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日本史系の動画好きだから久しぶりに取り扱ってくれて嬉しい。
日本の歴史の謎面白すぎる、毎回面白い動画ありがとうございます
こういうの大好きですありがとうございます
こういうの見ると歴史覚えやすいから感謝しかないです…しかも面白い!!
海外だけでなく、身近にもこういった謎があるとワクワクが止まらない❣️
歴史って広く浅く知るのが丁度いいんだと思ってる
広く浅く知ったら、深く知りたくなる
浅瀬だけで満足するなら人間は水平線を目指さない
@@user-ve5rr9bl4i 5キロです
5キロなんだ。また一つ賢くなったありがとう。
そんな長くなくて草。知識も得たが同時に恥ずかしさも得た
毎回学校帰りに楽しませてもらってます。日本史系の謎は最高!
こう言う謎があるとタイムマシン作ってその時代に行って真相を確かめたくなる
真相を知ったものは帰れない…😱😱
7:55・邪馬台国(やまたいこく)の読み方なんだけど、その後出てくる台与(とよ*代用表記)の『台』を『と』と読むなら、邪馬台国の『台』も『と』と読むのが妥当だと思う。そうすれば邪馬台国は『やまとこく』になり、大和朝廷に繋がるのではないか?。神武東征も大和国が九州から近畿に各地を武力による討伐、制圧でまとめていったら、『宗教的国家』から『武力国家』にならざるえなくなり、現天皇家の祭司なんかはその最初の宗教的国家感を引き継いでいると勝手に想像しています。
4世紀頃の出土品はあるけどそれだけではやはり詳しくはわかんないよね。あと地方の古代国家も大和に消されてるから、なにかあったのは間違いないよね。
明治天皇すりかえ説、これはフルベッキ写真出るかな、と思ったらやっぱり出たのでなんだか嬉しくなってしまった。
知り合いの家の近所に行く途中、「浅野」と「吉良」が隣同士なのを見たとき、奇遇過ぎると思った。
どの謎も信憑性があって興味深かったです👍️特に明治天皇がすりかわった説。南北朝時代まで事が遡っての事となると…そうかもしれない❗️凄く合点がいってしまいます😆何だか時代のロマンを感じました✨貴重な配信ありがとうございます🧡
吉良上野介は民衆に人気があり統治した地域では善政を敷いたとも言われていて、浅野内匠頭は厳しい吉良氏からの指導により精神を病んで事件に発展したという説もありますね
本当、政治家って立ち位置で凄く評価が変わるよねぇ…。😅ゴルバチョフさんもロシアではケチョンケチョンだよ。((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
浅野は、酷いノイローゼを患ってたと赤穂の医師から診断を受けてた。江戸城での接待役をやるのは、今回で2度目で段取りや着る物も解ってるはずなのに要するに浅野は逆切れして浅野に斬り付けた
いろんな説が、ありますな😅ただの嫌がらせ、腹いせだという説も
善政というか何もしなかった高家の諸々の収入があったから領地からはほとんど税を取らなかった
赤穂事件について本で読んだんだけど吉良の素顔は岡島八十右衛門という浪士が確認していたという話があります。江戸時代の武家のしきたりに道端で主君の親戚や親しい間柄の大名行列に遭遇した場合、土下座して礼をし、された方も駕籠の戸を開けて答礼をする、というものがありました。岡島はある時吉良の駕籠に会い土下座してみたところ吉良が顔を出したため顔を確認する事ができたそうです
こういうまだ解明されてない謎が多いから日本史って面白いんだよなぁ、って改めて思うよね
19:40の写真で赤丸がついてる人物は伏見宮貞愛親王で、明治天皇ではないです。
教科書にも資料集にも載らないトリビア大好き
明治天皇すり替え説に出てきた写真は佐賀藩士の集合写真で撮った場所、年、全員の名前もはっきりしている。この写真が地元新聞に出てからなぜかこの説に使われているんだよなあ。
実家の近所に代々藩校の指南をしていた旧家があってうちの母と親しいんだが、この説には大爆笑しているそうだ。鍋島奉公会でも話題になってたりして。ちなみにその家の門柱は藩校が解体された際にもらってきた藩校の門の一部。
明治天皇が写真嫌いだったのが、すり替えがバレるかもしれないからっていう理由もありそう
更新早いのたすかる
おかんが土偶にハマってて、何で眼鏡なんか無い時代に遮光器土偶があるんだとか調べたら私もハマりかけました笑なのでとりあげて下さったら嬉しいです!あと1952年ならワンチャンおとん秀吉の生まれ変わりだなー笑
1952年に秀吉が出兵しててなんか草
…やべぇな……。その頃はもう第二次世界大戦の後だし、1952年は敗戦国の日本が戦勝国との間に講和条約を結んで独立した年である。すなわち、豊臣秀吉はだいたい415歳の頃。本来ならとっくに戦争に負けてるはずだが、たとえ生きてても415歳。朝鮮出兵どころの話では無く、中国出兵やロシア出兵、アジア出兵やアメリカ出兵もたぶんやってるな。源義経が実はチンコスリハーンブンという伝説があるとか無いとか言われてるけど、実は源義経が豊臣秀吉でチンコスリハンブンで東條英機なのだ。全部同一人物なのだ。
確かにww
母ちゃん生まれてるなぁ
朝鮮戦争に日本出兵してて草
意外と最近のことだったんだなあ…
忠臣蔵では一方的に吉良が悪役になっていますが、地元ではとても名君として慕われています。
地元だしな
1謎に1動画作れそう。深掘りしてほしい〜!
赤穂浪士の件ですが僕が高校時代のときに、浅野さんと吉良さんの藩同士の高校で、親善試合などの交流や、一緒に写真撮影をしたことを思い出しました。
浅野内匠頭が即日切腹になったのは吉良上野介は刀を抜かなかった朝廷の勅使が来ていた時なので将軍綱吉が激怒した ってのが通説なのかな
5つ中3つに上杉家が関わってるのが最高
その話詳しく聞きたいです
え?
