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「ごんぎつね」や「蜘蛛の糸」で担任教師が意図していない答えを言った私は、後日の父母会で母親が担任教師から吊るし上げを食らいました。担任教師曰く「一般常識とかけ離れ、他の子に悪影響、授業妨害」だったそうです。なお、私が言った答えは、ごんぎつね:この物語で最も可哀そうなのは兵十。母親を亡くしたばかりか、仲良くなれたかもしれない「ごん」を殺してしまったから。(教師が用意した答えは「ごんが可哀そう。どんな罪も赦されるべきだ」)「蜘蛛の糸」:お釈迦様がお気の毒。カンダタが善人になれる最後の機会を与えたのに・・・・。(教師が用意した答えは「カンダタのような悪人には絶対になるな!」)でした。そもそも、学校教育で「人の感じ方」を画一化することも危険な気がします。
教育指導要領から逸脱しないことを第一に考える、読解力の足りない教師だったのかね。お母様ともどもお気の毒なことでしたね。
どんな考えでも尊重されるべき。
国語の読解問題に模範解答とか正解が用意されてるのは前からどうかと思ってたそんなもの存在する意味がない
あなたの考えは妄想などでは決してない。非常に論理的でありながら高い感受性を持っているように感じられた。あなたのような人こそ、今の教育に必要だと思う。
「ご遠慮ください」や「お控えください」に対して、”少しならやってもいい”と解釈する者が増えてきたという記事を読んだのを思い出しました。
「絶対やるな!この野郎!」では角が立つので表現を柔らかくしたという相手の気遣いを想像できない現世代。
本当に“少しならやってもいい”場合にはどう表現するのが適切なのだろうか。
@@user-qp3gi7ny9t 「少しならやっても良い」なんて無いんですよ。「やっても良い」or 「やってはいけない」の二択です。
@@かわひろ-f3w なぜそう言い切れるのですか。
コンプラ社会で暗黙の了解をいつまでも受け入れてくれるわけないやろ。昭和の古臭い考えはもう通用しないんよ。
「葬儀の最中に女中は何を煮てるのか?」っていう問題の方が意図があって意地悪な感じで設問を考えた人がヤバい。狙っている感がある。葬儀という言葉がひっかるから想像しただけとも考えられる。
同感です。私も「『何を』煮ているか?」という設問のほうに原因があると思います。おそらく「何をしているか?」という設問なら素直に「料理」と答えた可能性が高いように推測します。少なくともこれを即「思考力の欠如」と結論付けるのは早計だと思います。
何かを煮ている人は女中ではない
いや、これは動画中にも言ってる他の事象や経験を結びつけて思考する力を養う設問だよ。だから先生の教科書の答え欄には集まった人の「ご飯」を作っている、という回答が正解として載ってる。母親が鍋でご飯を作る、法事でご飯等を振る舞う、等の経験や知識から正解を導ける。※昔は当たり前に見られた風景からの設問だから、そも親が料理をしなかったり、昨今の法事事情を鑑みると時代背景や歴史に関して教える必要があるかと。
私は中学生の家庭教師をしてます。約2年くらい前から同じ子を担当しています。初めて会った時は動画のように「ヤバい」「マジで」「草」などネットスラング的な言葉を使ってることが多かったですが、私がいちいち「何がやばいの?」「何がどうマジなの?」「草は何に対して草なの?」などのように言語化する大切さを教えた(小説やマンガなど読ませた)ところある程度語彙力は着きました。今では「マジで」「ヤバい」などの言葉は基本使ってないですね。結構長期的にはなりますけど本を読んで、自分の気持ちを普段から言語化することを特訓すれば想像力は養われるのかなと思いました。
この人には抽象的では伝わらないんだ、伝えるには別の表現をしなければ、という必要性がそこにあったからこそ、できたことだと思います。教え子と信頼関係があった証拠ですね。同じ質問をしても「うぜー」「うるせー」「しらねー」で終わる子もいますから。
素晴らしい先生
これ一対一だからできるんだよな学校の担任くらいのやつから言われたら、煽りか?と思うか、それか自信なくして喋らなくなるか
@@shippo0013 もちろん初めのうちは「しらん」とか否定的なことは言われました。その時は基本「じゃあ今日の宿題は多めに出そうかな(冗談)」って言ったらちゃんと考えて言語化してましたね。シンプル私自身が、最近の中学生はなにを趣味にして生きてるのか知りたかったから、聞いた?言語化した理由ですね。
@@y.sasaki1244 いえいえ、そんなに頭もよくないですよ笑!私も楽しく授業したいんで、雑談とか交えてしてるだけです!
二人の息子に同じことを聞いたら、まさかの「お母さんを煮てるの?」でビックリ。でも話を聞いてみると、わざわざ質問してるんだから、「鍋で煮る=料理」なわけない、きっと意外な展開にちがいない、と考えたようです。TikTokなど、短時間で視聴者の期待を裏切る展開の動画をいつも見ているので、意外性を期待するのが普通、と。読解力の低下ではなく、思考回路の変化だ、といっていて、妙に納得しました。
そうですね。わざわざ聞くってことは意外性が…?とは考えてしまいますね。
なるほど、裏のあるもの・意表を突くものと日常的に接しすぎて物事を額面通り捉えられずついつい裏を探してしまう、と。…なんか陰謀論を何故信じるか?にも繋がってきそうな見解だなぁ
やっぱりそうか。鍋で何を煮ているかなんてわさわざ班を組ませて答えさせる内容じゃないもん。 子供は出題の裏があると考えちゃうわな
ということは今の子供は単純な受け答えが困難という傾向があるのか。何でもかんでもドッキリみたいな思考するのは良くないなぁ。
実際現代の風習と価値基準ならそりゃあ料理だろうけど大昔の貧しい(であろう)農村でしかもその家に大鍋を持ち込んで料理したって状況は疑問を感じる。消毒のために大量の湯を沸かしていた(さすがに遺体は煮ない)という想像は頭ごなしに否定したもんではないと思うな
誘拐犯がニヤニヤしながら「これ、何の血だと思う?」って場面を想像して欲しい。勘繰らざるを得ないだろ
えっ血?
本当に小さなことではあるけど、小学校の高学年の頃に「あるいは」「要は」といった言葉を使って何気ない日常的な会話をした時に何度かその言い方変などと指摘され、「あるいは~あるいは~」と執拗に真似して小馬鹿にされた記憶が今でも残っている。当時は間違った使い方もしていなかったのに何がそこまで問題だったのかと分からなかったが、今でこそ客観的に考えて、小学生の時などは特に言語化能力の低い人から見てそういった活字でしか使わないような聞き慣れない表現を使う同年代は変人か、あるいは利口ぶってる気に食わない相手と見做されたのではないかと思っている。そんな目に遭わないためにと、本来は言語化能力の高い児童も違和感を押し殺してウザいやヤバいといった抽象的な言葉を使わざるを得ず、皆が日本社会特有の同調圧力下で抽象的な言葉を使うから事細かな情報の遣り取りが不可能となって不登校児童を量産しているのだろうし、結果全体として言語化能力が急速に低下しているのではないかというのが個人的な所感。様々な取り組みで個々の言語化能力の改善は見込めるだろうが、今後も子供達の全体的な言語化能力は低下の一途を辿っていくと思う。
動画で問題視した小学生の国語の解答は、確かに突飛だった。でもめちゃくちゃ問題だとは思わない。ごんぎつねの方は、ワイも学校で最初に読んだときは何を煮てるんだか分からなかった。っていうか、煮るっていうのがどういうことか分からなかった。ワイのときは先生が、弔問客にふるまう料理を作ってるんだと注釈として教えてくれた。ワイはここで、葬式には料理を作って出すということを知った。今の子たちが、鍋で煮沸消毒してると答えるのは、コロナを経験した後としては当然の回答だと思う。大人たちから消毒しろってうるさく言われてるんだから。ワイは子どもたちの発想や観察眼が面白いと思った。コロナウイルスみたいな感染病が怖いから、遺体を消毒したり、煮溶かそうとしてる。って子どもたちは思ったんだ。実に現代的だ。一つの花の方も、ゴミ収集所に強く反応して「不潔な花を食べ物として与えるのはひどい。仕返しか虐待だ」って捉えるのは、現代では清潔さを第一に求めてる家庭が多いからでしょ。「○○ちゃんがくれたお菓子は手作りだから、バイキンが付いてるわ。食べちゃだめよ」とか「おばあちゃんが余り物の料理をくれたけど、こんなの食べたら病気になる」とか親が言ってるのを聞いて育てば、ゴミ箱のところからつんだコスモスは嫌がらせにしか見えないだろう。子どもは大人の行動を映す鏡だ。子どものボキャブラリーよりも、大人の行き過ぎた潔癖症を見直すべきだよ。
我が意を得たり。率直にいえば問題があるのは児童ではなく先生の側(具体的には児童理解の圧倒的な不足と,発問の意図が不明。)当方40代ですが,記憶する限り小学生のときに葬儀の経験はないし,おそらくその時代から葬儀は斎場のスタッフさんがやってくれるから,遺族が接待するスタイルもあまりないはず。そういう子どもたちの知識や経験の程度を理解するのも先生の技量のうちですけどね。そして正直私もこの先生が考える「正解」が何なのかわかりませんが…この「正解」を知ることがこの物語を読む上で何か意味あるのかね?…と思わざるを得ませんでしたね。
@@macchan19791220 この先生は児童理解が不足してるよね。でも、もしかしたら発問は、文科省が定めてるものかもしれないかな?ごんぎつねの葬式は現代とは全然違うから、子供が正解にたどり着くのはなかなか難しいよね。一つの花の方は、題名から正解にたどり着くことはできるけどね。ワイはそうだった笑。題名と戦時中の話というところから、泣かせに来てるんだな、と判断した嫌なガキンチョ。ちなみに、この設問には2つのの正解があって、すべて読み取れると満点らしいよ。1つは、お父さんの戦死の匂わせを読み取れること、そして戦死を知ったときの主人公の感情やこの先の人生の困難を予想して同情し、悲しい気持ちを感じること。2つ目は戦争はいけないことだと学ぶこと。どちらか1つしか分からなくても減点にはならないけど、どちらも感じ取れると満点。9才の子供が持っていてほしい感情や読解力、発達度合いってことなんだろうなぁ。
わお
そもそも花は食べ物じゃないから、花を食べるという回答は想定されて無い(笑)愛情深い優しい父親像を読み取る事が出来るかどうかが、設問の求める所だから回答は「花はプレゼント」であることを想定した上で、何故其の辺に咲いてた花を渡したのか、を思考するもの。父親の娘に対する心配や、愛情に関して含めた回答なら正解貰えるかと。(今アラサーな私の先生は良い教師だったので丸くれました)
@@涼鹿 先生が優しい人でよかったね。花はプレゼント、という文化がない家庭もあるんじゃない?w 家に花を飾るという文化がないと、なぜ花をくれる?食べ物?って思うのかも?あと、「ひとつの花」を思いだすと。主人公はいつも腹を空かせてて、お父さんの分の食事まで狙って「ちょっとちょうだい、もう一つだけちょうだい」って言うのが口癖だった。お父さんはいつも一人娘の主人公のおねだりに応えて、自分の食べ物をあげていた。そこから(子供なりに)考えると、出征前にお父さんがくれた花は「食べ物としてくれた物」だと推測する子も出てくると思う。食べ物としてではなくても、ゴミ収集所のところから摘んだ花を渡すなよwって感じる人は、現代日本では多数派になりそうな気もする。道端にそんなに草や花が生えてないわりには😅
他の人も指摘してるけど、「設問が悪い」というか「意味の無い設問」だな、と。普通の時じゃなく、「葬儀の最中に女中は何を煮てるのか?」って、作者本人もそこまで考えずになんとなく書いた描写でしょう。子供は「テストの設問なんだから、なんか裏の意図があるのか?」みたいになってもしょうがないし、テレビやネットで「サイコパス診断」みたいなエセ心理学が行われてる面もあります。また現実に今、「少年A」みたいな凄惨な事件が増えてるのかというと、いじめ自殺はずーっと常にあるけど、シリアルキラーみたいなのは結局全員、「中高年」ですよ。
@@Suhiron 「シメシメ、我ながらよく捻られた内容だな。」こんな風に自己満問題出して気持ちよくなってるダケだよな。子供の事なんて考えずに。設問作った奴サイコの素質あるわマジで。
今の子供世代というより子供の親世代が「ヤバい」のだと思います。町内のお知らせで「公園で野球してもいいけど、車を路駐するのはやめてください」と出したら「公園で野球くらいしてもいいじゃないか」という反論がありました。思わず頭を抱えてしまいました。子供の一番身近な人間である親が「ヤバい」なら子供も自然とそうなって当然なのでは。
会話が成立してないw何を問題にしてるのかがわかってないのは頭痛の種ですね。
親の読解力の低さが子どもに引き継がれてるのか😂
@@oka0227 遺伝子は残酷
1つの文章に2つの事柄をまとめて書くのでなく、2つに分けて書いたほうがいいです。
おそらくいつの時代も言われてる話やろなぁ…。若い子の話し方とかに説教したくなるのは年寄りの性よ。
今、家で葬式する事がなくなりました、だから家に集まった人に料理を振る舞う事もなくなったので、なぜ葬式で鍋料理を作るなかわからなくなったと思います
サンプルがひとつのクラスだけなのは信憑性ないのでは・・・😅?しかもセンセーショナルなサムネイルにして視聴者を扇動しているあたりかなり悪意を感じます。再生回数増やすためなら手段選ばなくなってきましたね。
正しいご指摘だと思います。もともと科学的な論証のあるフィールドワークではなくて、ただの与太話なんです。そこにみんな騙される。
今の50代とかでもこのレベルの言語化の人結構いるからなあ。勿論ダメなんだけど。
昭和54年生まれの者ですが、私の更に上の方々は、娯楽が少なかった故、紙芝居、落語、講談、映画、漫画など、「物語」というものに触れる時間が今より長く、冠婚葬祭や風習を見聞きする事も多かったのではないかと思います。また、家族で飯を食うことで、その日1日の話をしたり、祖父母も家で死ぬというものを見ており、自分や人の感情に触れる機会も多かったんじゃないかと思います。今は病院で死に、共働き核家族で1人で食べたり、1人で遊べる物が多く、昔の玩具に比べると全て遊び方を教えてくれるような親切な設計にもなっています。現代っ子も勿論みんなではないですが、物語や感情に触れる時間や機会が、昔の人間より減ってるためかもしれません。
@@user-NoP11201 アニメや漫画で観たらOKという事でしょうか?申し訳ありません。察しが悪い方でして、お言葉の意図が汲み取れてないかも知れません。思った事は、例えば、私の経験で恐縮なのですが、目の前で身内が死に、身内が悲しみ泣く姿を見るのと、テレビの中の他人の物では、感情が全く違う様な気がします。祖父が亡くなった時は、学校から帰ってきたら、父から「おじいちゃんに会ってこい」と言われ、祖父はいつも寝ていた布団に鼻に綿を詰めて寝かされていました。祖父に会いにみんなが集まり、棺桶を男衆が担ぎ、霊柩車に入れ、火葬場に向かうときも、町内の皆様が出てきてくれて、頭を下げて頂きました。霊柩車も祖父が好きだったり所縁のある場所を周って向かいました。そこから90分ほどかけて荼毘に伏し、この間にもお菓子を食べたり談笑したり、何か緊張が解けたような時間を過ごしたり。遺骨を目にした時は、親戚の叔母様が一瞬でしたが、それは悲痛な声を上げました。みんなで遺骨を骨壷に入れる。当時5歳の子供だって参加します。その後もしばらくの間、ご縁のあった皆様がご挨拶に来て頂き、私も挨拶をさせて頂き、遠方より来て頂いたので、連日寿司をとり、故人の為に来て頂いた感謝とさせて頂いていた様です。この私が五感で感じた、人の死と、遺された人々の間に起こるものや、聞こえたり匂ったり肌で感じた事があるので、共感や、風習、慣習に触れる機会と時間がありましたが、それが漫画やアニメで数ページで終わってしまうのとはかなり別のものだと感じた次第です。長くなりまして申し訳ありません。
@@user-NoP11201 つまりは、映像や活字などで見聞きしたことを、実体験する事が妄想で終わらないために大事なのかなって言いたかっただけです。無駄に長かったですね。
不登校経験者として言えるのは、本当の理由が恥ずかしすぎて言えないことが理由の一つとしてあると思う。進学を機に登校をするまで、俺は結局誰にも不登校の明確な理由は言わないままだった。
いじめの被害を親に話さないというのも同じようなものかと思い出しました。子供は案外物事を考えてると思います。馬鹿でも無垢でも無いしプライドだってある。
亡き母親を鍋で煮たとか、コスモスを売って儲けさせようとしたとかトンデモ回答ではあるけどちゃんと物語を読んで自分の考えを出せている子は偉い。「そんなの作中にどこにも書いてないから分かりません。思い付きません」って子はその歳でもう老化始まったのかと心配になる
今まで「よくヤバいで会話できるな。読解力がすごい」と思っていたが、実は「それ以上何も考えてないし認識もしていない」が正解だったのかと思った。いやー、ヤバいな。
あなたの文章、相当"ヤバい"ですけど大丈夫そうですか??
@@tomofuyt2665 ネタでしょw
@@tomofuyt2665 あなたの方の読解理力がヤバいだけでは?
ここまで含めてネタと読解しそうなのがネットの民でもガチな人もいそうな気配がヤバい
@@tomofuyt2665 あなたの文章、何がどう"ヤバい"のか説明できますか?
