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僕は昭和21年に満州で生まれました!母と伯母が三人のチビを連れて引き上げ船で日本に帰ってこれました!母と伯母には感謝!感謝!しか有りません。引き上げ船の中でこの歌が流れたも知れないけど?…この歌のイントロ聞いただけで涙流れて来ます!母も伯母もどんな気持ちで引き上げ船に乗ったか…その当時の話は未だにひと言も触れる事は有りません。苦しく、悲しい中にも必死でチビ達を守って帰って来てくれました!僕が生きてゆく為の原点です!死ぬまで忘れ無い心の歌です!
毎日何度も聞かせて頂いて、この歌と映像を見て涙が止まりません。私の父も樺太からの引き上げで、つらい思いをしたのだと今は父母に感謝の気持ちで一杯です。今年76になりました
野村総研な
随分前の事ですが、TVで映画かドラマで少年が小舟でこの歌を歌っていたシーンを観てこの歌の良さを知りました。辛い時代の歌ですね。日本のために戦っていただいた方に感謝の気持ちが湧いてきます。涙が溢れそうになってしまいます。名曲です。歌い継がれていくんでしょうね。
昭和23年、ナホトカから戻る病院船の高砂丸に乗り込んだ兵隊・引き上げ家族の耳に「皆さま長い間ご苦労様でした。これは日本の船です。これから皆さまを舞鶴までお送りいたします。ご安心ください」というアナウンスとともに、田端義夫の「かえり船」が流れました。兵隊も引き上げ家族も、この歌にみんなが泣いたそうです。間違いなく、この歌は歌謡史に残る名曲に違いありません。貧しい家庭に育ち、13歳の時に丁稚奉公に出された田畑義男は、その後薬屋・パン屋・鉄工所などを転々としていたとき、偶然目にしたディック峯の舞台に憧れ、ベニヤ板でこしらえたギターを持って河原で稽古したそうです。昭和13年、素人のど自慢で優勝、ポリドールレコード社長宅で書生住まいになりました。その時書生仲間の先輩が朝夕「オーッス!」と挨拶するのにヒントを得て、後の彼の舞台スタイルになったといいます。
先人たちが辛い経験をして、今の日本が🇯🇵あります。ありがとうございます!
この映像を見ながら聴いていると、思わず涙が溢れてきます、当時の世相を想像します。名曲です。
聞くたびに涙がでてきます。しみじみと聞き入っています。
私の父も、中国戦線で約4年間戦って無事帰って来ました。戦争中の話しいろいろ聴きました。復員船に乗れた時、これで日本に帰れる…と沁沁感激していました。
想像を出来ない苦労をして、帰国されたのですね。子供の頃に聴いた歌でしたが、今この映像を拝見させていただき、初めて意味が分かりました。涙が出てきます。
バタヤンの帰り船は歌謡曲の中の最高傑作です、これを超えるものは有りません、優しさにあふれた歌声はこの歌手にしか出せません、引揚者はまず看護婦さんの美しさに会い力がわいたでしょう、そして流れている帰り船、時代が必要とした歌こそ値打ちがあります、又その歌詞も素晴らしく情景が浮かんできます、霞む祖国よはGHQの為に拒否されたが、霞む故国もあるぞよ、船に乗って祖国が近ずく嬉しさ、そしてカモメ行くなら男の心せめてあの子にとうまいこと作詞しますなー
OKSさま。「祖国」が「故国」になったということ、初めて知りました。感謝です。規制をかわす庶民の知恵。
ばたやんの帰り船、涙が出ます。私は軍人になり1歩手前の年齢でした。工場で爆弾を作りました。本当に戦地へ行かれた方はご苦労さんでした。終戦後、この歌は大いに流行りましたね。
