと宝物だったのかも知れません。また父の同僚は群馬の小泉工場で零式艦上戦闘機五二型の生産に携わっていたと聞きます。その同僚が【ああ~俺たちは戦地にも行かず、若者たちの死に道具を作っているんだ。】と嘆いていたことを、戦後(小学生の頃)よく聞かされたことを覚えています。とかく性能とかが論じられますが、製造現場ではこのような苦悩があったのですね。
ちなみに、父の鉄製トランクの中にバイトと一緒に部品の青図(Wikipedia参照)が入っていたのを覚えています。どこにいったのだろう。現在では貴重なもののはず。
加速を重視して回転半径の小さいプロペラであれだけの速度が出せたことがすごい。
もうワンサイズ大きなプロペラを装備したら最高速はもっと上がったんじゃないかと思う。
戦前にライセンス生産されたルイス・ハミルトン製のプロペラを終戦まで使い続けて、オリジナルのプロペラ機構を自力開発出来なかった時点で・・・(涙)
@@novaman6244
たしか疾風はラチエの電動プロペラでハミルトンスタンダート製の油圧プロペラでは無かったはず?
ルイスハミルトンはF-1ドライバーですよ(笑)
@@コウダイ-r1v
どうも間違えて書いてしまったようですね。これは失礼(笑)
プロペラはヤマハが作ってましたが疾風もそうでしょうか?
重戦か軽戦で登場してほしかったですね。五式戦の稼働率を考えるとエンジンの選択が間違っていたような気がしますね。格闘戦を最後まで重視した結果スピードを犠牲にしてしまった事が残念ですね。軍部が好き勝手な要求が全てですがね。ドイツの軍部は先を読んだ戦闘機開発をしていたのが大きな違いですね。ガソリンオクタン価が少ないドイツがあれだけのことが出来たのは考え方の違いなんでしょうね。
私が一番好きな戦闘機
一晩でB29を3機撃墜した
黒江 保少佐の凄さは圧巻です。
稼働率が高く、現場からの評価が高かったのは五式戦。当たり前の整備が出来ない状況でも稼働率が高かった。
五式戦闘機の試験における模擬空戦では、力量同等の操縦士が何度機体を交換して行っても五式戦闘機が四式戦闘機を圧倒し、操縦士たちが四式戦闘機の生産を中止し五式戦闘機に一本化すべきだと意見具申したことは有名な話ですよね。
優れたエンジンがあれば、三式戦闘機が最優秀機体だったんですね。
五式戦は、疾風の問題点を洗い出して造ったから良くてあたり前、戦況から空戦よりも、一撃離脱に戦法が変わった。この点で疾風が合っている為、生産数が多かった。
そう、あと47戦隊の整備班の場合中島の技術者達と繋がりがあったらしい、
当たり前の整備システムを全軍規模で構築しなかったのがそもそもの間違い、
とりあえず中島のエンジン班が全国行脚して疾風配備の各基地を訪問し整備班に誉の整備講習会を開いて
整備マニュアルを逐次更新し配布すれば良いだけだよ、特に資源を浪費するわけでもないし技術的困難があるわけでもない、
やろうと思えばできた事をやらずに整備が難しく稼働率が低いというのはいただけない。
あと、五式戦のがマシとか誉が悪いとか言ってみても
日本も遅かれ早かれ2000馬力級エンジンやジェットにステップアップしなければ性能が乖離しすぎて五式戦でも戦闘継続不可能になるので、
人の意識や組織面で抜本的な構造改革をしない限り、疾風や誉でなくても直面していた問題にすぎない。
日本の整備兵の教育は間違えていたんじゃないかと言われてますね。
出来不出来の差が大きすぎる。
その辺は個人的には評価が厳しすぎるんじゃないかと思います。
戦争がはじまり急速に航空機の生産数が増えてしまったのに対し、優秀な整備士がそれに追いつけるほど用意できたかと言うと難しかっただろうと考えられ、即席の整備士が多かったのではないかと考えられます。
中島のエンジン班とて、新型や改良に追いまくられていたのではないでしょうか、整備の為に行脚する暇は無かったものと考えられます。
問題を抱えたものを動かせるようにするとなると、知識や経験や感覚や勘レベルが要求されると思われ、マニュアルで何とかなるレベルではなかったんじゃないかとシロートながら推測します。
「稼働率が低いというのはいただけない」気持ちはわかりますが、そうせざるを得ない状況だった、というのが実情だったんでしょうね、それは動画見ただけで感じられることですし。
@@keroro20301
47戦隊の整備兵が他の部隊の整備兵よりも知識や経験や感覚や勘レベルが特段優れていたわけではない、
彼等もわからないから(新エンジンなのだから当たり前)中島の技術者に尋ねて整備を覚えていった、
現代の自動車整備などでもキチンと教育を受け知識と経験を積んだマトモな整備工はまず車種ごとに整備マニュアルを参照する、
それでわからなければメーカーに聞く、当たり前の事だよ、
マニュアル見るのメンドクサイなーどこどこのクルマは経験則でこうだろう感覚的にこうだろうみたいな整備をすると後で痛い目見るからね、
整備マニュアルを見ずに経験とか勘で整備するような整備工は整備工として信用ならんよ。
操縦士だった叔父が戦争末期、国外から操縦士達が呼び戻され本土決戦に備えたとき、この戦闘機をあてがわられたかと・・・それまでは紫電改に乗っていたらしい。その頃の話を聞くと結構人間的で面白かった
四式戦は陸軍機、紫電改は海軍機なんですが?
