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大谷吉継を取り上げて、ありがとうございます。近日中に、関ヶ原にあります墓所へ墓参りして行こうと、思います。
お茶会のエピソードは何度聞いても感動しますね。最後まで三成を支えたくなる気持ちがよくわかります。義に生きる武将であり一番尊敬出来る人です
人柄に、凄く心が温まりました。感涙してしまいました。私も、大谷吉継の様な人間を目指したい。本当に、素敵なものを、提供に、心より、感謝致します。ありがとうございました。
小5から歴史に目覚めた頃から大好きな武将です!百万もしくは数万、数十万のの軍勢を与えられた吉継の姿を見てみたかったなぁ…利より義をとった吉継の生き様は今でも胸にうたれます
大谷さん待ってたよ🎵ありがとうございます。
大谷吉継についてあげていただきありがとうございます。戦国武将で最も大好きな武将なのですごく嬉しいです。
また見るのが遅くなったけど、大谷吉継1番好きな武将です!マジでこの人好き、カッコイイ
病気違っても人が、口をつけた、茶碗とか今では考えられない。友情は泣ける。こんな親友がいて、羨ましい。
らい病に取りつかれた大谷吉継。かつて太閤翼下の麒麟児と呼ばれた男に誰も近寄らなくなったが石田三成だけが変わらずつきあってくれた。その友情に応えるべく関ケ原に参戦したのだという。
もし病気にならなかったらどう行動したのか気になりますね
Brigabier Gerarb あまり変わらないんじゃないかな?
@@あちちあちち 私もそう思います
徳川家康に負けると解っていたのに豊臣家や石田三成との義理をとうした大谷よしつぐ何度でも聞いてもカッコいい
熊野 何とか関ヶ原生き延びて大坂の陣で義理の息子との最強タッグが見たかったね
わずか2000ほどの手勢で、藤堂・京極隊と闘いながら15000もの小早川勢を何度も押し返すなど大谷勢は強かった。主の心意気が末端の兵にも伝わったのだろう。秀吉が大谷吉継や石田三成にそれぞれ50万石ほどの所領を与えていれば・・・・・
ここまでの人物に最後まで共にいさせた石田三成が決して人望薄いとは思えないんですよね。直江兼続とも親友同士でしたし好きな人には好かれて嫌われる人には嫌われるという好き嫌いがはっきり分かれた人だったのかと。
三成自身が癖の強いというか、不器用な男だったのでしょう。特に三成を好いた武将(好意的な評価を下していたという意味で家康も入る)が智将タイプだったというのは、留意すべき点です。
吉継は上杉攻めに加わるつもりだったが途中に立ち寄った佐和山で三成にさとされ西軍に組することになった。その際吉継がつきつけた条件として三成が大将ではあまりにも見劣りがするので宇喜多秀家か毛利輝元を総大将にまつりあげるように助言したと言われる。三成も快くこの提案を了承したといわれているが、勝利のためには臆せずきちんと三成に対しても意見できるところがすばらしい。それと一旦西軍につくと腹をきめたら勝利を得るために徹底的に努力を惜しまない姿勢は本当に評価できる。西軍についた武将の中でも最後まで態度を曖昧にし続けた者や戦いが東軍が有利な情勢になると裏切りを画策していた者が何と多いことか。
モーツアルトの生まれかわり 求心力がない烏合の衆だったし、勝ったところでって感じだったから態度曖昧な大名ばっかだったんでしょ
