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作曲は、藤山一郎さんなのですね。曲の終わりの部分が、藤山さんらしい感じです。
先日、エスコンフィールドまで行って西鉄ライオンズの旗を振ってきました。怪童中西太よ永遠なれ!
中西太さんは日本ハムファイターズとしての初代監督でしたからね。
九州全土の声援うけて、空を仰ぎて勝利を誓うのところの歌詞特にかっこいい
昭和39年1964年1月生まれの僕ですが聞いているうちにだんだん好きになってしまった。今の西武ライオンズの地平に駆ける獅子を見たと同じように変わらず。
九州人なんで親子三代ライオンズファン。
中村もときRKBアナウンサーの歌は、無いですか〜。随分昔だけど。
ほんなごて、良か歌・・・泣けるばい・・・我が青春の平和台・・・
西鉄ライオンズの本拠地は、後にダイエーの本拠地になった平和台球場でしたが、1年のうち、3分の1の試合を小倉(現在の北九州市民)球場で、行っていた年もあったことは、西鉄が創立した当初の本社が北九州にあったことと関係があったのかなと思いました。因みに、西鉄で最初に開通した路線は、現在は廃止になった北九州線の東本町と大蔵の間と聞いています。
球団歌応援歌の類は古臭いものほど味がある
それな
現在人の国語能力が落ちてからね
「南海ホークスの歌」や「ドラゴンズの歌」しかり(ドラゴンズの歌は燃えよドラゴンズ!ではなくて、古関裕而作曲・伊藤久男さんの歌唱です)
大阪球場で晩年期の稲尾と杉浦が投げ合った試合で、ラッキーセブンに両チーム応援団が球団歌をフルコーラスで唄ってのが昨日のように思い出す♪玄界灘をイメージした球団旗が波打つんだよな(^^)
玄界灘は獅子から鷹に移ったのか。
西鉄ライオンズは永遠なり‼️
甦れ!俺の西鉄ライオンズ
このライオンズの応援歌が一番解りやすいし、音も良いので保存します。私が子供の頃は西鉄の下降期で黒い霧事件とかあって、子供心にも寂しかったですが、こんなに素敵な時期もあった、という記録になります。感謝します、ありがとうございます🙆
僕のおやじは、この頃から、プロ野球を見出した。従って、西鉄ライオンズの強さを見ている。特に、稲尾、大下、豊田、中西、高倉は、忘れられない。
西武ライオンズ優勝おめでとうございます!!
ライオンズの強さが帰って来た。
阪神ファンですが35年前の今日西武ライオンズに勝たせてもらい球団唯一の日本一に輝きました。あなた方に感謝致します。
@@tatewaki84 広島市に住んでいながら広島ファンではなく、巨人ファンですがあの年は阪神に日本一にさしたかった。
西鉄ライオンズの稲尾氏と西武ライオンズね菊地氏が同一人物に見える。
もし西鉄ライオンズが今も福岡にいたら、どんなチームになっていたのか、想像するのも面白いと思います。
宿敵ホークスと、福岡ダービーになる。それはそれで、見てみたい。
@@足臭腹出 ならんわ ダイエーホークスは大阪のまま
なんならスーパーのダイエーは関西が本拠だったからそっちの方が自然
よくこんなに音質のいい音源が残ってたものですね、、、
西鉄ライオンズの歌、神曲!!
二番は豊田さんの歌唱だそうですね。野球だけでなく歌もお見事ですね。
東北楽天ゴールデンイーグルスのファンてす。球団歌に九州各地の地名が入っていて九州愛を感じ聴いていて涙が溢れてきます。我が東北楽天ゴールデンイーグルスも球団歌に東北各地の地名などが入っていて東北愛に溢れており球団歌を聴いていると、涙が溢れてきます。時代が変わっても本拠地のある地域の地名が歌詞に取り入れられている球団歌は心に滲みてきます!
ライオンズはいつの時代も素晴らしい
なお現在のライオンズ…
ホークスファンは、稲尾さんをはじめとした西鉄ライオンズの元選手の皆さんがプロ野球球団誘致の運動を先頭だってしてくれたおかけで、福岡ソフトバンクホークスがある事を忘れてはいけないと思います。今はホークスが地元の球団ですのでホークスを応援してますが、ライオンズの言葉の響きはやはり特別なものですね。東尾さんや基さん、竹之内さんらが昔の百道の海岸で自主トレしていた姿は今でも忘れません。子供達には本当に優しいライオンズの選手の皆さんでした。
そうだったのか・・・
今の福岡ソフトバンクホークスの本拠地のペイペイドームのある場所は、百道(ももち)の海岸を埋め立てて、作った所だそうです。このことも、何かの縁だと思います。
ソフトバンクは野村克也の背番号19と、杉浦忠の21、景浦安武(あぶさん)の90番は永久欠番にすべきだった。
西武になってからとは、また、違う強さだったらしい。
名球会入りの選手は、多数いても、神様、仏様、稲尾様このように称えられた投手は、後にも先にも稲尾だけ、まさに日本1の鉄腕投手は稲尾です
ソロで歌っていたとしたら豊田泰光さん、お上手でしたんですね。
母方が九州出身のせいか、自分も未だ西武ファンです🤣 歴代キャップやら何やら愛用してます‼️ 西鉄勤務となった友人からたま~にプレゼントされてもしまいます🤣🤣
鹿児島住みだけど西鉄ライオンズは九州全域がホームだったとは初めて知った。今の西鉄で一番利益を挙げているのはバスかな?
