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仏教に説かれている本当の幸福とはどんなものか、20日間の無料メール講座で話しをしています。peraichi.com/landing_pages/view/reiwamail
いつも有難うございます。夏目漱石が言うように、善人と悪人という二種類の人間がいるのではない。私の心の底の底を見てみれば、三匹の鬼がいることを教えて頂きました。そしてそんな私を正客として救うというのが、悪人正機の教えなのだと学びました。まだ頭の理解だけですが、本当に「そうだった」と分かるところまで、聞き続けたいと思います。ありがとうございました。
心の深淵に刺さりました、有り難うございます、、、親鸞聖人が仏陀様から他力本願の 覚りを得ました、仏陀様は師匠の阿弥陀如来様の本願成就の南無阿弥陀仏を親鸞聖人に伝えただけでした、、、この概念でいいでしょうか?
ありがとうございました😊
思いがけず鬼滅のネタバレくらっちまったぜ
耳が痛いです。私は自分の中に鬼がいることを自覚しています。そんな考えをするのをやめたいと、そんな風に愚痴る自分が小さい人間で情けないと、どうにかしてやめさせたいと、毎日戦っています。そんな私を救ってくださる、ありがたいお話です。
菊谷先生は、世にいう悪人が現れた時、その縁を遠ざける様に心がけますか?それとも、手を差し伸べますか?
普段まともそうな事を、言っている自分の心の中を覗いて見れば、何とおぞましい事を考えているのやら。とても他人には、見せられません。そんな未熟で不完全な自分、ありのままの自分を受け入れた時、その時初めて周りの人を、受け入れることが出来るのではないでしょうか。何故なら、周りの人も未熟で不完全なんだということが、分かるからです。その時、周りの人を許せる気持ちが芽生えて来ると思います。私も、釜戸炭次郎君のような慈悲深い人間で在りたいですね。🙂
どんな嫌な相手でも、復讐せずに困っていたら救うという気持ちが私の中にずっとあります。職場で嫌がらせされても悪口言われても、その人が見てない所で掃除をしておいたり重い荷物を運んでおいたりしてました。嫌々では無くムリなく自分からそうしようと思ってやっていた事です。この性格と関係あるかはわかりませんが、私はとても運が良くついている人生で幸せだと感じています。幸せな人に嫉妬する気持ちもありません。こちらでお話が聞けて良かったです。ありがとうございました😊
立派な解説だとは思いますが、全く別の解釈もあります。ある覚者は次のように述べています。親鸞の息子善鸞も同じような解釈をして教団に混乱をもたらしたので破門された。この混乱においても、何故か親鸞は悪人正機説の正しい解釈を示さなかった。これがポイントである。悪人正機説は矛盾である、決して解くことができない矛盾である。それではなぜ敢えて矛盾を提示したのか。親鸞は晩年「教行信証」を著しているが、一般の仏教が「教行証」であるのに対して、「信」という文字が加わっている。浄土真宗はまさにこの「信」に依って立っている。「信」とはなにか。思慮分別を捨てて理屈抜きで阿弥陀仏の懐に飛び込むことである。親鸞は自らが悟りを開くのに20年という歳月を要した。そこで親鸞は一般の信者には聖道門は無理であると判断し「信」から入る「浄土門」を解いた(不説の説)。親鸞が悪人正機説について詳しく説いていたら教団の混乱は避けられたはずであるが、それでは「信」にはならない。思慮分別を超越すること、それが「信」である。言論の自由もいいが、言論の不自由の方が世の中は平和である。日本はやはり、「言挙げせぬ」「不立文字」なのである。
南無阿弥陀仏
善人が悪人になったり、悪人が善人になろうとしたりする。
とても、勉強に、なりました。尊い、ご説法、誠に、ありがとうございました。
悪人が救われるという真意は、こういうことだったんですね。ついつい善人・悪人と区別してしまいますが、自分も他人も悪のタネを持っていると考えれば、人や社会に対する見方がかなり変わってきますね。
「善人が助かるならわかるけど悪人が助かるのは理解できない」とするその心が既に悪人、そんなあなたも救われると言うことですね!