動画で紹介されたごんぎつねの葬儀の準備の描写の文には続きがあって、大きななべの中では、何かぐずぐず煮えています。「ああ、そう式だ。」と、ごんは思いました。「兵十の家のだれが死んだんだろう。」となっています。小学生たちはこの「葬式」とか「死んだ」とかが入った文章から読み取ろうとして、あのような考察をしたものと考えられます。この動画のような取り上げ方は、マスコミの切り取り報道と変わらないと思います。また、男子B:「くそウザ」は、ゲームに対してじゃなくて、自分(=B)の台パン行為を批判したA/C君に対して、「説教するんじゃねえよ、ウザいんだよ」という気持ちで言ったんだと思います。そのあとのB君⇔C君間の会話は「売り言葉に買い言葉」という感じなのではないかと思います。私から見ると、サトマイさんの方が中学男子の会話の意味を読み取れていないように見受けられました。(サトマイさんの知識の中に男子中学生の日常というものがインプットされてないので、想像しづらかっただけかとは思いますが)
中学男子の会話は主語ふくめ簡略化し過ぎで誤解を受けた好例になってしまったわけですね。
ごんぎつねの件は、そもそも「これは何を煮ているのでしょうか?」という質問をしたから、「これを質問するということは、さぞ重要な話かもしれない」と邪推して「おばあさんを煮た」と答えても別に読解力がないとも限らないんじゃないかなと…葬式では料理を振る舞うという知識を「知らない」だけであって、物語中に料理というワードが出てないのと小学生の知識ではその作中に出てきた単語からでしか予測ができないので「煮た物が何か?」と聞かれたら具体的に存在が出ているおばあさんと答えてしまってもグロテスクとはいえ特段ヤバいと感じる必要はないのかなと思います。自分が小学生の頃に道徳の授業で「ごんぎつね」を習いましたが「何を煮ているのでしょうか?」なんて質問されたことはありませんでした。
私自身、小学生の時にごんぎつねを読んだときに、葬式の鍋のシーンで子どもながらに疑問に感じてました。話の本筋ではないし何かの伏線でもないのに、なんで鍋のシーン(しかも「ぐつぐつ」とか)が描かれてるのかな?みたいな。そんな時に「鍋の中身はなんだと思う?」と聞かれたら、あ、やっぱりなにか重要なことが鍋にはあるんだ!と勘違いして確実にグロな答えをしていました。😅それを想像力欠如と言われたら悲しいかもです。。。😢
@@ふみふみ-l8f それが結構自然な気がします、鍋のシーンは、葬式のけだるい感じを出すために物語上の演出として入ってたんじゃないでしょうか?ここで鍋の中身聞かれたら、おっかさんを煮てるってなってもしょうがない。消去法でそれしかないっぽい感じになりますしね。みんないろいろ書いてるけど「ごんぎつね」をもう一度読んだほうがいいんじゃないかと思いました。短い作品だしね。
@@ふみふみ-l8f想像力に富みすぎてぶっ飛んでしまったんやろな。ぐつぐつはその場の情景を想像させるための補填でしかないし、それ以上の意味を持たない。
読解力があるなら、BBAを煮たという回答にはならないという至極当たり前の話w
@@ふみふみ-l8f 学校の授業でそんなもんやるわけないという常識が欠けた思考だと思った。
「最近の若者は〜」の新しいパターンに過ぎないのでは?若者は若者で今の世界で必要な能力が伸びていて不要な能力は伸びないだけ何千年も前から最近の若者は劣ってると言われてきたわけだが人類社会が衰退しているという事実は無い
論拠が100%完全に主観による決めつけで、裏付けるデータが一切ないんですよね。大学や企業でこんなレポートしたらツッコミの嵐で、無駄な時間使わせるなと大目玉喰らう事でしょう。不登校が増えているという折れ線グラフ出しただけで「統計」に基づいてると言い張る度胸は大したものですが…
っていうか何を煮ているでしょうっていう問い自体が意味が無くてセンスがなさすぎる。子ども達も煮物とかも想定するだろうけど「まさか班で話し合う質問でそんな意味のない答え求められているわけない」って深読みしてしまうだけだと思う。
さとまいさんの中学生の会話、ちょっと違うんじゃないかなあ?さとまいさんの言い換えは、大人が「こういう風な流れで話してほしい」って言うセリフだと思った。セリフが多少長くなっても、乱暴な性格が良い子ちゃんに変わるとは思えないな。ちなみに、一つの花は、ワイが学校で習ったときとちょっと違うような気がする。コスモスをつんだのは駅のゴミ収集所じゃなかったし、お父さんが帰ってこなかったことは書かれてなかった。だからワイが習ったときは「お父さんは帰ってきたでしょうか?みんなで考えてみよう」っていう設問があった。ワイは帰ってこなかった派だったけど、挿し絵の女の子が元気そうな笑顔だったからお父さんは帰ってきたという子も多くて、クラスの半数は帰ってきた派だったw
ごんぎつねに関しては質問が悪い気がするなー 「わざわざ質問してきたって事は、この場面で何か普通じゃないことが起きているのか?」って子供たちは考えたんじゃないかな
鍋のことをわざわざ質問する意図は不明ではある。葬式の弔問者のために何を料理しようがどうでもいい。問題はそこではなくて、グループワークで老婆の死体を鍋で煮るというグロテスク回答をしてしまう異常さである。死者に対する思いやりや敬意が恐ろしく欠けている。
鍋で老婆の時代を煮るのは確かにグロテスクだし、我々大人が想像すると単なるグロにしか思えない。ただ、子どもたちの中には、まだ祖父母が死んでいない、つまり老人の遺体を見たことがなくて、家族が死んだらいったいどうやって片付けるのかを知らない子供も多いのではないかな。焼却炉に棺桶が吸い込まれる様子を見て、お骨上げを何度がやれば、嫌でも人が死んだらどうするのかがわかる。すると、鍋で遺体を煮るなんて答えは出てこなくなる。と、思ったんですがねえ。つまりは、子どもたちの経験がめちゃくちゃに貧しくなっているのが一つの原因ではないかと。
そこまで残酷な回答かな? 物語の中の死と現実の死は完全に別だと思うけど
@@最黑天鹅 確かに経験していないことによる発想の自由さとも考えられますよね。それに冠婚葬祭の常識なんて、大人の先入観によるもの(葬儀の方法には火葬、土葬、水葬など様々あるものの「煮る」は一般的ではないため「料理」や「カニバリズム」を連想してしまう)なので、なんの先入観もない子どもが「焼くのは良くて煮るのはダメなの?」と思うのは倫理観の欠如でもなんでもなく、ただの無知でしかないように思うんですよね。
それ、私も思いますね。答えはただ料理を煮込んでるだけでしたって、バカにしてるじゃん(笑)
5:30 コスモスを一輪あげた理由で、「罰を与える」「お金になる」という回答をするってことは、その子どもたちが、どんな状況でも騒いだ子どもは罰を与えられるはず、何かものをくれるとしたら将来お金を得ることが目的、というふうに自然に想像するとしたら、不憫なんだよなあ・・・。「今生の別れになるかもしれない場面」だと理解しているかどうかにもよるかも。戦争や、取り返しのつかない誤解などの世の中の理不尽って、どれくらいの子どもが理解できるんだろうな。「なぜ父親は帰ってこなかったのか」と聞いたら、ちゃんと答えは返ってくるんだろうか。
戦争を知らない子どもたちの子孫だからねぇ。
岡田先生も言っていたが子供達の周りが既に過激な物が多く、それが面白いものとしてあるからそっちのほうが良いと考えるようになりこれが標準化してきている、日本語が読めないその代わりに現代の子は空気を読む能力に長けてきてるって話があって結構納得したわ
読解力がないのに小説読んでも意味がないんです。自分の感情が不明確なのにボキャブラリーは増やせないんです。全て逆です。乳幼児期から自分の不明確な思いを親や先生にこうなの?ああなの?と何度も何度も代弁してもらえるから自分の気持ちが意識化されます。それと同時に自分の気持ちが言語化さらていきます。一番足りないのは人と丁寧に向き合う経験がないんです。
重要なのは、感情と言葉を紐づけるラベリング作業(知識・経験の習得)なのでどちらが先、後は無いのではないでしょうか。先に言葉を知って、感情(現象)を紐付けるとこってありますよ。読んで現象として知っていても、失恋、家族愛、死別の喪失感は多くの人の場合、経験が後に来るのではないでしょうか。
意味あるくね?まぁ、多分語彙力ある人の読む。と無い人の読む。が違うんだろうな俺の思ってる読む。は小説読んで、状況を把握し、登場人物の気持ちを考え、自分ならどうしたのか?悲しい展開になっちゃったら、あそこが〜あそこで主人公がこう行動してれば〜言ってれば〜もっといい方向に…もっと良い別れ方。こんな悲しいことにはならなかったのに〜と思いを巡らせることだと思ってる。これをしてれば、ちょっとずつついてくる。なんなら、物語のなかで、主人公があの時ああしてれば〜とか懺悔・回想してる時あるから答え合わせも出来るしな。俺も小学生の時とかジブリとか理解できなかったけど、簡単な映画とか分かりやすいアニメで思いを巡らせてるうちに分かるようになったし
なんというか死体消毒とかコスモス咲かせて金儲けとか、逆に想像力豊かなんじゃないかと思うのは私だけ?(笑)
「コスモスを栽培して商売が出来る様に体制を作る」って回答はかなり先まで想像出来てますよね
ごんぎつねは児童文学で民話とは異なるが、かちかち山ではばあさまが汁になるからな…むしろ幼少期にこの手のおとぎ話の読み聞かせは今でもされそう教育でこの手のおとぎ話が扱われることは少なく、擬人化されていても現実世界に即した作品が扱われるわけだが、あくまで非現実混じえた創作物において、割合の是非はあるとして突拍子もない考えが生じるのはおかしくないと思う私の記憶がパァかわからんが、国語の授業で作品の背景を教わった記憶がまるでない…
子供が(やばい)のではなくて、ちゃんと教育できていない周りの大人が(やばい)のだと思います
特に親な
特に国語教師な非論理な文章を理解しないと怒るより、明快な文章の書き方を教えろといいたい。文章の書き方を習った記憶が無い。社会に出てから勉強した。扇谷昭三の「文章の書きた」。
親だな。学校で正しい日本語習ってきても、親の言葉遣いに影響されるし、子供が正しい日本語使っても親が上手く受け取れないので、感情とかパッションとか空気とかそういうので通そうとするから、その場のノリとか空気感を感じ取れとかって言って言葉でやり取りしなくなっていく。
@@rasiraka305今は教えてくれるよ
親が子供に「マジ?」「やばくね?」とか言ってるのを偶に見ます。あまり口の回らない様な幼子が「やばい」とか言ってますし。こういう人達って、すごく少ない語彙で話してますよね。中身が無いと言うか言葉に厚みが無く軽く、話してると無口になって来ますし、付き合わなくて良い人と篩に掛けずに済みます。
我々(アラフィフ)世代が子供の頃は土曜の夜にまんが日本昔話を見るしかなかったり、一つしかないテレビのチャンネルを時代劇に合わせられたり、或いはドラマ等で出征シーンもあったりと概念として捉えやすかった。例えばこの父親はもう帰って来ないというフラグが立てられる訳です。「大きな鍋」なんて普段の生活でなかなか見ないだろうし人間の体が入るような?と想像してしまったり、「ぐずぐず煮ていた」なんて表現から不穏な響きを感じ取っても不思議ではないと思う。子供の基礎的な能力が欠落しているのではなく、今の子供が持つ素養と作品が合わなくなってるだけで教師がそれを解説してあげればいいだけの話ではないかなと思います。あと若者がヤバいエモいクソだけで会話してるのはそれしか話せない訳ではなく仲間との円滑な関係を保つ為の処世術のような気がしますね。責任や言質の所在を曖昧にしている点で言うと横文字を多用するビジネスマン等と同じ原理なのでは。
2:01わざわざ班で話し合えと言われたら、子供視点だとユニークな回答を考えたり深読みしすぎちゃう気がする。
それはありかもね~そんなことを読み取れない頭の堅い馬鹿な大人っていう構図かもしれん
この意見に大賛成です。残酷な話が多い童話の世界で想像性豊かな解答した生徒を褒めてやりたい。意味のない出題をした教師に問題がある。
深読みするベクトルの問題と言ってるのでは?
何で大鍋の中身をわざわざ考えさせたんだろうね?この教員は他にどんな答えを期待してたんだろう?考えさせる場合、教員なら普通、子どもの回答を複数想定するもんだけどね。大鍋なんてもう馴染みがないから、昔話+動物+婆さん+大鍋辺りで、「カチカチ山」辺りに引っ張られたんだろうな。
@@hitozuma1128 そういう話ではない
「今どきの若い子はダメだ」という思考のほうが問題だと思う。
A,B,C君の会話の部分の説明に関しては同意です。気になったのは、ごんぎつねの料理のくだりで結果だけ述べて『何故死体を消毒していたと推測するに至った過程を記載していない』点です。子供たちがそういう結論を出すに至った過程の説明がすっとばされているのは、望んだ結果以外は認めていない同町圧力的なものを感じます。
他所の国の教育事情はわかりませんが、日本の国語教育には疑問が有ります。良くある「筆者の考え」はどうだとったと思いますか?的な設問があった時に「こうだったと思います(ほぼ正解)」と書きつつ、「しかし本人の考えは本人にしかわからない」「その上で私はこう思います」とか書いたら☓もらってましたwコレは反抗期故の行動だったりしました(今ならしません)が、作者がインタビュー等で執筆した時の感情を表明していない限り分かるわけ無いことだなぁと、今でも思っています。
登場人物の心情を考えることは、文章に書かれた条件のみで、登場人物の心情を推定する訓練。それなりに難しい訓練だからわからないとすっとぼけるのは逃げているだけです。この力は社会に出てから実に役に立つ。人は他人に自分の本心を素直には明かさないものだから表出した事実からその人の本心を推定しないといけない局面は多い。営業マンならお客さんの仕草や会話の中からお客さんの不満や疑問がないかを察して(心情の推察)解決や安心感を与えるための行動をするわけ。営業マンがお客さんがどう考えているかわからないというと開き直ったら営業マン失格です。会社員なら上司の態度や何気ない一言から上司の不満や要求(心情の評価)を推定して、上司から賞賛されるような行動や発言をする者が出世する。上司が何を考えているか察する力が出世の鍵です。保育士なら自分の思ったことをうまく表現できない幼児の態度や仕草から不安や不満がないかを推定(心情の把握)をして対応する声がけや対応できる。うまく話せない幼児の気持ちがわかることが保育士の必須能力です。義務教育の国語でやる訓練は社会に出てから真価を発揮する。
「読解力の低下」を観て先日開催したイベント参加の小学生の意思疎通を思い出しました。1グループ「きこえない役(話せる、書ける)、見えない役(話せる、聞ける)、話せない役(聞ける,書ける)」の編成で物を探すミッションをしてもらいました。読解力が高かったグループはお互いに伝えあう工夫が目立って高かったです。それに加えて、意見が間違っていたとしても主張する子がいたグループは共通理解を得る時間が早かったです。目立ちたくない子がそろっていたグループは著しくミッションクリアまで長時間かかっていました。サトマイさんの動画を観てなるほど、と思いました。
去年中学受験の塾講をして気付いたのですが、今の子供は質問への回答に際し、論理的な分解・組立てを経ず、キーワードと知識から想起された物を短絡的に答えと設定し、後付けで理由を考えているように思います。ごんぎつねの例なら、「鍋でぐつぐつ」という情報から「煮沸消毒」という知識が引用されてそう答えただけで、葬儀とかグロ表現とか常識とか、当人達には全く関係ないわけです。言語力の欠如や妄想力の暴走というより、よくある内容ですが、ネットで解答が簡単に得られ、雑学クイズ番組やUA-cam、ショート動画で知識「だけ」に触れる環境、想像力を必要としない情報環境に、大きな原因があるのではないでしょうか、と個人的には感じます。
文章だけから想像するとそうなりますよね。私もそうかな思いつつ、まあありえないから、何か食べ物を煮ているのだろうぐらいになりましたが、ごんから見たら、亡くなった人を煮て食べると想像してもおかしくないですよね。きつねの考えてることなんかわかりませんし、なんなら、そういう答えを求めているトンチクイズかも知れない。国語の授業だけど。その峻別ができるかできないか、そういう世代だとしたら仕方ない。文章読解にそれなりに広範の知識・経験が求められるとしても、小学4年生の児童一人一人の成育環境によって大きく異なっている中で、画一的にこれが正解と植え付けても、理解できるか、できたかが分からないですよね。家庭教育や諸体験は異なる児童に、うまく共有・共感させるのも難しいところ。学校の先生は大変だなと思いました。
日本の子供は論理的思考の訓練を受けていませんね。物語はハッピーエンディングなので考える必要ありません。ユダヤ人の寓話には結論がないそうです。その先は自分で考えろです。
私は根本的な問題だと思いますけどね…シンプルに言えば、これまで問題視されなかった事柄を問題視している、ということですね。閉鎖的だった教育現場や前例主義が見直され、これはいかがなものか?となってるだけのようにも取れます。常識的な思考が出来なくて問題、語彙が少なくて問題、表現が拙くて問題。どれも今に始まったことじゃないんですがね…
まさに、このチャンネルの事。
サムネイルだけで動画の内容を判断させたり、見出しで内容をミスリーディングさせる新聞やテレビ、週刊誌これらはキャッチーなキーワードを利用していますよね。文章にせよ動画にせよ内容を理解するのには時間が掛かるのに、その時間や手間を子どもだけに無自覚で惜しんでいるとそういった単語だけで判断して回答する習慣がついてしまうのが怖いと感じます
常識、と言ったものを押し付けるのもどうかと思いました。子供たちの「誤読」とされた答えが正解になる物語もあると思います。今の時代においては。昔は違ったかもしれないけれども…この子供たちが大人になった時、我々は「老人の考え方は古くてありきたりで深く行間読めないね」と言われるようになっているかもと思いました。
同感です上から目線でこの読解の仕方が正しいとかあの解釈は間違いだとか・・独善的な価値観ですよね国語は大部分の人が感じる共通認識を理解する教科ってだけでしょうそれに沿わない解釈をしたとしても間違いとはいえないはずです外国人が読んだらまた違う感想を得るだろうし
珍回答と決めつけて、一般常識がないと考えてしまうのも、ご都合な認知バイアスでしかないからね
ごんぎつねでの「大きな釜」「何かを煮ている」「ぐずぐず」という表現から「もしかして…?」と考えるのは分かります。そこが敢えて問われるのであれば尚更だと思います。最近では低学年でもアニメや漫画に触れる機会が増え、私たちが子供だったころよりも展開の引き出しが増えたためにこのような想像をしたのではないでしょうか。
かちかち山ではおばあさんは殺されて煮られた。
最近になってアニメや漫画に触れる人が増えたのは大人の方がだろwアニメは元々子供向けのコンテンツだろ
「ごんぎつね」の方は、何かを煮ているという描写がなぜあるのか、そして「何を煮ているのか?」という質問されたら、そこに何か重大な意味があるのではないかと勘ぐってしまう。子供に対してさほど意味のない描写を示してその意味を問うということがまずおかしい。質問者は何を知りたいのか?この質問にどういう意味があるのか?そこを考えてみるべきで、質問意図が不明な、ある意味とんちんかんな質問なのであって、それに対して子供たちがとんちんかんな答えを出すのは当然である。「一つの花」の方は、「ゴミ捨て場のようなところに咲く」という情報が話の本筋とは関係なくて余分。これが子供たちを混乱させて勘ぐらせてしまう原因。「汚いゴミ捨て場から採ってきたコスモスがきれいな花畑に変貌する」これは物語をドラマチックにするための非論理的な演出であるので、それをどう解釈するかは受け手にゆだねられることなので正解はない。子供たちの解釈が間違っていると言うことはできない。「おにぎりがない>花をあげた」この父親の行動も論理のつながりが明確ではないので多様な解釈を生むのはしかたがない。むしろ大人が想像もつかないユニークな解釈をした子供たちを褒めるべきではないか?これを「子供たちの問題」だと考える方に問題があると思います。こういう曖昧な物に対して「正解」を求め、大人が望む解釈を押し付ける国語教育に問題がある
@@okimunet さんその通りです。国語教師は自分の用意した正解だけが正解とタカピーに押し付ける。あいまいな日本語は正確性説明力が乏しい。そもそも日本語には主語を省く文が美文という意識があり、主語が一文の途中で変わっていることもあります。それもOKといいうのが国語教師、試験問題で〇〇した主語は何かという試験問題はしばしばあります。今はしりませんが、裁判の判決文は何行にもなる長文で句読点なしが名判決文と言われていました。主語が一つで専門用語を理解していれば正確性はありますが大衆には分からない権威主義が見て取れます。正確に意思を伝える文の書き方は学校で習ったことありません。ビジネス文の書き方からすれば学校の国語教育は落第点。
@@okimunetほんとそれそもそもになるけど、「国語」というのは「日本語を正しく読むための授業」であって、その授業で「文学」という「解釈を楽しむもの」を取り上げるというのは矛盾してると思うのよなぜ教師は物語に正解があると思うんだろうね?だったら村上春樹『海辺のカフカ』やジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』の「正解」を解説してみろよと思う教育者のするべきことは、物語の「正解」という名の下に誰かの解釈を押し付けるのではなく、子供がそう読み取った理由を深掘りし、他者の解釈とすり合わせ、「物事には色々な受け取り方があり、それをむやみに否定してはいけない」と教えることだと思うわそしてそれは「国語」という科目の領分ではあり得ない、国語で文学作品を教えるのなんてやめちまえこんなことしてるから子供が本読まなくなるんだよ、自分の好きに物語を楽しめないなら小説なんて読んでも楽しくないよ
これはあくまで岡田斗司夫の話だけど、「わかっていて大喜利化している」とあって、自分の小学校の頃を思い出したら、たしかにそんな心理やノリがあったなぁと納得した覚えがあります。他に、先にコメントされている方で「わざわざ聞かれるということは普通の答えなはずがない。」という思考に触れていて、なるほどなと思いました。
11:33 精神疾患で通院中の学生です。何が辛いのかを言語化しようと思っても、「とにかく全部がしんどい」「学校に行きたくないわけじゃない、どうにかして行きたいけど体が言うことを聞かない、を説明したいのに頭が働かない」「本当は伝えたいけどどうせ言ってもわかってもらえない」など色々な理由があるのに、出てくる言葉は『どうでもいい』『知らない』『なんとなく』になってしまうんです……私は、本当は言語化したい思いが沢山あるのに、いざ面と向かって大人と話すとなると頭の中でたくさんの言葉が流れてきて、パンクしてしまいます。そんなところに大人からまさに国語の授業のように勝手に「しんどくないでしょ」「そのくらい我慢できるはず」と筆者(私)の気持ちを決められてしまうんです。自分でも「さあ?なんでこんなに辛いんだろう?」が一番伝えやすいんです、一番適切な答えが欲しいです…ネットだと何度も書いて、消して、読み返して、追加して、削って…とできるからついネットでの関わりが多くなってしまいます。
とある塾が円周率を3と教えたことをメディアが誇張して伝えた結果「ゆとり教育では学校で円周率を3と教えてる」と誤った情報が拡散されて、ソースを確認しない大人たちが騙されてゆとりを見下していたことが過去にあったこの動画は当時のメディアと似たようなことをしてるのではないか。この動画で登場する事例はあまりにも少ないし、昔の子供との具体的な比較も存在しない。小中学生なんてどの世代も語彙力少なくて当たり前ですよ
話の本筋からそれますが…「円周率3が問題だ」とする意味がよく分かりませんでした。小数の量感が育っていない子にとっては、3.14はただの数字の羅列になり、計算はできるものの、円周は直径の約3倍という事実に気づけないでいる。恥ずかしながらかく言う私も、円周率の意味に気づいたのは大人になってからでした。
「一つの花」自分も小学生の時(昭和52年ごろかな)国語の授業で習ったね。タイトルも内容もすっかり忘れていたけど戦時中の話で、「一つだけちょうだい」と女の子が言う所はずっと印象に残ってるわ。そして授業中に先生がこれを読み聞かせながら途中で泣き出したのが強く記憶に残ってて、もうそれだけでこの物語の言わんとする事が当時の生徒たちにしっかりと伝わったと思ってる。
今まさに、時を越えて思い出して涙があふれます。 日本の国語の教科書は優秀ですね‼️ 「みかんの木の寺」では、(実際のなっているミカンを嗅いだ事がなかったのですが、その折、本物とは違う強烈なミカンの香りが想像で漂いましたが....。)その香りが今まさに甦りました❗️ スーホの白い馬、スイミー、少年の日の思い出、くもの糸、羅生門などなど.... 今でも私の人生を形づくっていて、大切な事を教えてくれる想像の世界‼️
自分も国語の授業の時に、「あ、こんな簡単な答えでいいの?」って思ってしまうほど、問題に対して深読みしてしまうことはよくありました。今、小学生だった自分の考え方を思い返して、言語してみると、そもそも国語で扱うものはアニメや漫画と同じ、作り話orフィクションであるのだから、奇妙な解釈をしてもおかしくないと思っていました。ごんぎつねで例えるなら、狐が罪滅ぼしするようなことなんてありえないんだから、鍋で死体を溶かすようなことが起こっても作り話だから大丈夫的なかんじ。作者の意図とは違う、奇妙な解釈は、僕にとって、強引に辻褄が合っていればなんでもいいんだと思っていました。だからどこまでをフィクションとして捉えるのか、どこまでを社会の常識として捉えて解釈するのかの判断が小学生の僕にとっては難しいと感じてしまったのではないかと思います。話は変わりますが、一つの花の方では、なんでも与えられて育っている子供にとって、作中の父親の立場に立つことは、そもそも人生の経験値的に難しいのではないかと思いました。
たしかに!狐が罪滅ぼしするような世界観なら、カチカチ山みたいな昔話や童話と世界観が同じと思うのはあり得るかもしれません。ババア汁?でしたか、かなり残酷な描写が有りましたよね。目からうろこでした。
ごんぎつねの件、ここまで生徒と教師の立場で違いが現れると思ってなくて絶句したまさに「ヤバくて草」小4なんだし火葬されることなんて大体の子供が知ってるに決まってんじゃんそれでも葬儀に立ち会った子なんてほとんどいないし班に分かれて全員の前で発表するって強迫観念に駆られて渋々出した答えってなんで先生側すら理解できてないのかね戦争に関しても映像を見たり聞いたりする経験値が碌に勘定に入ってないのが見当違いも甚だしいでしょうよ加えて言うなら「論理的じゃないから」だよオニギリを渡すお父さんの優しさまでは理解できるけどそこから渡したコスモスが最後に登場するシーンは解説されないと理解しないでしょこの解説で共感してる人たちも山ほどいるみたいだけどじゃああなた達が江戸の古典文学を現代語訳されて当時の状況を理解できるのかみたいな次元になっててフェアじゃないわ偉そうに高説垂れてるって思ってるかもしれんけどTwitterに同じこと書いたら絶対子供擁護派しかいないよそのぐらい大人と子供に溝があるってことを教師はそろそろ理解した方がいいじゃないと不登校の子供と向き合っても無駄になるに決まってる
