「自力を投げ捨てよ」親鸞聖人が教えられたこと
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- Опубліковано 4 вер 2024
- 「自力を捨てて他力に帰する」
浄土真宗・親鸞聖人のみ教えは、これ以外にありません。
「真宗においては、専ら自力を捨てて他力に帰するをもって、宗の極致とする」(改邪鈔)
「極致」とは、これ以上ない大事な教えをいいます。
では、親鸞聖人が捨てよと言明される「自力」とは何か、これが分からないと自力を捨てることはできません。
お聞きください。
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(自己紹介)
1988年早稲田大学を中退し、仏教講師の道を目指す。
浄土真宗親鸞会で仏教講師の資格を取得、全国各地で公開講座を始める。
2010年からメールマガジンをはじめ、読者12000人の仏教最大級のメルマガ執筆
2014年からは全国をつなぐオンライン講座の動画レクチャーでも活動中。
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いつも分かりやすい説明有り難う御座います宜しくお願いします。
仏法の教えいつも有難うございます。私は親鸞聖人に入信いたしまして有難く拝聴しております。また、生き様として宮沢賢治の「雨にも負けず」を域度も読み返しそのような心を目標としております。こんな私に菊谷様独自のご指導ありましたらお教えください。メール講座も拝読いたしました。。。大慈悲には程遠いですが頑張っております。
聴聞は自分がしっかり真剣に聞くことは自力
ありがとうございます!
いつもありがとうございます。心落ち着くお話に感謝してます。難しいことはわかりませんが、お話を聞いて何か安心感が浮かんできます。感謝。
聖道仏教のように厳しい修行などで幸せになれるのだという事が自力で幸せになると「自力」を理解していたのですがこれは現代の言葉の意味で捉えていたという事がわかりました。
まず、自力があり、そうして他力が成り立ちます。
自力とは、疑情であり、他力とは、阿弥陀仏の本願ということですか。全く、誤解していました。
私の祖父母は、きっと阿弥陀仏の本願に出会い、幸せな人生だったのだと思います。今になって、そのことがわかりました。熱心に仏壇に向かう姿は、阿弥陀仏、親鸞さんへの感謝の姿だったのです。幼少の頃からその姿を見ていました。私も祖父母のように他力本願に出会うよう、これからも真剣に聴聞したいです。迷いのない祖父母のようになりたいものです。二人が、きっかけをつくってくれました。感謝です。
確かに 間違いやすい、、難しい教え😢
菊谷先生、ありがとう御座いました🤗
いつもありがとうございます。
とても大変、学びになりました。誠にありがとうございました。
信心決定に至るには聴聞に尽きると言われますが、同じようなお話でも真剣に考え聞きなさいということでしょうか。
こんにちわ。今回は、難しくてよくわかりません。保存して、何度も拝見させて頂きます。有難うございます。
難しいかな? 続けて聞いてほしい😮
大悲の願船に乗せてもらえる煩悩具足の凡夫には雨夜に星
本当の幸せは人の為に生きることです。それが悟りの境地です。
それだけでは 無いような😢
いつも拝見させて頂いております。今回はむずかしかったです。
今日は久々にヘヴィーな講義でした。
1回聞いただけではとても理解できないので保存しました。
何度も繰り返し聞いてみたい内容です。
ひろさちや先生も言ってらっしゃいましたが、他力の信仰において一番の躓きは疑いなのだそうです… 。😊
一番のつまずき、というよりも、苦悩のたった一つの根元です。
皆な 他力は理解できてないような😢
心の中に置きたい宝物
生かされてる力、導かれてる力、信じる力あったらいいんですが、気付かせて頂き有難う御座いました。
なかなか知ることのできない仏教の真髄をお話しされる姿に頭が下がります。何の間違いで真の知識から聞かせていただけている身になっているのか喜ばずにおれません
肉体という限界と崩壊の状況を失って あの世という創造や再生の可能性と握手をする この帰郷に安堵がある 心の故郷へ帰ることを この世では旅立つと言うようですが 物質を過信するあまりの思い上がった言葉なのでしょう ありがとうございました