昔、子供の頃色々可愛がってくれたお隣さん夫婦が福岡の人でとくにその旦那さんが(西鉄時代からの)ライオンズファンだったのを覚えている。
昭和30年代のゴールデンカードが西鉄・南海戦ということは資料などで知っていますけれども、私は断然西鉄です。中学1年の時に私がいた2組と、私のマドンナだった先生の7組が担任が女の先生で、7組はライバルとして好きでした。今考えたら、西鉄ファンが南海へ抱いた思いとどこか共通していたように思います。
西鉄ライオンズと南海ホークスの応援歌はカラオケ入れてほしい!
昭和30年代の黄金期、ライバル。ホークスが先攻逃げ切り型並ばライオンズは逆転追い込み型。平成22年2010年だけは反対だったが。令和2年2020年10月。
そうだそうだカラオケに入れろー
ジョイサウンドにあるよダムにはない
時代感じる応援歌。
優勝しましたね!最高のチーム!
昔の西鉄の関係者は、ライオンズという強そうなニックネームをよく思いついたよな。サトウハチローという、大物が球団歌の歌詞を書いているのも凄い。
確か、西鉄クリッパーズと西日本パイレーツが合併した時、ファンからの公募で命名されたはず。ちなみに後藤オーナーの埼玉西武ライオンズは、球団発足をライオンズ誕生年(合併)の1951年ではなく、クリッパーズ誕生の1950年度からにしているが、堤オーナーの西武ライオンズ時代は球団買収を誕生年としていた。
私が西鉄ライオンズ球団歌のことを知ったのは2018年。
僕は2020年令和2年頃からこれで、知った。
福岡ホークスは野球に西鉄の匂いがないと叩かれる。甲斐の弱気リードしかり。強気で豪華な野球の匂いがないとファンは満足しない。福岡のプロ野球チームは西鉄ライオンズから永遠に逃れられない。西鉄ライオンズは今も存在しているんだなあと実感する。
You got it!
ホークスの血筋はあくまで大阪・難波の南海だからね。藤本監督は忠岡、森ヘッドコーチは樽井で、二人とも南海ホークス出身で、かつ南海電鉄沿線生まれ。
血の気の多いところは 少し残ってる 北九州名物だった乱入とか
稲尾投手は我が故郷、大分県別府市の出身、276勝は実働8年ぐらいで積み上げたもの。1961年には年間42勝は、まず永久に破られないね。勝ち星にセーブポイントを加えたらどんな成績になるんだ。昭和33年日本シリーズは球史に燦然と輝いている!
西鉄ライオンズベストオーダー一番センター 高倉照幸二番ショート 豊田泰光三番サード 中西太四番ライト 大下弘五番レフト 関口清治六番ファースト 河野昭修七番セカンド 仰木彬 八番キャッチャー 和田博実九番ピッチャー 稲尾和久監督 三原脩
他に河村、花井、佃、川崎などもいたらしい。
投手陣は西村、島原と20勝投手がいて、選手層もありました。三原マジックでライオンズ黄金時代を築きました。絶対的エースは断然稲尾です。
名門西鉄ライオンズ復活
さらば怪童中西太さん。
デジタルリマスターをかけて頂いたので、過去最高の音質です。有り難うございます。二つだけ、気になる点がありますので宜しくお願い致します。ひとつ目は、二番のソロは豊田選手ではないでしょうか?二つ目は、曲のイントロから始まると更に嬉しいのですが。
返信が遅くなりました。もっと時間をかければ音質はまだ良くなりますが、現状ではこれが限界でした。評価して頂きありがとうございます。さて、歌の2番を歌ってる人の件ですが仰る通り、豊田泰光さんです。この時代の特徴的な歌い方ですが、どことなく作曲された国民栄誉賞歌手の藤山一郎さんにも似てますね。歌手としての豊田さんの代表作として「さい涯ての旅愁」「男のいる街」などがありますね。最後の曲のイントロからなのですが、この度個人的に入手した録音においてリマスター可能な部分を選択してアップしてます。なので、ごめんなさい。今後フルバージョンが入手できましたらノーカットバージョンをアップしたいと思います。ともあれ、地元福岡ではホークス一色ではありますが、ライオンズがいたからこそホークスがあることを忘れてるような人がいるようですが、、ちょっと唖然とする時があります。理由は、ホークス誘致を先頭立って指揮したのは何をいわんや、西鉄ライオンズの元選手達だからです。稲尾さん、豊田さんをはじめとした西鉄黄金時代の選手たちが毎週のように街頭に立ち、プロ野球球団の福岡招致をやってくれたおかげでホークスがあることを絶対に忘れてはいけません。正直、稲尾さんや豊田さんがいなかったら、ホークスは神戸の球団になっていたことでしょう。
@@よか旅ちゃんねる九州 You've said it!