ごんぎつねも一本の花の話も家庭環境や親子関係の問題がありますね。一本の花の妄想解釈は親子関係が壊れていて両親への信頼や愛情が欠けているからだと思います。ごんぎつねに関しては、お婆さんの遺体を消毒したり溶かすというグロテスクで残酷な発想の背景には死体は汚いから処分したいという子供の残虐性のある無知と遺体に対する無自覚な蔑視があり、愛のない家庭で育っていることが背景にあると思います。
@@青の肖像 いやいやいやいや笑過去の小学生がそんなに言葉の色彩豊かで機知に富んでいたとでも??たかだか10年程度しか生きてない人間の性質がここ十数年だけで変化するわけないじゃん「チョベリバ」「チョベリグ」の論争から何も学んでないのかよ物語最終盤でいきなりコスモスにスポットが当てられて「さて何故このコスモスは登場したでしょうか!!?」とか聞かれたら何かしらの理由を考えるのは当たり前でしょ「家族関係が崩壊してる」とか「愛のない家庭で育ってる」とか答えられなかった理由を考えるのは悪いことじゃないけど我々が子供だった時でもこれらの答えをスッと出せる子なんてほとんどいないし暴力と根性論でねじ曲がった仁や孝行を由とする上の世代こそよっぽど家族関係が崩壊してると思うがね
ごんぎつねは、鍋で煮込む擬音が「ぐずぐず」ではなく「コトコト」だったら格段に正答率が上がると思う。料理描写で、その擬音を使われた経験はほとんどない。いわんや子供ならなおさらだろう。そして、描写が現代から遠くなればなるほど、想像は難しくなる。今後先々の世代と同じ問題を比べても、時代が離れていくほどに正答率は下がるんじゃないかと思う。
なるほど!擬音による連想の変化は確かに盲点だったけど妙に納得。 時代が遠くなればなるほど理解度が落ちるのもおっしゃる通りだと思う。 子供達にとって昭和以前の物語はファンタジーでしかないからね
所見ですが、想像力が足りないから、言語が単純だから、ヤバイという考えは改めて欲しいと願います。教育など関係なく、それは人間の姿です。人間が元々、ウー、アー、など単純な発声でコミュニケーションを取っていたと仮定すると、集団において複雑な会話を得意としないキャラクターが一定程度いた事は想像できます。人間の歴史は30万年程前ですが、文字の起源は6000年程前です。つまり、インプット、アウトプットのうち、アウトプットの文字に関する表現は比較的新しいと言えます。しかも、環境によって(アイヌ語など)文字を使用していない言語も存在します。文字は支配、侵略の歴史なくしては語れません。ですから、教育がどれほど進んでも文字に親しまないタイプの人間がいることも想像できます。現代社会に言語のインプット、アウトプットが必要なことは私も同意しますが、それがないとヤバイ(社会から外れる、困る、生きていけない)とまでは思いません。単純な伝達しかできない人は世の中にたくさんいます。そしてこの人たちなくしては私達の社会は成り立ちません。文字が生まれて数千年、人間は環境に合わせて生活を変えていますが、人間の本質は変わっていません。ここ十数年かの身近な子供達との関係(教育)を頼りにヤバイというのは、それこそヤバイ考えなのではないかと思います。個人的に、「ごんぎつね」も「一つの花」も意図が強すぎて好きではありません。特にごんぎつねは何度も教科書用に改訂されていて、原作の景色を感じられない作品になっています。その上、学習指導要領によって一定の答えを出すような授業になりがちです。「兵十の母を消毒している」「汚い花をゆみこに食べさせた」それらは文科省の定めた指導要領の答えではありませんが、人間の考えの一つです。今を生きる人間そのものとも言えます。ヤバイ、ではなく、その意見をまず認めたうえで、社会性にそった教育をする方が良いと思います。
大人になってごんぎつねの全文を読み直しましたが、突然の大きな鍋はわかんないと思います。骨洗いを想像するのは個人的には有り得る想像力だと思いますし、葬式もほとんど業者仕事に移った現代では回答は難しいと思います。
同じ発想の人がいた。気持ちを想像しようにも、子供が全く経験したことのない状況を与えられて、「どんな気持ち?」とやられても、正解にはたどり着かないと思うんですよねえ。
私も同感です。ただ単純に知識や体験がないだけであって、子どもたちは持っている素養から十分考えうる答えを出したと思います。子供が何かできない=能力の欠如、と直結して考えてしまうのは大人の悪い癖ですね…余談ですが、スーパーマリオの開発者、宮本茂さんがおっしゃっていた「子供は馬鹿じゃない、知らないだけだ。そこを理解せず子供をナメて作ったものはヒットしない(要約)」という言葉を置いておきます。
問題文章の近辺を引用します。「なんだろう、秋祭りかな。祭りなら、たいこやふえの音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりがたつはずだが。」 こんなことを考えながらやってきますと、いつのまにか、表に赤い井戸がある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、おおぜいの人が集まっていました。よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえています。「ああ、そう式だ。」と、ごんは思いました。「兵十の家のだれが死んだんだろう。」 (中略)「ははん。死んだのは兵十のおっかあだ。」 ごんは、そう思いながら、頭をひっこめました。 その晩(ばん)、ごんは、穴の中で考えました。「兵十のおっかあは、床(とこ)についていて、うなぎが食べたいといったにちがいない。それで兵十がはりきりあみを持ち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎを取って来てしまった。だから兵十は、おっかあにうなぎを食べさせることができなかった。そのままおっかあは、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと思いながら、死んだんだろう。ちょっ、あんないたずらをしなければよかった。」
中略した部分は墓地までの参列者の装いや兵十の表情が記述されています。その様子を見て母親が亡くなったと、ごんぎつねが想像を働かせるシーンです。
@@seiya6242 引用ありがとうございます。文章を読むに、ゴンから(読者からも)母親の遺体のありかが確認できる言い回しはないことがわかります。また、時代が違うこともあり、葬儀の方法も現代とは違う可能性も(実際は違うにせよ)あると思います。例えば「煮葬」みたいなものがあったりして。子どもたちの結論は、大人たちの「アタリマエ」に囚われない豊かな発想のもと生み出されたように感じました。
岡田斗司夫って人が言ってた。ごんぎつねの件は、国語力の欠如ではなく、過激なミステリーの世界に慣れ過ぎてミスリードされてるってのが本質だと思う。意味がわかると怖い話とか、サイコパス診断テストとかが小学生で流行る時代ならごんぎつねの読み違いも必然。
違うと思いますね。過激度でいえば、いろいろと規制される現在より、野放しだった昔の方がもっとミスリードされておかしくなかったはずです。雑談で盛り上がってあれこれ妄想することはあっても、“授業中の考察”で解答にすることはありませんでした。国語力以前の問題ですね。
これもありそう。ただ、創作と学校の国語力を問うテストを混同してるあたり、やはり国語力の欠如も大いに関係してそうだと思った。
「これは国語の時間で国語力を問う問題だからこう答えた方がいい」みたいなメタ認知はそもそも平均的な小学生には難しいんじゃないですかね、、、 それが能力の不足であり問題だという指摘なら理解できます。
石井氏の本に出てくる「ごんぎつね」や「一つの花」の授業における「珍回答」の話は、回答として一応発表できる―つまり妄想が膨らませられる―分、まだ優秀なのではないか。その物語文読解の授業がどのように始まり、どのように進行し、どのように収束していったかという全体像を描かずに、ショッキングだと筆者が思う事象だけを切り取るようなのは、アンフェアな例示ではなかろうか。学校が作品のコンテクストを踏まえた指導が出来ず、コンテクストを踏まえない「ごんぎつね」や「一つの花」の場面解釈をする子供たちを放置しているというのであれば、指導の質の低下として指弾されるべきであろうが。(実際、石井氏の本は学校の指導力だの家庭の教育力だのネットの功罪だのを掲げて読み手を「読解力低下」の幻想にからめとろうとし、日本女子大学附属だの開智学園だのをヨイショするのだけれど。)本当に読解力がない人は、「さあ?」「わかんない」で終わり、読解をする気のない人は「そんなの当事者に聞かなきゃわからないことだから、ノーコメントです。」「そんなの人それぞれでしょう」などと言う。「エグい」「ヤバい」「ウザい」(これを「三文字語」と言おう。)というボキャブラリーの少なさの問題に関しては、私自身は別の印象を持っている。確かに、サトマイ氏が言うように、いわゆる「ボキャ貧」で詰む人もいるのだろうが、そういう人たちだけだろうか、と考える。この三文字語に多様な用途や意味を含ませ、本当は何を意味するのか分からないように使うことで、相手の出方をうかがい、相手の思考パターンや出自のようなものを観察的に調べ上げ、挙句には相手をコントロールしようとしているのではないか。「お前ヤバいやつだなー。まじでヤベー、はんぱなくヤベーわ」という発言で、相手が気分を良くしたら、「こいつは『ヤバい』を誉め言葉ととる人種だ。褒め殺せばホイホイついて来るわ」と、御し方を見つけ、相手がチョンボして落ちぶれると、仲間に「な?言っただろう?アイツはヤバいって」といって、切り捨てに走る。三文字語は意味を自由自在に切り替えることができるので、のらりくらりと出来る。ボキャブラリーをわざと減らし、そのボキャブラリーに真逆の意味すら乗せることで、相手を自分のペースに引き込んだり、相手を挑発して暴力を振るわせて周囲の人に「蛮族」のレッテルを貼ったり、自由自在にやっている人は確かにいる。三文字語を好んで使う人の中には、読解力が低下しているのではなく、高い読解力で駆け引きしたり、読解力の劣る相手をハメたりして楽しんでいる人も混在するというのが実際かと。狡猾な三文字語利用者にいいように使い捨てにされないための自衛として見れば、サトマイ氏の結論は腑に落ちる。が、支配エリートの座にふんぞり返りたい人にとって、相手が馬鹿でいることは、このうえなく都合が良い。
コメントを見た中でも、三文字語を使って相手をコントロールしようとしている、駆け引きをしている、なんて考えは初めて見た。とても読んでいて面白い考えと文章、もっと伸びるべき。
ごんぎつねは、題材も悪いんじゃない?今の時代に無い描写ばかりだから、子供たちにとってはファンタジーそのもの。そんなファンタジーの世界の物語の人々が何をしようとしてるかなんて、中々“正解を当てる”ことはできないでしょ。想像力はあるじゃん。死体を煮てるって、大人より想像豊でしょ。子供の目線に立てない大人の方が、想像力の欠如を起こしてるんじゃないの?だから、想像力豊かな子供に対して「想像力の欠如」なんて言い放つんだと思う。
同感
近所のおばちゃんが集まってなにかをぐつぐつ似ている葬式に参加したことのある小学生がどのくらいいるのか疑問。何の経験も予備知識も無しにいきなりそんな質問されて手がかりなしに一生懸命想像した結果をボロカスに否定される生徒が可哀想。
やり方を教えてもらえないとできるわけないと開き直るタイプの人だな。人生詰むよ。
この動画のどこが「確率・統計」なのだろう?そして、どこが何の「処方箋」なのか分からない。俺がバカなだけかな?そんなことはないと思うけど。
この動画は非常に一方的で、子どもの立場に立って考えない、それこそ想像力の欠如した内容。最初の「ごんぎつね」の例は、現代の常識的な家庭に育った令和を生きる子どもたちなら、そもそも葬儀で「女たちが集まって食事を作る」という古めかしい男尊女卑な光景とその表現が異様に映るはず。そのような「変わった慣習のある村」という場でなら、「母を煮て溶かす」という異様な事をしてそう、と考えたとしても全くおかしくない。ちなみに「死体を消毒」の方は、何がグロテスクなのかとすら思っていそう。コロナ死の遺体も当たり前な時代、消毒しようとするのもむしろ合理的。「アニメやゲームのグロテスクな描写から推論したのでは」とは、あまりに唐突過ぎる。これまでの話の一体どこからアニメやゲームが出てきたのか。それこそ「根拠のない妄想」。(一昔前の手塚治虫の漫画にも人が溶けたり火だるまになる残酷な描写は多くある。)子どもをバカにする教育者気取りの人間、あるいは子育てに疲れた保護者が、手っ取り早い悪者をアニメやゲームに求めているとしか思えない。三人の男子の話は、「ヤバい」「エグい」「ウザい」という語に問題があるというより、そもそもこの三人は「死ね」と平気で言い合っていて元々仲はあまり良くないと考えていい。昔なら言葉の代わりに殴り合いまたは小突き合いになっていたのが、「パンチ」が「ウザい」に変換されむしろ言語化されている。根本的に問題が違う。パンチに種類(語彙)は要らない。また、これらの語彙+「エモい」が多用されるようになった理由として、「語彙力豊富に語る奴は、まるで自分が頭がいいと言わんばかりで気取っていて鼻につく」と嫌われる傾向にあるからというのが大きい。特にLINEが普及した今、長文を送ると迷惑だし変人認定される。周囲の顔色をうかがわなければ、あっという間に干されてしまう現代の若者の生きづらさがそもそもの問題だとも思う。不登校の問題に関してが一番ひどいと思った。不登校の原因を「不登校になるほどの問題を抱えた生徒」が滔々と自分の言葉でハッキリと説明できるとでも?大人ですら追い詰められたら相談もできず自死する人が溢れているのに?話すどころか思い出すのも嫌なほどのイジメ、プライベートでデリケートな家庭の事情、親兄弟にすら話しにくい体調の問題、などなど…それらをさほど信頼もしていない、それどころか不登校になるまで放置した教師に、話してくれると?さらに「なんとなくじゃこちらも手の差し伸べようがありませんよね」と当たり前のように言っていたのが怖かった。なんとなくで学校に行きたくなかろうと、いくらでも手は差し伸べられる。やりたいこと・興味のあることに存分に触れさせてあげればいい。言語化できるまでずっと寄り添ってあげるのが教育者の責務。学校に行かず、グループに馴染めず、なおさら読解力やコミュニケーション力が衰えてしまった子に、「理由を分かりやすくハッキリ説明しなさい!」と詰め寄ると言うのか。理由なんかはっきり説明できなくていい。まず休むことが最優先。「今は学校に行きたくないなら行かなくていいという風潮もあり」「無理に行かせるのも問題視される時代」とわずかに呆れが滲むように言うのを見て驚いた。無理に行かせるのが問題でなくてなんなのか。「ヤバい」。
あえて釣れてやろう。三行でまとめろ。出直し来い。
@@KASHIMA-jg3rx 最も重要な二点を二行でまとめます。・葬儀の例は現代の常識と乖離がみられ、小学生の常識が無いとは言えない。・「不登校の理由を説明できない子は助けられない」という発言は不適切。長文を読みたくないとは、大人の読解力不足は思ったより深刻なようです。脱字を直して、出直して来てください。
@@雨明日香すまん。謝る。日本語が 通じないお人だったか・・・。
@@KASHIMA-jg3rx ずっと失礼かつ中身のない言葉ではぐらかしてますね。批判的コメントを釣りだかアンチだかと決めつけるだけの、議論する気の無い(できない)お人でしたか…。反論があれば普通に言えばいいのに。まとめろと言うからわざわざまとめたのに、時間を返してほしい。
正直これに関しては、「裏をかいた回答をした方が面白いであろう」「普通の回答したらつまらないであろう」という気持ちが混じっているかどうかが本人しか分からない…。ただこういう事をしだすのは今までは中学二年生ぐらいだったのでネットのおかげでそれが早まってるかも(謎考察)
去年中学生だった身として考えるとそもそも根本から違うんだよな。最近は受験生が増えてきてるから小学校で真面目に勉強するのが馬鹿らしく思えてくるんだよ、だからいかに授業でふざけるか、遊べるかって考えになってるんだよね。その結果望まれた回答を避け大喜利みたいになっておもしろいと感じる方向に走ってくんですよ。だからそんな真面目に過ごす必要のない学校ではどれだけ短い時間内に多くの友人と交流出来るかが大切なんだよ。そういう体制をとってる輪の中でいきなりヤバいとかの簡単な単語じゃなくて具体的な話を話してくる奴ならそいつは自分を押し付けてくる知的障害だって思われる
ごんぎつねで何を作っていたのでしょう?という設問自体、あまり筋の良い問題ではない気がしますけど…料理!と読み取れたから何?としか思えない…
ごんぎつねのは問題が悪いと思う、鍋の中身なんて物語の本筋に関係してこないのに問題に出すってことは何か裏があるのか?って考えたにすぎないと思うからむしろ想像力豊か今の子供がおかしくなったわけじゃなくてそういう時代に生まれてきただけなんじゃないかな
そうなんですよねそもそも現代じゃやらない風習だったりするから知らない子達がいてもおかしくないと思う
@@maramaramanya おせちももう買ってくるものって常識になってますからね
講師職をしています。心理描写や行動の意図が描かれていない箇所を問いにするのはおかしいと思います。そもそも問いが意味不明なら、解答も意味不明になるのでは。物語は情景描写、心理描写がなによりも大切なので、ごんぎつねに関してはあきらかに作った問い人がおかしいです。狙いがわかりません。
なぜそこを問うたのか、という疑問はありますよね。ただし、だからと言っておばあさんの死体を消毒している、と答えるのもちょっと…。
正直国語の授業が悪い気がする物語の本筋との関連性が低く、なおかつ客観的に正解が絞れる質問をグループを組んで答えを出し合う授業に意味があるのか疑問撃たれたごんはどんな気持ちだっただろうか、みたいな正解のない問題ならやる意義あるだろうがおまけに間違った答えを出した生徒にちゃんと理解を促してるのかも疑わしい低レベルの論理構造からちゃんと教えるということをせずにいい加減な国語教育をしてることにも問題があると思う
語彙力の低下は無視できない問題ですね。私は中学生ですが、周囲の会話に突っ込みたくなることが多々あります。理由は間違いなくスマートフォンの影響でしょう。これ1台だけで1日は潰すことができます。どこでも持ち歩けるとても便利な娯楽ですし、読書離れが加速するのも頷けます。加えてテレビ世代が親になったことも関係しているように思います。しかし、②の男子中学生の会話ですが、あれは全く一般的ではありません。私の学年は定期テストで合計点の平均が300点にも届いたことがないほど学力が低いですが、それでもあのような会話はほとんど見かけません。あのような会話を展開するのは一部の一軍くらいです。先ほど周囲の会話に突っ込みたくなることが多々あると言いましたが、ここまで落ちぶれているわけではありません。
「ごんぎつね」も「一つの花」も、根底にあるのは基礎となる情報不足じゃないでしょうか。「ごんぎつね」については、人が亡くなったら、近所の人が助け合いながら葬儀をするという風習があった(今は余程の田舎でなければない)という情報が欠如しているので、「なにを煮ているのでしょう」は読解力以前の問題として推測ができないのかもしれません。そもそも質問がずれています。そこ重要でしょうか。子供たちは聞かれた以上、なにか重要なことが隠されていると思うでしょう。で、「なにか」と思わせぶりな表現を用いながら、葬儀で振舞う汁ものというなんでもない答えには行きつかないように感じます。「一つの花」も同様です。戦時中は食べたくてもお腹いっぱい食べられない貧しさがありました。現代の子は、それを肌感覚として理解できないのですよ。「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と同じ発想だと思うのです。
そういう大人たちも、普通という言葉を多用して「子供たちが物語を読み解き想像するだけの知識を持っていないかもしれない」という想像力が欠けたヤバい状態になっていませんか?
お婆さんの死体を鍋で煮る事が残酷で死者を侮辱するとわからない小学生は異常ですよ。
@@青の肖像ごんぎつね自体の作中年代が結構前だから、「かつての日本で死者がそのように弔われていた」と解釈をすることは特に歴史への知見が浅い小学生ならそこまで違和感のあることだとは思わないな
@@青の肖像 古代エジプトのミイラ作成の手法、チベットの鳥葬、インドの水葬などの知識を持った小学生なら、時代が違えば「死者の侮辱」にあたらないのかもと考えてもおかしくはない。特にミイラ作成、鳥葬は現代の日本人の感覚からすると死体損壊でしかないが、彼らには普通のことである。
@@青の肖像 別に現実世界でそんな発想する小学生はほぼいないでしょう。ごんぎつねってファンタジーやん
@@himmamamamjinその可能性を否定はしないけど、突拍子もない答えである、という認識は持っていた方がいいと思う。
少し本題からずれるかも知れませんが、私は日本語教師の職も始めて、最近の日本の子供たちの言語化力の低下を少なからず嘆いている1人だという意識があったのですが、最近の日本で様々な技能を習得して日本で生活していこうという覚悟がある外国人は本当に鋭い質問をしてきますね💦例えば、「就職にあたって大切なこと」「就職において大切なこと」「就職の際に大切なこと」「就職の上で大切なこと」という言葉の微妙な違い、使用場面の違いを明確に教えてほしいと言ってきます。今回の動画の主旨とはズレてるかと思いますが、私自身も日本語の使用場面や状況に応じて上記のような表現の使い分けをしっかりと説明できるようにしなければと思っている今日この頃です。なんかずれたコメントで申し訳ありません。
ずれついでに素人の説明 例示の「就職」の位置には何らかの行動が入る。「にあ(当)たって(a1)」と「の際に(a2)」は同じ意味・入れ替え可能だが、a1の方が切迫感がある。「において(d1)」と「の上で(d2)」は同じ意味・入れ替え可能だが、d2の方が役人言葉っぽい。助詞「に」と「の」の違いは続く品詞が動詞か名詞かの違いなので、「✕のあたって」とか、「✕に上で」は言えない。a系とd系で違うのは、a系は行動以前に使う表現で、時期を外すと後の祭り。d系は行動前でも後でも一般論としても使える。aはat、dはduring。【例】以下はいずれも可能だが「勉強」の内容は異なる。a系は普通の勉強、d1は試験で新しい発見があった。d2は何を言ってるのかわからないが、試験制度について何か見つけたかもしれない。(a1)試験にあたって勉強したこと (d1)試験において勉強したこと (a2)試験の際に勉強したこと (d2)試験の上で勉強したこと以下も代替可能だが、a1は出かける前に寝てるが、d1は行ってから寝てる。だがa2はどっちでもない? d2は意味不明(a1)釣りにあたって昼寝 (d1)釣りにおいて昼寝 (a2)釣りの際に昼寝 (d2)釣りの上で昼寝
日本語に関心の高い人たちの指摘には驚きますよね。目から鱗がぽろぽろwひょっとしたら子どもたちには海外交流も良いかも知れませんね。日本人は「曖昧なものを曖昧なままなんとなく汲み取れてしまう」タイプが多いですが、多文化の中ではそんなことは通用しませんから。
@@torotorotonarino9652 面白い考察ですね。ひとまず品詞は考えずに意味的な視点から。a1)「にあたって」a2)「の際に」これらが入替可能に感じ、かつ a1 に切迫感があるのは言葉そのものの意味から考えればおっしゃる通りですね。イメージ的には「物事に直面、対面している」状況での「当たって」「際して」なので、挑んでいる状態と言っても良いかも知れません。そして「際して」のそもそもの意味が「きわ」や「はし」「限界点」にある状態。つまり「崖の際」のように「さて、どうしたものか」と直面してはいるけれど、クマに対面するような緊急性がないんですよね。なのでおっしゃる通り a1 の方が切迫感があるのだと思います。b1)「において」b2)「の上で」これらの他には「の場合に」「のときに」「の折に」になんてのもありますが、「の上で」はちょっと意味が異なりますね。例えば「ご確認の上で」と「ご確認において」は全く意味が違うんですよね。「ご確認の上で」は「確認してから」の意味になってしまうので入れ替えできない。そもそも「上」なので「上下の順序」がある訳です。なので入れ替えは不能で、もし「ご確認においては」を言い換えるなら「上で」よりも「ご確認の中で」の方がまだ近いですね。もちろん微妙に違いますし、耳になじまない不思議な感覚にもなります(笑)素直に「の場合に」を使いましょうってなもんで。さらに「おいて」は「皆様におかれましては」なんて常套句もありますが……。まあ、もともと日本語は極めて粒度が高いんですよね。こんな「状況を限定する言葉」ですら山のようにあってそれぞれ微妙に意味が違う。それだけ心の機微が豊かだったんでしょうが現代人は理解するのも一苦労でして、それらの「違い」の意義自体を失いつつある、と。非常に残念ですね。
@@OrangeCamus お返事痛みいる。たしかに「就職『の上で』大切なこと」で使われている「の上で」と、「ご確認『の上で』」の「の上で」は、たまたま同じ文字列が使われているだけで辞書なら別に項目が立つほど違う言葉だと思う。逆になんで同じでいいのか不思議な感じがする。誤用はじまりかもしれない。用例史(なんて言葉があるのか知らないけど)などが生成AIでさっとでてくるようになれば暇つぶしには最高。書きっぷりは、オレのバイブル、柴田武「言葉の意味」のまねw 大先生のマネは素人でもむちゃくちゃ応用が効いて楽しい。
日本語は細かい粒度での言葉が多数あり難しいものって海外では言われていて、そういう認識から日本を学んでいるからそういった学生は根本的に高い意識を持ってるのかもしれないですね。どちらかというとSNSとかは海外的なフランクなコミュニケーションを主としてるから日本の若者の平均的な意識とは真逆の意識って印象です。ただ日本もネットであらゆる情報を得られる時代だから昔より深い思考ができる子供も増えているのではと思っています。日本ではコミュニケーションの能力格差が更に生まれてる可能性があるのかもしれないです。その格差って大人になれば社会的な格差に直結するから成功者と没落者の格差が更に広がりそうな気はしています。コンテンツを選択できるタイパの時代だからこその悲しい現実かと。誰かが先導してあげないとずっと階段を登ってこない子も増えそうです。
短い言葉で通じ合える空気感を築けているのはむしろ感心する。仕事でも同じ調子じゃ困るけど、まだ中学生でこれから成熟していくだろうし、本だけ読んでる内向的なタイプよりも成功することだってあるだろう。この動画を見て「若者って馬鹿なんだな」で済ますのが一番良くない。人を見下している心は大抵見透かされるものだよ。
これは小学生にきちんと国語(勉強)を教えたことがある人間なら体験したことがあることです。例えば、よくある手法として、短い文章を読んでその状況を絵で表すという課題を与えると、とんでもない絵が描かれることが良くあります。小学生の認知能力は、皆さんが考えているよりも、遥かに低いです。それが「普通」です。算数の文章題を式で表すことも、「普通」の子は同様に出来ません。「足す」のか「引く」のか「かける」のか「割る」のかといった「状況」を捉えて判断することが出来ない。年齢とともに出来るようになっていく生徒さんもいますが、20%~25%の生徒さんは、やはり認知能力に問題を抱えたまま生きていくことになります。それが本当の意味での「多様性」ですよね。
この想像力の欠如は、最近になって出だしたのではなく、昔から小学生はこんなもんって事でしょうか?