大東亜戦争に従軍し、わが国の敗戦直後に不法にソ連に抑留された息子が復員して帰って来て、その老いた母と再会する場面がバックに使われていますが、田端義夫さんの歌を聴きながらその場面を見るといつも涙が滲んできます。
(熱い涙も故国に着けば嬉し涙と変わるだろう)復員兵の皆様のご苦労と日本に帰った喜びに胸が打たれます😭
私の叔父はビルマで戦死22歳でした、この歌を聴くたびにどんなに復員船の中で聞きたかったろうと思うと涙が止まりません。
私の叔父はフィリピンでした。
私の叔父はビルマで終戦を迎え奇跡的に生還。戦友の死を目撃した人でした。もっと話を聞いておきたかった。
私の叔父が3年前に逝きました。満州で足を撃たれ傷病兵として先に帰国しています。その叔父は、私が物心付いたころ(昭和30、1955)頭髪をオ-ルバックにしていました。今にして思えばどことなくバタヤンに似ていました。 日本の英霊の御霊に合掌。 2019/09/08
亡くなった父が、よく歌っていました。青春時代は、戦場で明け暮れ戦後は 波乱の人生でした。合掌。
この歌は日本人にとって特別の歌です。神様がばたやん田端義夫先生に唄わせたのだと思います。
年老いた親御さんや家族が心細くいまか、いまかと待ち浴びているすがたを見るとなみだがでてきます。
なさかまやのある
父が一番好きな曲ですこの歌を聴くと思い父を思い出します
生きて再び見た祖国の人に手を振る鈴なりの兵隊さん、よく帰ったよかったとニコニコ手を振る人、待つ人を見つけたのか目にハンカチを当てる人、中々見つからないのか不安そうな様子のお婆さん、とうとう見つからなかったのか花をむしる人、タメだ。ここまで見たら、歌も何もなくなってしまった。とにかくここはもう祖国だと船から飛び降りる兵隊さん、祖国だが故郷はまだ先だと汽車に乗り込む兵隊さん。藤田進は名優だろうが、ようやく生きて帰ってお袋の顔なんぞ見たらどうなったか。俺なら一ッ言も言えなくなっていたろうなと見ていて思った。
先人たちが辛い経験をして、今の平和な日本があります。ありがとうございます!
総ての方に感謝、感謝、感謝 、、、言葉がでません。
この歌、嫌いではないが戦死した父親、帰りたかったやろうなと思うと聞けなかった。やっと聞けるようになったけど、やはり涙がでる。父親の顔も知らないので、もし、あの世があるなら一番に会いたい。
遅ればせながら・・・お察しいたします。
17年前に74で亡くなった父は台湾からの引き上げ家族でした。田端義夫を愛し、聞き歌いしていました。自身が70歳を迎え、平和で生きてこられたことに感謝しています。今戦争の準備が進んでいるようで怖い感じがしています。引上げ船が出ない日本でいたいです。
戦争はいかん、絶対にいかん戦死覚悟するのは僕の頃で十分だ
この曲を聴く度に亡き父を思い出します。亡くなる前日迄、反抗していた頃。好きな曲です。
いつ.聞いても、感動をします、有り難うございました。
聴いて涙が止まりません僕は戦後生まれですが、ミグ25亡命事件では北方勤務していて、ソ連軍が攻めて来ると思い親や妹弟のために戦い戦死を覚悟しましたその後約30年、無事定年退官して制服脱ぎましたが、護国の先輩である帰還兵の皆さんの気持ちの一割位はわかるつもりです
皆様の投稿を読むとやはり涙無くては読めません!今の平和があるのは英霊のお蔭ですね!
涙がでてきます。
何回聞いても敗戦の悲惨だが目に浮かびます。私達も年代では脳裏から離れません。
泣けてきます。台湾の主様ありがとうございます✨🙇🇯🇵
ありがとうございます…倉若・清水コンビで歌の造船会社ともいわれ船ものシリーズで一世を風靡されました…イイネ押しました。私も舞台で何度か唄った「かえり船・かよい船」も是非拝聴くださいませ!