西鉄の三原監督、巨人の水原監督はともに香川県の出身であり、しかも西鉄には同じ香川県出身の中西という凄い選手がいた。当時の香川県民にはたまらない対決だったに違いない。余談だが、高松市中心部にある中央公園には、水原監督、三原監督の銅像が並んで立っている。そしてこの公園は嘗て野球場であり、今もセカンドベースが残っている。
昔の九州じゃ移動だけでも大変だったろうなあ3年連続日本一とか大偉業だと思う
讃えよ豊田泰光
最初福岡にはホークスではなく、ライオンズがあったって初めて知った時は驚いたと同時になんか気持ちが複雑にになったな
永遠の、九州地方応援歌、嗚呼西鉄ライオンズ、神様、佛、様、稲尾様々です
4勝2敗、4勝0敗1分、4勝3敗。内容が良い。
やはり、作曲者が同じだけあってサビのところは阪急ブレーブスの歌とよく似ている
今年もライオンズとホークスの激しい優勝争い、、
ライオンズとホークスのデッドヒートは過去9回ある。令和5年2023年7月
私は九州在住の茨城出身の者です。西鉄ライオンズで活躍した豊田選手と玉造選手は茨城の出身で茨城県人の誇りです。豊田さんは亡くなられて残念だけど玉造さんは主力で活躍された中西さんと共に長生きしてほしいです。かつて平和台を熱狂させた野武士軍団は素晴らしい!
玉造さん生存しておられるんですね。高倉、玉造、ロイ、バーマ~の打線でした。緑のスコアボードに白で手書きのラインナップが発表される時はワクワクでした。前もって先発バッテリーが発表されていましたね。不思議と西鉄の先発は池永が多かった。印象に残る選手は与田、森安、木樽、永易、皆川、三浦、新山、妻島辺りですね。
@@letitbe1643 僕はこの時代は知らないが、ライオンズ球団史で見た。
大和田明選手や橋本武広投手も茨城からライオンズ。後になるとデーブ大久保も。
茨城出身のライオンズ選手は、大和田明選手、橋本政雄投手も。後にデーブ大久保も。
亡き祖父が、西鉄ライオンズ黄金時代の話をしてくれたことを思い出しました。
九州全土の声援うけてとありますが、熊本県だけは川上哲治さんの影響で殆ど巨人ファンだったみたいです。
ライオンズクラシックの一環でメットライフドームでもこの歌を流しましたが、予習してきたファンはほとんどなく、歌ってたのは私ぐらいでした(笑)。西郷輝彦の君こそライオンズも名曲で歌詞に地名等も入ってませんから、今でも使う気なら使えるでしょうけど、松崎しげるとの権利関係もあるし。
君こそライオンズも良い歌ですよね。
普通に手続きした上で流すくらいなら問題ないのでは?それとも西郷輝彦と松崎しげるとの間に軋轢あるのか?
