Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
近鉄の歴史動画...まーだまだ続きます!!お前なんて初めて知ったわ!って方...良かったら「チャンネル登録」ってボタンを押してくれると、続き動画を出した時に、貴方のおすすめに見参できるはず...。わたくし、Reoと申しまして25歳の男性。音楽で生きていきたい、お絵かきが好きな鉄オタです。
楽しみです
頑張ってください!
700系は引退しちゃったのでレオくん鉄道の名前はレオくん鉄道700系新幹線コンビニ線に引き継いで今の名前はN700A新幹線コンビニ線です
雪崩何なにな
なねぬにニュースなど
こういうのを神動画って言うんだと思う。ほんといつもクラシックの使い方が神がかっている。参急のとこの歓喜の歌に痺れた。
毎日近鉄を利用しているものとして、この動画を見ての感動を抑えきれません。
以前大和川橋梁が傾いて不通になった時、道明寺線が超クローズアップされてたなぁ…2両であの人数輸送は無理ってくらい。翌日橋梁治ったこともダブルで驚いたけど。
やっぱ私鉄を語る上で小林一三氏って外せない存在なんだな、、、阪急民として感動した。
いやぁ、今回も面白かった!前回から引き続きやけど、なんか大軌(近鉄)の歴史は涙出てきそうになるくらい感動的です。近鉄がコロナで経営危機なんて話が出ているが、絶対に大軌の時みたいに復活して欲しいなって本当にそう思います!Reoさん、いつもどんなシリーズも俺たちを楽しませてくださってありがとうございます!次回も楽しみにしています!!!!
いや~大作だゎ。あっと言う間の1時間だった。Reoさんの動画は本当に見ていて飽きないし勉強になります。後編も楽しみにしてますよ😄
大鉄がコケた原因は穴虫峠でブレーキの欠陥による勾配区間を逆走して正面衝突する事故を起こしたのが原因で、実際事故が起こった翌年の1930年桜シーズンには久米寺乗り換えで吉野に行く乗客が圧倒的に増えて直通運転しているにも関わらず大鉄利用客が大幅に減ってます。この事故の真因は4両が限界の日本初の20メートル車で6両編成に増結すると言う無理ゲーです。
戦後、20㍍4扉車をなぜ一番最初に南大阪線に入れたのかが判りました(ラビットカー)。大鉄時代の心意気を合併後もちゃんと反映させているのだ…と。
後編がすごく楽しみですすぐそこ通ってる鉄道の歴史がこんなだとは‥
今回もクオリティ凄すぎます!パート③も楽しみにしています今までもこの歴史の恩恵を全面的に享受してきましたが、今後はこの動画リストを思い出しながら利用したいです
やっぱり近鉄は凄いわ。地元愛なんてまさしく、この鉄道会社のためにあるようなもんだと思います。沿線民とファンを大事にしてきた鉄道会社だけあるよ。それが今もなおイベントなどを通して感じれます。今度は名古屋線ですね。あまり知られてませんが名古屋延伸は近鉄だけじゃなく阪急も狙ってたからね。熾烈な戦いになるんだろうか?またそのあたりも楽しみにしてますね。
2:05カンペ見てるのかわいい。
仕事の兼ね合いでタイムリーでは見れませんでしたがやっと最後まで見ました。今回も壮大で胸が熱くなる話しありがとうございます。後編も楽しみにまっています。
前回と今回の近鉄誕生物語を世界に広めたいぐらい素晴らしいエピソードでした。次回作も楽しみにしています。
こういう歴史知ってからはもう近鉄に足向けて寝られへんわ...小さい頃から身近にあっただけに、こういう歴史を知るとまた近鉄への印象というものが違った形になりますね
見応えある一時間だった😁😁面白い
大軌やはり強すぎるけどええ奴やな😭👍各鉄道会社を吸収して大きな鉄道になる‼️そして、三重までも吸収(繋いで)しまうんですね。
何度でも見てしまう…最高!!
解説のクオリティがやっぱ凄いです…!後編も楽しみにしてます!
後編が本当に楽しみだ…
1:01:45大和延長線は誰も乗ってくれない…ってのは令和の今日まで実は引きずってるねぇ(南大阪線の運転系統は古市で分断されており、コロナ禍下の改正で遂に同駅から橿原神宮前間の普通が30分間隔に削減…平行して大阪線があるが故に、南大阪線の利用者は少なく沿線開発も進んでいない印象)
そして令和3年4月23日、さらなる減便に………
いつもお疲れ様です。楽しく見させていただき、1時間があっという間でした。あととしまえんに行きたくなりました。
内容が濃いからもう1回動画見ないと全て理解出来なさそうでしたけど楽しい動画でした。
ほんとに楽しみにしてました!近鉄大好きなので!
後編楽しみ
この度、動画をアップしてくれてありがとうございます。Reoさんの動画は、鉄道イラストという存在がとても良かったです。次回もよろしくおねがいします。
58:52あえて"オリックス"とも"近鉄"とも呼ばず"Buffalos"ってるところいいね👍
分かりやすくてスゴイ!近鉄が余計に好きになりましたw 今度の休みも乗りにいこっと♬
曳舟って言われてスカイツリーのお膝元が瞬時に浮かんだけど、アレは曳舟に使ってた上水の川だから曳舟川っていうのか!
前後編の長時間動画制作、お疲れさまでした。わたくしのような鉄道の知識がない人でも理解しやすい面白い動画でした。ch登録させていただきます
お疲れ様でしたーまだ三重進出を果たす前に中編終わり大作ですな~
まだ"第1話"ですしね
田原本線近鉄が伊勢湾口にトンネル掘って豊鉄の田原まで繋げる本線だと思い込んでたわ近鉄ならやりかねないと思っていた
近鉄は昔から手を抜かない経営努力が実を結んたと思います。何せ日本制覇を目的に考えて居るだけの事が有り抜かり無い経営努力をして今に見る日本一の大手私鉄を作り上げたのは流石だと思います。
毎度クオリティーが高くてとても面白いです。よく関東の私鉄でいうと東武が似ている感じがしますが、歴史の歩み方は規模こそ違うものの西武の方が似ているかもとは思いました。
31:42辺り参宮急行電鉄登場と第九の取り合わせで”おおおおおーーー”って声が出た。
待ってましたあ〜💕
本当に小学生でもわかりやすかったです
楽しみしてました。Tシャツ家族の分も買いましたよ。
昭和恐慌は、関東では東武線の西板線(西新井~常盤台)の断念(西新井~大師前に縮小)と常盤台開発に影響しましたよね。(他の理由もありますけどね)
田原本町民です。 こんな歴史があったとは・・・・めっちゃ面白かったです(*´∇`*)
やぱ最高だよ、このチャンネル。
とても素晴らしい動画でした!それでは2回行ってきます♪
ただ、素晴らしい、面白い、かわいい☺️
イッキ見中ですが、ここの主さんはマクロ経済もかなり正しく理解しているご様子。もっと再生回数伸びてほしい大作。
南海民ですが、面白い!続きを楽しみにしています。
待ってました!!