中国帰りの伯父がよく歌ったり聞いていました。いつも涙ぐんでいました。当時私は小学生。還暦をはるかに過ぎた私は今、この曲を聞くと涙がこみあげてきます。幼稚園の頃、おにごっこしていてとある長屋に迷い込んだとき、中学生か小学校の高学年くらいか!?の少女が自分に一切視線を向けず、茶碗を黙々と洗っていた。その姿になぜかはっとした。その人のことがずっと気になっていた。自分が40過ぎた頃、母に「…あそこに長屋があったよね。」と言ったら「ああ満州からの引き揚げ者が一時集まっていた…」。これで、あの少女のことがやっと了解できた。家族をなくしたか、知らない人と引き上げてきたのか…そんな柵と生き様を背負ってきたんだと想った。その人は今は七十半ばくらいか。その後は幸せな家庭を築かれたのか、そこを通るとき想いを馳せる。
母の叔父家族が満州から復員、その悲惨な体験をよく聴かされたといっていました、その母も(母の)叔父家族もみんな旅立ちましたけど、子世代・孫世代・曾孫世代のわれわれはこの体験を風化させてはなりません
復員された皆様本当にご苦労様でした。この歌を聞けずに物故された方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
SUSUさんの岡晴夫の泣くな小鳩の所でコメントを頂きバタやんのこの歌の映像を見て、昭和24年新東宝製作となってるが25年から30年頃、私が10~12歳の時、正月に名古屋の熱田神宮で足を1本切断又は両足を戦争で失い参拝者から寄付を募っていた10人位見たが、この体では働けず戦後まだ復興してなく失業で金が無かっただろう。軍人恩給年金が整備されたのは40年以降で身体障害帰還兵は本当に気の毒だった。身体怪我無くて帰国出来た人でも働く場所無い時代だった。3年前のあなたのコメントに今日私がコメントをしました。
24年生まれで貴兄より少し下ですが、子供時代に傷痍軍人さん達のことは知っております。実際にあの戦争に行かれた方々には、いろいろな意味で本当に頭が下がる思いです。この歌を作詞された清水みのるさん(他にも多々名曲を作詞されています)の甥御さんが会社の直属の先輩であり、飲みに行くとよくこの歌を唄われました。私も当時この歌の時代背景がよく分かっておりませんでしたが、聞いているうちにこの歌が大好きになりカラオケの持ち歌でした。復員兵の方々は引き揚げ船の中でこの歌が流れると皆号泣されたと聞いており、こんな時代が生んだ名歌はもう生まれないんじゃないかと思います。コメント有難うございました。
バタヤンはいいねー。私フアンです。哀愁があり生きる希望もあり、最高!
むっちゃイイ歌ですね、しんみりじっくり感動が味わえる素晴らしい歌だと思います😂
靖国神社の英霊にご無事に帰還された兵隊さんたちに感謝です。
親父も戦地から引き揚げでしたが、戦争の話は一切しなかっね!余程辛かったのだろう!唯一、現地の子供との触れ合いは、内地に残してきた、娘たちと重なり大事にしたそうです!
親父の命日に親父の大好きなこの歌を。親孝行できんとごめんな。。
私らの子供の頃 海水パンツじゃなくてこの映像に出てくる ふんどしでした、6尺ふんどし と言って なつかしいね。。。。今は結び方も忘れてしまったよ
かえり船 魂だけを乗せて来た人も多かろ故国めざして
私は昭和27年生まれですが、私の亡き父親の、兄 弟 二人それぞれ インド ルソン島 中国で、戦死いたしました。幸い父親は、戦争には、行っていなくって、祖父 祖母 は、さぞかし息子の帰りを 待ち詫びる気持ちを、考えると 心が、傷みます。
護国の鬼となられたお二人に45度の敬礼します軍隊、自衛隊では陛下と戦死した英霊には45度の敬礼をします
おはよう御座います。なんて懐かしい曲で珍しい動画ですね。有り難う御座います。
父の弟二人、母の兄一人が、いずれも20代前半。亡き叔父たちは故郷のお墓に眠っています。それに死ぬ間際、やはりお母さんでしょう。
良い歌ですね・・当時、食糧難で、配給では足りず・メロディーより・・🍙食べたい☁
昭和21年の発売とか まさに現実日本国中が喜びと悲しみに暮れながら聞いたのだろうな。
私の父が大好きな歌です
父ちゃん会いたい俺を自電車の前に乗せてよく口ずさんでいましたね、もう7○年前のことになりますよ。
古希を迎えて今1人早く迎えにきてね母と一緒に会いたい。
親父がバタやん大好きでギター爪弾きながら唄ってました、私もバタやん大好きです。
田端義夫是我最喜歡的歌手,因為我都聽與都唱日本演歌。可惜田端老師於今年4月25日病逝,十分遺憾。
引き揚げ船の実写すごいですね。バタやん最高・
同名タイトルの映画です
この歌を聴くと、いつもながら兄が返ってくるようで・・・でも今だ帰ってきません。
船を待ってるおばあさんが感動するな‼️
この唄聞くたびにやっぱり戦争ダメだなどんな理由があっても
ばたや~ん永遠なり
祖父はシベリアに抑留されて、本当に苦労して帰国しました。
This song is wonderful and bring a tear to many a public !!
