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そんな時代でも グリコのオマケをやめなかった『江崎グリコ』は偉い!
ドングリはアクがハンパなく強く、まともに食べられるようにするにはものすごい手間と時間が掛かるため、遊び半分で食べたりするんじゃないぞと子供のころ祖父に教えられました。
配給制って無料でもらえるものではなかったのでは?「配給切符があれば購入できる」システムだったと思います。
この時代は本当に大変だった。現在は誰もが手に入れたい物を自由に買えるし、不足する事も殆ど無いため苦しい生活を政府が強いたり等も無い。其れ等を考えると確かに今も苦しいだろうが、空襲を受けて何時命を落とすかも知れない危機や、特高や隣組の監視に晒されずに安心した生活が出来る、現代の方が遙かに恵まれていることに自分は感謝したいと思う。
自分の親はこの時代引きずってるみたいな人で、ウチが特段金持ちでもないのに余剰の食料や金を周りに分け与えて家族を貧乏にさせるって事しょっちゅうしてた。
今は多く見かけるけど、戦時中兵役中の男性の代わりに電車の運転手になった女性運転手
高齢者です。亡くなった祖母の話では、戦時中は食べるモノが無く、道端に生えていたオオバコという雑草を、茹でて食べていたそうです🌿😫
タンポポの葉や 芋の葉を味噌汁に入れて食べてもいたとか。後楽園球場は 外野スタンドに高射砲が設置され グラウンドは畑になったそうで 大泉滉さんも 当時そこで野菜作りをしていたそうですね。
美味しいの?栄誉あるの?
その昔高校の先生が戦時中ドングリの代用コーヒー作って案外旨かったって言ってたな
同じくタンポポの根を炒った代用コーヒーもあり、こちらはノンカフェインのコーヒーとして現在も製造販売されています。
@@user-ur7hl5ek6zさん 大昔に爺ちゃんからオクラのタネを炒って粉末にした「コーヒーの様な飲み物」を飲んでいたと言っていましたね。
はだしのゲンを思い出しました
宇能鴻一郎の官能小説「すわっぷ団地」で主人公の女性がエンドウ豆を使った豆ごはんを夫に作ってあげると夫は「豆ごはんは代用食のイメージがあって好きじゃなかったけど、結構うまい」と喜んで食べるシーンがあります。こんな人は昭和40~50年代には結構いましたね。
毒を持つことで有名な”彼岸花”の球根。飢饉の時は毒抜きして食べたそうです。
いわゆる「救荒植物」ですね、毒があるという事もありますが飢饉への備えとして子供が遊びで乱伐しないよう「死人花」「幽霊花」というネガティブな名前を付けたとも云われています、彼岸花にはいい迷惑ですけど。(苦笑)
私の両親は父が昭和4年(1929年)、母が昭和5年(1930年)生まれですが、戦時中の話はあまりしてくれないです。父は既に亡くなり、母が今でも健在ですが、あんな苦しくて悲しい思いをするのはもう嫌だ、という事みたいです。
そう言えば最近戦争映画やドラマ減りましたねリメイクもされたフランキー境さん主演で「私は貝になりたい」と明石家さんまさん主演の「さとうきび畑の唄」が特に印象に残ってる。
さんまさんの「私はこんな事(敵兵を殺す)するために生まれて来たんじゃないんです。」一番感動した。あのさんまさんはカッコよくも見えた。
朝ドラのまんぷく、カムカムエブリバディ、ブギウギで「贅沢は敵だ」っていう文字良く見ますね。戦時中いかに暮らしが大変か改めて知ることが出来た気がします
贅沢は敵だ…に誰かが「素」を書き加えるイタズラをして、誰だ…こんな事する奴は!!とキレる憲兵…こういう光景もたまにドラマや映画などでみかけますね。
母親はいつも芋ばっかり食べていたと言ってましたね。両親共戦時中の話は全くと言う程しなかった。今思えば聞いとければ良かったと思います。
鉄筋が手に入らなくなったので竹で代用した竹筋コンクリートなるものがあったそうな。
はだしのゲンの描写はマジだよ。もう既に亡くなった祖父母に読ませたら本当に当時の戦時中の時代を描いていると生前言っていた。
当時祖父と祖母は東京下町で暮らしていたんですが、世間の窮乏をよそに食料に関し少なくとも飢える事は無かったとか。祖父は当時警察官だったもので、何やら配給+αがあった事が窺えるのですが結局聞けずじまい…。
18:12 「岩で作られた服」っていうのが想像できない。
紙で作られた服(ステープルファイバー、略してスフ)と間違えたのでしょうかね。
日本人の従来有るものから更に良い物へと云うアレンジする器用さ改変力はこの頃から有ったものなんでしょうね。
旅行も不要不急、軍事輸送の妨げになるという事で出来なくなり、鉄道利用するにも長距離の場合は許可証が必要に…そんな中でも好きな鉄道旅行をどうにか色々工面しながら続けるも、空襲も激しくなり、久々に堂々と汽車に乗る事が出来たのは、地方へ疎開する時…鉄道作家の宮脇俊三さんが体験談を記した「時刻表昭和史」に、鉄道旅行を中心に、戦争と共に生活が窮屈になっていく様子が克明に描かれたいました。最近、再出版された本ですが、あの本も、戦時中の暮らしをリアルに知る事が出来ます。
宮脇俊三さんは山形と秋田の県境の駅で8月15日を迎え、玉音放送を聞いてこれで日本も終わるのかと虚無感に打ちひしがれていた時、列車が定刻通り到着し定刻通り発車していったのを見て日本が終わるというのにこんな事があるのだろうか、と驚いたそうです。有馬温泉への観光客を運んだ神戸電鉄テン1形展望電車,昭和天皇をお乗せした名鉄SC-Ⅲ形貴賓電車も輸送力増強として魔改造の餌食になり、前者はクハ140形141号,後者はモ680形681号というた だ の 電 車 になりました。
@@user-ur7hl5ek6z 宮脇俊三さんは、山形県の今泉駅前広場で玉音放送を聞いたらしいですね。「時は止まっていたけど、汽車は走っていた」と時刻表昭和史に記されてますが、あの場面は、私が読んだ本の中でも一番心に残る場面です。
>鉄道利用するにも長距離の場合は許可証が必要→短距離切符の場合は許可証が不要と解釈できますね。となると短距離切符を購入し、適当な理由をつけて「乗り越し精算」を申告すれば許可証いらずで合法的に長距離移動が可能だったと言う事でしょうかね?
