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とても分かりやすく、聴いていて心地よい動画でした!沢山の哲学者や文学者が「どう生きるか」を考え続け、その思考と苦悩の軌跡を読者は見て、自分も考え始め、書き始める者も出る、その繰り返しですね。答えは永遠に出ないのでしょうが、バトンを渡しながら何百年も考え続けられるのが人間のいいところだと思います。
こんにちは!やっとyoutubeで文学について話している人を見つけられて嬉しいです!動画全部見ていきます。
ありがとうございます(*´∀`*)
非常に興味深い内容でした、素晴らしいチャンネルです
川端が好きなので、新感覚派やその系譜について解説していただきありがとうございます!喪失感が新感覚派のテーマというのはすごく納得しました!(川端と横光を数作品しか読んだことはありませんか、、、)新感覚派といえば西洋の技法を取り入れたことに注目されがちですが、特に川端については日本の古典文学の流れを受け継いでいて、「無常観」的な価値観を描いているように見えます。それは、自己喪失を克服するのではなく、とことん喪失感の方向へ、というのがベースにあるからなのだと、動画を見て気づかせていただきました。
御視聴並びにコメント、ありがとうございます。川端康成の古典回帰は敗戦後、とりわけ顕著になりましたね。横光利一の動画を単体で作ろうか悩むところですが、どちらにせよ、この動画は遠からず、中河与一や稲垣足穂にも触れながら作り直す予定です。
@@read- 返信ありがとうございます。改訂版楽しみにしています!
この動画見ながらずっと15歳ぐらいの時の自分を思い出していました。当時は辛いことや悲しいことが起こる度に「これは単なる物理現象で、この気持ちも自分自身もこの世を構成する物質の1部に過ぎない」と考えて自意識を保とうとする謎の癖がありました。(ここまで言語化できてはいませんでしたが)繰り返し読んでいたのは『限りなく透明に近いブルー』、『1973年のピンボール』、『蛇にピアス』の3冊。当時は新感覚派という括りも知りませんでしたが、振り返るとこういう作品を鏡にして、自分自身見つめているのが心地よかったんだろうな、と思います。なんだか上手く言えませんが、この動画見てよかったです。
コメント、ありがとうございます。素晴らしい3冊ですね。なかでも『1973年のピンボール』、村上春樹さんの小説でいちばん好きです。読んだら泣いてしまう(笑)初期三部作をそのうち動画で扱わせていただく予定です(*´ω`*)
以前村上春樹についての評論の中で村上春樹の小説では主人公はそれ以外の人々との繋がり(カウンセリング)の中で救いを得る、つまり幼子と賢者の関係性が見られるというのを見たことがあって、それと似たようなものが(からっぽ)という表現なのかなと感じました。
コメント、ありがとうございます(*´ω`*)「賢者」ということはおそらく、《『羊をめぐる冒険』以降の小説は神話的なパターンを踏襲している》という文脈だったんじゃないかなと予想いたします。基本的なスタンスは変わらないんですけど、やはり『羊をめぐる冒険』以降はガラリと変わるというのが一般的な評価ですね。このへんまた改めて動画にしたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします(*^^)v
確か、中島梓が文学の輪郭で、死霊と限りなく透明に近いブルーを理性と感覚という軸に置き、それらに対して熱海殺人事件というパロディが出てきた、みたいな分析をしていたのを思い出しました。また筒井康隆に、この人は文学を東西南北のように考えようとしている、みたいな批判を乱調文学大辞典で受けてましたね。限りなく透明に近いブルーで思い出してしまったのでつい書きたくなり・・・すみません。
いつも動画を楽しみに見させていただいています。質問なのですが、からっぽになった、自己解体した人間は、自分は存在するのかという問いをもつのではないでしょうか?また、『雪国』は踊りや炎(冒頭のシーン、ラストシーン)など瞬間的、刹那的な「いまここ」に意識を向ける特徴をもっていると僕は解釈しているのですが、そういった感覚は回数を重ねるごとに薄れてしまい、解決したことにはならないのではないでしょうか?
