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35:41自分が同調しやすい人ほど他人も同調すると思い込む自分の価値基準をもとに、他人のありもしない価値基準を妄想により作り出しているそしてありもしない他人の価値基準に合致しないと、攻撃されるのではないかと疑心暗鬼になるまさに今の自分ですわ
クルマを運転しながら動画(音声のみ)を聴いていた。続いてこの動画が始まった。講座の話が始まり、ずいぶんアタマの中が整理されていて聴衆にとって解りやすく話す人だな、と思ったことだった。信号で止まったおりに画面を覗いたら、チャンネル名に「東大TV」とあった。いまだに丸覚えで東大に受かる、と云ってはばからない医大生(今は医者)を知っているが、いま真正の才覚を"耳撃"して、ひと安心した。個人的には、アインシュタインの相対論は、人間界の個々間の精神活動にも機能するように感じている。
空気を個人が打破するのってかなり難しそうだな。例えば何らかの社会活動をしてる熱心な集団がいたと仮定して、その主張が自分が普段思っていたことと合致していたならば自分もその活動に参加しても良いわけだけども、仮にその集団のサイズが極端に小さかったり、i一部のSNS上での評価が極端に低かったりした場合「私の意見は少数派なんだ」「私の意見は社会的に取るに足らないものなんだ」という解釈をして多元的無知を打破できず、空気への迎合が強化されてしまう。(世界各地で同調圧力が高まっているように見えるのはSNSによって空気が強化されているせいだろうか?)つまり空気の存在下で社会的な活動をやるには「たとえ少数派になっても自分はそれをしなければならない」という個人的な信念が不可欠であることを示している。長いものに巻かれず、勝ち馬にも乗らず、自分が信じたことをやる、そういう信念はどこから湧いてくるんですか?という話になるけども、これはまた別の話。
「スイスチーズ現象」というものがあります。リスク管理で重要なキーワードです。これは要するに、「他人を当てにする」という心理で、他人のミスを見過ごす現象。1999年の横浜市大病院での患者取違い事件が有名です。よくダブルチェックという言葉が使われますが、これでミスは劇的には減りません。人は、他人を「当て」にしているという,「集団心理」が働くからです。スイスチーズ現象のような「当てにする」ことによるミスの連鎖もけっして珍しくありませんね。失敗を減らすことについては、社会心理でも個人心理でも、対処法は同じで「自分目や耳で見聞きする」と「自分で考える」こと。認知、思考バイアスも理解できておれば理想的。
私が学生時代にいじめられていた理由が少し分かりました。私はASDで正義感もやたら強く、他人との同調を良くも悪くもほとんどしなかった。いじめに加わらず諦観もせずかえって自分もいじめられながら級友をかばう、ひとりで真面目に勉強する、発言もする、としていたので、空気を読んで集団行動をしていた人達の目には私を排除するべき存在と映っていたのだろう。しかし私は決して後悔していない。私はひとりでアクションを起こしてハブられた結果になったけど良かったと思う。実際卒業してからこっそり手紙で私はあなた達をいじめたくなかった、と教えてくれた。辛かったけど自分は空気を読まなくて良かった、とやっと安心できました。
小学校の時、好きだった子だ。50年近く経っているのに、面影があるのにビックリ。
たしかに同調の力はありますね、ただし、先日、運転試験場で、わたしはただ一人別の答えを出しましたが、他の方は、最初の答えた方に同調して回答し、その後の方もそれに同調して回答する例が続きました。もちろん問題が誤解されやすい問題提起ではありましたが、先に実績ある答えがあると、のちに続くかなりの数の人は、あまり考えずに同調して答えてしまう、そんな現象を目の当たりにしたばかりです。政治もそのような傾向が見受けられます。
原則と例外との、それぞれの定義と基準が重要でしょうね。【大きな政府と小さな政府】や【機会の平等と結果の平等】も、『原則的に統制か?統制じゃないか?』or『例外的に自由じゃないか?自由か?』と考えると、一見、対立構造に見えます。しかし、正統性(伝統的正しさ)と正当性(合理的正しさ)との、原則と例外との主従関係が相互補完的であれば、互いに理解が進み、説得的で納得いきますよね。問題は、近代社会の前提として原則と例外とを事前に決めていても、“異例”や“特例”が多くなると、原則と例外との境界線が互いに共有できず、皆さん自分勝手な事を主張し行動し始め、収拾がつかない事でしょうね。■【参考文献】→経済学をめぐる巨匠たち(著:小室直樹)