鉄道だけで無く沿線整備等も分かりやすくて良いですね。関東では五島(強盗)慶太VS堤(ピストル)康次郎ですが、こちらは関東だけで無く、伊豆箱根、北海道、渋谷等の鉄道、有料道路、ホテル、観光、デパート、不動産の戦いが凄かったですからね。
うちのばあさま(明治中期の田原本生まれ)は「だいてつ」と言ってました 奈良線が「だいき」大阪線が「か(さ)んきゅう」だったか。聞くの面倒くさがらずにもっと昔の話聞いとけば良かった(30年以上前の話だけど)orz
なるほど、鉄道会社の株主の買収は歴史や経緯によって成り立っているということか。最初は大和鉄道が有利だったのが、さらにより株が有利な大軌がトップだった…。あまりにも株が非常に有利だった大軌がどんどん快進撃を続け、それが後の近鉄の原型となったわけだ。伊賀鉄道もかつては貨物需要があった理由で生まれた経緯があったのは驚いた!ちなみに、地元の西武鉄道を支えた堤氏も、かつては近江鉄道の社長だったから、近江鉄道も現在の西武鉄道の原点みたいなものかな
こんばんは、編集お疲れ様です
福岡おった
京都おった
お久しぶりです
どこでもいますな
南大阪族もかわいい!
エヘヘやっぱ700系くん出てきたか。
700系くんの(ブサイク)って言うと700系くんに(ぶん殴るぞ)と言っちゃうのが700系くんの悪いとこ、それに比べてN700Aは(ぶん殴るぞ)と言わないところがN700Aの良いところ、つまりN700Aは○力を振るわないんだよー
買い変わらず、この動画も勉強させてもらっています。きまつぃ県に出るといいなあ、っておもいました
1時間があっという間でした!いや〜、面白かった。近鉄、つか大軌の戦略ってすごいスケールだったんですね。五島慶太や堤康次郎が小僧に見えますな。もし大軌が東京で暴れてくれてたら今頃西武も東急も飲み込んでたでしょうね。東武は...ちょっとわかりませんな。あそこはあそこで謎のスケール感とスピード感があるから。
関東は五島(強盗)慶太VS堤(ピストル)康次郎ですが、場外乱闘がすごいですからね。箱根+伊豆(伊豆急vs伊豆箱根)、北海道、渋谷戦争等ではホテルやバス、デパート、有利道路の争奪戦が多かったですよね。西武東急は本にもなっていますよね。
①から連続で見ました。文字通りの神動画です!次回も絶対見ます。あと、チャンネル登録させて頂きました。
近鉄は、奈良県と南大阪の覇権を握った。しかしその地は、古墳と遺跡で、住宅開発ができない土地だった。
近鉄のBGNなら、ドナウ川の漣とかいいかも近鉄好きやわ
最後はアニーローリーで閉めてほしい(大阪難波ユーザー)
くっそー。夏休み最長片道切符の旅してる時、最寄り駅でTシャツ着て会いに行こうと思ったのに…また計画し直しですけど、会えることを楽しみにしてます。
沿線の大井川鐵道(大鐵)でいまだに走り続ける16000系初期編成のルーツ、南大阪線について少し詳しく慣れた気がします!
世が世なら大鉄(大阪鉄道)→大鐵(大井川)ですね。
地元民です、知らない事もあって面白かった。56:10あたりの誤字×(アメリカが勝ってくれない・・・)○(アメリカが買ってくれない・・・)
大鉄の伊勢延長構想は桜井〜大宇陀〜高見峠〜松阪〜伊勢神宮となっており、桜井〜大宇陀間は大宇陀鉄道と言う未成線を活用する予定でした。
49:37 布団に入ってこの動画を見て、うとうとしてきたときに、ここの「じゃーん」でビクッとして目が覚めた人(*´∀`*)ノ ハーイ
近鉄すげぇな、頭良すぎる、多分俺ならさっさと諦めてると思う
古市のなんか絶妙なギャグで吹いたwww
又金森氏は新技術の導入にも積極的で大鉄にもない、当時は新京阪や阪和、大阪市しか持たないU型ブレーキ弁と言う長大編成用の自動空気ブレーキ装備(これが無い大鉄は勾配区間で後退事故を起こしている)や新京阪や同じく勾配区間を抱える阪和さえ持っていない軽量型台枠の電車を採用二等車レベルの固定クロスシートを採用し京阪電鉄が600型で採用したこれ又二等車レベルの転換クロスシートはシート転換機構を省略して重量をへらすために採用してません。流石に増備型は橿原神宮に天皇が参拝する御召し列車の供奉車兼牽引車としての使用(供奉車は二等車レベル以上)を大義名分として転換クロスシート装備にしています。
うぽつ!
37:08からちょびっとだけ紹介されてる蒸気動車ですが、愛知県のリニア・鉄道館に鉄道院時代の車輌が展示されていますちなみに国の重要文化財指定受けてます
桜井在住です!
地元なのに知らなかったです。面白かったですし勉強になりました。
続編が楽しみです。
東への鉄路を読んでいると大軌/参急は名古屋開通までは経営が火の車で気合と情熱は人一倍で乗り越えている印象だったが、周囲の目から見ると強力なインベーダーの如くだな;
そもそも経営火の車のままで拡大なんかできるわけないのです大軌という会社が信用あってこそ、参急も設立できたわけで
@@asakazefuji ま、そりゃそうだ。
すごく勉強になります。志摩市に住んでますが小さい頃あやめが池遊園地に行ってました。親戚が近鉄に勤めてたので・・・券もらってました
僕、小学生ですけどむちゃくちゃ分かりやすいです
48:57近鉄サイコロ、、、になってで草
とは言え大阪教育大学混声合唱団さんが演奏会を行う時も柏原駅か至近の安堂駅を使うので柏原南口駅はまず使わないんだよね。
次は伊勢電気鉄道とのガチバトルの話ですね?
