島津が最強と言われる理由!異次元の強さの秘密とは?
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- Опубліковано 20 лип 2024
- 【動画の目次】
島津が最強と言われる理由!異次元の強さの秘密とは? 00:00
漆川梁の戦い 00:45
不慣れな海戦で活躍した島津豊久 01:53
薩摩人の具体的行動を産み出した詮議 02:57
避難民を収容した島津氏の知恵 04:07
戦国時代ライターkawausoの独り言 06:00
強者揃いの戦国武将の中でも最強の呼び声が高い人物と言えば、九州の島津氏でしょう。有名な話としては、島津義弘が関ケ原の戦いで敗北後、勝者である福島正則隊を突破し、徳川家康の本陣の前で転進したという逸話があります。
しかし、それ以外にも島津氏は朝鮮の役でもほとんど経験がない海戦で大活躍するなど、異次元の強さを発揮しました。それではどうして島津は強かったのでしょうか?
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#島津義弘 #島津豊久 #関ケ原の戦い #朝鮮の役
島津忠将という義弘の叔父が討ち取られた時、その配下は恥じてことごとく全滅するまで戦ったんだよね。義弘の祖父のいろは歌にそういう教育が書かれていました。たぶん義弘の祖父忠良の教育がよかったのかと思います。
忠将が亡くなった事で尚久は父・忠良に忠将を見殺しにしたと非難されて尚久は憤死したとか
とにかく怠慢ってことか?
まともに働くくらいなら人殺しもするってことかな?
土地がやせてるから東南アジアと交易してて海賊に襲われて返り討ちにしたりしてるので豊久は不慣れなどではなく海戦の経験があったんだろうと思います。
結束力だったり追い込まれた時にうつ博打とかだったり、外したら死ぬだけだって言って一撃一撃の攻撃に全力を込めるのも強みですかね。
鹿児島市維新ふるさと館で、薩摩藩の教育を知った。
勉学も強さの1つ。
それと、肉食文化で他藩と違い体格の良い人が多かったと。
詮議のおかげで、江戸時代では「島津に暗君なし」と言われてたのかな
島津氏の詮議はプロイセンやその後のドイツでの参謀教育に通ずるものがありますね。やはり完璧ではなくとも具体的な案を提案できる者の率いる軍は強いですね
卑怯なだけですよ
すぐ分かるでしょ
九州が島津家以外も結構強くて島津家が九州を平定した頃にはもう秀吉が全国統一する寸前で手遅れだったんだよね
自衛隊でも日本軍でも九州や薩摩出身の兵士は強いと言われてたりしますよね
nob T バカですねぇ
詮議は以外と全国的なのかなって思ったけど違くてビックリした。
【動画の目次】
漆川梁の戦い 00:45
不慣れな海戦で活躍した島津豊久 01:53
薩摩人の具体的行動を産み出した詮議 02:57
避難民を収容した島津氏の知恵 04:07
戦国時代ライターkawausoの独り言 06:00
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なるほど。具体的。素晴らしい!