啓発されるものがありました。ありがとうございます。
そうね…周囲がそう言うからそれに乗るよね少数意見など実社会では無意味であろうと思ってあと、JOJOのヴァレンタインがナプキンを例えに言っていた「最初に動かした者に全体が従う」という台詞が思い浮かんだ
とても貴重で示唆に富んだ授業でした。ありがとうございましたm(_ _)m
老人接種がすすんで老人の感染割合が減って死亡率も低くなったことで重症化抑制に加えて発症自体の抑制 それにともなった間接的予防効果ももはや自明になったね逆に言うとワクチンに効果はない!ってタイプの反ワクチンの人はなぜ実際にに老人の感染割合と全体の死亡率が下がってるのかワクチン以外の要因で説明しないと辻褄があわないようになった
無知とは「知らない事」を知っている神秘である。専門家とは「知らない事を分けられた」と胸を張って言える者である。
「自分の考えが正しいと考える。」これだけでも、熟考が必要だ。しかし、正論と思って発した言葉に、同調者は誰もいない・・・自分だけ宙に浮いてしまう。それを想定した上で、さらに正論らしきものを展開する。彼等にとっても、自分にとっても不毛な結果になる。残るは、自分で自分を検証するしかない。歴史的評価なんて待てないし、自分がそこに生きている保証もない。そこで、社会に別れを告げる。(人間社会を離れる)・・・コミュニティの生き物に過ぎない人間として、この選択は過酷だ。
日本民族(生誕150年)は 正しさ より 不変 を誉とする。何故ならば、“国”境は藩の境界に存在するのだから。(他藩との仲良し外交は進行中…)
空気…日本人の永久の課題ですね。個人的には、ロジカルでは表せない人間が備えた動物に近い属性ではないか、と。
罪名【空気】の押し付けには 分別 が無い。
みんなが破ったんだからさぁ、俺もやるしかないじゃん? (100の粛清) でも〜、みんなで演ったんだからさぁ、俺は悪くねぇよなぁ? 100分の1は誤差だよ誤差!
コロナ&接種騒動がまさに当てはまる。
世間 はテーブルの様に狭い。しかし、世界は海よりも広い。願わくば、冗談としての世間を望もう。他者の顔が「地獄の門であるものか!」
社交辞令の状態化は自己暗示を促す。何故ならば、人を騙す前に自身を騙さなければいけないのだから。その上で体裁を望むならば、その場の手段を目的と言い切らなければいけない。差別という目的は“恥”そのもの。総括の強要は必要か?
同調する人間は、コピーに過ぎない。要するに偽物である。Aschの実験に関しての評価基準は、とりあえず外枠の比較。情報の信憑性を探る作業は、多角的な観察力を要する。しかし、群れとはその様なものだ。群れ(コミュニティ)が持つ宿命でもある。是非はもっと違う視点を含んで考えなければならない。
45:10グレタ・トゥーンベリ How dare you!
難しいですね。石原慎太郎さんなら良い場所を選びなさい。空気を読む。仲間なら賛同しそう。僕は、疑う誠実に対応する。真摯に対応する。真意を求める。職場?同調して順番に出世する。クラス?僕は、柔道部がいればいい?けんかが強い人のいじめ?
宇宙は楽屋裏の∞次創作であり、社交辞令も同様である。無意識を信じないものは立ち位置すら手に入らないだろう。
@@systemsgfk7062 空気、や雰囲気の流れをかえることが出来るなら様々な力が必要ですかね
不要不急は国民主権の力が決めた。統計とAIなど、予想屋のオッサンに過ぎない。既成事実は強力な手本である。私達の確率は私達が決めた。全体の成人式は現在進行形である。
音デカくてビビった
東大いかなくてもこんなことわかっているでしょう?露店でのたたき売りで「桜」は必ずふたりと決まっている。「桜」が「安い!」といって買えば、3割がつられて買うんだよ。
例が多すぎて話がわかりずらい
裸の王様の話間違っているよ。なさけないね、東大だろう?「バカには見えない」と言われたからだよ。間違っているよ。
バカには理解できない
@@MeisterHoora だろう?バカには理解できないようだ。
「王様のような立派な人が裸でいる訳がない、これはきっと特別な、先進的な、庶民には理解できない衣装を着ているはずだ」「皆が何も言わないのもきっと理由があるんだ」というような正常性バイアスとも権威主義とも呼べるような相互作用がありそうですよね。(今でもパリコレなどでは奇妙奇天烈な服飾が芸術的デザインとして大真面目に受け取られていますw)裸の王様の寓話は社会学的にかなり示唆に富んでいるように思います。
@@abc0to1 「バカには見えない」というのと、「みんな意見と同じでないといけない」というところには根本的な違いがあるだろう?バカにはわからないのかな?