歴史は勝者が記録しますから、謎だらけですよね。違う視点から見たら…どうだったのか…ワクワクします。
吉良が悪役イメージになったのは、後に作られた忠臣蔵の芝居の影響が大きい。浅野内匠頭が吉良を襲ったのも、吉良側には落ち度はなく、浅野内匠頭の逆ギレ説もあります。その為に吉良側にはお咎めはなかった。吉良邸を赤穂浪士が襲った時も赤穂浪士側は鎖帷子で完全武装、吉良側は浴衣姿でほとんと裸の状態。どっちが悪だよという感じの状態でした。赤穂浪士が吉良を討ち取ろうした理由も、仇討ちというより赤穂藩取潰しで仕事や収入がなくなり、仇討ちすれば「あっぱれ」ということで、どこかの藩で雇ってもらえ褒美を貰えるのではないかと思ったからという説もあります。でも、その目論みが外れ、敵討ちとは見なされずに全員切腹。それが本当なら、赤穂浪士は信念を貫いたというより「こんなはずじゃなかった」と思いながら切腹した可能性がありますね。
袖の下が当たり前で常識でかつ礼儀でもあったのに渡さなかったから馬鹿にされた、って話もあるよね。何にしても藩と藩士とその家族までもを道連れにしてまで晴らす程の怨恨って何やねん?って話だな。その一点だけを見ても浅野内匠頭はバカ殿と呼ばれても仕方ない。
それが今の定説ですよ。
@@ロッテンマイヤー夕日 袖の下っていうか「饗応指南料」ですよ。当時としては払うのは常識で「賄賂」とかいうのは歪曲です。
そういえば、孝明天皇と明治天皇は暗殺されたのでは?と何かで読んだ記憶があります。崇峻天皇の死も蘇我馬子の陰謀説が高いし、太古から色々と血生臭い事件が多くないですか?個人的には崇徳院が気の毒すぎて、、、。今度取り上げてください。
19:27の写真(造幣局操業式)で赤丸がついてるのは右大臣の三条実美です(明治天皇は映ってません)。
bgmが良き
謎と言えば、神功皇后と仲哀天皇、そしてその側近の武内宿禰の関係性ですよね。応神天皇の父親は?とか。妊娠中に三韓征伐をした経緯、そもそも妊娠から出産が長すぎるとか。色々と謎がありますね。三韓征伐と広開土王碑の関係性とか。
秀吉の場合は、各武将を束ねる力は恩賞つまり土地、利益だから日本統一後に求心力を保つ為には他国に土地を求めた説が1番可能性あると思います。家康は、それではいつかまた戦になると思い儒教、武士道の思想を流行らせて茶器や刀の所有に価値を持たせたから300年平和だったのではなかろうか
元々大名家で譜代の家臣が多かった信長や家康と違って、成り上がり者で譜代の家臣が少なかった秀吉は諸大名を利で釣って纏めてたからね。徳川時代は家康~家光の頃に徳川に反抗的な大名をガンガン取り潰してたからそのせいで浪人が溢れて治安が悪化、治安が良くなってきてようやく世情が安定し始めたのが5代綱吉の頃から
楽しい❗もっともっと掘り下げ ほじくり返して下さいな✨
日本って結構謎ありますよね…なんか自分の国に謎があるのわくわくしますよね
日本史待ってました!
秀吉はスペイン国王に手紙送ってるし、明征服は信長時代から戦略的に考えられてみたいだし、ボケてはいないと思うわ
10:46 1952年ではなく1592年ではないですか?
城内による抜刀に関しては、鯉口三寸と言われ約3cm刃を見せただけで改易と言われてます。
9センチですね。
吉良上野介は地元では名君ですし、内匠頭は切腹したと報せが来た時領民がマジ大喜びした、と記録があります。
補給線を軽視してえらいことに、ってのはもはや伝統…
この精神はインパール作戦にも引き継がれる
銀英伝で学びました
20:36の写真は明治期の技術者コリン・マクヴェインの撮影した宮中儀礼の写真で、明治天皇ではないです
吉良と浅野の力関係は吉良は足利血筋で高家旗本という上位の立場。(年齢は関係ない)浪士は吉良の顔は知らなくても浅野が付けた刀傷を確認しているので間違えたとは思えない。
ちょうど1952年って朝鮮戦争期じゃないか...数字を入れ替えるだけでこんな偶然があるとは
日本にも空白の100年があったんだな
赤穂事件なら家臣も「なんでそんなことをしたのかわからない」と言ってたそうだけど、叔父さんも刀傷事件を起こしてるし、その傾向が遺伝してたと考えれば納得いくんだよなそういう傾向のあるやつはわりといるし、どこで何がスイッチになるかはわからないから、どうしょうもない当時の名のある武家だとその傾向が見られたら、家名を優先して座敷牢に幽閉するということもあった
赤穂浪士に関しては赤穂側が非常識(?)なことをしており、吉良はそれを諌めていたという話を聞いたことがあります……どこで聞いたのかは覚えてないのでソースは無いですが……
新たな資料が発見されて突然覆ったりするから歴史は面白い!だって誰も見てないわけだし
孝明天皇崩御自体が岩倉具視らによる謀略って話あるからなぁ
孝明天皇は筆の先を舐める癖があったんでしたっけ?それを知っているのが岩倉くらいしかいないから、あの不自然な急死に対して暗殺説が出てるんですよね
