Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
当時のことを結構よく知る者です。モノレールについては本案の他に、静岡駅南口から久能街道を通って三保真崎までという案も聞いたことがあります。
コメント頂きありがとうございます。静岡駅南口から久能街道を通って三保真崎>本件調査時に文章で見た記憶があります。追って再調査してみたいと思います。
戦時中に建設が進んでいた桜橋駅で分岐する静鉄三保線は知っていましたが、後年にもこんな計画があったとは。
ご苦労さまです。静岡清水にも居ましたが、これは知りませんでした。自動車メインの生活だった記憶が・・・
課長様 コメントありがとうございます。当方もしばらく現地に滞在していましたが、鉄道の線形上当然の事なのかもしれませんが、自動車が生活のベースとなっているのを感じました。現状況も加味しつつですが、もう少し観光に予算を割いても良いのではないのかなぁと素人ながらに思った次第です。
旧清水港線沿いについ最近まで通っていた学校・グランドがありました!復活しないかな〜〜
最近三保線に興味持って、旧三保駅も行った!このモノレール激アツじゃんね!実現してほしかった
三保駅に行かれたのですね~。激アツですよね…未成線で終わったことがとても残念です。。
昭和49年の7月7日に清水、静岡を襲った七夕豪雨のために、静岡鉄道清水市内線の路面電車が廃止なりました。併用軌道の港橋〜新清水〜清水駅前〜西久保は中央分離帯に、専用軌道の西久保〜横砂は遊歩道と住宅に、終点の横砂駅跡は保育園になりました。万世町はまんせいまちではなく、まんせいちょうです。清水港線の跡地の一部は、商業施設の「エスパルスドリームプラザ」ができました。作るなら、日本平入口ルートではなく、清水港線跡地をそのまま利用すると思いますよ。
以前の市長が検討していた3区のLRT計画より現実味がありますね。
静清モノレール三保線、初めて知りました。こんな計画があった事自体、大変驚きです。同時期に立案されていた北九州モノレールは実現出来て、こちらは誰も知らない計画に凋落。これも時代の悪戯か、政治力なのでしょうかね?今の時代ならもっと団地等を結ぶルートにして、日常使いを主眼にした計画にしたのでしょうが、どうも当時は観光なのか赤字でも維持すべき生活路線なのかハッキリしなかったのでしょうね。都市モノレール法を境に、都市道路整備とセットにならないと計画が進まなくなった点も、当時の清水市では難しかったのでしょうね。
動画でお伝えしたかった事をわかりやすく要約いただきましてありがとうございます。いずれにしても成就する可能性は低かったのかもしれませんが、おっしゃる通り観光路線と生活路線のラインが微妙であった事も、結果的に計画前進の妨げになったのうだろうと察します。調整すべき相手が2点となると大変難しい舵取りとなったでしょうし、理解を得られるのも難しかったのではないでしょうか。動画中ほとんど触れておらず申し訳ありませんが、折戸駅での折り返し運転ができる構造とする事が参考とした資料に記載されていました。上記、生活路線と観光路線とを混在・抱き合わせて計画していた事が見て取れます。
熱海編と違って、ググルアース君がググルアースしていて良かったです。熱海編を見た時には「誰?」と思うほど完璧に再現されていたので…。三保の松原にモノレールを通す訳にはいかなかったでしょうが、計画線から徒歩では不便ですよね。もっとも、観光よりも生活の足としての重要度が高いモノレール区間なので、完成させても良かったとも思えます。とかく赤字を嫌う民意ですが、赤字でも維持していかないと地域が衰退するのですよね。もう手遅れですけど…。
いつもコメントありがとうございます。三保の松原は皆さんバスか自動車で向かわれているという事なのでしょうね。当モノレールも観光要素を入れたかったのでしょうが、実際三保の松原へ向かうのには中途半端(不便)ですね。赤字でも維持しないと衰退、というのは現在計画されている現代の他の路線においても市政側と市民側とのやり取りでよく聞く言葉ですね。
この計画は知りませんでしたが、旧静岡市、旧清水市を通る都市モノレール計画があったかと薄い記憶に残っています。確か、発案者は丹下健三氏だったように記憶しています。この計画なのか、丹下氏の計画なのか解らないのですが、署名活動が行われていたように思います。ですが、残念なことにオイルショックがあり計画が頓挫したのでは無かったかと思うのですがなにぶん小学生低学年の頃なので今となっては詳しくは解りませんね。たぶん、地元の図書館などに資料が残っているかもしれませんが?