「自力を捨てよ」は自分の努力や労力を捨てるわけではない、幸せが煩悩に過ぎないから得る事は出来ない。人の目的が「幸福」にすると金儲け、権勢力、快楽などに執着する。自分の努力や能力や知識に執着する事が自力という、人生を送る事は「自力」ではできない事に気が付く事が「他力」という。「他力」は阿弥陀如来しか頼らない事ではない、阿弥陀如来の慈悲は周囲の人からもたらせられるもの、阿弥陀如来水から救える人は仏道を極めたもの「阿弥陀如来を知る人」だけです。凡夫の全てを救う誓願は、悪縁良縁全ての形で現れる事「仏道」を素直に受け取る事、で掬い取られるというものですね。「成功」を自分の能力と思うのは自力、「失敗」を他人の能力と思うのも自力です。自分の判断や感情に頼るから自力、判断を周囲の人に任せる事を他力というのかな。
もう疑情のくだりはたくさん聞いて丁寧に文字に起こして書き出してみてもそれでも残念ながら理解できませんでした。
わからないのにわかりましたとは絶対言わない愚直の人間です。
ちょっと説明されただけですぐ、わかりましたという方。
ためになりました。ありがとう。聴聞に極まる。と短くいう人はほんとにわかってるのかなと疑う汚い心の人間です。
他のお話はとても理解できるしわかりやすくて学んでいきたいですが、他力、弥陀の本願だけはどうしても抽象的でわかりません。
1番最初にこの事を話せば良かったのに。腑に落ちました。m(_ _)m
最近菊谷先生のお話を聞かせて頂いてから、宗教には無関心な私でしたが親鸞聖人の教えに心うたれます
ただ菊谷先生のお話は前置きが長いので、もう少し短いと私はもっと聞きやすいです
これからも楽しみにしています
真宗の考えであり本人が信じたければ信じればいい。信じるだけならタダなのだから信じてみてもいいと思います。
信心を悪用されて、お布施という名目でお金を騙し取られることはまさか無いでしょう
法話の上手い人の話を1回聞いて、たったそれだけで信心が定まりました。
上手い人が話す阿弥陀仏の請願の謂れを聞けば誰でも容易に信心を得ることができます。
自力を疑情とだけ説明すると、他の努めている修道者にも誤解を与える可能性もあります。
仏教で言うところの自力は悟りを得るための聖道修行のことで、他力は阿弥陀仏の本願に与ること、
であればこそ立場を堂々と示した上で、比較対照としての自力をしっかり説明してみてはいかがですか。
自力を捨てるのも他力でしょうか?自力でしょうか?
宿善まかせ、自力は出す力。他力とは出る力。お陰様、お互い様。正義感という名の悪、迷い、疑情の心から抜けたと云う思い上がりも異安心なのかもしれない。聞法心を忘れない事ですね。
いつもありがとうございます。
仏法は聴聞に極まる。
「聞」と言うは、衆生
仏願の生起・本末を聞きて
疑心有ることなし。
これを「聞」というなり
仏法は聴聞に極まる。菊谷さんいつも大事なお話をありがとうございます。
他力本願が目標。それが仏教の奥深い教えと思い聴いておりました。凄い深い先生のお話で僕の考えが間違っていないか聴いておりました。
たまたまですが、昨日から1泊2日で山に行って夜空の星を見に行ってました。僕と妻は宇宙の中にいる。その壮大な感覚って他力的で私なんかちっぽけですが宇宙と同じような壮大な拡がりを感じました。幸福でした。
ためになりました、ありがとうございます。
自信教人信 まず菊谷さんが自力を捨てて他力に帰さねば何を言っても説得力がありませんよ
自力のお話、聴聞いたしました。。ありがとうございます。
真剣に仏法の話を聞いていると自力を捨て他力になることができるのでしょうか。どんなに落ちこぼれでも永遠の幸福を得られますように。
今日も貴重な話をありがとうございます。
自力がなくなって他力になることを「信心決定」と言い、一日も早く信心決定せよ、真剣に聴聞してくれよ、と勧め続けられたのが親鸞聖人や蓮如上人です。
『自力とはなんなのか。 それは疑情のことである。
そして疑情とは「弥陀の本願を疑う心」のことである。
また、疑情とは苦しみの根源、迷いから離れられないたった一つの原因である。
だから疑情すなわち自力を捨てよと説くのが浄土真宗である。』
本動画から上記のように理解しました。
申し訳ありませんが、まったく理解できませんでした。
なぜなら「弥陀の本願が存在する前は苦しみも迷いも無い」こととなってしまいますから。
存在しないものを疑うことなんてありませんし、信じることもありません。 だって対象が無いんですから。
そう考えると、この世に苦しみや迷いを生んだのは「弥陀の本願」ということになってしまいます。(だって「たった一つの原因」なんですよね?)
→ご説明の通りに理解すると、「弥陀の本願が生まれ、それを疑う心が生まれ、その結果として苦しみや迷いから離れられない状態が生まれた」ことになってしまいます。
そうなのですか? 阿弥陀仏が苦しみを生んだのですか? 阿弥陀仏が人々を迷いの世界に繋ぎ止めたのですか?