@@あちちあちち 数で勝負とばかり無理やり味方に引き込んだりしてたから戦意低いわな。
おおお!!!私の好きな武将No.1大谷刑部!!永倉新八をやってほしいです。
息子が大坂の陣に参戦してますよね。100人の隊長を任され、義兄の真田信繁と最前線で戦うが、松平忠直軍との戦闘中に家老の本多富正の配下に討たれて戦死しています。 浅井長政の息子も居たそうです。毛利勝永とともに善戦しましたがあえなく撤退。姉の初が大坂から救いだし、こっちは京極家が一生面倒をみています。
大谷は、上杉討伐の家康に同行してたのもあるし、家康から東軍に来たら加増するとまで言われたにも関わらず西軍に行った。侍美学をその生涯で体現した人。
吉継さん、魅力ある武将の1人やと思います😌
負けるのがわかっていながら治部の友情を重んじて関ヶ原に臨んだ大谷刑部は漢の中の漢だろ
確かにそうなのだが、しかし巻き込まれる部下やその家族の事を考えると⤵️⤵️
@@neo-chinidone そこよなw勝ち馬に乗るのがいい主君、個人的にはいたずらに戦さをせず寝返り暗殺謀略を尽くした宇喜多直家こそ理想
mono そういう君主は部下も切り捨てますよ。加藤清正ですら手柄の少ないときは自分の部下の首を切って敵兵の首数に加えたとか。それでもいいのなら・・・
半チャ そんな考えの奴は刑部の部下にはならないよ。
関ヶ原で戦った藤堂高虎が吉継の墓を作ったそうですね東軍の諸将からも好意を持たれていたのに本当に惜しい最期でした
そういえば藤堂高虎は捕縛された三成にも温かく接したそうですね。
あまり分かっていないこの方をもっと知りたいですね
北陸を抑え、関ヶ原 山中村(?)に一番最初に陣を張って夜営続き。そこから藤堂·京極(弟)·寺沢と奮闘、そして松尾山の豊臣の御血筋さんの1.5万と小川·朽木·赤座·脇坂の寝返り4将に僅か4千で抗戦(平塚·戸田もいたものの兵力差は城攻め並)。正しく死闘、大谷勢の心意気にはあっぱれ。合戦後に家康が最初の論功行賞したのも吉継公の陣屋場所、家康とも親交があり家康も吉継公の思いを理解していた点もあったからだと思う。次に敦賀に行くときは菩提寺にも足を運びたいです。
最後の城、敦賀出身です。武功では勝豊の調略もですが賤ヶ岳先駆け7人衆に数えられていたかと。娘が真田信繁に嫁ぎその息子が仙台伊達藩に仕官。そのご子孫までいらっしゃる。家康に着くため対上杉に出陣しようとしていたのに義に準じた事、脇坂等秀吉子飼がさっくり裏切った対比で余計に目立ちますね。佩刀の『敦賀政宗』が行方不明なのが惜しい…。
義に生きた。死を覚悟して石田三成に助成したんだよね。娘は真田幸村の妻女になりました。義の精神は受け継がれたのです
小早川秀秋が裏切るのを予想して、脇坂、小川、朽木を配置したが❗予想外の裏切りが出た為に壊滅してしまった❗
石田三成はやっぱり善人
善人すぎたんでしょうね…
今で言うアスペやな知能は高くても損得や人情がわからない
秀吉が一目置いてる存在、三成に意見や指摘出来る数少ない人物だった。
やっぱ西軍に勝って欲しかった!
石田三成の盟友!!家康からも認められていたとは!!義に生きた実直な人物だからこそ小早川秀秋の裏切りは許せなかったと思う。こんな世知辛い世の中だからこそ彼が主役のドラマや漫画もあってもいいと思います。
敗軍の将、かつては賊軍といわれた西軍をも称える日本は素晴らしい!