私、赤穂事件について調べたことがあります。その結果、浅野が勅使接待役に指名され、諸々の準備をしていたころ、吉良は幕府の使者として朝廷にあいさつのため京都に行っており、江戸城に帰ってきたのは事件の2日前で、時代劇で描かれているようなイジメや無理難題の押し付けはなかったことが分かりました。それから、浅野は「この間の遺恨覚えたるか!」と言いながら吉良に切りかかったとされています。これは、事件を目撃していた梶川与惣兵衛が書いた日記に「内匠頭、上野介に『この間の遺恨覚えたるか』と叫びて切りかかり候」と書かれていたのが根拠とされていますが、この記述は事件から20年後に誰かが梶川与惣兵衛の日記を模写した際に書き換えたということも判明しました。本物の梶川与惣兵衛本人が書いた日記は東京大学の図書館に収蔵されており、そこには「内匠頭、上野介に”声かけ”切りかかり候」と書かれており『この間の遺恨覚えたるか』という言葉はどこにも出てきません。
同級生に浅野と吉良がいたので何か起きるのではと3年間ドキドキしてたけど特に何もなかった…
そこは仕組まなきゃ
朝鮮出兵1952年は近代すぎる
刀傷沙汰じゃなくて刃傷沙汰(にんじょうざた)ですよ
刃傷(にんじょう)ね🎵トウショウじゃないよ。
秀吉の人柄が変わったんじゃなくて本来の性格が前に出たって気がします。ただでさえ最初は最底辺の生活をしていて農民出身の秀吉は人の汚いところ見にくいところを沢山見てきたはずなので。それに家康も最初は律儀物なんて言われていましたが、自分より弱い相手には惨いことをしていましたし。
3世紀から5世紀って単純に200年弱あるってことは、まぁ大きく変わっていても不思議ではないわな。
秀吉の朝鮮出兵が朝鮮戦争中に行われているの草
10:47あたりの朝鮮出兵の年号1592年じゃないかな。撤退の理由は伊達味噌はともかく兵糧が悪くなったりって言うのは理由あるかもしれないね。
面白かったけど、刀傷沙汰(とうしょうざた)じゃなくて、刃傷沙汰(にんじょうざた)では……。
以前の写真と明治時代に撮影されたであろう写真とでは確かに明治天皇は本当にすり替わっているのでは?と思うくらいに別人みたいになってますね。
明治天皇の即位前とされている写真は伏見宮貞愛親王の若かりし頃の写真なので別人です。すり替わり疑惑に良く出る写真の元はフルベッキ群像写真という佐賀藩校の生徒写真で明治政府要人関係おらんし…都市伝説?な範囲をでないのです。
引き眉お歯黒のナヨナヨ天皇を、国家元首として西郷たちが鍛え直した結果の変貌だそうで。
@@星の宮とーとつに西郷隆盛が昔の身分に戻しますぞと言った理由が分からないんですが
@@zagumuchi1471 維新前の朝廷に権力が無かった時代の事でしょう戦後の現代がまさにそれで天皇は実質ただのお飾り、最高権力者は長州藩出身者
18:05 これ佐賀藩士ですよね😅この写真はフルベッキ親子と、佐賀藩が長崎にもうけた藩校致遠館の生徒を写真家の上野彦馬が撮ったものだとか
吉良と浅野内匠頭の件ですが、表面上吉良は処罰されませんでしたが、高い身分であったのに異例の引っ越しをさせられております。異例とう言うのも、これはうろ覚えで申し訳ありませんが、高い身分でありながら江戸城から離れたところに引っ越しをさせられたのです。高い身分であればあるほどお城に近いところに居住を構えるのが普通であったそうです。お城から離れたところですので警護も薄い、となると非常に討ち入りしやすくなる状況になります。これによって案の定吉良は討ち入りを果たされました。処罰がないようで実は、、、、ただ吉良さんは町の人からとても好印象が多いと言う話しも有名ですよね。
うp主さん! 豊臣秀吉が朝鮮出兵した年は1952年じゃなく1592年〜1598年ですよ!1952年だと終戦後になりますね
確かに、明治天皇だけなんか顔つきが異質だなぁって思ってた。ちなみにCrossfaithのボーカルに似てるww
刀傷沙汰、意味はわかりますが刃傷沙汰の誤りですかね「にんじょうざた」です
秀吉って1952年まで生きていたのか!!
それな!
朝鮮戦争とは豊臣秀吉が起こした戦争です(嘘)
今頃知ったのかよ!!!
後2年でゴジラ公開されるやん
喧嘩両成敗の風潮を改めようとしたのかな 秀吉の残忍さは若い頃からあったけどな
「喧嘩両成敗」って言っても浅野が一方的に斬りかかっただけで「喧嘩」じゃないし、それに当時の学者も「喧嘩両成敗は罪無き者を罰する危険性がある」と主張されていたんですよ。
@@ponponpanda1 その通りですね
@@ponponpanda1なので「改めようとしたのでは」というお話。
秀吉はヨーロッパから日本を守るために出兵したんだぜ
朝鮮八つ当たりで可哀想
吉良上野介は調べる度に生真面目な委員長って印象が強くなる人物で陰湿ジジイが芝居の脚本の作られたイメージなのがわかる討ち入り事件の3年後にはもう芝居小屋で赤穂浪士の話があちこちで演じられてたというから元になった世間のウワサが芝居脚本のイメージの源泉なのは想像に難くない反対に浅野内匠頭は地元の記録を調べると癇癪の発作持ちでキレやすい10 代みたいな感じの人だった
浅野内匠頭の切腹は徳川綱吉が朝廷との関係を重視した人だったからその朝廷からの使者を接待する場を血で汚されたことが許せなかったからだという説もあるな
よしながふみ、大奥の赤穂浪士の解釈はすごく納得しました。(大奥の主人公が徳永視点からだから徳永よりですが)
10:52あたり、1952年になっていますよ!
