日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2024/5/8)

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  • Опубліковано 6 тра 2024
  • 2024年5月8日(水)
    【旧約聖書】
    (主は)私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。詩40:4(協)
    【新約聖書】
    あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。エフェ4:23(協)
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    この「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。教会に来ることが難しい方でも、日々、御言葉に親しんでいただくために、ローズンゲンの釈義黙想を基本的に毎朝5時に更新します。
    六ツ川教会の教会員でない方も、よろしければどうぞご活用ください。
    最後に、一日のはじまりを整える呼吸と沈黙の時間があります。
    ヨガの修練から得た呼吸法を取り入れています。
    お時間がある方は、ぜひお試しください。
    使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2024』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2023年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。
    *ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。
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     高校生のときの現代文の授業で、丸山真男先生の「であることとすること」を勉強したことを、私はとても印象深く覚えています。法律用語の「時効」という言葉を引き合いに出して、権利を持っているだけで、行使しないものは、法律の保護の対象とならないのと同じように、たとえば民主主義も持っているだけでは意味はなく、行使することで初めて生きることになるということです。そうでなければ、ただの名ばかり民主主義です。民主主義は、「である」という状態ではなく、権利を行使する、つまり「する」こと、丸山先生はほかの所で、「永久革命」と表現していました。民主主義を絶えることのない運動として捉えているということです。
     新約聖書から与えられたエフェソの信徒への手紙4章17節からの内容は、聖書協会共同訳の小見出しには、「古い生き方を捨てる」と書かれています。古い生き方とは、かつての生活の仕方であり、それをこの手紙では「異邦人」と表現しています。他方、新しい生き方とは、イエスの歩みによって示された生き方であり、それは創世記の冒頭に書かれているように、神にかたどって造られた新しい人のことを示しています。「異邦人」というのは、普通であればイスラエル人以外の人を指すと考えてしまいますが、ここでは虚しさとか中身のない精神状態のことを指しています。つまり、異邦人であるか、そうでないかは、その人の人格に虚しさをかかえているかどうか、虚しさによって支配された人格であるかどうかなのです。たとえイスラエル人であって、虚しい人格しか持っていない人は、異邦人なのです。そうしますと、名ばかりイスラエル人がいるのであり、その考え方に基づきますと、名ばかりキリスト者もいるということです。イエスの歩みに示された生き方をしていない名ばかりキリスト者は、異邦人なのです。
     だから、私たちは洗礼を受けたからキリスト者だと、安穏としていられないということになります。洗礼を受けたとしても、教会に通わず、イエスの歩みに従わない人は、すぐに異邦人となってしまうのです。本日与えられた御言葉「あなたがたは、心の霊において新たにされなさい」とあるように、私たちは日々新たにされる必要があるのです。
     神さまとは、常に私たちを新しくしてくださる方です。旧約聖書から詩編40編4節が与えられました。2節からこのように歌っています。「私は耐えて主に望みを置いた。すると主は私に向かって身を乗り出し、私の叫びを聞いてくださった。主は私を滅びの穴、泥沼から引き上げて、私の足を岩の上に立たせ、歩みを確かなものとし、私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。」神さまは、苦難の中にある私たちを引き上げ、新しい歌を私たちに与えてくださるのです。そして私たちは新しくされるのです。苦難から救い出してくださるのです。私たちを新しくしてくださる方、それが神さまなのです。
     私たちは「キリスト者である」という状態で満足することはできません。日々、キリスト者になるという、現在進行形で考えなければ、つまり、永久の運動として考えなければ、私たちはすぐに名ばかりキリスト者となってしまうのです。
    日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

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