ばたやん‥うまいね、懐かしい、
昔、昔…多摩の某映画館の休憩時にこの歌がヘビロテで流れていた、まだガキだったがすっかりこの歌を覚えてしまった、映画の数だけこの歌を聴いたから…
戦争は二度とやってはいかんのです。
石油を買える外貨もなく、引き揚げ船の燃料は松の木の根から抽出したオクタン価89程度の松根油だったようだ。
(涙)なしに聴けない‼️
GHQさん故国に変えてくれて余計よかったかもしれませんな、この辺の事情を分かって感ずるところをコメントしていただき有難う。バタヤんは2番は気分で変えて歌っていたようです。瞼あわせりゃ瞼に浮かぶ(瞼にしみる)と二通り。
異国の丘、かえり船、岸壁の母は、三部作です。
これを見て泣けました。第685回条項tv~麻生太郎元首相も大絶賛〔高原あきこ〕全国比例候補が「三浦春馬さん」以降の真相究明を求める
戦地から命からがら帰国された兵隊さんには、お疲れ様ですと言いたい。南太平洋の基地の爆撃機に搭乗されていた兵隊さんの著書によると帰還の船であと少しで祖国の土を踏めるのに部下に対する酷い扱いの為に海に落とされた兵隊さん二人みえましたよ。
Muitas saudades. Esta e uma das musicas mais bonitas e que o tempo so vem valoriza-la.
É verdade ela nos faz lembrar um passado que vai se distanciando a cada ano
戦後庶民代表の歌手。
田端義夫さん=帰り船🚢 かえり船⛵=田端義夫さん
ご苦労さまでした
SU SUさま これは珍しくご本人の歌唱でした。
戦争は空か降ってきた自然災害ではありません。特定の人間が始めたものです。歌もいいが政治に関心を持たなければ再び焼け野原への道を行くことになる。
亡き父に聞きましたけど、このときどうだった?😢って、そうしたら俺はやれやれやっと帰って来れたなァ。って言ってたことを思い出します。さて、これからどうすれば?いいか?と。
帰りたかったでしょう。逢いたかったでしょう。無事に帰れた人は靖国神社の戦友に感謝しましょう。
君よ、選曲 ありがとう。
失礼しました。私の 認識不足でした。ただ当時 小学2・3年だったので 許してください。吉田 正の 異国の丘に 並行する 歌だったのですね。明治生まれの 祖父母 戦死した伯父親父の 慰霊歌とし 一生再生させて頂きます。
GOOD !
亡父が九州の港へ復員したときにかかっていたそうです。
natsukashii uta mukashi omoidasu-né?
2:05の褌少年、長門裕之さんではないでしょうか。
他界した父そっくりさんたばたよしお
他界した父そっくりです、田端義夫良く歌ってましたこの曲を、、、当時は又始まった得意の歌と思っていましたが今では懐かしい
二戰後大日本帝國被美軍軍事分割佔領,在台灣的內陸(日本四國、九州、北海道、本州)等地的軍人被盟軍載離開日本台灣澎湖,最後日本軍眷也被驅離,有人隱名埋姓住在台灣不說日語終身不開口,也有人自殺不回去,美國政客故意製造模糊政策佔領變成中華民國完全違反戰爭法,今年是日本「令和」元年也是大日本帝國合體的契機,所以台灣成立民政府就是要用法理讓台灣國際地位正常化ua-cam.com/video/AEtZfp6uTgA/v-deo.html
藤田進じゃないのか?
1946
今は韓国とわだかまりがあるようですがいちばんちかいおとなりさんとなかよくってほしいと思いますー遠い親戚より近くのなんとかです
本人歌唱テイチク音多カラオケ?!😂昔はDVDカラオケ無いときは8カートリッジやカセットテープで音多無しのもあり歌いにくかった😅
さっききいたけどいまいちだったよ?こんな曲さぁ、うたうひといるとおもってるの?頭文字縦読みしてみ!