阿弥陀仏は自ら人々の苦しみを作り出してしまったからこそ、「救わねば」と本願を建てられたのですか?
疑情とはなんなのか。 結局よく分かりませんでした。
例えるなら「病気で苦しむ」と「薬を飲まないから苦しむ」の関係です。煩悩によって悪業を造り、迷いを重ねているのが「病気で苦しむ」ということであり、そんな迷いの衆生を救う本願を疑い、名号をいただかないから迷いを重ねている、というのが「薬を飲まないから苦しむ」ということです。
@@byBuddhism
なるほど。
「疑情が私達の苦しみの根源である」とのことでしたが、正確には「苦しみが無くならない理由」を表していたということですね。
仏教では「生きるとは苦である」と説かれていると理解しています。 これは「生きる = 苦」を表し、具体的には認識そのものが苦の正体であるとの理解です。
では、「生きる = 苦」の原因は何かというと、当然のことですが「生まれ」が原因となります。 生まれたから生きているわけですから当たり前ですね。
お釈迦様は「生老病死」を見て嘆かれました。 なんとか「生老病死」から逃れられないか、と。
そして、生まれの原因を断つ方法を自らの実践をもって発見されました。 その方法を説かれたのが仏教との理解です。
浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)では、その方法が「弥陀の本願により救われる」と説かれ、具体的には聴聞により弥陀の本願への疑いを断つこととされているということでしょうか?(すみません、浄土教と浄土真宗の関係は自分はよく分かっていません。)
親鸞聖人がそのように(弥陀の本願への疑いを完全に断ちなさい、ということ)説かれたということに疑義はありませんが(まぁ、正しいとする論拠も持っていませんけど)、「親鸞聖人が言ったから」という以上の、確からしさを確認するための根拠は何か存在するのでしょうか?
なお、自力と他力を対比するなら、「他力により救われる」と「自力により救われる」が対になるように思えます。
これは(本動画の説明を基にすると)「弥陀の本願への疑いが断たれることにより救われる」と「弥陀の本願を疑うことで救われる」と言い換えられそうです。
・・・ やはり「自力」の捉え方はおかしくないですかね?
これが「自力(八正道の実践)により救われる」と言うなら理解できるのですが、、、
何者かの力により救われるから「他(者の)力(で救われる方法)の教え」であり、自分自身の修行により救われるから「自(分の)力(で救われる方法)の教え」と捉えた方が自然に感じられます。
「自力」も「他力」もしょせんはラベルにすぎないので、どう定義されようと間違いでは無いとは思いますが、、、
「疑いが無くなることを他力、疑いがあることを自力」とするのは言葉の使い方として強い違和感をおぼえます。
@@handle_K.T. 自力聖道門、他力浄土門、という意味で使う自力は仰有る意味になりますが、親鸞聖人が教行信証で重ねて言われていて、今回話をしている「自力」は、弥陀の救いを求めて起きてくる心です。親鸞聖人が使われる「自力」の意味のほとんどは、という言い方をしたのはそういうことです。
@@byBuddhism
親鸞聖人の言葉の使われ方という点は理解しており、そのため「なお書き」でおかしく感じられる旨書かせて頂きました。
言語なんてものは時代と共に変わっていくものですし、親鸞聖人が生まれてから800年以上たっていますので、当時書かれたものに対してどうこう言うことに意味が無いことは理解しております。
(単に「これだとうまく伝わらないことが多いだろうなぁ」程度の感想だとご理解下さい。)
一方で、文脈的には「弥陀の本願で救われるためには100%の信心が必要であり、そこに自力でなんとかしようという考えがあると、間違った方向に行動してしまう。 だから自力で救われようとする思考が残っていると弥陀の本願に救われるための障壁となり、(弥陀の本願により救われず)苦しみが無くならない。」という意図だったのではないかと想像しています。
それを一気に省略して「自力 = 弥陀の本願を疑う心」と言っているように感じられました。
(事実、「自力 = 疑情 = 弥陀の本願を疑う心 = 苦しみの根源であり迷いから離れられないたった一つの原因」としてしまうと、(左記の定義のみから導けば)論理的におかしなことになってしまうことは、最初にコメントさせて頂いた通りです。)
浄土真宗として「弥陀の本願を疑う心を捨てよ」と言うのであれば、そのまま理解できると思います。 そのための手段として「聴聞に極まる」と説いているんですよね?