島津氏と配下の武将が猛者揃になったのは、隣国日向の伊東氏との血で血を洗う百年戦争の結果だと思います。
伊東氏と島津氏の執念の歴史が、あまり知られていないのが残念です。
島津の詮議は現在の課題達成形QCサークル手法に通じるものがありますね。
島津というと荒々しいイメージがあるけど、とても合理的な実利主義だったのですね。司馬遼太郎も薩摩人は合理的だという評価を下していました。
奈良時代の朝廷も薩摩隼人を恐れて律令体制編入後は他国に比してより細かく行政単位を分けるなど分割統治に腐心したんだよな。
この動画にあるような朝鮮民への対応から、薩摩焼の元となる職人を鹿児島に連れて行ったのかもですね
戦国島津家は一族の伊作(鹿児島県西側海岸沿い)島津氏が本家に養子入りしたというのもあって、海とは無縁でないイメージもあります(勿論、戦争は内陸が多かった)
あと、日向国境近くで海沿いの飫肥城は対伊東氏のみならず、島津一族内でも奪い合った城です
豊久の父であり、義弘の弟である家久は若い頃は割と自由だった為、海の民と親しくしている可能性もある様な気がします
島津は一撃必殺で逃げることが許されない厳しいイメージがありますね
内陸と云っても目の前は鹿児島湾という海だからね、桜島まで泳いで渡るグライだから案外と海戦による白兵戦は得意だと思いますよ。イギリスにもその手で一泡吹かせたことあるし。島津の教えは基本。社会(国)重視で個人はそのための存在で社会の為に死ぬ覚悟を求められて育つから強いんだよ。
具体的なディベート教育は今日の学校教育にも採り入れるべき。
薩摩の水軍を取り上げたところが目から鱗で好評価。
しいて言えば、織田家の九鬼、毛利家の村上等との比較もほしいところ。
注目するところは薩摩水軍は例えば瀬戸内の村上軍と違い大海に対応できるというところ。
簡単に言えば村上軍は事故なりで救命ボートに乗り込んだとしても夜間北極星を目指して進めば陸地に着く、薩摩軍の航海技術に興味あり。
朝鮮では「シマンズ」と恐れられた戦国最強・島津氏
島津家には家臣に種子島家と禰寝家がいたからね。船舶技術・鉄砲技術においては種子島家が得意としてました。
本国より南方の島々では決して善政とは言えなかったとは思うけど。
信長の野望では有能な家臣団と鬼の鉄砲生産力&適正で角地のeasyモードに
なり易かった。
内陸国?
てか亀甲船は存在自体がかなり眉唾ものですけどね
忠良の母 常盤御前(梅窓夫人)が居たからこそ伊作家は生き残れたと思う
薩英戦争で世界最強のイギリス軍に勝ちましたからね。
島津軍は万夫不当。
世界最強の軍隊だと思います。
あれは鬼島津の旗印・・我が命運も尽きたか・・・
島津が秀吉に負けたのは九州統一の連戦で補給と疲労が限界だったことが大きい。
その秀吉に補給をしてもらった朝鮮での戦いぶり見ても補給万全なら最強の軍団だった。
島津軍法【我が隊将の首級を敵に委すべからず。この仇を報ずるにあたわざる時は、その隊ことごとく討ち死にするか切腹せよ。】
根白坂の戦い
うわははは!!! 進め!左右をかえりみるな!!
ただ一心に前方の敵に斬りかかれ!!!! 敵を殺さぬものは死罪
左右後方に逃げる者もまた死罪ぞ!!
義弘は この戦に全てを賭けていた
そして島津の苛烈な軍法は 将の許可なく敵に背を向けることは決して許さなかった
ついでに島津軍鉄砲隊長種子島時暁にも一票
島津の詮議が何故、旧軍に活かされなかった謎・・・。
その島津の流れを組む薩摩武士が、西南戦争でほぼ全滅し、政府に残った薩摩人も故郷と縁を切って鹿児島県に生涯帰らなかったからでしょうね。長州の軍人の意見が取り入れられたんでしょうね
昭和の頃には、旧幕臣の子孫が多くなったこともあるでしょうね。明治の頃の士官学校の教員も元幕臣だったようで、薩摩の生徒から現場は違うと指摘されてた話しもありますから
個人で島津の郷中教育と、同じ事を実践してたのが、前田利家。彼は様々なシミュレーションを、してたらしい。
島津の「戦議」は戦国時代から、行われてたのか?島津義弘が江戸時代が始まって、薩摩藩の弱体化を防ぐ為に行ったのかと思ってた。