悪人は助からなくて良いという慈悲のない言葉にも聞こえてしまいますよね。でも そういう人も助かるから有難いですね。✨
その通りです人の心の中には必ず悪人がいるのです人が見極める事が出来ないものも出来るのがお釈迦様であり、そのお釈迦様が人の心の中に潜む悪人を救うということです…南無阿弥陀仏
私は!絶対に!悪人は、救われてはなりません。立ち直れば良い?→踏み台にされた犠牲者は?どうなるかと思いますが…。私は、まんまと裏切られましたから!先ずは、罰を受けるべきです。
正にそのあなたを救うのです。
教えは色々あります、佛教でも因果律を言います、悪因、悪業は悪い結果をいつかもたらす、撒いた種は刈り取らねばならない。但し悔い改めた場合、悪人でも救われることがあると思います、悪人が善人になろうとすれば救われる可能性はあると言うことではありませんか?
@@shige_shige_shige7680 様へ。ありがとう御座いました。まあ〜1970年代…昭和なんて…少し悪いくらいが…男なんてちょうどいいんだよ〜!なんて言われておりましたね。何が真実か?もう…全くわからなくなっておりましたね。😅🍀
@@森田和義-k6u 様へ。ありがとう御座いました。おっしゃれた通りで御座いますね。同級生で…悪やら勉強できないやら…女に手をつけるのが早く→ついに中卒止まりの知人がおりましたね。まさしく……彼が…落ちついた頃には…既に時遅し…50歳をとっくに過ぎておりました。昭和の時代の中卒など…たまらないほどの壮絶なる試練が待ち構えておりました。30年間近く…落ち着かない人生でありましたね。でも…家庭を持てて幸せに暮らしております。まあ〜30 年間の凄まじい試練は…確かにありましたね。→自殺……何回か考えた…とまで言っておりました。→30年間の苦闘、暗黒を乗り越えた彼は…やはり凄いですね。学歴が…全ての時代でしたからね。長々と失礼致しました。☘️
@@e.lancel4308わざわざ実例ありがとうございます、それで自殺まで考えた壮絶な人生を歩んだ彼は悔い改めたと思われましたですか、人間が変わりましたか?
もう直ぐ節分ですけど、豆を巻く相手は、自分。。。
私も聖書の教えがなければ鬼となっていたと思います。
菊谷先生、いつも大切なお話と有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。〜「さるべき業縁の催せばいかなる振る舞いもすべし」「みな人の心の底の奥の院 探してみれば本尊は鬼(遠仁)」「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。 また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」これが私の真実の機ざま(悪人正機)、実相であり、縁さえくれば何をするかわからない業因(特に三毒の煩悩)を抱えているのですね。まさに「一切法は因縁生なり」です。そんな「極悪最下の私」を絶対無上の幸せにしてくれるのが阿弥陀仏の本願、そんな私こそ弥陀の正客(悪人正機)なのですね。〜ひたすら道をききひらきまことのみむね(南無阿弥陀仏、仏心)いただくまで、さらに間断なく聞法に正精進していきます。いつも本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。三戸拝🙏🙏🙏
善人、悪人、老若男女、どんな人でも差別なく全ての人間を阿弥陀仏は救ってくださるのだと私は信じたいと思います。全ての人間の心に三匹の鬼が棲んでいるというお話は納得できるように思いました。ありがとうございました。
戒めの動画でした。ありがとうございます✨
因(人 自分)の中の院の奥には 縁するモノにより悪人になる要素が誰でも有るということ判りました。また縁するモノにより善人にも成れる。教えの通りだと思います。✨
本当に...先生有難うございました。🙇♀️
こんばんは。🍒🤱🌸🤱今日も、素晴らしい解説を、ありがとうございました。🌸🤱🍒🤱
お釈迦様の例え話にも「もしも掌に傷が無いならば、その人は掌で毒を持つこともできる。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。」とありました。傷がなければ誰しも毒でも持て、傷を負いそこから浸透するならば、人はたちまち毒に侵される。これは心の傷にも言えそうですね🙌
感動と素晴らしい返答 ありがとうございました “悪人”とは人との関わりに於いて支障ある人の評価です 人は本来 そんなに強くないです 悪人も人間関係に於いて生まれるのでしょう ただ独りでの初めから出直しには“善・悪”はなく魂は汚れていないです 人は成長とか進歩といったものを美化しがちですが 従来の角度を変えるとか見直すことで“善”にもなれます 条件が悪いと自分を甘やかす“自己中”これも悪人に仕立てられる側は迷惑です
人間の心の奥底には鬼がいる。そんな悪人を救って下さる阿弥陀仏の存在がいるという事を、親鸞聖人は教えて下さったのかなと思ってます。今回も尊いご説法の方誠にありがとうございました!