安穂浪士の事件は、その少し前にあった別の討ち入り事件において、仇討ちをした浪人たちが死罪を免れたうえで、忠義者として他の藩からスカウトまでされた事が下敷きだと言う説がありますね。つまるところ、吉良邸討ち入りは赤穂浪士の就活だった、と。
すり替えと言うより、影武者を立てていたのではないかな?話に出ている大室を表向きの天皇として、本物は宮中の奥で生活(血統を守るため、子孫を残す役割を担う)。即位前の明治天皇が虚弱体質だったとすれば、大正天皇が病気がちだったのも納得がいく。夭逝する皇子も結構いたし…。
ワンピースの空白の100年はここからきてるんかなぁ
いつも興味深いUpを、ありがとうございます。秀吉の朝鮮出兵ですが「要因をひとつにする事に無理が有ります」要因は“ひとつ”では無く“複合的な結果”ですよね。明治天皇の件ですが「入れ替わりが事実で有っても天皇制は揺らぎませんよね」“虎之助=南朝系譜の男子“との事ですから。天皇制が揺らぐ=男系が途切れた場合。#「字面で勘違いして居る方々が多いので説明」男系=百姓、町人、商人、武家、公家等々の女性が皇后に就き次代の天皇を産む事は許されて居る=女性に門戸は開かれて居る。しかし、信長、秀吉、家康等々で在っても”天皇を名乗る事は出来ない“=宮家家系で生まれた男子のみが”天皇を名乗れる“=他の男子に門戸は一切開かれて居ない。という訳で「天皇男系制度」とは「男性を排除し、女性は広く受け入れる制度」
1度は滅んだとされる南朝に男系と言える血筋かと問われればそうでは無い気もしますがね。 それに苗字があるのも納得いきません。仮に本当だとすればそれは苗字を無くすことで万世一系とされてきた歴史を侮辱する形となるので。
そう言う論調だと母父として天皇家に関われる男子にも門戸を開かれているとも言えるよね
なるほど!そう言う説もあるんですね!興味深い…
天皇制に関しては、女性天皇も過去には存在していたので、女性を天皇に即位させる例外も認めていく許容もありだとは思うんですよね。大切なのは血なので
@@カントク-p7g さん女性天皇は、次の男子の天皇が決まるまでとか 次の天皇が幼いから等 つなぎの為の女性天皇なので1代限りになってます。女性天皇が皇族以外の人と結婚して その子供が天皇になった事はありません。追伸同じ方がもう一度天皇になった事はあります。
やっぱロマンあるよ。今も苦手だけど
これも噂なんですが明治天皇がすり変わっていたという説の渦中にいる大室寅之祐は特殊な術で魂を寅之祐という新たな体に入った吉田松陰という話もあったな……。
10:491959年?1599年かな?もっと深掘りしてほしい…
59じゃなくて52です
1959年って第二次世界大戦終わっとるがな(笑)
52も違くない?たぶん92だよ52だったら信長生きてる
@@渡邊夏生-i9f 言葉足らずだったかな1959の「59」が52だよって言ってるだけです
@@所-o4n 確かにそうかもです
明治天皇時の集合写真は維新志士の集まりのソレじゃないのは定説だったかと。単なる佐賀藩の藩校生徒と外国人教師の写真です。
19:41 これ明治天皇じゃなくて伏見宮貞愛って人だけどな
昭和のガーシー笑ったw
10:51 秀吉くっそ長生き
明治天皇は一時期毛利に預けられていたと聞いたことがあります。その時に毛利の血筋の者とすり替えられたと。外国大使が大人になって立派になった明治天皇に再会されて、「病弱で線が細かったのに随分立派になられて」という感じで、違和感を感じられたとか。また、昭和天皇が即位された頃に南朝と北朝どちらが正当か?という議論が国民の中で紛糾した時に、陛下が「南朝が正当」と仰られたと、新聞に載ったとか。陛下のお血筋は北朝なので、心中おだやかならざるものがあったと拝察します。
今や屠自古と神子はイチャイチャだろうな…
信長のシェフだと元々織田信長が海外出兵を考えてて、秀吉が引き継いだ説があるみたいですね。キリスト教を使っての日本を植民地化するのを阻止する為だったの実際パテ連大名の土地はポルトガル土地にされてたし、日本単なる島国ではなく海外まで行ける戦力あるぞと威圧するためだったとか将軍表記も国王から皇帝に名前が変わったと。
秀吉の話は元寇のリベンジって説をどこかで聞いた事ある。認知症だったらそこまで細かい指示は出せないとは思う。
明治天皇より大正天皇の方が謎なのでは。お誕生日お祝いしてもらえてないし…
10:46 歴史教師「秀吉の朝鮮出兵は1952年、昭和27年の事だからな。テストに出すから忘れるんじゃ無いぞ。」
明治天皇成長期説すき
すり替わった方と明治天皇の耳の形が違う気がします
たしか浅野内匠頭は気象病もちで頭痛がひどくて当日もやたら体調悪かったとかそして吉良はもとは親切で色々してたけどほんとに田舎出身の若い浅野には伝わってなくてお互いの考えもすれ違ったままだったとか聞いたことある
10:49 1952年じゃなくて1592年じゃないですか?1952年だと第二次大戦終わっちゃってます!
聖徳太子と聞くと、ギャグ漫画日和を思い出してしまう…楽しい動画をありがとうございます!!
10:48 1952年、朝鮮戦争に秀吉参加してたんや、、
歴史は分らないことばかりだからおもしろい
タイムマシンがないと調べようがないな
松之廊下刃傷事件の原因が不明なのは肝心の内匠頭に弁明の機会を与えられず(理由に関わらず刃傷=切腹改易で処分が決まっていたから)、また彼自身も弁解しなかったかららしい。因みに他大名の反応は割と冷淡だった模様。 特にほとんど刃が引かれていない飾り刀で「刺突」では無く「斬撃」を加えたせいで上野介を撃ち漏らしてしまったのが不味かった。
日本史系の動画好きだから久しぶりに取り扱ってくれて嬉しい。
日本の歴史の謎面白すぎる、毎回面白い動画ありがとうございます
こういうの大好きですありがとうございます
こういうの見ると歴史覚えやすいから感謝しかないです…しかも面白い!!