国「大和鉄道に免許交付したるわ。これで大軌も手も足も出せまい。完璧である。」大軌「フッ、甘いな」国「ぬあにぃぃぃぃ!大和鉄道の株式比率がぁぁぁぁぁ!」大軌「あンた」国「何だよ」大軌「背中が煤けてるぜ」後年。国鉄伊勢線が開通するも矢張閑古鳥近鉄「あンた」国「何だよ」近鉄「やはり背中が煤けてるぜ」
動画制作・投稿お疲れ様です。伊勢は明治期に関西鉄道,参宮鉄道(後の関西本線,参宮線)によって鉄道が繋がり,1920(大正9)年から1952(昭和27)年までは伊勢神宮が国道1号の終点となるなど,交通網の整備が早くから進められており,その事からも伊勢神宮の重要性をうかがい知ることが出来ます。以下,修正が必要と思われる箇所です。(補足事項は長くなってしまったので返信欄に別途コメントします)○修正が必要と思われる箇所18:58 鉄道省時代の参宮線について「亀山~多気間:紀勢本線,多気~山田間:参宮線」↓「亀山~鳥羽間:参宮線」本編の路線図では,亀山~多気間が紀勢本線とされていますが,同区間が紀勢本線の所属となったのは紀勢本線が全通した1959年の事であり,それ以前は参宮線に所属していました。また鉄道省となった1920年時点では,既に山田(現:伊勢市)~鳥羽間が開通しています。(山田~鳥羽間は1911年に開通)次回はいよいよ三重方面の近鉄路線の解説になりますね。名伊間の鉄道を巡る戦いや鉄道省の払い下げだった木曾三川の橋梁,近鉄名古屋駅と中京地区を代表するあの鉄道との関係など興味深い話が多く,次回の動画でどのように解説されるのかが非常に楽しみです。
○補足37:07 初瀬鉄道と河南鉄道の蒸気動車たち初瀬鉄道(→長谷鉄道→大阪電気軌道長谷線)は1909年の開業時に汽車会社製の蒸気動車を4両導入しました。(キ1~キ4)これらは同年に開発されたばかりの工藤式蒸気動車というタイプの蒸気動車で,初瀬鉄道がその最初の導入例となりました。この初瀬鉄道の蒸気動車は,古いアメリカ製蒸気機関車(官設幌内鉄道の義経号・弁慶号(後の国鉄7100形蒸気機関車)など)で見られるようなカウキャッチャーと呼ばれる大型の排障器を付けていたのが特徴でした。1930年には日本車輌製のガソリンカーが導入され,蒸気動車は置き換えられますが,その内の1両(キ1)は北海道の余市臨港軌道(キハ1),千葉の小湊鉄道と渡り歩き,1952年まで活躍しました。(なお小湊鉄道では当初,そのまま蒸気動車(キハ1)として使用されていましたが,間もなく蒸気機関を外して客車(ホハフ3)とする改造が行われています。)一方,近鉄道明寺線・長野線・南大阪線のルーツとなった河南鉄道(旧河陽鉄道,後の大阪鉄道(2代目))でも蒸気動車が活躍していました。河南鉄道では1909年にガンツ式蒸気動車が1両(ろは2)導入され,その後,工藤式蒸気動車が1911年に2両(ろは3,ろは4),1913年に2両(ろは5,ろは6)導入されています。初瀬鉄道や河南鉄道が採用した工藤式蒸気動車は鉄道院(後の鉄道省)でも採用され,日本の蒸気動車の中でも比較的普及した車両となりました。その内の1両である鉄道院ホジ6005形ホジ6014号は日本に唯一現存する蒸気動車として,愛知県名古屋市の金城ふ頭にあるリニア・鉄道館に保存され,現在は国の重要文化財となっています。また横浜の原鉄道模型博物館には,初瀬鉄道の蒸気動車を再現した比較的大きな縮尺の模型が収蔵されています。45:20 五位堂と生駒に眠る大阪電気軌道創業時の電車大阪電気軌道は1914年の上本町~大軌奈良間開業時に,生駒の急勾配にも対応できる当時としては大出力なモーターを搭載した電車を用意しました。この車両が大阪電気軌道デボ1形と呼ばれる車両で,5枚の窓が並ぶ丸い前面とダブルルーフの屋根,屋根明り取り部の水雷(トルペード)型通風器が特徴的な車体長14m級,片側三扉の木造車体の電車です。登場当初は,集電装置がトロリーポールで奈良市内の併用軌道区間に対応するために前面に救助網を備え,前照灯も前面窓下に装備するなど,路面電車から発展した本家アメリカのインターアーバンを彷彿とさせるスタイルでした。この大軌デボ1形は18両製造され,同型車のデボ19形も合わせて28両存在しました。同形式はその後幾つかの改造を受け,大軌から近鉄となった後も活躍を続けています。事故により数を減らしながらも,1950年の形式称号整理で同型のデボ19形と共にモ200形と改番され,その後1964年に引退し全車廃車となりました。1964年の引退後,最も原型に近かったモ212号(旧デボ14号)がデボ1号として近鉄玉川工場(同工場は1982年に機能を五位堂検修車庫に移管して閉鎖)にて復元され,近鉄あやめ池遊園地に保存されました。2004年の近鉄あやめ池遊園地閉園後は五位堂検修車庫で保存されています。大軌デボ1形の保存車はこの五位堂のデボ1号(デボ14号)が知られていますが,近鉄に縁深い生駒の地にも,もう1両存在します。それが近鉄モ203号(旧大軌デボ3号)で,こちらはほぼ引退時の姿で保存されています。なおこの車両は保存状況や周囲の様子から,私有地に置かれた個人所有の車両である可能性が高く,不用意に近付くと不法侵入となる可能性があります。そのような事情もあってか,保存車両がまとめられた資料でも記載されていない事が多い車両となっています。52:05,59:39 長生きだった大阪鉄道のエポックメイキングな電車たち現在の近鉄には一般用車両を中心に長寿な車両が多く存在していますが,日本初の1500V電化や20m級車体の採用など,当時としては画期的な車両だった大阪鉄道の車両も,様々な改造を受けながら長期間活躍していました。大阪鉄道デイ1形(52:05)は大阪鉄道の1500V電化に際して1923年に13両が製造された電車で,当初より菱形パンタグラフや自動連結器を装備し,当時の関西私鉄で多く見られたスタイルの5枚の窓が並んだ丸い前面にシングルルーフの木造15m級車体という車両でした。このデイ1形は1943年に大阪鉄道が関西急行鉄道(後の近畿日本鉄道,旧大阪電気軌道)に合併された際にモ5601形と改称されます。その後,火災からの復旧時に鋼体化された3両がモ5631形となり,残りの10両は戦後の1955年に鋼体化されモ5801形となりました。