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ありがとうございます!
いつか必ずやって来る「死」慌てず、恐れず、一日を感謝で終えることが出来る毎日にしたいです。
自分の死というものが、いかに重大なことであるか、考えさせられました。岸本英夫さん、早川一光さんの文章から、後生の一大事を解決するのは容易なことではないことも感じました。これからも毎日仏教を教えを聴き、自己を見つめていきたいと思います。ありがとうございました。
ありがとうございます❤南無阿弥陀仏🙏🙏🙏
先生の動画を見て「誰にでもあることなんだ」と気持ちが楽になりました。ありがとうございました!!!
❤❤❤❤
まさに、その通り・・・と思うのですが、ちょっと時間がたつと、忘れてしまいます。
法鏡とは座禅等で自己を見つめ自己を知る一つの手段ですね
死ぬリスクをすぐ考えました。まずは自己を知ること。一休さんの唄が凄すぎ❗トンチが効いてますね‼️「どちら様ですか。」「死です。」(笑)🤣死は確実であって死は不確実なもの。菊谷さんいつもありがとうございます。🙇南無阿弥陀仏🙏
何時も納得するお話有り難う御座います。感謝致します。当たり前の事を改めて聞かせて頂くと毎日の過ごし方を大切に大切に過ごしたいと思いますね。心に言い聞かせて過ごします。
今回の話は、分かったつもりの内容ですね。お話は分かりますし、頭でも理解できます。でも、自分だけはと思う内容です。ありがとうございました。
老いも若きも死の前では同い年素敵な言葉ですね
今日も、ありがとうございます。🧖♂️🧖♀️👨🎤👩🎤👨🍳👩🍳
本日も良いお話しを聞かせて頂きました。目の前の一時、一時の生き方を見なおし実戦しなければなりません。感謝いたします。
死を忘れてる...響きました..先生ありがとうございました。🙇♀️
歩いていて上から物が落下して亡くなったり、自動車に追突され瞬時に亡くなったりと人生はわかりませんね。家族に対して、葬儀の事や死後の保険金や事務処理を明確に知らせて置くことは大切だと思います。
両親を看取って、自分の死について考えるようになりました。子供も孫もおりませんのでいよいよ次は自分だな、と。
つい私も考えてしまうこともあります。子も孫もいない人が増えていて、私もその1人です。
今の時代、子供や孫が居たとして、何か役だつ事が有るのか?いささか疑問を感じますそれほどに居るから有難いものでも無いむしろ時間もお金も、自分の為に使える、自由は有りますが~人は有るものは当たり前で無いものが欲しいですね!
今日も配信ありがとうございました。『人は必ず死ぬ。』頭ではわかっていますが、なかなか自分の事として考えることができません。そのことが『人生最大の危険なこと』なんですね。菊谷先生のお話を聞かせていただきながら暗い気持ち・淋しい気持ちになり、胸が苦しくなりました。もしかしたら、これが後生暗い心の一端なんでしょうか。東大教授のお話のところでは、自分も死を目の前にしたら同じ気持ちになると思いました。今感じた気持ちのはるかはるか暗い気持ちになると思いました。
濃黒に 刺す一筋の 光かな。
@@cufk1101 返信ありがとうございます。悔いが残らないような人生・・・と言われますが、やはり自分の死を遠くで眺めているように思います。朝元気だった人が夜にはかえらない人になったというのはたくさんあります。
いつもありがとうございます。菊谷さんのお陰で、近所の道端で、朝夕二回、毎日はすの上のお釈迦様像に手を合わせています。とても良い1日を送れている気がします。感謝申し上げます。
毎日、毎日精一杯生きたいです。ありがとうございました😊
今日も、とても、大変、すごく勉強に、なりました。誠に、ありがとうございました。
今菊谷さんの法話を聞いて、死を意識しました。しかし、お腹が空いたので、食べ物を探しに一階に降りました。心も無常で、続かないです。
西洋にもメメントモリという言葉があるようで、全てはこれに尽きるんだと思います。
ミスターチルドレンの曲にも「メメントモリ」という楽曲が、ありますよね。「すべての事には必ず終わりがある」という意味だったと思いますが。
@@cufk1101 ここに来るひとなら花は華としたいところですね。(笑)
自分の死を改めて考えながら、聞いていました。有り難うございました🙏。✨