それをなぜわざわざ「自力を捨てよ」と言い換えているのかが、自分には理解できていません。
→わざわざそのように言われると「自力の教えてに対抗したいのかな? 大乗と小乗のように(こっちは大きいぞ、的な)他を否定する常套手段ってやつなんですかね?」 と勘ぐりたくなってしまいます。。。
今日の菊谷先生のお話しはとてもよく分かりました!毎日親鸞証人や蓮如上人に関する書籍を読んでいますのでよくよく分かりました。
こんばんは。🌃🤱🌆🤱🌇🤱今日も、動画、ありがとうございます。🌰🤱🍌🤱🍰🤱🎂🤱
何故、親鸞ははじめから自力を疑情と言われなかったのでしょうか?
いつも 勉強させて頂いております
仏教では 未来仏 弥勒菩薩が おられますが 親鸞聖人はどのように説いておられるのでしょうか?
弥勒お先にごめん、と弥勒より先に仏になるのが弥陀の救いだと教えられています。
釈迦入滅後 56億7千万云々と 言うのは 釈迦の教えでは無いのですか?
あ〜〜
やはり私は既に真の知識に出逢ってました😅
あの時の先生の言葉は忘れません。
(私の家庭は浄土真宗ですが あの時の先生は他の宗派の方でした)
しかし理解に悩んでいる時に
菊谷先生のUA-camに出逢い
次々と紐解く事が出来ました。
これからも繰り返し聴いて
繰り返し自心に説いて
滝つぼに向かいたいと思います😅
心配性で疑い深く宗教とは?陰謀とは?とかその心は?と考えてしまうので^^
助けてあげますので信じましょうというのを素直に受け入れられない性格です。。
けれど、孤独な自分でも世の中(の人々や植物や動物)に助けられていて感謝して
小さなことで幸せを感じられるだけでもいいのかな。
国語の答えは一応あるけど正解はないって先生が仰っていました。世の中本当の
真実は一つなようでひとつじゃない、動画で仰っているように大勢の意見が正解の
ようになったりしていますよね。何が正解かは自分で決めればいいと思います。
他力本願に成れか?
悪いことがあれば他人のせいにしろ?
一番楽な生き方だなー
私には一度聴いただけではわかりませんでした。だからこそ何度も聴いてみようと思いました。
還暦になるのに私は知らないことが多すぎて恥ずかしいです。
自力の計らいを捨てようとしてもそれを捨てる為に別の計らいが出てきますどうすればいいでしょうか
本願力によってのみ、自力はなくすことができます。
@@byBuddhism それなら全て阿弥陀仏次第になりますが何故まだ僕は助からないのでしょうか
無理矢理にも、意思に反してでも自分自身に信じ込ませる、と言うことですか(・・?
その手段が聞法で、聞いて聞いて聞き抜くと(・・)
むしろ自力は文字通りに近くて、自ら生み出した考えとかで、無自性であるにもかかわらず握り締めて離さないそれを捨てることが大切、と言うような意味とかではないでしょうか(・・)
知らんけど(-ω- )
言葉を変えると、自我、みたいな(^-^)
自我を振り回すことはやめなさい、みたいな(^-^)
勝手な思い込みや決め付けを大事にして、そこから意義あることをすると言った″自力作善″を捨てて、一切を阿弥陀仏に任せて絶対に他力で生きると(^-^)
そもそも自分と言ったものが無いわけだから、そこから、無いものから生まれた考えなど有るわけがなくて、何も無いまま体に任せ、さながら反応体として生きる、みたいな感じじゃないですか?(^-^)
出鱈目のカルト教義だけど(^-^)
自分自身に信じ込ませているのを「自力」といいます。
@@byBuddhism
と言うことは、信じ込ませるための「聞いて聞いて聞き抜く」が不要になりますよね?(^-^)
だって自力への手段というご説明ですから(^-^)
動画でそのように仰っておられます(^-^)
如何ですか?(^-^)
この地球の人類の流転輪廻の罪は、実はすでに宇宙理界帝が無くして仕舞われたと聞きました❗それは2018年に起きました❗貴方は信じますか?☺️
自力(疑情)を捨てるということは、完全に信じ切るということだと思います。
宗教というのは信じるものですから、信じ切れないのであれば宗教をやっていることに意味がないし、宗教をやっていないということになるでしょう。
宗教である以上、疑いを捨てて信じることが大事だというのは当たり前のことですね。
そういう意味ではどの宗教でも同じだと思いました。
教えを学んでいることは想像できますが、説明(相手に伝える事)は下手ですね。
親鸞上人は、人生の幸福論は言ってないでしょう。弥陀の本願を信じ、死後に阿弥陀さまの世界へ行く約束ごとのようなものでしょう。現世の利益ではないでしょう。
他力本願?
少し回りくどいと思います。結論をもう少し早めに話したほうが最後まで見ようという気になります。
ありがとうございます!