(なおモ5801形は車両により前面形状が異なっていた他,一部の車両は1969年に再度改造されスタイルが変わっています)このデイ1形にルーツを持つ車両はその後も南大阪線で運行され,一部の車両は戦後に運転を開始した大阪阿部野橋~吉野間の快速(後に不定期有料特急化)「かもしか」号でも使用されました。1970年には南大阪線の車両大型化に伴って養老線に転出しますが,老朽化と他線区からの戦後製20m級車転入により,モ5631形・モ5801形共に1979年に引退しました。大阪鉄道デニ500形(59:39)は吉野鉄道との直通運転に向けて1928年より製造された電車で,日本で初めて20m級車体を採用した電車となりました。(なお20m級車体自体は大正時代には鉄道院の客車で採用されていました。その鉄道省(旧鉄道院)の電車では1930年製造のモハ32系列の付随車から20m級車体が採用されています。)1930年までに電動車のデニ501形が35両,制御車のフイ601形が15両,荷物室付き電動車のデホニ551形が7両,郵便室付き電動車のデホユ561形が3両の合計60両が製造されますが,この60両もの大量増備は大阪鉄道の経営を苦しめる要因ともなりました。デニ500形のグループは1943年の関急合併時に,それぞれモ6601形(旧デニ501形),ク6671形(旧フイ601形),モニ6651形(旧デホニ551形),モユ6661形(旧デホユ661形)と改称されました。この旧大鉄デニ500形グループは20m級車体で輸送力が大きく,60両とまとまった数が居たことから長く南大阪線系統の主力として活躍,戦後には乗降扉の増設が行われています。その後,老朽化が進み後継車両が登場すると道明寺線などの支線のみの運行に使われるようになり,1975年までには全車が引退しました。なお,近鉄では先の2形式ほど長命ではありませんでしたが,第二の車生を送った先でつい最近まで運行されていた車両も存在しました。それがデイ1形の増備車として製造され,大阪鉄道初の半鋼製車となったデロ20形です。大阪鉄道デロ20形は1943年の関急合併時にモ5621形と改称され,モ5621~5624(旧デロ21~24)は南大阪線の不定期有料特急「かもしか」号用としてク5421形(2代目,元伊勢電気鉄道デハニ231形)を改造したモ5820形に電装品を譲り1960年に廃車,残りのモ5625~5627はその後も南大阪線系統で活躍を続け,晩年には手荷物列車用となり,1969年に引退しています。このモ5820形に電装品を譲ったモ5621~5624(デロ21~24)の車体は高松琴平電気鉄道に譲渡され,同社の20形(3代目,21~24)となりました。琴電譲渡時に特徴的だった5枚窓の丸い前面から3枚窓の平たい貫通扉付きの前面に改造され,その後も更新工事などで大阪鉄道時代の面影は薄れていきましたが,このうちの23号は更新工事が他の車両より早くに行われたこともあり,ニス塗りや客用扉脇の飾り柱など内装に原型を残した部分が多く見られました。そのため2006年に他の20形が廃車となる中,23号は動態保存車として残され,琴電生え抜きの車両たちと共に「レトロ電車」として運行されることとなりました。残念ながら2020年9月に引退となりましたが,現在は香川県高松市のNPO法人に引き取られ,お遍路さんの休憩所として保存活用されています。(2022/01/05 蒸気動車に関する情報を追記)
近鉄特急といえば、12200系車両に当たることが多かったですね!1977年頃には「スナックコーナー」も営業していたような…
本日もエコーが暴走してらっしゃる
41:01 京成は営団と国鉄にぶんどられましたからね
休みの日に鉄道乗るだけで満足できる民✋
大和鉄道が、西田原本から桜井へ延伸していたということは、近鉄橿原線をオーバークロスしたってことでしょうか?まさか平面クロスじゃないよね?
国鉄も手をこまねいていた訳ではなく参宮急行開業後、参宮急行が直通運転していない京都ルートに目をつけ、大阪から京都経由で食堂車付き快速列車を神戸発の高速準急として運行してます。参宮急行の弱点は天皇家ゆかりの施設が多い古都京都と言う大阪や港湾都市神戸、同じ古都の奈良、と言う大阪に次ぐ需要を持つ都市とは直通していない事です。これが完全に解消するのは別会社で大軌とはあまり仲の良く無かった(過去に第二京阪線で対立があった)阪神電気鉄道との直通運転が出来た2009年です。又関西本線は奈良ルートを独占してしぶとく生き残ってます。
すでにこの時点で奈良電気鉄道により今の京都線ができていましたが直通したのは1960年代になりますからねえ車両規格に電圧の差など問題点がかなりあったようです
リクエストです西武鉄道の歴史やって下さい!
近鉄きたーーーー!!!(でたー!!阪急ーーーー!!)
安定の長さ
大阪鉄道は、「伸びんがためにチジムノデアリます!」の犠牲企業なんだ!
宝山寺駅に降りて一泊(発)してから宝山寺詣でするのが世の常
58:53バッファローズやおまへん。バファローズでんがな
42:10この時代、戦後も90年代初めまでは土曜日は半ドンだったのでレジャーとなると日曜日だけでは?そんなたまの休みにその鉄道線内でお客様を囲い込もうとするのが当時の私鉄の考え方だったのかと思います。
あの、Reoさんのアレンジ音源、配信とかしてほしいです。CDにするのはお金かかると思いますけどストリーミングサービスとかあったらうれしいっす
他の方の動画で見たけど生々しく人間臭い戦いをどう纏めてくれるのか楽しみです。
志摩市にある 志摩スペイン村も近鉄レジャーサービス株式会社が運営してたんですね😅 この動画のレジャー話で調べたら近鉄でした。
国より地元の人間が動いた方が小回り効いたんだろうなぁ。行動が早くなる理由はなんとなくわかるよ。金持ちな電鉄会社でも、金欠バファローズはホントに金欠だった🤣🤣
プロ野球でも、80年代は西武と近鉄がライバルでしたね。
芝政ワールドw 40:35
もう次が楽しみで仕方ないwww 昔、高校生時代に学校サボって、あちこち乗り倒してたもんなぁwwwそれが、こんなドラマのおかげで実現できてたのかと思うと、改めて考えるものがあります^^ ただ・・・あれだけ長距離乗り倒して、終点折り返しで帰ってきたのに、『乗車券拝見します』て言われなかったなぁと・・・もう何十年も昔の話、自動改札もまだまだない時代だからこそのお話だから、許してね(;´∀`)
近鉄の歴史動画...まーだまだ続きます!!