僕は昭和21年に満州で生まれました!母と伯母が三人のチビを連れて引き上げ船で日本に帰ってこれました!母と伯母には感謝!感謝!しか有りません。引き上げ船の中でこの歌が流れたも知れないけど?…この歌のイントロ聞いただけで涙流れて来ます!母も伯母もどんな気持ちで引き上げ船に乗ったか…その当時の話は未だにひと言も触れる事は有りません。苦しく、悲しい中にも必死でチビ達を守って帰って来てくれました!僕が生きてゆく為の原点です!死ぬまで忘れ無い心の歌です!
毎日何度も聞かせて頂いて、この歌と映像を見て涙が止まりません。私の父も樺太からの引き上げで、つらい思いをしたのだと今は父母に感謝の気持ちで一杯です。今年76になりました
野村総研な
随分前の事ですが、TVで映画かドラマで少年が小舟でこの歌を歌っていたシーンを観てこの歌の良さを知りました。辛い時代の歌ですね。日本のために戦っていただいた方に感謝の気持ちが湧いてきます。涙が溢れそうになってしまいます。名曲です。歌い継がれていくんでしょうね。
昭和23年、ナホトカから戻る病院船の高砂丸に乗り込んだ兵隊・引き上げ家族の耳に「皆さま長い間ご苦労様でした。これは日本の船です。これから皆さまを舞鶴までお送りいたします。ご安心ください」というアナウンスとともに、田端義夫の「かえり船」が流れました。兵隊も引き上げ家族も、この歌にみんなが泣いたそうです。
間違いなく、この歌は歌謡史に残る名曲に違いありません。
貧しい家庭に育ち、13歳の時に丁稚奉公に出された田畑義男は、その後薬屋・パン屋・鉄工所などを転々としていたとき、偶然目にしたディック峯の舞台に憧れ、ベニヤ板でこしらえたギターを持って河原で稽古したそうです。昭和13年、素人のど自慢で優勝、ポリドールレコード社長宅で書生住まいになりました。その時書生仲間の先輩が朝夕「オーッス!」と挨拶するのにヒントを得て、後の彼の舞台スタイルになったといいます。
先人たちが辛い経験をして、今の日本が🇯🇵あります。ありがとうございます!
この映像を見ながら聴いていると、思わず涙が溢れてきます、当時の世相を想像します。名曲です。
聞くたびに
涙がでてきます。しみじみと聞き入っています。
私の父も、中国戦線で約4年間戦って無事帰って来ました。戦争中の話しいろいろ聴きました。復員船に乗れた時、これで日本に帰れる…と沁沁感激していました。
想像を出来ない苦労をして、帰国されたのですね。子供の頃に聴いた歌でしたが、今この映像を拝見させていただき、初めて意味が分かりました。涙が出てきます。
バタヤンの帰り船は歌謡曲の中の最高傑作です、これを超えるものは有りません、優しさにあふれた歌声はこの歌手にしか出せません、引揚者はまず看護婦さんの美しさに会い力がわいたでしょう、そして流れている帰り船、時代が必要とした歌こそ値打ちがあります、又その歌詞も素晴らしく情景が浮かんできます、霞む祖国よはGHQの為に拒否されたが、霞む故国もあるぞよ、船に乗って祖国が近ずく嬉しさ、そしてカモメ行くなら男の心せめてあの子にとうまいこと作詞しますなー
OKSさま。「祖国」が「故国」になったということ、
初めて知りました。感謝です。規制をかわす庶民の知恵。
ばたやんの帰り船、涙が出ます。私は軍人になり1歩手前の年齢でした。工場で爆弾を作りました。本当に戦地へ行かれた方はご苦労さんでした。終戦後、この歌は大いに流行りましたね。
大東亜戦争に従軍し、わが国の敗戦直後に不法にソ連に抑留された息子が復員して帰って来て、その老いた母と再会する場面がバックに使われていますが、田端義夫さんの歌を聴きながらその場面を見るといつも涙が滲んできます。