島津軍は大和時代以前から南九州を支配していた熊襲族、隼人族といった戦闘民族の子孫であり、その伝統と文化を持つ軍団です。
古代ギリシアのスパルタ人やゲームオブスローンズのドスラク人のような民族であったんだろうと推測されます。
戦いに勝つこと。そして戦いで死ぬことに人生の意義を持つ戦闘民族、修羅の軍団です。
他国の者から見ると、まるで戦うことを楽んでいるかのような異様な、蛮族のような軍団に思えたに違いありません。
島津と野戦で戦った伊東、大友、龍造寺、豊臣先遣隊(仙石、長曾我部)さらに朝鮮の役時の明、朝鮮軍などは、完膚なきまでに叩きのめされ再起不能となっていますし、戦いののち「二度と島津とは戦いたくない。」といった内容の書状も残っています。伊東に至っては九州征伐後に秀吉から日向の一部領地を与えられますが島津の隣りの領地はご勘弁をと一度断っています。
秀吉の死後、その頃になると島津軍が戦国最強であることは各大名の中で周知の事実だったんでしょう。その証左に実力者ナンバー1の徳川家康は日本の南端の辺境で味方にしてもあまりメリットのないはずの島津義久の屋敷を全大名の中で真っ先に訪ね、味方に引き入れるための懐柔を始めていますし、関ヶ原の戦いで島津が前進退却を開始すると、島津に対する恐怖から東軍の諸大名は島津との戦いを避けています。そうでなければ、いくら島津が最強とは言え、たった数百の軍勢で数万の東軍を突破できるはずがありません。島津に被害が続出するのは突破した以降の退却戦においてです。島津豊久、長寿院盛淳といった重臣自らが「捨て奸(すてかまり)」戦法の捨て駒となり討ち死しています。
また、剣道で試合が始まると剣士が迷いを吹っ切るために奇声を発しますが、薩摩の武士は「チェストーーー!」と雄叫びを上げながら突撃したり、襲い掛かります。これまた他国の者にとっては恐怖であったろうと思います。
武術系動画を見てて示現流の有能性をつくづく感じました
ぶっちゃけ技もクソも理屈抜きな一撃ですから他の流派ではとても対策出来なかったでしょうね
ただし群れとして互いの信用性最重視ですから人事入れ替わりが激しい他藩では実現は不可能かと
業も理屈もありますよ。
達人になると上体がまったくゆれないので近づいてくる際の距離感が狂うらしい。なかなか動かないと思っていたら一刀の間合いに入っていて渾身の一撃が…。
戦国時代の薩摩は辺境400年統治で民衆含め全員血縁関係だったからね
それゆえの団結力がベースにある。
厳しい軍律と合理的試行が島津の強さ。
島津家には「退いたら処刑」というすざましいルールがなかったでしたっけ・・。
ある。
場合による
沖手畷かな。
福島隊を突破したっけ?
福島隊は、島津の敵中突破を呆然と見送っただけだと思っていたが。
島津義弘が考案した(?)郷中教育は、現代でも利用出来るのでは?(現代の「ボーイ、スカウトは、ここに由来するらしい。)
領地が九州の南端だったのが不運でもあり、幸運でもあった
領地が東海、近畿地方あたりだったら関ヶ原の戦いの後減封されていたかもしれない
> 島津荘は平安時代から東アジアの中で重要な貿易基地となっていました。hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/reimei1.html
実は私の母がたの祖父の実家は、昔その薩摩島津の、「角割」制度というらしいですが、地域ごとに区分けされた農家の代々、家系のようなのですが、但し、
「#隠れ念仏 」の信徒でも同時にあり続け、
“過去形にしなかった”のは、何と現代でもなお、葬儀も表向きは神道だが中身は、という風に、また、伯父等近隣の有志で鳥居を建替えたりもしましたが、信仰し続けていた地域でもありました。
ちなみに私の父がたの祖父の実家はと言いますと、こちらも、大分で代々漁村の網元で、別な動画でも最近観られましたがあの平氏の、家系図や由来の品々もありますが、但し、近くの郷土資料館には「#家船 (えぶね) 」のものも展示されていたりもしていて、それで、私はむしろひょっとしてこれらも?、ぃゃ、
それどころか「 #八幡船 (ばはんせん) 」や