お前なんて初めて知ったわ!って方...良かったら「チャンネル登録」ってボタンを押してくれると、続き動画を出した時に、貴方のおすすめに見参できるはず...。
わたくし、Reoと申しまして25歳の男性。音楽で生きていきたい、お絵かきが好きな鉄オタです。
楽しみです
頑張ってください!
700系は引退しちゃったので
レオくん鉄道の名前は
レオくん鉄道
700系新幹線コンビニ線
に引き継いで
今の名前はN700A新幹線コンビニ線です
雪崩何なにな
なねぬにニュースなど
こういうのを神動画って言うんだと思う。
ほんといつもクラシックの使い方が神がかっている。参急のとこの歓喜の歌に痺れた。
毎日近鉄を利用しているものとして、この動画を見ての感動を抑えきれません。
以前大和川橋梁が傾いて不通になった時、道明寺線が超クローズアップされてたなぁ…2両であの人数輸送は無理ってくらい。翌日橋梁治ったこともダブルで驚いたけど。
やっぱ私鉄を語る上で小林一三氏って外せない存在なんだな、、、
阪急民として感動した。
いやぁ、今回も面白かった!
前回から引き続きやけど、なんか大軌(近鉄)の歴史は涙出てきそうになるくらい感動的です。
近鉄がコロナで経営危機なんて話が出ているが、絶対に大軌の時みたいに復活して欲しいなって本当にそう思います!
Reoさん、いつもどんなシリーズも俺たちを楽しませてくださってありがとうございます!
次回も楽しみにしています!!!!
いや~大作だゎ。
あっと言う間の1時間だった。
Reoさんの動画は本当に見ていて飽きないし勉強になります。
後編も楽しみにしてますよ😄
大鉄がコケた原因は
穴虫峠でブレーキの欠陥による勾配区間を逆走して正面衝突する事故を起こしたのが原因で、実際事故が起こった翌年の1930年桜シーズンには久米寺乗り換えで吉野に行く乗客が圧倒的に増えて直通運転しているにも関わらず大鉄利用客が大幅に減ってます。
この事故の真因は
4両が限界の日本初の20メートル車で6両編成に増結すると言う無理ゲーです。
戦後、20㍍4扉車をなぜ一番最初に南大阪線に入れたのかが判りました(ラビットカー)。大鉄時代の心意気を合併後もちゃんと反映させているのだ…と。
後編がすごく楽しみです
すぐそこ通ってる鉄道の歴史がこんなだとは‥
今回もクオリティ凄すぎます!パート③も楽しみにしています
今までもこの歴史の恩恵を全面的に享受してきましたが、今後はこの動画リストを思い出しながら利用したいです
やっぱり近鉄は凄いわ。地元愛なんてまさしく、この鉄道会社のためにあるようなもんだと思います。沿線民とファンを大事にしてきた鉄道会社だけあるよ。それが今もなおイベントなどを通して感じれます。今度は名古屋線ですね。あまり知られてませんが名古屋延伸は近鉄だけじゃなく阪急も狙ってたからね。熾烈な戦いになるんだろうか?またそのあたりも楽しみにしてますね。
2:05カンペ見てるのかわいい。
仕事の兼ね合いでタイムリーでは見れませんでしたがやっと最後まで見ました。
今回も壮大で胸が熱くなる話しありがとうございます。
後編も楽しみにまっています。
前回と今回の近鉄誕生物語を世界に広めたいぐらい素晴らしいエピソードでした。次回作も楽しみにしています。
こういう歴史知ってからはもう近鉄に足向けて寝られへんわ...
小さい頃から身近にあっただけに、こういう歴史を知るとまた近鉄への印象というものが違った形になりますね
見応えある一時間だった😁😁面白い
大軌やはり強すぎるけどええ奴やな😭👍
各鉄道会社を吸収して大きな鉄道になる‼️
そして、三重までも吸収(繋いで)しまうんですね。
何度でも見てしまう…最高!!
解説のクオリティがやっぱ凄いです…!
後編も楽しみにしてます!
後編が本当に楽しみだ…
1:01:45
大和延長線は誰も乗ってくれない…
ってのは令和の今日まで実は引きずってるねぇ
(南大阪線の運転系統は古市で分断されており、コロナ禍下の改正で遂に同駅から橿原神宮前間の普通が30分間隔に削減…平行して大阪線があるが故に、南大阪線の利用者は少なく沿線開発も進んでいない印象)
そして令和3年4月23日、さらなる減便に………
いつもお疲れ様です。
楽しく見させていただき、1時間があっという間でした。
あととしまえんに行きたくなりました。
内容が濃いからもう1回動画見ないと
全て理解出来なさそうでしたけど
楽しい動画でした。
ほんとに楽しみにしてました!
近鉄大好きなので!
後編楽しみ
この度、動画をアップしてくれてありがとうございます。Reoさんの動画は、鉄道イラストという存在がとても良かったです。次回もよろしくおねがいします。
58:52あえて"オリックス"とも"近鉄"とも呼ばず"Buffalos"ってるところいいね👍
分かりやすくてスゴイ!近鉄が余計に好きになりましたw 今度の休みも乗りにいこっと♬
曳舟って言われてスカイツリーのお膝元が瞬時に浮かんだけど、アレは曳舟に使ってた上水の川だから曳舟川っていうのか!
前後編の長時間動画制作、お疲れさまでした。わたくしのような鉄道の知識がない人でも理解しやすい面白い動画でした。ch登録させていただきます
お疲れ様でしたー
まだ三重進出を果たす前に中編終わり
大作ですな~
まだ"第1話"ですしね
田原本線
近鉄が伊勢湾口にトンネル掘って豊鉄の田原まで繋げる本線だと思い込んでたわ
近鉄ならやりかねないと思っていた
近鉄は昔から手を抜かない経営努力が実を結んたと思います。何せ日本制覇を目的に考えて居るだけの事が有り抜かり無い経営努力をして今に見る日本一の大手私鉄を作り上げたのは流石だと思います。
毎度クオリティーが高くてとても面白いです。
よく関東の私鉄でいうと東武が似ている感じがしますが、歴史の歩み方は規模こそ違うものの西武の方が似ているかもとは思いました。
31:42辺り参宮急行電鉄登場と第九の取り合わせで”おおおおおーーー”って声が出た。
待ってましたあ〜💕
本当に小学生でもわかりやすかったです
楽しみしてました。Tシャツ家族の分も買いましたよ。
昭和恐慌は、関東では東武線の西板線(西新井~常盤台)の断念(西新井~大師前に縮小)と常盤台開発に影響しましたよね。(他の理由もありますけどね)
田原本町民です。 こんな歴史があったとは・・・・めっちゃ面白かったです(*´∇`*)
やぱ最高だよ、このチャンネル。
とても素晴らしい動画でした!