35:41自分が同調しやすい人ほど他人も同調すると思い込む
自分の価値基準をもとに、他人のありもしない価値基準を妄想により作り出している
そしてありもしない他人の価値基準に合致しないと、攻撃されるのではないかと疑心暗鬼になる
まさに今の自分ですわ
クルマを運転しながら動画(音声のみ)を聴いていた。続いてこの動画が始まった。講座の話が始まり、ずいぶんアタマの中が整理されていて聴衆にとって解りやすく話す人だな、と思ったことだった。信号で止まったおりに画面を覗いたら、チャンネル名に「東大TV」とあった。いまだに丸覚えで東大に受かる、と云ってはばからない医大生(今は医者)を知っているが、いま真正の才覚を"耳撃"して、ひと安心した。個人的には、アインシュタインの相対論は、人間界の個々間の精神活動にも機能するように感じている。
空気を個人が打破するのってかなり難しそうだな。例えば何らかの社会活動をしてる熱心な集団がいたと仮定して、その主張が自分が普段思っていたことと合致していたならば自分もその活動に参加しても良いわけだけども、仮にその集団のサイズが極端に小さかったり、i一部のSNS上での評価が極端に低かったりした場合「私の意見は少数派なんだ」「私の意見は社会的に取るに足らないものなんだ」という解釈をして多元的無知を打破できず、空気への迎合が強化されてしまう。(世界各地で同調圧力が高まっているように見えるのはSNSによって空気が強化されているせいだろうか?)
つまり空気の存在下で社会的な活動をやるには「たとえ少数派になっても自分はそれをしなければならない」という個人的な信念が不可欠であることを示している。長いものに巻かれず、勝ち馬にも乗らず、自分が信じたことをやる、そういう信念はどこから湧いてくるんですか?という話になるけども、これはまた別の話。
「スイスチーズ現象」というものがあります。リスク管理で重要なキーワードです。
これは要するに、「他人を当てにする」という心理で、他人のミスを見過ごす現象。
1999年の横浜市大病院での患者取違い事件が有名です。
よくダブルチェックという言葉が使われますが、これでミスは劇的には減りません。
人は、他人を「当て」にしているという,「集団心理」が働くからです。
スイスチーズ現象のような「当てにする」ことによるミスの連鎖もけっして珍しくありませんね。
失敗を減らすことについては、
社会心理でも個人心理でも、対処法は同じで「自分目や耳で見聞きする」と「自分で考える」こと。
認知、思考バイアスも理解できておれば理想的。
私が学生時代にいじめられていた理由が少し分かりました。私はASDで正義感もやたら強く、他人との同調を良くも悪くもほとんどしなかった。いじめに加わらず諦観もせずかえって自分もいじめられながら級友をかばう、ひとりで真面目に勉強する、発言もする、としていたので、空気を読んで集団行動をしていた人達の目には私を排除するべき存在と映っていたのだろう。しかし私は決して後悔していない。私はひとりでアクションを起こしてハブられた結果になったけど良かったと思う。実際卒業してからこっそり手紙で私はあなた達をいじめたくなかった、と教えてくれた。辛かったけど自分は空気を読まなくて良かった、とやっと安心できました。
小学校の時、好きだった子だ。50年近く経っているのに、面影があるのにビックリ。
たしかに同調の力はありますね、ただし、先日、運転試験場で、わたしはただ一人別の答えを出しましたが、他の方は、最初の答えた方に同調して回答し、その後の方もそれに同調して回答する例が続きました。もちろん問題が誤解されやすい問題提起ではありましたが、先に実績ある答えがあると、のちに続くかなりの数の人は、あまり考えずに同調して答えてしまう、そんな現象を目の当たりにしたばかりです。政治もそのような傾向が見受けられます。
原則と例外との、それぞれの定義と基準が重要でしょうね。
【大きな政府と小さな政府】や【機会の平等と結果の平等】も、『原則的に統制か?統制じゃないか?』or『例外的に自由じゃないか?自由か?』と考えると、一見、対立構造に見えます。
しかし、正統性(伝統的正しさ)と正当性(合理的正しさ)との、原則と例外との主従関係が相互補完的であれば、互いに理解が進み、説得的で納得いきますよね。
問題は、近代社会の前提として原則と例外とを事前に決めていても、“異例”や“特例”が多くなると、原則と例外との境界線が互いに共有できず、皆さん自分勝手な事を主張し行動し始め、収拾がつかない事でしょうね。
■【参考文献】→経済学をめぐる巨匠たち(著:小室直樹)
啓発されるものがありました。ありがとうございます。
