What is Self?: "Self as We" and Post-COVID-19 Era【Part 1】
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- Опубліковано 8 лис 2024
- Online open lecture series "Let Us Rethink Radically"
ukihss.cpier.k...
Lecturer: Professor Yasuo Deguchi
(July 4, 2 p.m.)
*The English subtitles were created by UKIHSS and have not been fully approved by the lecturer.
大学進学した事はありませんが、今学問に非常に興味を持っています。こんな動画を公開してくださりありがとうございます。
私も!京大、行きたかったけど、程遠くて笑笑
今こうして、のんびり単位の心配もなく、好きな時間にきいていられる幸せに浸っています。
ご一緒できて嬉しいです✨
@@012sow7 って
この時間ありがとうございます。子育て中で、ライブでの拝聴が子供を公園に連れて行くので難しいという実情があります。双方向の授業に参加できないので、もしいい質問が有れば、次回の授業でピックアップして頂くなど継続的な議論にしてもらえたらと思います。
こんな貴重な講義を公開してくださり、本当にありがとうございます!!元文学部の社会人ですが、学び直しをさせていただいております。
貴重な講演を有難うございます。1957年工学部卒業ですが、あらためて学ばせてもらっています。
我々としての自己という概念を聞いたとき、漫画「火の鳥」未来編で、ロボットに恋する主人公の自我が火の鳥の中へ溶けてゆくシーンを思い出しました。火の鳥の中には様々な時代のありとあらゆる生き物の意思がまざりあっていて、先生のおっしゃる「我々としての自己」が擬人化されているような感じがしました。(正しく理解できているか自信はありませんが…)
大変興味深く聞かせていただきました。自己を我々とまで拡大して考えるのは私の感覚では難しいですが、そんなのあるぅ?という新感覚で大変面白く捉えられました。
講義を通して初めて哲学に触れましたが次回も楽しみにしています。ありがとうございます。
好奇心をくすぐるのが上手な人だ
面白すぎる!!!出口先生のファンになりました!今後も楽しみにしてます!
面白いです。
無料でやってくださってありがとうございます!
立ち止まらずに考えないこと!
大変勉強になります。次回も楽しみにしています!
オンラインでこんな貴重で面白い講義を受けられるなんて…!本当にありがとうございます。
「われわれとしての自己」は、「個々が“私としての自己”を持った上での『共感』」とはまた違うのでしょうか…?とても興味が沸きました。
次回が待ち遠しいです!
貴重なお話しありがとうございました(*^_^*)✨
夫婦は嫌いのうちはまだ大丈夫!!まさしくそうですね。
私は。元旦那に何の関心もなくなったので、離婚しました。
頷きまくりのお話しでした。
嫌いの中に好き❤があるんですよね❤️
われわれとしての自己・・・関西では普通に自分が話す相手の事を「自分」と呼んだりしますよね。日本語話者として普通の発想というか当然の帰結だと思います。提案というよりも日本語の自己(1人称代名詞)はそういうふうに出来ていますっていうかそうなっています。
「手前」「てめぇ」とかもそうですよね。養老先生がどこかでそのことについて話されていた記憶があります。欧米の徹底した個に対して、日本人の集団に溶け込む個。自己に悩まされる人が多いのは、徹底して個を追求する欧米文化が日本に合わないからかな…と思ったりもします。
建前としては自己は他者を助けるために生きるもの、しかし年を取ってくるとそういえなくなる人の弱さも出てくるが、そこで自己保身に向かうか、向かわぬかで別れる、自分でどうでもいいと思うものは保身、そして中間のものは、やり残したことをやらねばと思う、どちらでもいいと思うもの、あとは絶対に貫く者、だと言う理解
面白かったです
6:37
ありがとうございます
親しい人間の死が究極の悲しみであるのは、己の生が独房であることを突きつけられるから
隣の居房で起こるできごとについては、鉄格子越しにただ見ていることしかできない 手を伸ばしても何もさわれない いっさい関与できない
6:37ここまで無音
43:00AI,BI
ヨーロッパに住んで1年半くらいになるけど、東アジアの方が「我々としての自己」を持ってるというのはよく分かる感じがするなぁ。
興味深く拝見しております。素人で恐縮ですが、自己を脳(の機能)と結びつけるような考え方は哲学ではなされないのでしょうか。心は生命が進化の過程で獲得してきた気がするので。
自己の境界は認知できるとした時、われわれとしての⾃⼰の境界は?
自己はとりあえず制御できるとして、われわれとしての⾃⼰は制御できるのか?
話のテンポ、論点や問題定義を4番目に持っていった構成が非常に興味を持ちました。横文字の浅い知識を改めて力不足だと、学び直しをしてみようと思いました。ノンフィクションの現実の中もの思いに耽ってしまうことは、どこを頼りにしていったら良いのでしょうか。動画を拝聴し、少し気分が良くなりました。
質問をします。
BIとは何の略字でしょうか?
空論を吟じるのは、身体的に独房に入っていた人間にしかできない特権でしょうか?またそれは損となりますか?
カササギという鳥はツイートしますか?
丁寧に声を文字に起こせた気がします。
立ち止まり、ゆったりと過ごせました。
ありがとうございます♪
普通こういう動画は、関係者への毀誉褒貶をおそれて、コメント欄を閉じたり、評価を非表示にするものだけど、さすが京都大学となると全く眼中にないのが草。
あんまり学歴は関係ないんじゃない…。中学時代フリースクールで高学歴のお世話になった先生が院まで行ってもフリーターだったし。今思えばADHDだったなーと…感謝してるけど。
6:36 開始
アーカイブ視聴のため質問はできませんでしたが、能動的な自己を主張するデカルトさんは、例えば病気(精神病や認知症等)などに罹患したひとの自己についてはどうお考えだったのでしょうか?
多重人格には複数の「われわれ」が存在するのでしょうか?
【第1回】出口康夫教授「⾃⼰とは何か:「われわれとしての⾃⼰」とアフターコロナ」(7月4日14:00-)は、【第1回】ですか。【第2回】ですか。午前中にあったとおっしゃっていたと思いますが。
1:04:20
自己って言葉から出発してその概念を否定しようとするのはなんかむちゃくちゃに聞こえる。
んだけど、日本語に自称詞があっても一人称代名詞は無い、と考えている私としては、森有正の「汝の汝」的な考え方も捨てがたい。けど、言葉は「誰かに伝えるための道具」だからなあ。人から見た自分を意識するのは当然かなとも思う。「<我々>として生きる」ってのと、矛盾しないきがするなー。私から抜け出せても私たちからは抜けられなあってのはなんかわかる気が。
デカルトvsヒューム、ここで説明されてることだけ見ると、デカルトの圧勝に聞こえる。「知覚しかない」って「知覚」してるおまえはいるだろう、とデカルトは言いそう。「私は心の中をみました」って、心の中を見たおまえはいるだろう、と。
ものすごい集中したフロー状態って、自己の後景化モードかなー。
へー、デカルトの自己はクオリアいらんのかー。
47:40
nothing particular.
「私以外私じゃないのー
だーかーらー
LCLに溶けて慰めあおーよー」
こんな坊主のできそこないみたいなのを税金で飼う必要があるのか
ないです、だから野良犬でいいです