Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
司馬昭幕下の良心という印象が強い羊祜ですが、慎重さや政治的な立ち回りの上手さを感じさせるエピソードもあり、ただの良い人で終わりではないところが魅力だと思います。案外器用で世渡りの上手な人だったのかも。
三国志の中だと諸葛亮に一番近いタイプの武将だと思う内政外交の巧みさと君主への忠誠、民衆からの評価も高いし人格面も優秀、戦はさすがに比較したら可哀想だが負けても全然支配が崩れないし、相手からしたらこのタイプが覇権国にいるのが一番きついかも
三国志ネタをゆっくりでやってくれるからとっても見やすい!
三国志の中華ゲームで使ってたよく知らない武将
晋書において羊祜は別格の扱いを受けた人物の一人である。同じ伝でも史論、賛で杜預は呼び捨て、然るに羊祜は羊公である。王導でも絶賛されつつも字の茂弘である。羊祜は功だけでなく徳の高さが評価されたのだろうな。王羲之は太宗の愛を受けているので、別の意味で別格だけど
杜預「誠に遺憾である」
ボロボロの呉を支えていた陸抗には頭が下がる。エースで四番を打っている感じ
鍾会が話題に出るとディスるか嫌ったり揉めるかばかりで利用しようとする姜維が一番優しく見える不思議陸羊の交わりだけは割と有名な気も
予言者羊祜、と言うのは冗談にしても鍾会の反乱とか世権力はたいしたものですよね陸抗との戦いは実戦ではやや分が悪かったけど、政略でうまく追い詰めていっていた感じですよね面白いライバル関係だと思う
羊祜の一族は幅広く縁戚関係を結んでいる割には、羊祜より前の世代の事績があまりわからないんですよね。それだけの関係を結べるという事はそれなりに名の通った一族だとは思うのですが•••羊祜のエピソード欠かせないのはやっぱり、陸抗との敵味方を超えた関係ですね。有徳の名将と言って差し支え無い人物ですね。
羊祜の祖父、羊続は後漢書に伝がありますよ。詳しいことは、リンク先にありますが黄巾の乱でも活躍しています。父の羊衜は早世しましたが、2人の妻の父親がそれぞれ蔡邕、孔融と当代を代表する文人ですから、本人も文化人だったんでしょうね。兩漢魏晉學庵-羊続伝www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/youzoku.htm
尚書六百石 ご親切にありがとうございます。また一つ知識を、深める事ができました。
今回晋が初めて登場しました、いつの日か司馬炎を紹介してほしいです
しくじり三国志列伝があれば、一番しくじりの取れ高が多そうな人ですねw栄光からの凋落という意味でも。
司馬炎の栄光①若くして「寛恵にして仁厚、沈深にして度量あり」と評される。②父昭の後を継いでも、善政を敷く。③約100年ほど荒れていた、三国を統一する。司馬炎の凋落①三国統一後は、政治に興味がなくなる。さらに女漁りに夢中になってしまう。②有能な弟の司馬攸を死に追いやる。家臣に力を持たせず、一族に力を持たせる司馬家の方針からすると完全な本末転倒であり、必要な藩屏を失ってしまう。③晩年には後漢と同様に外戚専権の状態にしてしまう。さらに、一族まで権力争いにかまけてしまい、どうしようもない状態に。④①と②と③が合わさった結果、晋は40年もせずに滅び、五胡十六国の基をつくってしまう。
よくよく考えたら、華麗なる一族のサラブレッドですね。色々な人脈があったからこそ多くの情報を入手でき、才能を発揮してここまで活躍することができたのですね。賈充など対呉開戦慎重派がいなければ、殊勲第一として称賛されていたでしょうね。
221年といえば劉備が皇帝になった年じゃないか!
羊祜は晋最後の名将じゃなくて、最初じゃないですか?王濬とか杜預とか馬隆とか祖逖とか陶侃とか謝玄とか晋には他にも名将がいっぱいいますよ〜。
確かにその通りでした!タイトルを変更しました!
(^▽^) 晋最後の名将はやっぱり劉裕ですよね!
