Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
私は、藤山一郎さんのファンなんです。
長崎の鐘よ永遠に鳴り続けよ♫。
❤藤山一郎さんの長崎の鐘はなんとも言えぬ情緒があり大好きです長崎県似、原爆が落とされ皆が悲しみと不安を覚えられたでしょう😅
1948年生の私は亡父から聞いた永井博士の生涯を想いながら、この歌を聴いていました。いつも自然と涙が流れます
もう70年程前から聞いているような気がします。昔の風情が蘇ってくるようです。3番の歌詞はキリシタンの皆様のことかなあ、等、考えさせられます。長崎の特徴が散りばめられていますね。何だか切なくなります。
何度聞いて👂️♨️👂️も💓♥️❤️いい曲💓♥️❤️ですね。以前NHKの💕💕😌💕💕😭💦💦🌄朝ドラ✋で作者永井博士の💕💕😌💕💕著者を☺️基にサトウハチロー作詞、🕺古関裕而作曲、💕💕😌💕💕✋で、💕💕😌💕💕歌われてきました。👦人々の💕💕😌💕💕平和を☺️💓♥️❤️願う曲💓♥️❤️✋であり、💕💕😌💕💕🌄朝ドラエール✋で永井博士を演じていた吉岡秀隆さんの💕💕😌💕💕演技は💕💕😌💕💕見事です。もう、💕💕😌💕💕藤山一郎さんの💕💕😌💕💕歌を聞く事は💕💕😌💕💕出来ないのですが💕💕😌💕💕皆さんの心の中に生き✋てると💕💕😌💕💕思います。
光子 井上絵文字だらけのあなたのコメント、誰が読む気になるだろうか?もう少し常識をわきまえて欲しい。イイおトシなんでしょう?
すてき😊~🎉
朝ドラをみてから改めて聞き入ってます。奥行きの深さ等とても魅了されます。
贅沢なアップですね。どう歌って藤山一郎。引き込まれます。
原爆投下の犠牲に成った、長崎の人々の霊に追悼の意を表します。😅。
感謝申し上げます。師匠・藤山一郎先生の唯一の弟子として、三部作、【2作品目は先生ご自身の詞ですね。】拝聴させて戴きました。ありがとうございます。師匠・藤山一郎先生の歌唱は声楽で譜面に忠実でした。素晴らしいです。ありがとうございます👍感謝
風邪で高熱の状態の藤山先生が、フラフラになりながら歌唱した一番が最もこの曲には適しているという。
長崎の鐘、聴くたびに何とも言えない気持ちになります。
歌い手の品格。あー、今の歌手にこの品格で歌える人がいない。言葉を大切に、伝える事の使命を感じる歌いです。何度も考え、歌いの中からこのスタイルが完成したのであろう。敬服する。
藤山一郎さんの「長崎の鐘」は本当に心に「しみる」また、長崎訪れたい。
長崎の情景が広がってきます。永遠の名曲ですね。
昭和20年8月9日、長崎医科大学助教授の永井隆が書いた詩に、古関祐而が作曲、「長崎の鐘」として発表されましたが、GHQの許可が下りず、長い間放送されませんでした。歌は藤山一郎、僕は聊かセンチメンタルな歌い方が、好きにはなれませんでした。あの戦争犯罪を「天災」と捉えようとする大人たちの偽善に、たぶん子供心に本能的な嫌悪を覚えたのだと思います。
リアル世代ではないけど、歌詞に重みがあり、聞くたびに心が洗われる気持ちになります。たまに無性に聞きたくなります。藤山一郎さんのが最高です。
Finally, after all these years ..... I understand
病気かと思うぐらい、長崎の鐘の歌声を聴いていました!忘れません、日本人の魂の響きの歌声、悲しい音色、長崎の鐘
私は、長崎に行き、教会の鐘の音を聴いて観たいです。平和に感謝ですね🍀尊い犠牲者さん、申し訳ない思いです。言葉がわかりません。心から尊い命なのにと思うと切なくなります、涙が出ます。悲しい悲しいですね🍀
日本人が愛する悲しみの絆の歌声、長崎の鐘、
生きている、私達ができる事、世界の平和と真実の愛の世界を祈ります。🍀
いろんな歌手が、カバーして歌ってますが、長崎の鐘は藤山一郎さんでなければ、心に響きません。品格があり、今の歌手には、遠く及ばない表現力をお持ちです。
長崎をバス旅行行った時、前の日は雲仙、次の日が長崎市内観光でした、その日何故か偶然にも8月9日でした、長崎を去る時、バスガイドのお姉さんが長崎「長崎の鐘」を歌ってくれました、感動してしまい泣きそうになりました、
伸びのある、しかも品格ある美声に素晴らしさを感じます。
やっぱり、藤山一郎さんの長崎の鐘が、私のスタンダードです。とくに、こちらのアップは、まさにこの声、この歌、です。ありがとうございます。
素晴らしい歌だな これが本当の歌い手だ今の歌手に聞かせたいね藤山先生は永遠だな
長崎県人としてはこの歌は生涯わすれられない名曲として胸にきざまれています。7歳で被爆して75年お陰様でまだ元気で暮らしております。
頑張って長生きして下さいね~❤️愛知県在住の廃人ですけど、メール友になりたいなあ😃元気をお届け致しますよ~🤗🎶
必ず連絡して下さいね~🤗暇があればね~🎶明るく、楽しんで行きましょう😁因みに、私は68歳です。夜勤兼ねてトリプルワークしています🎶後2年は頑張るんだと決めています🎵負けないで下さいね~❤️連絡頂ければ幸いです💖🙇
島田さんお元気ですか?今日11時2分長崎方面に向かい【黙祷】しました🙇二度と戦争は禁止です!悲しむ人ばかりですし、ずっと尾をひきます!戦後生まれの自分ですけど、親から昔話を確り聞かされました🙇頑張って長生きしましょう🎵愚痴や悩みは吐き出して下さい。
00 ㅈ ' '
.ㅈ ㅈ ㅈ 징 ㅁ ㄷ
やはり、この人だ‼️丁寧に唱っています❤️
ずっと聞きたかったです。2番目の最後に足されている部分が大好きです。聞けてよかったです。もっとたくさんの人に聞いてほしいです。
家族全員涙で見ました。最後に幼い女の子、まごに似ていて忘れらない映画でした。