BAKAコメンテーター さんもしかすると西郷さんの猛虎魂によるものかもしれん…。
@@mouha-damashii.1973 😵ダメだ
「西鉄ライオンズ」・・・戦後、福岡の鉄道会社の西日本鉄道と新聞社の西日本新聞のプロチームが合併し、パリーグに加盟。チーム名「Lions」は一般公募で選ばれた。弱小チームでありながら巨人の監督の座を追われた「三原修」が巨人を見返さんとばかりに「大下」「中西」「豊田」そして「稲尾」という野武士を揃え、かつてどこのチームも敵わなかった大都会東京のエリート球団を田舎球団と馬鹿にされた福岡の西鉄が三たび倒した最強神話。パリーグでの11.5ゲームをひっくり返しての逆転優勝、伝説となった日本シリーズ3連敗、4連勝で3連覇。稲尾は5連投という鉄腕ぶり。その後シーズン42勝はいまだ日本記録。日本が敗戦から立ち直り、娯楽が少しずつ受け入れられてきた時代。気の荒い博多っ子は地元平和台で西鉄が負けようもんなら選手めがけて一升瓶やビール瓶が飛んできて恐ろしかったと選手はいう。中西のファールは焦げ臭かったと相手ピッチャーもビビり、西鉄戦は投げたくないと・・・。「九州全土の声援受けて空を仰ぎて勝利を誓う」「阿蘇のけむりも筑紫の海も薩摩日向の草木も祝う」ライオンズ、ライオンズ、おぉ西鉄ライオンズ。くたびれたNとLの野球帽も球団旗もドイツ文字のユニホームも我が家に大事に飾っている。 福岡在住
おう、そのとおり! 「ライオンズ通信」編集長より、今主力が抜けても首位争い、今週はコロナの大阪に応援に行くぞ! 栗山~ああ
ライオンズが九州から去った後にこの約10年後大阪から昭和30年代からのライバル球団ホークスが福岡に来るとは縁があるような気がしてならん。
巨人を3年連続日本シリーズで破るとは、なぁ。
日本シリーズで、3連敗の後、4連勝して日本一になった球団は、ライオンズ(西鉄時代の1958年と西武になってからの1986年、この時は初戦が引き分けだったので、第8戦まで戦った)とジャイアンツ(1989年)だけだったと思います。
@@青山大樹-r4w そうです。
大洋も下関が本拠地でずっといたら今頃下関DeNAになってたんでしょうね。
西鉄は、巨人阪神の次に人気あったと思う❗平和台好きっちゃたい❗ほんなこつ❗関西(三重)人の俺より。
ヤフオク!ドームのソフトバンク-西武戦で「南海ホークスの歌」と「西鉄ライオンズの歌」をラッキーセブンで流すところを見てみたいです。
サッカーで有名な国見高校のユニホームもこの色と同じ
それと、三原監督。
この歌はライオン(当時はライオン歯磨)から贈呈されました。
中日嫌い男より。西鉄の全国区は、三原監督の時。キエフのぼっちで関西三重男より🇺🇾。
太平洋クラウンはないのかな
西郷輝彦「君こそライオンズ」子門真人「僕らの憧れライオンズ」このあたりですかね。
稲尾さんが監督やった理由って、ロッテが福岡移転するって噂聞きましたが。事実はどうなんでしょう。
仰る通りです。ロッテオリオンズを誘致するために稲尾さんは監督を引き受けました。同時に当時は官民上げてプロ野球球団誘致を進め、西鉄のOBを中心に岩田屋の角で署名活動とかやっていたのを覚えてる人も多いでしょう。私も署名しましたし、はじめて稲尾さんに握手してもらって喜んだのを良く覚えてます。おおらかで優しく、とても人間味溢れる人物でした。ロッテの福岡移転はほぼ決まっていたのですが、ロッテ球団が提示する要求と福岡市が提示する要求が最後まで噛み合わず(表向きは)福岡移転が破断。福岡市としては香椎沖の人工島へロッテの工場進出と本社移転などの交渉を進めていたように思います。当時の桑原敬一福岡市長はイケイケの強気でしたからね。ロッテ本社の移転なども進めてくれたら、ロッテ球団本拠地の球場は福岡市が建設する、などの折衝案もあったかと思います。この頃の人工島の計画は大型ビジネスセンター構想でしたので、現在とは大きく完成予定図は異なります。それらが噛み合わず、なかなかロッテ球団、本社の返答が返って来ず半ば福岡市から離縁を申し伝えたはずです。その頃には既に南海ホークスの身売りの話が入ってきていたと覚えてます。阪急ブレーブスは予想外でしたが、なので南海ホークスの身売りが現実味を帯び、神戸市を本拠地とすることもほぼ決まっていたところに、稲尾さんを始めとした西鉄OBが当時のダイエー中内社長の所へ直談判。多くの署名も持参しホークス誘致を決定させました。ホークスファンは稲尾さんら、西鉄ライオンズのOBらの努力を決して忘れないで欲しい。まさかかつての好敵手がやって来るとは思いませんでしたが、稲尾さんら西鉄OBや福岡市民の情熱を受けて立ってくれた中内オーナーの大英断には心から感謝したいと思います。稲尾さんや中西さん、豊田さん達がいなかったら王さんが監督になることもなかったと思います。
移転するはずだったロッテは千葉に移った(腰を据えた)らそのまま生き長らえました
@@よか旅ちゃんねる九州 そうだったんですね。ありがとうございます。もしロッテが福岡へ移転してたら、阪急が身売りしてなかったら、そんなパ・リーグも見てみたかったです。そうしたらダイエーも身売りしなかったかもしれないですね。
だが、この歌は、嫌いです。
作曲は、藤山一郎さんなのですね。曲の終わりの部分が、藤山さんらしい感じです。
先日、エスコンフィールドまで行って西鉄ライオンズの旗を振ってきました。怪童中西太よ永遠なれ!