(熱い涙も故国に着けば嬉し涙と変わるだろう)復員兵の皆様のご苦労と日本に帰った喜びに胸が打たれます😭
私の叔父はビルマで戦死22歳でした、この歌を聴くたびにどんなに復員船の中で聞きたかったろうと思うと涙が止まりません。
私の叔父はフィリピンでした。
私の叔父はビルマで終戦を迎え奇跡的に生還。戦友の死を目撃した人でした。もっと話を聞いておきたかった。
私の叔父が3年前に逝きました。満州で足を撃たれ傷病兵として先に帰国しています。その叔父は、私が物心付いたころ(昭和30、1955)頭髪をオ-ルバックにしていました。今にして思えばどことなくバタヤンに似ていました。 日本の英霊の御霊に合掌。 2019/09/08
亡くなった父が、よく歌っていました。青春時代は、戦場で明け暮れ
戦後は 波乱の人生でした。合掌。
この歌は日本人にとって特別の歌です。神様がばたやん田端義夫先生に唄わせたのだと思います。
年老いた親御さんや家族が心細くいまか、いまかと待ち浴びているすがたを見るとなみだがでてきます。
なさかまやのある
父が一番好きな曲ですこの歌を聴くと思い父を思い出します
生きて再び見た祖国の人に手を振る鈴なりの兵隊さん、
よく帰ったよかったとニコニコ手を振る人、
待つ人を見つけたのか目にハンカチを当てる人、
中々見つからないのか不安そうな様子のお婆さん、
とうとう見つからなかったのか花をむしる人、
タメだ。
ここまで見たら、歌も何もなくなってしまった。
とにかくここはもう祖国だと船から飛び降りる兵隊さん、
祖国だが故郷はまだ先だと汽車に乗り込む兵隊さん。
藤田進は名優だろうが、ようやく生きて帰ってお袋の顔なんぞ見たらどうなったか。
俺なら一ッ言も言えなくなっていたろうなと見ていて思った。
先人たちが辛い経験をして、今の平和な日本があります。
ありがとうございます!
総ての方に感謝、感謝、感謝 、、、言葉がでません。
この歌、嫌いではないが戦死した父親、帰りたかったやろうなと思うと聞けなかった。
やっと聞けるようになったけど、やはり涙がでる。
父親の顔も知らないので、もし、あの世があるなら一番に会いたい。
遅ればせながら・・・お察しいたします。
17年前に74で亡くなった父は台湾からの引き上げ家族でした。田端義夫を愛し、聞き歌いしていました。自身が70歳を迎え、平和で生きてこられたことに感謝しています。今戦争の準備が進んでいるようで怖い感じがしています。引上げ船が出ない日本でいたいです。
戦争はいかん、絶対にいかん
戦死覚悟するのは僕の頃で十分だ
この曲を聴く度に亡き父を思い出します。
亡くなる前日迄、反抗していた頃。
好きな曲です。
いつ.聞いても、感動をします、有り難うございました。
聴いて涙が止まりません
僕は戦後生まれですが、ミグ25亡命事件では北方
勤務していて、ソ連軍が攻めて来ると思い親や妹弟のために戦い戦死を覚悟しました
その後約30年、無事定年退官して制服脱ぎましたが、護国の先輩である帰還兵の皆さんの気持ちの一割位はわかるつもりです
皆様の投稿を読むとやはり涙無くては読めません!今の平和があるのは英霊のお蔭ですね!
涙がでてきます。
何回聞いても敗戦の悲惨だが目に浮かびます。私達も年代では脳裏から離れません。
泣けてきます。台湾の主様ありがとうございます✨🙇🇯🇵
ありがとうございます…倉若・清水コンビで歌の造船会社ともいわれ船ものシリーズで一世を風靡されました…イイネ押しました。私も舞台で何度か唄った「かえり船・かよい船」も是非
拝聴くださいませ!