プロテスタント(キリスト教)です。お盆休み明けましたね。会社やプライベートで「私はキリスト教でお盆が何かわかりません、お盆って何をする行事なんですか?」と聞き、周囲を凍らせてきた人生です。それはさておき、『命』。一番重いテーマですね。大聖釈迦牟尼世尊、の字が読めず???と、まだまだ分からないですが、根気強く聴いてみます。日本では戦争もなく仏教の神殿(?)神社仏閣がそこら中にあるにも関わらずいつも自死が問題になりますが、キリスト教圏でも命は同じく最も大切なものであるとされ、日常的に考えられています。中でも特に揉めてるのが中絶ですね。個人的にカトリックではその傾向も強かったように思います。プロテスタントでも今も法整備されてない国も存在しますし。日本だとあまり感じない人が多いかもしれませんが、キリスト教では命=神によって与えられ、神によって奪われるもの、命=神のものであるという絶対的な考えが根底にあります。神にせっかく命頂いてんのにアンタ…中絶???何考えてんの馬鹿なのみたいな感じです。仏教よりも少し懲罰的な印象もあるかもしれないですね。こちらのお話を聞いていると、仏教とは、仏教でいうところの主イエスが(ブッタ様?菩薩様?この辺り相関図はわからないです)、信者ひとりひとりに寄り添って、命の大切さについて、考えてはどうかと丁寧に教えているような感じがしました。長文失礼しました。
興味深い話ですね。私の菩提寺(代々その寺の宗旨に帰依して位牌を納めてある寺)は浄土真宗です。現在は菊谷先生のお話を一生懸命拝聴しています。ただ私はミッション系の大学(プロテスタント)に行きました。英語を習いたいこともあり外人の教授が多くいた方がいいかなと単純に考えていました。授業は必須で「キリスト教概論」、「キリスト教専科」がありましたが聖書を理解するに当たり当時の人々の世界観とか信仰と言うよりひとつの思想のように捉えていました。みおさんのコメントで「命の大切さ」について述べられていました。その通りだと思いますが仏教は「死と向き合う」ことを言っているように私には思えます。私ごときが云々言えることではないのですがちょっとそんな感じもしています。間違っていたら大変申し訳ありません。
キリストは助けなかったよね沈黙で
@@sagittariust5 なる程、仏教もまた日本史として興味深いですね。死と向き合う事が仏教の考えは確かに私にはわからない部分でした。キリスト教が生きる事に向き合う宗教だからかもしれないですね。ご存知かもですが、キリスト教では生まれる=神が命を与える、死ぬ=神の導き、または奪われる、と決まっているので、あまり日常的に死と向き合う感じじゃないですね。
@@自慢師 キリスト教は義務教育ではないので教会こいとか言ったりはしません。あるとすればそれはキリストを便利に語った新興宗教ビジネスです。私の話はあくまで信仰についてです。ご理解頂けると嬉しいです。主はキリストなので特定の人物だけを助けたりはしません。目に見える証拠のようなものが欲しいのであれば、それは全てオカルトなので、ぜひ新興宗教さんの方に行かれてお尋ねください。
@@Mio-San_ 神を信じない不信心者ですが、ナザレのイエス荒野で石をパンに変えなかった喩えや、磔から下りず見棄てた神への嘆きの喩えは好きです。これが飢え苦痛への寄り添いなのであるならば、遠藤周作氏の沈黙での問いへの感じかたは変わるはず。あなたは、五歳の子供へ紛い物を与えるでしょうか。あなたは偉大な先達も苦しんだ傲慢に囚われてはいませんか。最後の文章は蛇足かと、日々の煩悩に悩む一人として書きます。
いつ死ぬのか分からない人生だからこそ、今を大事にしたいと思えるんだなと思いました。できる限りベストを尽くしてきたつもりです。休みながら、そしてまた取り組む。一つのことに10年程取り組みこれかと思えました。しかし、こんな時に病気になったらどうしようとか、考えてしまいます。日々、いろんな恐怖と闘いつつも、ベストオブベストを尽くせたらと思いました。
恐いんですよ。死ぬことを考えるのが。絶対死ぬのにね。誤魔化し誤魔化し生きている感じはします。恐くてもきちんと向き合うべきなんですね。
江戸時代に常に死を意識する為に天井に刀を吊っていた武士がいるそうです。絶体にマネしないでください。
私も自分の死を誤魔化して生きている感じがします。いや目の前のいろいろなことにとらわれて死を考えていないとった方が正しいかもしれません。でも絶対死にますからね。 歌素敵でした。アートガーファンクルに少し声が似ていました。
@@ワンゼロ-l5h 様 有難うございます。
死を忘れている。本当にそうだと思います。自分は死なないと思っている。父も死に、母も死に、夫も死にました。なのに私は死なないと思っている。なんてバカなんでしょう❗
私もですが老後の資金2千万貯めてなければそれ程バカじゃないと思います。
「死です」「間に合ってます」サンドウィッチマンのコントで見たい笑
本当にそうですね、まだ気持ちが明るいうちに精一杯生きましょう、老いや病、死が見えるともう絶望のどん底です。今生きているのなら、感謝して、食べて寝られるだけ天国です。投資で大損?幸せな悩みですね、