質問①自分は存在するのか疑問に思うはずなのに、疑問に思ってないのは何故か。ということですかね。「俺は本当に存在しているのだろうか」って、あまりにも安っぽい表現だと思うのですが、どうでしょう。中にはそういった自問自答をする人物がいたかも知れません。パッと思い浮かぶのは『ノルウェイの森』のラストで、自分がいったいどこにいるのか分からなくなっていたと記憶しますが、直接的な自問自答の代わりとして動画内で紹介した技術が駆使されていると解釈すべきところだと私は考えます。質問②は意地悪で言うのではなく、「そういった感覚は回数を重ねるごとに薄れてしまい、解決したことにはならないのではないでしょうか?」が分かりません。刹那的な意識が薄れると、自己解体の問題が解決したことになるのではないか、という質問でしょうか。だとしても、意味が分からないので答えようがありません。
@@read- 文章があまり丁寧ではありませんでした。すいません。瞬間的な感覚や快楽によって、自分の存在を確認できると思うのです。例えば、推しのライブをみにいくとか、スポーツをするとか。しかし、そういった感覚は回数を重ねるごとに慣れてしまい、飽きてくるのではないかという話です。それによって、自分の存在の確認ができなくなるという話です。自己解体(環境による自分の定義づけ)をする欲求には、自分が存在することへの確認があると思ったのです。言い換えると、自分の存在を確認するためには、「いまこの瞬間の私」を刺激することで、確認はできますが、刺激しすぎると、だんだんと効果しなくなると思うのです。そこで、どうすれば自分の存在を確認できるのでしょうか?
まず大前提として、新感覚派の系譜に属する作家群は喪失感を描こうとしているんですね。存在の確かさ(生きている手応えのようなもの?)がなくなってしまった情態を描こうとしているわけで、その情態から脱け出したい、脱け出さなければならないという欲求は皆無です。「解決」という言葉が自己喪失からの脱却を指すのなら、ハナから脱却を目指していません。むしろ、喪失感にとどまるところに特徴のある作家作品群が「新感覚派の系譜」です。あるいは、自己喪失・自己解体という言葉を身体感覚で捉えていらっしゃるのでしょうか。扱わせていただいているのは、アイデンティティの喪失です。もしかしたらアイデンティティの喪失には当然、身体感覚の喪失感も伴うはずだとお考えなのではないでしょうか。もしこの前提に立って質問なさっているのなら、アイデンティティと身体感覚の関連性について訊ねているわけで、この動画の主要テーマから外れます。強いて言うなら「限りなく透明に近いブルー」のセックスとドラッグへの耽溺は、自意識(身体感覚)の覚醒ではなく自意識(身体感覚)の拡散を志向しています。質問に答えられているか分かりませんが、自己喪失と聞いてすぐに身体感覚に結びつけたとしたら、その感性は非常にユニークなので、独自に探求してみると何か発見があるかも知れません。三浦雅士さんの『身体の零度』、哲学者でいくとメルロポンティなんかは面白く読める可能性大です。創作なさっているのならテーマにしてみるのもいいのではないでしょうか。
@@read- この動画を誤解してました。「新感覚派の系譜」は喪失感にとどまることが目的なのですね。そう考えると、「雪国」の炎は喪失感と関係があるように思えます。ただ、喪失感からの脱却に関心がないとはいえないと思うのです。川端康成の仏教や処女(若い女の子)への関心は、喪失感からの脱却をしようと考えているのではないでしょうか。(新感覚派の系譜にどんな作家や作品があるのか詳しくないので、川端康成と村上春樹ぐらいしか分かりません。なので、他の作家は違うと言われればそれまでですけど。)実は解離の一種を患っていまして、おっしゃる通り「アイデンティティの喪失には当然、身体感覚の喪失感を伴うはずだ」というふうに考えています。(三浦雅士さん、メルロ・ポンティさん、読んでみようと思います!!)僕が考えているのは、どうやったらアイデンティティを回復できるのかということです。その一つとして、「いまここ」に意識を向けることだと考えました。(これはアイデンティティと身体は関係していることを前提としています。)あと、最近のサブカルの動画、マジで面白いです。今後も楽しみにしてます。(゜゜)