中西太さんは日本ハムファイターズとしての初代監督でしたからね。
九州全土の声援うけて、空を仰ぎて勝利を誓うのところの歌詞特にかっこいい
昭和39年1964年1月生まれの僕ですが聞いているうちにだんだん好きになってしまった。今の西武ライオンズの地平に駆ける獅子を見たと同じように変わらず。
九州人なんで親子三代ライオンズファン。
中村もときRKBアナウンサーの歌は、無いですか〜。随分昔だけど。
ほんなごて、良か歌・・・泣けるばい・・・我が青春の平和台・・・
西鉄ライオンズの本拠地は、後にダイエーの本拠地になった平和台球場でしたが、1年のうち、3分の1の試合を小倉(現在の北九州市民)球場で、行っていた年もあったことは、西鉄が創立した当初の本社が北九州にあったことと関係があったのかなと思いました。因みに、西鉄で最初に開通した路線は、現在は廃止になった北九州線の東本町と大蔵の間と聞いています。
球団歌応援歌の類は古臭いものほど味がある
それな
現在人の国語能力が落ちてからね
「南海ホークスの歌」や「ドラゴンズの歌」しかり(ドラゴンズの歌は燃えよドラゴンズ!ではなくて、古関裕而作曲・伊藤久男さんの歌唱です)
大阪球場で晩年期の稲尾と杉浦が投げ合った試合で、ラッキーセブンに両チーム応援団が
球団歌をフルコーラスで唄ってのが昨日のように思い出す♪
玄界灘をイメージした球団旗が波打つんだよな(^^)
玄界灘は獅子から鷹に移ったのか。
西鉄ライオンズは永遠なり‼️
甦れ!俺の西鉄ライオンズ
このライオンズの応援歌が一番解りやすいし、音も良いので保存します。私が子供の頃は西鉄の下降期で黒い霧事件とかあって、子供心にも寂しかったですが、こんなに素敵な時期もあった、という記録になります。感謝します、ありがとうございます🙆
僕のおやじは、この頃から、プロ野球を見出した。従って、西鉄ライオンズの強さを見ている。特に、稲尾、大下、豊田、中西、高倉は、忘れられない。
西武ライオンズ優勝おめでとうございます!!
ライオンズの強さが帰って来た。
阪神ファンですが35年前の今日西武ライオンズに勝たせてもらい球団唯一の日本一に輝きました。
あなた方に感謝致します。
@@tatewaki84 広島市に住んでいながら広島ファンではなく、巨人ファンですがあの年は阪神に日本一にさしたかった。
西鉄ライオンズの稲尾氏と西武ライオンズね菊地氏が同一人物に見える。
もし西鉄ライオンズが今も福岡にいたら、どんなチームになっていたのか、想像するのも面白いと思います。
宿敵ホークスと、福岡ダービーになる。それはそれで、見てみたい。
@@足臭腹出
ならんわ ダイエーホークスは大阪のまま
なんならスーパーのダイエーは関西が本拠だったからそっちの方が自然
よくこんなに音質のいい音源が残ってたものですね、、、
西鉄ライオンズの歌、神曲!!
二番は豊田さんの歌唱だそうですね。野球だけでなく歌もお見事ですね。
東北楽天ゴールデンイーグルスのファンてす。
球団歌に九州各地の地名が入っていて九州愛を感じ聴いていて涙が溢れてきます。
我が東北楽天ゴールデンイーグルスも球団歌に東北各地の地名などが入っていて東北愛に溢れており球団歌を聴いていると、涙が溢れてきます。
時代が変わっても本拠地のある地域の地名が歌詞に取り入れられている球団歌は心に滲みてきます!
ライオンズはいつの時代も素晴らしい
なお現在のライオンズ…
ホークスファンは、稲尾さんをはじめとした西鉄ライオンズの元選手の皆さんがプロ野球球団誘致の運動を先頭だってしてくれたおかけで、福岡ソフトバンクホークスがある事を忘れてはいけないと思います。
今はホークスが地元の球団ですのでホークスを応援してますが、ライオンズの言葉の響きはやはり特別なものですね。
東尾さんや基さん、竹之内さんらが昔の百道の海岸で自主トレしていた姿は今でも忘れません。子供達には本当に優しいライオンズの選手の皆さんでした。
そうだったのか・・・
今の福岡ソフトバンクホークスの本拠地のペイペイドームのある場所は、百道(ももち)の海岸を埋め立てて、作った所だそうです。このことも、何かの縁だと思います。
ソフトバンクは野村克也の背番号19と、杉浦忠の21、景浦安武(あぶさん)の90番は永久欠番にすべきだった。
西武になってからとは、また、違う強さだったらしい。
名球会入りの選手は、多数いても、神様、仏様、稲尾様このように称えられた投手は、後にも先にも稲尾だけ、まさに日本1の鉄腕投手は稲尾です
ソロで歌っていたとしたら豊田泰光さん、お上手でしたんですね。
母方が九州出身のせいか、自分も未だ西武ファンです🤣 歴代キャップやら何やら愛用してます‼️ 西鉄勤務となった友人からたま~にプレゼントされてもしまいます🤣🤣
鹿児島住みだけど西鉄ライオンズは九州全域がホームだったとは初めて知った。今の西鉄で一番利益を挙げているのはバスかな?