菊谷先生、今回も大切なお話と有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。顛倒の妄念の迷夢の中に生きている私は、自己の死がまだ夢幻の状態で現実化してないんですね。他人の死は現実で目の前の現実の衆務を営み自己の死が夢幻のままなのですね。自己の死の岩頭に立たされた時、現実と迷夢が逆転し迷いの夢から覚めるのでしょう。でもその時は遅すぎてうろたえる自己が存在するのでしょう。〜ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定して参るべきは安養の浄土なりと思べきなり〜本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。三戸拝
とてもわかりやすくて徳をもらっています。ありがとうございます。
キリスト教の聖書には毎日を人生最後の日だと思い日々を過ごせと書いてあります。参考までに。私も先月、呼吸不全で救命センターに運ばれました。先生にいきたいと思いますか?もう、いいですか?といわれ怖かったです。今までは死んだら死んだだと思い愚か者でした。私は死を意識して人生観が変わりました!菊谷先生、ありがとーございます。どうしたら、後生の一大事を克服出きるのか教えて😭⤵️下さい。また、傾聴します🎵
仏法は聴聞に極まる、と言われるように、聞くのが大事です。ua-cam.com/video/hEFy3rxbD2I/v-deo.htmlどうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
今の職場の上司の方々は仕事に命懸けなので、この動画を見て少しでも学んでいただきたいです。限度を超えた残業や休日出勤を迫られる日々ですが、日頃からこうして仏教を学んでいる自分からすると、些細なことであり「仕事をする為に生きている」方とは価値観が合いません。自分は「生きる為の仕事」を心掛けています。
以下、軽く聞き流してください。嫌な上司にも、すぐ怒る人、意地の悪い人、嫌みでネチネチした人、色々なタイプがありきりがないですが、Tommyさんの上司は最強最悪のタイプでパーソナリティ障害かもしれません。修行と思い菊谷先生の話も力にして世渡りしていってください。尚、その方が学習することは終生無いと思います。その方が自滅するか、転任、退社するかTommyさんがそうするしか逃れる途は無いように思います。
ありがとうございます。
納得❤❤❤
確かに何の根拠もないのに自分はまだまだ生きてられるって思ってました。素晴らしいお話をありがとうございました!
先生、聞いていると、悲しくなる。
メメントモリの言葉通り人類全部の課題ですね。
悲しく、なるけどね、、これが、真実なんですね。
そのようなことは人間なら誰しも分かっていますよ。しかし考えても仕方のないことだからなるべく考えないようにして日々の生活を送っているのが我々、凡夫の実態です。後生の一大事と仰いますが、死んだ後、自分はどうなるんだろうという不安や問いそのものが我執に根差していると私には思えます。自我の超克を自然の道理に従って生きることに求めた夏目漱石の「則天去私」が私の人生の理想です。
ということは人生は本願力を頂き実感することです。と今生きているときに辞世の句を詠むことができるというものです。
生老病死、やっぱりこの世は牢獄だ。
死が怖いのは覚悟が出来ていないからだと思います。皆さん、覚悟を決めましょう!
40歳を超えて親の死とか終活に付き合って、死後の世界とか仏教とかに興味持ち出しました
先生、やっぱり、死ぬのはこわいよ!言語なうちは怖くないけど🎉こわいよ!
(私を幸せにさせない5つの常識)が欲しいです。どうすればいいでしょうか。
23:41 生死の一大事 (しょうじのいちだいじ) = 後生の一大事 (ごしょうのいちだいじ)
ダンス💃楽しいですね😊
マジ過ぎて、………感謝致します。 是非も無し。金❓持ち 余り 意味無いじゃん👍 安倍氏 実証 済みじゃん❤
安楽死すれば 自分で決められる 動物には安楽死を認めて人間に認めないというのは 不思議なことだ
私は、最近、自分の死とかばかり、考えてしまいます。コロナ禍のせいでしょうか?特別、不安もないのですが、やり残したことも無いし、変な感じです。
2:47
高齢になってきたので、終活を始めた!という人達がいますが、生まれた時から皆、終活?なのでは?ないでしょうか?
ありがとうございます。阿弥陀は具体的存在でなく、形而上の精神的な存在で、説明できないものですか。教えて下さい。
後生の一大事という言葉を親鸞会ではよく聞きます。親鸞の教えも、基本はそこから出発している。しかし、時代は変わっています。多くの死が見られる日常であるのと同時に、親鸞の時代に比べて、現代人は遥かに長寿となり、認知症や何らかの障害を抱えて晩年を過ごすことも多くなった。何もやりたいことが自分で出来なくなってまで、生きる意味があるのだろうか?そもそも、後生というものは存在するのだろうか?宇宙は無から始まったという。死は、その無に還って行くだけのことであり、後生というような大袈裟なものもないのではないだろうか?