東晋は別でしょ
わんちゃん元気になってきてよかったね。
賈充とかいう後の賈一族の元凶
?表題は最初、ナレーションの頭では最後。説明的には最後が正しそうだけど…。
「陳羣なくして魏朝なし、羊祜なくして晋朝なし」優れた才能と人柄の良さを兼ね備え、しかも群を抜いているのは、三国志の中ではこの二人位でしょう。才能か人柄かどちらかに偏るケースはありますが…共にハイスペックというのは稀です。献身的で傲りなど一切なく、その存在はカリスマとして機能しました。晋書において、羊祜の実績は不当に低く評価されているのです。その原因は、東晋(漢族亡命政権)の正統性の主張を揺るがす、北朝(異民族政権)の劉曜の皇后として羊家一門の羊献容が現れた事にあります。賈充の娘で皇后となっていた賈南風が誅殺されて、西晋二代皇帝司馬哀の後妻として立てられたのが、羊献容でした。羊祜の従弟である羊瑾(辛憲英の夫である羊眈の長子)の孫娘。西晋の中興をかけ、泰山羊家(羊祜とその実姉で司馬師の後妻だった弘訓太后羊徽瑜)の遺徳に縋ろうとしました。それでも、権臣らの政争によって斜陽は止まらず、西晋は滅亡し羊献容は劉曜の虜になっています。東晋にとって、羊献容は裏切り者。羊献容にとって、東晋は自分を利用するだけ利用して見捨てた信義に戾る権臣らが立てた国。その対立が、東晋による異民族蔑視と北伐主義、羊祜を始めとする泰山羊家の魏晋に対する貢献の事実を消す事につながったのです。それでも、羊祜の実績の全てを消す事は出来ませんでした。「晋朝羊公の名を、知らぬ者はいない。戦を好む者に、名将はいない。されど、戦えない訳ではない。敵に回せば、彼より厄介な男はいない。負けたとしても、進化して強くなり向かってくる」『才能では陸抗に及ばなかったものの、人柄においては羊祜が上をいっていた』病気がちであったという陸抗の事を気遣い薬を贈った羊祜、返礼としてお酒好きであった羊祜に呉の酒を贈った陸抗。お互いの性格を調べ上げ、熟知していたからこそ出来た事。先手を打った羊祜の確信、美酒が贈られてきた時には「お酒には目がないのだ」と飲み干し男を上げています。陸抗からすると「やるな、あの男」「叔子(羊祜)に代わる大将が、この国におるのか?」司馬炎の羊祜に対する絶対的な信頼。273年西陵陥落における羊祜の責任を追及しようとする動きに、司馬炎が一喝。平南将軍に位を下げただけで、総司令官を続けさせました。羊祜がブチ切れているのは、荊州刺史であった王戎に対してだけです。余程の事がない限り、羊祜が相手を斬ろうなんてしません。信賞必罰を旨とする現場の将軍として、軍法違反の者を処断するのは当然の事。王戎が西陵敗北に直結する様な事をしでかしたのは確実です。晋書は東晋の権臣である瑯邪王氏擁護の姿勢で記されていますので、羊祜に斬られそうになって逃亡し、免職になった処を賈充に庇護され、羊祜が亡くなった後に衛瓘の人事で豫州刺史として復帰したなんて書けない訳です。賈充・王戎・司馬伷・王渾・衛瓘・楊駿などは、反羊家で結びついていました。280年の呉征伐の名目上の大将は、司馬仲達の妾の子である司馬伷です。対して、泰山羊家は仲達の正妻である張春華の血統に属していました。羊祜の実姉である羊徽瑜が、司馬師に嫁いでいた事に起因します。羊徽瑜が影の女帝として君臨していたという事実は、後に羊献容が皇后になった事と関わりがあり、東晋においては不都合なのです。曹魏朝の皇帝曹髦が賈充に殺害された後、羊祜は政治の表舞台に登場し、存在感を増していきました。司馬師の義理の弟という立場もあり、賈充よりも優位に立って、姉の婚家である司馬家を支える事が出来たのです。羊祜は司馬炎の擁立に最終決定を下せる位の影響力を有していたと考えられます。対して、賈充の権威が衰えていた証拠に、離縁していた前妻の李婉(夏侯玄と共に謀反人とされた李豊の娘)に復縁を迫られた事があります。司馬炎の方が主導権を握っていて、賈充は拒む事さえ許さなかったのです。司馬炎の実弟である司馬攸は、羊徽瑜の養子扱いで男子のいなかった司馬師の名跡を継ぎ、李婉が産んだ娘を妻に迎えています。司馬攸にとって義母に当たる李婉が賈充の正妻でなければ、筋が通らない。史料にある様な二人の正妻の話は、道理に適っていません。この時はまだ後宮に入っていない賈南風(実母は郭淮の姪の郭槐)の擁護の為に記された虚飾でしょう。最後に、羊祜が呉征伐で戦力として考えていたのは、益州にいた王濬と江夏にいた胡奮だけです。それだけで事足りていました。散々反羊家派に足を引っ張られていた羊祜が、中央の戦力をあてにはしないでしょう。事実、羊祜の弔い合戦と王濬が西陵を陥落させ、長江を下り始めると、賈充らは慌てて参戦しています。「王濬にこれ以上手柄を取られては堪らない」という面子の為でした。尚書令の衛瓘に至っては、涼州で暴れ回っていた禿髪樹機能に対し、王濬に北伐させようという有様。呉征伐の足を引っ張っていました。禿髪樹機能討伐には、馬隆が向かって事なきを得ています。羊祜は南方に赴任した時、江夏を拠点として制水権の確保に務めていました。陸抗が亡くなり、呉征伐を上奏する頃には、制水権は確保されていたのです。羊祜は平南将軍と江夏を胡奮に譲り、対岸の夏口攻めの準備を整え、襄陽へと移って征南大将軍となりました。益州刺史へ任じた王濬も、長江を下る大船の建造に着手しています。知略に長けた王濬の献策もあったでしょうが、それを実現する羊祜の実務能力が凄いです。羊祜が手を下すまでもなく、勝負は決していました。賈充らに功績はなく、便乗して戦功を粉飾しただけなのです。
杜預の生涯もお願いします!!