@@furusatonotkokyou その通りです。昔は、挙手、グループ発表、アクティブラーニングなどの手法は採られていませんでした。これらの手法によって、可視化されただけだということです。重大犯罪の件数などと同じ話ですね。言葉足らずのところを補って頂き、ありがとうございます。
普通はできるんだよ認知能力が低いとか言ってるけど今の子供はそこまで馬鹿じゃない習った事ならある程度は出来るんだよとんでもないとかは先生とかの考えで今の子はアニメとか見て想像力が豊かなんだよ昔と同じにすんなよ
@@日本語いけんじゃ 現場を知らない人間が無責任なことを言うな、と言いたい。「普通」ってなんだ?出来ない子は「異常」だって言うのか?もう少し世の中のことを知るべきだね。
@@ks-el8cr まあ君と自分だと行っているところが違うけど少なくともこっちではできるのが普通出来ないのが異常ではあるよそれがだめとは言わないけど
お葬式にでたことがない小学生に何をしているのでしょうと聞いてもしょうがないと思いますけどね。お葬式ではこういう風習がありますとか教えてあげればいいのではないのでしょうか。無知、経験がない子供を大人が嘲笑っているようで嫌ですね。常識があればわかるだととか言う方もいるかもしれませんが、常識と言うのは経験を得て身に着けていくものです。
鍋の中身はどうでもいいので質問は無意味だけども、お婆さんを鍋で煮るという回答をグループワークで出してしまう子供に異常性を感じる。お婆さんの遺体を消毒したり溶かすというグロテスクで残酷な発想の背景には死体は汚いから処分したいという子供の残虐性のある無知と遺体に対する無自覚な蔑視があり、愛のない家庭で育っていることが背景にあると思います。
これ多分、価値観の多様化の影響だと思う。知識の共通基盤がなくなってるから、解釈に幅が出てきてるのかも。試しにごんぎつねの原文を読み返してみたけど、文中だけの情報だと「死体を消毒」の可能性は否定できないかもと思った。例えば、文中の時系列からすると、この葬儀は死後最大10日経ってから行われている可能性がある。その場合、母の死体は腐食し始めている可能性が高い。ネットでちょっと調べたところ、死後3日で融解/腐敗が始まっていて、1週間も経っていると異臭を放つくらいには危険な状態にあるみたい。だとすると、その状態で葬儀を執り行うのは危ないことは村の人物にもわかるだろうから、「この村には宗教的に『骨にしてから葬儀をする』という文化があって、そのために死体を煮込む/溶かして骨にしている」と推察することもできる。※「そとゆきの服=そのための宗教的正装」の解釈もできるし(ごんの主観としての描写だから)。つまり、この原文だけだと、意味が「食事を作っていること」には一意に決まらない。※人情的にはそう解釈したいという気持ちは分かるが、「すべき」とまでは言えないと思う。仮に「一般常識からわかるでしょ」と言うとしても、常識という概念はソーシャルやコミュニティによって異なるものだから、子どもは「それ先に言えよ」とか「なんでそれ言ってくれないんだよ」ってなると思う。つまり、一意に情報を絞って解釈してもらいたいなら「どの国のどの時代のどの常識を参照すべきか」を原文の前に明示すべきだと思う。
たとえ事実だとしてもサムネの表現が攻撃的過ぎる。現代の子どもたちに恨みでもあるんですかね。5:51 行間から父親の気持ちを想像すれば、お腹を空かせている娘を不憫に思い、せめてコスモスでも渡してあげよう。と愛情を感じるシーンだと読み取る話。ポジティブな想像は行間を読むと表現し、ネガティブな想像は妄想で想像力の欠如とするのは、それこそ視野が狭いのではないか。小学生が低学年か高学年かでも知能レベルは全く異なるのに小学生というアバウトな表現で誤魔化しているところも気になるところ。保育園や幼稚園あがりの低学年であれば、戦争や兵士という概念もピンとこない可能性はあり、貧しいとか裕福という概念も関心がある年頃ではないと思う。高学年であればそれらの情報をすべて把握できているのでポジティブな想像力で話を理解できるかもしれないが、もし僕が小学生1年生くらいであれば珍回答をする自信がある。
思い返せば、個人的に「受験勉強の一環としてやった評論文の要約」の訓練が読解力向上に一番役に立った感覚があります。アウトプットの訓練が逆にインプット能力の向上に繋がるというのは面白いですね。
なんで親からコスモス渡されただけで親がどういう気持ちだったか考えられる能力があるのに不登校の子が学校に行きたくない理由を言えない理由が考えられないんだよ
様々な要因があるからだろ
要は自分に置き換えて考えられるかどうか、ってところだと思います。様々な要因があるにせよ、本人すらわかっていない(言葉にしない、できない)その要因がわからなければ考えることはできたとしても本当の答えには辿り着けません。例えばここ3日の生活状況を知らない人に「お腹すいた?」と訊いて「わからない」と答えられて、あなたは実際にこの人がどうなのかわかりますか?
@@ぬけ-n1i 私も自分に置き換えて考えられるかどうかがポイントだと思います。「お腹すいた?」と訊かれて「わからない」の理由が、「まだすいていない」という意味なのか、「答えたくない」なのかは、それこそ国語の「作者の気持ちを答えなさい」と同じではないかと私は思います。どういう関係で、相手がどういう人か、そこから予測するのが国語力だと私は考えます。
出会った言葉で人格が形成されていく、これは本当にその通りなんだと思います。本当に色んな言葉に支えられて生きて来れたと思います。
残念ながら、相当な読書家の最低な上司を知っているので、言葉に出会っただけでは人間は形成できないことを知っています。言葉に出会っても、正しく受け止める能力がないと正しい人格が形成されないものと信じています。その上司が反面教師になって、自分は正しく受け止めようと努力しているつもりですが、実が伴っているかはなんとも。
@@ttomm1345 なるほど受け取る心が無ければですねその人は本を読んでいても言葉を受け取っていないのかもしれませんね知識はあっても活かせないみたいな?言葉に出会ってない、通りすがっただけと考えるのはどうでしょう?少し考えが短絡的かもしれませんが
@@アルバ-h1e そうなんだよね。 動画主は『くそヤバ・まじヤバ・ヤバい』の3つを『ヤバい』の1つに集約してしまう。自分が判らない言葉に出会った時に『面倒くさがってひとまとめにして考察しようとしてしまう人格』は、効率化とか合理的・性などの言葉によって培われたのだろうね。「なぜ、ヤバいにくそをつけたのか? まじをつけたのか?」や「ヤバいに対してのエグいはどういう意図があったのか?」を受け止めようとはしなくなったりするようになりますな。
@@user-NoP11201 何かそんなニュースは見た気はしますが内容は記憶してません
「言の葉」ってそういうことなのかもしれませんね。葉の色や形が違うと、一つ一つは些細な違いでも全体を見た時にその木の見た目、下手すりゃ性質まで変わると思いますし…🤔言葉ってある意味、窓口なのかもしれませんね
同級生がごんぎつねのセリフの問題で「ごん…○○○だったのか」ってところを「ごん…お前栗だったのか」って書いてて面白かったなぁ
なんかたぬきが化ける別の話と混同してるw
たった一つや2つの事例を待ってましたとばかりに、問題化すること自体が問題ですね。
確かに子供たちの読解力、想像力は落ちているけど…同時に教える側の大人たちも同じだと思う。私は小学校の時学校大嫌いで勉強も大嫌いだったけど唯一の救いは道徳の時間や国語の読みだった。答えが1つじゃないことに救われて面白さを感じた。
落ちてないよどっちかと言えばごんぎつねならわざわざ聞くって事は変な答えがあんのか?勘ぐってそれを答えとして出してるだけそもそもそこまでの理由を言わずにはい想像力足りないとかはどうなん?
昔に比べて共感力や読解力が欠如した子供が増えているかどうかは断言できないよね。私は、以前もこういうちょっと足りない子供って結構いたと思う。
ほんそれ。統計が苦手な人って、何となくの雰囲気や自分ひとりの感覚だけで勝手に大きい主語の問題を矮小化・単純化して考えちゃうんだよね。
子供の数が減った&子供ひとりひとりにきちんと目を配れるようになった、それでこういった珍回答する子に注目が向けられ背景についてあれこれ想像を巡らせてしまうのでは?昔だったら「アホな子だなぁwwww」で終わり
自分が考えていることを書き出してそれぞれがどう繋がっているのかを論理的に考えるのは良いトレーニングになります。
①の話題ですが、そもそも昔は、いわゆる常識的ではない回答をする子はいなかった、少なかったのか?今は多いのか?単なる一事例を挙げたところで、説得力を感じません。「戦争はみんな未経験」と一括りにしてしまうのも短絡的すぎると思います。数十年の間に時代は大きく変わっています。同じ未経験の中にも大きな差があるし、逆に経験していることも大きな差があります。大学の先生や校長先生ともあろう方なら、そのくらい想像して読み解くことができそうですが…これも一つの「今の若者は…」に感じてしまいます。
鍋で何を煮ているでしょうか じゃねえよその質問が馬鹿すぎるだろうが何を煮ているでしょうか→なにかを煮ていると文章に書いてありますよまた、文章を正確に読むのならごんは 兵十と母親に対して申し訳ないことをしたと考えたからお詫びの品を届けたのかもしれない兵十は ごんを撃ったことを後悔して生き残った他のキツネたちにお詫びの品を届けるかもしれないとかそういうのが読解じゃないでしょうか鍋で何を煮てるのでしょうか は 読解じゃなくてクイズだからな。小四で 葬儀の経験が少ないかもしれない背景や現代の葬儀では 大きな鍋でなにかを煮たりしないかもしれないなどの時代背景などを想像つかないあたり 教育者として 想像力に欠けてると言わざるを得ない
ただでさえ「先生がわざわざ訊く」というバイアスで深読みしがちなのに、「鍋で何を煮ているか」という質問自体にあまり意味が無いような気がする。話の筋にも関係が無い。
大人も「読解力」と「語彙力」が低い方は意外と多いですよ。
塾講師をしていましたが、最近の子供が何考えてるかわからない大人たちばかりが騒ぐんですよね。今の子供たちのほうが今の大人にはない発想力と想像力もった子供がたくさんいます。おばあさんを消毒してるってのも面白い解釈だなと面白いと思うのに、なぜ槍玉にあげられるのかわからないです。
なぜ槍玉にあげられるかわからないあなたが怖いです。空気読めない人ですか?
ご遺体を鍋で煮て消毒したり溶かすというグロテスクで残酷な発想の背景には死体は汚いから処分したいという子供らしくない残虐性や遺体に対する無自覚な蔑視があるのに気がつきませんか? それでも面白いですか?
「ごんぎつね」も「一つの花」も、スマホがある現代の子供たちには相応しくない題材。題材(内容)が近隣で助け合う時代や、戦争の時には当たり前の生活習慣のものでは、想像すらできない。主だって、アフリカの原住民にとってはありふれた生活の一部を題材にされたら「読解力や想像力」だけでは無理だろう。
ごんぎつねの鍋の中身の質問は正直質問が悪いと感じるなぁ動画でおっしゃっていたように葬儀で料理を準備するという事前知識が必要であること、狐であるゴン目線ゆえに鍋の中身を「なにか」と表現していることに気付く必要があること、わざわざ質問されていることで「なにか」が料理でない可能性について考えさせてしまってることふざけて回答していると思われている小学生がかわいそうだ
小学生のごんぎつね誤読の件、去年も話題になってたはずなんだがなんで1年経った今頃になってメディアが再燃させようとしてるのか気になるちなみに、名作とされてる作品を捕まえて批判するのも気が引けるが、そもそも「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていた」なんて表現を使うこと自体が疑問だ葬儀で大鍋で料理を作るのが当たり前の時代だったとしても、それが何かストーリーに影響するわけでもないのに如何にも重要な何かがありげな書き方をするのは、「チェーホフの銃」のルールに従えばアウトだろう
先生「大きな鍋で煮ているのは何でしょう?」大人「はい✋!!煮物などの料理だと思います!」小4「あいつヤバw(そんな当たり前のこと問題にするわけねえだろww)」先生「正解!!」小4「。。。(学校行くのやめよ)」
愛情を感じる心とか、子供らしい優しさ、とかじゃなくて、猜疑心の方が早く身に付いてしまっていると感じます。🤱
葬儀の家で何を煮ているのか……という質問自体が既にズレていますね。意味有りげな問いには余計な意味を見出してしまうのは大人にも共通しています。子供の問題ではない様に思います
その様に思います。質問をするからには何か特別な意味合いがあるのでは?と考えるのは自然か事かと。加えて、この様な物語のテンプレートを知っているか否かによって変わって来るのかと思います。過激な回答に偏ったのは、昨今の子供が触れるゲームアニメの物語では奇をてらった展開が多く、その知識に偏った回答になったのでは?と思いました。
おっさんになった今であれば、ごんぎつねや一つの花の内容はすべて理解できますが、小学生の頃に一つ一つの描写を見てすべて理解できたかと言われると、多分できなかったのではないかと思います。最近よく思うのは、今の教育は分不相応な年齢の相手に対して、過剰な要求をしているようにも感じます。小中の教育に関しては特に、理数系学問以外、どこか形式的に答えを出しており、本質を理解をしておらず、大人になって、たくさんの映画やゲーム、物語やニュースなどの情報に触れて、分相応の人生経験をした上で改めて見てみると納得したり理解が深まったりするような内容が多い気がします。文系教育に関しては、その内容があまりにも大人の自己満足に近い側面があるのではないかと感じます。
若者の読解力、語彙力の低下って昔から言われてませんでしたっけ?それこそサトマイさんが子供の頃くらいから。
メソポタミアの粘土板から
この"問題"は本当に読解力の話なのかと疑問に思う。ごんぎつねの元の文章を読むと漢字が少なく平仮名ばかりで読みにくい上にあまりにも背景となる情報量が少なく、これは日本文の読解力の問題ではなく社会の授業の問題と思える。あまりにも時代が違うのに判断する為の情報が圧倒的に足りない。そして問題提起した著書を読んだがそういう解釈に到った理由を適切に調べたとは言い難く到底科学的な物言いとは言えない代物だった。日本語はそうでなくても文脈に依存する言語。なのに正解となる解釈理解に必要な情報量が足りない可能性を十分吟味していない主張にどれほどの価値があるのか甚だ疑問。必要な判断材料となる情報が無くても、文章内の情報だけでで短い授業時間内で察しろとか、エスパーになれと言っているに等しいと思う。例えば別の文章にもそれは言え、"かみをすいて"は"髪を梳いて"なのか"紙を漉いて"なのか確定的判断するには物語の背景となる当時の社会についての知識がいる。
狐に人格を与えて人間を客観的に見ればゴンがそう思うのも無理は無いですよね。人間は残酷ですから。また人格を与えず動物としての視線で見ても他人に食料を分け与えてコミュニティを作ってるのは珍しいので料理しているって発想にはなりにくいですから。最近の子供達はとても深く考えていて素晴らしいですね。ひとつの花 でも現代と過去の法律の執行力の状況を鑑みて盗みと判断するのは非常に常識のある回答ですね。また、父親が単純な無意味な優しさではなく、ゆみ子に働き方、生きる道を示したという考えも感動的です。少ない語彙で会話が成立するのも、1つの単語でさまざまな意味をもたせて会話ができるというのはコミュニケーション能力が圧倒的に高いことを意味してます。
自分の機嫌をコントロールするために、負の感情を持った時に何故そう感じたのか、何が原因だったのかを最近考えるようになってたんですが、感情の言語化ってやっぱり大事なんだなと改めて感じました。気づかせてくれる動画ありがたいです。
10年くらい海外にいたんですが、帰国後学生の、うざい、死ね、とかの罵倒発言が多すぎてビックリした。スマホの普及のせいかと思ってたけど、言語化力と想像力の欠如が影響してるんですね。学生に限らず、日本はクレームがめっちゃ多い国なんだけど・・・日本の未来が心配になりました。
帰国前にいた国でも同様のことがあったと思われますが、語学力の問題で気付けなかったんでしょうね。
@@hce4098 一言余計で笑う。 へえ、10年前と印象が違ったんだねでいいじゃん
@@hce4098言ってることはわかるけど、よほどその国に溶け込んでいない限り、ネイティブ話者じゃないと気付けないのは当たり前だよあと、おそらく世界各国で起きている現象だろうという点に同意。ただ日本が特にひどい可能性はある。ゆとり教育の失敗、道徳と宗教観の欠如、イージーなコンテンツの大量速攻消費と言う点で、他の国と日本は性質が違う気がする。
@@hce4098 日本人って中身ろくなもんじゃねーよ色々データも出てるだろ、そろそろ気づけ
@@田中一郎-o3u 何でそれ俺に言うん?意味不明だわ。
相手を“死ねよ”などとおそらく日常的に罵倒しているにも関わらず依然として友達の関係が成り立っている点が見逃されています。彼らにとっては言葉の意味よりも会話のテンポ感が重要なので、むしろそれが通じない人は“空気が読めない”と言われて仲間外れになったりします。※Bにとっては「AとCがウザい」という意味一択でありCもそれを理解しているからこその「つーか、お前がウザ」なのです。そしてこれは私の一例にすぎませんが、病院で検査した言語理解のIQが平均の上であるにも関わらず人間関係は学生時代から苦手で2年間不登校のときもありました。確かに読解力以前に感情の粒度が低い人はいますが、そういう人の集まるコミュニティもあるわけですし、語彙と人間関係の問題の関連性についてはまだまだ検討が必要だと思います。
「最近の若者はけしからん」的な結論があってそれに都合の良いデータを並べ立てているだけのように思えましたデータは嘘をつかないけどデータで嘘はつけるんですよね☺
子供の読解力がヤバいという趣旨の本だから、引用されるデータがそちらに偏るのは仕方ないのかもしれませんが、ごんぎつねの件は例として挙げるには不適切に思えますね。多くの年代に通じること、インパクトを優先したのかなと思いますが。
うちの子がいま小4でちょうど「ごんぎつね」をやったところですが、あれはもう子どもが注釈なしに読むのは無理な作品になってると個人的に思います。人の死や葬儀に関する慣習が当時と今では違い過ぎる上に、あの場面はきつね目線で書かれているので「これは昔のお葬式の様子だ」と分かるような説明が一切なく、かなり不親切な文章になっています。今の子はそもそも葬儀というもの自体の経験値も知識もゼロの子が多いですし、今どきの葬儀は自宅では行わず料理も仕出し屋さんに注文するのがほとんどなので大鍋で物を煮ることもないです。ない知恵を必死にしぼって思いついた唯一の「お葬式に関係ありそうなもの」がご遺体だったということかと思われます。子どもに足りていないのは想像力ではなく、むしろ人の死や葬儀に接する経験の方だと思います。
知識不足の問題ではない。問題の本質を浅くしか考えていない。グループワークでお婆さんのご遺体を鍋で煮るようなグロ回答をそんなわけないと反対する子供がいないことが恐怖。消毒する、溶かすとかいうワードもご遺体を汚いゴミ扱いしている無神経さがある。子供特有な無邪気な残虐性が問題。
「ごんぎつね」がよめない理由(その2)わざわざ議論させるのだから『とんでもないことが起きている』と、子供たちは理解してホラー映画みたいになるのだとも考えられる。想像力がないのではなく、逆にありすぎるのでは?
不登校の問題が言語化できない問題ですが、人が悩みを直接的に相談することはほぼないのでできないのではなく多くの場合はしないのです。悩みは間接的に伝えられることが多く、例に出せば友達の話なんだけど〜のようなクッションを置いたり、少しズレた常識的な問題に置き換えたりします。問題は何なのかと直接的に聞いてもそんなこと答えてくれるわけがないんです。その辺理解せずに悩み相談なんかできるわけがなくて、子どもの問題というより相談相手に問題があると思います。
いや、そもそも、昔のお葬式と今のお葬式って全く違うし、そう言うシーンなんかわかるはずないでしょ?葬儀会社が全てするし、ましてや親戚すら来ないお葬式すらおおいのに。それを大人目線で非難ばっかりして、大人の方が想像力欠如してませんか?