無は存在しません。宇宙も真空で無と思われるでしょうが、実はいくつかの原子や、観測できない物質に満たされている(とされている)ように、人知で認識できる事象などはちっぽけなもので、それも常に変化している。そんな諸行無常、諸法無我を仏陀が明らかにしたように、生命や宇宙さえ無に還ることも、無から始まることもないというのが現代物理学の観点でもあるようです。
@@ehikaru3502 私には浅はかな知識しかないので、あまり議論しても仕方ありませんが、物質がどうやって発生したのかは、まだ謎でしょう。一説では、何も存在しないところで、135億年前にビッグバンが起き、初めて物質=エネルギーや、時間、空間が生じた,、とのことです。(サピエンス全史)>諸行無常、諸法無我を仏陀が明らかにしたように、生命や宇宙さえ無に還ることも、無から始まることもない<と言われましたが、仏教で言う色即是空という言葉は、全ては無に帰する、という意味と捉えますがどうでしょうか?少なくとも、そう考えた方が、一切の迷い苦しみから逃れて、幸福な生き方ができるように思えます。
@@HappyLoser-z3k 色即是空は、同時に空即是色であるというのが仏陀の説いた真如。空とは無ではなく、因縁によって存在する現象にすぎないというものなので、その本質は我々が感じられずとも、たしかに存在していて、逆に我々が存在していると感じられるものも、けして恒常的なものではない、ゆえに空≒色であるという考えです。何もないところから現象は起こりえないし、逆に無に帰するものでもないということを言っているのだと解釈します。実際、我々の宇宙は136億年前に出来たとされていますが、現在は宇宙は無数にかつ永久的に生滅を繰り返してるマルチバース(多元宇宙論)説が台頭してきています。もちろん我々がその真否を知ることはできませんが、仏陀はそのように説きました。
死ぬことを、語れる。のは、、菊谷しかいいない。
しかし、死ぬのは確実だと言われますが、今後科学が発展していけば疑問です。今は情報が全てぐらいの時代です。大金持ちなら自分の情報を保存し維持しようとするのではないでしょうか?
こんなに死を問い詰めさせるのは阿弥陀に念仏させるためですか?ならば、禅宗の僧侶はどうやって死の準備をするのでしょうか?釈尊は自力仏教でどう勧められたのでしょうか?私は主神を念じて、死を迎えます!もちろんその時良いところに生まれられると覚悟するから、心は明るいです。無明の闇なんてありません。😐最後にいえば、釈尊でも結局死にましたから、普通の死苦は誰しも避けられないものです。問題は死後の事ですよね。
熱心なクリスチャンだった国木田独歩氏は「祈れません」と泣きながら死んでいきました。貴氏は、自分の死を遠くで眺めておられるからそのように仰ることができるのではないでしょうか。
随分前に、確か禅宗の僧侶だったと記憶してますが、個人用核シェルターをつくっったというのを写真週刊誌で見ました。金もあったんでしょう。僧侶だから悟れるというもんではないですが、せめて俗人レベルの覚悟は持ってほしいと思います。
@@ワンゼロ-l5h 私はいつ死んでも暗い心など出てきません、虫のように安らかに死ぬだけです。現代は主神が変えてくださり、みな安楽死となりましたよ。たとえ身体が苦痛の時でも、精神は安らかです。無明の死苦などは昔のことです。他に断末魔の死苦も無くしてくださいました。20年程まえに変わりました。
@@康雄山本-e4w 返信ありがとうございます。貴氏が言われているみな安楽死になりましたよ、のみなとはだれですか。わたしは、そもそも断末魔だけの苦しみを問題にしているのではありません。断末魔だけの苦しみなら薬を使うことで解決しますからね。
@@ワンゼロ-l5h 皆さんとは人類八十億人です😐信じられますか❓️
寿限無。
死は確実で不確実、貴方はそれを知らなかったのですか?私は知っていましたけど、しかし死の事ばかり考えていたら人生が暗くなるばかりです、仏教で話すのは死の事ばかりですからね、全く人生が嫌になります。
ここだけの話、私は阿鼻地獄の主です。私が命じて造りました。無間地獄の主もしています。その私に言わせると、衆生が地獄へ堕ちるのも主神摂理から言えば意味がありますし、魂が学習することにもなります❗例えば、親を殺した人は無間地獄へ堕ちますが、阿弥陀がこういう人を救わなくてもよいのです。その他の悪人についても同様です。だから、後生は一大事だとあまり言わないでもらいたい。最後に、生死については焦らずに、繰り返せばいいと主神は考えている。動物でさえ落ち着いているのに、人間だけが死に際に慌てるというのはおかしいよね❗
みな流転輪廻の罪があるから、来世どこに生まれるか分からないというような危険さや不安さは無くなりましたよ❗これは10年程まえに私が治しました。また、本来釈尊のお弟子のような知恵のある方なら、自分が来世どうなるか大体分かるものです。それで死ぬ時も後生が不安にならないで落ち着いているのです。これを信忍とか悟忍とかいいます。
「死」は体験できない。なぜなら「生」の端っこ死の片側だから。「死に行く」は体験できる。ただし「死」と「死に行く」は違う。「死」は死ぬ人を周りから見て周りが作り出した概念。「死に行く」は実際に自分が死に向かうことを認識すること。自分の「死」は自分の人生に現れない。他人の人生には自分の死が現れる。だから自分の死を自分が恐れるなんて笑える。なぜなら存在しないものに怯えているからだ。存在しないのだから自分の人生に影響を何一つ及ぼせない。
そんなことしても仙腸関節は治らない!
話が古いなあ
ありがとうございます!