諸葛亮後の三国志を知らない人は多いと思う。アクションゲームで、鍾会と鄧艾って何者か聞かれたことがる。私は、三国志新聞で時系列を知りました。
呉懿を紹介してほしいです。
消しゴムで消せるボールペンあるよね…
鍾会嫌われすぎて草
色々悪く言われがちな賈充ですが、彼は呉討伐については大将を司馬攸(司馬炎の弟)に任せたかったという話があります。ちなみに、彼自身の才覚はというと、父親の昭や伯父の師に認められる程の才能がありました。
フリクションボールペンを使え!
消せるボールペン買えよ。
文字セリフ多過ぎて頭に入ってこないわ2倍速でもキツいわ
活躍が後半なのでは? 221年生まれなら三国時代が始まったばかりです。三国志って孫権が呉王になった222年からって定義だったはず。または漢が魏に禅譲した220年からでしょう。それまでの時代区分は後漢ですよ。黄巾の乱等の出来事は三国志ではなく、後漢書ではなかったですか?
歴史的に見ればそうなんだけど「物語としての三国志」いわゆる「三国志演義」では後半戦という意味だと思います。
司馬昭幕下の良心という印象が強い羊祜ですが、
慎重さや政治的な立ち回りの上手さを感じさせるエピソードもあり、
ただの良い人で終わりではないところが魅力だと思います。
案外器用で世渡りの上手な人だったのかも。
三国志の中だと諸葛亮に一番近いタイプの武将だと思う
内政外交の巧みさと君主への忠誠、民衆からの評価も高いし人格面も優秀、戦はさすがに比較したら可哀想だが
負けても全然支配が崩れないし、相手からしたらこのタイプが覇権国にいるのが一番きついかも
三国志ネタをゆっくりでやってくれるからとっても見やすい!
三国志の中華ゲームで使ってたよく知らない武将
晋書において羊祜は別格の扱いを受けた人物の一人である。
同じ伝でも史論、賛で杜預は呼び捨て、然るに羊祜は羊公である。
王導でも絶賛されつつも字の茂弘である。羊祜は功だけでなく徳の高さが評価されたのだろうな。
王羲之は太宗の愛を受けているので、別の意味で別格だけど
杜預「誠に遺憾である」
ボロボロの呉を支えていた陸抗には頭が下がる。
エースで四番を打っている感じ
鍾会が話題に出るとディスるか嫌ったり揉めるかばかりで利用しようとする姜維が一番優しく見える不思議
陸羊の交わりだけは割と有名な気も
予言者羊祜、と言うのは冗談にしても鍾会の反乱とか世権力はたいしたものですよね
陸抗との戦いは実戦ではやや分が悪かったけど、政略でうまく追い詰めていっていた感じですよね
面白いライバル関係だと思う
羊祜の一族は幅広く縁戚関係を結んでいる割には、羊祜より前の世代の事績があまりわからないんですよね。
それだけの関係を結べるという事はそれなりに名の通った一族だとは思うのですが•••
羊祜のエピソード欠かせないのはやっぱり、陸抗との敵味方を超えた関係ですね。
有徳の名将と言って差し支え無い人物ですね。
羊祜の祖父、羊続は後漢書に伝がありますよ。
詳しいことは、リンク先にありますが黄巾の乱でも活躍しています。
父の羊衜は早世しましたが、2人の妻の父親がそれぞれ蔡邕、孔融と当代を代表する文人ですから、本人も文化人だったんでしょうね。
兩漢魏晉學庵
-羊続伝
www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/youzoku.htm
尚書六百石
ご親切にありがとうございます。
また一つ知識を、深める事ができました。
今回晋が初めて登場しました、いつの日か司馬炎を紹介して
ほしいです
しくじり三国志列伝があれば、一番しくじりの取れ高が多そうな人ですねw
栄光からの凋落という意味でも。
司馬炎の栄光
①若くして「寛恵にして仁厚、沈深にして度量あり」と評される。
②父昭の後を継いでも、善政を敷く。
③約100年ほど荒れていた、三国を統一する。
司馬炎の凋落