わざわざ「何か」なんて意味深な書き方されたら最近のマンガ・アニメ・ゲーム等の経験則から「なにか表現してはいけないやばいことをやっている」と思ってしまうのはまぁ自然といえば自然なんだよね
教育熱心だった父の方針で、新聞の社説の書き取りを毎日のノルマとして課されていました。おかげで語彙が育ったように思います。まじウザのエグいノルマでしたが効果ヤバいです。
エグい皮肉だね
「ごんぎつね」や「蜘蛛の糸」で担任教師が意図していない答えを言った私は、後日の父母会で母親が担任教師から吊るし上げを食らいました。
担任教師曰く「一般常識とかけ離れ、他の子に悪影響、授業妨害」だったそうです。
なお、私が言った答えは、
ごんぎつね:この物語で最も可哀そうなのは兵十。母親を亡くしたばかりか、仲良くなれたかもしれない「ごん」を殺してしまったから。(教師が用意した答えは「ごんが可哀そう。どんな罪も赦されるべきだ」)
「蜘蛛の糸」:お釈迦様がお気の毒。カンダタが善人になれる最後の機会を与えたのに・・・・。(教師が用意した答えは「カンダタのような悪人には絶対になるな!」)
でした。
そもそも、学校教育で「人の感じ方」を画一化することも危険な気がします。
教育指導要領から逸脱しないことを第一に考える、読解力の足りない教師だったのかね。お母様ともどもお気の毒なことでしたね。
どんな考えでも尊重されるべき。
国語の読解問題に模範解答とか正解が用意されてるのは前からどうかと思ってた
そんなもの存在する意味がない
あなたの考えは妄想などでは決してない。非常に論理的でありながら高い感受性を持っているように感じられた。あなたのような人こそ、今の教育に必要だと思う。
「ご遠慮ください」や「お控えください」に対して、”少しならやってもいい”と解釈する者が増えてきたという記事を読んだのを思い出しました。
「絶対やるな!この野郎!」では角が立つので表現を柔らかくしたという相手の気遣いを想像できない現世代。
本当に“少しならやってもいい”場合にはどう表現するのが適切なのだろうか。
@@user-qp3gi7ny9t
「少しならやっても良い」なんて無いんですよ。
「やっても良い」or 「やってはいけない」の二択です。
@@かわひろ-f3w なぜそう言い切れるのですか。
コンプラ社会で暗黙の了解をいつまでも受け入れてくれるわけないやろ。昭和の古臭い考えはもう通用しないんよ。
「葬儀の最中に女中は何を煮てるのか?」っていう問題の方が意図があって意地悪な感じで設問を考えた人がヤバい。狙っている感がある。葬儀という言葉がひっかるから想像しただけとも考えられる。
同感です。私も「『何を』煮ているか?」という設問のほうに原因があると思います。
おそらく「何をしているか?」という設問なら素直に「料理」と答えた可能性が高いように推測します。
少なくともこれを即「思考力の欠如」と結論付けるのは早計だと思います。
何かを煮ている人は女中ではない
いや、これは動画中にも言ってる他の事象や経験を結びつけて思考する力を養う設問だよ。だから先生の教科書の答え欄には集まった人の「ご飯」を作っている、という回答が正解として載ってる。
母親が鍋でご飯を作る、法事でご飯等を振る舞う、等の経験や知識から正解を導ける。
※昔は当たり前に見られた風景からの設問だから、そも親が料理をしなかったり、昨今の法事事情を鑑みると時代背景や歴史に関して教える必要があるかと。
私は中学生の家庭教師をしてます。約2年くらい前から同じ子を担当しています。初めて会った時は動画のように「ヤバい」「マジで」「草」などネットスラング的な言葉を使ってることが多かったですが、私がいちいち「何がやばいの?」「何がどうマジなの?」「草は何に対して草なの?」などのように言語化する大切さを教えた(小説やマンガなど読ませた)ところある程度語彙力は着きました。今では「マジで」「ヤバい」などの言葉は基本使ってないですね。結構長期的にはなりますけど本を読んで、自分の気持ちを普段から言語化することを特訓すれば想像力は養われるのかなと思いました。
この人には抽象的では伝わらないんだ、伝えるには別の表現をしなければ、という必要性がそこにあったからこそ、できたことだと思います。
教え子と信頼関係があった証拠ですね。
同じ質問をしても「うぜー」「うるせー」「しらねー」で終わる子もいますから。
素晴らしい先生
これ一対一だからできるんだよな
学校の担任くらいのやつから言われたら、煽りか?と思うか、それか自信なくして喋らなくなるか
@@shippo0013 もちろん初めのうちは「しらん」とか否定的なことは言われました。その時は基本「じゃあ今日の宿題は多めに出そうかな(冗談)」って言ったらちゃんと考えて言語化してましたね。シンプル私自身が、最近の中学生はなにを趣味にして生きてるのか知りたかったから、聞いた?言語化した理由ですね。
@@y.sasaki1244 いえいえ、そんなに頭もよくないですよ笑!私も楽しく授業したいんで、雑談とか交えてしてるだけです!
二人の息子に同じことを聞いたら、まさかの「お母さんを煮てるの?」でビックリ。でも話を聞いてみると、わざわざ質問してるんだから、「鍋で煮る=料理」なわけない、きっと意外な展開にちがいない、と考えたようです。TikTokなど、短時間で視聴者の期待を裏切る展開の動画をいつも見ているので、意外性を期待するのが普通、と。
読解力の低下ではなく、思考回路の変化だ、といっていて、妙に納得しました。
そうですね。わざわざ聞くってことは意外性が…?とは考えてしまいますね。
なるほど、裏のあるもの・意表を突くものと日常的に接しすぎて物事を額面通り捉えられずついつい裏を探してしまう、と。
…なんか陰謀論を何故信じるか?にも繋がってきそうな見解だなぁ
やっぱりそうか。鍋で何を煮ているかなんてわさわざ班を組ませて答えさせる内容じゃないもん。 子供は出題の裏があると考えちゃうわな
ということは今の子供は単純な受け答えが困難という傾向があるのか。
何でもかんでもドッキリみたいな思考するのは良くないなぁ。
実際現代の風習と価値基準ならそりゃあ料理だろうけど
大昔の貧しい(であろう)農村でしかもその家に大鍋を持ち込んで料理したって状況は疑問を感じる。
消毒のために大量の湯を沸かしていた(さすがに遺体は煮ない)という想像は頭ごなしに否定したもんではないと思うな
誘拐犯がニヤニヤしながら「これ、何の血だと思う?」って場面を想像して欲しい。
勘繰らざるを得ないだろ
えっ血?
本当に小さなことではあるけど、小学校の高学年の頃に
「あるいは」「要は」といった言葉を使って何気ない日常的な会話をした時に何度か
その言い方変などと指摘され、「あるいは~あるいは~」と執拗に真似して小馬鹿にされた記憶が今でも残っている。
当時は間違った使い方もしていなかったのに何がそこまで問題だったのかと分からなかったが、
今でこそ客観的に考えて、小学生の時などは特に言語化能力の低い人から見て
そういった活字でしか使わないような聞き慣れない表現を使う同年代は変人か、
あるいは利口ぶってる気に食わない相手と見做されたのではないかと思っている。
そんな目に遭わないためにと、本来は言語化能力の高い児童も違和感を押し殺してウザいやヤバいといった抽象的な言葉を使わざるを得ず、
皆が日本社会特有の同調圧力下で抽象的な言葉を使うから事細かな情報の遣り取りが不可能となって不登校児童を量産しているのだろうし、
結果全体として言語化能力が急速に低下しているのではないかというのが個人的な所感。
様々な取り組みで個々の言語化能力の改善は見込めるだろうが、今後も子供達の全体的な言語化能力は低下の一途を辿っていくと思う。
動画で問題視した小学生の国語の解答は、確かに突飛だった。でもめちゃくちゃ問題だとは思わない。
ごんぎつねの方は、ワイも学校で最初に読んだときは何を煮てるんだか分からなかった。っていうか、煮るっていうのがどういうことか分からなかった。
ワイのときは先生が、弔問客にふるまう料理を作ってるんだと注釈として教えてくれた。ワイはここで、葬式には料理を作って出すということを知った。
今の子たちが、鍋で煮沸消毒してると答えるのは、コロナを経験した後としては当然の回答だと思う。大人たちから消毒しろってうるさく言われてるんだから。
ワイは子どもたちの発想や観察眼が面白いと思った。
コロナウイルスみたいな感染病が怖いから、遺体を消毒したり、煮溶かそうとしてる。って子どもたちは思ったんだ。
実に現代的だ。
一つの花の方も、ゴミ収集所に強く反応して「不潔な花を食べ物として与えるのはひどい。仕返しか虐待だ」って捉えるのは、現代では清潔さを第一に求めてる家庭が多いからでしょ。
「○○ちゃんがくれたお菓子は手作りだから、バイキンが付いてるわ。食べちゃだめよ」とか「おばあちゃんが余り物の料理をくれたけど、こんなの食べたら病気になる」とか親が言ってるのを聞いて育てば、ゴミ箱のところからつんだコスモスは嫌がらせにしか見えないだろう。
子どもは大人の行動を映す鏡だ。
子どものボキャブラリーよりも、大人の行き過ぎた潔癖症を見直すべきだよ。
我が意を得たり。率直にいえば問題があるのは児童ではなく先生の側(具体的には児童理解の圧倒的な不足と,発問の意図が不明。)
当方40代ですが,記憶する限り小学生のときに葬儀の経験はないし,おそらくその時代から葬儀は斎場のスタッフさんがやってくれるから,遺族が接待するスタイルもあまりないはず。そういう子どもたちの知識や経験の程度を理解するのも先生の技量のうちですけどね。
そして正直私もこの先生が考える「正解」が何なのかわかりませんが…この「正解」を知ることがこの物語を読む上で何か意味あるのかね?…と思わざるを得ませんでしたね。
@@macchan19791220
この先生は児童理解が不足してるよね。
でも、もしかしたら発問は、文科省が定めてるものかもしれないかな?
ごんぎつねの葬式は現代とは全然違うから、子供が正解にたどり着くのはなかなか難しいよね。
一つの花の方は、題名から正解にたどり着くことはできるけどね。ワイはそうだった笑。題名と戦時中の話というところから、泣かせに来てるんだな、と判断した嫌なガキンチョ。
ちなみに、この設問には2つのの正解があって、すべて読み取れると満点らしいよ。
1つは、お父さんの戦死の匂わせを読み取れること、そして戦死を知ったときの主人公の感情やこの先の人生の困難を予想して同情し、悲しい気持ちを感じること。2つ目は戦争はいけないことだと学ぶこと。どちらか1つしか分からなくても減点にはならないけど、どちらも感じ取れると満点。
9才の子供が持っていてほしい感情や読解力、発達度合いってことなんだろうなぁ。
わお
そもそも花は食べ物じゃないから、花を食べるという回答は想定されて無い(笑)
愛情深い優しい父親像を読み取る事が出来るかどうかが、設問の求める所だから回答は「花はプレゼント」であることを想定した上で、何故其の辺に咲いてた花を渡したのか、を思考するもの。
父親の娘に対する心配や、愛情に関して含めた回答なら正解貰えるかと。(今アラサーな私の先生は良い教師だったので丸くれました)
@@涼鹿
先生が優しい人でよかったね。
花はプレゼント、という文化がない家庭もあるんじゃない?w 家に花を飾るという文化がないと、なぜ花をくれる?食べ物?って思うのかも?
あと、「ひとつの花」を思いだすと。
主人公はいつも腹を空かせてて、お父さんの分の食事まで狙って「ちょっとちょうだい、もう一つだけちょうだい」って言うのが口癖だった。お父さんはいつも一人娘の主人公のおねだりに応えて、自分の食べ物をあげていた。
そこから(子供なりに)考えると、出征前にお父さんがくれた花は「食べ物としてくれた物」だと推測する子も出てくると思う。
食べ物としてではなくても、ゴミ収集所のところから摘んだ花を渡すなよwって感じる人は、現代日本では多数派になりそうな気もする。道端にそんなに草や花が生えてないわりには😅
他の人も指摘してるけど、「設問が悪い」というか「意味の無い設問」だな、と。
普通の時じゃなく、「葬儀の最中に女中は何を煮てるのか?」って、作者本人もそこまで考えずになんとなく書いた描写でしょう。
子供は「テストの設問なんだから、なんか裏の意図があるのか?」みたいになってもしょうがないし、テレビやネットで「サイコパス診断」みたいなエセ心理学が行われてる面もあります。
また現実に今、「少年A」みたいな凄惨な事件が増えてるのかというと、いじめ自殺はずーっと常にあるけど、
シリアルキラーみたいなのは結局全員、「中高年」ですよ。
@@Suhiron 「シメシメ、我ながらよく捻られた内容だな。」
こんな風に自己満問題出して気持ちよくなってるダケだよな。子供の事なんて考えずに。
設問作った奴サイコの素質あるわマジで。
今の子供世代というより子供の親世代が「ヤバい」のだと思います。
町内のお知らせで「公園で野球してもいいけど、車を路駐するのはやめてください」と出したら「公園で野球くらいしてもいいじゃないか」という反論がありました。
思わず頭を抱えてしまいました。
子供の一番身近な人間である親が「ヤバい」なら子供も自然とそうなって当然なのでは。
会話が成立してないw
何を問題にしてるのかがわかってないのは頭痛の種ですね。
親の読解力の低さが子どもに引き継がれてるのか😂
@@oka0227 遺伝子は残酷
1つの文章に2つの事柄をまとめて書くのでなく、2つに分けて書いたほうがいいです。
おそらくいつの時代も言われてる話やろなぁ…。
若い子の話し方とかに説教したくなるのは年寄りの性よ。
今、家で葬式する事がなくなりました、だから家に集まった人に料理を振る舞う事もなくなったので、なぜ葬式で鍋料理を作るなかわからなくなったと思います
サンプルがひとつのクラスだけなのは信憑性ないのでは・・・😅?
しかもセンセーショナルなサムネイルにして視聴者を扇動しているあたりかなり悪意を感じます。再生回数増やすためなら手段選ばなくなってきましたね。
正しいご指摘だと思います。もともと科学的な論証のあるフィールドワークではなくて、ただの与太話なんです。そこにみんな騙される。
今の50代とかでもこのレベルの言語化の人結構いるからなあ。
勿論ダメなんだけど。
昭和54年生まれの者ですが、私の更に上の方々は、娯楽が少なかった故、紙芝居、落語、講談、映画、漫画など、「物語」というものに触れる時間が今より長く、冠婚葬祭や風習を見聞きする事も多かったのではないかと思います。
また、家族で飯を食うことで、その日1日の話をしたり、祖父母も家で死ぬというものを見ており、自分や人の感情に触れる機会も多かったんじゃないかと思います。
今は病院で死に、共働き核家族で1人で食べたり、1人で遊べる物が多く、昔の玩具に比べると全て遊び方を教えてくれるような親切な設計にもなっています。
現代っ子も勿論みんなではないですが、物語や感情に触れる時間や機会が、昔の人間より減ってるためかもしれません。
@@user-NoP11201
アニメや漫画で観たらOKという事でしょうか?
申し訳ありません。察しが悪い方でして、お言葉の意図が汲み取れてないかも知れません。
思った事は、例えば、私の経験で恐縮なのですが、目の前で身内が死に、身内が悲しみ泣く姿を見るのと、テレビの中の他人の物では、感情が全く違う様な気がします。
祖父が亡くなった時は、学校から帰ってきたら、父から「おじいちゃんに会ってこい」と言われ、祖父はいつも寝ていた布団に鼻に綿を詰めて寝かされていました。
祖父に会いにみんなが集まり、棺桶を男衆が担ぎ、霊柩車に入れ、火葬場に向かうときも、町内の皆様が出てきてくれて、頭を下げて頂きました。
霊柩車も祖父が好きだったり所縁のある場所を周って向かいました。
そこから90分ほどかけて荼毘に伏し、この間にもお菓子を食べたり談笑したり、何か緊張が解けたような時間を過ごしたり。
遺骨を目にした時は、親戚の叔母様が一瞬でしたが、それは悲痛な声を上げました。みんなで遺骨を骨壷に入れる。当時5歳の子供だって参加します。
その後もしばらくの間、ご縁のあった皆様がご挨拶に来て頂き、私も挨拶をさせて頂き、遠方より来て頂いたので、連日寿司をとり、故人の為に来て頂いた感謝とさせて頂いていた様です。
この私が五感で感じた、人の死と、遺された人々の間に起こるものや、聞こえたり匂ったり肌で感じた事があるので、共感や、風習、慣習に触れる機会と時間がありましたが、それが漫画やアニメで数ページで終わってしまうのとはかなり別のものだと感じた次第です。
長くなりまして申し訳ありません。
@@user-NoP11201
つまりは、映像や活字などで見聞きしたことを、実体験する事が妄想で終わらないために大事なのかなって言いたかっただけです。無駄に長かったですね。
不登校経験者として言えるのは、本当の理由が恥ずかしすぎて言えないことが理由の一つとしてあると思う。進学を機に登校をするまで、俺は結局誰にも不登校の明確な理由は言わないままだった。
いじめの被害を親に話さないというのも同じようなものかと思い出しました。子供は案外物事を考えてると思います。馬鹿でも無垢でも無いしプライドだってある。
亡き母親を鍋で煮たとか、コスモスを売って儲けさせようとしたとかトンデモ回答ではあるけどちゃんと物語を読んで自分の考えを出せている子は偉い。
「そんなの作中にどこにも書いてないから分かりません。思い付きません」って子はその歳でもう老化始まったのかと心配になる
今まで「よくヤバいで会話できるな。読解力がすごい」と思っていたが、
実は「それ以上何も考えてないし認識もしていない」が正解だったのかと思った。
いやー、ヤバいな。
あなたの文章、相当"ヤバい"ですけど大丈夫そうですか??
@@tomofuyt2665 ネタでしょw
@@tomofuyt2665 あなたの方の読解理力がヤバいだけでは?
ここまで含めてネタと読解しそうなのがネットの民
でもガチな人もいそうな気配がヤバい
@@tomofuyt2665 あなたの文章、何がどう"ヤバい"のか説明できますか?
動画で紹介されたごんぎつねの葬儀の準備の描写の文には続きがあって、
大きななべの中では、何かぐずぐず煮えています。
「ああ、そう式だ。」と、ごんは思いました。
「兵十の家のだれが死んだんだろう。」
となっています。小学生たちはこの「葬式」とか「死んだ」とかが入った文章から読み取ろうとして、あのような考察をしたものと考えられます。
この動画のような取り上げ方は、マスコミの切り取り報道と変わらないと思います。
また、男子B:「くそウザ」は、ゲームに対してじゃなくて、自分(=B)の台パン行為を批判したA/C君に対して、「説教するんじゃねえよ、ウザいんだよ」という気持ちで言ったんだと思います。
そのあとのB君⇔C君間の会話は「売り言葉に買い言葉」という感じなのではないかと思います。
私から見ると、サトマイさんの方が中学男子の会話の意味を読み取れていないように見受けられました。
(サトマイさんの知識の中に男子中学生の日常というものがインプットされてないので、想像しづらかっただけかとは思いますが)
中学男子の会話は主語ふくめ簡略化し過ぎで誤解を受けた好例になってしまったわけですね。
ごんぎつねの件は、そもそも「これは何を煮ているのでしょうか?」という質問をしたから、「これを質問するということは、さぞ重要な話かもしれない」と邪推して「おばあさんを煮た」と答えても別に読解力がないとも限らないんじゃないかなと…
葬式では料理を振る舞うという知識を「知らない」だけであって、物語中に料理というワードが出てないのと小学生の知識ではその作中に出てきた単語からでしか予測ができないので「煮た物が何か?」と聞かれたら具体的に存在が出ているおばあさんと答えてしまってもグロテスクとはいえ特段ヤバいと感じる必要はないのかなと思います。
自分が小学生の頃に道徳の授業で「ごんぎつね」を習いましたが「何を煮ているのでしょうか?」なんて質問されたことはありませんでした。
私自身、小学生の時にごんぎつねを読んだときに、葬式の鍋のシーンで子どもながらに疑問に感じてました。話の本筋ではないし何かの伏線でもないのに、なんで鍋のシーン(しかも「ぐつぐつ」とか)が描かれてるのかな?みたいな。
そんな時に「鍋の中身はなんだと思う?」と聞かれたら、あ、やっぱりなにか重要なことが鍋にはあるんだ!と勘違いして確実にグロな答えをしていました。😅
それを想像力欠如と言われたら悲しいかもです。。。😢
@@ふみふみ-l8f それが結構自然な気がします、鍋のシーンは、葬式のけだるい感じを出すために物語上の演出として入ってたんじゃないでしょうか?ここで鍋の中身聞かれたら、おっかさんを煮てるってなってもしょうがない。消去法でそれしかないっぽい感じになりますしね。みんないろいろ書いてるけど「ごんぎつね」をもう一度読んだほうがいいんじゃないかと思いました。短い作品だしね。
@@ふみふみ-l8f
想像力に富みすぎてぶっ飛んでしまったんやろな。
ぐつぐつはその場の情景を想像させるための補填でしかないし、それ以上の意味を持たない。
読解力があるなら、BBAを煮たという回答にはならないという至極当たり前の話w
@@ふみふみ-l8f 学校の授業でそんなもんやるわけないという常識が欠けた思考だと思った。
「最近の若者は〜」の新しいパターンに過ぎないのでは?