それでは2回行ってきます♪
ただ、素晴らしい、面白い、かわいい☺️
イッキ見中ですが、ここの主さんはマクロ経済もかなり正しく理解しているご様子。もっと再生回数伸びてほしい大作。
南海民ですが、面白い!続きを楽しみにしています。
待ってました!!
鉄道だけで無く沿線整備等も分かりやすくて良いですね。
関東では五島(強盗)慶太VS堤(ピストル)康次郎ですが、こちらは関東だけで無く、伊豆箱根、北海道、渋谷等の鉄道、有料道路、ホテル、観光、デパート、不動産の戦いが凄かったですからね。
うちのばあさま(明治中期の田原本生まれ)は「だいてつ」と言ってました 奈良線が「だいき」大阪線が「か(さ)んきゅう」だったか。聞くの面倒くさがらずにもっと昔の話聞いとけば良かった(30年以上前の話だけど)orz
なるほど、鉄道会社の株主の買収は歴史や経緯によって成り立っているということか。最初は大和鉄道が有利だったのが、さらにより株が有利な大軌がトップだった…。あまりにも株が非常に有利だった大軌がどんどん快進撃を続け、それが後の近鉄の原型となったわけだ。伊賀鉄道もかつては貨物需要があった理由で生まれた経緯があったのは驚いた!
ちなみに、地元の西武鉄道を支えた堤氏も、かつては近江鉄道の社長だったから、近江鉄道も現在の西武鉄道の原点みたいなものかな
こんばんは、編集お疲れ様です
福岡おった
京都おった
見応えある一時間だった😁😁面白い
お久しぶりです
どこでもいますな
南大阪族もかわいい!
エヘヘ
やっぱ700系くん出てきたか。
700系くんの(ブサイク)って言うと
700系くんに(ぶん殴るぞ)と言っちゃうのが700系くんの悪いとこ、それに比べてN700Aは(ぶん殴るぞ)と言わないところがN700Aの良いところ、つまり
N700Aは○力を振るわないんだよー
買い変わらず、この動画も勉強させてもらっています。きまつぃ県に出るといいなあ、っておもいました
1時間があっという間でした!いや〜、面白かった。近鉄、つか大軌の戦略ってすごいスケールだったんですね。五島慶太や堤康次郎が小僧に見えますな。もし大軌が東京で暴れてくれてたら今頃西武も東急も飲み込んでたでしょうね。東武は...ちょっとわかりませんな。あそこはあそこで謎のスケール感とスピード感があるから。
関東は五島(強盗)慶太VS堤(ピストル)康次郎ですが、場外乱闘がすごいですからね。箱根+伊豆(伊豆急vs伊豆箱根)、北海道、渋谷戦争等ではホテルやバス、デパート、有利道路の争奪戦が多かったですよね。西武東急は本にもなっていますよね。
①から連続で見ました。
文字通りの神動画です!次回も絶対見ます。
あと、チャンネル登録させて頂きました。
近鉄は、奈良県と南大阪の覇権を握った。しかしその地は、古墳と遺跡で、住宅開発ができない土地だった。
近鉄のBGNなら、ドナウ川の漣とかいいかも
近鉄好きやわ
最後はアニーローリーで閉めてほしい(大阪難波ユーザー)
くっそー。夏休み最長片道切符の旅してる時、最寄り駅でTシャツ着て会いに行こうと思ったのに…
また計画し直しですけど、会えることを楽しみにしてます。
沿線の大井川鐵道(大鐵)でいまだに走り続ける16000系初期編成のルーツ、南大阪線について少し詳しく慣れた気がします!
世が世なら大鉄(大阪鉄道)→大鐵(大井川)ですね。
地元民です、知らない事もあって面白かった。56:10あたりの誤字
×(アメリカが勝ってくれない・・・)
○(アメリカが買ってくれない・・・)
大鉄の伊勢延長構想は
桜井〜大宇陀〜高見峠〜松阪〜伊勢神宮
となっており、桜井〜大宇陀間は大宇陀鉄道と言う未成線を活用する予定でした。
49:37 布団に入ってこの動画を見て、うとうとしてきたときに、ここの「じゃーん」でビクッとして目が覚めた人(*´∀`*)ノ ハーイ
近鉄すげぇな、頭良すぎる、多分俺ならさっさと諦めてると思う
古市のなんか絶妙なギャグで吹いたwww
又金森氏は新技術の導入にも積極的で
大鉄にもない、当時は新京阪や阪和、大阪市しか持たない
U型ブレーキ弁と言う長大編成用の自動空気ブレーキ装備(これが無い大鉄は勾配区間で後退事故を起こしている)や
新京阪や同じく勾配区間を抱える阪和さえ持っていない
軽量型台枠の電車を採用
二等車レベルの固定クロスシートを採用し
京阪電鉄が600型で採用したこれ又二等車レベルの転換クロスシートは
シート転換機構を省略して重量をへらす
ために採用してません。
流石に増備型は
橿原神宮に天皇が参拝する御召し列車の供奉車兼牽引車としての使用(供奉車は二等車レベル以上)を大義名分として転換クロスシート装備にしています。
うぽつ!
37:08からちょびっとだけ紹介されてる蒸気動車ですが、愛知県のリニア・鉄道館に鉄道院時代の車輌が展示されています
ちなみに国の重要文化財指定受けてます
桜井在住です!
地元なのに知らなかったです。面白かったですし勉強になりました。
続編が楽しみです。
東への鉄路を読んでいると大軌/参急は名古屋開通までは経営が火の車で気合と情熱は人一倍で乗り越えている印象だったが、周囲の目から見ると強力なインベーダーの如くだな;
そもそも経営火の車のままで拡大なんかできるわけないのです
大軌という会社が信用あってこそ、参急も設立できたわけで
@@asakazefuji ま、そりゃそうだ。
すごく勉強になります。志摩市に住んでますが小さい頃あやめが池遊園地に行ってました。親戚が近鉄に勤めてたので・・・券もらってました
僕、小学生ですけどむちゃくちゃ分かりやすいです
48:57近鉄サイコロ、、、になってで草
とは言え
大阪教育大学混声合唱団さんが演奏会を行う時も柏原駅か至近の安堂駅を使うので
柏原南口駅はまず使わないんだよね。
次は伊勢電気鉄道とのガチバトルの話ですね?