令和4年 長崎原爆忌に際して昭和58年6月5日発行 志村武著『自分への気くばり』第10章 あなたは生涯かけて何を後世にのこすか ー「生き様」だけがだれもがのこす遺産(以下引用)【生と死との一体感】 ひところ、『長崎の鐘』という歌がよく歌われた時期があった。近ごろのカラオケ演歌とはだいぶ趣を異にしたもので、故永井隆博士にまつわる哀調切々たる名歌である。 永井さんは長崎医大の先生で、原爆のさいには病院に勤務中で助かったが、奥さんのほうは留守宅で亡くなられてしまった。幸い、二人のお子さんは疎開先にいたので無事だった。実は、永井さんは被爆の前から白血病にかかっていた。医者である永井さんは、遠くない自分の死を知っていたので、残される二人の子供のことも頭におきながら、亡くなるまでの数年間、何冊かの書物を書き、それらは多くの人に深い感銘を与えている。 博士の白血病の原因は、戦争中、民間で働く人たちの結核予防のために献身したからであった。 「勝つためには…」のかけ声のもとで、医薬はおろか食べものも軍優先であったから、一般市民が肺結核にかかれば、まず回復の見込みはなかった。永井さんに残された武器は、レントゲンの大量検診による早期発見しかなかったのである。 当然のことながら、人体の安全のために定められた許容量をはるかに超えた放射能を浴びることになった。自己検診と、友人の医師による検診で、博士は病状の悪化を知った。 しかし、まだまだ働ける。博士は科学者としての冷静さと、カトリック信仰の力で、「死」に対処することができたが、妻ははたして大丈夫だろうか。死の予告はどれだけ妻を苦しめるだろうか。近ごろ、夫君の疲労の色が濃いのを奥さんは口にだすようになった。 幾日かして、ついに意を決した博士は、事実をありのままに告げた。奥さんは静かに夫の話を聞いて、少しもとりみだすようなことはなかった。りりしいともいえる妻の表情を見て、永井さんはすっかり重荷をおろすことができた。翌日から、永井さんはバカに元気がでてしまって、奥さんのつくった弁当箱ひとつをぶらさげて大学病院に向かう。昼めし時、弁当のふたをあけると、乏しい材料に工夫をこらした奥さんの心がにじみでていた。奥さんの笑顔さえそこにのぞいていた。 ある朝、うっかり弁当箱を忘れたのに気づいてすぐ引きかえし、玄関の戸をあけると、そこには泣き伏している奥さんの姿があった。 八月九日、原爆搭載機「ボックスカー」は、雲のため小倉市から第二目標の長崎へ向かった。雲間から長崎造船所をかいま見たビーハン爆撃手はボタンを押す。十一時二分。永井さんは大学病院で、そのまま血みどろの救援活動の先頭に立った。夕方、わずかな暇をみつけて自宅へ足を向けた。奥さんの死を永井さんは疑わなかった。生きていれば、這ってでも病院までくると知っていたからである。 焼け跡はすべて灰に化していたが、土台がやや盛りあがっていることから自宅の判別がついた。台所とおぼしい所に骨片があって、そばに鉄のロザリオ(数珠)が焼けただれていた。彼は焼バケツを探してきて、そのなかにだまって骨を入れた。 再び、被爆者の待つ病院に歩きだした永井さんの細身の身体を夕日が染めた。 「バケツのなかで燐酸石灰の音がカサコソ鳴る」と博士は記している。かすかにかすかに奥さんがささやいたのであろうか。
心に響く歌唱で永く歌い継がれてほしい曲です。サトウハチローが作詞を依頼された当初は、永井博士の活動が広く知られていなかっため「売名行為に加担したくない」と断りながら、事実を知る過程において「むしろ積極的に」作詞に傾注したエピソードは心を打つものがあります。
サトウハチローはよく早とちりする。美空ひばりもデビューしたての頃、心ない言葉を浴びせられ悲しい思いをさせられた。
@@KZ1839 さん。其の件についてはサトウハチローさんに先見の明が有ったと云えましょう。
アメリカの蛮行蛮行、原爆をこのような歌に代えるにう日本人の心の広さに感激します。
名曲です。
なんで三番があるのに歌詞には行ってないのかなミサが歌詞にある歌神の歌なんで?
有里子 殿まず、貴女の日本語が理解出来ません。何をおっしゃっているのかわかりません。お答えしようにも、貴女の文章が理解不能です。(元国語教師)
「ロザリオの~」の、“リ“が、あぁ、藤山一郎だなあと、思います。
コメントありがとうがざいます。富田勲は合唱や管弦楽の美しい音色を知り尽くしています。
いつきいても心にくる。いいね。
藤山さんの3回の録音を納めた貴重なものです。1回目は悲壮感溢れた歌唱で胸に迫るものがありますす、2番目は一番オーソドックスな歌唱でしょうか、3番目は悲しさを秘めた透明感に溢れた歌唱力の優れたもので、私はこれが一番好きです。
+月夜の案山子 この歌の元になったのは、当時長崎在住で被爆された永井医学博士夫妻の物語で、博士が残された手記「長崎の鐘」から作詞、作曲されたものです。二人の子供さんは疎開しており無事でしたが、博士は世を去る前に「この子を残して」などの手記を残されました。
月夜の案山子さん、私も3番目の物が一番好きです。
三回の録音、本当に貴重なものですね。ラジオか新聞の特集で、「一回目の時は高熱をおしてボツを覚悟で収録したところ一発オッケイ!体調不良で見事に歌いきったのが悲壮感漂う作品になった、」と言う話を聞いたのを覚えています。
そうだったのですか。。録音にそんな経緯があったのですね。長崎県人だったのに知りませんでした。貴重な情報をありがとうございます。藤山一郎さんはジェントルマンですねー。国民栄誉賞受賞者ですよね。😀
生徒を連れて「如己堂」を訪れ、永井博士の深い意志とキリスト教徒としての愛を感じた。この歌を聴くといつもなじめない着方を反省させられる。藤山一郎の姿勢とすがすがしさにも敬服する。歌謡曲も時にはこういう姿をまねてほしい。
今日初めて知ったのですが、最初の吹き込みは風邪で高熱を押しての苦しい吹き込みだったそうですね😷最初の唄が初版のレコーダだとしたら、確かにどこか苦しげにも聴こえますけどさすが超一流の歌唱力余計胸に迫りくるものが💘
今、こういう時代だからこそ、改めて聴かれるべき佳曲だと思いました
sadpure ぬひ三遊亭円歌
この歌を聴くと涙が出てきます。
長崎在住だった祖母や母が家事をしながらこの歌を口ずさんでいました。今、朝ドラでまたこの歌が多くの人に聴いてもらえるのが嬉しいです。
この歌、歌わずして長崎語れません!