昔、子供の頃色々可愛がってくれたお隣さん夫婦が福岡の人でとくにその旦那さんが(西鉄時代からの)ライオンズファンだったのを覚えている。
昭和30年代のゴールデンカードが西鉄・南海戦ということは資料などで知っていますけれども、私は断然西鉄です。
中学1年の時に私がいた2組と、私のマドンナだった先生の7組が担任が女の先生で、7組はライバルとして好きでした。
今考えたら、西鉄ファンが南海へ抱いた思いとどこか共通していたように思います。
西鉄ライオンズと南海ホークスの応援歌はカラオケ入れてほしい!
昭和30年代の黄金期、ライバル。ホークスが先攻逃げ切り型並ばライオンズは逆転追い込み型。平成22年2010年だけは反対だったが。令和2年2020年10月。
そうだそうだカラオケに入れろー
ジョイサウンドにあるよ
ダムにはない
時代感じる応援歌。
優勝しましたね!最高のチーム!
昔の西鉄の関係者は、ライオンズという強そうなニックネームをよく思いついたよな。
サトウハチローという、大物が球団歌の歌詞を書いているのも凄い。
確か、西鉄クリッパーズと西日本パイレーツが合併した時、ファンからの公募で命名されたはず。
ちなみに後藤オーナーの埼玉西武ライオンズは、球団発足をライオンズ誕生年(合併)の1951年ではなく、クリッパーズ誕生の1950年度からにしているが、堤オーナーの西武ライオンズ時代は球団買収を誕生年としていた。
私が西鉄ライオンズ球団歌のことを知ったのは2018年。
僕は2020年令和2年頃からこれで、知った。
福岡ホークスは野球に西鉄の匂いがないと叩かれる。甲斐の弱気リードしかり。強気で豪華な野球の匂いがないとファンは満足しない。福岡のプロ野球チームは西鉄ライオンズから永遠に逃れられない。西鉄ライオンズは今も存在しているんだなあと実感する。
You got it!
ホークスの血筋はあくまで大阪・難波の南海だからね。
藤本監督は忠岡、森ヘッドコーチは樽井で、二人とも南海ホークス出身で、かつ南海電鉄沿線生まれ。
血の気の多いところは 少し残ってる 北九州名物だった乱入とか
稲尾投手は我が故郷、大分県別府市の出身、276勝は実働8年ぐらいで積み上げたもの。1961年には年間42勝は、まず永久に破られないね。勝ち星にセーブポイントを加えたらどんな成績になるんだ。昭和33年日本シリーズは球史に燦然と輝いている!
西鉄ライオンズベストオーダー
一番センター 高倉照幸
二番ショート 豊田泰光
三番サード 中西太
四番ライト 大下弘
五番レフト 関口清治
六番ファースト 河野昭修
七番セカンド 仰木彬
八番キャッチャー 和田博実
九番ピッチャー 稲尾和久
監督 三原脩
他に河村、花井、佃、川崎などもいたらしい。
投手陣は西村、島原と20勝投手がいて、選手層もありました。
三原マジックでライオンズ黄金時代を築きました。
絶対的エースは断然稲尾です。
名門西鉄ライオンズ復活
さらば怪童中西太さん。
デジタルリマスターをかけて頂いたので、過去最高の音質です。有り難うございます。二つだけ、気になる点がありますので宜しくお願い致します。ひとつ目は、二番のソロは豊田選手ではないでしょうか?二つ目は、曲のイントロから始まると更に嬉しいのですが。
返信が遅くなりました。もっと時間をかければ音質はまだ良くなりますが、現状ではこれが限界でした。評価して頂きありがとうございます。さて、歌の2番を歌ってる人の件ですが仰る通り、豊田泰光さんです。この時代の特徴的な歌い方ですが、どことなく作曲された国民栄誉賞歌手の藤山一郎さんにも似てますね。
歌手としての豊田さんの代表作として「さい涯ての旅愁」「男のいる街」などがありますね。最後の曲のイントロからなのですが、この度個人的に入手した録音においてリマスター可能な部分を選択してアップしてます。なので、ごめんなさい。今後フルバージョンが入手できましたらノーカットバージョンをアップしたいと思います。
ともあれ、地元福岡ではホークス一色ではありますが、ライオンズがいたからこそホークスがあることを忘れてるような人がいるようですが、、ちょっと唖然とする時があります。
理由は、ホークス誘致を先頭立って指揮したのは何をいわんや、西鉄ライオンズの元選手達だからです。稲尾さん、豊田さんをはじめとした西鉄黄金時代の選手たちが毎週のように街頭に立ち、プロ野球球団の福岡招致をやってくれたおかげでホークスがあることを絶対に忘れてはいけません。
正直、稲尾さんや豊田さんがいなかったら、ホークスは神戸の球団になっていたことでしょう。
@@よか旅ちゃんねる九州 You've said it!