国「大和鉄道に免許交付したるわ。これで大軌も手も足も出せまい。完璧である。」
大軌「フッ、甘いな」
国「ぬあにぃぃぃぃ!大和鉄道の株式比率がぁぁぁぁぁ!」
大軌「あンた」
国「何だよ」
大軌「背中が煤けてるぜ」
後年。国鉄伊勢線が開通するも矢張閑古鳥
近鉄「あンた」
国「何だよ」
近鉄「やはり背中が煤けてるぜ」
動画制作・投稿お疲れ様です。
伊勢は明治期に関西鉄道,参宮鉄道(後の関西本線,参宮線)によって鉄道が繋がり,1920(大正9)年から1952(昭和27)年までは伊勢神宮が国道1号の終点となるなど,交通網の整備が早くから進められており,その事からも伊勢神宮の重要性をうかがい知ることが出来ます。
以下,修正が必要と思われる箇所です。
(補足事項は長くなってしまったので返信欄に別途コメントします)
○修正が必要と思われる箇所
18:58 鉄道省時代の参宮線について
「亀山~多気間:紀勢本線,多気~山田間:参宮線」
↓
「亀山~鳥羽間:参宮線」
本編の路線図では,亀山~多気間が紀勢本線とされていますが,同区間が紀勢本線の所属となったのは紀勢本線が全通した1959年の事であり,それ以前は参宮線に所属していました。
また鉄道省となった1920年時点では,既に山田(現:伊勢市)~鳥羽間が開通しています。(山田~鳥羽間は1911年に開通)
次回はいよいよ三重方面の近鉄路線の解説になりますね。
名伊間の鉄道を巡る戦いや鉄道省の払い下げだった木曾三川の橋梁,近鉄名古屋駅と中京地区を代表するあの鉄道との関係など興味深い話が多く,次回の動画でどのように解説されるのかが非常に楽しみです。
○補足
37:07 初瀬鉄道と河南鉄道の蒸気動車たち
初瀬鉄道(→長谷鉄道→大阪電気軌道長谷線)は1909年の開業時に汽車会社製の蒸気動車を4両導入しました。(キ1~キ4)
これらは同年に開発されたばかりの工藤式蒸気動車というタイプの蒸気動車で,初瀬鉄道がその最初の導入例となりました。
この初瀬鉄道の蒸気動車は,古いアメリカ製蒸気機関車(官設幌内鉄道の義経号・弁慶号(後の国鉄7100形蒸気機関車)など)で見られるようなカウキャッチャーと呼ばれる大型の排障器を付けていたのが特徴でした。
1930年には日本車輌製のガソリンカーが導入され,蒸気動車は置き換えられますが,その内の1両(キ1)は北海道の余市臨港軌道(キハ1),千葉の小湊鉄道と渡り歩き,1952年まで活躍しました。
(なお小湊鉄道では当初,そのまま蒸気動車(キハ1)として使用されていましたが,間もなく蒸気機関を外して客車(ホハフ3)とする改造が行われています。)
一方,近鉄道明寺線・長野線・南大阪線のルーツとなった河南鉄道(旧河陽鉄道,後の大阪鉄道(2代目))でも蒸気動車が活躍していました。
河南鉄道では1909年にガンツ式蒸気動車が1両(ろは2)導入され,その後,工藤式蒸気動車が1911年に2両(ろは3,ろは4),1913年に2両(ろは5,ろは6)導入されています。
初瀬鉄道や河南鉄道が採用した工藤式蒸気動車は鉄道院(後の鉄道省)でも採用され,日本の蒸気動車の中でも比較的普及した車両となりました。
その内の1両である鉄道院ホジ6005形ホジ6014号は日本に唯一現存する蒸気動車として,愛知県名古屋市の金城ふ頭にあるリニア・鉄道館に保存され,現在は国の重要文化財となっています。
また横浜の原鉄道模型博物館には,初瀬鉄道の蒸気動車を再現した比較的大きな縮尺の模型が収蔵されています。
45:20 五位堂と生駒に眠る大阪電気軌道創業時の電車
大阪電気軌道は1914年の上本町~大軌奈良間開業時に,生駒の急勾配にも対応できる当時としては大出力なモーターを搭載した電車を用意しました。
この車両が大阪電気軌道デボ1形と呼ばれる車両で,5枚の窓が並ぶ丸い前面とダブルルーフの屋根,屋根明り取り部の水雷(トルペード)型通風器が特徴的な車体長14m級,片側三扉の木造車体の電車です。
登場当初は,集電装置がトロリーポールで奈良市内の併用軌道区間に対応するために前面に救助網を備え,前照灯も前面窓下に装備するなど,路面電車から発展した本家アメリカのインターアーバンを彷彿とさせるスタイルでした。
この大軌デボ1形は18両製造され,同型車のデボ19形も合わせて28両存在しました。
同形式はその後幾つかの改造を受け,大軌から近鉄となった後も活躍を続けています。
事故により数を減らしながらも,1950年の形式称号整理で同型のデボ19形と共にモ200形と改番され,その後1964年に引退し全車廃車となりました。
1964年の引退後,最も原型に近かったモ212号(旧デボ14号)がデボ1号として近鉄玉川工場(同工場は1982年に機能を五位堂検修車庫に移管して閉鎖)にて復元され,近鉄あやめ池遊園地に保存されました。
2004年の近鉄あやめ池遊園地閉園後は五位堂検修車庫で保存されています。
大軌デボ1形の保存車はこの五位堂のデボ1号(デボ14号)が知られていますが,近鉄に縁深い生駒の地にも,もう1両存在します。
それが近鉄モ203号(旧大軌デボ3号)で,こちらはほぼ引退時の姿で保存されています。
なおこの車両は保存状況や周囲の様子から,私有地に置かれた個人所有の車両である可能性が高く,不用意に近付くと不法侵入となる可能性があります。
そのような事情もあってか,保存車両がまとめられた資料でも記載されていない事が多い車両となっています。
52:05,59:39 長生きだった大阪鉄道のエポックメイキングな電車たち
現在の近鉄には一般用車両を中心に長寿な車両が多く存在していますが,日本初の1500V電化や20m級車体の採用など,当時としては画期的な車両だった大阪鉄道の車両も,様々な改造を受けながら長期間活躍していました。
大阪鉄道デイ1形(52:05)は大阪鉄道の1500V電化に際して1923年に13両が製造された電車で,当初より菱形パンタグラフや自動連結器を装備し,当時の関西私鉄で多く見られたスタイルの5枚の窓が並んだ丸い前面にシングルルーフの木造15m級車体という車両でした。
このデイ1形は1943年に大阪鉄道が関西急行鉄道(後の近畿日本鉄道,旧大阪電気軌道)に合併された際にモ5601形と改称されます。
その後,火災からの復旧時に鋼体化された3両がモ5631形となり,残りの10両は戦後の1955年に鋼体化されモ5801形となりました。