@@takana4381さんへ当時、鉄道省(国鉄)は、100km以上の区間を乗車するときは目的を申告して(勿論、買い出しやら行楽などはダメ)許可が必要だったらしいです。「時刻表昭和史」にも描かれてましたが、やはり裏ワザを使う人もかなりいて、制限のない国電区間の切符だけで農村部へ行き、ペナルティとして乗車券の何倍もの料金を徴取されるものの、乗り越しをする人が後を絶たなかったようです。そのために千葉県や埼玉県の駅は乗越客で溢れかえり、駅員も一々咎め立てする余裕すらなく、事務的に料金を徴収するだけで終わったようです。都内に住んでいた宮脇俊三さん自身も、東海道線の湯河原へミカンの買い出しに行ったようですが、東京から湯河原までだと100キロ超えてしまうので、小田急で小田原まで出て、東海道線に乗り換えた事が描かれてました。私鉄は国鉄と違って無制限で切符が買う事が出来た上、小田原から湯河原は僅か10数キロなので、ここも切符は自由に買えたからです。
宮脇俊三さんは他に、開通したばかりの関門トンネルを通って九州まで旅行したが、その時は運輸省に勤めていた義理の兄のコネで(少々ムリに頼んだようだが)九州までの乗車券と、第一種急行(特急にあたる)の指定券まで入手したそうです。
戦時中の生活は、記者のいる都市部目線で書かれることが多い。当時の地方農村(特に東北地方)は、恐慌や凶作で疲弊をしており、満蒙開拓の必要性やそれを守る軍部への支持が高まった。戦時中の「都市部」の窮乏は、「農村部」では日常的な事であり、農村部にとっては今以上の悲壮感は無かったと思われる。(隣組のような人工的な制度がなくても、生産共同体があったため、普段より相互チェックされていた)
うちは農家で着物と米を替えに多数来、納戸が呉服屋のやふになったと親から聞いた
戦時中、写真家の登録書に書いてある禁止事項が凄い。①鉄道、軌道等の施設の撮影②港湾施設、船舶、空港、航空機の撮影③重要施設、高所からの撮影等々、(これ以外にも多数)撮影出来るものが無い。
軍事機密に関わるから、なんでしょうね。今でも国によっては駅や港湾、空港の撮影禁止ってありますよ。
中国旅行であちこち写真を撮りまくって当局に捕まったというのもあった。
「この世界の片隅に」で、すずさんが高台から呉の街をスケッチして、憲兵に咎められる場面を思い出してしまう。
@@user-xb5vv8eq4b 中国とか絶対厳しそうだけどね。
@@user-bs5eb8ys2s 戦時中なら絶対なんか言われるでしょうね…戦時中の風景画とか地図はあえて嘘が描いてあったり途中で消えたりしてたって話結構残ってますし。
バッタ🦗とかそのまま食べたりお腹減って大根まるかじりする疎開の子もいたらしいよ。
ウチの故郷は山間部のド田舎で先祖は百姓だった為、戦時中でもそれ程食料に困る事は無かったらしい。それにしても今も昔も御上は温々、真っ先に首絞められるのは庶民ってのは変わらないね。
こんな苦しい生活して報われないとか残酷すぎる
鉄道でも『木炭車』は 相模鉄道の気動車に存在していました。小湊鐵道では 沿線で産出される天然ガスを代用燃料とした気動車もありました。「本当に戦争が正しいと思っているなら 何であろうと徹底抗戦とかのムードだったんだろうけど『玉音放送』を境にそれで終わっちゃったんだから やっぱりどこかに無理があって みんな早くやめたかったんだろうね。」と だいぶ前の雑誌のコラムに たけしさんが書いてたっけ。
大人たちが戦時中は「お国のために戦え!」と子供たちを叱咤していたのに戦後になったら「戦争はいけない事です」と掌を返す理不尽さを少年時代に見てきた宗田理先生が「ぼくらの7日間戦争」を書きました。天然ガスを代用燃料にしていたのは他にも鉄道省(→国鉄→JR)の千葉県や新潟県(新潟県でも天然ガスが産出されていました)の路線でもあったそうです。
鉄道も観光客を運んだりオラの村から隣の町までという路線は「不要不急路線」として営業を休止させられレールなどは撤去されて軍需目的の路線や戦地に運び出されていきました。戦後営業を再開する路線もあればそのまま再開することなく廃止された路線もありました。陶器製の手榴弾の前に3式地雷という陶器製の地雷が作られたけど、こちらは米軍の地雷探知機(磁気を帯びる金属に反応して地雷を探知する、現在空港やトレジャーハントで使われる金属探知機の元祖)に探知されにくく結構な戦果を上げたそうな。渋谷のハチ公像も金属回収令でお国のためにと供出されました、現在の像は戦後に作られた2代目です。
成田鉄道や信貴山急行電鉄等は それで廃止になりました。
御殿場線は単線化しました。1943(昭和18年)の事です。
@@toriri-service 様琴平急行電鉄とかもそうですし、オラが村からでは安濃鉄道や出石鉄道も廃止になりましたね。逆に豊川海軍工廠への工員輸送から豊川稲荷参拝に転換した名鉄豊川線(旧・豊川市内線)や鉄道連隊の演習線をリサイクルした新京成電鉄など、軍需目的から転換された路線もあります。(天浜線こと天竜浜名湖鉄道(旧・国鉄二俣線)も東海道本線の浜名湖鉄橋が空襲で破壊された場合に備えるバイパス線として開業しました)
@@user-ur7hl5ek6z 様前述の成田鉄道は 京成が設立した『セレベス島開発鉄道』にレールを供出しましたが そのレールを積んだ輸送船が撃沈されて 海の藻屑と消えました。また レール以外にも 9600形等の蒸気機関車や キハ42000等の気動車も 戦地や植民地に供出されたそうですね。鎌ケ谷市のとある児童公園には 新京成電鉄のルートから外れた 鉄道聯隊の遺構(小川を越える橋梁の橋脚)が残っています。元が軍用なので あまりにも丈夫すぎて後年壊すことも不可能だったそうで 未だに放置されています。
これとは反対に昭和17年には関門トンネルが開通していますが、こちらは当時の状況が状況だったからこそ敷設されたとか。
学校の校庭は耕して、サツマイモ作りをしていた。大きいだけの品種で不味かった。(父母談
他の人も書かれていますが、配給というのは国がただで物をばら撒いていたわけではありません。配給切符はただですが、それは単なる権利であって、物をもらうにはお金が必要になるという仕組です。例えると、岸田が国民にただで砂糖や石鹸をばら撒くと思えますが?