@@スサナル 自分が間違えてたかもしれません(飛行機詳しくないので)以前見た叔父の写真には零戦みたいなずんぐりした飛行機じゃなくてスリムな機体で戦闘機ってイメージより大きいのが印象的でした。
@@けい-c2o1w
陸軍の戦闘機でスマートな機体なら一式戦 「隼」或いは三式戦「飛燕」辺りかと思います。
五式戦闘機は飛燕のエンジンを空冷式星型に替えた物ですが、これは二十年四月ころから内地の部隊に配属された物ですから外地には出ていません。
海軍は零戦以外の戦闘機は「雷電」と「紫電と紫電改」、後は水上戦闘機の「二式水戦」(零戦がベース)と「強風」(紫電のベース機)位ですがどちらもスマートとは言い難いです。
他には陸軍も海軍も双発の戦闘機が有りますが今回は関係無いと思いますので省略しました。
@@スサナル 詳しく教えていただき有り難うございます。今度本人に何に乗っていたのか聞いてみます(認知機能の低下で忘れているかも・・)叔父からは詳しくは聞いてないのですが終戦は千葉の飛行隊?で迎えたらしいです。
海軍も陸軍も喧嘩しないでうまくやれば17式戦闘機も早くで来たかもしれない
栄エンジンンのオイルはテキサコ社製のエヤプレインオイルNo.120だったそうだけど、誉エンジンも同じだったのかな?
疾風が隼並みに簡単な整備性が有って1800馬力が出てれば結構頑張れたと思うので残念ですね。とは言へ当時の日本の技術力を超えてたので如何にも為らなかったのでしょうね。
戦闘機の性能などハード面ばかりが注目されるが、やはり定期的なメンテナンス整備のソフト面を重視しなかったことも負けるべくして負けた戦争だったのだろう。
現代で言えば一切メンテをせず不調なら使い捨ての家電製品みたいなやり方では人命は救えないと言うことだな。
いえ、それ以前に燃料に松やにとか混ぜてボロになってる時点で性能云々以前の問題かと。
日本の傑作機。デザインは素晴らしい。性能も良いし持っと早く出せたならマリアナの七面鳥わ言わせない気持ちです。
デザインは本当に素晴らしい。作ったのは中島飛行機、そしてそれが現代のスバルに変身。
元々七面鳥は防弾装備のなかった零戦が始まり、と書いてありました。
@@駐存路陣 さん
零戦/九九艦爆/九七艦攻の三兄弟が、空中指揮も出来ずに米戦闘機群に突っ込んだのが七面鳥です。
いくら性能が良くても、対空砲弾のVT信管は近くに飛行機があれば命中しなくとも爆発します。だから七面鳥撃ちなのです。
勉強になります。🤔重爆機の富嶽も幻で終わりましたね。富嶽の情報もよろしくお願いします。
赤鼻のエースかっこいいなぁ
チャンネル登録しました‼
kirishima999 さん、チャンネル登録ありがとうございます!!