もしかしたら、大谷吉継と石田三成は幕末に西郷隆盛と大久保利通に生まれ変わったかも、と思ってしまいます。その枠組みでいくなら毛利輝元は敬親に生まれて安国寺恵瓊が村田蔵六で吉川広家が高杉晋作(笑)毛利元就が吉田松陰に生まれて、自分の残した遺訓が原因で家中が割れて無駄に没落させてすまなかった(涙)で、天下を取るべき時には天下を取れ!と吉田松陰以下、松下村塾の師弟達が実は元就時代の功臣達が犠牲になって関ヶ原で負けた人達に功績を与えた、としたらロマンだなあ、と感じました。因みに、コルゲン講和と言う悩み相談形式の本に義経は死後30年霊界で悶々と何故不遇で終わったのか?自問自答して何回か生まれ変わって秀吉になったそうです。考えてみると日本の歴史を途中から観ると南北朝時代では勝った北朝方が戦国時代には大体が衰退して南朝を応援していた家が勃興してます。関ヶ原では家康側が勝ったけど、徳川を滅ぼすのは西国大名と言ってました。実際そうなりました。関ヶ原は西国大名が大半没落しました。明治政府は多分、豊臣政権が続いたらこれやっていただろう事が幾つかあります。自分の話の元ネタはタチバナ出版の強運と大金運に有ります。明治志士を誰が守護霊で活躍していたか?などさらりと書いてます。
石田三成は北条家の忍城攻めの際、陣頭に立っておりますが大谷刑部は任された事がないので憧れも当然あったのではないかと思うのです。病気は不治で余命も長くないので謹慎していた石田三成を担いだのは大谷刑部だったとしてもおかしくないのです。当然、三成は止め役ですが。。。この話をしたらとても長くなってしまう程熱くなってしまいますが、小早川秀秋にしても一旦西軍についたのに何故裏切った?いや~歴史は本当に面白いですね。
めにあおば 金吾は家老の二人が実質決めたようなもんなので金吾は流されただけかと思う、ただ元々裏切る可能性というか西軍につく理由すらないがね。
西軍はどさくさ紛れに強引にかき集めた烏合の衆だよ。島津なんてその典型だし、他も似たり寄ったり不本意ながらってのが多い。家康はその点疑り深いから再三戦意を確かめてるし、関ヶ原前から豊臣恩顧の大名家の切り崩しに着々と手を打ってる。そもそも調略に自信がなければあんな不利な陣形は取れないわけで、やはり西軍の負けは必然と思う。
子孫は、伊勢崎で!坊さんに成ったそうなんです😊
関ヶ原で死力を尽くして戦った西軍は石田軍.大谷軍.宇喜多軍の三軍ぐらいそれでも関ヶ原序盤戦は西軍有利如何にこの3軍の士気が高かったが解る 又大谷吉継は小早川の寝返りもある程度想定して大谷軍に寄騎として付いていた赤座軍.小川軍などを松尾山の小早川軍の抑えとして置いていた しかしその赤座.小川までに寝返りされては如何に大谷吉継と言えど支えきれなかった
上杉征伐に参加実石田三成を誘き寄せる作戦した大谷吉継東海道に出る途中に佐和山に寄り三成に惜別の別れをしに行ったが家康を伐つこと吉継に話したが時代は徳川に成りつつ有り命を粗末にするなと説き伏せが三成の豊臣家に対する恩義三成の熱い思いに心を打たれまた、茶会の席で三成が茶を飲み干してくれた恩義が大きく成りよし解った儂の命そなたにやろう兵を佐和山に呼ぼうと言い西軍に参加したしかし悲しいかなそなたは皆から良い様に思われていないいくら正論を言っても従わない毛利を総大将にしそなた何もしてはだめだと三成を説き伏せた
米原駅の近くにポツンと首塚が残ってますね。(´・ω・`)
秀吉はなぜ大谷吉継にもっと領地を与えなかったんでしょうね5万石の兵力であれだけの敵と戦い持ちこたえるのはすごいことですよ戦の采配もできますよねもちろん平塚為広や戸田勝成の奮戦もありますが
自軍の指揮下にある脇坂、朽木、小川、赤座に軒並み裏切られてることからも、脇が甘いところを見抜かれたのかもね?
大谷隊4,000そのうち吉継が率いたのはわずか800それで藤堂・京極と正面から激突して蹴散らし尚且つ寝返った小早川を3度にわたり松尾山に押し返すこれだけ見ても凄い奴なのは分かる
もう30万石、できるなら50万石づつ与えたかったな・・・
勿体なき名将
映画、関ヶ原の最後のシーンなんてファンからしたら見れたもんじゃなかったよ。。
松尾山に小早川秀秋が陣取りから!薄々裏切る事を予想しているから、三成と一緒に必至に絵に書いた餅を秀秋に工作したが、叶わず家康が1枚上手だった❗
上田和哉 途中の話がよく分からんのだが、詳しく
関ヶ原のドラマの見せ場の一つ。大谷刑部が腹を切る前に「憎っくきは小早川金吾、3年の後に祟りを為さん!」と、言い残す場面。実際、若くして小早川秀秋は命を落としている。言い残しは後世の創作なのだろうが、好きなシーン。
お尋ねします…?大谷吉継の家紋は何ですか?丸に違いの鷹の羽 ですか?