鬼滅の刃の、鬼たちに共感できた理由が分かりました‼️また、鬼滅の刃1巻から読み返します
ありがとうございます!南無阿弥陀仏🙏
全く人間とは都合よく変わりますよねー 私も毎日反省してます😅
兄はそれを分かった上で悪行を重ねた
自分の心の中にも鬼の心があるそこを思えるようになればどんな悪人に対しても心底慈悲の思いで対応することを学んでいけるのですね(^。^;)今日もありがとうございました
人間誰しも心の底の奥に鬼を持っていてきっかけさえあれば…難しい事は分かりませんが秋葉原、大阪の診療内科、京都アニメにしても最近無差別殺人が多いと思いますが、巻き込まれ命を失った方はどう説明されますか?
どんなに良い人になろうと努力しても奥底には鬼が👹いるんですね。
悪人。鬼の心と言われる意味が、よく分かりました。お話ありがとうございます。
ドン底まで堕ちて、仏の教えを求めて這い上がり、野良犬から盲導犬になる人もいる。
私の経験からすると人の性格というのは、かなり生得的な側面が強いということです。かわいそうだなあと思うのは、生まれつきゲロい性格の人です。そういう人は悲惨ですね… 。
今日は。オークツラマ の話みたいですね?
悪党という集団がいましたが、この悪党とは、現代の悪党とは、意味が全く違う。だから、この悪人、の当時の意味は、違うのではないか?
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」これは、「善人でさえも救われるのだから、悪人が救われるのは言うまでもない」という意味でしょうか?動画内のご説明では、「みんな三毒を持ち、そういう人々を救う」という意図と理解しました。その場合、そもそも善人とは存在しないということでしょうか?→みなが凡夫だとすると、「善人でさえも救われる」ではなく「善人は救われない。 なぜなら存在しないのだから。」となりそうな気が、、、(初期仏教に当てはめると、「悟った人(歎異鈔的には善人?)は既に救われている。 悟っていない人(歎異鈔的には悪人?)が今後救われる可能性のある人々である。」って感じになりそうですかねぇ、、、)歎異鈔で言う悪人とは現代における解釈ではなく、三毒の種(業)を持った人(全ての人)と理解しました。「そもそも悪人の定義が違いますよ」ということであれば納得です。ただ、、、ストレートに「全ての人が救いの対象です」と言っておけばよかったのに、とも思えますが。。。
歎異抄3章の「善人」とは、善人だとうぬぼれている人、という意味です。
仏教に説かれている本当の幸福とはどんなものか、20日間の無料メール講座で話しをしています。
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いつも有難うございます。夏目漱石が言うように、善人と悪人という二種類の人間がいるのではない。私の心の底の底を見てみれば、三匹の鬼がいることを教えて頂きました。そしてそんな私を正客として救うというのが、悪人正機の教えなのだと学びました。まだ頭の理解だけですが、本当に「そうだった」と分かるところまで、聞き続けたいと思います。ありがとうございました。
心の深淵に刺さりました、有り難うございます、、、親鸞聖人が仏陀様から他力本願の 覚りを得ました、仏陀様は師匠の阿弥陀如来様の本願成就の南無阿弥陀仏を親鸞聖人に伝えただけでした、、、この概念でいいでしょうか?
ありがとうございました😊
思いがけず鬼滅のネタバレくらっちまったぜ
耳が痛いです。私は自分の中に鬼がいることを自覚しています。
そんな考えをするのをやめたいと、そんな風に愚痴る自分が小さい人間で情けないと、どうにかしてやめさせたいと、毎日戦っています。
そんな私を救ってくださる、ありがたいお話です。
菊谷先生は、世にいう悪人が現れた時、その縁を遠ざける様に心がけますか?それとも、手を差し伸べますか?