9:06 このような人間のあり方は、当時どこかにいた(現れつつあった)ような現実の人間のタイプを掴んで描いたものなのか、それとも、この派の文学の中でことさら新たに造形されたタイプの人間なのか、といったことを疑問に思うのですが、どうお考えですか。(もしこの派がつくった純粋な造形なのであれば、こういう人間がでてくる文学が読まれることが現実の人間を変容させる可能性はあるか。仮にそういう影響力がないのだとしたら、人は自分の現実とかかわりないかもしれないものを、文学の名のもとでずっとありがたいものと思い込まさているんじゃないかなどという疑念を持っています)文学と現実の関係が謎です。(そもそも論ですが、文芸評論家と一般の読者では、ある小説一冊についての受け取り方が違うと思うんです。前者は膨大な読書の中の一冊として、後者はたとえばこの作家が好きなどという理由で選んだ一冊として。現実としてはほとんどの人が評論家ではなく一般の読書人であり、評論家たちが、新感覚派はこれこれこういう新しいスタイルで書いたというのは、なるほどいわれてみれば、とは思うんですが、なにか日常的なフツーの人の読書体験とは遠い話にも感じます。こういう隔たりについてもモヤモヤします(笑))長くなりすみませんm(_ _)m
あんまり難しいこと訊かないでくださいよ(笑)【①文学と現実の関係性について】真実を書かなければならない、小説と現実は密着していなければならない。そういった考え方から日本では近代文学の代名詞になるくらい、私小説が流行ったのでした。しかし不幸自慢に類する問題が出てきて、行き詰まったところで新感覚派やプロレタリア文学が現れたわけです。作中の人物を100%作家が造形することはあり得ないでしょうね。作者自身にそのような気質があり、どこかに現れつつあった人物を描いていく過程で、独自の見方や思想を織り込んで新たな人間像を提示し、読者が作品に影響されるというサイクルがスタンダードなのではないかと思います。【②小説の受け止め方について】小説に限らず、どんなものでも受け止め方はその人の自由であって、誰かの解釈が唯一絶対に正しいなんてことはありません。ですから、読者は各々の価値観を大事にすればいいのだと思います。当チャンネルも、言ってみれば私自身の解釈にすぎません。読者にしてみたら、純文学に感心するのも吉川英治の『宮本武蔵』に感心するのも同じだと述べた評論家もいます。小林秀雄は昭和10年、「純文学は各作家の現実解釈に過ぎない」と「私小説論」で看破しました。「かたっ苦しいこと言ってないで、好きに読めばいいじゃん」が正解なのだと思います。ただその結論に至るまでには評論家を含む先人たちの積み重ねがあって、私は何の因果かその営為を専門的に勉強してきた人間なので、こんなチャンネルを作る展開になっています。そんな感じです(*´ω`*)
@@read- なるほど文学は現実と循環して相互作用するなか、いままできてるのかもしれないですね。個人的には救いになります。答えていただいて大変ありがたいです🙏参考にさせていただきます。
とても分かりやすく、聴いていて心地よい動画でした!沢山の哲学者や文学者が「どう生きるか」を考え続け、その思考と苦悩の軌跡を読者は見て、自分も考え始め、書き始める者も出る、その繰り返しですね。答えは永遠に出ないのでしょうが、バトンを渡しながら何百年も考え続けられるのが人間のいいところだと思います。
こんにちは!やっとyoutubeで文学について話している人を見つけられて嬉しいです!
動画全部見ていきます。
ありがとうございます(*´∀`*)
非常に興味深い内容でした、素晴らしいチャンネルです
川端が好きなので、新感覚派やその系譜について解説していただきありがとうございます!
喪失感が新感覚派のテーマというのはすごく納得しました!
(川端と横光を数作品しか読んだことはありませんか、、、)
新感覚派といえば西洋の技法を取り入れたことに注目されがちですが、
特に川端については日本の古典文学の流れを受け継いでいて、「無常観」的な価値観を描いているように見えます。
それは、自己喪失を克服するのではなく、とことん喪失感の方向へ、というのがベースにあるからなのだと、動画を見て気づかせていただきました。
御視聴並びにコメント、ありがとうございます。川端康成の古典回帰は敗戦後、とりわけ顕著になりましたね。横光利一の動画を単体で作ろうか悩むところですが、どちらにせよ、この動画は遠からず、中河与一や稲垣足穂にも触れながら作り直す予定です。
@@read- 返信ありがとうございます。
改訂版楽しみにしています!
