"But who may abide the day of His caming” from Messiah ~誰か堪えんその日来なば
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- Опубліковано 3 січ 2025
- 動画引用~制作:LIGHT HOUSE
メサイアコラールソサイエティ合唱団&管弦楽団
指揮:小田彰 バリトン:稲垣俊也
「リート(歌曲)を歌う前と歌った後では、その人の人生は変わっていなくてはなりません。」
ドイツリートの大家・シュヴァルツコップ氏の言葉です。
ことばを自らの声をもって歌うということは、其のことばを自らの“新しいいのち”とすることに他なりません。
一昔前、日本ではオペラ・オラトリオのアリアを「詠唱」と呼称していました。
「詠う」・・なんと美しい表現でしょうか。「“言”葉」を詠う人、聴く人のうちに「“永”遠」たらしめると申しましょうか。
かつて私が務めていた神学大学で、クリスマスコンサートのプログラムに“詠唱”と表記したことがありました。その際、とある教授から「仏教の“御詠歌(ごえいか)を連想させるので修正してください。」とクレームを受けました。私は「ことばを返すようですが、“歌”は神道の“祝詞(のりと)”が基となっています。それでは讃美歌、聖歌もいけないということになりますね。」と言いつつ、修正はしませんでした。
ことばは情報伝達の道具や紙面に閉じ込められてしまった活字ではなく、生きてはたらく人格者です。
尚且つ、ことばには創造する力があります。
神も「光あれ」と、“みことば”をもって天地を創造なされました。
特に“みことば”を詠うということは、畏れ多くも神の創造の御業に参与するということ、そしてそれを詠うものが、“永”遠を指向する全く新しい人に変えられるということなのです。
讃美歌・聖歌を”詠いつつ”、イエスと共に「天のエマオへの旅路」を歩みゆく幸いに感謝の賛美!!
(文責・稲垣俊也)
Video:「メサイア」より
No.5 叙唱 主はかくのたもう
No.6 詠唱 誰か堪えんその日来なば