(なおモ5801形は車両により前面形状が異なっていた他,一部の車両は1969年に再度改造されスタイルが変わっています)
このデイ1形にルーツを持つ車両はその後も南大阪線で運行され,一部の車両は戦後に運転を開始した大阪阿部野橋~吉野間の快速(後に不定期有料特急化)「かもしか」号でも使用されました。
1970年には南大阪線の車両大型化に伴って養老線に転出しますが,老朽化と他線区からの戦後製20m級車転入により,モ5631形・モ5801形共に1979年に引退しました。
大阪鉄道デニ500形(59:39)は吉野鉄道との直通運転に向けて1928年より製造された電車で,日本で初めて20m級車体を採用した電車となりました。
(なお20m級車体自体は大正時代には鉄道院の客車で採用されていました。その鉄道省(旧鉄道院)の電車では1930年製造のモハ32系列の付随車から20m級車体が採用されています。)
1930年までに電動車のデニ501形が35両,制御車のフイ601形が15両,荷物室付き電動車のデホニ551形が7両,郵便室付き電動車のデホユ561形が3両の合計60両が製造されますが,この60両もの大量増備は大阪鉄道の経営を苦しめる要因ともなりました。
デニ500形のグループは1943年の関急合併時に,それぞれモ6601形(旧デニ501形),ク6671形(旧フイ601形),モニ6651形(旧デホニ551形),モユ6661形(旧デホユ661形)と改称されました。
この旧大鉄デニ500形グループは20m級車体で輸送力が大きく,60両とまとまった数が居たことから長く南大阪線系統の主力として活躍,戦後には乗降扉の増設が行われています。
その後,老朽化が進み後継車両が登場すると道明寺線などの支線のみの運行に使われるようになり,1975年までには全車が引退しました。
なお,近鉄では先の2形式ほど長命ではありませんでしたが,第二の車生を送った先でつい最近まで運行されていた車両も存在しました。
それがデイ1形の増備車として製造され,大阪鉄道初の半鋼製車となったデロ20形です。
大阪鉄道デロ20形は1943年の関急合併時にモ5621形と改称され,モ5621~5624(旧デロ21~24)は南大阪線の不定期有料特急「かもしか」号用としてク5421形(2代目,元伊勢電気鉄道デハニ231形)を改造したモ5820形に電装品を譲り1960年に廃車,残りのモ5625~5627はその後も南大阪線系統で活躍を続け,晩年には手荷物列車用となり,1969年に引退しています。
このモ5820形に電装品を譲ったモ5621~5624(デロ21~24)の車体は高松琴平電気鉄道に譲渡され,同社の20形(3代目,21~24)となりました。
琴電譲渡時に特徴的だった5枚窓の丸い前面から3枚窓の平たい貫通扉付きの前面に改造され,その後も更新工事などで大阪鉄道時代の面影は薄れていきましたが,このうちの23号は更新工事が他の車両より早くに行われたこともあり,ニス塗りや客用扉脇の飾り柱など内装に原型を残した部分が多く見られました。
そのため2006年に他の20形が廃車となる中,23号は動態保存車として残され,琴電生え抜きの車両たちと共に「レトロ電車」として運行されることとなりました。
残念ながら2020年9月に引退となりましたが,現在は香川県高松市のNPO法人に引き取られ,お遍路さんの休憩所として保存活用されています。
(2022/01/05 蒸気動車に関する情報を追記)
近鉄特急といえば、12200系車両に当たることが多かったですね!1977年頃には「スナックコーナー」も営業していたような…
本日もエコーが暴走してらっしゃる
41:01 京成は営団と国鉄にぶんどられましたからね
休みの日に鉄道乗るだけで満足できる民✋
大和鉄道が、西田原本から桜井へ延伸していたということは、近鉄橿原線をオーバークロスしたってことでしょうか?まさか平面クロスじゃないよね?
国鉄も手をこまねいていた訳ではなく
参宮急行開業後、参宮急行が直通運転していない京都ルートに目をつけ、大阪から京都経由で食堂車付き快速列車を神戸発の高速準急として運行してます。
参宮急行の弱点は天皇家ゆかりの施設が多い古都京都と言う大阪や港湾都市神戸、同じ古都の奈良、と言う大阪に次ぐ需要を持つ都市とは直通していない事です。
これが完全に解消するのは
別会社で大軌とはあまり仲の良く無かった(過去に第二京阪線で対立があった)阪神電気鉄道との直通運転が出来た2009年です。
又関西本線は奈良ルートを独占してしぶとく生き残ってます。
すでにこの時点で奈良電気鉄道により今の京都線ができていましたが
直通したのは1960年代になりますからねえ
車両規格に電圧の差など問題点がかなりあったようです
リクエストです
西武鉄道の歴史やって下さい!
近鉄きたーーーー!!!(でたー!!阪急ーーーー!!)
安定の長さ
大阪鉄道は、「伸びんがためにチジムノデアリます!」の犠牲企業なんだ!
宝山寺駅に降りて一泊(発)してから宝山寺詣でするのが世の常
58:53バッファローズやおまへん。
バファローズでんがな
42:10
この時代、戦後も90年代初めまでは土曜日は半ドンだったのでレジャーとなると日曜日だけでは?
そんなたまの休みにその鉄道線内でお客様を囲い込もうとするのが当時の私鉄の考え方だったのかと思います。
あの、Reoさんのアレンジ音源、配信とかしてほしいです。
CDにするのはお金かかると思いますけどストリーミングサービスとかあったらうれしいっす
他の方の動画で見たけど生々しく人間臭い戦いをどう纏めてくれるのか楽しみです。
志摩市にある 志摩スペイン村も近鉄レジャーサービス株式会社が運営してたんですね😅 この動画のレジャー話で調べたら近鉄でした。
国より地元の人間が動いた方が小回り効いたんだろうなぁ。
行動が早くなる理由はなんとなくわかるよ。
金持ちな電鉄会社でも、金欠バファローズはホントに金欠だった🤣🤣
プロ野球でも、80年代は西武と近鉄がライバルでしたね。
芝政ワールドw 40:35
もう次が楽しみで仕方ないwww 昔、高校生時代に学校サボって、あちこち乗り倒してたもんなぁwww
それが、こんなドラマのおかげで実現できてたのかと思うと、改めて考えるものがあります^^ ただ・・・
あれだけ長距離乗り倒して、終点折り返しで帰ってきたのに、『乗車券拝見します』て言われなかったなぁと・・・
もう何十年も昔の話、自動改札もまだまだない時代だからこそのお話だから、許してね(;´∀`)