この曲を聴くと永井教授の「この子を残して」を思い出して哀しくなります・・・と同時に二度と戦争は起こしてはいけないと強く思います
同感です逆説的ですがそして、この様な歌が又生まれてはいけませんその為にも歌い継がれて欲しいです
3通りの唄😢藤山先生の第一、第二、第三の人生史【人世史】と感じます💖何しろ、聴けば聴くほど吸い込まれて行きます🎵カラオケの練習に他の歌手のレパートリーは1~2ヶ月以内が常でしたが、藤山先生の曲は去年正月頃から現在も未だ唄い続けています🎶何か合点?満足いかないのです🙇廻りの皆さんは、十分だよ👌と持ち上げてはくれますが?いやだめなんだよ🤔未だ納得がいかないんだよね🎵もう少しでも近づけば、諦めますがね~😅自分史=藤山先生の様相です🙇生意気言って申し訳なく思っています😰お許しくださいね~❤️ゾッコン先生に惚れ込んだボケ老人ホーム?入りに近いボケ廃人ですよ~✌️
@慎吾母 at ファミ横商店街 さんへ、貴方には解りませんか?残念です😓
あたらしきあさの光のさし染むる荒れ野に響け長崎の鐘
もうじき半世紀になりますが、平日なのに学校が休みで家にいた小学4年生のころ。外の雨を見ながらラジオを聴いていると、この歌が耳に入ってきました。あの時の衝撃と感動は、今の私の原泉だったと思います。レコードなど買うことが出来なかったので、懐メロ特集をテレビ・ラジオ蘭でチェックしては聴き入っていました。録画なんてない時代、放送時間が来るのが待ち遠しく、その時が来れば、じっと聴き入ったものです。音楽は時に、思ってもみなかった新たな息吹を心に吹き込んでくれます。悲惨な戦争の犠牲のやるせない悲しみを語りながら、これからを明るく、しかし、つつましやかに生きようと問かけてくるこの歌唱は、どんな時代にも感動を与えるものだと感じます。
戦争ほど理不尽に人の命を奪うのはないでしょう幸い日本は約80年永い間、戦争が起きず、戦争を知らない世代が大部分ですでも、それは漠然として戦争だなかったのではないです戦争をさせないため、日本に攻め込まさせないための結晶です僕も35年間戦争抑止の為に、北海道勤務を含めて、防衛の役目を微力ながら果たせたこと誇りにしてます二度と長崎の鐘と同じ事が起きないように歌われ続けて欲しいです
それから、何故か8月9日が日曜日にあたると車で、長崎に行き黙祷しました、何故かって、僕の住んでいる北九州市は、かつて原爆落下第一目標地だったからです、だから長崎に原爆が落ちたから、北九州が助かったなんてこれっぽっちも考えていません、ですから小倉に「長崎の鐘」があるんです、北九州の人は毎年8月9日11時02分になると長崎の方角に向かって、長崎の鐘を鳴らして黙祷します、哀悼の気持ちを込めて祈ります
ずいぶんむかしから、この曲を聴くとつい涙ぐんでしまいます。みなさんの心の中にもきっとこの悲しい思い出が甦るとおもいます。曲を聞くたび、心して人の命の大切さを再認識して生きて生きなければとついつい思うのです。
中村 博 クン文中、原爆〝落下〟とあるが、〝投下〟と書くべき。作文能力もイマイチだ。
小学生最後の修学旅行で長崎に参りました如己堂の前ではこの歌を思い出して涙が止まりませんでした「こよなく晴れた青空を、悲しと思うせつなさよ」この歌詞から読み取れる詩をもっと多くの若い人々に知ってもらいたいです
若い人たちは知らないほうがよい。
@@winterwin4246悲しい歴史こそ保存して伝承すべきなのでは?悲劇の繰り返しを止めるなら必要なことだと思います。
心、うたれる名曲です、、 この歌の最も訴えたいのは一番の冒頭の歌詞の様な気がするのは私だけでしょうか、、、
笹薫
あなただけです!
10月に原爆被害者の会のみなさんの式典で歌わせていただきます。大変参考になりました。ありがとうございます。
テレビのかのレンタルで、見ました。(永井博士)のこの子を残して
中学1年になりました安部と申しますこの歌大好きです❤️❤️❤️藤山一郎さんの歌はほぼ歌えます
藤山さんが心を込めて贈る平和へのメッセージ戦場で散った英霊、理不尽にも一般市民に対する空襲で亡くなった市民悪魔の兵器の犠牲になった広島、長崎全てを包んで慰める藤山さんの歌声泪を堪えられません
長崎の鐘、悲しい、青空響く、鐘、悲しい歌です、切なき、儚き、 野の花の様に、美しい命、散る切ない歌詞です、どれだけの犠牲者が戦争は尊い大切な命を奪う悲しい切ない事、青空を悲しい染める思い、寂しい過ぎます。
これも、冨田勲の知られざる編曲です。
私も坂本町生まれる学童疎開で原爆ゎ免れましたが母と妹は亡くなりした。長崎の鐘居つ聴いても心討たれます
僕も、以前、偶然にも、三回、8月9日に、長崎に行きました、北九州から、長崎まで、下の道のりで、三時間ぐらい、なぜに北九州から、長崎に?実は、長崎の前の、原爆投下目標は、北九州の小倉だったんです、僕は、小学校の時に、この話を聞きました、本当にいたたまらない気持ちでした、平和記念公園に行った時に、掃除をしていた、おじさんに、聞かれました、「どこから、来られたの」って‥「北九州からです」って、答えたら、厳しい顔で、「あんたらの、小倉に、落ちんかったから、長崎に落ちたとよ」って言われました、一緒に来てた戦争体験者の小倉生まれの父が、びっくりして、「そんな言い方ひどい❗」って言いました、弟が、そのおじさんに「北九州の人は、原爆が、小倉に落ちず、長崎で良かったなんて、思う人は、誰一人いませんよ、北九州の人は、毎年、8月9日、11時二分になると、長崎の方角に向かって、鐘を鳴らして、黙祷するんですよ」って説明したら、納得したみたいでした、もう核兵器は、絶対無くすべき、戦争反対人殺しの道具は、作ってはいけないんです、僕が、長崎を訪れる度に、永井博士が、そう叫んでいる感じです、
ただこの歌を聞くと泣けます。
今日の百の反戦歌より、此の一曲の方が遥かに心に沁みる。戦争を体験している世代が作曲しているのですから至極当然では御座いますが…
古関さんも戦争を肌で経験している世代なのでは…?