いつか必ずやって来る「死」慌てず、恐れず、一日を感謝で終えることが出来る毎日にしたいです。
自分の死というものが、いかに重大なことであるか、考えさせられました。岸本英夫さん、早川一光さんの文章から、後生の一大事を解決するのは容易なことではないことも感じました。これからも毎日仏教を教えを聴き、自己を見つめていきたいと思います。ありがとうございました。
ありがとうございます❤南無阿弥陀仏🙏🙏🙏
先生の動画を見て「誰にでもあることなんだ」と気持ちが楽になりました。ありがとうございました!!!
❤❤❤❤
まさに、その通り・・・
と思うのですが、
ちょっと時間がたつと、
忘れてしまいます。
法鏡とは座禅等で自己を見つめ自己を知る一つの手段ですね
死ぬリスクをすぐ考えました。まずは自己を知ること。一休さんの唄が凄すぎ❗トンチが効いてますね‼️「どちら様ですか。」「死です。」(笑)🤣死は確実であって死は不確実なもの。菊谷さんいつもありがとうございます。🙇南無阿弥陀仏🙏
何時も納得するお話有り難う御座います。感謝致します。当たり前の事を改めて聞かせて頂くと毎日の過ごし方を大切に大切に過ごしたいと思いますね。心に言い聞かせて過ごします。
今回の話は、分かったつもりの内容ですね。お話は分かりますし、頭でも理解できます。でも、自分だけはと思う内容です。ありがとうございました。
老いも若きも死の前では同い年
素敵な言葉ですね
今日も、ありがとうございます。🧖♂️🧖♀️👨🎤👩🎤👨🍳👩🍳
本日も良いお話しを聞かせて頂きました。目の前の一時、一時の生き方を見なおし実戦しなければなりません。感謝いたします。
死を忘れてる...響きました..
先生ありがとうございました。🙇♀️
歩いていて上から物が落下して亡くなったり、自動車に追突され瞬時に亡くなったりと人生はわかりませんね。家族に対して、葬儀の事や死後の保険金や事務処理を明確に知らせて置くことは大切だと思います。
両親を看取って、自分の死について考えるようになりました。子供も孫もおりませんのでいよいよ次は自分だな、と。
つい私も考えてしまうこともあります。子も孫もいない人が増えていて、私もその1人です。
今の時代、子供や孫が
居たとして、何か役だつ事が有るのか?いささか疑問を感じます
それほどに居るから
有難いものでも無い
むしろ時間もお金も、
自分の為に使える、自由は有りますが~人は
有るものは当たり前で
無いものが欲しい
ですね!
今日も配信ありがとうございました。『人は必ず死ぬ。』頭ではわかっていますが、なかなか自分の事として考えることができません。そのことが『人生最大の危険なこと』なんですね。菊谷先生のお話を聞かせていただきながら暗い気持ち・淋しい気持ちになり、胸が苦しくなりました。もしかしたら、これが後生暗い心の一端なんでしょうか。東大教授のお話のところでは、自分も死を目の前にしたら同じ気持ちになると思いました。今感じた気持ちのはるかはるか暗い気持ちになると思いました。
濃黒に 刺す一筋の 光かな。
@@cufk1101 返信ありがとうございます。悔いが残らないような人生・・・と言われますが、やはり自分の死を遠くで眺めているように思います。朝元気だった人が夜にはかえらない人になったというのはたくさんあります。
いつもありがとうございます。菊谷さんのお陰で、近所の道端で、朝夕二回、毎日はすの上のお釈迦様像に手を合わせています。とても良い1日を送れている気がします。感謝申し上げます。
毎日、毎日精一杯生きたいです。
ありがとうございました😊
今日も、とても、大変、すごく勉強に、なりました。誠に、ありがとうございました。
今菊谷さんの法話を聞いて、
死を意識しました。
しかし、お腹が空いたので、
食べ物を探しに一階に降りました。
心も無常で、続かないです。
西洋にもメメントモリという言葉があるようで、全てはこれに尽きるんだと思います。
ミスターチルドレンの曲にも「メメントモリ」という楽曲が、ありますよね。
「すべての事には必ず終わりがある」という意味だったと思いますが。
@@cufk1101 ここに来るひとなら花は華としたいところですね。(笑)
自分の死を改めて考えながら、聞いていました。有り難うございました🙏。✨
プロテスタント(キリスト教)です。お盆休み明けましたね。会社やプライベートで「私はキリスト教でお盆が何かわかりません、お盆って何をする行事なんですか?」と聞き、周囲を凍らせてきた人生です。それはさておき、『命』。一番重いテーマですね。
大聖釈迦牟尼世尊、の字が読めず???と、まだまだ分からないですが、根気強く聴いてみます。
日本では戦争もなく仏教の神殿(?)神社仏閣がそこら中にあるにも関わらずいつも自死が問題になりますが、キリスト教圏でも命は同じく最も大切なものであるとされ、日常的に考えられています。
中でも特に揉めてるのが中絶ですね。個人的にカトリックではその傾向も強かったように思います。プロテスタントでも今も法整備されてない国も存在しますし。
日本だとあまり感じない人が多いかもしれませんが、キリスト教では命=神によって与えられ、神によって奪われるもの、命=神のものであるという絶対的な考えが根底にあります。