この動画見ながらずっと15歳ぐらいの時の自分を思い出していました。
当時は辛いことや悲しいことが起こる度に「これは単なる物理現象で、この気持ちも自分自身もこの世を構成する物質の1部に過ぎない」と考えて自意識を保とうとする謎の癖がありました。(ここまで言語化できてはいませんでしたが)
繰り返し読んでいたのは『限りなく透明に近いブルー』、『1973年のピンボール』、『蛇にピアス』の3冊。当時は新感覚派という括りも知りませんでしたが、振り返るとこういう作品を鏡にして、自分自身見つめているのが心地よかったんだろうな、と思います。
なんだか上手く言えませんが、この動画見てよかったです。
コメント、ありがとうございます。素晴らしい3冊ですね。なかでも『1973年のピンボール』、村上春樹さんの小説でいちばん好きです。読んだら泣いてしまう(笑)初期三部作をそのうち動画で扱わせていただく予定です(*´ω`*)
以前村上春樹についての評論の中で村上春樹の小説では主人公はそれ以外の人々との繋がり(カウンセリング)の中で救いを得る、つまり幼子と賢者の関係性が見られるというのを見たことがあって、それと似たようなものが(からっぽ)という表現なのかなと感じました。
コメント、ありがとうございます(*´ω`*)
「賢者」ということはおそらく、《『羊をめぐる冒険』以降の小説は神話的なパターンを踏襲している》という文脈だったんじゃないかなと予想いたします。基本的なスタンスは変わらないんですけど、やはり『羊をめぐる冒険』以降はガラリと変わるというのが一般的な評価ですね。このへんまた改めて動画にしたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします(*^^)v
確か、中島梓が文学の輪郭で、死霊と限りなく透明に近いブルーを理性と感覚という軸に置き、それらに対して熱海殺人事件というパロディが出てきた、みたいな分析をしていたのを思い出しました。また筒井康隆に、この人は文学を東西南北のように考えようとしている、みたいな批判を乱調文学大辞典で受けてましたね。限りなく透明に近いブルーで思い出してしまったのでつい書きたくなり・・・すみません。
いつも動画を楽しみに見させていただいています。
質問なのですが、からっぽになった、自己解体した人間は、自分は存在するのかという問いをもつのではないでしょうか?
また、『雪国』は踊りや炎(冒頭のシーン、ラストシーン)など瞬間的、刹那的な「いまここ」に意識を向ける特徴をもっていると僕は解釈しているのですが、そういった感覚は回数を重ねるごとに薄れてしまい、解決したことにはならないのではないでしょうか?
質問①自分は存在するのか疑問に思うはずなのに、疑問に思ってないのは何故か。
ということですかね。「俺は本当に存在しているのだろうか」って、あまりにも安っぽい表現だと思うのですが、どうでしょう。中にはそういった自問自答をする人物がいたかも知れません。パッと思い浮かぶのは『ノルウェイの森』のラストで、自分がいったいどこにいるのか分からなくなっていたと記憶しますが、直接的な自問自答の代わりとして動画内で紹介した技術が駆使されていると解釈すべきところだと私は考えます。
質問②は意地悪で言うのではなく、「そういった感覚は回数を重ねるごとに薄れてしまい、解決したことにはならないのではないでしょうか?」が分かりません。刹那的な意識が薄れると、自己解体の問題が解決したことになるのではないか、という質問でしょうか。だとしても、意味が分からないので答えようがありません。
@@read- 文章があまり丁寧ではありませんでした。すいません。
瞬間的な感覚や快楽によって、自分の存在を確認できると思うのです。例えば、推しのライブをみにいくとか、スポーツをするとか。しかし、そういった感覚は回数を重ねるごとに慣れてしまい、飽きてくるのではないかという話です。それによって、自分の存在の確認ができなくなるという話です。
自己解体(環境による自分の定義づけ)をする欲求には、自分が存在することへの確認があると思ったのです。
言い換えると、自分の存在を確認するためには、「いまこの瞬間の私」を刺激することで、確認はできますが、刺激しすぎると、だんだんと効果しなくなると思うのです。そこで、どうすれば自分の存在を確認できるのでしょうか?
