【縄文時代の交易】 二上山のサヌカイトの流通経路を辿る

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  • Опубліковано 29 сер 2024
  • 考古学チャンネルです。この動画は、縄文時代晩期の、二上山のサヌカイトの流通経路について解説した動画です。
    縄文時代晩期の、愛知県東部の三河地方では、打製石器の石材としてよく使われたのは、チャート、下呂石、サヌカイトです。西三河では下呂石が、東三河ではサヌカイトとチャートがよく使われました。下呂石は岐阜県の湯ヶ峰から、サヌカイトは奈良県の二上山からもたらされたと考えられています。下呂石は比較的近距離でイメージはしやすいのですが、二上山からサヌカイトが運ばれてくるというのは、ちょっと意外な感じがするのではないでしょうか。運ばれてきたルートはなかなか証明しずらいですが、今回は奈良盆地南部から高見峠を越えて、櫛田川・宮川を下って鳥羽、神島から渥美半島に渡り、保美貝塚から愛知県西尾市の枯木宮貝塚にもたらされたルートを想定して、たどってみたいと思います。
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     #縄文時代 #サヌカイト #石器

КОМЕНТАРІ • 32

  • @yukio654
    @yukio654 2 роки тому +9

    色々な場所からの撮影、大変でしたね❗とても解りやすく、壮大な景色が魅力的てす。昔の人々の生活に対する活気的で前向きな姿勢を今の自分に少しでも取り寄せて見習っていきたいと思いました。元気を有難うございます!

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому +1

      ありがとうございます。そんなに大層なものではないんですが(;^_^A。お役に立てれば嬉しいです。

  • @user-pu6fr4ml3r
    @user-pu6fr4ml3r 2 роки тому +4

    尾根筋、谷筋を通りながら、石は移動するのです。
    二上山から渥美半島までの流れが、とても分かりやすい動画です!

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому

      ご視聴ありがとうございました。また、ご教示ありがとうございます。地元にも石材はあるのに、こんなに遠くから石材を運んでくる意味は何なのか、何と交換されていたのか、持ち運んでくる人はどんな人なのか、リレー式に来るのか、直接もたらされているのか、疑問は尽きませんね。

  • @user-rl8hd2ms7v
    @user-rl8hd2ms7v 2 роки тому +7

    これは大作だ。上空からの渥美半島の姿は感激です

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому

      ありがとうございます。渥美半島ももっと入れたかったんですが、編集の都合上、カットしました。いつか渥美半島で作ってみたいですね。

  • @user-ws8ed1kj7s
    @user-ws8ed1kj7s 2 роки тому +1

    考古学は歴史を証明するための学問として成り立ちますね。シュリーマンが叙事詩通りに「木馬」を発見したことによって「トロイ戦争」の事実が証明されました。太古の時代の人類の知恵には脱帽です。歴史から教訓は学べる。考古学から時代の推移が分る。と言われています。素晴らしい文化を築いてくれた祖先に感謝‼

  • @user-mh8vb1jg6x
    @user-mh8vb1jg6x 2 роки тому +3

    上空からの撮影など、すごく手間をかけた素晴らしい動画ですね!
    サヌカイト原石については、現地の人が自分たちのニーズに合わせて割るために、あえて粗割り品を手に入れたのかなーと思いました!

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому +1

      ご視聴ありがとうございます。わかっていただけましたか! 撮影だけで8日かかってます(;^_^A。奈良・三重・神島・渥美半島で1日ずつあれば行けるかなと思って始めたところ、全部2日かかってしまいました。わからないことだけらなんですよ。おっしゃる様に、荒割りしたものが若干出ることから、製品ではなく、未製品が流通していたんだろうという事はわかるんですが、二上山から各地の村々に直接持ってくるような人がいたのか、リレー式に運ばれるのか、サヌカイトを手に入れた人たちは、代わりに何を渡していたのか、色々なことを考えてしまいますが、なかなか証明することが難しいですね。製品で持ってきた方が軽くてたくさん運べるのに、荒割りしたものを持ってくる理由として、現地の人が自分たちのニーズに合わせて割るという発想は面白いですね。参考になりました。