西鉄の三原監督、巨人の水原監督はともに香川県の出身であり、しかも西鉄には同じ香川県出身の中西という凄い選手がいた。当時の香川県民にはたまらない対決だったに違いない。余談だが、高松市中心部にある中央公園には、水原監督、三原監督の銅像が並んで立っている。そしてこの公園は嘗て野球場であり、今もセカンドベースが残っている。
昔の九州じゃ移動だけでも大変だったろうなあ
3年連続日本一とか大偉業だと思う
讃えよ豊田泰光
最初福岡にはホークスではなく、ライオンズがあったって初めて知った時は驚いたと同時になんか気持ちが複雑にになったな
永遠の、九州地方応援歌、嗚呼西鉄ライオンズ、神様、佛、様、稲尾様々です
4勝2敗、4勝0敗1分、4勝3敗。内容が良い。
やはり、作曲者が同じだけあってサビのところは阪急ブレーブスの歌とよく似ている
今年もライオンズとホークスの激しい優勝争い、、
ライオンズとホークスのデッドヒートは過去9回ある。令和5年2023年7月
私は九州在住の茨城出身の者です。西鉄ライオンズで活躍した豊田選手と玉造選手は茨城の出身で茨城県人の誇りです。豊田さんは亡くなられて残念だけど玉造さんは主力で活躍された中西さんと共に長生きしてほしいです。かつて平和台を熱狂させた野武士軍団は素晴らしい!
玉造さん生存しておられるんですね。高倉、玉造、ロイ、バーマ~の打線でした。
緑のスコアボードに白で手書きのラインナップが発表される時はワクワクでした。
前もって先発バッテリーが発表されていましたね。不思議と西鉄の先発は池永が多かった。印象に残る選手は与田、森安、木樽、永易、皆川、三浦、新山、妻島辺りですね。
@@letitbe1643 僕はこの時代は知らないが、ライオンズ球団史で見た。
大和田明選手や橋本武広投手も茨城からライオンズ。後になるとデーブ大久保も。
茨城出身のライオンズ選手は、大和田明選手、橋本政雄投手も。
後にデーブ大久保も。
亡き祖父が、西鉄ライオンズ黄金時代の話をしてくれたことを思い出しました。
九州全土の声援うけてとありますが、熊本県だけは川上哲治さんの影響で殆ど巨人ファンだったみたいです。
ライオンズクラシックの一環でメットライフドームでもこの歌を流しましたが、予習してきたファンはほとんどなく、歌ってたのは私ぐらいでした(笑)。
西郷輝彦の君こそライオンズも名曲で歌詞に地名等も入ってませんから、今でも使う気なら使えるでしょうけど、松崎しげるとの権利関係もあるし。
君こそライオンズも良い歌ですよね。
普通に手続きした上で流すくらいなら問題ないのでは?
それとも西郷輝彦と松崎しげるとの間に軋轢あるのか?