さらにはこの郷里のすぐ近くの瀬戸内にかけ、数々の時代で様々に名を轟かせ続けてきたあの海賊等との??、祖先との繋がりなども
ついつい、ふと、思い浮かんでしまうのです。
なお、父がたの祖母の方はと言いますと、祖先は福岡の秋月藩( 御承知かという気もしますが、すみません、この藩という呼称も実際よく使われだしたのは明治になってからで、ただ、先程の薩摩島津の歴史資料の書名にも麑藩名勝考、薩藩名勝志、と一応この藩が含まれてたものもみられたという気もしますが‥ )で、
祖母の弟にあたる市役所職員だったかたは、博多祇園山笠のシメの「祝いめでた」を歌うのも御担当されてらっしゃていたようですが、前述の父がたの祖父の郷里からもそう遠くはない、宮崎県高鍋町の、あの上杉鷹山も生まれた(=養子で上杉へ…)高鍋藩秋月家・・・・・ではなく、
福岡藩(黒田氏)の支藩の秋月藩のほうで、
( ※ 但し両藩は姻戚関係含め大変密接な事も有名だと思います。)
しかしながら、祖父と祖母が結婚をしその後生活し続けていた、つまり、私の父も私も居続けた「私の実家」ですけども、その真隣には、近隣でも有数の規模の浄土真宗寺院があり、明治以前は弾圧され続けた「一向宗」すなわち前述の隠れ念仏のいわば総本山格でもあった様ですが、その、寺院が養子にむかえたという、数代前の御住職様が
なんと驚いた事に、その旧高鍋藩の浄土真宗寺院のかた…だったのです。(ごく最近ようやくこの事実を知りました(汗)‥)
・ syousengi.net/?page_id=14
・syousengi.net/
「摂護寺」というのが私の実家の真隣でした‥黒田家と高鍋秋月藩両方姻戚関係なのですかネ?( 軍師官兵衛の頃気付くべきだったかッ(汗)‥)
※ 「坊守」は浄土真宗では僧侶の妻の事です。
> 佐々木鴻煕師の坊守道子は小倉市西蓮寺、黒田家の生まれ。二人の間に長男正煕師(正典の父)が生まれたが、虚弱でその成長が危ぶまれたため、黒田家から芳照師(道子の甥)を養子として迎え第二代住職とした。(右写真)
芳照師は、本願寺の光瑞門主に才能を認められ、北米開教総長等、重職を歴任した。芳照師の坊守輝子は、高鍋秋月藩十二代種繁の娘で、幼少時より祖父の秋月種樹(たねたつ)に育てられた方である。これにより、摂護寺と秋月家の間に親戚関係が出来たのである。
syousengi.net/?page_id=139
…摂護寺と称専寺は、深い関係で結ばれ、現在も交流が盛んなのである。
西郷はともかく、大久保利通がなぜ血の気の多い薩摩の二才衆の中で、西郷に並ぶリーダーたりえたのか不思議でしたが、後に「詮議」での考え方の深さ、鮮やかさが、少年の頃から抜きん出ていたということを知りました。詮議は、簡単に答えの出ない難問も多く出され、その回答と具体的な理由を述べなくてはなりません。比較すると失礼なのですが、硬直化した水戸学を行動規範とした水戸藩士に、少しでもこの柔軟性や現実性があったらと、よく思います。
向こうは鬼島津とも言われてたし
島津豊久の活躍に隠れてだけど種子島時久の火縄銃の腕もあったんだし
島津の強さの秘密は.肝練りに、有
内陸国ってどこが?市制を引いている所で海がない所を探すのが難しいくらいだけど。
明治維新で陸軍に薩摩藩士が集まったのに、対戦でその風土が役に立っていない不思議。
1200年くらいから統治してるから、ある程度の組織運営は出来上がってるし。
詮議の結果が徳川でなく石田だったのはどういう理由なんだ?
鹿児島は内陸国じゃなかよ(・ω・)
島津氏自体は三方海だし、対肝付氏においても小規模ながら船戦はあって小船を戦利品として鹵獲したという資料もあったはず。
ただし豊久の領国佐土原はがっつり内陸なのを言わないから説明不足ですよね。
郷中教育
❌ ごうちゅう
⚪ ごじゅう
島津が内陸国?
この動画に述べられていることはインチキです。郷中教育は江戸時代の話です。秀吉の朝鮮侵略時に薩摩には外城制も郷士も城下士の制度も成立していません。
でも下地になる組織はあったんじゃないかなあ。島津でも他国でもドコソコ衆というのがあるじゃない!