海外だけでなく、身近にもこういった謎があるとワクワクが止まらない❣️
歴史って広く浅く知るのが丁度いいんだと思ってる
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浅瀬だけで満足するなら人間は水平線を目指さない
@@user-ve5rr9bl4i
5キロです
5キロなんだ。
また一つ賢くなったありがとう。
そんな長くなくて草。知識も得たが同時に恥ずかしさも得た
毎回学校帰りに楽しませてもらってます。
日本史系の謎は最高!
こう言う謎があるとタイムマシン作ってその時代に行って真相を確かめたくなる
真相を知ったものは帰れない…😱😱
7:55・邪馬台国(やまたいこく)の読み方なんだけど、その後出てくる台与(とよ*代用表記)の『台』を『と』と読むなら、邪馬台国の『台』も『と』と読むのが妥当だと思う。
そうすれば邪馬台国は『やまとこく』になり、大和朝廷に繋がるのではないか?。
神武東征も大和国が九州から近畿に各地を武力による討伐、制圧でまとめていったら、『宗教的国家』から『武力国家』にならざるえなくなり、現天皇家の祭司なんかはその最初の宗教的国家感を引き継いでいると勝手に想像しています。
4世紀頃の出土品はあるけどそれだけではやはり詳しくはわかんないよね。あと地方の古代国家も大和に消されてるから、なにかあったのは間違いないよね。
明治天皇すりかえ説、これはフルベッキ写真出るかな、と思ったらやっぱり出たのでなんだか嬉しくなってしまった。
知り合いの家の近所に行く途中、「浅野」と「吉良」が隣同士なのを見たとき、奇遇過ぎると思った。
どの謎も信憑性があって
興味深かったです👍️
特に明治天皇がすりかわった説。南北朝時代まで事が遡っての事となると…
そうかもしれない❗️凄く
合点がいってしまいます😆何だか時代のロマンを感じました✨
貴重な配信ありがとう
ございます🧡
吉良上野介は民衆に人気があり統治した地域では善政を敷いたとも言われていて、浅野内匠頭は厳しい吉良氏からの指導により精神を病んで事件に発展したという説もありますね
本当、政治家って立ち位置で凄く評価が変わるよねぇ…。😅
ゴルバチョフさんもロシアではケチョンケチョンだよ。
((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
浅野は、酷いノイローゼを患ってたと赤穂の医師から診断を受けてた。江戸城での接待役をやるのは、今回で2度目で段取りや着る物も解ってるはずなのに要するに浅野は逆切れして浅野に斬り付けた
いろんな説が、ありますな😅ただの嫌がらせ、腹いせだという説も
善政というか何もしなかった
高家の諸々の収入があったから領地からはほとんど税を取らなかった
赤穂事件について本で読んだんだけど吉良の素顔は岡島八十右衛門という浪士が確認していたという話があります。
江戸時代の武家のしきたりに道端で主君の親戚や親しい間柄の大名行列に遭遇した場合、土下座して礼をし、された方も駕籠の戸を開けて答礼をする、というものがありました。岡島はある時吉良の駕籠に会い土下座してみたところ吉良が顔を出したため顔を確認する事ができたそうです
こういうまだ解明されてない謎が多いから日本史って面白いんだよなぁ、って改めて思うよね
19:40の写真で赤丸がついてる人物は伏見宮貞愛親王で、明治天皇ではないです。
教科書にも資料集にも載らないトリビア大好き
明治天皇すり替え説に出てきた写真は佐賀藩士の集合写真で撮った場所、年、全員の名前もはっきりしている。
この写真が地元新聞に出てからなぜかこの説に使われているんだよなあ。
実家の近所に代々藩校の指南をしていた旧家があってうちの母と親しいんだが、この説には大爆笑しているそうだ。
鍋島奉公会でも話題になってたりして。
ちなみにその家の門柱は藩校が解体された際にもらってきた藩校の門の一部。
明治天皇が写真嫌いだったのが、すり替えがバレるかもしれないからっていう理由もありそう
更新早いのたすかる
おかんが土偶にハマってて、何で眼鏡なんか無い時代に遮光器土偶があるんだとか調べたら私もハマりかけました笑
なのでとりあげて下さったら嬉しいです!
あと1952年ならワンチャンおとん秀吉の生まれ変わりだなー笑
1952年に秀吉が出兵しててなんか草
…やべぇな……。
その頃はもう第二次世界大戦の後だし、1952年は敗戦国の日本が戦勝国との間に講和条約を結んで独立した年である。
すなわち、豊臣秀吉はだいたい415歳の頃。
本来ならとっくに戦争に負けてるはずだが、たとえ生きてても415歳。
朝鮮出兵どころの話では無く、中国出兵やロシア出兵、アジア出兵やアメリカ出兵もたぶんやってるな。
源義経が実はチンコスリハーンブンという伝説があるとか無いとか言われてるけど、実は源義経が豊臣秀吉でチンコスリハンブンで東條英機なのだ。全部同一人物なのだ。
確かにww
母ちゃん生まれてるなぁ
朝鮮戦争に日本出兵してて草
意外と最近のことだったんだなあ…
忠臣蔵では一方的に吉良が悪役になっていますが、地元ではとても名君として慕われています。
地元だしな
1謎に1動画作れそう。深掘りしてほしい〜!
赤穂浪士の件ですが僕が高校時代のときに、浅野さんと吉良さんの藩同士の高校で、親善試合などの交流や、一緒に写真撮影をしたことを思い出しました。
浅野内匠頭が即日切腹になったのは
吉良上野介は刀を抜かなかった
朝廷の勅使が来ていた時なので将軍綱吉が激怒した ってのが通説なのかな
5つ中3つに上杉家が関わってるのが最高
その話詳しく聞きたいです
え?