若者は若者で今の世界で必要な能力が伸びていて不要な能力は伸びないだけ
何千年も前から最近の若者は劣ってると言われてきたわけだが
人類社会が衰退しているという事実は無い
論拠が100%完全に主観による決めつけで、裏付けるデータが一切ないんですよね。
大学や企業でこんなレポートしたらツッコミの嵐で、無駄な時間使わせるなと大目玉喰らう事でしょう。
不登校が増えているという折れ線グラフ出しただけで「統計」に基づいてると言い張る度胸は大したものですが…
っていうか何を煮ているでしょうっていう問い自体が意味が無くてセンスがなさすぎる。子ども達も煮物とかも想定するだろうけど「まさか班で話し合う質問でそんな意味のない答え求められているわけない」って深読みしてしまうだけだと思う。
さとまいさんの中学生の会話、ちょっと違うんじゃないかなあ?さとまいさんの言い換えは、大人が「こういう風な流れで話してほしい」って言うセリフだと思った。
セリフが多少長くなっても、乱暴な性格が良い子ちゃんに変わるとは思えないな。
ちなみに、一つの花は、ワイが学校で習ったときとちょっと違うような気がする。コスモスをつんだのは駅のゴミ収集所じゃなかったし、お父さんが帰ってこなかったことは書かれてなかった。
だからワイが習ったときは「お父さんは帰ってきたでしょうか?みんなで考えてみよう」っていう設問があった。ワイは帰ってこなかった派だったけど、挿し絵の女の子が元気そうな笑顔だったからお父さんは帰ってきたという子も多くて、クラスの半数は帰ってきた派だったw
ごんぎつねに関しては質問が悪い気がするなー 「わざわざ質問してきたって事は、この場面で何か普通じゃないことが起きているのか?」って子供たちは考えたんじゃないかな
鍋のことをわざわざ質問する意図は不明ではある。葬式の弔問者のために何を料理しようがどうでもいい。
問題はそこではなくて、グループワークで老婆の死体を鍋で煮るというグロテスク回答をしてしまう異常さである。死者に対する思いやりや敬意が恐ろしく欠けている。
鍋で老婆の時代を煮るのは確かにグロテスクだし、我々大人が想像すると単なるグロにしか思えない。ただ、子どもたちの中には、まだ祖父母が死んでいない、つまり老人の遺体を見たことがなくて、家族が死んだらいったいどうやって片付けるのかを知らない子供も多いのではないかな。焼却炉に棺桶が吸い込まれる様子を見て、お骨上げを何度がやれば、嫌でも人が死んだらどうするのかがわかる。すると、鍋で遺体を煮るなんて答えは出てこなくなる。
と、思ったんですがねえ。つまりは、子どもたちの経験がめちゃくちゃに貧しくなっているのが一つの原因ではないかと。
そこまで残酷な回答かな? 物語の中の死と現実の死は完全に別だと思うけど
@@最黑天鹅 確かに経験していないことによる発想の自由さとも考えられますよね。それに冠婚葬祭の常識なんて、大人の先入観によるもの(葬儀の方法には火葬、土葬、水葬など様々あるものの「煮る」は一般的ではないため「料理」や「カニバリズム」を連想してしまう)なので、なんの先入観もない子どもが「焼くのは良くて煮るのはダメなの?」と思うのは倫理観の欠如でもなんでもなく、ただの無知でしかないように思うんですよね。
それ、私も思いますね。答えはただ料理を煮込んでるだけでしたって、バカにしてるじゃん(笑)
5:30 コスモスを一輪あげた理由で、「罰を与える」「お金になる」という回答をするってことは、その子どもたちが、どんな状況でも騒いだ子どもは罰を与えられるはず、何かものをくれるとしたら将来お金を得ることが目的、というふうに自然に想像するとしたら、不憫なんだよなあ・・・。
「今生の別れになるかもしれない場面」だと理解しているかどうかにもよるかも。戦争や、取り返しのつかない誤解などの世の中の理不尽って、どれくらいの子どもが理解できるんだろうな。「なぜ父親は帰ってこなかったのか」と聞いたら、ちゃんと答えは返ってくるんだろうか。
戦争を知らない子どもたちの子孫だからねぇ。
岡田先生も言っていたが子供達の周りが既に過激な物が多く、それが面白いものとしてあるからそっちのほうが良いと考えるようになりこれが標準化してきている、日本語が読めないその代わりに現代の子は空気を読む能力に長けてきてるって話があって結構納得したわ
読解力がないのに小説読んでも意味がないんです。自分の感情が不明確なのにボキャブラリーは増やせないんです。
全て逆です。乳幼児期から自分の不明確な思いを親や先生にこうなの?ああなの?と何度も何度も代弁してもらえるから自分の気持ちが意識化されます。それと同時に自分の気持ちが言語化さらていきます。一番足りないのは人と丁寧に向き合う経験がないんです。
重要なのは、感情と言葉を紐づけるラベリング作業(知識・経験の習得)なのでどちらが先、後は無いのではないでしょうか。
先に言葉を知って、感情(現象)を紐付けるとこってありますよ。読んで現象として知っていても、失恋、家族愛、死別の喪失感は多くの人の場合、経験が後に来るのではないでしょうか。
意味あるくね?
まぁ、多分語彙力ある人の読む。
と無い人の読む。が違うんだろうな
俺の思ってる読む。は小説読んで、
状況を把握し、登場人物の気持ちを考え、自分ならどうしたのか?
悲しい展開になっちゃったら、あそこが〜あそこで主人公がこう行動してれば〜言ってれば〜もっといい方向に…もっと良い別れ方。こんな悲しいことにはならなかったのに〜と思いを巡らせることだと思ってる。
これをしてれば、ちょっとずつついてくる。なんなら、物語のなかで、主人公があの時ああしてれば〜とか懺悔・回想してる時あるから答え合わせも出来るしな。
俺も小学生の時とかジブリとか理解できなかったけど、簡単な映画とか分かりやすいアニメで思いを巡らせてるうちに分かるようになったし
なんというか
死体消毒とかコスモス咲かせて金儲けとか、逆に想像力豊かなんじゃないかと思うのは私だけ?(笑)
「コスモスを栽培して商売が出来る様に体制を作る」って回答はかなり先まで想像出来てますよね
ごんぎつねは児童文学で民話とは異なるが、かちかち山ではばあさまが汁になるからな…
むしろ幼少期にこの手のおとぎ話の読み聞かせは今でもされそう
教育でこの手のおとぎ話が扱われることは少なく、擬人化されていても現実世界に即した作品が扱われるわけだが、あくまで非現実混じえた創作物において、割合の是非はあるとして突拍子もない考えが生じるのはおかしくないと思う
私の記憶がパァかわからんが、国語の授業で作品の背景を教わった記憶がまるでない…
子供が(やばい)のではなくて、ちゃんと教育できていない周りの大人が(やばい)のだと思います
特に親な
特に国語教師な
非論理な文章を理解しないと怒るより、明快な文章の書き方を教えろといいたい。文章の書き方を習った記憶が無い。社会に出てから勉強した。扇谷昭三の「文章の書きた」。
親だな。学校で正しい日本語習ってきても、親の言葉遣いに影響されるし、子供が正しい日本語使っても親が上手く受け取れないので、感情とかパッションとか空気とかそういうので通そうとするから、その場のノリとか空気感を感じ取れとかって言って言葉でやり取りしなくなっていく。
@@rasiraka305今は教えてくれるよ
親が子供に「マジ?」「やばくね?」とか言ってるのを偶に見ます。
あまり口の回らない様な幼子が「やばい」とか言ってますし。
こういう人達って、すごく少ない語彙で話してますよね。
中身が無いと言うか言葉に厚みが無く軽く、話してると無口になって来ますし、付き合わなくて良い人と篩に掛けずに済みます。
我々(アラフィフ)世代が子供の頃は土曜の夜にまんが日本昔話を見るしかなかったり、一つしかないテレビのチャンネルを時代劇に合わせられたり、或いはドラマ等で出征シーンもあったりと概念として捉えやすかった。例えばこの父親はもう帰って来ないというフラグが立てられる訳です。「大きな鍋」なんて普段の生活でなかなか見ないだろうし人間の体が入るような?と想像してしまったり、「ぐずぐず煮ていた」なんて表現から不穏な響きを感じ取っても不思議ではないと思う。子供の基礎的な能力が欠落しているのではなく、今の子供が持つ素養と作品が合わなくなってるだけで教師がそれを解説してあげればいいだけの話ではないかなと思います。あと若者がヤバいエモいクソだけで会話してるのはそれしか話せない訳ではなく仲間との円滑な関係を保つ為の処世術のような気がしますね。責任や言質の所在を曖昧にしている点で言うと横文字を多用するビジネスマン等と同じ原理なのでは。
2:01わざわざ班で話し合えと言われたら、子供視点だとユニークな回答を考えたり深読みしすぎちゃう気がする。
それはありかもね~
そんなことを読み取れない頭の堅い馬鹿な大人っていう構図かもしれん
この意見に大賛成です。残酷な話が多い童話の世界で想像性豊かな解答した生徒を褒めてやりたい。意味のない出題をした教師に問題がある。
深読みするベクトルの問題と言ってるのでは?
何で大鍋の中身をわざわざ考えさせたんだろうね?
この教員は他にどんな答えを期待してたんだろう?
考えさせる場合、教員なら普通、子どもの回答を複数想定するもんだけどね。
大鍋なんてもう馴染みがないから、昔話+動物+婆さん+大鍋辺りで、「カチカチ山」辺りに引っ張られたんだろうな。
@@hitozuma1128 そういう話ではない
「今どきの若い子はダメだ」という思考のほうが問題だと思う。
A,B,C君の会話の部分の説明に関しては同意です。気になったのは、ごんぎつねの料理のくだりで結果だけ述べて『何故死体を消毒していたと推測するに至った過程を記載していない』点です。子供たちがそういう結論を出すに至った過程の説明がすっとばされているのは、望んだ結果以外は認めていない同町圧力的なものを感じます。
他所の国の教育事情はわかりませんが、日本の国語教育には疑問が有ります。
良くある「筆者の考え」はどうだとったと思いますか?的な設問があった時に
「こうだったと思います(ほぼ正解)」と書きつつ、「しかし本人の考えは本人にしかわからない」「その上で私はこう思います」とか書いたら☓もらってましたw
コレは反抗期故の行動だったりしました(今ならしません)が、作者がインタビュー等で執筆した時の感情を表明していない限り分かるわけ無いことだなぁと、今でも思っています。
登場人物の心情を考えることは、文章に書かれた条件のみで、登場人物の心情を推定する訓練。それなりに難しい訓練だからわからないとすっとぼけるのは逃げているだけです。
この力は社会に出てから実に役に立つ。人は他人に自分の本心を素直には明かさないものだから表出した事実からその人の本心を推定しないといけない局面は多い。
営業マンならお客さんの仕草や会話の中から
お客さんの不満や疑問がないかを察して(心情の推察)解決や安心感を与えるための行動をするわけ。営業マンがお客さんがどう考えているかわからないというと開き直ったら営業マン失格です。
会社員なら上司の態度や何気ない一言から上司の不満や要求(心情の評価)を推定して、上司から賞賛されるような行動や発言をする者が出世する。上司が何を考えているか察する力が出世の鍵です。
保育士なら自分の思ったことをうまく表現できない幼児の態度や仕草から不安や不満がないかを推定(心情の把握)をして対応する声がけや対応できる。うまく話せない幼児の気持ちがわかることが保育士の必須能力です。
義務教育の国語でやる訓練は社会に出てから真価を発揮する。
「読解力の低下」を観て先日開催したイベント参加の小学生の意思疎通を思い出しました。1グループ「きこえない役(話せる、書ける)、見えない役(話せる、聞ける)、話せない役(聞ける,書ける)」の編成で物を探すミッションをしてもらいました。読解力が高かったグループはお互いに伝えあう工夫が目立って高かったです。それに加えて、意見が間違っていたとしても主張する子がいたグループは共通理解を得る時間が早かったです。目立ちたくない子がそろっていたグループは著しくミッションクリアまで長時間かかっていました。サトマイさんの動画を観てなるほど、と思いました。
去年中学受験の塾講をして気付いたのですが、今の子供は質問への回答に際し、論理的な分解・組立てを経ず、キーワードと知識から想起された物を短絡的に答えと設定し、後付けで理由を考えているように思います。ごんぎつねの例なら、「鍋でぐつぐつ」という情報から「煮沸消毒」という知識が引用されてそう答えただけで、葬儀とかグロ表現とか常識とか、当人達には全く関係ないわけです。
言語力の欠如や妄想力の暴走というより、よくある内容ですが、ネットで解答が簡単に得られ、雑学クイズ番組やUA-cam、ショート動画で知識「だけ」に触れる環境、想像力を必要としない情報環境に、大きな原因があるのではないでしょうか、と個人的には感じます。
文章だけから想像するとそうなりますよね。私もそうかな思いつつ、まあありえないから、何か食べ物を煮ているのだろうぐらいになりましたが、
ごんから見たら、亡くなった人を煮て食べると想像してもおかしくないですよね。きつねの考えてることなんかわかりませんし、
なんなら、そういう答えを求めているトンチクイズかも知れない。国語の授業だけど。その峻別ができるかできないか、そういう世代だとしたら仕方ない。
文章読解にそれなりに広範の知識・経験が求められるとしても、小学4年生の児童一人一人の成育環境によって大きく異なっている中で、
画一的にこれが正解と植え付けても、理解できるか、できたかが分からないですよね。
家庭教育や諸体験は異なる児童に、うまく共有・共感させるのも難しいところ。学校の先生は大変だなと思いました。
日本の子供は論理的思考の訓練を受けていませんね。物語はハッピーエンディングなので考える必要ありません。ユダヤ人の寓話には結論がないそうです。その先は自分で考えろです。
私は根本的な問題だと思いますけどね…
シンプルに言えば、これまで問題視されなかった事柄を問題視している、ということですね。
閉鎖的だった教育現場や前例主義が見直され、これはいかがなものか?となってるだけのようにも取れます。
常識的な思考が出来なくて問題、語彙が少なくて問題、表現が拙くて問題。
どれも今に始まったことじゃないんですがね…
まさに、このチャンネルの事。
サムネイルだけで動画の内容を判断させたり、見出しで内容をミスリーディングさせる新聞やテレビ、週刊誌
これらはキャッチーなキーワードを利用していますよね。
文章にせよ動画にせよ内容を理解するのには時間が掛かるのに、その時間や手間を子どもだけに無自覚で惜しんでいると
そういった単語だけで判断して回答する習慣がついてしまうのが怖いと感じます
常識、と言ったものを押し付けるのもどうかと思いました。子供たちの「誤読」とされた答えが正解になる物語もあると思います。今の時代においては。昔は違ったかもしれないけれども…
この子供たちが大人になった時、我々は「老人の考え方は古くてありきたりで深く行間読めないね」と言われるようになっているかもと思いました。
同感です
上から目線でこの読解の仕方が正しいとかあの解釈は間違いだとか・・独善的な価値観ですよね
国語は大部分の人が感じる共通認識を理解する教科ってだけでしょう
それに沿わない解釈をしたとしても間違いとはいえないはずです
外国人が読んだらまた違う感想を得るだろうし
珍回答と決めつけて、一般常識がないと考えてしまうのも、ご都合な認知バイアスでしかないからね
ごんぎつねでの「大きな釜」「何かを煮ている」「ぐずぐず」という表現から「もしかして…?」と考えるのは分かります。そこが敢えて問われるのであれば尚更だと思います。
最近では低学年でもアニメや漫画に触れる機会が増え、私たちが子供だったころよりも展開の引き出しが増えたためにこのような想像をしたのではないでしょうか。
かちかち山ではおばあさんは殺されて煮られた。
最近になってアニメや漫画に触れる人が増えたのは大人の方がだろw
アニメは元々子供向けのコンテンツだろ
「ごんぎつね」の方は、何かを煮ているという描写がなぜあるのか、そして「何を煮ているのか?」という質問されたら、そこに何か重大な意味があるのではないかと勘ぐってしまう。子供に対してさほど意味のない描写を示してその意味を問うということがまずおかしい。質問者は何を知りたいのか?この質問にどういう意味があるのか?そこを考えてみるべきで、質問意図が不明な、ある意味とんちんかんな質問なのであって、それに対して子供たちがとんちんかんな答えを出すのは当然である。
「一つの花」の方は、「ゴミ捨て場のようなところに咲く」という情報が話の本筋とは関係なくて余分。これが子供たちを混乱させて勘ぐらせてしまう原因。「汚いゴミ捨て場から採ってきたコスモスがきれいな花畑に変貌する」これは物語をドラマチックにするための非論理的な演出であるので、それをどう解釈するかは受け手にゆだねられることなので正解はない。子供たちの解釈が間違っていると言うことはできない。
「おにぎりがない>花をあげた」この父親の行動も論理のつながりが明確ではないので多様な解釈を生むのはしかたがない。むしろ大人が想像もつかないユニークな解釈をした子供たちを褒めるべきではないか?
これを「子供たちの問題」だと考える方に問題があると思います。こういう曖昧な物に対して「正解」を求め、大人が望む解釈を押し付ける国語教育に問題がある
@@okimunet さん
その通りです。
国語教師は自分の用意した正解だけが正解とタカピーに押し付ける。あいまいな日本語は正確性説明力が乏しい。そもそも日本語には主語を省く文が美文という意識があり、主語が一文の途中で変わっていることもあります。それもOKといいうのが国語教師、試験問題で〇〇した主語は何かという試験問題はしばしばあります。
今はしりませんが、裁判の判決文は何行にもなる長文で句読点なしが名判決文と言われていました。主語が一つで専門用語を理解していれば正確性はありますが大衆には分からない権威主義が見て取れます。
正確に意思を伝える文の書き方は学校で習ったことありません。ビジネス文の書き方からすれば学校の国語教育は落第点。
@@okimunetほんとそれ
そもそもになるけど、「国語」というのは「日本語を正しく読むための授業」であって、その授業で「文学」という「解釈を楽しむもの」を取り上げるというのは矛盾してると思うのよ
なぜ教師は物語に正解があると思うんだろうね?
だったら村上春樹『海辺のカフカ』やジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』の「正解」を解説してみろよと思う
教育者のするべきことは、物語の「正解」という名の下に誰かの解釈を押し付けるのではなく、子供がそう読み取った理由を深掘りし、他者の解釈とすり合わせ、「物事には色々な受け取り方があり、それをむやみに否定してはいけない」と教えることだと思うわ
そしてそれは「国語」という科目の領分ではあり得ない、国語で文学作品を教えるのなんてやめちまえ
こんなことしてるから子供が本読まなくなるんだよ、自分の好きに物語を楽しめないなら小説なんて読んでも楽しくないよ
これはあくまで岡田斗司夫の話だけど、「わかっていて大喜利化している」とあって、
自分の小学校の頃を思い出したら、たしかにそんな心理やノリがあったなぁと納得した覚えがあります。
他に、先にコメントされている方で「わざわざ聞かれるということは普通の答えなはずがない。」という思考に触れていて、なるほどなと思いました。
11:33
精神疾患で通院中の学生です。
何が辛いのかを言語化しようと思っても、「とにかく全部がしんどい」「学校に行きたくないわけじゃない、どうにかして行きたいけど体が言うことを聞かない、を説明したいのに頭が働かない」「本当は伝えたいけどどうせ言ってもわかってもらえない」など色々な理由があるのに、出てくる言葉は『どうでもいい』『知らない』『なんとなく』になってしまうんです……
私は、本当は言語化したい思いが沢山あるのに、いざ面と向かって大人と話すとなると頭の中でたくさんの言葉が流れてきて、パンクしてしまいます。
そんなところに大人からまさに国語の授業のように勝手に「しんどくないでしょ」「そのくらい我慢できるはず」と筆者(私)の気持ちを決められてしまうんです。
自分でも「さあ?なんでこんなに辛いんだろう?」が一番伝えやすいんです、一番適切な答えが欲しいです…
ネットだと何度も書いて、消して、読み返して、追加して、削って…とできるからついネットでの関わりが多くなってしまいます。
とある塾が円周率を3と教えたことをメディアが誇張して伝えた結果「ゆとり教育では学校で円周率を3と教えてる」と誤った情報が拡散されて、ソースを確認しない大人たちが騙されてゆとりを見下していたことが過去にあった
この動画は当時のメディアと似たようなことをしてるのではないか。この動画で登場する事例はあまりにも少ないし、昔の子供との具体的な比較も存在しない。小中学生なんてどの世代も語彙力少なくて当たり前ですよ
話の本筋からそれますが…「円周率3が問題だ」とする意味がよく分かりませんでした。小数の量感が育っていない子にとっては、3.14はただの数字の羅列になり、計算はできるものの、円周は直径の約3倍という事実に気づけないでいる。恥ずかしながらかく言う私も、円周率の意味に気づいたのは大人になってからでした。
「一つの花」自分も小学生の時(昭和52年ごろかな)国語の授業で習ったね。
タイトルも内容もすっかり忘れていたけど戦時中の話で、「一つだけちょうだい」と女の子が言う所はずっと印象に残ってるわ。そして授業中に先生がこれを読み聞かせながら途中で泣き出したのが強く記憶に残ってて、もうそれだけでこの物語の言わんとする事が当時の生徒たちにしっかりと伝わったと思ってる。
今まさに、時を越えて思い出して涙があふれます。
日本の国語の教科書は優秀ですね‼️
「みかんの木の寺」では、(
実際のなっているミカンを嗅いだ事がなかったのですが、その折、本物とは違う強烈なミカンの香りが想像で漂いましたが....。)その香りが今まさに甦りました❗️
スーホの白い馬、スイミー、少年の日の思い出、くもの糸、羅生門などなど.... 今でも私の人生を形づくっていて、大切な事を教えてくれる想像の世界‼️
自分も国語の授業の時に、
「あ、こんな簡単な答えでいいの?」って思ってしまうほど、
問題に対して深読みしてしまうことはよくありました。
今、小学生だった自分の考え方を思い返して、言語してみると、
そもそも国語で扱うものはアニメや漫画と同じ、作り話orフィクションであるのだから、奇妙な解釈をしてもおかしくないと思っていました。
ごんぎつねで例えるなら、狐が罪滅ぼしするようなことなんてありえないんだから、鍋で死体を溶かすようなことが起こっても作り話だから大丈夫的なかんじ。
作者の意図とは違う、奇妙な解釈は、僕にとって、強引に辻褄が合っていればなんでもいいんだと思っていました。
だから
どこまでをフィクションとして捉えるのか、
どこまでを社会の常識として捉えて解釈するのかの判断が小学生の僕にとっては難しいと感じてしまったのではないかと思います。
話は変わりますが、
一つの花の方では、なんでも与えられて育っている子供にとって、作中の父親の立場に立つことは、そもそも人生の経験値的に難しいのではないかと思いました。
たしかに!
狐が罪滅ぼしするような世界観なら、カチカチ山みたいな昔話や童話と世界観が同じと思うのはあり得るかもしれません。
ババア汁?でしたか、かなり残酷な描写が有りましたよね。
目からうろこでした。
ごんぎつねの件、ここまで生徒と教師の立場で違いが現れると思ってなくて絶句したまさに「ヤバくて草」
小4なんだし火葬されることなんて大体の子供が知ってるに決まってんじゃんそれでも葬儀に立ち会った子なんてほとんどいないし班に分かれて全員の前で発表するって強迫観念に駆られて渋々出した答えってなんで先生側すら理解できてないのかね
戦争に関しても映像を見たり聞いたりする経験値が碌に勘定に入ってないのが見当違いも甚だしいでしょうよ
加えて言うなら「論理的じゃないから」だよオニギリを渡すお父さんの優しさまでは理解できるけどそこから渡したコスモスが最後に登場するシーンは解説されないと理解しないでしょ
この解説で共感してる人たちも山ほどいるみたいだけどじゃああなた達が江戸の古典文学を現代語訳されて当時の状況を理解できるのかみたいな次元になっててフェアじゃないわ
偉そうに高説垂れてるって思ってるかもしれんけどTwitterに同じこと書いたら絶対子供擁護派しかいないよそのぐらい大人と子供に溝があるってことを教師はそろそろ理解した方がいい
じゃないと不登校の子供と向き合っても無駄になるに決まってる
ごんぎつねも一本の花の話も家庭環境や親子関係の問題がありますね。
一本の花の妄想解釈は親子関係が壊れていて両親への信頼や愛情が欠けているからだと思います。
ごんぎつねに関しては、お婆さんの遺体を消毒したり溶かすというグロテスクで残酷な発想の背景には死体は汚いから処分したいという子供の残虐性のある無知と遺体に対する無自覚な蔑視があり、愛のない家庭で育っていることが背景にあると思います。
@@青の肖像 いやいやいやいや笑
過去の小学生がそんなに言葉の色彩豊かで機知に富んでいたとでも??