  • @berutonoue
    @berutonoue 2 роки тому +2

    動画up有難うございます。
    今回みたいな古代交易ルートを辿る動画も良いですね。当時の縄文人たちが何を考えながら交易していたのか考えると浪漫がありますね。
    こなた道具の原材料、かたや装飾品、人間の営みって交易の範囲や交易品の違いこそあれ、変わらないんだな~と思いました。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому +2

      いつもコメントありがとうございます。今回取り上げたのは縄文時代晩期ですが、旧石器時代から石材の移動はあり、他の国でも交易はかなり古い時代から行っているので、人類の誕生と変わらないくらい、古くからあるのではないかと思うようになりました。本当に凄いですね。当時の人達は何を思いながら交易をしていたのでしょうか。興味深いです。

  • @user-do6cf1uz8e
    @user-do6cf1uz8e 2 роки тому +2

    うわぁ!大旅行ですね😳山と川、海と空、大パノラマですねぇ!縄文人も足と舟で大旅行したのですね💕

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому

      ご視聴ありがとうございます。縄文時代から既にこのような広範囲に物が動いていたのは凄いですね!

  • @nrhtsgmkkyk
    @nrhtsgmkkyk Рік тому

    奈良に住んでいます。地図と共に上空からの映像と縄文時代のデータに基づかれた上での流通経路の考察、とて分かりやすく大変参考になりました。

    • @koukogaku
      @koukogaku  Рік тому +1

      ご視聴ありがとうございます。最近毎月1回は奈良に撮影に行ってます。本当にいい所ですね。私も奈良に住みたいです(笑)。

  • @user-in7qx4ly6f
    @user-in7qx4ly6f 2 роки тому +3

    北宇智、橿原、竹之内峠やら歩きましたが、整備されてる現代でも結構ハードな道行きです…。
    伊勢鳥羽方面への道行き、古代の交易って凄い偉業に感じますね…。水や食料の確保、方向の確認、地理や地勢の知識どうやってたのでしょう…。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому +1

      コメントありがとうございます。現代に生きる私達からすると本当にそう思いますね。ただ、旧石器時代においても広範囲に石材は流通しているようですし、縄文時代の土器の形が広域で共通することも含めて、人間が活動するのと同時に交流は始まっているのではないでしょうか。地理や地勢の知識は、世代を超えて受け継がれていったのでしょうか? 感嘆するしかありませんね。

  • @user-gk1bk6ck4l
    @user-gk1bk6ck4l 2 роки тому +2

    三遠南信で縄文時代から交易があったのは聞いていましたが奈良方面とも交易があったのですね。そしてこの交易路の存在が伊勢神宮をこの地に建てることになったと考えることもできるのでしょうか。ロマンがあります。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому +1

      ご視聴ありがとうございます。私達が考える以上に昔の人達は交易をしているようですね。今回は縄文時代晩期を取り上げましたが、旧石器時代から石材の移動は確認されているようです。広範囲での交易や交流は、特別なことではなく、普通のことだったのではないでしょうか?
      伊勢神宮の建設は、広い意味では関係があるかもしれませんね。ただ、今回取り上げたルートは当時沢山あったルートの1つを取り上げただけですので、もっと色々な要因があったかもしれませんね。

  • @user-cy5ys6zp2q
    @user-cy5ys6zp2q 2 роки тому +3

    1:34裸に近い服装
    アフリカとかならわかるけど、日本みたいに雪が降って&氷が張るような国では死ぬよ…😭
    その上、体を覆わずに石の採掘なんてしたら、全身血だらけになっちゃうよ😅

