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とても分かりやすい言葉説明してくれていますから楽しいです.
凄くお話がお上手ですね!分かりやすくて面白いです♪
しずやしず しずのおだまき…💦😭😰ありがたく、拝聴いたしました‼️
私のような判官びいきにとって、頼朝こそ「日本一の大天狗」です。①泰衡に散々「義経の首をさしだせ」と圧力をかけた。②泰衡が義経の首を送ると、「弟を自害に追い込んだ」ことを名目に奥州攻めをおこない奥州藤原氏を滅ぼしてしまう泰衡にしてみれば「お前の言う通りにしたのに何で攻められなければならないのだ」との思いでしょう、
当時はまだ平安時代で武家の恩賞方法がまだ定まっていない時代なんだよね。当時は位の高いものから恩賞が与えられるのが当たりまえの時代でくらいの低いものは直接は恩賞を貰えなかったんだね、戦いは自前の兵で食料も自前所謂手弁当で駆けつけるんだね。従って有力な武家の従者という形で戦場に向かう。戦勝後はそこから褒美をもらうんだね。負けた方はすべてを失うから逃げ帰るんだね、で、負けた方や恩賞を貰えなかった勢力はどうするかというと、野盗になるか戦いの最中から乱取りと言われる強奪をやり自分たちの利益にするんだね。 で、義経はというと恩賞は貰えなかったがきちっと軍律正しく乱取りなどはしなかったんだね。だから、木曽義仲とは違う評価を朝廷から得たし、都の人々にも人気が高かったんだね。悲劇のヒーローとしての評価は後世のもので、乱取りをせず、軍律が高かったからカッコよかったんだろうね、だから、不細工にもかかわらず京の女性からモテたんだろうし、なまじに手柄を独り占めのような形になったから関東の武士たちから妬みを飼い、梶原からの報告を受けた鎌倉側からは恩賞をまともに貰えなかったんだろうね。で、義経も50人からの家来を抱えていたから食わしていかなければならないのに、乱取りを禁止していたから部下もつらかったんだろうね。義経は本望でないが家来も食わせなくてはならないから朝廷から検非違使の職を受けざるを得なかったんだろうね。 当時の都を荒らす盗賊らはほとんどが武装した集団で郊外にねじろをかまえていた、野盗集団がほとんどでそれまででも検非違使の職に就いていた者は皆頑張っていたが成果はほとんど上がっていなかったらしい。都を襲っていた勢力とは別物だが、当時の野盗勢力として有名なのが鈴鹿の山賊や大江山の鬼と呼ばれていた勢力だが、大江山の勢力は鬼扱いされているが残虐な野盗だと思うよまるで鬼のような存在だったんだろうね。話は戻るが義経は多分盗賊を倒し頑張っていたんだろうね。余計に人気が上がったんだろうね。でも、鎌倉からの義経の評価は悪く、屋島の戦いの前には平家追討軍からはずされてしまうんだね。後世の歴史を知るものとしては、いっそうの事そのまま平家追討軍に加わらなければよかったんでないかと思うが、真面目だったんだろうね。梶原の勢力の与力になることを引き受けちゃったんだね、更に、いいふりこいて、嵐の中自分に付き添う軍勢だけで屋島の戦いをやっちゃったんだね。余計に嫉妬と恨みをかっちゃったんだね。 その次の壇ノ浦の戦いは平家軍は多数の船舶を持っていたんだね、それに対し源氏軍は舟を数持っていなかった、それで、紀州の方の別当の力を得て源氏側の舟の数を増やしたと言われている。弁慶の親戚筋とも言われている。弁慶と軍師系の常陸坊は多分いたんだと思うよ。
オイラは面白かったので登録されて頂きました! で、奥州藤原も聴きたいです!
人の功を嫉み不幸を喜ぶ梶原景時の讒言に義経は敗れた。
次回お兄ちゃん楽しみにしてます!
奥羽に向かう際に弁慶と一緒に御坊も連れて行ってたとお聞きしたんですが、なんで御坊を連れて行ったか知ってらっしゃったら教えて欲しいです
私の手元に義経が自刃する二日前に書かれた遺書があります.文章の末尾に文治5年閏4月28日進上源右兵衛佐殿とあります。其の他の文字は達筆すぎて読むことが出来ません。
すぐにしかるべきところに相談してください
壇の浦の決戦ですが、安徳天皇は幼くして崩御されましたが、共に入水した建礼門院徳子(清盛の娘)は、助けられて尼さん(女のお坊さん)になります。
安倍・岸ラインと違って、弟の政治理解が低すぎたのか、兄の説明力が足りなかったのか。残念です。細かな謎が解けました。ありがとうございました👍
❤
要は韓信と同じ立場だったんだろう。
とても分かりやすい言葉説明してくれていますから楽しいです.