たかだか10年程度しか生きてない人間の性質がここ十数年だけで変化するわけないじゃん「チョベリバ」「チョベリグ」の論争から何も学んでないのかよ
物語最終盤でいきなりコスモスにスポットが当てられて「さて何故このコスモスは登場したでしょうか!!?」とか聞かれたら何かしらの理由を考えるのは当たり前でしょ
「家族関係が崩壊してる」とか「愛のない家庭で育ってる」とか答えられなかった理由を考えるのは悪いことじゃないけど我々が子供だった時でもこれらの答えをスッと出せる子なんてほとんどいないし暴力と根性論でねじ曲がった仁や孝行を由とする上の世代こそよっぽど家族関係が崩壊してると思うがね
ごんぎつねは、鍋で煮込む擬音が「ぐずぐず」ではなく「コトコト」だったら格段に正答率が上がると思う。料理描写で、その擬音を使われた経験はほとんどない。いわんや子供ならなおさらだろう。
そして、描写が現代から遠くなればなるほど、想像は難しくなる。今後先々の世代と同じ問題を比べても、時代が離れていくほどに正答率は下がるんじゃないかと思う。
なるほど!擬音による連想の変化は確かに盲点だったけど妙に納得。 時代が遠くなればなるほど理解度が落ちるのもおっしゃる通りだと思う。 子供達にとって昭和以前の物語はファンタジーでしかないからね
所見ですが、想像力が足りないから、言語が単純だから、ヤバイという考えは改めて欲しいと願います。教育など関係なく、それは人間の姿です。
人間が元々、ウー、アー、など単純な発声でコミュニケーションを取っていたと仮定すると、集団において複雑な会話を得意としないキャラクターが一定程度いた事は想像できます。
人間の歴史は30万年程前ですが、文字の起源は6000年程前です。つまり、インプット、アウトプットのうち、アウトプットの文字に関する表現は比較的新しいと言えます。しかも、環境によって(アイヌ語など)文字を使用していない言語も存在します。文字は支配、侵略の歴史なくしては語れません。ですから、教育がどれほど進んでも文字に親しまないタイプの人間がいることも想像できます。
現代社会に言語のインプット、アウトプットが必要なことは私も同意しますが、それがないとヤバイ(社会から外れる、困る、生きていけない)とまでは思いません。単純な伝達しかできない人は世の中にたくさんいます。そしてこの人たちなくしては私達の社会は成り立ちません。
文字が生まれて数千年、人間は環境に合わせて生活を変えていますが、人間の本質は変わっていません。ここ十数年かの身近な子供達との関係(教育)を頼りにヤバイというのは、それこそヤバイ考えなのではないかと思います。
個人的に、「ごんぎつね」も「一つの花」も意図が強すぎて好きではありません。特にごんぎつねは何度も教科書用に改訂されていて、原作の景色を感じられない作品になっています。その上、学習指導要領によって一定の答えを出すような授業になりがちです。
「兵十の母を消毒している」
「汚い花をゆみこに食べさせた」
それらは文科省の定めた指導要領の答えではありませんが、人間の考えの一つです。今を生きる人間そのものとも言えます。ヤバイ、ではなく、その意見をまず認めたうえで、社会性にそった教育をする方が良いと思います。
大人になってごんぎつねの全文を読み直しましたが、突然の大きな鍋はわかんないと思います。骨洗いを想像するのは個人的には有り得る想像力だと思いますし、葬式もほとんど業者仕事に移った現代では回答は難しいと思います。
同じ発想の人がいた。気持ちを想像しようにも、子供が全く経験したことのない状況を与えられて、「どんな気持ち?」とやられても、正解にはたどり着かないと思うんですよねえ。
私も同感です。ただ単純に知識や体験がないだけであって、子どもたちは持っている素養から十分考えうる答えを出したと思います。
子供が何かできない=能力の欠如、と直結して考えてしまうのは大人の悪い癖ですね…
余談ですが、スーパーマリオの開発者、宮本茂さんがおっしゃっていた「子供は馬鹿じゃない、知らないだけだ。そこを理解せず子供をナメて作ったものはヒットしない(要約)」という言葉を置いておきます。
問題文章の近辺を引用します。
「なんだろう、秋祭りかな。祭りなら、たいこやふえの音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりがたつはずだが。」
こんなことを考えながらやってきますと、いつのまにか、表に赤い井戸がある、兵十の家の前へ来ました。その小さな、こわれかけた家の中には、おおぜいの人が集まっていました。よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえています。
「ああ、そう式だ。」と、ごんは思いました。
「兵十の家のだれが死んだんだろう。」
(中略)
「ははん。死んだのは兵十のおっかあだ。」
ごんは、そう思いながら、頭をひっこめました。
その晩(ばん)、ごんは、穴の中で考えました。
「兵十のおっかあは、床(とこ)についていて、うなぎが食べたいといったにちがいない。それで兵十がはりきりあみを持ち出したんだ。ところが、わしがいたずらをして、うなぎを取って来てしまった。だから兵十は、おっかあにうなぎを食べさせることができなかった。そのままおっかあは、死んじゃったにちがいない。ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと思いながら、死んだんだろう。ちょっ、あんないたずらをしなければよかった。」
中略した部分は墓地までの参列者の装いや兵十の表情が記述されています。
その様子を見て母親が亡くなったと、ごんぎつねが想像を働かせるシーンです。
@@seiya6242 引用ありがとうございます。文章を読むに、ゴンから(読者からも)母親の遺体のありかが確認できる言い回しはないことがわかります。また、時代が違うこともあり、葬儀の方法も現代とは違う可能性も(実際は違うにせよ)あると思います。例えば「煮葬」みたいなものがあったりして。
子どもたちの結論は、大人たちの「アタリマエ」に囚われない豊かな発想のもと生み出されたように感じました。
岡田斗司夫って人が言ってた。ごんぎつねの件は、国語力の欠如ではなく、過激なミステリーの世界に慣れ過ぎてミスリードされてるってのが本質だと思う。
意味がわかると怖い話とか、サイコパス診断テストとかが小学生で流行る時代ならごんぎつねの読み違いも必然。
違うと思いますね。
過激度でいえば、いろいろと規制される現在より、野放しだった昔の方がもっとミスリードされておかしくなかったはずです。
雑談で盛り上がってあれこれ妄想することはあっても、“授業中の考察”で解答にすることはありませんでした。
国語力以前の問題ですね。
これもありそう。
ただ、創作と学校の国語力を問うテストを混同してるあたり、やはり国語力の欠如も大いに関係してそうだと思った。
「これは国語の時間で国語力を問う問題だからこう答えた方がいい」みたいなメタ認知はそもそも平均的な小学生には難しいんじゃないですかね、、、
それが能力の不足であり問題だという指摘なら理解できます。
石井氏の本に出てくる「ごんぎつね」や「一つの花」の授業における「珍回答」の話は、回答として一応発表できる―つまり妄想が膨らませられる―分、まだ優秀なのではないか。その物語文読解の授業がどのように始まり、どのように進行し、どのように収束していったかという全体像を描かずに、ショッキングだと筆者が思う事象だけを切り取るようなのは、アンフェアな例示ではなかろうか。学校が作品のコンテクストを踏まえた指導が出来ず、コンテクストを踏まえない「ごんぎつね」や「一つの花」の場面解釈をする子供たちを放置しているというのであれば、指導の質の低下として指弾されるべきであろうが。(実際、石井氏の本は学校の指導力だの家庭の教育力だのネットの功罪だのを掲げて読み手を「読解力低下」の幻想にからめとろうとし、日本女子大学附属だの開智学園だのをヨイショするのだけれど。)
本当に読解力がない人は、「さあ?」「わかんない」で終わり、読解をする気のない人は「そんなの当事者に聞かなきゃわからないことだから、ノーコメントです。」「そんなの人それぞれでしょう」などと言う。
「エグい」「ヤバい」「ウザい」(これを「三文字語」と言おう。)というボキャブラリーの少なさの問題に関しては、私自身は別の印象を持っている。
確かに、サトマイ氏が言うように、いわゆる「ボキャ貧」で詰む人もいるのだろうが、そういう人たちだけだろうか、と考える。
この三文字語に多様な用途や意味を含ませ、本当は何を意味するのか分からないように使うことで、相手の出方をうかがい、相手の思考パターンや出自のようなものを観察的に調べ上げ、挙句には相手をコントロールしようとしているのではないか。「お前ヤバいやつだなー。まじでヤベー、はんぱなくヤベーわ」という発言で、相手が気分を良くしたら、「こいつは『ヤバい』を誉め言葉ととる人種だ。褒め殺せばホイホイついて来るわ」と、御し方を見つけ、相手がチョンボして落ちぶれると、仲間に「な?言っただろう?アイツはヤバいって」といって、切り捨てに走る。三文字語は意味を自由自在に切り替えることができるので、のらりくらりと出来る。ボキャブラリーをわざと減らし、そのボキャブラリーに真逆の意味すら乗せることで、相手を自分のペースに引き込んだり、相手を挑発して暴力を振るわせて周囲の人に「蛮族」のレッテルを貼ったり、自由自在にやっている人は確かにいる。三文字語を好んで使う人の中には、読解力が低下しているのではなく、高い読解力で駆け引きしたり、読解力の劣る相手をハメたりして楽しんでいる人も混在するというのが実際かと。
狡猾な三文字語利用者にいいように使い捨てにされないための自衛として見れば、サトマイ氏の結論は腑に落ちる。
が、支配エリートの座にふんぞり返りたい人にとって、相手が馬鹿でいることは、このうえなく都合が良い。
コメントを見た中でも、三文字語を使って相手をコントロールしようとしている、駆け引きをしている、なんて考えは初めて見た。
とても読んでいて面白い考えと文章、もっと伸びるべき。
ごんぎつねは、題材も悪いんじゃない?今の時代に無い描写ばかりだから、子供たちにとってはファンタジーそのもの。そんなファンタジーの世界の物語の人々が何をしようとしてるかなんて、中々“正解を当てる”ことはできないでしょ。想像力はあるじゃん。死体を煮てるって、大人より想像豊でしょ。
子供の目線に立てない大人の方が、想像力の欠如を起こしてるんじゃないの?だから、想像力豊かな子供に対して「想像力の欠如」なんて言い放つんだと思う。
同感
近所のおばちゃんが集まってなにかをぐつぐつ似ている葬式に参加したことのある小学生がどのくらいいるのか疑問。何の経験も予備知識も無しにいきなりそんな質問されて手がかりなしに一生懸命想像した結果をボロカスに否定される生徒が可哀想。
やり方を教えてもらえないとできるわけないと開き直るタイプの人だな。人生詰むよ。
この動画のどこが「確率・統計」なのだろう?そして、どこが何の「処方箋」なのか分からない。俺がバカなだけかな?そんなことはないと思うけど。
この動画は非常に一方的で、子どもの立場に立って考えない、それこそ想像力の欠如した内容。最初の「ごんぎつね」の例は、現代の常識的な家庭に育った令和を生きる子どもたちなら、そもそも葬儀で「女たちが集まって食事を作る」という古めかしい男尊女卑な光景とその表現が異様に映るはず。そのような「変わった慣習のある村」という場でなら、「母を煮て溶かす」という異様な事をしてそう、と考えたとしても全くおかしくない。ちなみに「死体を消毒」の方は、何がグロテスクなのかとすら思っていそう。コロナ死の遺体も当たり前な時代、消毒しようとするのもむしろ合理的。「アニメやゲームのグロテスクな描写から推論したのでは」とは、あまりに唐突過ぎる。これまでの話の一体どこからアニメやゲームが出てきたのか。それこそ「根拠のない妄想」。(一昔前の手塚治虫の漫画にも人が溶けたり火だるまになる残酷な描写は多くある。)
子どもをバカにする教育者気取りの人間、あるいは子育てに疲れた保護者が、手っ取り早い悪者をアニメやゲームに求めているとしか思えない。
三人の男子の話は、「ヤバい」「エグい」「ウザい」という語に問題があるというより、そもそもこの三人は「死ね」と平気で言い合っていて元々仲はあまり良くないと考えていい。昔なら言葉の代わりに殴り合いまたは小突き合いになっていたのが、「パンチ」が「ウザい」に変換されむしろ言語化されている。根本的に問題が違う。パンチに種類(語彙)は要らない。
また、これらの語彙+「エモい」が多用されるようになった理由として、「語彙力豊富に語る奴は、まるで自分が頭がいいと言わんばかりで気取っていて鼻につく」と嫌われる傾向にあるからというのが大きい。特にLINEが普及した今、長文を送ると迷惑だし変人認定される。周囲の顔色をうかがわなければ、あっという間に干されてしまう現代の若者の生きづらさがそもそもの問題だとも思う。
不登校の問題に関してが一番ひどいと思った。不登校の原因を「不登校になるほどの問題を抱えた生徒」が滔々と自分の言葉でハッキリと説明できるとでも?大人ですら追い詰められたら相談もできず自死する人が溢れているのに?
話すどころか思い出すのも嫌なほどのイジメ、プライベートでデリケートな家庭の事情、親兄弟にすら話しにくい体調の問題、などなど…それらをさほど信頼もしていない、それどころか不登校になるまで放置した教師に、話してくれると?
さらに「なんとなくじゃこちらも手の差し伸べようがありませんよね」と当たり前のように言っていたのが怖かった。
なんとなくで学校に行きたくなかろうと、いくらでも手は差し伸べられる。やりたいこと・興味のあることに存分に触れさせてあげればいい。言語化できるまでずっと寄り添ってあげるのが教育者の責務。学校に行かず、グループに馴染めず、なおさら読解力やコミュニケーション力が衰えてしまった子に、「理由を分かりやすくハッキリ説明しなさい!」と詰め寄ると言うのか。理由なんかはっきり説明できなくていい。まず休むことが最優先。
「今は学校に行きたくないなら行かなくていいという風潮もあり」「無理に行かせるのも問題視される時代」とわずかに呆れが滲むように言うのを見て驚いた。無理に行かせるのが問題でなくてなんなのか。「ヤバい」。
あえて釣れてやろう。
三行でまとめろ。出直し来い。
@@KASHIMA-jg3rx
最も重要な二点を二行でまとめます。
・葬儀の例は現代の常識と乖離がみられ、小学生の常識が無いとは言えない。
・「不登校の理由を説明できない子は助けられない」という発言は不適切。
長文を読みたくないとは、大人の読解力不足は思ったより深刻なようです。脱字を直して、出直して来てください。
@@雨明日香すまん。謝る。
日本語が 通じないお人だったか・・・。
@@KASHIMA-jg3rx ずっと失礼かつ中身のない言葉ではぐらかしてますね。批判的コメントを釣りだかアンチだかと決めつけるだけの、議論する気の無い(できない)お人でしたか…。反論があれば普通に言えばいいのに。
まとめろと言うからわざわざまとめたのに、時間を返してほしい。
正直これに関しては、「裏をかいた回答をした方が面白いであろう」「普通の回答したらつまらないであろう」という気持ちが混じっているかどうかが本人しか分からない…。
ただこういう事をしだすのは今までは中学二年生ぐらいだったのでネットのおかげでそれが早まってるかも(謎考察)
去年中学生だった身として考えるとそもそも根本から違うんだよな。最近は受験生が増えてきてるから小学校で真面目に勉強するのが馬鹿らしく思えてくるんだよ、だからいかに授業でふざけるか、遊べるかって考えになってるんだよね。その結果望まれた回答を避け大喜利みたいになっておもしろいと感じる方向に走ってくんですよ。だからそんな真面目に過ごす必要のない学校ではどれだけ短い時間内に多くの友人と交流出来るかが大切なんだよ。そういう体制をとってる輪の中でいきなりヤバいとかの簡単な単語じゃなくて具体的な話を話してくる奴ならそいつは自分を押し付けてくる知的障害だって思われる
ごんぎつねで何を作っていたのでしょう?という設問自体、あまり筋の良い問題ではない気がしますけど…
料理!と読み取れたから何?としか思えない…
ごんぎつねのは問題が悪いと思う、鍋の中身なんて物語の本筋に関係してこないのに問題に出すってことは何か裏があるのか?って考えたにすぎないと思うからむしろ想像力豊か
今の子供がおかしくなったわけじゃなくてそういう時代に生まれてきただけなんじゃないかな
そうなんですよね
そもそも現代じゃやらない風習だったりするから知らない子達がいてもおかしくないと思う
@@maramaramanya おせちももう買ってくるものって常識になってますからね
講師職をしています。
心理描写や行動の意図が描かれていない箇所を問いにするのはおかしいと思います。そもそも問いが意味不明なら、解答も意味不明になるのでは。
物語は情景描写、心理描写がなによりも大切なので、ごんぎつねに関してはあきらかに作った問い人がおかしいです。狙いがわかりません。
なぜそこを問うたのか、という疑問はありますよね。ただし、だからと言っておばあさんの死体を消毒している、と答えるのもちょっと…。
正直国語の授業が悪い気がする
物語の本筋との関連性が低く、なおかつ客観的に正解が絞れる質問をグループを組んで答えを出し合う授業に意味があるのか疑問
撃たれたごんはどんな気持ちだっただろうか、みたいな正解のない問題ならやる意義あるだろうが
おまけに間違った答えを出した生徒にちゃんと理解を促してるのかも疑わしい
低レベルの論理構造からちゃんと教えるということをせずにいい加減な国語教育をしてることにも問題があると思う
語彙力の低下は無視できない問題ですね。私は中学生ですが、周囲の会話に突っ込みたくなることが多々あります。理由は間違いなくスマートフォンの影響でしょう。これ1台だけで1日は潰すことができます。どこでも持ち歩けるとても便利な娯楽ですし、読書離れが加速するのも頷けます。加えてテレビ世代が親になったことも関係しているように思います。
しかし、②の男子中学生の会話ですが、あれは全く一般的ではありません。私の学年は定期テストで合計点の平均が300点にも届いたことがないほど学力が低いですが、それでもあのような会話はほとんど見かけません。あのような会話を展開するのは一部の一軍くらいです。先ほど周囲の会話に突っ込みたくなることが多々あると言いましたが、ここまで落ちぶれているわけではありません。
「ごんぎつね」も「一つの花」も、根底にあるのは基礎となる情報不足じゃないでしょうか。「ごんぎつね」については、人が亡くなったら、近所の人が助け合いながら葬儀をするという風習があった(今は余程の田舎でなければない)という情報が欠如しているので、「なにを煮ているのでしょう」は読解力以前の問題として推測ができないのかもしれません。そもそも質問がずれています。そこ重要でしょうか。子供たちは聞かれた以上、なにか重要なことが隠されていると思うでしょう。で、「なにか」と思わせぶりな表現を用いながら、葬儀で振舞う汁ものというなんでもない答えには行きつかないように感じます。
「一つの花」も同様です。戦時中は食べたくてもお腹いっぱい食べられない貧しさがありました。現代の子は、それを肌感覚として理解できないのですよ。「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と同じ発想だと思うのです。
そういう大人たちも、普通という言葉を多用して
「子供たちが物語を読み解き想像するだけの知識を持っていないかもしれない」
という想像力が欠けたヤバい状態になっていませんか?
お婆さんの死体を鍋で煮る事が残酷で死者を侮辱するとわからない小学生は異常ですよ。
@@青の肖像ごんぎつね自体の作中年代が結構前だから、「かつての日本で死者がそのように弔われていた」と解釈をすることは特に歴史への知見が浅い小学生ならそこまで違和感のあることだとは思わないな
@@青の肖像 古代エジプトのミイラ作成の手法、チベットの鳥葬、インドの水葬などの知識を持った小学生なら、時代が違えば「死者の侮辱」にあたらないのかもと考えてもおかしくはない。特にミイラ作成、鳥葬は現代の日本人の感覚からすると死体損壊でしかないが、彼らには普通のことである。
@@青の肖像 別に現実世界でそんな発想する小学生はほぼいないでしょう。ごんぎつねってファンタジーやん
@@himmamamamjinその可能性を否定はしないけど、突拍子もない答えである、という認識は持っていた方がいいと思う。
少し本題からずれるかも知れませんが、私は日本語教師の職も始めて、最近の日本の子供たちの言語化力の低下を少なからず嘆いている1人だという意識があったのですが、最近の日本で様々な技能を習得して日本で生活していこうという覚悟がある外国人は本当に鋭い質問をしてきますね💦
例えば、「就職にあたって大切なこと」「就職において大切なこと」「就職の際に大切なこと」「就職の上で大切なこと」という言葉の微妙な違い、使用場面の違いを明確に教えてほしいと言ってきます。
今回の動画の主旨とはズレてるかと思いますが、私自身も日本語の使用場面や状況に応じて上記のような表現の使い分けをしっかりと説明できるようにしなければと思っている今日この頃です。
なんかずれたコメントで申し訳ありません。
ずれついでに素人の説明 例示の「就職」の位置には何らかの行動が入る。「にあ(当)たって(a1)」と「の際に(a2)」は同じ意味・入れ替え可能だが、a1の方が切迫感がある。「において(d1)」と「の上で(d2)」は同じ意味・入れ替え可能だが、d2の方が役人言葉っぽい。助詞「に」と「の」の違いは続く品詞が動詞か名詞かの違いなので、「✕のあたって」とか、「✕に上で」は言えない。
a系とd系で違うのは、a系は行動以前に使う表現で、時期を外すと後の祭り。d系は行動前でも後でも一般論としても使える。aはat、dはduring。
【例】
以下はいずれも可能だが「勉強」の内容は異なる。a系は普通の勉強、d1は試験で新しい発見があった。d2は何を言ってるのかわからないが、試験制度について何か見つけたかもしれない。
(a1)試験にあたって勉強したこと (d1)試験において勉強したこと (a2)試験の際に勉強したこと (d2)試験の上で勉強したこと
以下も代替可能だが、a1は出かける前に寝てるが、d1は行ってから寝てる。だがa2はどっちでもない? d2は意味不明
(a1)釣りにあたって昼寝 (d1)釣りにおいて昼寝 (a2)釣りの際に昼寝 (d2)釣りの上で昼寝
日本語に関心の高い人たちの指摘には驚きますよね。目から鱗がぽろぽろw
ひょっとしたら子どもたちには海外交流も良いかも知れませんね。
日本人は「曖昧なものを曖昧なままなんとなく汲み取れてしまう」タイプが多いですが、多文化の中ではそんなことは通用しませんから。
@@torotorotonarino9652 面白い考察ですね。
ひとまず品詞は考えずに意味的な視点から。
a1)「にあたって」
a2)「の際に」
これらが入替可能に感じ、かつ a1 に切迫感があるのは言葉そのものの意味から考えればおっしゃる通りですね。
イメージ的には「物事に直面、対面している」状況での「当たって」「際して」なので、挑んでいる状態と言っても良いかも知れません。
そして「際して」のそもそもの意味が「きわ」や「はし」「限界点」にある状態。つまり「崖の際」のように「さて、どうしたものか」と直面してはいるけれど、クマに対面するような緊急性がないんですよね。
なのでおっしゃる通り a1 の方が切迫感があるのだと思います。
b1)「において」
b2)「の上で」
これらの他には「の場合に」「のときに」「の折に」になんてのもありますが、「の上で」はちょっと意味が異なりますね。
例えば「ご確認の上で」と「ご確認において」は全く意味が違うんですよね。
「ご確認の上で」は「確認してから」の意味になってしまうので入れ替えできない。そもそも「上」なので「上下の順序」がある訳です。なので入れ替えは不能で、もし「ご確認においては」を言い換えるなら「上で」よりも「ご確認の中で」の方がまだ近いですね。
もちろん微妙に違いますし、耳になじまない不思議な感覚にもなります(笑)素直に「の場合に」を使いましょうってなもんで。
さらに「おいて」は「皆様におかれましては」なんて常套句もありますが……。
まあ、もともと日本語は極めて粒度が高いんですよね。
こんな「状況を限定する言葉」ですら山のようにあってそれぞれ微妙に意味が違う。それだけ心の機微が豊かだったんでしょうが現代人は理解するのも一苦労でして、それらの「違い」の意義自体を失いつつある、と。非常に残念ですね。
@@OrangeCamus お返事痛みいる。たしかに「就職『の上で』大切なこと」で使われている「の上で」と、「ご確認『の上で』」の「の上で」は、たまたま同じ文字列が使われているだけで辞書なら別に項目が立つほど違う言葉だと思う。逆になんで同じでいいのか不思議な感じがする。誤用はじまりかもしれない。用例史(なんて言葉があるのか知らないけど)などが生成AIでさっとでてくるようになれば暇つぶしには最高。書きっぷりは、オレのバイブル、柴田武「言葉の意味」のまねw 大先生のマネは素人でもむちゃくちゃ応用が効いて楽しい。
日本語は細かい粒度での言葉が多数あり難しいものって海外では言われていて、
そういう認識から日本を学んでいるからそういった学生は根本的に高い意識を持ってるのかもしれないですね。
どちらかというとSNSとかは海外的なフランクなコミュニケーションを主としてるから日本の若者の平均的な意識とは真逆の意識って印象です。
ただ日本もネットであらゆる情報を得られる時代だから昔より深い思考ができる子供も増えているのではと思っています。
日本ではコミュニケーションの能力格差が更に生まれてる可能性があるのかもしれないです。
その格差って大人になれば社会的な格差に直結するから成功者と没落者の格差が更に広がりそうな気はしています。
コンテンツを選択できるタイパの時代だからこその悲しい現実かと。
誰かが先導してあげないとずっと階段を登ってこない子も増えそうです。
短い言葉で通じ合える空気感を築けているのはむしろ感心する。
仕事でも同じ調子じゃ困るけど、まだ中学生でこれから成熟していくだろうし、本だけ読んでる内向的なタイプよりも成功することだってあるだろう。
この動画を見て「若者って馬鹿なんだな」で済ますのが一番良くない。
人を見下している心は大抵見透かされるものだよ。
これは小学生にきちんと国語(勉強)を教えたことがある人間なら体験したことがあることです。
例えば、よくある手法として、短い文章を読んでその状況を絵で表すという課題を与えると、とんでもない絵が描かれることが良くあります。
小学生の認知能力は、皆さんが考えているよりも、遥かに低いです。
それが「普通」です。
算数の文章題を式で表すことも、「普通」の子は同様に出来ません。
「足す」のか「引く」のか「かける」のか「割る」のかといった「状況」を捉えて判断することが出来ない。
年齢とともに出来るようになっていく生徒さんもいますが、20%~25%の生徒さんは、やはり認知能力に問題を抱えたまま生きていくことになります。
それが本当の意味での「多様性」ですよね。
この想像力の欠如は、最近になって出だしたのではなく、昔から小学生はこんなもんって事でしょうか?