①三国統一後は、政治に興味がなくなる。さらに女漁りに夢中になってしまう。
②有能な弟の司馬攸を死に追いやる。家臣に力を持たせず、一族に力を持たせる司馬家の方針からすると完全な本末転倒であり、必要な藩屏を失ってしまう。
③晩年には後漢と同様に外戚専権の状態にしてしまう。さらに、一族まで権力争いにかまけてしまい、どうしようもない状態に。
④①と②と③が合わさった結果、晋は40年もせずに滅び、五胡十六国の基をつくってしまう。
よくよく考えたら、華麗なる一族のサラブレッドですね。
色々な人脈があったからこそ多くの情報を入手でき、才能を発揮してここまで活躍することができたのですね。
賈充など対呉開戦慎重派がいなければ、殊勲第一として称賛されていたでしょうね。
221年といえば劉備が皇帝になった年じゃないか!
羊祜は晋最後の名将じゃなくて、最初じゃないですか?
王濬とか杜預とか馬隆とか祖逖とか陶侃とか謝玄とか晋には他にも名将がいっぱいいますよ〜。
確かにその通りでした!タイトルを変更しました!
(^▽^) 晋最後の名将はやっぱり劉裕ですよね!
東晋は別でしょ
わんちゃん元気になってきてよかったね。
賈充とかいう後の賈一族の元凶
?表題は最初、ナレーションの頭では最後。説明的には最後が正しそうだけど…。
「陳羣なくして魏朝なし、羊祜なくして晋朝なし」優れた才能と人柄の良さを兼ね備え、しかも群を抜いているのは、三国志の中ではこの二人位でしょう。才能か人柄かどちらかに偏るケースはありますが…共にハイスペックというのは稀です。献身的で傲りなど一切なく、その存在はカリスマとして機能しました。
晋書において、羊祜の実績は不当に低く評価されているのです。その原因は、東晋(漢族亡命政権)の正統性の主張を揺るがす、北朝(異民族政権)の劉曜の皇后として羊家一門の羊献容が現れた事にあります。
賈充の娘で皇后となっていた賈南風が誅殺されて、西晋二代皇帝司馬哀の後妻として立てられたのが、羊献容でした。羊祜の従弟である羊瑾(辛憲英の夫である羊眈の長子)の孫娘。西晋の中興をかけ、泰山羊家(羊祜とその実姉で司馬師の後妻だった弘訓太后羊徽瑜)の遺徳に縋ろうとしました。それでも、権臣らの政争によって斜陽は止まらず、西晋は滅亡し羊献容は劉曜の虜になっています。
東晋にとって、羊献容は裏切り者。羊献容にとって、東晋は自分を利用するだけ利用して見捨てた信義に戾る権臣らが立てた国。その対立が、東晋による異民族蔑視と北伐主義、羊祜を始めとする泰山羊家の魏晋に対する貢献の事実を消す事につながったのです。それでも、羊祜の実績の全てを消す事は出来ませんでした。
「晋朝羊公の名を、知らぬ者はいない。戦を好む者に、名将はいない。されど、戦えない訳ではない。敵に回せば、彼より厄介な男はいない。負けたとしても、進化して強くなり向かってくる」
『才能では陸抗に及ばなかったものの、人柄においては羊祜が上をいっていた』
病気がちであったという陸抗の事を気遣い薬を贈った羊祜、返礼としてお酒好きであった羊祜に呉の酒を贈った陸抗。お互いの性格を調べ上げ、熟知していたからこそ出来た事。先手を打った羊祜の確信、美酒が贈られてきた時には「お酒には目がないのだ」と飲み干し男を上げています。陸抗からすると「やるな、あの男」
「叔子(羊祜)に代わる大将が、この国におるのか?」司馬炎の羊祜に対する絶対的な信頼。273年西陵陥落における羊祜の責任を追及しようとする動きに、司馬炎が一喝。平南将軍に位を下げただけで、総司令官を続けさせました。
羊祜がブチ切れているのは、荊州刺史であった王戎に対してだけです。余程の事がない限り、羊祜が相手を斬ろうなんてしません。信賞必罰を旨とする現場の将軍として、軍法違反の者を処断するのは当然の事。王戎が西陵敗北に直結する様な事をしでかしたのは確実です。晋書は東晋の権臣である瑯邪王氏擁護の姿勢で記されていますので、羊祜に斬られそうになって逃亡し、免職になった処を賈充に庇護され、羊祜が亡くなった後に衛瓘の人事で豫州刺史として復帰したなんて書けない訳です。