普段まともそうな事を、言っている自分の心の中を覗いて見れば、何とおぞましい事を考えているのやら。
とても他人には、見せられません。
そんな未熟で不完全な自分、ありのままの自分を受け入れた時、その時初めて周りの人を、受け入れることが出来るのではないでしょうか。
何故なら、周りの人も未熟で不完全なんだということが、分かるからです。
その時、周りの人を許せる気持ちが芽生えて来ると思います。
私も、釜戸炭次郎君のような慈悲深い人間で在りたいですね。🙂
どんな嫌な相手でも、復讐せずに困っていたら救うという気持ちが私の中にずっとあります。
職場で嫌がらせされても悪口言われても、その人が見てない所で掃除をしておいたり重い荷物を運んでおいたりしてました。嫌々では無くムリなく自分からそうしようと思ってやっていた事です。
この性格と関係あるかはわかりませんが、私はとても運が良くついている人生で幸せだと感じています。幸せな人に嫉妬する気持ちもありません。
こちらでお話が聞けて良かったです。
ありがとうございました😊
立派な解説だとは思いますが、全く別の解釈もあります。ある覚者は次のように述べています。親鸞の息子善鸞も同じような解釈をして教団に混乱をもたらしたので破門された。この混乱においても、何故か親鸞は悪人正機説の正しい解釈を示さなかった。これがポイントである。悪人正機説は矛盾である、決して解くことができない矛盾である。それではなぜ敢えて矛盾を提示したのか。親鸞は晩年「教行信証」を著しているが、一般の仏教が「教行証」であるのに対して、「信」という文字が加わっている。浄土真宗はまさにこの「信」に依って立っている。「信」とはなにか。思慮分別を捨てて理屈抜きで阿弥陀仏の懐に飛び込むことである。親鸞は自らが悟りを開くのに20年という歳月を要した。そこで親鸞は一般の信者には聖道門は無理であると判断し「信」から入る「浄土門」を解いた(不説の説)。親鸞が悪人正機説について詳しく説いていたら教団の混乱は避けられたはずであるが、それでは「信」にはならない。思慮分別を超越すること、それが「信」である。言論の自由もいいが、言論の不自由の方が世の中は平和である。日本はやはり、「言挙げせぬ」「不立文字」なのである。
南無阿弥陀仏
善人が悪人になったり、
悪人が善人になろうとしたりする。
とても、勉強に、なりました。尊い、ご説法、誠に、ありがとうございました。
悪人が救われるという真意は、こういうことだったんですね。
ついつい善人・悪人と区別してしまいますが、自分も他人も悪のタネを持っていると考えれば、
人や社会に対する見方がかなり変わってきますね。
「善人が助かるならわかるけど悪人が助かるのは理解できない」とするその心が既に悪人、そんなあなたも救われると言うことですね!
悪人は助からなくて良いという慈悲のない言葉にも聞こえてしまいますよね。
でも そういう人も助かるから有難いですね。✨
その通りです
人の心の中には必ず悪人がいるのです
人が見極める事が出来ないものも出来るのがお釈迦様であり、そのお釈迦様が人の心の中に潜む悪人を救うということです…
南無阿弥陀仏
私は!絶対に!悪人は、救われてはなりません。立ち直れば良い?→踏み台にされた犠牲者は?どうなるかと思いますが…。私は、まんまと裏切られましたから!先ずは、罰を受けるべきです。
正にそのあなたを救うのです。
教えは色々あります、佛教でも因果律を言います、悪因、悪業は悪い結果をいつかもたらす、撒いた種は刈り取らねばならない。
但し悔い改めた場合、悪人でも救われることがあると思います、悪人が善人になろうとすれば救われる可能性はあると言うことではありませんか?
@@shige_shige_shige7680 様へ。ありがとう御座いました。まあ〜1970年代…昭和なんて…少し悪いくらいが…男なんてちょうどいいんだよ〜!なんて言われておりましたね。何が真実か?もう…全くわからなくなっておりましたね。😅🍀
@@森田和義-k6u 様へ。ありがとう御座いました。おっしゃれた通りで御座いますね。同級生で…悪やら勉強できないやら…女に手をつけるのが早く→ついに中卒止まりの知人がおりましたね。まさしく……彼が…落ちついた頃には…既に時遅し…50歳をとっくに過ぎておりました。昭和の時代の中卒など…たまらないほどの壮絶なる試練が待ち構えておりました。30年間近く…落ち着かない人生でありましたね。でも…家庭を持てて幸せに暮らしております。まあ〜30 年間の凄まじい試練は…確かにありましたね。→自殺……何回か考えた…とまで言っておりました。→30年間の苦闘、暗黒を乗り越えた彼は…やはり凄いですね。学歴が…全ての時代でしたからね。長々と失礼致しました。☘️
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もう直ぐ節分ですけど、豆を巻く相手は、自分。。。
私も聖書の教えがなければ鬼となっていたと思います。