若鷲の歌など作品があります当然戦争体験世代です、戦争を知らない世代でも戦争から日本を守るため訓練した者こそ戦争をしてはならないこと知ってますし、そのために訓練して未然に防ぐ抑止力となろうとしてますこれこそ本当の反戦だと思います
若い頃に唄いました。なぜならば、
合掌
原爆は確かに悲惨です。後遺症もありますし妊婦さんなんか子供の心配もあります。しかし原爆以外の兵器ならいいのか。後遺症や遺伝の心配はありません。しかし核兵器でなくとも相当広範囲の建物や人命を瞬時に奪う兵器もあります。私は核廃絶だけ言うのは片手落ちだと思います。すべての兵器に対してノーと言うべきだ。そんなことは無理だと言うなら核兵器だって同じことです。
こ
敗戦後気高い気持ちで廃墟の中から再出発した日本人、豊かになるにつれて年々が堕落の日々、そして今の体たらく、もうこの国には誇りが持てない。
戦時歌謡を、自身の意思とは関係になくこの歌を唄われた、澄やかな声で歌をしっかりと踊りもなく… この歌と「燃ゆる大空」「ラヂオ体操」そして「青い山脈」やはり芸大の教授になって当たり前の歌唱力があったんですね。
編集の仕方が分かりませんので、自身に返信いたします。この歌を唄われたではなく、平和の歌だと思います。一般市民に向けて、唄われた…「海ゆかば」は、戦没者に哀悼の意で演奏されています。Youtobeや、ぽっぽやをプライムで無料で観られる時代って素敵じゃない? 平和ボケしているというが、日本人は懐が広いんだから、堪忍袋が切れたら恐ろしいんだょ。と、実感しました。 赤いランプの終列車」も… 大好きです。
確かに美しく素晴らしい歌ではありますね。しかし幼稚園の時代に、ラジオでこれを聴いたときから、明確には判りませんでしたが、何やら割り切れない印象を受けたのも事実です。だからこの悲しく美しい歌が、好きにはなれませんでした。のちに大人になってから、K・V・ウォルフレンの著書The Enigma of Japanese Powerを読んで、ハッと気が付きました。その本にはこんな一節があったのです。「日本民族には、たとえ人災であっても、不可避的な運命と諦める他民族とは明らかに異なった性格がある」と。この言葉に、僕は横っ面を引っ叩かれた思いがしました。「なるほど」と、不愉快ながらも納得せざるを得ませんでした。子供時代のモヤモヤの原因は、まさにこれだったのです。地震、噴火、津波、台風などの自然災害に太古から晒されてきたわが民族のDNAには「諦め」の本能が根付いていたからです。広島・長崎・東京は、明らかにアメリカによる無差別殺戮の結果なのに、戦後の日本人はこれらを天災・天罰と納得してしまい、その結果この美しい歌が生まれたのだということを。明白なジェノサイドなのに、不可避的な運命と諦めてくれる日本人という民族は、アメリカ人にとっては現代に至っても、まことに御しやすい下僕なんでしょうね。
いい歌なのですが、唯一の汚点があります。どなたもコメントされていませんが、1番と2番との間奏が、明らかに「インターナショナル」を取り入れています。この歌を知った半世紀くらい前から気になっています。社会主義国ソビエトが、平和の使者だと思っている人が多かった時代なのでしょうね。話は変わりますが、テノール歌手「藤原義江」さんが歌った同名異曲「長崎の鐘」長崎の鐘が聞こえるよ~、で始まります、の音源をお持ちの方がいらっしゃったらアップお願いしたいです。十年以上前、NHKラジオ深夜便で放送された事があります。
@Il offre sa confiance et son amour. インターナショナルと共通する部分は間奏部「ソードーシレドソミ」だけなので借用の部類だと思います。例えば戦前の中野忠晴「バンジョーで唄えば」間奏部や終わり部分に「故郷の人々」や「オールドブラックジョー」が使われているのと似ています。。
@Il offre sa confiance et son amour. 私には、たまたまとは思えませんね。十九世紀に作られ世界的に有名な歌ですから知ってた筈です。古関裕而は軍歌等多数作って戦争に加担した、と批判されていたから、右と左でバランスをとったつもりだったのでは、と考えています。
3:34 は冨田勲さんの編曲ですね。
PROFESSOR- SENSEI, Mister FUJIYAMA Ichirō
感動!核兵器禁止条約の批准を!
Os sinos de Nagasaki dobram ..!!!!!!The bells of Nagasaki City toll !!!!
長崎の原子爆弾投下の投稿へ…あ~あ~長崎の鐘が鳴る~~~と投稿しましたら~罵倒されました~!! 合掌。
Don't forget Nagasaki.
不忘記広島和長崎。
Niemals in meinem Leben werde ich meine Besuche in Nagasaki und Hiroshima vergessen.
