【ゆっくり歴史解説】21人の女性が自刃した会津戦争の悲劇。西郷千重子の残酷すぎる最期【歴史解説】

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  • Опубліковано 2 лис 2024

КОМЕНТАРІ • 8

  • @TAKE-pu2si
    @TAKE-pu2si Рік тому +3

    その後の斗南藩に移った人々の更に悲惨なエピソードも是非お願いします。

  • @かんれ-c8j
    @かんれ-c8j Рік тому +1

    頼母は追放されたのでは無い。身の危険を感じて、逃げ出しただけ。あまりにも卑怯千万な行いで、容保は刺客を差し向けた程。あまりの頑迷固陋振りで、周りからチビのヒゲダルマと憎まれていた、頼母だが奴に振り回され、命を落とした家族が、哀れでならない(;_;)。

  • @福田理理子
    @福田理理子 Рік тому

    松平容保ブラックな部分も紹介してください。①明治天皇を廃位しようとした。(帝のくせに臣下である徳川に逆らったから)。②輪王寺宮(後の北白川宮能久親王)を天皇にした。③プロイセンに北海道を植民地として売り渡そうとした。

  • @まっぺまっぺ
    @まっぺまっぺ 2 роки тому +4

    必死の死の部分は、単語だとアウトかもしれんが、熟語としてはネガティブな言葉じゃないからそのまま使っていい語句だと思いますよ。

  • @maksight503
    @maksight503 Рік тому

    頼母の唯一の男児は城内に送り出されて生き残ったんだけど、夭折
    その後養子にとった西郷四郎は「姿三四郎」のモデルになったんですよ。

  • @hidepro
    @hidepro 7 місяців тому

    アンチテーゼとして…
    武家に生まれた婦女子として、実に天晴な行動だと思う。彼女等は武家の鑑であるとして、永遠に顕彰されるべきである。義士は後の世の電話交換手とは違う。前者は武士道を貫いた者、後者は武士道を強要された犠牲者である。同様に扱ってはならない。故に、現在の感覚で批評されてはならない。日本人以外には決して理解できない行動であるけれども、日本人が同情する事は、武家の高潔な魂を汚すことになりはしないか?だから私は、涙を流しながら天晴を叫ぶ。

  • @由夫板橋
    @由夫板橋 Рік тому

    無能な藩主をもった藩の悲劇。
    まあ、保科正義の家訓もあるけど、先が読めなさすぎた。