凄くお話がお上手ですね!
分かりやすくて面白いです♪
しずやしず しずのおだまき…💦
😭😰ありがたく、拝聴いたしました‼️
私のような判官びいきにとって、頼朝こそ「日本一の大天狗」です。
①泰衡に散々「義経の首をさしだせ」と圧力をかけた。
②泰衡が義経の首を送ると、「弟を自害に追い込んだ」ことを名目に奥州攻めをおこない奥州藤原氏を滅ぼしてしまう
泰衡にしてみれば
「お前の言う通りにしたのに何で攻められなければならないのだ」との思いでしょう、
当時はまだ平安時代で武家の恩賞方法がまだ定まっていない時代なんだよね。当時は位の高いものから恩賞が与えられるのが当たりまえの時代でくらいの低いものは直接は恩賞を貰えなかったんだね、戦いは自前の兵で食料も自前所謂手弁当で駆けつけるんだね。従って有力な武家の従者という形で戦場に向かう。戦勝後はそこから褒美をもらうんだね。負けた方はすべてを失うから逃げ帰るんだね、
で、負けた方や恩賞を貰えなかった勢力はどうするかというと、野盗になるか戦いの最中から乱取りと言われる強奪をやり自分たちの利益にするんだね。
で、義経はというと恩賞は貰えなかったがきちっと軍律正しく乱取りなどはしなかったんだね。だから、木曽義仲とは違う評価を朝廷から得たし、都の人々にも人気が高かったんだね。悲劇のヒーローとしての評価は後世のもので、乱取りをせず、軍律が高かったからカッコよかったんだろうね、だから、不細工にもかかわらず京の女性からモテたんだろうし、なまじに手柄を独り占めのような形になったから関東の武士たちから妬みを飼い、梶原からの報告を受けた鎌倉側からは恩賞をまともに貰えなかったんだろうね。で、義経も50人からの家来を抱えていたから食わしていかなければならないのに、乱取りを禁止していたから部下もつらかったんだろうね。義経は本望でないが家来も食わせなくてはならないから朝廷から検非違使の職を受けざるを得なかったんだろうね。
当時の都を荒らす盗賊らはほとんどが武装した集団で郊外にねじろをかまえていた、野盗集団がほとんどでそれまででも検非違使の職に就いていた者は皆頑張っていたが成果はほとんど上がっていなかったらしい。都を襲っていた勢力とは別物だが、当時の野盗勢力として有名なのが鈴鹿の山賊や大江山の鬼と呼ばれていた勢力だが、大江山の勢力は鬼扱いされているが残虐な野盗だと思うよまるで鬼のような存在だったんだろうね。話は戻るが義経は多分盗賊を倒し頑張っていたんだろうね。余計に人気が上がったんだろうね。でも、鎌倉からの義経の評価は悪く、屋島の戦いの前には平家追討軍からはずされてしまうんだね。後世の歴史を知るものとしては、いっそうの事そのまま平家追討軍に加わらなければよかったんでないかと思うが、真面目だったんだろうね。梶原の勢力の与力になることを引き受けちゃったんだね、更に、いいふりこいて、嵐の中自分に付き添う軍勢だけで屋島の戦いをやっちゃったんだね。余計に嫉妬と恨みをかっちゃったんだね。
その次の壇ノ浦の戦いは平家軍は多数の船舶を持っていたんだね、それに対し源氏軍は舟を数持っていなかった、それで、紀州の方の別当の力を得て源氏側の舟の数を増やしたと言われている。弁慶の親戚筋とも言われている。弁慶と軍師系の常陸坊は多分いたんだと思うよ。
オイラは面白かったので登録されて頂きました! で、奥州藤原も聴きたいです!
人の功を嫉み不幸を喜ぶ梶原景時の讒言に義経は敗れた。
次回お兄ちゃん楽しみにしてます!
奥羽に向かう際に弁慶と一緒に御坊も連れて行ってたとお聞きしたんですが、なんで御坊を連れて行ったか知ってらっしゃったら教えて欲しいです
私の手元に義経が自刃する二日前に書かれた遺書があります.文章の末尾に文治5年閏4月28日進上源右兵衛佐殿とあります。其の他の文字は達筆すぎて読むことが出来ません。
すぐにしかるべきところに相談してください
壇の浦の決戦ですが、
安徳天皇は幼くして崩御されましたが、
共に入水した建礼門院徳子(清盛の娘)
は、助けられて尼さん(女のお坊さん)
になります。
安倍・岸ラインと違って、弟の政治理解が低すぎたのか、兄の説明力が足りなかったのか。残念です。
細かな謎が解けました。ありがとうございました👍
❤
要は韓信と同じ立場だったんだろう。