初耳(目)でした、ありがとうございます(=^_^=)
コメント頂きありがとうございます(*'ω'*)。
37年前に2年間だけとはいえ清水で生活しておりましたが、このモノレール計画のことは全然知りませんでした。想定ルートを辿ってみると、自分が住んでいたアパートのすぐ近くをモノレールが通ることになっており、開通していたら大学への通学がかなり便利になるはずだったのか、と思いました。それにしても清水駅前のビル2棟が解体している最中だったのと、駅舎が自分が住んでいた時とは変わっているのが当時を知っている身にはショックでした。
街の変化は嬉しい面もありつつ、なぜか悲しくなりますね。過去住んでいた地域の景色が変わっていると、いつも切なくなります。このモノレールを知っている方、とても少ない事を今回よく知りました。
本町、ほんちょう(アクセントは平板)。
熱海モノレールとこの未成線の計画があるとはしらなかった。
熱海は比較的前期の計画で、後期として北九州(後の北九州モノレール)、千葉山の手(後の千葉モノレール)、那覇(後のゆいレール)、熊本健軍線、三保線、川崎地区、埼玉地区が当時は計画路線として良く登場していた様です。
昔興津沖に人工島作ってそこからロープウェイで日本平山頂まで?三保迄?あーもう忘れたw
残念ですが清水市は現在存在しません。あと、静鉄清水市内線のlことも触れてほしかった。
シミズミナトセン…
😂湘南モノレール式の方が建設評価が安い様ですね😂
廃線の数年前に乗車したけど全く覚えていない モノレール先進国だが跨座式懸垂式と入り乱れているし最高速度も90KM以上出せないから長距離は難しいね
当時のことを結構よく知る者です。モノレールについては本案の他に、静岡駅南口から久能街道を通って三保真崎までという案も聞いたことがあります。
コメント頂きありがとうございます。静岡駅南口から久能街道を通って三保真崎>本件調査時に文章で見た記憶があります。追って再調査してみたいと思います。
戦時中に建設が進んでいた桜橋駅で分岐する静鉄三保線は知っていましたが、後年にもこんな計画があったとは。
ご苦労さまです。静岡清水にも居ましたが、これは知りませんでした。
自動車メインの生活だった記憶が・・・
課長様 コメントありがとうございます。当方もしばらく現地に滞在していましたが、鉄道の線形上当然の事なのかもしれませんが、自動車が生活のベースとなっているのを感じました。現状況も加味しつつですが、もう少し観光に予算を割いても良いのではないのかなぁと素人ながらに思った次第です。
旧清水港線沿いについ最近まで通っていた学校・グランドがありました!復活しないかな〜〜
最近三保線に興味持って、旧三保駅も行った!