必要以上に、食べないように努力したい。お腹いっぱい食べない。大変なんだ
大戦末期に近づくほど食料はもちろん、燃料、人員など海上輸送が困難で、更に国内で空襲や米軍機の機銃掃射で列車や人など動くものも攻撃対象になり、海上どころか陸地でも輸送が難しかった。もし戦争が長引いて本土決戦があった場合、日本国民は戦死者だけでなく食料不足で餓死者が続出していたと思う。
木炭車の仕組みは木炭を不完全燃焼させて一酸化炭素を発生させ、それをガソリンと空気の混合気の代わりとしてガソリンエンジンと同じく点火プラグで燃焼させてエンジンを動かすというものです。(※現在の隙間風の吹かない密閉性の高い部屋で炭火焼きとか火鉢で暖を取ると一酸化炭素中毒になるので必ず定期的に換気をしてください)
これですね。ua-cam.com/video/su51P8kw_wM/v-deo.htmlsi=0lBpjwTHQqQu2Rve
イナゴとかも塩焼きだったとか・・(今は佃煮にしてるのが主)広告のスローガンは知ってる限り、ぜいたくは敵だと欲しがりません勝つまでは、ガソリンの一滴は血の一滴は
平和の有難味が身に染みます。平和はその状態が当たり前ではありません。飽食で、モノに溢れ、カネが有るとルイ・ヴィトンのハンドバッグなんか買い漁る時代は平和ボケ。
私の母校は二宮金次郎はいませんでしたが、持って行かれたとは聞いたことがないので、元々いなかったのかもしれません(父の在学した昭和20年代後半にもいなかったらしいです)都内最狭みたいな学校なので置く場所なさそうだし😂でも、校舎の鉄筋を持っていかれたため、階段の手すり(石材?コンクリ?製のアールデコ調なヤツ)に一定間隔で小さな埋め跡がありました😱これは何度も聞かされましたちなみに、関東大震災後に建てた所謂復興小学校なので築100年近い校舎ですが、合併で校名は変わったものの今も校舎として現役です!あと、母の再婚相手の経営していた会社は、先代が金属類を池に隠し、戦後はそれを元手に金属加工会社を始めたそうです😆逞しい😅
「トントンとんからりと隣組」の隣組も住民監視のためのものだしね。
戦時中は東武日光線の一部が単線阪急嵐山線単線広島電鉄宮島線廿日市から宮島線単線(コレを比治山線(今の皆実線)や江波線を作った)
あと燈火管制も…😱
うちの御先祖は北海道在住かつ米屋だったので、そんなに食糧には困らなかったと言っていました。そして配給をズルしてました・・・
息子が通っていた小学校には戦前からの二宮金次郎像が置いてあったがコンクリート製だったので供出は免れたんでしょうね。
今年憲法が変わったら、この現代日本もこうなります。
戦争絶対反対😢現在進行形のロシアVSウクライナも早期終結を願います😢
パーマや野球のグローブ作ってる時はまだいくらか余裕があったんだろうな、敗戦間近ではそんな余裕無かったはず
戦時中でもパーマをかけドレスを着て慰問に回っていた淡谷のり子さんは気骨ある人だったのだな。警察や憲兵からの恫喝にも一切屈しなかった様ですが、その人達も冷酷無比ではなく、慰問公演の際に会場が流行歌を歌って欲しい雰囲気になると、検閲官であった憲兵や刑事が自然にトイレへ行く雰囲気でそっと会場を出て行ったりしたそうです。
昔住んでた近所の独居ばあ様。玉音放送の夜に布団の中で『ざまあみろ我が祖国』と泣きながら笑ったとか
生々しい…😢
米穀通帳実物ばぁちゃんが持ってたな本家の家さがせばあるかな?