佐竹義篤をお願いします🙇♂️
こころを授かってその理想を元に世界を構築しひとびとのためにつくそうとしたそんな偉人の姿がその時代に見えないのは存在しなかったからかひとびとに関心を持たれず記録にしるされなかったからかどっちだと思います?
ハテナ?最近思うのですが、なんて家康の上杉討伐軍が進発を待っての西軍の挙兵をしたのか?三成なら事前に知ってはずなので、😊東軍編成される前に勝負をかけれたのではと思うのでですが?
平山季重お願いします
大谷吉継は好きだけどその部下達は可哀相だなぁって毎回思う
この人の娘って確か真田信繁の妻ですよね?
朝倉宗てきおねがいします。
男前やね🤣
大谷吉継見てたら、セーラームーンのほたるちゃん(セーラーサターン)と被る
茶会で吉継が飲んだ茶碗を誰も口につけなかったが、三成だけ飲んだとゆう話はほんまかな?それで西軍についたとか
shin yama 吉継の顔の膿みが茶碗に落ちたみたいですね。三成は気にせず飲んだと言われていますね。
shin yama 信憑性は低い、だがその話が生まれるってことは似たような元の話があったのだろう
よくできた創作でしょう
結城秀康にも似たエピソード無かったっけ?病は確か梅毒だったけど
むかし茶会があった、、、
鼻水の入ったお茶?
死んだ人(秀吉)に義理立てしたり、勝ち目のない戦いに挑む友人を手伝うのが「義」なのかという疑問。
大谷吉継を取り上げて、ありがとうございます。
近日中に、関ヶ原にあります墓所へ墓参りして行こうと、思います。
お茶会のエピソードは何度聞いても感動しますね。最後まで三成を支えたくなる気持ちがよくわかります。
義に生きる武将であり一番尊敬出来る人です
人柄に、
凄く心が温まりました。
感涙してしまいました。
私も、大谷吉継の様な人間を目指したい。
本当に、素敵なものを、
提供に、心より、感謝致します。
ありがとうございました。
小5から歴史に目覚めた頃から大好きな武将です!
百万もしくは数万、数十万のの軍勢を与えられた吉継の姿を見てみたかったなぁ…
利より義をとった吉継の生き様は今でも胸にうたれます
大谷さん待ってたよ🎵ありがとうございます。
大谷吉継についてあげていただきありがとうございます。戦国武将で最も大好きな武将なのですごく嬉しいです。
また見るのが遅くなったけど、大谷吉継1番好きな武将です!マジでこの人好き、カッコイイ
病気違っても
人が、口をつけた、茶碗とか今では考えられない。
友情は泣ける。こんな親友がいて、羨ましい。
らい病に取りつかれた大谷吉継。かつて太閤翼下の麒麟児と呼ばれた男に誰も近寄らなくなったが石田三成だけが変わらずつきあってくれた。その友情に応えるべく関ケ原に参戦したのだという。
もし病気にならなかったらどう行動したのか気になりますね
Brigabier Gerarb あまり変わらないんじゃないかな?