BAKAコメンテーター さん
もしかすると西郷さんの猛虎魂によるものかもしれん…。
@@mouha-damashii.1973 😵ダメだ
「西鉄ライオンズ」・・・戦後、福岡の鉄道会社の西日本鉄道と新聞社の
西日本新聞のプロチームが合併し、パリーグに加盟。チーム名「Lions」
は一般公募で選ばれた。弱小チームでありながら巨人の監督の座を追われた
「三原修」が巨人を見返さんとばかりに「大下」「中西」「豊田」そして
「稲尾」という野武士を揃え、かつてどこのチームも敵わなかった大都会東京
のエリート球団を田舎球団と馬鹿にされた福岡の西鉄が三たび倒した最強神話。
パリーグでの11.5ゲームをひっくり返しての逆転優勝、伝説となった
日本シリーズ3連敗、4連勝で3連覇。
稲尾は5連投という鉄腕ぶり。その後シーズン42勝はいまだ日本記録。
日本が敗戦から立ち直り、娯楽が少しずつ受け入れられてきた時代。
気の荒い博多っ子は地元平和台で西鉄が負けようもんなら選手めがけて一升瓶や
ビール瓶が飛んできて恐ろしかったと選手はいう。
中西のファールは焦げ臭かったと相手ピッチャーもビビり、西鉄戦は投げたくない
と・・・。
「九州全土の声援受けて空を仰ぎて勝利を誓う」「阿蘇のけむりも筑紫
の海も薩摩日向の草木も祝う」ライオンズ、ライオンズ、おぉ西鉄ライオンズ。
くたびれたNとLの野球帽も球団旗もドイツ文字のユニホームも我が家に大事に
飾っている。 福岡在住
おう、そのとおり! 「ライオンズ通信」編集長より、今主力が抜けても首位争い、今週はコロナの大阪に応援に行くぞ! 栗山~ああ
ライオンズが九州から去った後にこの約10年後大阪から昭和30年代からのライバル球団ホークスが福岡に来るとは縁があるような気がしてならん。
巨人を3年連続日本シリーズで破るとは、なぁ。
日本シリーズで、3連敗の後、4連勝して日本一になった球団は、ライオンズ(西鉄時代の1958年と西武になってからの1986年、この時は初戦が引き分けだったので、第8戦まで戦った)とジャイアンツ(1989年)だけだったと思います。
@@青山大樹-r4w そうです。
大洋も下関が本拠地でずっといたら今頃下関DeNAになってたんでしょうね。
西鉄は、巨人阪神の次に人気あったと思う❗平和台好きっちゃたい❗ほんなこつ❗関西(三重)人の俺より。
ヤフオク!ドームのソフトバンク-西武戦で「南海ホークスの歌」と「西鉄ライオンズの歌」をラッキーセブンで流すところを見てみたいです。
サッカーで有名な国見高校のユニホームもこの色と同じ
それと、三原監督。
この歌はライオン(当時はライオン歯磨)から贈呈されました。
中日嫌い男より。西鉄の全国区は、三原監督の時。キエフのぼっちで関西三重男より🇺🇾。
太平洋クラウンはないのかな
西郷輝彦「君こそライオンズ」
子門真人「僕らの憧れライオンズ」
このあたりですかね。
稲尾さんが監督やった理由って、ロッテが福岡移転するって噂聞きましたが。事実はどうなんでしょう。
仰る通りです。ロッテオリオンズを誘致するために稲尾さんは監督を引き受けました。
同時に当時は官民上げてプロ野球球団誘致を進め、西鉄のOBを中心に岩田屋の角で署名活動とかやっていたのを覚えてる人も多いでしょう。
私も署名しましたし、はじめて稲尾さんに握手してもらって喜んだのを良く覚えてます。おおらかで優しく、とても人間味溢れる人物でした。
ロッテの福岡移転はほぼ決まっていたのですが、ロッテ球団が提示する要求と福岡市が提示する要求が最後まで噛み合わず(表向きは)福岡移転が破断。
福岡市としては香椎沖の人工島へロッテの工場進出と本社移転などの交渉を進めていたように思います。当時の桑原敬一福岡市長はイケイケの強気でしたからね。
ロッテ本社の移転なども進めてくれたら、ロッテ球団本拠地の球場は福岡市が建設する、などの折衝案もあったかと思います。
この頃の人工島の計画は大型ビジネスセンター構想でしたので、現在とは大きく完成予定図は異なります。
それらが噛み合わず、なかなかロッテ球団、本社の返答が返って来ず半ば福岡市から離縁を申し伝えたはずです。
その頃には既に南海ホークスの身売りの話が入ってきていたと覚えてます。阪急ブレーブスは予想外でしたが、
なので南海ホークスの身売りが現実味を帯び、神戸市を本拠地とすることもほぼ決まっていたところに、稲尾さんを始めとした西鉄OBが当時のダイエー中内社長の所へ直談判。
多くの署名も持参しホークス誘致を決定させました。ホークスファンは稲尾さんら、西鉄ライオンズのOBらの努力を決して忘れないで欲しい。
まさかかつての好敵手がやって来るとは思いませんでしたが、稲尾さんら西鉄OBや福岡市民の情熱を受けて立ってくれた中内オーナーの大英断には心から感謝したいと思います。
稲尾さんや中西さん、豊田さん達がいなかったら王さんが監督になることもなかったと思います。
移転するはずだったロッテは千葉に移った(腰を据えた)らそのまま生き長らえました
@@よか旅ちゃんねる九州
そうだったんですね。ありがとうございます。もしロッテが福岡へ移転してたら、阪急が身売りしてなかったら、そんなパ・リーグも見てみたかったです。そうしたらダイエーも身売りしなかったかもしれないですね。
だが、この歌は、嫌いです。