まず大前提として、新感覚派の系譜に属する作家群は喪失感を描こうとしているんですね。存在の確かさ(生きている手応えのようなもの?)がなくなってしまった情態を描こうとしているわけで、その情態から脱け出したい、脱け出さなければならないという欲求は皆無です。「解決」という言葉が自己喪失からの脱却を指すのなら、ハナから脱却を目指していません。むしろ、喪失感にとどまるところに特徴のある作家作品群が「新感覚派の系譜」です。
あるいは、自己喪失・自己解体という言葉を身体感覚で捉えていらっしゃるのでしょうか。扱わせていただいているのは、アイデンティティの喪失です。もしかしたらアイデンティティの喪失には当然、身体感覚の喪失感も伴うはずだとお考えなのではないでしょうか。もしこの前提に立って質問なさっているのなら、アイデンティティと身体感覚の関連性について訊ねているわけで、この動画の主要テーマから外れます。強いて言うなら「限りなく透明に近いブルー」のセックスとドラッグへの耽溺は、自意識(身体感覚)の覚醒ではなく自意識(身体感覚)の拡散を志向しています。
質問に答えられているか分かりませんが、自己喪失と聞いてすぐに身体感覚に結びつけたとしたら、その感性は非常にユニークなので、独自に探求してみると何か発見があるかも知れません。三浦雅士さんの『身体の零度』、哲学者でいくとメルロポンティなんかは面白く読める可能性大です。創作なさっているのならテーマにしてみるのもいいのではないでしょうか。
@@read- この動画を誤解してました。「新感覚派の系譜」は喪失感にとどまることが目的なのですね。
そう考えると、「雪国」の炎は喪失感と関係があるように思えます。
ただ、喪失感からの脱却に関心がないとはいえないと思うのです。川端康成の仏教や処女(若い女の子)への関心は、喪失感からの脱却をしようと考えているのではないでしょうか。(新感覚派の系譜にどんな作家や作品があるのか詳しくないので、川端康成と村上春樹ぐらいしか分かりません。なので、他の作家は違うと言われればそれまでですけど。)
実は解離の一種を患っていまして、おっしゃる通り「アイデンティティの喪失には当然、身体感覚の喪失感を伴うはずだ」というふうに考えています。(三浦雅士さん、メルロ・ポンティさん、読んでみようと思います!!)
僕が考えているのは、どうやったらアイデンティティを回復できるのかということです。
その一つとして、「いまここ」に意識を向けることだと考えました。(これはアイデンティティと身体は関係していることを前提としています。)
あと、最近のサブカルの動画、マジで面白いです。今後も楽しみにしてます。(゜゜)
9:06 このような人間のあり方は、当時どこかにいた(現れつつあった)ような現実の人間のタイプを掴んで描いたものなのか、それとも、この派の文学の中でことさら新たに造形されたタイプの人間なのか、といったことを疑問に思うのですが、どうお考えですか。
(もしこの派がつくった純粋な造形なのであれば、こういう人間がでてくる文学が読まれることが現実の人間を変容させる可能性はあるか。仮にそういう影響力がないのだとしたら、人は自分の現実とかかわりないかもしれないものを、文学の名のもとでずっとありがたいものと思い込まさているんじゃないかなどという疑念を持っています)
文学と現実の関係が謎です。
(そもそも論ですが、文芸評論家と一般の読者では、ある小説一冊についての受け取り方が違うと思うんです。前者は膨大な読書の中の一冊として、後者はたとえばこの作家が好きなどという理由で選んだ一冊として。現実としてはほとんどの人が評論家ではなく一般の読書人であり、評論家たちが、新感覚派はこれこれこういう新しいスタイルで書いたというのは、なるほどいわれてみれば、とは思うんですが、なにか日常的なフツーの人の読書体験とは遠い話にも感じます。こういう隔たりについてもモヤモヤします(笑))
長くなりすみませんm(_ _)m
あんまり難しいこと訊かないでくださいよ(笑)
【①文学と現実の関係性について】
真実を書かなければならない、小説と現実は密着していなければならない。そういった考え方から日本では近代文学の代名詞になるくらい、私小説が流行ったのでした。しかし不幸自慢に類する問題が出てきて、行き詰まったところで新感覚派やプロレタリア文学が現れたわけです。
作中の人物を100%作家が造形することはあり得ないでしょうね。作者自身にそのような気質があり、どこかに現れつつあった人物を描いていく過程で、独自の見方や思想を織り込んで新たな人間像を提示し、読者が作品に影響されるというサイクルがスタンダードなのではないかと思います。
【②小説の受け止め方について】
小説に限らず、どんなものでも受け止め方はその人の自由であって、誰かの解釈が唯一絶対に正しいなんてことはありません。ですから、読者は各々の価値観を大事にすればいいのだと思います。当チャンネルも、言ってみれば私自身の解釈にすぎません。
読者にしてみたら、純文学に感心するのも吉川英治の『宮本武蔵』に感心するのも同じだと述べた評論家もいます。小林秀雄は昭和10年、「純文学は各作家の現実解釈に過ぎない」と「私小説論」で看破しました。
「かたっ苦しいこと言ってないで、好きに読めばいいじゃん」が正解なのだと思います。ただその結論に至るまでには評論家を含む先人たちの積み重ねがあって、私は何の因果かその営為を専門的に勉強してきた人間なので、こんなチャンネルを作る展開になっています。そんな感じです(*´ω`*)
@@read-
なるほど文学は現実と循環して相互作用するなか、いままできてるのかもしれないですね。個人的には救いになります。答えていただいて大変ありがたいです🙏参考にさせていただきます。