@@あちちあちち 私もそう思います
徳川家康に負けると解っていたのに豊臣家や石田三成との義理をとうした大谷よしつぐ何度でも聞いてもカッコいい
熊野 何とか関ヶ原生き延びて大坂の陣で義理の息子との最強タッグが見たかったね
わずか2000ほどの手勢で、藤堂・京極隊と闘いながら15000もの小早川勢を何度も押し返すなど大谷勢は強かった。主の心意気が末端の兵にも伝わったのだろう。
秀吉が大谷吉継や石田三成にそれぞれ50万石ほどの所領を与えていれば・・・・・
ここまでの人物に最後まで共にいさせた石田三成が決して人望薄いとは思えないんですよね。直江兼続とも親友同士でしたし好きな人には好かれて嫌われる人には嫌われるという好き嫌いがはっきり分かれた人だったのかと。
三成自身が癖の強いというか、不器用な男だったのでしょう。
特に三成を好いた武将(好意的な評価を下していたという意味で家康も入る)が智将タイプだったというのは、留意すべき点です。
吉継は上杉攻めに加わるつもりだったが途中に立ち寄った佐和山で三成にさとされ西軍に組することになった。その際吉継がつきつけた条件として三成が大将ではあまりにも見劣りがするので宇喜多秀家か毛利輝元を総大将にまつりあげるように助言したと言われる。三成も快くこの提案を了承したといわれているが、勝利のためには臆せずきちんと三成に対しても意見できるところがすばらしい。それと一旦西軍につくと腹をきめたら勝利を得るために徹底的に努力を惜しまない姿勢は本当に評価できる。西軍についた武将の中でも最後まで態度を曖昧にし続けた者や戦いが東軍が有利な情勢になると裏切りを画策していた者が何と多いことか。
モーツアルトの生まれかわり 求心力がない烏合の衆だったし、勝ったところでって感じだったから態度曖昧な大名ばっかだったんでしょ
@@あちちあちち
数で勝負とばかり無理やり味方に引き込んだりしてたから戦意低いわな。
おおお!!!私の好きな武将No.1
大谷刑部!!
永倉新八をやってほしいです。
息子が大坂の陣に参戦してますよね。
100人の隊長を任され、義兄の真田信繁と最前線で戦うが、松平忠直軍との戦闘中に家老の本多富正の配下に討たれて戦死しています。
浅井長政の息子も居たそうです。毛利勝永とともに善戦しましたがあえなく撤退。
姉の初が大坂から救いだし、こっちは京極家が一生面倒をみています。
大谷は、上杉討伐の家康に同行してたのもあるし、家康から東軍に来たら加増するとまで言われたにも関わらず西軍に行った。
侍美学をその生涯で体現した人。
吉継さん、魅力ある武将の1人やと思います😌
負けるのがわかっていながら治部の友情を重んじて関ヶ原に臨んだ大谷刑部は漢の中の漢だろ
確かにそうなのだが、しかし巻き込まれる部下やその家族の事を考えると⤵️⤵️
@@neo-chinidone
そこよなw
勝ち馬に乗るのがいい主君、個人的にはいたずらに戦さをせず寝返り暗殺謀略を尽くした宇喜多直家こそ理想
mono そういう君主は部下も切り捨てますよ。加藤清正ですら手柄の少ないときは自分の部下の首を切って敵兵の首数に加えたとか。それでもいいのなら・・・
半チャ そんな考えの奴は刑部の部下にはならないよ。
関ヶ原で戦った藤堂高虎が吉継の墓を作ったそうですね
東軍の諸将からも好意を持たれていたのに本当に惜しい最期でした
そういえば藤堂高虎は捕縛された三成にも温かく接したそうですね。
あまり分かっていないこの方をもっと知りたいですね
北陸を抑え、関ヶ原 山中村(?)に一番最初に陣を張って夜営続き。そこから藤堂·京極(弟)·寺沢と奮闘、そして松尾山の豊臣の御血筋さんの1.5万と小川·朽木·赤座·脇坂の寝返り4将に僅か4千で抗戦(平塚·戸田もいたものの兵力差は城攻め並)。正しく死闘、大谷勢の心意気にはあっぱれ。
合戦後に家康が最初の論功行賞したのも吉継公の陣屋場所、家康とも親交があり家康も吉継公の思いを理解していた点もあったからだと思う。
次に敦賀に行くときは菩提寺にも足を運びたいです。
最後の城、敦賀出身です。武功では勝豊の調略もですが賤ヶ岳先駆け7人衆に数えられていたかと。娘が真田信繁に嫁ぎその息子が仙台伊達藩に仕官。そのご子孫までいらっしゃる。家康に着くため対上杉に出陣しようとしていたのに義に準じた事、脇坂等秀吉子飼がさっくり裏切った対比で余計に目立ちますね。佩刀の『敦賀政宗』が行方不明なのが惜しい…。
義に生きた。
死を覚悟して石田三成に助成したんだよね。
娘は真田幸村の妻女になりました。
義の精神は受け継がれたのです
小早川秀秋が裏切るのを予想して、脇坂、小川、朽木を配置したが❗予想外の裏切りが出た為に壊滅してしまった❗
石田三成はやっぱり善人
善人すぎたんでしょうね…
今で言うアスペやな
知能は高くても損得や人情がわからない
秀吉が一目置いてる存在、三成に意見や指摘出来る数少ない人物だった。
やっぱ西軍に勝って欲しかった!