亡き母に聞いた事⋯配給に砂糖はあんま貰っても意味がなかったそうです😅米と塩ならなんとかなるけど🧂🌾って言ってた💦てか、戦時中より戦後の方が大変だったらしい。食事の時は取り合いだったと。あと闇米もあったな😅基本物々交換でもあったし⋯だから、某戦争映画は嫌いとも言ってたな💦だってお金価値ほとんど無かったし。
戦時中の旧国鉄時代を扱っている当時の記録のエッセイは、鉄道作家の宮脇俊三氏(1926年〜2003年)の「時刻表昭和史」(KADOKAWA出版)と、原武史氏の「歴史のダイヤグラム」(朝日新書で既刊2冊,朝日新聞土曜版beに、現在連載中。朝日新聞デジタルに掲載。)ですね⁉️当時の時刻表は、JTB時刻表復刻版(電子書籍版もあり。)として発行されていますね⁉️😊
国鉄は戦後の発足。戦時中は、鉄道省ですね。
時は止まっていたが、汽車は走っていた…あの文章、これまで読んだ本の中でも一番心に残ってます。
@@chaco-papecoさん JGR(Japanese Government Railways) → JNR(Japanese National Railways) → JR(Japan Railways)
戦時中には陶器製の包丁があったのか。「圧倒的不審者の極み!」みたいな。長らくチャンネルが更新されてないな。
戦後、焼け野はらで何にもなく親が亡くなったのか孤児達が集団で固まっている昔の映像を見た事がある。どうしていたんだろう😔
闇市で使いっぱしり。
広島では、はだしのゲンでも描かれていたが、原爆孤児がヤクザの使いっパシリにされて、ヤクザ同士の抗争の犠牲(ようは鉄砲玉)にされる事が多かったようですね。身寄りない子供は死んでも後腐れが無かったから使いやすかったようです。
亡くなった祖母の話では農家だったのもあり、食料には困らなかったそうです。話は逸れますが亡くなった祖父の徴兵検査は、湖の真ん中まで連れて行かれて岸まで泳ぎ切ったら合格という中々ヘヴィな徴兵検査だなぁと思いました。泳ぎ切れなかった人達はやっぱり白い目で見られてかも知れません。
これを見て、火垂るの墓やはだしのゲンをみたり読んだりしたら、また感想変わるかも
鯨は代用食ではありません普通においしかった、今でも食べたい。
13:40 理由がないと納得しない。
ノビルは美味しいと思うんだけどなぁ。ってか、陶器の包丁って、そっから進化したら、セラミック包丁じゃね?って思った。アルイミ最新技術。木炭車や薪車って、ロストテクノロジーになりつつあるけど、これも或る意味最新のカーボンニュートラル。木炭や薪を燃やして動力にするんじゃなくて、加熱して可燃ガスを取り出す。ってのが、よく考えられてるよねぇ。
亡き両親に戦時中の話を聞いておけばよかった!
今年米寿の高齢者です。学童集団疎開の体験者です。疎開先で地震に会い瓦礫の下から這い出し、九死に一生を得て帰った実家で今度は空襲に会い、親とはぐれ火の中を逃げまわりました。今思うと良くぞ生きていたと
配給権て、配給券よね。
母の実家で実物の米穀通帳を見ました。ただ実家は地方の地主だったのでなんとか食べていたようです。むしろ戦後の農地開放で生活が変わった方が大変だったと。父親の方は都内から疎開してきた人の紹介で上京して進学、就職が決まったと言っていました。
窮乏生活に耐え、倅を軍隊にとられて殺されて、家は焼かれて逃げ回る。飼いならされた国民だよなぁ。
それでも戦争がなくならないのは、独裁者の強欲が強いから。
木炭パーマの木炭は持ち込み制、燃料を切り詰めても、お洒落する女性達は、たくましい(笑)。
いかにお上といえど、その身を少しでも繕いたいという女性の本能までは縛れなかった。それが戦争という人間にとって最大の極限状況でもね。
まあ、当時の日本で英語のAからZのアルファベットを使ったら逮捕されてましたし、武槍ではアメリカ兵士は愚か小さな少女もマシンガンで先手を取られて殺されるから訓練もやるだけ無駄です。
戦争中は「天気予報を発表しない」んだよね。やっぱり戦争に影響があるからなんだけど、これは今でも同じらしいな。
「東の風、雨」・・・ 日米関係の危機的状況「北の風、曇り」・・・ 日ソ関係の危機的状況「西の風、晴れ」・・・ 日英関係の危機的状況
今の人はアニメ映画とかでしか確認出来ないからね。やはり戦争は良くないよ😢ウクライナ戦争、イスラエルとハマスの件早く終息して欲しいな。台湾侵攻も起こさない様に皆で阻止しないと
ガンダムとかのリアルロボットアニメは戦争を経験した事がない世代の欲求代償と云われています。兵器とかをカッコいいと愛好したり女の子に擬人化して愛でるのは平和の証なのかもしれません。
★現代のフードロスを考えると、配給制度も悪くはないで➰❗戦争は絶対反対やけど・・😢⤵️⤵️
同じく廃プラスチック問題で戦時代用品を見直してみるのもいいですね。
@@user-ur7hl5ek6z 👍👍★うん‼️いいと思うで~😃⤴️⤴️👍👍ものを大切にする気持ちを見習いたいで~😃⤴️⤴️
戦争と配給ってのは言わば両輪みたいなもので、どちらかだけって事はあり得ません。だからその考えは根本的に矛盾している事になります。人間の生活にとって「無駄」は避けられないもので、一方で無駄があるからこそそこに「自由」もあるのです。無駄を全て省いたら、人間の生活はそれこそ一挙手一投足に至るまで管理されるほどの窮屈極まるものにならざるを得ないでしょう。無駄が出来るのは自由の証、それがどれだけ尊いものかを考えてみて下さい。
@@un-105x 👍👍✮はい❗わかりました〜👍👍とてもありがたいお言葉❤️❤️
改めて岸○があ、ほだと認識しました。
うちの曾祖母の話だけど疎開中同級生の一人親が農家だった男の子の親からパック1杯のさくらんぼが届いた、けれど男の子は数個しか食べれなかった先生は皆に配るからなとしかし生徒達に配れたのは一ずつだったそして残ったサンランボは教師達が食べていたらしい
配給券でしょう
代用品の事を「さっきも聞いたよ!」と言われる年寄りみたいに繰り返しているな
昭和、アナログでよいのよ、ハイテクとか、いっても、まだまだ、未来ではない、電気がとまれば、パソコンも、だめ、交通も、麻痺笑笑、紙と鉛筆でよいの、1000年たてば、未来だな笑笑
長過ぎる
そんな時代でも グリコのオマケをやめなかった『江崎グリコ』は偉い!