菊谷先生、いつも大切なお話と有り難い説法に心より深く感謝申し上げます。〜「さるべき業縁の催せばいかなる振る舞いもすべし」「みな人の心の底の奥の院 探してみれば本尊は鬼(遠仁)」「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。 また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」これが私の真実の機ざま(悪人正機)、実相であり、縁さえくれば何をするかわからない業因(特に三毒の煩悩)を抱えているのですね。まさに「一切法は因縁生なり」です。そんな「極悪最下の私」を絶対無上の幸せにしてくれるのが阿弥陀仏の本願、そんな私こそ弥陀の正客(悪人正機)なのですね。〜ひたすら道をききひらきまことのみむね(南無阿弥陀仏、仏心)いただくまで、さらに間断なく聞法に正精進していきます。いつも本当にありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。三戸拝🙏🙏🙏
善人、悪人、老若男女、どんな人でも差別なく全ての人間を阿弥陀仏は救ってくださるのだと私は信じたいと思います。全ての人間の心に三匹の鬼が棲んでいるというお話は納得できるように思いました。ありがとうございました。
戒めの動画でした。ありがとうございます✨
因(人 自分)の中の院の奥には 縁するモノにより悪人になる要素が誰でも有るということ判りました。
また縁するモノにより善人にも成れる。
教えの通りだと思います。✨
本当に...先生有難うございました。🙇♀️
こんばんは。🍒🤱🌸🤱今日も、素晴らしい解説を、ありがとうございました。🌸🤱🍒🤱
お釈迦様の例え話にも「もしも掌に傷が無いならば、その人は掌で毒を持つこともできる。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。」とありました。
傷がなければ誰しも毒でも持て、傷を負いそこから浸透するならば、人はたちまち毒に侵される。
これは心の傷にも言えそうですね🙌
感動と素晴らしい返答 ありがとうございました “悪人”とは人との関わりに於いて支障ある人の評価です 人は本来 そんなに強くないです 悪人も人間関係に於いて生まれるのでしょう ただ独りでの初めから出直しには“善・悪”はなく魂は汚れていないです 人は成長とか進歩といったものを美化しがちですが 従来の角度を変えるとか見直すことで“善”にもなれます 条件が悪いと自分を甘やかす“自己中”これも悪人に仕立てられる側は迷惑です
人間の心の奥底には鬼がいる。
そんな悪人を救って下さる阿弥陀仏の存在がいるという事を、親鸞聖人は教えて下さったのかなと思ってます。
今回も尊いご説法の方誠にありがとうございました!
鬼滅の刃の、鬼たちに共感できた理由が分かりました‼️
また、鬼滅の刃1巻から読み返します
ありがとうございます!南無阿弥陀仏🙏
全く人間とは都合よく変わりますよねー 私も毎日反省してます😅
兄はそれを分かった上で悪行を重ねた
自分の心の中にも鬼の心がある
そこを思えるようになればどんな悪人に対しても心底慈悲の思いで対応することを学んでいけるのですね(^。^;)
今日もありがとうございました
人間誰しも心の底の奥に鬼を持っていてきっかけさえあれば…
難しい事は分かりませんが
秋葉原、大阪の診療内科、京都アニメにしても最近無差別殺人が多いと思いますが、巻き込まれ命を失った方はどう説明されますか?
どんなに良い人になろうと努力しても奥底には鬼が👹いるんですね。
悪人。鬼の心と言われる意味が、よく分かりました。お話ありがとうございます。
ドン底まで堕ちて、仏の教えを求めて這い上がり、野良犬から盲導犬になる人もいる。
私の経験からすると人の性格というのは、かなり生得的な側面が強いということです。
かわいそうだなあと思うのは、
生まれつきゲロい性格の人です。
そういう人は悲惨ですね… 。
今日は。オークツラマ の話みたいですね?
悪党という集団がいましたが、この悪党とは、現代の悪党とは、意味が全く違う。だから、この悪人、の当時の意味は、違うのではないか?
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
これは、「善人でさえも救われるのだから、悪人が救われるのは言うまでもない」という意味でしょうか?
動画内のご説明では、「みんな三毒を持ち、そういう人々を救う」という意図と理解しました。
その場合、そもそも善人とは存在しないということでしょうか?
→みなが凡夫だとすると、「善人でさえも救われる」ではなく「善人は救われない。 なぜなら存在しないのだから。」となりそうな気が、、、
(初期仏教に当てはめると、「悟った人(歎異鈔的には善人?)は既に救われている。 悟っていない人(歎異鈔的には悪人?)が今後救われる可能性のある人々である。」って感じになりそうですかねぇ、、、)
歎異鈔で言う悪人とは現代における解釈ではなく、三毒の種(業)を持った人(全ての人)と理解しました。
「そもそも悪人の定義が違いますよ」ということであれば納得です。
ただ、、、ストレートに「全ての人が救いの対象です」と言っておけばよかったのに、とも思えますが。。。
歎異抄3章の「善人」とは、善人だとうぬぼれている人、という意味です。