石田三成の盟友!!
家康からも認められていたとは!!
義に生きた実直な人物だからこそ小早川秀秋の裏切りは許せなかったと思う。
こんな世知辛い世の中だからこそ彼が主役のドラマや漫画もあってもいいと思います。
敗軍の将、かつては賊軍といわれた西軍をも称える日本は素晴らしい!
もしかしたら、大谷吉継と石田三成は
幕末に西郷隆盛と大久保利通に生まれ変わったかも、と思ってしまいます。
その枠組みでいくなら毛利輝元は敬親に生まれて安国寺恵瓊が村田蔵六で吉川広家が高杉晋作(笑)
毛利元就が吉田松陰に生まれて、自分の残した遺訓が原因で家中が割れて無駄に没落させてすまなかった(涙)
で、天下を取るべき時には天下を取れ!と吉田松陰以下、松下村塾の師弟達が実は元就時代の功臣達が犠牲になって関ヶ原で負けた人達に功績を与えた、としたらロマンだなあ、と感じました。
因みに、コルゲン講和と言う悩み相談形式の本に義経は死後30年霊界で悶々と何故不遇で終わったのか?自問自答して
何回か生まれ変わって秀吉になったそうです。
考えてみると日本の歴史を途中から観ると
南北朝時代では勝った北朝方が戦国時代には大体が衰退して南朝を応援していた家が勃興してます。
関ヶ原では家康側が勝ったけど、徳川を滅ぼすのは西国大名と言ってました。実際そうなりました。関ヶ原は西国大名が大半没落しました。
明治政府は多分、豊臣政権が続いたらこれやっていただろう事が幾つかあります。
自分の話の元ネタはタチバナ出版の強運と大金運に有ります。明治志士を誰が守護霊で活躍していたか?などさらりと書いてます。
石田三成は北条家の忍城攻めの際、陣頭に立っておりますが大谷刑部は任された事がないので憧れも当然あったのではないかと思うのです。
病気は不治で余命も長くないので謹慎していた石田三成を担いだのは大谷刑部だったとしてもおかしくないのです。当然、三成は止め役ですが。。。
この話をしたらとても長くなってしまう程熱くなってしまいますが、小早川秀秋にしても一旦西軍についたのに何故裏切った?いや~歴史は本当に面白いですね。
めにあおば 金吾は家老の二人が実質決めたようなもんなので金吾は流されただけかと思う、ただ元々裏切る可能性というか西軍につく理由すらないがね。
西軍はどさくさ紛れに強引にかき集めた烏合の衆だよ。
島津なんてその典型だし、他も似たり寄ったり不本意ながらってのが多い。
家康はその点疑り深いから再三戦意を確かめてるし、関ヶ原前から豊臣恩顧の大名家の切り崩しに着々と手を打ってる。
そもそも調略に自信がなければあんな不利な陣形は取れないわけで、やはり西軍の負けは必然と思う。
子孫は、伊勢崎で!坊さんに成ったそうなんです😊
関ヶ原で死力を尽くして戦った西軍は石田軍.大谷軍.宇喜多軍の三軍ぐらいそれでも関ヶ原序盤戦は西軍有利如何にこの3軍の士気が高かったが解る 又大谷吉継は小早川の寝返りもある程度想定して大谷軍に寄騎として付いていた
赤座軍.小川軍などを松尾山の小早川軍の抑えとして置いていた しかしその赤座.小川までに寝返りされては如何に大谷吉継と言えど支えきれなかった
上杉征伐に参加