@@梟軍事情報局 いえいえ、これからも頑張って下さい❕
日本の戦闘機の中で1番美しい戦闘機
米軍が「フランク」と呼んでいた日本陸軍最強戦闘機で、米のF6FヘルキャットやP51ムスタングも、撃墜しています。
四式は世界一好きな戦闘機です。なにより空冷なのに美しい。美しさは強さです。P51より強かったと信じます。俺だけはね。
試作機や試験時と現場では 燃料の質に結構な差が有り
現場では性能が落ちることが良く有ったとか
今まで聞いている日本製品の部品の品質、加工精度から、整備では何とかなるような問題ではないように思われますが、にわかには信じがたい話ですね。
当時、工場から出荷されるすべての誉エンジンが定格出力を出せなかったわけではありません。実際、フィリピンでアメリカ軍に鹵獲され、好評価を得た機体のハ45は完全な量産品でした。また、不適切な組み立てによる不具合もあり、生産ラインから得たパーツを熟練者が組み立てた結果定格の出力が出たそうです。
47戦隊では整備マニュアルの活用、定期的なオーバーホールや飛行時間の管理、不具合の報告などを徹底していたため、故障の前触れに適切に対処することができ、結果稼働率を高く保てたのではないかと考えられます。(当時、整備マニュアルはあったもののあまり活用できていない部隊が多かったそうです。)
もちろん整備でなんとかならないような不良品もあったと思いますが、エンジンは個体よりも多く生産されていて、一応交換が利くようになっていました。(海軍ではアツタエンジン搭載
の彗星の生産を停止しても、エンジンの生産は一定のペースで続けていました)
稼働率が高くてもその全てが定格通りの出力を出せていたかはわかりません。
他に考えられる理由としては、その部隊にのみメカニックと交換部品を優先的に・集中的に投入されていた可能性はありそうですね、たぶんパイロットも選り抜きの人たちが配属されていたんじゃないかと考えられますね。
敵味方において戦闘記録・戦果のすり合わせもある程度行えているでしょうから、そういった記録から考えても稼働できていた飛んでいたこと自体はきっとそうなのでしょう。
まあ、大本営発表的な物もあるから一概には言えませんが、にわかには信じがたい話は、ゼロ戦とか大和とかイ号潜水艦とかでも結構ありますから、その部隊に関しては整備で何とかなるレベルだったのでしょう。
文林堂 世界の傑作機№19陸軍4式戦闘機 疾風に同じ事書いてあったw
四式戦はどちらかというと重戦闘機ですよね?
出始めは重戦闘機でしたが、アメリカからさらに大きく重い単座戦闘機がでたので、中戦闘機でもいいかも。一撃離脱は軽くパワーが低いと難しい。
Nice aircraft.
疾風は海軍の紫電改と比較されるが、量産効果は圧倒的に疾風であり中島の疾風の戦争貢献は
非常に高かった。日本軍期待の2000馬力の疾風は広く前線に配置され陸軍機では一式戦に続く
疾風は陸海軍通じて最大の貢献機であった。600キロを超える戦闘機は世界に太刀打ちできる
日本最後の実戦向き戦闘機であった。紫電改は惜しいことに生産数が限られ苦戦する海軍の前線には
配備できなかった。疾風がもう一年早かったら戦況は変わったかも知れない。
アメリカが、日本最高の戦闘機と評価したのは、皮肉にも、陸軍、中島とは!?
日本車のエンジン技術の基礎はここにあったのかと感じます。
高出力、コンパクト化は今も昔も日本のエンジニアの持つ執念のよう。
問題は使う燃料のオクタン価化かな?あとはプラグやらパッキンなんだよなんかの消耗品が全線までよく届いたな‼️
前線まで届かんよ。疾風が登場したのは1944年のフィリピン戦。日本の輸送船が最も多数撃沈された年で、敵のグラマンも圧倒的多数になってた。ラバウル航空戦のころじゃないと。
当時の戦闘機戦は目視による機関銃戦だから、速度は必要だったのだろう。まあ高度有利による速度有利もあるけど。たしか、初めてF6Fと戦闘した零戦パイロットの岩崎さんの書記にも速度がもっと必要だと書かれていたな。
大出力高速戦闘機は当時の流れとして正しかったが、エンジンが本来の性能を出せなければ旋回性能不足な機体になってしまう。素質は良かったのに惜しい戦闘機。
何もかもが不足していく中で戦争を続けていくという矛盾がそのまま戦闘機のコンディションにも影響する訳で、いくら高性能な機体でも劣悪な燃料や間に合わせのパーツではね
結局、エンジントラブル続きの日本の戦闘機たちは、質の悪い燃料に不完全な整備で誕生してたんですよね。
多分、アメリカ軍から大量にP51鹵獲してもすぐにエンジン不調になる予感しか無い
正式ではなく制式だよ。
ご指摘ありがとうございます。
字幕を自動作成から切り替え、修正いたしました。
美しい!
震電の解説お願いします!!!!!!
有利な位置からの一撃離脱が主流で速度性能に重きを置く米軍からすれば疾風が選ばれるのは当然だな