神にせっかく命頂いてんのにアンタ…中絶???何考えてんの馬鹿なのみたいな感じです。
仏教よりも少し懲罰的な印象もあるかもしれないですね。
こちらのお話を聞いていると、仏教とは、仏教でいうところの主イエスが(ブッタ様?菩薩様?この辺り相関図はわからないです)、信者ひとりひとりに寄り添って、命の大切さについて、考えてはどうかと丁寧に教えているような感じがしました。長文失礼しました。
興味深い話ですね。私の菩提寺(代々その寺の宗旨に帰依して位牌を納めてある寺)は浄土真宗です。現在は菊谷先生のお話を一生懸命拝聴しています。
ただ私はミッション系の大学(プロテスタント)に行きました。英語を習いたいこともあり外人の教授が多くいた方がいいかなと単純に考えていました。
授業は必須で「キリスト教概論」、「キリスト教専科」がありましたが聖書を理解するに当たり当時の人々の世界観とか信仰と言うよりひとつの思想のように捉えていました。
みおさんのコメントで「命の大切さ」について述べられていました。その通りだと思いますが仏教は「死と向き合う」ことを言っているように私には思えます。
私ごときが云々言えることではないのですがちょっとそんな感じもしています。間違っていたら大変申し訳ありません。
キリストは助けなかったよね沈黙で
@@sagittariust5 なる程、仏教もまた日本史として興味深いですね。死と向き合う事が仏教の考えは確かに私にはわからない部分でした。キリスト教が生きる事に向き合う宗教だからかもしれないですね。ご存知かもですが、キリスト教では生まれる=神が命を与える、死ぬ=神の導き、または奪われる、と決まっているので、あまり日常的に死と向き合う感じじゃないですね。
@@自慢師 キリスト教は義務教育ではないので教会こいとか言ったりはしません。あるとすればそれはキリストを便利に語った新興宗教ビジネスです。私の話はあくまで信仰についてです。ご理解頂けると嬉しいです。主はキリストなので特定の人物だけを助けたりはしません。目に見える証拠のようなものが欲しいのであれば、それは全てオカルトなので、ぜひ新興宗教さんの方に行かれてお尋ねください。
@@Mio-San_
神を信じない不信心者ですが、ナザレのイエス荒野で石をパンに変えなかった喩えや、磔から下りず見棄てた神への嘆きの喩えは好きです。
これが飢え苦痛への寄り添いなのであるならば、遠藤周作氏の沈黙での問いへの感じかたは変わるはず。
あなたは、五歳の子供へ紛い物を与えるでしょうか。
あなたは偉大な先達も苦しんだ傲慢に囚われてはいませんか。
最後の文章は蛇足かと、日々の煩悩に悩む一人として書きます。
いつ死ぬのか分からない人生だからこそ、今を大事にしたいと思えるんだなと思いました。できる限りベストを尽くしてきたつもりです。休みながら、そしてまた取り組む。一つのことに10年程取り組みこれかと思えました。しかし、こんな時に病気になったらどうしようとか、考えてしまいます。日々、いろんな恐怖と闘いつつも、ベストオブベストを尽くせたらと思いました。
恐いんですよ。死ぬことを考えるのが。
絶対死ぬのにね。誤魔化し誤魔化し生きている感じはします。
恐くてもきちんと向き合うべきなんですね。
江戸時代に常に死を意識する為に天井に刀を吊っていた武士がいるそうです。
絶体にマネしないでください。
私も自分の死を誤魔化して生きている感じがします。いや目の前のいろいろなことにとらわれて死を考えていないとった方が正しいかもしれません。でも絶対死にますからね。
歌素敵でした。アートガーファンクルに少し声が似ていました。
@@ワンゼロ-l5h 様 有難うございます。
死を忘れている。本当にそうだと思います。自分は死なないと思っている。
父も死に、母も死に、夫も死にました。
なのに私は死なないと思っている。
なんてバカなんでしょう❗
私もですが老後の資金2千万貯めてなければそれ程バカじゃないと思います。
「死です」「間に合ってます」
サンドウィッチマンのコントで見たい笑
本当にそうですね、まだ気持ちが明るいうちに精一杯生きましょう、老いや病、死が見えるともう絶望のどん底です。今生きているのなら、感謝して、食べて寝られるだけ天国です。投資で大損?幸せな悩みですね、
菊谷先生、今回も大切なお話と有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。顛倒の妄念の迷夢の中に生きている私は、自己の死がまだ夢幻の状態で現実化してないんですね。他人の死は現実で目の前の現実の衆務を営み自己の死が夢幻のままなのですね。自己の死の岩頭に立たされた時、現実と迷夢が逆転し迷いの夢から覚めるのでしょう。でもその時は遅すぎてうろたえる自己が存在するのでしょう。〜ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定して参るべきは安養の浄土なりと思べきなり〜本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。三戸拝
とてもわかりやすくて徳をもらっています。ありがとうございます。