戦争で儲けようとしている政治家、資本家には怒りを覚える。この悲劇をまた繰り返したいのか。
る
はぁ…
私は、藤山一郎さんのファンなんです。
長崎の鐘よ永遠に鳴り続けよ♫。
❤藤山一郎さんの長崎の鐘はなんとも言えぬ情緒があり大好きです長崎県似、原爆が落とされ皆が悲しみと不安を覚えられたでしょう😅
1948年生の私は亡父から聞いた永井博士の生涯を想いながら、この歌を聴いていました。いつも自然と涙が流れます
もう70年程前から聞いているような気がします。昔の風情が蘇ってくるようです。3番の歌詞はキリシタンの皆様のことかなあ、等、考えさせられます。長崎の特徴が散りばめられていますね。何だか切なくなります。
何度聞いて👂️♨️👂️も💓♥️❤️いい曲💓♥️❤️ですね。
以前NHKの💕💕😌💕💕😭💦💦🌄朝ドラ✋で作者
永井博士の💕💕😌💕💕著者を☺️基にサトウハチロー
作詞、🕺古関裕而作曲、💕💕😌💕💕✋で、💕💕😌💕💕歌われてきました。
👦人々の💕💕😌💕💕平和を☺️💓♥️❤️願う曲💓♥️❤️✋であり、💕💕😌💕💕🌄朝ドラエール✋で永井博士を演じていた吉岡秀隆さんの💕💕😌💕💕演技は💕💕😌💕💕見事です。
もう、💕💕😌💕💕藤山一郎さんの💕💕😌💕💕歌を
聞く事は💕💕😌💕💕出来ないのですが💕💕😌💕💕
皆さんの心の中に生き✋てると💕💕😌💕💕思います。
光子 井上
絵文字だらけのあなたのコメント、誰が読む気になるだろうか?
もう少し常識をわきまえて欲しい。
イイおトシなんでしょう?
すてき😊~🎉
朝ドラをみてから改めて聞き入ってます。奥行きの深さ等とても魅了されます。
贅沢なアップですね。どう歌って藤山一郎。引き込まれます。
原爆投下の犠牲に成った、長崎の人々の霊に追悼の意を表します。😅。
感謝申し上げます。師匠・藤山一郎先生の唯一の弟子として、三部作、【2作品目は先生ご自身の詞ですね。】拝聴させて戴きました。ありがとうございます。師匠・藤山一郎先生の歌唱は声楽で譜面に忠実でした。素晴らしいです。ありがとうございます👍感謝
風邪で高熱の状態の藤山先生が、フラフラになりながら歌唱した一番が最もこの曲には適しているという。
長崎の鐘、聴くたびに何とも言えない気持ちになります。
歌い手の品格。あー、今の歌手にこの品格で歌える人がいない。言葉を大切に、伝える事の使命を感じる歌いです。何度も考え、歌いの中からこのスタイルが完成したのであろう。敬服する。
藤山一郎さんの「長崎の鐘」は本当に心に「しみる」また、長崎訪れたい。
長崎の情景が広がってきます。永遠の名曲ですね。
昭和20年8月9日、長崎医科大学助教授の永井隆が書いた詩に、
古関祐而が作曲、「長崎の鐘」として発表されましたが、
GHQの許可が下りず、長い間放送されませんでした。
歌は藤山一郎、僕は聊かセンチメンタルな歌い方が、
好きにはなれませんでした。
あの戦争犯罪を「天災」と捉えようとする大人たちの偽善に、
たぶん子供心に本能的な嫌悪を覚えたのだと思います。
リアル世代ではないけど、歌詞に重みがあり、聞くたびに心が洗われる気持ちになります。
たまに無性に聞きたくなります。藤山一郎さんのが最高です。
Finally, after all these years ..... I understand
病気かと思うぐらい、長崎の鐘の歌声を聴いていました!忘れません、日本人の魂の響きの歌声、悲しい音色、長崎の鐘
私は、長崎に行き、教会の鐘の音を聴いて観たいです。平和に感謝ですね🍀尊い犠牲者さん、申し訳ない思いです。言葉がわかりません。
心から尊い命なのにと思うと切なくなります、涙が出ます。
悲しい悲しいですね🍀
日本人が愛する悲しみの絆の歌声、長崎の鐘、
生きている、私達ができる事、世界の平和と真実の愛の世界を祈ります。🍀
いろんな歌手が、カバーして歌ってますが、長崎の鐘は藤山一郎さんでなければ、心に響きません。品格があり、今の歌手には、遠く及ばない表現力をお持ちです。
長崎をバス旅行行った時、前の日は雲仙、次の日が長崎市内観光でした、その日何故か偶然にも8月9日でした、長崎を去る時、バスガイドのお姉さんが長崎「長崎の鐘」を歌ってくれました、感動してしまい泣きそうになりました、
伸びのある、しかも品格ある美声に素晴らしさを感じます。
やっぱり、藤山一郎さんの長崎の鐘が、私のスタンダードです。とくに、こちらのアップは、まさにこの声、この歌、です。ありがとうございます。
素晴らしい歌だな これが本当の歌い手だ今の歌手に聞かせたいね藤山先生は永遠だな
長崎県人としてはこの歌は生涯わすれられない名曲として胸にきざまれています。7歳で被爆して75年お陰様でまだ元気で暮らしております。
頑張って長生きして下さいね~❤️愛知県在住の廃人ですけど、メール友になりたいなあ😃元気をお届け致しますよ~🤗🎶
必ず連絡して下さいね~🤗暇があればね~🎶
明るく、楽しんで行きましょう😁因みに、私は68歳です。夜勤兼ねてトリプルワークしています🎶後2年は頑張るんだと決めています🎵負けないで下さいね~❤️連絡頂ければ幸いです💖🙇
島田さんお元気ですか?
今日11時2分長崎方面に向かい【黙祷】しました🙇
二度と戦争は禁止です!
悲しむ人ばかりですし、ずっと尾をひきます!