歴史は勝者が記録しますから、謎だらけですよね。違う視点から見たら…どうだったのか…ワクワクします。
吉良が悪役イメージになったのは、後に作られた忠臣蔵の芝居の影響が大きい。浅野内匠頭が吉良を襲ったのも、吉良側には落ち度はなく、浅野内匠頭の逆ギレ説もあります。その為に吉良側にはお咎めはなかった。吉良邸を赤穂浪士が襲った時も赤穂浪士側は鎖帷子で完全武装、吉良側は浴衣姿でほとんと裸の状態。どっちが悪だよという感じの状態でした。赤穂浪士が吉良を討ち取ろうした理由も、仇討ちというより赤穂藩取潰しで仕事や収入がなくなり、仇討ちすれば「あっぱれ」ということで、どこかの藩で雇ってもらえ褒美を貰えるのではないかと思ったからという説もあります。でも、その目論みが外れ、敵討ちとは見なされずに全員切腹。それが本当なら、赤穂浪士は信念を貫いたというより「こんなはずじゃなかった」と思いながら切腹した可能性がありますね。
袖の下が当たり前で常識でかつ礼儀でもあったのに渡さなかったから馬鹿にされた、って話もあるよね。何にしても藩と藩士とその家族までもを道連れにしてまで晴らす程の怨恨って何やねん?って話だな。その一点だけを見ても浅野内匠頭はバカ殿と呼ばれても仕方ない。
それが今の定説ですよ。
@@ロッテンマイヤー夕日 袖の下っていうか「饗応指南料」ですよ。当時としては払うのは常識で「賄賂」とかいうのは歪曲です。
そういえば、孝明天皇と明治天皇は暗殺されたのでは?と何かで読んだ記憶があります。崇峻天皇の死も蘇我馬子の陰謀説が高いし、太古から色々と血生臭い事件が多くないですか?個人的には崇徳院が気の毒すぎて、、、。今度取り上げてください。
19:27の写真(造幣局操業式)で赤丸がついてるのは右大臣の三条実美です(明治天皇は映ってません)。
bgmが良き
謎と言えば、神功皇后と仲哀天皇、そしてその側近の武内宿禰の関係性ですよね。
応神天皇の父親は?とか。妊娠中に三韓征伐をした経緯、そもそも妊娠から出産が長すぎるとか。色々と謎がありますね。
三韓征伐と広開土王碑の関係性とか。
秀吉の場合は、各武将を束ねる力は恩賞つまり土地、利益だから日本統一後に求心力を保つ為には他国に土地を求めた説が1番可能性あると思います。
家康は、それではいつかまた戦になると思い儒教、武士道の思想を流行らせて茶器や刀の所有に価値を持たせたから300年平和だったのではなかろうか
元々大名家で譜代の家臣が多かった信長や家康と違って、成り上がり者で譜代の家臣が少なかった秀吉は諸大名を利で釣って纏めてたからね。
徳川時代は家康~家光の頃に徳川に反抗的な大名をガンガン取り潰してたからそのせいで浪人が溢れて治安が悪化、治安が良くなってきてようやく世情が安定し始めたのが5代綱吉の頃から
楽しい❗
もっともっと掘り下げ ほじくり返して下さいな✨
日本って結構謎ありますよね…
なんか自分の国に謎があるのわくわくしますよね
日本史待ってました!
秀吉はスペイン国王に手紙送ってるし、明征服は信長時代から戦略的に考えられてみたいだし、ボケてはいないと思うわ
10:46 1952年ではなく1592年ではないですか?
城内による抜刀に関しては、鯉口三寸と言われ約3cm刃を見せただけで改易と言われてます。
9センチですね。
吉良上野介は地元では名君ですし、内匠頭は切腹したと報せが来た時領民がマジ大喜びした、と記録があります。
補給線を軽視してえらいことに、ってのはもはや伝統…
この精神はインパール作戦にも引き継がれる
銀英伝で学びました
20:36の写真は明治期の技術者コリン・マクヴェインの撮影した宮中儀礼の写真で、明治天皇ではないです
吉良と浅野の力関係は吉良は足利血筋で高家旗本という上位の立場。(年齢は関係ない)浪士は吉良の顔は知らなくても浅野が付けた刀傷を確認しているので間違えたとは思えない。
ちょうど1952年って朝鮮戦争期じゃないか...