このモノレール激アツじゃんね!実現してほしかった
三保駅に行かれたのですね~。激アツですよね…未成線で終わったことがとても残念です。。
昭和49年の7月7日に清水、静岡を襲った七夕豪雨のために、静岡鉄道清水市内線の路面電車が廃止なりました。
併用軌道の港橋〜新清水〜清水駅前〜西久保は中央分離帯に、専用軌道の西久保〜横砂は遊歩道と住宅に、終点の横砂駅跡は保育園になりました。
万世町はまんせいまちではなく、まんせいちょうです。
清水港線の跡地の一部は、商業施設の「エスパルスドリームプラザ」ができました。
作るなら、日本平入口ルートではなく、清水港線跡地をそのまま利用すると思いますよ。
以前の市長が検討していた3区のLRT計画より現実味がありますね。
静清モノレール三保線、初めて知りました。こんな計画があった事自体、大変驚きです。同時期に立案されていた北九州モノレールは実現出来て、こちらは誰も知らない計画に凋落。これも時代の悪戯か、政治力なのでしょうかね?今の時代ならもっと団地等を結ぶルートにして、日常使いを主眼にした計画にしたのでしょうが、どうも当時は観光なのか赤字でも維持すべき生活路線なのかハッキリしなかったのでしょうね。都市モノレール法を境に、都市道路整備とセットにならないと計画が進まなくなった点も、当時の清水市では難しかったのでしょうね。
動画でお伝えしたかった事をわかりやすく要約いただきましてありがとうございます。いずれにしても成就する可能性は低かったのかもしれませんが、おっしゃる通り観光路線と生活路線のラインが微妙であった事も、結果的に計画前進の妨げになったのうだろうと察します。調整すべき相手が2点となると大変難しい舵取りとなったでしょうし、理解を得られるのも難しかったのではないでしょうか。動画中ほとんど触れておらず申し訳ありませんが、折戸駅での折り返し運転ができる構造とする事が参考とした資料に記載されていました。上記、生活路線と観光路線とを混在・抱き合わせて計画していた事が見て取れます。
熱海編と違って、ググルアース君がググルアースしていて良かったです。熱海編を見た時には「誰?」と思うほど完璧に再現されていたので…。
三保の松原にモノレールを通す訳にはいかなかったでしょうが、計画線から徒歩では不便ですよね。もっとも、観光よりも生活の足としての重要度が高いモノレール区間なので、完成させても良かったとも思えます。とかく赤字を嫌う民意ですが、赤字でも維持していかないと地域が衰退するのですよね。もう手遅れですけど…。
いつもコメントありがとうございます。三保の松原は皆さんバスか自動車で向かわれているという事なのでしょうね。当モノレールも観光要素を入れたかったのでしょうが、実際三保の松原へ向かうのには中途半端(不便)ですね。赤字でも維持しないと衰退、というのは現在計画されている現代の他の路線においても市政側と市民側とのやり取りでよく聞く言葉ですね。
この計画は知りませんでしたが、旧静岡市、旧清水市を通る都市モノレール計画があったかと
薄い記憶に残っています。
確か、発案者は丹下健三氏だったように記憶しています。
この計画なのか、丹下氏の計画なのか解らないのですが、署名活動が行われていたように思い
ます。
ですが、残念なことにオイルショックがあり計画が頓挫したのでは無かったかと思うのですが
なにぶん小学生低学年の頃なので今となっては詳しくは解りませんね。
たぶん、地元の図書館などに資料が残っているかもしれませんが?
初耳(目)でした、ありがとうございます(=^_^=)
コメント頂きありがとうございます(*'ω'*)。
37年前に2年間だけとはいえ清水で生活しておりましたが、このモノレール計画のことは全然知りませんでした。想定ルートを辿ってみると、自分が住んでいたアパートのすぐ近くをモノレールが通ることになっており、開通していたら大学への通学がかなり便利になるはずだったのか、と思いました。
それにしても清水駅前のビル2棟が解体している最中だったのと、駅舎が自分が住んでいた時とは変わっているのが当時を知っている身にはショックでした。
街の変化は嬉しい面もありつつ、なぜか悲しくなりますね。過去住んでいた地域の景色が変わっていると、いつも切なくなります。このモノレールを知っている方、とても少ない事を今回よく知りました。
本町、ほんちょう(アクセントは平板)。
熱海モノレールとこの未成線の計画があるとはしらなかった。
熱海は比較的前期の計画で、後期として北九州(後の北九州モノレール)、千葉山の手(後の千葉モノレール)、那覇(後のゆいレール)、熊本健軍線、三保線、川崎地区、埼玉地区が当時は計画路線として良く登場していた様です。
昔興津沖に人工島作ってそこからロープウェイで日本平山頂まで?三保迄?あーもう忘れたw
残念ですが清水市は現在存在しません。あと、静鉄清水市内線のlことも触れてほしかった。
シミズミナトセン…
😂湘南モノレール式の方が建設評価が安い様ですね😂
廃線の数年前に乗車したけど全く覚えていない モノレール先進国だが跨座式懸垂式と入り乱れているし最高速度も90KM以上出せないから長距離は難しいね