中国帰りの伯父がよく歌ったり聞いていました。いつも涙ぐんでいました。当時私は小学生。
還暦をはるかに過ぎた私は今、この曲を聞くと涙がこみあげてきます。幼稚園の頃、おにごっこしていてとある長屋に迷い込んだとき、中学生か小学校の高学年くらいか!?の少女が自分に一切視線を向けず、茶碗を黙々と洗っていた。その姿になぜかはっとした。その人のことがずっと気になっていた。自分が40過ぎた頃、母に「…あそこに長屋があったよね。」と言ったら「ああ満州からの引き揚げ者が一時集まっていた…」。これで、あの少女のことがやっと了解できた。家族をなくしたか、知らない人と引き上げてきたのか…そんな柵と生き様を背負ってきたんだと想った。その人は今は七十半ばくらいか。その後は幸せな家庭を築かれたのか、そこを通るとき想いを馳せる。
母の叔父家族が満州から復員、その悲惨な体験をよく聴かされたといっていました、その母も(母の)叔父家族もみんな旅立ちましたけど、子世代・孫世代・曾孫世代のわれわれはこの体験を風化させてはなりません
復員された皆様本当にご苦労様でした。この歌を聞けずに物故された方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
SUSUさんの岡晴夫の泣くな小鳩の所でコメントを頂きバタやんのこの歌の映像を見て、昭和24年新東宝製作となってるが25年から30年頃、私が10~12歳の時、正月に名古屋の熱田神宮で足を1本切断又は両足を戦争で失い参拝者から寄付を募っていた10人位見たが、この体では働けず戦後まだ復興してなく失業で金が無かっただろう。軍人恩給年金が整備されたのは40年以降で身体障害帰還兵は本当に気の毒だった。身体怪我無くて帰国出来た人でも働く場所無い時代だった。3年前のあなたのコメントに今日私がコメントをしました。
24年生まれで貴兄より少し下ですが、子供時代に傷痍軍人さん達のことは知っております。実際にあの戦争に行かれた方々には、いろいろな意味で本当に頭が下がる思いです。この歌を作詞された清水みのるさん(他にも多々名曲を作詞されています)の甥御さんが会社の直属の先輩であり、飲みに行くとよくこの歌を唄われました。私も当時この歌の時代背景がよく分かっておりませんでしたが、聞いているうちにこの歌が大好きになりカラオケの持ち歌でした。復員兵の方々は引き揚げ船の中でこの歌が流れると皆号泣されたと聞いており、こんな時代が生んだ名歌はもう生まれないんじゃないかと思います。コメント有難うございました。
バタヤンはいいねー。私フアンです。哀愁があり生きる希望もあり、最高!
むっちゃイイ歌ですね、しんみりじっくり感動が味わえる素晴らしい歌だと思います😂
靖国神社の英霊にご無事に帰還された兵隊さんたちに感謝です。
親父も戦地から引き揚げでしたが、戦争の話は一切しなかっね!余程辛かったのだろう!唯一、現地の子供との触れ合いは、内地に残してきた、娘たちと重なり大事にしたそうです!
親父の命日に親父の大好きなこの歌を。
親孝行できんとごめんな。。
私らの子供の頃 海水パンツじゃなくてこの映像に出てくる ふんどしでした、6尺ふんどし と言って なつかしいね。。。。今は結び方も忘れてしまったよ
かえり船 魂だけを乗せて来た
人も多かろ故国めざして
私は昭和27年生まれですが、私の亡き父親の、兄 弟 二人それぞれ インド ルソン島 中国で、戦死いたしました。幸い父親は、戦争には、行っていなくって、祖父 祖母 は、さぞかし息子の帰りを 待ち詫びる気持ちを、考えると 心が、傷みます。
護国の鬼となられたお二人に45度の敬礼します
軍隊、自衛隊では陛下と戦死した英霊には45度の敬礼をします
おはよう御座います。なんて懐かしい曲で珍しい動画ですね。有り難う御座います。
父の弟二人、母の兄一人が、いずれも20代前半。
亡き叔父たちは故郷のお墓に眠っています。
それに死ぬ間際、やはりお母さんでしょう。
良い歌ですね・・当時、食糧難で、配給では足りず・メロディーより・・🍙食べたい☁
昭和21年の発売とか まさに現実日本国中が喜びと悲しみに暮れながら聞いたのだろうな。
私の父が大好きな歌です
父ちゃん会いたい俺を自電車の前に乗せてよく口ずさんでいましたね、もう7○年前のことになりますよ。
古希を迎えて今1人早く迎えにきてね母と一緒に会いたい。
親父がバタやん大好きでギター爪弾きながら唄ってました、私もバタやん大好きです。
田端義夫是我最喜歡的歌手,因為我都聽與都唱日本演歌。可惜田端老師於今年4月25日病逝,十分遺憾。
引き揚げ船の実写すごいですね。バタやん最高・
同名タイトルの映画です
この歌を聴くと、いつもながら兄が返ってくるようで・・・でも今だ帰ってきません。
船を待ってるおばあさんが感動するな‼️
この唄聞くたびにやっぱり戦争ダメだなどんな理由があっても
ばたや~ん
永遠なり
祖父はシベリアに抑留されて、本当に苦労して帰国しました。
This song is wonderful and bring a tear to many a public !!