数字を入れ替えるだけでこんな偶然があるとは
日本にも空白の100年があったんだな
赤穂事件なら家臣も「なんでそんなことをしたのかわからない」と言ってたそうだけど、叔父さんも刀傷事件を起こしてるし、その傾向が遺伝してたと考えれば納得いくんだよな
そういう傾向のあるやつはわりといるし、どこで何がスイッチになるかはわからないから、どうしょうもない
当時の名のある武家だとその傾向が見られたら、家名を優先して座敷牢に幽閉するということもあった
赤穂浪士に関しては赤穂側が非常識(?)なことをしており、吉良はそれを諌めていたという話を聞いたことがあります……どこで聞いたのかは覚えてないのでソースは無いですが……
新たな資料が発見されて突然覆ったりするから歴史は面白い!だって誰も見てないわけだし
孝明天皇崩御自体が岩倉具視らによる謀略って話あるからなぁ
孝明天皇は筆の先を舐める癖があったんでしたっけ?それを知っているのが岩倉くらいしかいないから、あの不自然な急死に対して暗殺説が出てるんですよね
私、赤穂事件について調べたことがあります。
その結果、浅野が勅使接待役に指名され、諸々の準備をしていたころ、吉良は幕府の使者として朝廷にあいさつのため京都に行っており、江戸城に帰ってきたのは事件の2日前で、時代劇で描かれているようなイジメや無理難題の押し付けはなかったことが分かりました。
それから、浅野は「この間の遺恨覚えたるか!」と言いながら吉良に切りかかったとされています。
これは、事件を目撃していた梶川与惣兵衛が書いた日記に「内匠頭、上野介に『この間の遺恨覚えたるか』と叫びて切りかかり候」と書かれていたのが根拠とされていますが、この記述は事件から20年後に誰かが梶川与惣兵衛の日記を模写した際に書き換えたということも判明しました。
本物の梶川与惣兵衛本人が書いた日記は東京大学の図書館に収蔵されており、そこには「内匠頭、上野介に”声かけ”切りかかり候」と書かれており『この間の遺恨覚えたるか』という言葉はどこにも出てきません。
同級生に浅野と吉良がいたので何か起きるのではと3年間ドキドキしてたけど特に何もなかった…
そこは仕組まなきゃ
朝鮮出兵1952年は近代すぎる
刀傷沙汰じゃなくて刃傷沙汰(にんじょうざた)ですよ
刃傷(にんじょう)ね🎵
トウショウじゃないよ。
秀吉の人柄が変わったんじゃなくて本来の性格が前に出たって気がします。
ただでさえ最初は最底辺の生活をしていて農民出身の秀吉は人の汚いところ見にくいところを沢山見てきたはずなので。
それに家康も最初は律儀物なんて言われていましたが、自分より弱い相手には惨いことをしていましたし。
3世紀から5世紀って単純に200年弱あるってことは、まぁ大きく変わっていても不思議ではないわな。
秀吉の朝鮮出兵が朝鮮戦争中に行われているの草
10:47あたりの朝鮮出兵の年号1592年じゃないかな。撤退の理由は伊達味噌はともかく兵糧が悪くなったりって言うのは理由あるかもしれないね。
面白かったけど、刀傷沙汰(とうしょうざた)じゃなくて、刃傷沙汰(にんじょうざた)では……。
以前の写真と明治時代に撮影されたであろう写真とでは確かに明治天皇は本当にすり替わっているのでは?と思うくらいに別人みたいになってますね。
明治天皇の即位前とされている写真は伏見宮貞愛親王の若かりし頃の写真なので別人です。すり替わり疑惑に良く出る写真の元はフルベッキ群像写真という佐賀藩校の生徒写真で明治政府要人関係おらんし…都市伝説?な範囲をでないのです。
引き眉お歯黒のナヨナヨ天皇を、国家元首として西郷たちが鍛え直した結果の変貌だそうで。
@@星の宮とーとつに
西郷隆盛が昔の身分に戻しますぞと言った理由が分からないんですが
@@zagumuchi1471 維新前の朝廷に権力が無かった時代の事でしょう
戦後の現代がまさにそれで天皇は実質ただのお飾り、最高権力者は長州藩出身者
18:05 これ佐賀藩士ですよね😅
この写真はフルベッキ親子と、佐賀藩が長崎にもうけた藩校致遠館の生徒を写真家の上野彦馬が撮ったものだとか
吉良と浅野内匠頭の件ですが、表面上吉良は処罰されませんでしたが、高い身分であったのに異例の引っ越しをさせられております。異例とう言うのも、これはうろ覚えで申し訳ありませんが、高い身分でありながら江戸城から離れたところに引っ越しをさせられたのです。高い身分であればあるほどお城に近いところに居住を構えるのが普通であったそうです。
お城から離れたところですので警護も薄い、となると非常に討ち入りしやすくなる状況になります。
これによって案の定吉良は討ち入りを果たされました。
処罰がないようで実は、、、、
ただ吉良さんは町の人からとても好印象が多いと言う話しも有名ですよね。
うp主さん! 豊臣秀吉が朝鮮出兵した年は1952年じゃなく1592年〜1598年ですよ!
1952年だと終戦後になりますね
確かに、明治天皇だけなんか顔つきが異質だなぁって思ってた。
ちなみにCrossfaithのボーカルに似てるww
刀傷沙汰、意味はわかりますが刃傷沙汰の誤りですかね
「にんじょうざた」です
秀吉って1952年まで生きていたのか!!
それな!
朝鮮戦争とは豊臣秀吉が起こした戦争です(嘘)
今頃知ったのかよ!!!
後2年でゴジラ公開されるやん
喧嘩両成敗の風潮を改めようとしたのかな 秀吉の残忍さは若い頃からあったけどな
「喧嘩両成敗」って言っても浅野が一方的に斬りかかっただけで「喧嘩」じゃないし、それに当時の学者も「喧嘩両成敗は罪無き者を罰する危険性がある」と主張されていたんですよ。
@@ponponpanda1 その通りですね
@@ponponpanda1
なので「改めようとしたのでは」というお話。
秀吉はヨーロッパから日本を守るために出兵したんだぜ
朝鮮八つ当たりで可哀想
吉良上野介は調べる度に生真面目な委員長って印象が強くなる人物で陰湿ジジイが芝居の脚本の作られたイメージなのがわかる
討ち入り事件の3年後にはもう芝居小屋で赤穂浪士の話があちこちで演じられてたというから
元になった世間のウワサが芝居脚本のイメージの源泉なのは想像に難くない
反対に浅野内匠頭は地元の記録を調べると癇癪の発作持ちでキレやすい10 代みたいな感じの人だった
浅野内匠頭の切腹は徳川綱吉が朝廷との関係を重視した人だったからその朝廷からの使者を接待する場を血で汚されたことが許せなかったからだという説もあるな
よしながふみ、大奥の赤穂浪士の解釈はすごく納得しました。(大奥の主人公が徳永視点からだから徳永よりですが)
10:52あたり、1952年になっていますよ!
安穂浪士の事件は、その少し前にあった別の討ち入り事件において、仇討ちをした浪人たちが死罪を免れたうえで、忠義者として他の藩からスカウトまでされた事が下敷きだと言う説がありますね。
つまるところ、吉良邸討ち入りは赤穂浪士の就活だった、と。
すり替えと言うより、影武者を立てていたのではないかな?