戦後生まれの自分ですけど、親から昔話を確り聞かされました🙇
頑張って長生きしましょう🎵愚痴や悩みは吐き出して下さい。
00 ㅈ ' '
.ㅈ ㅈ ㅈ 징 ㅁ ㄷ
やはり、この人だ‼️丁寧に唱っています❤️
ずっと聞きたかったです。2番目の最後に足されている部分が大好きです。聞けてよかったです。もっとたくさんの人に聞いてほしいです。
家族全員涙で見ました。最後に幼い女の子、まごに似ていて忘れらない映画でした。
令和4年 長崎原爆忌に際して
昭和58年6月5日発行 志村武著『自分への気くばり』
第10章 あなたは生涯かけて何を後世にのこすか ー「生き様」だけがだれもがのこす遺産(以下引用)
【生と死との一体感】
ひところ、『長崎の鐘』という歌がよく歌われた時期があった。近ごろのカラオケ演歌とはだいぶ趣を異にしたもので、故永井隆博士にまつわる哀調切々たる名歌である。
永井さんは長崎医大の先生で、原爆のさいには病院に勤務中で助かったが、奥さんのほうは留守宅で亡くなられてしまった。幸い、二人のお子さんは疎開先にいたので無事だった。実は、永井さんは被爆の前から白血病にかかっていた。医者である永井さんは、遠くない自分の死を知っていたので、残される二人の子供のことも頭におきながら、亡くなるまでの数年間、何冊かの書物を書き、それらは多くの人に深い感銘を与えている。
博士の白血病の原因は、戦争中、民間で働く人たちの結核予防のために献身したからであった。
「勝つためには…」のかけ声のもとで、医薬はおろか食べものも軍優先であったから、一般市民が肺結核にかかれば、まず回復の見込みはなかった。永井さんに残された武器は、レントゲンの大量検診による早期発見しかなかったのである。
当然のことながら、人体の安全のために定められた許容量をはるかに超えた放射能を浴びることになった。自己検診と、友人の医師による検診で、博士は病状の悪化を知った。
しかし、まだまだ働ける。博士は科学者としての冷静さと、カトリック信仰の力で、「死」に対処することができたが、妻ははたして大丈夫だろうか。死の予告はどれだけ妻を苦しめるだろうか。近ごろ、夫君の疲労の色が濃いのを奥さんは口にだすようになった。
幾日かして、ついに意を決した博士は、事実をありのままに告げた。奥さんは静かに夫の話を聞いて、少しもとりみだすようなことはなかった。りりしいともいえる妻の表情を見て、永井さんはすっかり重荷をおろすことができた。翌日から、永井さんはバカに元気がでてしまって、奥さんのつくった弁当箱ひとつをぶらさげて大学病院に向かう。昼めし時、弁当のふたをあけると、乏しい材料に工夫をこらした奥さんの心がにじみでていた。奥さんの笑顔さえそこにのぞいていた。 ある朝、うっかり弁当箱を忘れたのに気づいてすぐ引きかえし、玄関の戸をあけると、そこには泣き伏している奥さんの姿があった。
八月九日、原爆搭載機「ボックスカー」は、雲のため小倉市から第二目標の長崎へ向かった。雲間から長崎造船所をかいま見たビーハン爆撃手はボタンを押す。十一時二分。永井さんは大学病院で、そのまま血みどろの救援活動の先頭に立った。夕方、わずかな暇をみつけて自宅へ足を向けた。奥さんの死を永井さんは疑わなかった。生きていれば、這ってでも病院までくると知っていたからである。
焼け跡はすべて灰に化していたが、土台がやや盛りあがっていることから自宅の判別がついた。台所とおぼしい所に骨片があって、そばに鉄のロザリオ(数珠)が焼けただれていた。彼は焼バケツを探してきて、そのなかにだまって骨を入れた。 再び、被爆者の待つ病院に歩きだした永井さんの細身の身体を夕日が染めた。
「バケツのなかで燐酸石灰の音がカサコソ鳴る」と博士は記している。かすかにかすかに奥さんがささやいたのであろうか。
心に響く歌唱で永く歌い継がれてほしい曲です。
サトウハチローが作詞を依頼された当初は、永井博士の活動が広く知られていなかっため「売名行為に加担したくない」と断りながら、事実を知る過程において「むしろ積極的に」作詞に傾注したエピソードは心を打つものがあります。
サトウハチローはよく早とちりする。美空ひばりもデビューしたての頃、心ない言葉を浴びせられ悲しい思いをさせられた。
@@KZ1839 さん。
其の件についてはサトウハチローさんに先見の明が有ったと云えましょう。
アメリカの蛮行蛮行、原爆をこのような歌に代えるにう日本人の心の広さに感激します。
名曲です。
なんで三番があるのに歌詞には行ってないのかなミサが歌詞にある歌神の歌なんで?
有里子 殿
まず、貴女の日本語が理解出来ません。
何をおっしゃっているのかわかりません。お答えしようにも、貴女の文章が理解不能です。(元国語教師)
「ロザリオの~」の、“リ“が、あぁ、藤山一郎だなあと、思います。
コメントありがとうがざいます。富田勲は合唱や管弦楽の美しい音色を知り尽くしています。
いつきいても心にくる。いいね。
藤山さんの3回の録音を納めた貴重なものです。1回目は悲壮感溢れた歌唱で胸に迫るものがありますす、2番目は一番オーソドックスな歌唱でしょうか、3番目は悲しさを秘めた透明感に溢れた歌唱力の優れたもので、私はこれが一番好きです。
+月夜の案山子 この歌の元になったのは、当時長崎在住で被爆された永井医学博士夫妻の物語で、博士が残された手記「長崎の鐘」から作詞、作曲されたものです。二人の子供さんは疎開しており無事でしたが、博士は世を去る前に「この子を残して」などの手記を残されました。
月夜の案山子さん、私も3番目の物が一番好きです。
三回の録音、本当に貴重なものですね。ラジオか新聞の特集で、「一回目の時は高熱をおしてボツを覚悟で収録したところ一発オッケイ!体調不良で見事に歌いきったのが悲壮感漂う作品になった、」と言う話を聞いたのを覚えています。
そうだったのですか。。録音にそんな経緯があったのですね。長崎県人だったのに知りませんでした。貴重な情報をありがとうございます。
藤山一郎さんはジェントルマンですねー。国民栄誉賞受賞者ですよね。😀
生徒を連れて「如己堂」を訪れ、永井博士の深い意志とキリスト教徒としての愛を感じた。この歌を聴くといつもなじめない着方を反省させられる。藤山一郎の姿勢とすがすがしさにも敬服する。歌謡曲も時にはこういう姿をまねてほしい。
今日初めて知ったのですが、最初の吹き込みは
風邪で高熱を押しての苦しい吹き込みだったそうですね😷
最初の唄が初版のレコーダだとしたら、確かにどこか苦しげにも聴こえますけどさすが超一流の歌唱力
余計胸に迫りくるものが💘
今、こういう時代だからこそ、改めて聴かれるべき佳曲だと思いました
sadpure ぬひ三遊亭円歌
この歌を聴くと涙が出てきます。
長崎在住だった祖母や母が家事をしながらこの歌を口ずさんでいました。今、朝ドラでまたこの歌が多くの人に聴いてもらえるのが嬉しいです。
この歌、歌わずして長崎語れません!