ドングリはアクがハンパなく強く、まともに食べられるようにするにはものすごい手間と時間が掛かるため、遊び半分で食べたりするんじゃないぞと子供のころ祖父に教えられました。
配給制って無料でもらえるものではなかったのでは?
「配給切符があれば購入できる」システムだったと思います。
この時代は本当に大変だった。現在は誰もが
手に入れたい物を自由に買えるし、
不足する事も殆ど無いため苦しい生活を
政府が強いたり等も無い。其れ等を考えると
確かに今も苦しいだろうが、空襲を受けて
何時命を落とすかも知れない危機や、特高や
隣組の監視に晒されずに安心した生活が
出来る、現代の方が遙かに恵まれていることに
自分は感謝したいと思う。
自分の親はこの時代引きずってるみたいな人で、
ウチが特段金持ちでもないのに
余剰の食料や金を周りに分け与えて家族を貧乏にさせるって事しょっちゅうしてた。
今は多く見かけるけど、戦時中兵役中の男性の代わりに電車の運転手になった女性運転手
高齢者です。亡くなった祖母の話では、戦時中は食べるモノが無く、道端に生えていたオオバコという雑草を、茹でて食べていたそうです🌿😫
タンポポの葉や 芋の葉を味噌汁に入れて食べてもいたとか。
後楽園球場は 外野スタンドに高射砲が設置され グラウンドは畑になったそうで 大泉滉さんも 当時そこで野菜作りをしていたそうですね。
美味しいの?栄誉あるの?
その昔高校の先生が戦時中ドングリの代用コーヒー作って案外旨かったって言ってたな
同じくタンポポの根を炒った代用コーヒーもあり、こちらはノンカフェインのコーヒーとして
現在も製造販売されています。
@@user-ur7hl5ek6zさん 大昔に爺ちゃんからオクラのタネを炒って粉末にした「コーヒーの様な飲み物」を飲んでいたと言っていましたね。
はだしのゲンを思い出しました
宇能鴻一郎の官能小説「すわっぷ団地」で主人公の女性がエンドウ豆を使った豆ごはんを夫に作ってあげると夫は「豆ごはんは代用食のイメージがあって好きじゃなかったけど、結構うまい」と喜んで食べるシーンがあります。こんな人は昭和40~50年代には結構いましたね。
毒を持つことで有名な”彼岸花”の球根。
飢饉の時は毒抜きして食べたそうです。
いわゆる「救荒植物」ですね、毒があるという事もありますが飢饉への備えとして子供が遊びで乱伐しないよう
「死人花」「幽霊花」というネガティブな名前を付けたとも云われています、彼岸花にはいい迷惑ですけど。(苦笑)
私の両親は父が昭和4年(1929年)、母が昭和5年(1930年)生まれですが、戦時中の話はあまりしてくれないです。
父は既に亡くなり、母が今でも健在ですが、あんな苦しくて悲しい思いをするのはもう嫌だ、という事みたいです。
そう言えば最近戦争映画やドラマ減りましたね
リメイクもされたフランキー境さん主演で「私は貝になりたい」と明石家さんまさん主演の「さとうきび畑の唄」が特に印象に残ってる。
さんまさんの「私はこんな事(敵兵を殺す)するために生まれて来たんじゃないんです。」一番感動した。あのさんまさんはカッコよくも見えた。
朝ドラのまんぷく、カムカムエブリバディ、ブギウギで「贅沢は敵だ」っていう文字良く見ますね。戦時中いかに暮らしが大変か改めて知ることが出来た気がします
贅沢は敵だ…に誰かが「素」を書き加えるイタズラをして、誰だ…こんな事する奴は!!とキレる憲兵…こういう光景もたまにドラマや映画などでみかけますね。
母親はいつも芋ばっかり食べていたと言ってましたね。両親共戦時中の話は全くと言う程しなかった。今思えば聞いとければ良かったと思います。
鉄筋が手に入らなくなったので竹で代用した竹筋コンクリートなるものがあったそうな。
はだしのゲンの描写はマジだよ。
もう既に亡くなった祖父母に読ませたら本当に当時の戦時中の時代を描いていると生前言っていた。
当時祖父と祖母は東京下町で暮らしていたんですが、世間の窮乏をよそに食料に関し少なくとも飢える事は無かったとか。祖父は当時警察官だったもので、何やら配給+αがあった事が窺えるのですが結局聞けずじまい…。
18:12 「岩で作られた服」っていうのが想像できない。
紙で作られた服(ステープルファイバー、略してスフ)と間違えたのでしょうかね。
日本人の従来有るものから更に良い物へと云うアレンジする器用さ改変力はこの頃から有ったものなんでしょうね。
旅行も不要不急、軍事輸送の妨げになるという事で出来なくなり、鉄道利用するにも長距離の場合は許可証が必要に…そんな中でも好きな鉄道旅行をどうにか色々工面しながら続けるも、空襲も激しくなり、久々に堂々と汽車に乗る事が出来たのは、地方へ疎開する時…鉄道作家の宮脇俊三さんが体験談を記した「時刻表昭和史」に、鉄道旅行を中心に、戦争と共に生活が窮屈になっていく様子が克明に描かれたいました。最近、再出版された本ですが、あの本も、戦時中の暮らしをリアルに知る事が出来ます。
宮脇俊三さんは山形と秋田の県境の駅で8月15日を迎え、玉音放送を聞いてこれで日本も終わるのかと
虚無感に打ちひしがれていた時、列車が定刻通り到着し定刻通り発車していったのを見て日本が終わると
いうのにこんな事があるのだろうか、と驚いたそうです。
有馬温泉への観光客を運んだ神戸電鉄テン1形展望電車,昭和天皇をお乗せした名鉄SC-Ⅲ形貴賓電車も
輸送力増強として魔改造の餌食になり、前者はクハ140形141号,後者はモ680形681号という
た だ の 電 車 になりました。
@@user-ur7hl5ek6z
宮脇俊三さんは、山形県の今泉駅前広場で玉音放送を聞いたらしいですね。
「時は止まっていたけど、汽車は走っていた」と時刻表昭和史に記されてますが、あの場面は、私が読んだ本の中でも一番心に残る場面です。
>鉄道利用するにも長距離の場合は許可証が必要
→短距離切符の場合は許可証が不要と解釈できますね。となると短距離切符を購入し、適当な理由をつけて「乗り越し精算」を申告すれば許可証いらずで合法的に長距離移動が可能だったと言う事でしょうかね?