賈充・王戎・司馬伷・王渾・衛瓘・楊駿などは、反羊家で結びついていました。280年の呉征伐の名目上の大将は、司馬仲達の妾の子である司馬伷です。
対して、泰山羊家は仲達の正妻である張春華の血統に属していました。羊祜の実姉である羊徽瑜が、司馬師に嫁いでいた事に起因します。羊徽瑜が影の女帝として君臨していたという事実は、後に羊献容が皇后になった事と関わりがあり、東晋においては不都合なのです。
曹魏朝の皇帝曹髦が賈充に殺害された後、羊祜は政治の表舞台に登場し、存在感を増していきました。司馬師の義理の弟という立場もあり、賈充よりも優位に立って、姉の婚家である司馬家を支える事が出来たのです。羊祜は司馬炎の擁立に最終決定を下せる位の影響力を有していたと考えられます。
対して、賈充の権威が衰えていた証拠に、離縁していた前妻の李婉(夏侯玄と共に謀反人とされた李豊の娘)に復縁を迫られた事があります。司馬炎の方が主導権を握っていて、賈充は拒む事さえ許さなかったのです。司馬炎の実弟である司馬攸は、羊徽瑜の養子扱いで男子のいなかった司馬師の名跡を継ぎ、李婉が産んだ娘を妻に迎えています。司馬攸にとって義母に当たる李婉が賈充の正妻でなければ、筋が通らない。史料にある様な二人の正妻の話は、道理に適っていません。この時はまだ後宮に入っていない賈南風(実母は郭淮の姪の郭槐)の擁護の為に記された虚飾でしょう。
最後に、羊祜が呉征伐で戦力として考えていたのは、益州にいた王濬と江夏にいた胡奮だけです。それだけで事足りていました。散々反羊家派に足を引っ張られていた羊祜が、中央の戦力をあてにはしないでしょう。事実、羊祜の弔い合戦と王濬が西陵を陥落させ、長江を下り始めると、賈充らは慌てて参戦しています。「王濬にこれ以上手柄を取られては堪らない」という面子の為でした。
尚書令の衛瓘に至っては、涼州で暴れ回っていた禿髪樹機能に対し、王濬に北伐させようという有様。呉征伐の足を引っ張っていました。禿髪樹機能討伐には、馬隆が向かって事なきを得ています。
羊祜は南方に赴任した時、江夏を拠点として制水権の確保に務めていました。陸抗が亡くなり、呉征伐を上奏する頃には、制水権は確保されていたのです。羊祜は平南将軍と江夏を胡奮に譲り、対岸の夏口攻めの準備を整え、襄陽へと移って征南大将軍となりました。益州刺史へ任じた王濬も、長江を下る大船の建造に着手しています。知略に長けた王濬の献策もあったでしょうが、それを実現する羊祜の実務能力が凄いです。羊祜が手を下すまでもなく、勝負は決していました。賈充らに功績はなく、便乗して戦功を粉飾しただけなのです。
杜預の生涯もお願いします!!
諸葛亮後の三国志を知らない人は多いと思う。アクションゲームで、鍾会と鄧艾って何者か聞かれたことがる。
私は、三国志新聞で時系列を知りました。
呉懿を紹介してほしいです。
消しゴムで消せるボールペンあるよね…
鍾会嫌われすぎて草
色々悪く言われがちな賈充ですが、彼は呉討伐については大将を司馬攸(司馬炎の弟)に任せたかったという話があります。
ちなみに、彼自身の才覚はというと、父親の昭や伯父の師に認められる程の才能がありました。
フリクションボールペンを使え!
消せるボールペン買えよ。
文字セリフ多過ぎて頭に入ってこないわ2倍速でもキツいわ
活躍が後半なのでは? 221年生まれなら三国時代が始まったばかりです。
三国志って孫権が呉王になった222年からって定義だったはず。
または漢が魏に禅譲した220年からでしょう。
それまでの時代区分は後漢ですよ。
黄巾の乱等の出来事は三国志ではなく、後漢書ではなかったですか?
歴史的に見ればそうなんだけど「物語としての三国志」いわゆる「三国志演義」では後半戦という意味だと思います。