この曲を聴くと永井教授の「この子を残して」を思い出して哀しくなります
・・・と同時に二度と戦争は起こしてはいけないと強く思います
同感です
逆説的ですがそして、この様な歌が又生まれてはいけません
その為にも歌い継がれて欲しいです
3通りの唄😢
藤山先生の第一、第二、第三の人生史【人世史】と感じます💖
何しろ、聴けば聴くほど吸い込まれて行きます🎵
カラオケの練習に他の歌手のレパートリーは1~2ヶ月以内が常でしたが、藤山先生の曲は去年正月頃から現在も未だ唄い続けています🎶何か合点?満足いかないのです🙇廻りの皆さんは、十分だよ👌と持ち上げてはくれますが?いやだめなんだよ🤔未だ納得がいかないんだよね🎵もう少しでも近づけば、諦めますがね~😅
自分史=藤山先生
の様相です🙇
生意気言って申し訳なく思っています😰お許しくださいね~❤️
ゾッコン先生に惚れ込んだボケ老人ホーム?入りに近いボケ廃人ですよ~✌️
@慎吾母 at ファミ横商店街 さんへ、
貴方には解りませんか?
残念です😓
あたらしき
あさの光の
さし染むる
荒れ野に響け
長崎の鐘
もうじき半世紀になりますが、平日なのに学校が休みで家にいた小学4年生のころ。
外の雨を見ながらラジオを聴いていると、この歌が耳に入ってきました。
あの時の衝撃と感動は、今の私の原泉だったと思います。
レコードなど買うことが出来なかったので、懐メロ特集をテレビ・ラジオ蘭でチェックしては聴き入っていました。録画なんてない時代、放送時間が来るのが待ち遠しく、その時が来れば、じっと聴き入ったものです。
音楽は時に、思ってもみなかった新たな息吹を心に吹き込んでくれます。
悲惨な戦争の犠牲のやるせない悲しみを語りながら、これからを明るく、しかし、つつましやかに生きようと問かけてくるこの歌唱は、どんな時代にも感動を与えるものだと感じます。
戦争ほど理不尽に人の命を奪うのはないでしょう
幸い日本は約80年永い間、戦争が起きず、戦争を知らない世代が大部分です
でも、それは漠然として戦争だなかったのではないです
戦争をさせないため、日本に攻め込まさせないための結晶です
僕も35年間戦争抑止の為に、北海道勤務を含めて、防衛の役目を微力ながら果たせたこと誇りにしてます
二度と長崎の鐘と同じ事が起きないように歌われ続けて欲しいです
それから、何故か8月9日が日曜日にあたると車で、長崎に行き黙祷しました、何故かって、僕の住んでいる北九州市は、かつて原爆落下第一目標地だったからです、だから長崎に原爆が落ちたから、北九州が助かったなんてこれっぽっちも考えていません、ですから小倉に「長崎の鐘」があるんです、北九州の人は毎年8月9日11時02分になると長崎の方角に向かって、長崎の鐘を鳴らして黙祷します、哀悼の気持ちを込めて祈ります
ずいぶんむかしから、この曲を聴くとつい涙ぐんでしまいます。みなさんの心の中にもきっとこの悲しい思い出が甦るとおもいます。曲を聞くたび、心して人の命の大切さを再認識して生きて生きなければとついつい思うのです。
中村 博 クン
文中、原爆〝落下〟とあるが、〝投下〟
と書くべき。
作文能力もイマイチだ。
小学生最後の修学旅行で長崎に参りました
如己堂の前ではこの歌を思い出して涙が止まりませんでした
「こよなく晴れた青空を、悲しと思うせつなさよ」
この歌詞から読み取れる詩を
もっと多くの若い人々に知ってもらいたいです
若い人たちは知らないほうがよい。
@@winterwin4246悲しい歴史こそ保存して伝承すべきなのでは?悲劇の繰り返しを止めるなら必要なことだと思います。
心、うたれる名曲です、、 この歌の最も訴えたいのは一番の冒頭の歌詞の様な気がするのは私だけでしょうか、、、
笹薫
あなただけです!
10月に原爆被害者の会のみなさんの式典で歌わせていただきます。
大変参考になりました。ありがとうございます。
テレビのかのレンタルで、見ました。(永井博士)のこの子を残して
中学1年になりました
安部と申します
この歌大好きです❤️❤️❤️
藤山一郎さんの歌はほぼ歌えます
藤山さんが心を込めて贈る平和へのメッセージ
戦場で散った英霊、
理不尽にも一般市民に対する空襲で亡くなった市民
悪魔の兵器の犠牲になった広島、長崎
全てを包んで慰める藤山さんの歌声
泪を堪えられません
長崎の鐘、悲しい、青空響く、鐘、悲しい歌です、切なき、儚き、 野の花の様に、美しい命、散る切ない歌詞です、どれだけの犠牲者が戦争は尊い大切な命を奪う悲しい切ない事、青空を悲しい染める思い、寂しい過ぎます。
これも、冨田勲の知られざる編曲です。
私も坂本町生まれる学童疎開で原爆ゎ免れましたが母と妹は亡くなりした。長崎の鐘居つ聴いても心討たれます
僕も、以前、偶然にも、三回、8月9日に、長崎に行きました、北九州から、長崎まで、下の道のりで、三時間ぐらい、なぜに北九州から、長崎に?実は、長崎の前の、原爆投下目標は、北九州の小倉だったんです、僕は、小学校の時に、この話を聞きました、本当にいたたまらない気持ちでした、平和記念公園に行った時に、掃除をしていた、おじさんに、聞かれました、「どこから、来られたの」って‥「北九州からです」って、答えたら、厳しい顔で、「あんたらの、小倉に、落ちんかったから、長崎に落ちたとよ」って言われました、一緒に来てた戦争体験者の小倉生まれの父が、びっくりして、「そんな言い方ひどい❗」って言いました、弟が、そのおじさんに「北九州の人は、原爆が、小倉に落ちず、長崎で良かったなんて、思う人は、誰一人いませんよ、北九州の人は、毎年、8月9日、11時二分になると、長崎の方角に向かって、鐘を鳴らして、黙祷するんですよ」って説明したら、納得したみたいでした、もう核兵器は、絶対無くすべき、戦争反対人殺しの道具は、作ってはいけないんです、僕が、長崎を訪れる度に、永井博士が、そう叫んでいる感じです、
ただこの歌を聞くと泣けます。
今日の百の反戦歌より、此の一曲の方が遥かに心に沁みる。
戦争を体験している世代が作曲しているのですから至極当然では御座いますが…
古関さんも戦争を肌で経験している世代なのでは…?