@@takana4381さんへ
当時、鉄道省(国鉄)は、100km以上の区間を乗車するときは目的を申告して(勿論、買い出しやら行楽などはダメ)許可が必要だったらしいです。「時刻表昭和史」にも描かれてましたが、やはり裏ワザを使う人もかなりいて、制限のない国電区間の切符だけで農村部へ行き、ペナルティとして乗車券の何倍もの料金を徴取されるものの、乗り越しをする人が後を絶たなかったようです。そのために千葉県や埼玉県の駅は乗越客で溢れかえり、駅員も一々咎め立てする余裕すらなく、事務的に料金を徴収するだけで終わったようです。都内に住んでいた宮脇俊三さん自身も、東海道線の湯河原へミカンの買い出しに行ったようですが、東京から湯河原までだと100キロ超えてしまうので、小田急で小田原まで出て、東海道線に乗り換えた事が描かれてました。私鉄は国鉄と違って無制限で切符が買う事が出来た上、小田原から湯河原は僅か10数キロなので、ここも切符は自由に買えたからです。
宮脇俊三さんは他に、開通したばかりの関門トンネルを通って九州まで旅行したが、その時は運輸省に勤めていた義理の兄のコネで(少々ムリに頼んだようだが)九州までの乗車券と、第一種急行(特急にあたる)の指定券まで入手したそうです。
戦時中の生活は、記者のいる都市部目線で書かれることが多い。
当時の地方農村(特に東北地方)は、恐慌や凶作で疲弊をしており、満蒙開拓の必要性やそれを守る軍部への支持が高まった。
戦時中の「都市部」の窮乏は、「農村部」では日常的な事であり、農村部にとっては今以上の悲壮感は無かったと思われる。
(隣組のような人工的な制度がなくても、生産共同体があったため、普段より相互チェックされていた)
うちは農家で着物と米を替えに多数来、納戸が呉服屋のやふになったと親から聞いた
戦時中、写真家の登録書に書いてある禁止事項が凄い。
①鉄道、軌道等の施設の撮影
②港湾施設、船舶、空港、航空機の撮影
③重要施設、高所からの撮影
等々、(これ以外にも多数)撮影出来るものが無い。
軍事機密に関わるから、なんでしょうね。
今でも国によっては駅や港湾、空港の撮影禁止ってありますよ。
中国旅行であちこち写真を撮りまくって当局に捕まったというのもあった。
「この世界の片隅に」で、すずさんが高台から呉の街をスケッチして、憲兵に咎められる場面を思い出してしまう。
@@user-xb5vv8eq4b 中国とか
絶対厳しそうだけどね。
@@user-bs5eb8ys2s 戦時中なら絶対なんか言われるでしょうね…
戦時中の風景画とか地図は
あえて嘘が描いてあったり
途中で消えたりしてたって話
結構残ってますし。
バッタ🦗とかそのまま食べたりお腹減って大根まるかじりする疎開の子もいたらしいよ。
ウチの故郷は山間部のド田舎で先祖は百姓だった為、戦時中でもそれ程食料に困る事は無かったらしい。それにしても今も昔も御上は温々、真っ先に首絞められるのは庶民ってのは変わらないね。
こんな苦しい生活して報われないとか残酷すぎる
鉄道でも『木炭車』は 相模鉄道の気動車に存在していました。
小湊鐵道では 沿線で産出される天然ガスを代用燃料とした気動車もありました。
「本当に戦争が正しいと思っているなら 何であろうと徹底抗戦とかのムードだったんだろうけど『玉音放送』を境にそれで終わっちゃったんだから やっぱりどこかに無理があって みんな早くやめたかったんだろうね。」と だいぶ前の雑誌のコラムに たけしさんが書いてたっけ。
大人たちが戦時中は「お国のために戦え!」と子供たちを叱咤していたのに戦後になったら「戦争はいけない事です」と
掌を返す理不尽さを少年時代に見てきた宗田理先生が「ぼくらの7日間戦争」を書きました。
天然ガスを代用燃料にしていたのは他にも鉄道省(→国鉄→JR)の千葉県や新潟県(新潟県でも天然ガスが産出されて
いました)の路線でもあったそうです。
鉄道も観光客を運んだりオラの村から隣の町までという路線は「不要不急路線」として営業を休止させられ
レールなどは撤去されて軍需目的の路線や戦地に運び出されていきました。
戦後営業を再開する路線もあればそのまま再開することなく廃止された路線もありました。
陶器製の手榴弾の前に3式地雷という陶器製の地雷が作られたけど、こちらは米軍の地雷探知機(磁気を帯びる金属に
反応して地雷を探知する、現在空港やトレジャーハントで使われる金属探知機の元祖)に探知されにくく結構な
戦果を上げたそうな。
渋谷のハチ公像も金属回収令でお国のためにと供出されました、現在の像は戦後に作られた2代目です。
成田鉄道や信貴山急行電鉄等は それで廃止になりました。
御殿場線は単線化しました。1943(昭和18年)の事です。
@@toriri-service 様
琴平急行電鉄とかもそうですし、オラが村からでは安濃鉄道や出石鉄道も廃止になりましたね。
逆に豊川海軍工廠への工員輸送から豊川稲荷参拝に転換した名鉄豊川線(旧・豊川市内線)や
鉄道連隊の演習線をリサイクルした新京成電鉄など、軍需目的から転換された路線もあります。
(天浜線こと天竜浜名湖鉄道(旧・国鉄二俣線)も東海道本線の浜名湖鉄橋が空襲で破壊された
場合に備えるバイパス線として開業しました)
@@user-ur7hl5ek6z 様
前述の成田鉄道は 京成が設立した『セレベス島開発鉄道』にレールを供出しましたが そのレールを積んだ輸送船が撃沈されて 海の藻屑と消えました。
また レール以外にも 9600形等の蒸気機関車や キハ42000等の気動車も 戦地や植民地に供出されたそうですね。
鎌ケ谷市のとある児童公園には 新京成電鉄のルートから外れた 鉄道聯隊の遺構(小川を越える橋梁の橋脚)が残っています。
元が軍用なので あまりにも丈夫すぎて後年壊すことも不可能だったそうで 未だに放置されています。
これとは反対に昭和17年には関門トンネルが開通していますが、こちらは当時の状況が状況だったからこそ敷設されたとか。
学校の校庭は耕して、サツマイモ作りをしていた。大きいだけの品種で不味かった。(父母談
他の人も書かれていますが、配給というのは国がただで物をばら撒いていたわけではありません。
配給切符はただですが、それは単なる権利であって、物をもらうにはお金が必要になるという仕組です。
例えると、岸田が国民にただで砂糖や石鹸をばら撒くと思えますが?