ばたやん‥うまいね、懐かしい、
昔、昔…多摩の某映画館の休憩時にこの歌がヘビロテで流れていた、まだガキだったがすっかりこの歌を覚えてしまった、映画の数だけこの歌を聴いたから…
戦争は二度とやってはいかんのです。
石油を買える外貨もなく、引き揚げ船の燃料は松の木の根から抽出したオクタン価89程度の松根油だったようだ。
(涙)なしに聴けない‼️
GHQさん故国に変えてくれて余計よかったかもしれませんな、この辺の事情を分かって感ずるところをコメントしていただき有難う。バタヤんは2番は気分で変えて歌っていたようです。
瞼あわせりゃ瞼に浮かぶ(瞼にしみる)と二通り。
異国の丘、かえり船、岸壁の母は、三部作です。
これを見て泣けました。
第685回条項tv~麻生太郎元首相も大絶賛〔高原あきこ〕全国比例候補が「三浦春馬さん」以降の真相究明を求める
戦地から命からがら帰国された兵隊さんには、お疲れ様ですと言いたい。
南太平洋の基地の爆撃機に搭乗されていた兵隊さんの著書によると帰還の船であと少しで祖国の土を踏めるのに部下に対する酷い扱いの為に海に落とされた兵隊さん二人みえましたよ。
Muitas saudades. Esta e uma das musicas mais bonitas e que o tempo so vem valoriza-la.
É verdade ela nos faz lembrar um passado que vai se distanciando a cada ano
戦後庶民代表の歌手。
田端義夫さん=帰り船🚢 かえり船⛵=田端義夫さん
ご苦労さまでした
SU SUさま これは珍しくご本人の歌唱でした。
戦争は空か降ってきた自然災害ではありません。
特定の人間が始めたものです。
歌もいいが政治に関心を持たなければ
再び焼け野原への道を行くことになる。
亡き父に聞きましたけど、このときどうだった?😢って、そうしたら俺はやれやれやっと帰って来れたなァ。って言ってたことを思い出します。さて、これからどうすれば?いいか?と。
帰りたかったでしょう。逢いたかったでしょう。無事に帰れた人は靖国神社の戦友に感謝しましょう。
君よ、選曲 ありがとう。
失礼しました。私の 認識不足でした。ただ当時 小学2・3年だったので 許してください。吉田 正の 異国の丘に 並行する 歌だったのですね。明治生まれの 祖父母 戦死した伯父親父の 慰霊歌とし 一生再生させて頂きます。
GOOD !
亡父が九州の港へ復員したときにかかっていたそうです。
natsukashii uta mukashi omoidasu-né?
2:05の褌少年、長門裕之さんではないでしょうか。
他界した父そっくりさんたばたよしお
他界した父そっくりです、田端義夫良く歌ってましたこの曲を、、、当時は又始まった得意の歌と思っていましたが今では懐かしい
二戰後大日本帝國被美軍軍事分割佔領,在台灣的內陸(日本四國、九州、北海道、本州)等地的軍人被盟軍載離開日本台灣澎湖,最後日本軍眷也被驅離,有人隱名埋姓住在台灣不說日語終身不開口,也有人自殺不回去,美國政客故意製造模糊政策佔領變成中華民國完全違反戰爭法,今年是日本「令和」元年也是大日本帝國合體的契機,所以台灣成立民政府就是要用法理讓台灣國際地位正常化
ua-cam.com/video/AEtZfp6uTgA/v-deo.html
藤田進じゃないのか?
1946
今は韓国とわだかまりがあるようですがいちばんちかいおとなりさんとなかよくってほしいと思いますー遠い親戚より近くのなんとかです
本人歌唱テイチク音多カラオケ?!😂昔はDVDカラオケ無いときは8カートリッジやカセットテープで音多無しのもあり歌いにくかった😅
さっききいたけど
いまいちだったよ?
こんな曲さぁ、
うたうひといるとおもってるの?
頭文字縦読みしてみ!
涙がでてきます。