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому +1

      そうですよね。確かに今の私たちの常識からだと全くその通りだと思います。でもアマゾンの原住民の人達も裸足ですが、足の裏が血だらけにならないのと同じで、適応していくのでしょうかね? 寒さもどうやってしのいでいたのか、ある程度は適応しているのでしょうが、謎ですね。

    • @user-cy5ys6zp2q
      @user-cy5ys6zp2q 2 роки тому +1

      返信、うれしいです😊
      抗生物質がない世界だと、体のちょっとした傷でも致命的で、死に至ることもあると思うんです…。
      あとは寒さからくる凍傷は、手足の先から腐ってきて、これまた死に至ることもありかと…😢
      きっと体をガードする何かがあったはずだよねぇと、ハッと思っちゃってコメしちゃいました!
      たぶん、ジャングルの民同様、平均寿命は低かったんですよね、古代日本人も。
      現代の私たちの生活が、古代の人々の「知恵の蓄積」だと思うと、感謝感謝です✨

    • @TOSHIHIROTADA
      @TOSHIHIROTADA 10 місяців тому +1

      @@user-cy5ys6zp2qさん、ある縄文集落の平均寿命は十五歳だったと推定されているそうです。

  • @user-qr9ns7dn8m
    @user-qr9ns7dn8m 2 роки тому +2

    環状木柱列言うたら能登半島の縄文真脇遺跡からも出ていたな🙄🤔北陸地方言うたら縄文真脇遺跡やな・・当時は川をを使って往来していたのか?

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому +2

      そうですね。本場は北陸地方ですよね。向こうのものは柱を半裁しているのに対して、保美貝塚のものは丸太だったようです。
      私も川を船で行き来してるのかと思ったのですが、動画の制作にご協力いただいた縄文時代研究者の川添さんの話では、当時は、移動は尾根筋が谷筋が多かったらしく、川もルートとして使われていたと考えられているけど、舟は使っていなかったのではないかとのお考えでした。

  • @user-pp7psytex
    @user-pp7psytex 2 роки тому +2

    サヌカイトというぐらいで、香川県産の可能性もあるのでは。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому +2

      コメントありがとうございます。この動画を製作するのに、色々協力していただいた川添さんに確認したところ、何と、動画の12:00で出てくる右側の石核は、香川県の金山産のサヌカイトだそうです。勘違いしていて、両方二上山産のものだと思って使っていました。また、外見的には下呂石と金山産のサヌカイトは似ているそうで、ひょっとすると下呂石とされているものの中に金山産のものが紛れている可能性があるそうです。弥生時代前期の近畿地方の遺跡からは、金山産のサヌカイトが結構出ていたと思いますので、保美貝塚の金山産のサヌカイトも、時期的にみて同じタイミングの流れ出来ているのかもしれませんね。いや、本当にありがとうございました。

    • @user-pp7psytex
      @user-pp7psytex 2 роки тому +1

      ありがとうございます。
      サヌカイトは、叩くとカ〜ンと澄んだ音かする事から、別名「カンカン石」と呼ばれます。銅鐸の鐸は「さなき」と言い、わざわざ銅とつける事から(木鐸もある事から)、カンカン石を使った石鐸「さなき」が銅鐸の前にあり、産地の希少さから銅鐸に置き換えられたのでは、とも思えます。(そこから「さぬき」と呼ばれた?)

  • @user-vn4ed8kd3c
    @user-vn4ed8kd3c 2 роки тому +2

    この時代、渥美半島とは地続きだったんじゃないかな

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому +1

      ご視聴ありがとうございます。この時期の海岸線は、もっと内陸部まで入り込んでいたと考えられていますので、恐らく島だったと思います。

  • @mogumogu9782
    @mogumogu9782 2 роки тому +1

    神島は『潮騒』の舞台ですね

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 роки тому +1

      ご視聴ありがとうございます。そうですね。そうした心のゆとりを持ちながら訪れたいのですが、いつも撮影に追われてしまい、なかなか見学できずに通り過ぎてしまいます。いつか撮影を忘れて訪れたいです。