必要以上に、食べないように努力したい。お腹いっぱい食べない。大変なんだ
大戦末期に近づくほど食料はもちろん、燃料、人員など海上輸送が困難で、更に国内で空襲や米軍機の機銃掃射で列車や人など動くものも攻撃対象になり、海上どころか陸地でも輸送が難しかった。もし戦争が長引いて本土決戦があった場合、日本国民は戦死者だけでなく食料不足で餓死者が続出していたと思う。
木炭車の仕組みは木炭を不完全燃焼させて一酸化炭素を発生させ、それをガソリンと空気の混合気の代わりとして
ガソリンエンジンと同じく点火プラグで燃焼させてエンジンを動かすというものです。
(※現在の隙間風の吹かない密閉性の高い部屋で炭火焼きとか火鉢で暖を取ると一酸化炭素中毒になるので
必ず定期的に換気をしてください)
これですね。
ua-cam.com/video/su51P8kw_wM/v-deo.htmlsi=0lBpjwTHQqQu2Rve
イナゴとかも塩焼きだったとか・・(今は佃煮にしてるのが主)
広告のスローガンは知ってる限り、ぜいたくは敵だと欲しがりません勝つまでは、ガソリンの一滴は血の一滴は
平和の有難味が身に染みます。
平和はその状態が当たり前ではありません。飽食で、モノに溢れ、カネが有るとルイ・ヴィトンのハンドバッグなんか買い漁る時代は平和ボケ。
私の母校は二宮金次郎はいませんでしたが、持って行かれたとは聞いたことがないので、元々いなかったのかもしれません(父の在学した昭和20年代後半にもいなかったらしいです)
都内最狭みたいな学校なので置く場所なさそうだし😂
でも、校舎の鉄筋を持っていかれたため、階段の手すり(石材?コンクリ?製のアールデコ調なヤツ)に一定間隔で小さな埋め跡がありました😱
これは何度も聞かされました
ちなみに、関東大震災後に建てた所謂復興小学校なので築100年近い校舎ですが、合併で校名は変わったものの今も校舎として現役です!
あと、母の再婚相手の経営していた会社は、先代が金属類を池に隠し、戦後はそれを元手に金属加工会社を始めたそうです😆
逞しい😅
「トントンとんからりと隣組」の隣組も住民監視のためのものだしね。
戦時中は東武日光線の一部が単線
阪急嵐山線単線
広島電鉄宮島線廿日市から宮島線単線(コレを比治山線(今の皆実線)や江波線を作った)
あと燈火管制も…😱
うちの御先祖は北海道在住かつ米屋だったので、そんなに食糧には困らなかったと言っていました。
そして配給をズルしてました・・・
息子が通っていた小学校には戦前からの二宮金次郎像が置いてあったがコンクリート製だったので供出は免れたんでしょうね。
今年憲法が変わったら、この現代日本もこうなります。
戦争絶対反対😢
現在進行形のロシアVSウクライナも早期終結を願います😢
パーマや野球のグローブ作ってる時はまだいくらか余裕があったんだろうな、敗戦間近ではそんな余裕無かったはず
戦時中でもパーマをかけドレスを着て慰問に回っていた淡谷のり子さんは気骨ある人だったのだな。警察や憲兵からの恫喝にも一切屈しなかった様ですが、その人達も冷酷無比ではなく、慰問公演の際に会場が流行歌を歌って欲しい雰囲気になると、検閲官であった憲兵や刑事が自然にトイレへ行く雰囲気でそっと会場を出て行ったりしたそうです。
昔住んでた近所の独居ばあ様。玉音放送の夜に布団の中で『ざまあみろ我が祖国』と泣きながら笑ったとか
生々しい…😢
米穀通帳実物ばぁちゃんが持ってたな本家の家さがせばあるかな?