そうね…周囲がそう言うからそれに乗るよね
少数意見など実社会では無意味であろうと思って
あと、JOJOのヴァレンタインがナプキンを例えに言っていた「最初に動かした者に全体が従う」という台詞が思い浮かんだ
とても貴重で示唆に富んだ授業でした。ありがとうございましたm(_ _)m
老人接種がすすんで老人の感染割合が減って死亡率も低くなったことで
重症化抑制に加えて発症自体の抑制 それにともなった間接的予防効果ももはや自明になったね
逆に言うとワクチンに効果はない!ってタイプの反ワクチンの人はなぜ実際にに老人の感染割合と全体の死亡率が下がってるのかワクチン以外の要因で説明しないと辻褄があわないようになった
無知とは「知らない事」を知っている神秘である。専門家とは「知らない事を分けられた」と胸を張って言える者である。
「自分の考えが正しいと考える。」これだけでも、熟考が必要だ。しかし、正論と思って発した言葉に、同調者は誰もいない・・・自分だけ宙に浮いてしまう。それを想定した上で、さらに正論らしきものを展開する。彼等にとっても、自分にとっても不毛な結果になる。残るは、自分で自分を検証するしかない。歴史的評価なんて待てないし、自分がそこに生きている保証もない。そこで、社会に別れを告げる。(人間社会を離れる)・・・コミュニティの生き物に過ぎない人間として、この選択は過酷だ。
日本民族(生誕150年)は 正しさ より 不変 を誉とする。何故ならば、“国”境は藩の境界に存在するのだから。(他藩との仲良し外交は進行中…)
空気…日本人の永久の課題ですね。
個人的には、ロジカルでは表せない人間が備えた動物に近い属性ではないか、と。
罪名【空気】の押し付けには 分別 が無い。
みんなが破ったんだからさぁ、俺もやるしかないじゃん? (100の粛清) でも〜、みんなで演ったんだからさぁ、俺は悪くねぇよなぁ? 100分の1は誤差だよ誤差!
コロナ&接種騒動がまさに当てはまる。
世間 はテーブルの様に狭い。しかし、世界は海よりも広い。願わくば、冗談としての世間を望もう。他者の顔が「地獄の門であるものか!」
社交辞令の状態化は自己暗示を促す。何故ならば、人を騙す前に自身を騙さなければいけないのだから。その上で体裁を望むならば、その場の手段を目的と言い切らなければいけない。差別という目的は“恥”そのもの。総括の強要は必要か?
同調する人間は、コピーに過ぎない。要するに偽物である。Aschの実験に関しての評価基準は、とりあえず外枠の比較。情報の信憑性を探る作業は、多角的な観察力を要する。しかし、群れとはその様なものだ。群れ(コミュニティ)が持つ宿命でもある。是非はもっと違う視点を含んで考えなければならない。
45:10グレタ・トゥーンベリ How dare you!
難しいですね。
石原慎太郎さんなら良い場所を選びなさい。
空気を読む。
仲間なら賛同しそう。
僕は、疑う
誠実に対応する。
真摯に対応する。
真意を求める。
職場?
同調して順番に出世する。
クラス?
僕は、柔道部がいればいい?
けんかが強い人のいじめ?
宇宙は楽屋裏の∞次創作であり、社交辞令も同様である。無意識を信じないものは立ち位置すら手に入らないだろう。
@@systemsgfk7062 空気、や雰囲気の流れをかえることが出来るなら
様々な力が必要ですかね
不要不急は国民主権の力が決めた。統計とAIなど、予想屋のオッサンに過ぎない。既成事実は強力な手本である。私達の確率は私達が決めた。全体の成人式は現在進行形である。
音デカくてビビった
東大いかなくてもこんなことわかっているでしょう?露店でのたたき売りで「桜」は必ずふたりと決まっている。「桜」が「安い!」といって買えば、3割がつられて買うんだよ。
例が多すぎて話がわかりずらい
裸の王様の話間違っているよ。なさけないね、東大だろう?「バカには見えない」と言われたからだよ。間違っているよ。
バカには理解できない
@@MeisterHoora だろう?バカには理解できないようだ。
「王様のような立派な人が裸でいる訳がない、これはきっと特別な、先進的な、庶民には理解できない衣装を着ているはずだ」「皆が何も言わないのもきっと理由があるんだ」というような正常性バイアスとも権威主義とも呼べるような相互作用がありそうですよね。(今でもパリコレなどでは奇妙奇天烈な服飾が芸術的デザインとして大真面目に受け取られていますw)裸の王様の寓話は社会学的にかなり示唆に富んでいるように思います。
@@abc0to1 「バカには見えない」というのと、「みんな意見と同じでないといけない」というところには根本的な違いがあるだろう?バカにはわからないのかな?