若鷲の歌など作品があります当然
戦争体験世代です、
戦争を知らない世代でも戦争から日本を守るため訓練した者こそ
戦争をしてはならないこと
知ってますし、そのために訓練して
未然に防ぐ抑止力となろうとしてます
これこそ本当の反戦だと思います
若い頃に唄いました。なぜならば、
合掌
原爆は確かに悲惨です。後遺症もありますし妊婦さんなんか子供の心配もあります。しかし原爆以外の兵器ならいいのか。
後遺症や遺伝の心配はありません。しかし核兵器でなくとも相当広範囲の建物や人命を瞬時に奪う兵器もあります。
私は核廃絶だけ言うのは片手落ちだと思います。すべての兵器に対してノーと言うべきだ。そんなことは無理だと言うなら
核兵器だって同じことです。
こ
敗戦後気高い気持ちで廃墟の中から再出発した日本人、豊かになるにつれて年々が堕落の日々、そして今の体たらく、もうこの国には誇りが持てない。
戦時歌謡を、自身の意思とは関係になく
この歌を唄われた、澄やかな声で歌をしっかりと踊りもなく…
この歌と「燃ゆる大空」「ラヂオ体操」そして「青い山脈」やはり芸大の教授になって
当たり前の歌唱力があったんですね。
編集の仕方が分かりませんので、自身に返信いたします。
この歌を唄われたではなく、平和の歌だと思います。
一般市民に向けて、唄われた…
「海ゆかば」は、戦没者に哀悼の意で演奏されています。
Youtobeや、ぽっぽやをプライムで無料で観られる時代って素敵じゃない?
平和ボケしているというが、日本人は懐が広いんだから、
堪忍袋が切れたら恐ろしいんだょ。と、実感しました。
赤いランプの終列車」も… 大好きです。
確かに美しく素晴らしい歌ではありますね。
しかし幼稚園の時代に、ラジオでこれを聴いたときから、
明確には判りませんでしたが、
何やら割り切れない印象を受けたのも事実です。
だからこの悲しく美しい歌が、好きにはなれませんでした。
のちに大人になってから、K・V・ウォルフレンの著書
The Enigma of Japanese Powerを読んで、ハッと気が付きました。
その本にはこんな一節があったのです。
「日本民族には、たとえ人災であっても、不可避的な運命と諦める
他民族とは明らかに異なった性格がある」と。
この言葉に、僕は横っ面を引っ叩かれた思いがしました。
「なるほど」と、不愉快ながらも納得せざるを得ませんでした。
子供時代のモヤモヤの原因は、まさにこれだったのです。
地震、噴火、津波、台風などの自然災害に太古から晒されてきた
わが民族のDNAには「諦め」の本能が根付いていたからです。
広島・長崎・東京は、明らかにアメリカによる無差別殺戮の結果
なのに、戦後の日本人はこれらを天災・天罰と納得してしまい、
その結果この美しい歌が生まれたのだということを。
明白なジェノサイドなのに、不可避的な運命と諦めてくれる
日本人という民族は、アメリカ人にとっては
現代に至っても、まことに御しやすい下僕なんでしょうね。
いい歌なのですが、唯一の汚点があります。どなたもコメントされていませんが、1番と2番との間奏が、明らかに「インターナショナル」を取り入れています。この歌を知った半世紀くらい前から気になっています。社会主義国ソビエトが、平和の使者だと思っている人が多かった時代なのでしょうね。話は変わりますが、テノール歌手「藤原義江」さんが歌った同名異曲「長崎の鐘」長崎の鐘が聞こえるよ~、で始まります、の音源をお持ちの方がいらっしゃったらアップお願いしたいです。十年以上前、NHKラジオ深夜便で放送された事があります。
@Il offre sa confiance et son amour. インターナショナルと共通する部分は間奏部「ソードーシレドソミ」だけなので借用の部類だと思います。例えば戦前の中野忠晴「バンジョーで唄えば」間奏部や終わり部分に「故郷の人々」や「オールドブラックジョー」が使われているのと似ています。。
@Il offre sa confiance et son amour. 私には、たまたまとは思えませんね。十九世紀に作られ世界的に有名な歌ですから知ってた筈です。古関裕而は軍歌等多数作って戦争に加担した、と批判されていたから、右と左でバランスをとったつもりだったのでは、と考えています。
3:34 は冨田勲さんの編曲ですね。
PROFESSOR- SENSEI, Mister FUJIYAMA Ichirō
感動!核兵器禁止条約の批准を!
Os sinos de Nagasaki dobram ..!!!!!!
The bells of Nagasaki City toll !!!!
長崎の原子爆弾投下の投稿へ…
あ~あ~長崎の鐘が鳴る~~~
と投稿しましたら~
罵倒されました~!! 合掌。
Don't forget Nagasaki.
不忘記広島和長崎。
Niemals in meinem Leben werde ich meine Besuche in Nagasaki und Hiroshima vergessen.
戦争で儲けようとしている政治家、資本家には怒りを覚える。この悲劇をまた繰り返したいのか。
る
はぁ…