キリスト教の聖書には毎日を人生最後の日だと思い日々を過ごせと書いてあります。参考までに。私も先月、呼吸不全で救命センターに運ばれました。先生にいきたいと思いますか?もう、いいですか?といわれ怖かったです。今までは死んだら死んだだと思い愚か者でした。私は死を意識して人生観が変わりました!菊谷先生、ありがとーございます。どうしたら、後生の一大事を克服出きるのか教えて😭⤵️下さい。また、傾聴します🎵
仏法は聴聞に極まる、と言われるように、聞くのが大事です。
ua-cam.com/video/hEFy3rxbD2I/v-deo.html
どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
今の職場の上司の方々は仕事に命懸けなので、
この動画を見て少しでも学んでいただきたいです。
限度を超えた残業や休日出勤を迫られる日々ですが、
日頃からこうして仏教を学んでいる自分からすると、些細なことであり
「仕事をする為に生きている」方とは価値観が合いません。
自分は「生きる為の仕事」を心掛けています。
以下、軽く聞き流してください。
嫌な上司にも、すぐ怒る人、意地の悪い人、嫌みでネチネチした人、色々なタイプが
ありきりがないですが、Tommyさんの上司は最強最悪のタイプでパーソナリティ障害
かもしれません。修行と思い菊谷先生の話も力にして世渡りしていってください。
尚、その方が学習することは終生無いと思います。その方が自滅するか、転任、退社するかTommyさんがそうするしか逃れる途は無いように思います。
ありがとうございます。
納得❤❤❤
確かに何の根拠もないのに自分はまだまだ生きてられるって思ってました。
素晴らしいお話をありがとうございました!
先生、聞いていると、悲しくなる。
メメントモリの言葉通り人類全部の課題ですね。
悲しく、なるけどね、、これが、真実なんですね。
そのようなことは人間なら誰しも分かっていますよ。しかし考えても仕方のないことだからなるべく考えないようにして日々の生活を送っているのが我々、凡夫の実態です。
後生の一大事と仰いますが、死んだ後、自分はどうなるんだろうという不安や問いそのものが我執に根差していると私には思えます。自我の超克を自然の道理に従って生きることに求めた夏目漱石の「則天去私」が私の人生の理想です。
ということは人生は本願力を頂き実感することです。と今生きているときに辞世の句を詠むことができるというものです。
生老病死、やっぱりこの世は牢獄だ。
死が怖いのは覚悟が出来ていないからだと思います。皆さん、覚悟を決めましょう!
40歳を超えて親の死とか終活に付き合って、死後の世界とか仏教とかに興味持ち出しました
先生、やっぱり、死ぬのはこわいよ!言語なうちは怖くないけど🎉こわいよ!
(私を幸せにさせない5つの常識)が欲しいです。どうすればいいでしょうか。
23:41 生死の一大事 (しょうじのいちだいじ) = 後生の一大事 (ごしょうのいちだいじ)
ダンス💃楽しいですね😊
マジ過ぎて、………感謝致します。 是非も無し。金❓持ち 余り 意味無いじゃん👍 安倍氏 実証 済みじゃん❤
安楽死すれば 自分で決められる 動物には安楽死を認めて人間に認めないというのは 不思議なことだ
私は、最近、自分の死とかばかり、考えてしまいます。コロナ禍のせいでしょうか?特別、不安もないのですが、やり残したことも無いし、変な感じです。
2:47
高齢になってきたので、終活を始めた!という人達がいますが、生まれた時から皆、終活?なのでは?ないでしょうか?
ありがとうございます。阿弥陀は具体的存在でなく、形而上の精神的な存在で、説明できないものですか。教えて下さい。
後生の一大事という言葉を親鸞会ではよく聞きます。親鸞の教えも、基本はそこから出発している。
しかし、時代は変わっています。
多くの死が見られる日常であるのと同時に、親鸞の時代に比べて、現代人は遥かに長寿となり、認知症や何らかの障害を抱えて晩年を過ごすことも多くなった。何もやりたいことが自分で出来なくなってまで、生きる意味があるのだろうか?
そもそも、後生というものは存在するのだろうか?宇宙は無から始まったという。死は、その無に還って行くだけのことであり、後生というような大袈裟なものもないのではないだろうか?
無は存在しません。
宇宙も真空で無と思われるでしょうが、実はいくつかの原子や、観測できない物質に満たされている(とされている)ように、人知で認識できる事象などはちっぽけなもので、それも常に変化している。
そんな諸行無常、諸法無我を仏陀が明らかにしたように、生命や宇宙さえ無に還ることも、無から始まることもないというのが現代物理学の観点でもあるようです。
@@ehikaru3502
私には浅はかな知識しかないので、あまり議論しても仕方ありませんが、物質がどうやって発生したのかは、まだ謎でしょう。
一説では、何も存在しないところで、135億年前にビッグバンが起き、初めて物質=エネルギーや、時間、空間が生じた,、とのことです。(サピエンス全史)
>諸行無常、諸法無我を仏陀が明らかにしたように、生命や宇宙さえ無に還ることも、無から始まることもない<
と言われましたが、仏教で言う色即是空という言葉は、全ては無に帰する、という意味と捉えますがどうでしょうか?
