馬町空襲70年【第二次世界大戦 京都市】

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  • Опубліковано 1 січ 2025
  • 隠された京都・馬町空襲70年 生存者が証言、惨劇の記憶今も
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      第2次世界大戦末期の1945年1月16日深夜、京都市東山区を襲った馬町空襲から70年が過ぎた。死者は30人以上とされるが、情報統制が厳しく、詳細は不明のままだ。家族を亡くし、今になって重い口を開いた人もいる。京都府内で初の空襲となった「あの日」を証言でたどった。
     午後11時20分ごろ、修道国民学校近くの杉山義三さん(81)=東山区=は振動で目覚め、屋根がないのに気付いた。一面の血。2階で祖父が即死していた。
      京都女子専門学校(現京都女子大)の寮にいた石田勝代さん(87)=左京区=は地鳴りで跳び起きた。黒いカーテンが風に揺れ、窓ガラスは粉々になり布団の上に散らばっていた。近くに火の手が上がっているのが見えた。寮の一つが崩落し、5人が生き埋めに。消火用のバケツを持って駆けだしたしたが、すぐに「防空壕(ごう)に入れ」と指示が出た。
     米軍機B29は約20発の爆弾を馬町周辺に投下した。空襲警報は、しばらくしてから発令された。
     渋谷通は水道管から噴き出た水がいてつき、「スケート場のよう」(杉山さん)。全焼した民家、子ども2人が亡くなった家…。「お母ちゃん、と叫ぶ子を見ながら、腰を負傷し助けられなかった人もいた」と杉山さんは振り返る。
     五条通の北側も被害を受けていた。大谷本廟(びょう)北東の通妙寺では、西側の墓地に落下した爆弾の爆風で3人が亡くなった。
     一帯はすぐにかん口令が敷かれ、警防団員らが渋谷通に近寄れないように立ちはだかった。石田さんは「親にも言うな」と寮長から口止めされた。
      遺体は修道校に集められた。犠牲者数は府庁文書では34人と記録されるが、杉山さんは36人の名簿が職員室近くの板塀に張られているのを見た。「遺族の家には天皇陛下から御下賜金(ごかしきん)という香典も届いた」と回想する。自身の悲惨な体験を他人に話すのは、今回が初めてだという。
     馬町空襲の後、修道校では焼夷弾(しょういだん)の被害を軽減させるため、天井が取り払われた。杉山さんは「外套(がいとう)を着たまま授業を受けた」。この後、縁故疎開に行くことになったのも「おやじが怖がって、決めたんでしょう」と想像する。
     祇園町北側から現場を見に行った木ノ下喜雄さん(79)=山科区=は「マッチでも擦れば分かる」と、灯火管制が強化されたという。3月になると学童集団疎開や建物疎開が本格化。西陣や舞鶴など府内でも空襲が続いた。
     馬町空襲の犠牲者数は定かではない。「馬町空襲を語り継ぐ会」は独自に調査した結果、白河総合支援学校東山分校(元修道校)に昨年建立した石碑に「死者四十余名」と刻んだ。
     会の西村忠雄さん(66)は「軍としては実態を隠したかっただろうし、警察も資料を処分したのでは」と推測する。「京都は空襲の被害が微々たるものだったと書かれた本を見つけるとショックだ。かなりの人が亡くなっている事実を伝えていかないと」と話す。
    【2015年01月18日 22時54分】

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