話に出ている大室を表向きの天皇として、本物は宮中の奥で生活(血統を守るため、子孫を残す役割を担う)。
即位前の明治天皇が虚弱体質だったとすれば、大正天皇が病気がちだったのも納得がいく。
夭逝する皇子も結構いたし…。
ワンピースの空白の100年はここからきてるんかなぁ
いつも興味深いUpを、ありがとうございます。
秀吉の朝鮮出兵ですが
「要因をひとつにする事に無理が有ります」
要因は“ひとつ”では無く“複合的な結果”ですよね。
明治天皇の件ですが
「入れ替わりが事実で有っても天皇制は揺らぎませんよね」
“虎之助=南朝系譜の男子“との事ですから。
天皇制が揺らぐ=男系が途切れた場合。
#「字面で勘違いして居る方々が多いので説明」
男系=百姓、町人、商人、武家、公家等々の女性が皇后に就き次代の天皇を産む事は許されて居る=女性に門戸は開かれて居る。
しかし、信長、秀吉、家康等々で在っても
”天皇を名乗る事は出来ない“=宮家家系で生まれた男子のみが”天皇を名乗れる“=他の男子に門戸は一切開かれて居ない。
という訳で「天皇男系制度」とは
「男性を排除し、女性は広く受け入れる制度」
1度は滅んだとされる南朝に男系と言える血筋かと問われればそうでは無い気もしますがね。
それに苗字があるのも納得いきません。
仮に本当だとすればそれは苗字を無くすことで万世一系とされてきた歴史を侮辱する形となるので。
そう言う論調だと母父として天皇家に関われる男子にも門戸を開かれているとも言えるよね
なるほど!そう言う説もあるんですね!
興味深い…
天皇制に関しては、女性天皇も過去には存在していたので、女性を天皇に即位させる例外も認めていく許容もありだとは思うんですよね。大切なのは血なので
@@カントク-p7g さん
女性天皇は、次の男子の天皇が決まるまでとか 次の天皇が幼いから等 つなぎの為の女性天皇なので1代限りになってます。
女性天皇が皇族以外の人と結婚して その子供が天皇になった事は
ありません。
追伸
同じ方がもう一度天皇になった事はあります。
やっぱロマンあるよ。今も苦手だけど
これも噂なんですが明治天皇がすり変わっていたという説の渦中にいる大室寅之祐は特殊な術で魂を寅之祐という新たな体に入った吉田松陰という話もあったな……。
10:49
1959年?1599年かな?
もっと深掘りしてほしい…
59じゃなくて52です
1959年って第二次世界大戦終わっとるがな(笑)
52も違くない?たぶん92だよ
52だったら信長生きてる
@@渡邊夏生-i9f
言葉足らずだったかな
1959の「59」が52だよって言ってるだけです
@@所-o4n 確かにそうかもです
明治天皇時の集合写真は維新志士の集まりのソレじゃないのは定説だったかと。単なる佐賀藩の藩校生徒と外国人教師の写真です。
19:41 これ明治天皇じゃなくて伏見宮貞愛って人だけどな
昭和のガーシー笑ったw
10:51 秀吉くっそ長生き
明治天皇は一時期毛利に預けられていたと聞いたことがあります。その時に毛利の血筋の者とすり替えられたと。外国大使が大人になって立派になった明治天皇に再会されて、「病弱で線が細かったのに随分立派になられて」という感じで、違和感を感じられたとか。
また、昭和天皇が即位された頃に南朝と北朝どちらが正当か?という議論が国民の中で紛糾した時に、陛下が「南朝が正当」と仰られたと、新聞に載ったとか。陛下のお血筋は北朝なので、心中おだやかならざるものがあったと拝察します。
今や屠自古と神子はイチャイチャだろうな…
信長のシェフだと元々織田信長が海外出兵を考えてて、秀吉が引き継いだ説があるみたいですね。キリスト教を使っての日本を植民地化するのを阻止する為だったの実際パテ連大名の土地はポルトガル土地にされてたし、日本
単なる島国ではなく海外まで行ける戦力あるぞと威圧するためだったとか将軍表記も国王から皇帝に名前が変わったと。
秀吉の話は元寇のリベンジって説をどこかで聞いた事ある。
認知症だったらそこまで細かい指示は出せないとは思う。
明治天皇より大正天皇の方が謎なのでは。
お誕生日お祝いしてもらえてないし…
10:46 歴史教師「秀吉の朝鮮出兵は1952年、昭和27年の事だからな。テストに出すから忘れるんじゃ無いぞ。」
明治天皇成長期説すき
すり替わった方と明治天皇の耳の形が違う気がします
たしか浅野内匠頭は気象病もちで頭痛がひどくて当日もやたら体調悪かったとか
そして吉良はもとは親切で色々してたけどほんとに田舎出身の若い浅野には伝わってなくてお互いの考えもすれ違ったままだったとか聞いたことある
10:49 1952年じゃなくて1592年じゃないですか?1952年だと第二次大戦終わっちゃってます!
聖徳太子と聞くと、ギャグ漫画日和を思い出してしまう…楽しい動画をありがとうございます!!
10:48 1952年、朝鮮戦争に秀吉参加してたんや、、
歴史は分らないことばかりだからおもしろい
タイムマシンがないと調べようがないな
松之廊下刃傷事件の原因が不明なのは肝心の内匠頭に弁明の機会を与えられず(理由に関わらず刃傷=切腹改易で処分が決まっていたから)、また彼自身も弁解しなかったかららしい。
因みに他大名の反応は割と冷淡だった模様。 特にほとんど刃が引かれていない飾り刀で「刺突」では無く「斬撃」を加えたせいで上野介を撃ち漏らしてしまったのが不味かった。