日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2024/6/9)

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  • Опубліковано 7 чер 2024
  • 2024年6月9日(日)
    【旧約聖書】
    神は私の道をみつめ、私の歩みのすべてを数えていないのだろうか。ヨブ31:4(協)
    【新約聖書】
    五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前では忘れられてはいない。ルカ12:6(協)
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    「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
    日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
    「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。
    釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
    ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
    御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
    どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。
    使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2024』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2023年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。
    *ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。
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                  「勝ち組、負け組」という幻想
     台湾の著名なプログラマーで、蔡英文政権においてデジタル担当大臣を務めたこと経験を持つオードリー・タンという方がいます。この方は一種の天才であって、その才能ゆえに学校生活になじめず、早くも19歳のときにシリコンバレーでソフトウェアの会社を立ち上げています。抜群の天才としてプログラマーの世界では勝利者の道を若くしてひた走っていくのですが、オードリーさん自身はこのように言っています。「ルートが固定されているから、勝者と敗者が存在するんです。」学校生活では、皆が同じコースで競争させられるのですが、実際の社会では、そんな勝ち負けでそれぞれの能力を判定することはできません。オードリーさん自身、周囲から「天才」と評価されていますが、それも同じ一つの判定基準から見て、人より抜きんでていたに過ぎないというのです。私が大学生の頃、「勝ち組、負け組」という言葉が当たり前のように聞かれるようになり、自分自身、負け組にならないようにしなければ、と焦った時期がありました。考えてみれば、この「勝ち組、負け組」というのも、一つの判定基準で見たものに過ぎず、その判定基準というのも、「どの職業についているか、年収はいくらか」といったもので、その人が幸せであるかどうかではないのです。
     イエスはファリサイ派と律法学者たちを非難した後で、大勢の群衆の前で、このように言います。「五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前では忘れられてはいない。」「アサリオン」というのは当時の通貨の単位で、1デナリオンの1/16の価値です。1デナリオンが当時の日当の相場ですから、2アサリオンで五羽の雀というのは、かなり安い値段となります。1羽となれば、ほぼ価値のないくらいの値段でしょう。しかし、神さまはその1羽ですらお忘れになることはないと、イエスはおっしゃるのです。
     この群衆たちは、世間的に言えば、「負け組」と言われる人々になります。ほとんどが貧しい人々です。一方でファリサイ派や律法学者たちは「勝ち組」となるでしょう。彼らには名誉もステータスもあります。では、この勝ち組、負け組を分ける基準は何かというと、律法なのです。律法を守ることができ、またその律法に精通していることで、律法学者たちは世間的に高い評価を受けていたのです。他方、群衆たちは、まともに文字が読める人はほぼおらず、また、職業的な制約もあって律法を守ることができない人も大勢いました。律法の観点からすれば、罪人です。でも、それは律法と一つの判定基準から見た場合のことです。五羽で2アサリオンの雀も、お金という判定基準からすれば価値はほとんどありません。ところが、神さまはそのような判定基準で命あるものを見ておられないのです。どんなに小さな、無価値と思えるものであっても、神さまは決してお忘れになることはないのです。
     今、「私は負け組の人生だ」と感じている人がいるかもしれません。でもそれは「職業、年収」という、今の世の中が作り上げた判定基準で物事を考えているということです。神さまを信じることは、そのような世の中の判定基準から自由になることです。ヨブも災難を受け続けたとき、「神は私の道をみつめ、私の歩みのすべてを数えていないのだろうか」と嘆いていました。しかし神さまは、そのように小さく、貧しくされた人々を忘れることなく、救いの道に導いてくださる方なのです。
    日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

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