亡き母に聞いた事⋯配給に砂糖はあんま貰っても意味がなかったそうです😅
米と塩ならなんとかなるけど🧂🌾
って言ってた💦
てか、戦時中より戦後の方が大変だったらしい。
食事の時は取り合いだったと。
あと闇米もあったな😅
基本物々交換でもあったし⋯だから、某戦争映画は嫌いとも言ってたな💦
だってお金価値ほとんど無かったし。
戦時中の旧国鉄時代を扱っている当時の記録のエッセイは、鉄道作家の宮脇俊三氏(1926年〜2003年)の「時刻表昭和史」(KADOKAWA出版)と、原武史氏の「歴史のダイヤグラム」(朝日新書で既刊2冊,朝日新聞土曜版beに、現在連載中。朝日新聞デジタルに掲載。)ですね⁉️
当時の時刻表は、JTB時刻表復刻版(電子書籍版もあり。)として発行されていますね⁉️😊
国鉄は戦後の発足。戦時中は、鉄道省ですね。
時は止まっていたが、汽車は走っていた…あの文章、これまで読んだ本の中でも一番心に残ってます。
@@chaco-papecoさん JGR(Japanese Government Railways) → JNR(Japanese National Railways) → JR(Japan Railways)
戦時中には陶器製の包丁があったのか。「圧倒的不審者の極み!」みたいな。長らくチャンネルが更新されてないな。
戦後、焼け野はらで何にもなく親が亡くなったのか孤児達が集団で固まっている昔の映像を見た事がある。どうしていたんだろう😔
闇市で使いっぱしり。
広島では、はだしのゲンでも描かれていたが、原爆孤児がヤクザの使いっパシリにされて、ヤクザ同士の抗争の犠牲(ようは鉄砲玉)にされる事が多かったようですね。身寄りない子供は死んでも後腐れが無かったから使いやすかったようです。
亡くなった祖母の話では農家だったのもあり、食料には困らなかったそうです。話は逸れますが亡くなった祖父の徴兵検査は、湖の真ん中まで連れて行かれて岸まで泳ぎ切ったら合格という中々ヘヴィな徴兵検査だなぁと思いました。泳ぎ切れなかった人達はやっぱり白い目で見られてかも知れません。
これを見て、火垂るの墓やはだしのゲンをみたり読んだりしたら、また感想変わるかも
鯨は代用食ではありません普通においしかった、今でも食べたい。
13:40 理由がないと納得しない。
ノビルは美味しいと思うんだけどなぁ。
ってか、陶器の包丁って、そっから進化したら、セラミック包丁じゃね?って思った。アルイミ最新技術。
木炭車や薪車って、ロストテクノロジーになりつつあるけど、これも或る意味最新のカーボンニュートラル。
木炭や薪を燃やして動力にするんじゃなくて、加熱して可燃ガスを取り出す。ってのが、よく考えられてるよねぇ。
亡き両親に戦時中の話を聞いておけばよかった!
今年米寿の高齢者です。学童集団疎開の体験者です。疎開先で地震に会い瓦礫の下から這い出し、九死に一生を得て帰った実家で今度は空襲に会い、親とはぐれ火の中を逃げまわりました。今思うと良くぞ生きていたと
配給権て、配給券よね。
母の実家で実物の米穀通帳を見ました。ただ実家は地方の地主だったのでなんとか食べていたようです。むしろ戦後の農地開放で生活が変わった方が大変だったと。父親の方は都内から疎開してきた人の紹介で上京して進学、就職が決まったと言っていました。
窮乏生活に耐え、倅を軍隊にとられて殺されて、家は焼かれて逃げ回る。飼いならされた国民だよなぁ。
それでも戦争がなくならないのは、独裁者の強欲が強いから。
木炭パーマの木炭は持ち込み制、燃料を切り詰めても、お洒落する女性達は、たくましい(笑)。
いかにお上といえど、その身を少しでも繕いたいという女性の本能までは縛れなかった。
それが戦争という人間にとって最大の極限状況でもね。
まあ、当時の日本で英語のAからZのアルファベットを使ったら逮捕されてましたし、武槍ではアメリカ兵士は愚か小さな少女もマシンガンで先手を取られて殺されるから訓練もやるだけ無駄です。
戦争中は「天気予報を発表しない」んだよね。
やっぱり戦争に影響があるからなんだけど、これは今でも同じらしいな。
「東の風、雨」・・・ 日米関係の危機的状況
「北の風、曇り」・・・ 日ソ関係の危機的状況
「西の風、晴れ」・・・ 日英関係の危機的状況
今の人はアニメ映画とかでしか確認出来ないからね。やはり戦争は良くないよ😢ウクライナ戦争、イスラエルとハマスの件早く終息して欲しいな。台湾侵攻も起こさない様に皆で阻止しないと
ガンダムとかのリアルロボットアニメは戦争を経験した事がない世代の欲求代償と云われています。
兵器とかをカッコいいと愛好したり女の子に擬人化して愛でるのは平和の証なのかもしれません。
★現代のフードロスを考えると、配給制度も悪くはないで➰❗戦争は絶対反対やけど・・😢⤵️⤵️
同じく廃プラスチック問題で戦時代用品を見直してみるのもいいですね。
@@user-ur7hl5ek6z 👍👍
★うん‼️いいと思うで~😃⤴️⤴️👍👍ものを大切にする気持ちを見習いたいで~😃⤴️⤴️
戦争と配給ってのは言わば両輪みたいなもので、どちらかだけって事はあり得ません。
だからその考えは根本的に矛盾している事になります。
人間の生活にとって「無駄」は避けられないもので、一方で無駄があるからこそ
そこに「自由」もあるのです。
無駄を全て省いたら、人間の生活はそれこそ一挙手一投足に至るまで管理されるほどの
窮屈極まるものにならざるを得ないでしょう。
無駄が出来るのは自由の証、それがどれだけ尊いものかを考えてみて下さい。
@@un-105x 👍👍
✮はい❗わかりました〜👍👍
とてもありがたいお言葉❤️❤️
改めて岸○があ、ほだと認識しました。
うちの曾祖母の話だけど
疎開中同級生の一人親が農家だった男の子の親からパック1杯のさくらんぼが届いた、
けれど男の子は数個しか食べれなかった
先生は皆に配るからなと
しかし生徒達に配れたのは一ずつだった
そして残ったサンランボは教師達が食べていたらしい
配給券でしょう
代用品の事を
「さっきも聞いたよ!」
と言われる年寄りみたいに繰り返しているな
昭和、アナログでよいのよ、ハイテクとか、いっても、まだまだ、未来ではない、電気がとまれば、パソコンも、だめ、交通も、麻痺笑笑、紙と鉛筆でよいの、1000年たてば、未来だな笑笑
長過ぎる