確かに。郷中は「ごちゅう」と読むのが正しいですし、動画主さんの勘違いもあると思います。が、その下地となるものは当時から十分にあったと考えるのが妥当だと思います。
@@shimy4783 自分はごじゅうと認識してました。歴史用語ってムズい。尼子はコorゴとか浅井長政(アザイ〜)とか最上義光(ヨシアキ)とか東郷重位(シゲカタだが示現流ではチュウイ)etc。
今川氏真、北条氏直、伊集院忠真の名前がたまにゴチャつくアホはわたし。
@@chairrider4395 失礼しました。一般的には「ごじゅう」のようですね。偉そうに語ってすみませんでした。鹿児島出身なのに、お恥ずかしい。
シーマンツ
面白いのは、詮議という今でいう討論会が開かれておきながら、薩摩人は「口が立つ事」「多弁である事」を悪様に思う気風が醸成されたって事
現代でも方言に「議をきっかえんな」(言い訳するな、問答無用:この議は詮議の事だそうです)と残ってるあたり結構筋金入りで、高齢の男性の方なんかは多弁な方を信用しません
もしかしたら詮議の場はあーだこーだ議論することの不毛さを学ぶ場だったのかも
郷中教育を受けた世代ですが、「議をいうな」とは、一度もいわれたことがありません。いわゆる観念論が薩摩人は嫌いで、この動画にもあるように話は具体的でないとなりません。それをたしなめるケースとして、あったかもしれません。実際には、この言葉を他人にいう時は最後通牒で、もう表に出て殴り合うほかないほど、侮辱的で、言ってはいけない言葉でした。なんでもかんでも議をいうなという人はたしかに見たことがありますが、田舎の酔っ払いくらいにしか思っていませんでした。
よく船に乗り移るのって日本なんだ
ヨーロッパも砲撃戦だよね
元寇の時も船に乗り移って接近戦では優位に立ってる
こいはやっぱい、釣野伏せでごわんな
詮議ってブレーンストーミングみたいなもんかな。
桜島の火山灰によるシラス台地で農業が未発達
↓
農業の未発達が統治の発展を妨げる
↓
統治の未熟が民衆に不満をもたらす
↓
民衆の不満を厳しい軍制で統治せざるを得なくなる
厳しい軍制の不満を抑えるために強国たらねばならなかっただけではないでしょうか?
「センゴク権兵衛」からですか。
簡潔に書いてますよね。
戸次川編は読み応えありました。
朝鮮singing
自分島津っていう苗字なんですが凄いんですか?
目上の人間が納得いかない答えを言ったら「議を言うな!」と言われますよ薩摩国
島津を上手く使えこなせなかったのが、石田三成
1000人しか連れてきてないし‥
@@kenohzu5518 いやいや、島津なら10倍以上の戦力差でも勝てますし、沖田畷とか朝鮮の役でも倍以上をひっくり返していますから。
だから徳川幕府も島津には関ヶ原後おとがめなしにしたんだと思います。
下手に噛み付かれても厄介ですから
沖田畷や朝鮮で勝てたのは、全軍が気心の知れた薩摩兵だったからでしょ。
しかも、島津家伝統の釣り野伏で。
関ヶ原では島津はただの西軍の1大名であり、しかも1500しか兵がいないんだから、これで10倍の敵に勝つのは不可能。
しかも、成り行きで西軍になったのもあり士気もイマイチ。
その島津を上手く使いこなせなかったというのは結果論だと思うなぁ。
石田の為に命張る義理もない、石田の家臣じゃないから言う事聞く必要もない。
信長の野望みたいにはいきませんよ。
島津が最強?全く違うでしょう。
島津製作所は強いけど。
島津が最強なんて言われ始めるのは明治維新以降
当時はそんな風潮ないし豊臣からは田舎でイキってた雑魚扱いされてる
ちぇすとん前、名前ば聞くは女々か
奇襲を黒田官兵衛に読まれ撃退され逆に藤堂高虎隊の奇襲食らってボロ負け
秀吉本隊が来る前に土下座降伏
九州では猛威を振るったが所詮は中央に歯が立たなかった地方大名に過ぎず最強には程遠い