少なくとも、そう考えた方が、一切の迷い苦しみから逃れて、幸福な生き方ができるように思えます。
@@HappyLoser-z3k 色即是空は、同時に空即是色であるというのが仏陀の説いた真如。空とは無ではなく、因縁によって存在する現象にすぎないというものなので、その本質は我々が感じられずとも、たしかに存在していて、逆に我々が存在していると感じられるものも、けして恒常的なものではない、ゆえに空≒色であるという考えです。
何もないところから現象は起こりえないし、逆に無に帰するものでもないということを言っているのだと解釈します。
実際、我々の宇宙は136億年前に出来たとされていますが、現在は宇宙は無数にかつ永久的に生滅を繰り返してるマルチバース(多元宇宙論)説が台頭してきています。
もちろん我々がその真否を知ることはできませんが、仏陀はそのように説きました。
死ぬことを、語れる。のは、、菊谷しかいいない。
しかし、死ぬのは確実だと言われますが、今後科学が発展していけば疑問です。今は情報が全てぐらいの時代です。大金持ちなら自分の情報を保存し維持しようとするのではないでしょうか?
こんなに死を問い詰めさせるのは阿弥陀に念仏させるためですか?ならば、禅宗の僧侶はどうやって死の準備をするのでしょうか?釈尊は自力仏教でどう勧められたのでしょうか?私は主神を念じて、死を迎えます!もちろんその時良いところに生まれられると覚悟するから、心は明るいです。無明の闇なんてありません。😐最後にいえば、釈尊でも結局死にましたから、普通の死苦は誰しも避けられないものです。問題は死後の事ですよね。
熱心なクリスチャンだった国木田独歩氏は「祈れません」と泣きながら死んでいきました。貴氏は、自分の死を遠くで眺めておられるからそのように仰ることができるのではないでしょうか。
随分前に、確か禅宗の僧侶だったと記憶してますが、個人用核シェルターをつくっ
ったというのを写真週刊誌で見ました。金もあったんでしょう。僧侶だから悟れる
というもんではないですが、せめて俗人レベルの覚悟は持ってほしいと思います。
@@ワンゼロ-l5h 私はいつ死んでも暗い心など出てきません、虫のように安らかに死ぬだけです。現代は主神が変えてくださり、みな安楽死となりましたよ。たとえ身体が苦痛の時でも、精神は安らかです。無明の死苦などは昔のことです。他に断末魔の死苦も無くしてくださいました。20年程まえに変わりました。
@@康雄山本-e4w 返信ありがとうございます。貴氏が言われているみな安楽死になりましたよ、のみなとはだれですか。わたしは、そもそも断末魔だけの苦しみを問題にしているのではありません。断末魔だけの苦しみなら薬を使うことで解決しますからね。
@@ワンゼロ-l5h 皆さんとは人類八十億人です😐信じられますか❓️
寿限無。
死は確実で不確実、貴方はそれを知らなかったのですか?私は知っていましたけど、しかし死の事ばかり考えていたら人生が暗くなるばかりです、仏教で話すのは死の事ばかりですからね、全く人生が嫌になります。
ここだけの話、私は阿鼻地獄の主です。私が命じて造りました。無間地獄の主もしています。その私に言わせると、衆生が地獄へ堕ちるのも主神摂理から言えば意味がありますし、魂が学習することにもなります❗例えば、親を殺した人は無間地獄へ堕ちますが、阿弥陀がこういう人を救わなくてもよいのです。その他の悪人についても同様です。だから、後生は一大事だとあまり言わないでもらいたい。最後に、生死については焦らずに、繰り返せばいいと主神は考えている。動物でさえ落ち着いているのに、人間だけが死に際に慌てるというのはおかしいよね❗
みな流転輪廻の罪があるから、来世どこに生まれるか分からないというような危険さや不安さは無くなりましたよ❗これは10年程まえに私が治しました。また、本来釈尊のお弟子のような知恵のある方なら、自分が来世どうなるか大体分かるものです。それで死ぬ時も後生が不安にならないで落ち着いているのです。これを信忍とか悟忍とかいいます。
「死」は体験できない。なぜなら「生」の端っこ死の片側だから。「死に行く」は体験できる。ただし「死」と「死に行く」は違う。「死」は死ぬ人を周りから見て周りが作り出した概念。「死に行く」は実際に自分が死に向かうことを認識すること。自分の「死」は自分の人生に現れない。他人の人生には自分の死が現れる。だから自分の死を自分が恐れるなんて笑える。なぜなら存在しないものに怯えているからだ。存在しないのだから自分の人生に影響を何一つ及ぼせない。
そんなことしても仙腸関節は治らない!
話が古いなあ
ありがとうございます!
ありがとうございます!