実石田三成を誘き寄せる作戦した大谷吉継東海道に出る途中に佐和山に寄り三成に惜別の別れをしに行ったが家康を伐つこと吉継に話したが時代は徳川に成りつつ有り命を粗末にするなと説き伏せが三成の豊臣家に対する恩義三成の熱い思いに心を打たれまた、茶会の席で三成が茶を飲み干してくれた恩義が大きく成り
よし解った儂の命そなたにやろう兵を佐和山に呼ぼうと言い西軍に参加した
しかし悲しいかなそなたは皆から良い様に思われていないいくら正論を言っても従わない毛利を総大将にしそなた
何もしてはだめだと三成を
説き伏せた
米原駅の近くにポツンと首塚が残ってますね。(´・ω・`)
秀吉はなぜ大谷吉継にもっと領地を与えなかったんでしょうね
5万石の兵力であれだけの敵と戦い持ちこたえるのはすごいことですよ
戦の采配もできますよね
もちろん平塚為広や戸田勝成の奮戦もありますが
自軍の指揮下にある脇坂、朽木、小川、赤座に軒並み裏切られてることからも、脇が甘いところを見抜かれたのかもね?
大谷隊4,000
そのうち吉継が率いたのはわずか800
それで藤堂・京極と正面から激突して蹴散らし
尚且つ寝返った小早川を3度にわたり松尾山に押し返す
これだけ見ても凄い奴なのは分かる
もう30万石、できるなら50万石づつ与えたかったな・・・
勿体なき名将
映画、関ヶ原の最後のシーンなんてファンからしたら見れたもんじゃなかったよ。。
松尾山に小早川秀秋が陣取りから!薄々裏切る事を予想しているから、三成と一緒に必至に絵に書いた餅を秀秋に工作したが、叶わず家康が1枚上手だった❗
上田和哉 途中の話がよく分からんのだが、詳しく
関ヶ原のドラマの見せ場の一つ。
大谷刑部が腹を切る前に「憎っくきは小早川金吾、3年の後に祟りを為さん!」と、言い残す場面。
実際、若くして小早川秀秋は命を落としている。言い残しは後世の創作なのだろうが、好きなシーン。
お尋ねします…?
大谷吉継の家紋は何ですか?
丸に違いの鷹の羽 ですか?
佐竹義篤をお願いします🙇♂️
こころを授かってその理想を元に世界を構築しひとびとのためにつくそうとした
そんな偉人の姿がその時代に見えないのは存在しなかったからかひとびとに関心を持たれず記録にしるされなかったからかどっちだと思います?
ハテナ?
最近思うのですが、なんて家康の上杉討伐軍が進発を待っての西軍の挙兵をしたのか?
三成なら事前に知ってはずなので、😊東軍編成される前に勝負をかけれたのではと思うのでですが?
平山季重お願いします
大谷吉継は好きだけどその部下達は可哀相だなぁって毎回思う
この人の娘って確か真田信繁の妻ですよね?
朝倉宗てきおねがいします。
男前やね🤣
大谷吉継見てたら、セーラームーンのほたるちゃん(セーラーサターン)と被る
茶会で吉継が飲んだ茶碗を誰も口につけなかったが、三成だけ飲んだとゆう話はほんまかな?それで西軍についたとか
shin yama 吉継の顔の膿みが茶碗に落ちたみたいですね。三成は気にせず飲んだと言われていますね。
shin yama 信憑性は低い、だがその話が生まれるってことは似たような元の話があったのだろう
よくできた創作でしょう
結城秀康にも似たエピソード無かったっけ?病は確か梅毒だったけど
むかし茶会があった、、、
鼻水の入ったお茶?
死んだ人(秀吉)に義理立てしたり、勝ち目のない戦いに挑む友人を手伝うのが「義」なのかという疑問。