@@furusatonotkokyou
その通りです。
昔は、挙手、グループ発表、アクティブラーニングなどの手法は採られていませんでした。
これらの手法によって、可視化されただけだということです。
重大犯罪の件数などと同じ話ですね。
言葉足らずのところを補って頂き、ありがとうございます。
普通はできるんだよ認知能力が低いとか言ってるけど
今の子供はそこまで馬鹿じゃない
習った事ならある程度は出来るんだよ
とんでもないとかは先生とかの考えで
今の子はアニメとか見て想像力が豊かなんだよ
昔と同じにすんなよ
@@日本語いけんじゃ
現場を知らない人間が無責任なことを言うな、と言いたい。
「普通」ってなんだ?
出来ない子は「異常」だって言うのか?
もう少し世の中のことを知るべきだね。
@@ks-el8cr まあ君と自分だと行っているところが
違うけど少なくともこっちではできるのが普通
出来ないのが異常ではあるよそれがだめとは
言わないけど
お葬式にでたことがない小学生に何をしているのでしょうと聞いてもしょうがないと思いますけどね。
お葬式ではこういう風習がありますとか教えてあげればいいのではないのでしょうか。無知、経験がない子供を大人が嘲笑っているようで嫌ですね。
常識があればわかるだととか言う方もいるかもしれませんが、常識と言うのは経験を得て身に着けていくものです。
鍋の中身はどうでもいいので質問は無意味だけども、お婆さんを鍋で煮るという回答をグループワークで出してしまう子供に異常性を感じる。
お婆さんの遺体を消毒したり溶かすというグロテスクで残酷な発想の背景には死体は汚いから処分したいという子供の残虐性のある無知と遺体に対する無自覚な蔑視があり、愛のない家庭で育っていることが背景にあると思います。
これ多分、価値観の多様化の影響だと思う。知識の共通基盤がなくなってるから、解釈に幅が出てきてるのかも。
試しにごんぎつねの原文を読み返してみたけど、文中だけの情報だと「死体を消毒」の可能性は否定できないかもと思った。
例えば、文中の時系列からすると、この葬儀は死後最大10日経ってから行われている可能性がある。その場合、母の死体は腐食し始めている可能性が高い。ネットでちょっと調べたところ、死後3日で融解/腐敗が始まっていて、1週間も経っていると異臭を放つくらいには危険な状態にあるみたい。
だとすると、その状態で葬儀を執り行うのは危ないことは村の人物にもわかるだろうから、「この村には宗教的に『骨にしてから葬儀をする』という文化があって、そのために死体を煮込む/溶かして骨にしている」と推察することもできる。※「そとゆきの服=そのための宗教的正装」の解釈もできるし(ごんの主観としての描写だから)。
つまり、この原文だけだと、意味が「食事を作っていること」には一意に決まらない。※人情的にはそう解釈したいという気持ちは分かるが、「すべき」とまでは言えないと思う。
仮に「一般常識からわかるでしょ」と言うとしても、常識という概念はソーシャルやコミュニティによって異なるものだから、子どもは「それ先に言えよ」とか「なんでそれ言ってくれないんだよ」ってなると思う。
つまり、一意に情報を絞って解釈してもらいたいなら「どの国のどの時代のどの常識を参照すべきか」を原文の前に明示すべきだと思う。
たとえ事実だとしてもサムネの表現が攻撃的過ぎる。
現代の子どもたちに恨みでもあるんですかね。
5:51 行間から父親の気持ちを想像すれば、お腹を空かせている娘を不憫に思い、せめてコスモスでも渡してあげよう。と愛情を感じるシーンだと読み取る話。
ポジティブな想像は行間を読むと表現し、ネガティブな想像は妄想で想像力の欠如とするのは、それこそ視野が狭いのではないか。
小学生が低学年か高学年かでも知能レベルは全く異なるのに小学生というアバウトな表現で誤魔化しているところも気になるところ。
保育園や幼稚園あがりの低学年であれば、戦争や兵士という概念もピンとこない可能性はあり、貧しいとか裕福という概念も関心がある年頃ではないと思う。
高学年であればそれらの情報をすべて把握できているのでポジティブな想像力で話を理解できるかもしれないが、
もし僕が小学生1年生くらいであれば珍回答をする自信がある。
思い返せば、個人的に「受験勉強の一環としてやった評論文の要約」の訓練が読解力向上に一番役に立った感覚があります。アウトプットの訓練が逆にインプット能力の向上に繋がるというのは面白いですね。
なんで親からコスモス渡されただけで親がどういう気持ちだったか考えられる能力があるのに
不登校の子が学校に行きたくない理由を言えない理由が考えられないんだよ
様々な要因があるからだろ
要は自分に置き換えて考えられるかどうか、ってところだと思います。
様々な要因があるにせよ、本人すらわかっていない(言葉にしない、できない)その要因がわからなければ考えることはできたとしても本当の答えには辿り着けません。
例えばここ3日の生活状況を知らない人に「お腹すいた?」と訊いて「わからない」と答えられて、あなたは実際にこの人がどうなのかわかりますか?
@@ぬけ-n1i
私も自分に置き換えて考えられるかどうか
がポイントだと思います。
「お腹すいた?」と訊かれて「わからない」
の理由が、「まだすいていない」という意味なのか、
「答えたくない」なのかは、それこそ国語の「作者の気持ちを答えなさい」と同じではないかと私は思います。
どういう関係で、相手がどういう人か、そこから予測するのが国語力だと私は考えます。
出会った言葉で人格が形成されていく、これは本当にその通りなんだと思います。
本当に色んな言葉に支えられて生きて来れたと思います。
残念ながら、相当な読書家の最低な上司を知っているので、言葉に出会っただけでは人間は形成できないことを知っています。
言葉に出会っても、正しく受け止める能力がないと正しい人格が形成されないものと信じています。
その上司が反面教師になって、自分は正しく受け止めようと努力しているつもりですが、実が伴っているかはなんとも。
@@ttomm1345
なるほど受け取る心が無ければですね
その人は本を読んでいても言葉を受け取っていないのかもしれませんね
知識はあっても活かせないみたいな?
言葉に出会ってない、通りすがっただけと考えるのはどうでしょう?
少し考えが短絡的かもしれませんが
@@アルバ-h1e そうなんだよね。 動画主は『くそヤバ・まじヤバ・ヤバい』の3つを『ヤバい』の1つに集約してしまう。
自分が判らない言葉に出会った時に『面倒くさがってひとまとめにして考察しようとしてしまう人格』は、
効率化とか合理的・性などの言葉によって培われたのだろうね。
「なぜ、ヤバいにくそをつけたのか? まじをつけたのか?」や
「ヤバいに対してのエグいはどういう意図があったのか?」を受け止めようとはしなくなったりするようになりますな。
@@user-NoP11201
何かそんなニュースは見た気はしますが
内容は記憶してません
「言の葉」ってそういうことなのかもしれませんね。
葉の色や形が違うと、一つ一つは些細な違いでも全体を見た時にその木の見た目、下手すりゃ性質まで変わると思いますし…🤔
言葉ってある意味、窓口なのかもしれませんね
同級生がごんぎつねのセリフの問題で
「ごん…○○○だったのか」
ってところを
「ごん…お前栗だったのか」
って書いてて面白かったなぁ
なんかたぬきが化ける別の話と混同してるw
たった一つや2つの事例を待ってましたとばかりに、問題化すること自体が問題ですね。
確かに子供たちの読解力、想像力は落ちているけど…同時に教える側の大人たちも同じだと思う。
私は小学校の時学校大嫌いで勉強も大嫌いだったけど唯一の救いは道徳の時間や国語の読みだった。答えが1つじゃないことに救われて面白さを感じた。
落ちてないよどっちかと言えば
ごんぎつねならわざわざ聞くって事は
変な答えがあんのか?勘ぐってそれを
答えとして出してるだけ
そもそもそこまでの理由を言わずに
はい想像力足りないとかはどうなん?
昔に比べて共感力や読解力が欠如した子供が増えているかどうかは断言できないよね。私は、以前もこういうちょっと足りない子供って結構いたと思う。
ほんそれ。
統計が苦手な人って、何となくの雰囲気や自分ひとりの感覚だけで勝手に大きい主語の問題を矮小化・単純化して考えちゃうんだよね。
子供の数が減った&子供ひとりひとりにきちんと目を配れるようになった、それでこういった珍回答する子に注目が向けられ背景についてあれこれ想像を巡らせてしまうのでは?
昔だったら「アホな子だなぁwwww」で終わり
自分が考えていることを書き出してそれぞれがどう繋がっているのかを論理的に考えるのは良いトレーニングになります。
①の話題ですが、そもそも昔は、いわゆる常識的ではない回答をする子はいなかった、少なかったのか?今は多いのか?
単なる一事例を挙げたところで、説得力を感じません。
「戦争はみんな未経験」と一括りにしてしまうのも短絡的すぎると思います。数十年の間に時代は大きく変わっています。同じ未経験の中にも大きな差があるし、逆に経験していることも大きな差があります。
大学の先生や校長先生ともあろう方なら、そのくらい想像して読み解くことができそうですが…
これも一つの「今の若者は…」に感じてしまいます。
鍋で何を煮ているでしょうか じゃねえよ
その質問が馬鹿すぎるだろうが
何を煮ているでしょうか→なにかを煮ている
と文章に書いてありますよ
また、文章を正確に読むのなら
ごんは 兵十と母親に対して申し訳ないことをしたと考えたから
お詫びの品を届けたのかもしれない
兵十は ごんを撃ったことを後悔して
生き残った他のキツネたちにお詫びの品を届けるかもしれない
とかそういうのが読解じゃないでしょうか
鍋で何を煮てるのでしょうか は 読解じゃなくてクイズだからな。
小四で 葬儀の経験が少ないかもしれない背景や
現代の葬儀では 大きな鍋でなにかを煮たりしないかもしれないなどの時代背景
などを想像つかないあたり 教育者として 想像力に欠けてると言わざるを得ない
ただでさえ「先生がわざわざ訊く」というバイアスで深読みしがちなのに、「鍋で何を煮ているか」という質問自体にあまり意味が無いような気がする。
話の筋にも関係が無い。
大人も「読解力」と「語彙力」が低い方は意外と多いですよ。
塾講師をしていましたが、最近の子供が何考えてるかわからない大人たちばかりが騒ぐんですよね。
今の子供たちのほうが今の大人にはない発想力と想像力もった子供がたくさんいます。おばあさんを消毒してるってのも面白い解釈だなと面白いと思うのに、なぜ槍玉にあげられるのかわからないです。
なぜ槍玉にあげられるかわからないあなたが怖いです。空気読めない人ですか?
ご遺体を鍋で煮て消毒したり溶かすというグロテスクで残酷な発想の背景には死体は汚いから処分したいという子供らしくない残虐性や遺体に対する無自覚な蔑視があるのに気がつきませんか? それでも面白いですか?
「ごんぎつね」も「一つの花」も、スマホがある現代の子供たちには相応しくない題材。
題材(内容)が近隣で助け合う時代や、戦争の時には当たり前の生活習慣のものでは、想像すらできない。
主だって、アフリカの原住民にとってはありふれた生活の一部を題材にされたら「読解力や想像力」だけでは無理だろう。
ごんぎつねの鍋の中身の質問は正直質問が悪いと感じるなぁ
動画でおっしゃっていたように葬儀で料理を準備するという事前知識が必要であること、狐であるゴン目線ゆえに鍋の中身を「なにか」と表現していることに気付く必要があること、わざわざ質問されていることで「なにか」が料理でない可能性について考えさせてしまってること
ふざけて回答していると思われている小学生がかわいそうだ
小学生のごんぎつね誤読の件、去年も話題になってたはずなんだが
なんで1年経った今頃になってメディアが再燃させようとしてるのか気になる
ちなみに、名作とされてる作品を捕まえて批判するのも気が引けるが、
そもそも「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていた」なんて表現を使うこと自体が疑問だ
葬儀で大鍋で料理を作るのが当たり前の時代だったとしても、それが何かストーリーに影響するわけでもないのに
如何にも重要な何かがありげな書き方をするのは、「チェーホフの銃」のルールに従えばアウトだろう
先生「大きな鍋で煮ているのは何でしょう?」
大人「はい✋!!煮物などの料理だと思います!」
小4「あいつヤバw(そんな当たり前のこと問題にするわけねえだろww)」
先生「正解!!」
小4「。。。(学校行くのやめよ)」
愛情を感じる心とか、子供らしい優しさ、とかじゃなくて、猜疑心の方が早く身に付いてしまっていると感じます。🤱
葬儀の家で何を煮ているのか……という質問自体が既にズレていますね。意味有りげな問いには余計な意味を見出してしまうのは大人にも共通しています。子供の問題ではない様に思います
その様に思います。質問をするからには何か特別な意味合いがあるのでは?と考えるのは自然か事かと。加えて、この様な物語のテンプレートを知っているか否かによって変わって来るのかと思います。過激な回答に偏ったのは、昨今の子供が触れるゲームアニメの物語では奇をてらった展開が多く、その知識に偏った回答になったのでは?と思いました。
おっさんになった今であれば、ごんぎつねや一つの花の内容はすべて理解できますが、
小学生の頃に一つ一つの描写を見てすべて理解できたかと言われると、
多分できなかったのではないかと思います。
最近よく思うのは、今の教育は分不相応な年齢の相手に対して、過剰な要求をしているようにも感じます。
小中の教育に関しては特に、理数系学問以外、どこか形式的に答えを出しており、本質を理解をしておらず、
大人になって、たくさんの映画やゲーム、物語やニュースなどの情報に触れて、
分相応の人生経験をした上で改めて見てみると納得したり理解が深まったりするような内容が多い気がします。
文系教育に関しては、その内容があまりにも大人の自己満足に近い側面があるのではないかと感じます。
若者の読解力、語彙力の低下って昔から言われてませんでしたっけ?それこそサトマイさんが子供の頃くらいから。
メソポタミアの粘土板から
この"問題"は本当に読解力の話なのかと疑問に思う。
ごんぎつねの元の文章を読むと漢字が少なく平仮名ばかりで読みにくい上にあまりにも背景となる情報量が少なく、これは日本文の読解力の問題ではなく社会の授業の問題と思える。
あまりにも時代が違うのに判断する為の情報が圧倒的に足りない。
そして問題提起した著書を読んだがそういう解釈に到った理由を適切に調べたとは言い難く到底科学的な物言いとは言えない代物だった。
日本語はそうでなくても文脈に依存する言語。なのに正解となる解釈理解に必要な情報量が足りない可能性を十分吟味していない主張にどれほどの価値があるのか甚だ疑問。
必要な判断材料となる情報が無くても、文章内の情報だけでで短い授業時間内で察しろとか、エスパーになれと言っているに等しいと思う。
例えば別の文章にもそれは言え、"かみをすいて"は"髪を梳いて"なのか"紙を漉いて"なのか確定的判断するには物語の背景となる当時の社会についての知識がいる。
狐に人格を与えて人間を客観的に見ればゴンがそう思うのも無理は無いですよね。人間は残酷ですから。また人格を与えず動物としての視線で見ても他人に食料を分け与えてコミュニティを作ってるのは珍しいので料理しているって発想にはなりにくいですから。最近の子供達はとても深く考えていて素晴らしいですね。
ひとつの花 でも現代と過去の法律の執行力の状況を鑑みて盗みと判断するのは非常に常識のある回答ですね。また、父親が単純な無意味な優しさではなく、ゆみ子に働き方、生きる道を示したという考えも感動的です。
少ない語彙で会話が成立するのも、1つの単語でさまざまな意味をもたせて会話ができるというのはコミュニケーション能力が圧倒的に高いことを意味してます。
自分の機嫌をコントロールするために、負の感情を持った時に何故そう感じたのか、何が原因だったのかを最近考えるようになってたんですが、感情の言語化ってやっぱり大事なんだなと改めて感じました。気づかせてくれる動画ありがたいです。
10年くらい海外にいたんですが、帰国後
学生の、うざい、死ね、とかの罵倒発言が多すぎてビックリした。
スマホの普及のせいかと思ってたけど、言語化力と想像力の欠如が影響してるんですね。
学生に限らず、日本はクレームがめっちゃ多い国なんだけど・・・
日本の未来が心配になりました。
帰国前にいた国でも同様のことがあったと思われますが、語学力の問題で気付けなかったんでしょうね。
@@hce4098 一言余計で笑う。 へえ、10年前と印象が違ったんだねでいいじゃん
@@hce4098言ってることはわかるけど、よほどその国に溶け込んでいない限り、ネイティブ話者じゃないと気付けないのは当たり前だよ
あと、おそらく世界各国で起きている現象だろうという点に同意。ただ日本が特にひどい可能性はある。ゆとり教育の失敗、道徳と宗教観の欠如、イージーなコンテンツの大量速攻消費と言う点で、他の国と日本は性質が違う気がする。
@@hce4098 日本人って中身ろくなもんじゃねーよ色々データも出てるだろ、そろそろ気づけ
@@田中一郎-o3u 何でそれ俺に言うん?
意味不明だわ。
相手を“死ねよ”などとおそらく日常的に罵倒しているにも関わらず依然として友達の関係が成り立っている点が見逃されています。彼らにとっては言葉の意味よりも会話のテンポ感が重要なので、むしろそれが通じない人は“空気が読めない”と言われて仲間外れになったりします。
※Bにとっては「AとCがウザい」という意味一択でありCもそれを理解しているからこその「つーか、お前がウザ」なのです。
そしてこれは私の一例にすぎませんが、病院で検査した言語理解のIQが平均の上であるにも関わらず人間関係は学生時代から苦手で2年間不登校のときもありました。確かに読解力以前に感情の粒度が低い人はいますが、そういう人の集まるコミュニティもあるわけですし、語彙と人間関係の問題の関連性についてはまだまだ検討が必要だと思います。
「最近の若者はけしからん」的な結論があってそれに都合の良いデータを並べ立てているだけのように思えました
データは嘘をつかないけどデータで嘘はつけるんですよね☺
子供の読解力がヤバいという趣旨の本だから、引用されるデータがそちらに偏るのは仕方ないのかもしれませんが、ごんぎつねの件は例として挙げるには不適切に思えますね。多くの年代に通じること、インパクトを優先したのかなと思いますが。
うちの子がいま小4でちょうど「ごんぎつね」をやったところですが、あれはもう子どもが注釈なしに読むのは無理な作品になってると個人的に思います。
人の死や葬儀に関する慣習が当時と今では違い過ぎる上に、
あの場面はきつね目線で書かれているので「これは昔のお葬式の様子だ」と分かるような説明が一切なく、かなり不親切な文章になっています。
今の子はそもそも葬儀というもの自体の経験値も知識もゼロの子が多いですし、
今どきの葬儀は自宅では行わず料理も仕出し屋さんに注文するのがほとんどなので大鍋で物を煮ることもないです。
ない知恵を必死にしぼって思いついた唯一の「お葬式に関係ありそうなもの」がご遺体だったということかと思われます。
子どもに足りていないのは想像力ではなく、むしろ人の死や葬儀に接する経験の方だと思います。
知識不足の問題ではない。
問題の本質を浅くしか考えていない。
グループワークでお婆さんのご遺体を鍋で煮るようなグロ回答をそんなわけないと反対する子供がいないことが恐怖。
消毒する、溶かすとかいうワードもご遺体を汚いゴミ扱いしている無神経さがある。
子供特有な無邪気な残虐性が問題。
「ごんぎつね」がよめない理由(その2)
わざわざ議論させるのだから『とんでもないことが起きている』と、子供たちは理解してホラー映画みたいになるのだとも考えられる。想像力がないのではなく、逆にありすぎるのでは?
不登校の問題が言語化できない問題ですが、人が悩みを直接的に相談することはほぼないのでできないのではなく多くの場合はしないのです。
悩みは間接的に伝えられることが多く、例に出せば友達の話なんだけど〜のようなクッションを置いたり、少しズレた常識的な問題に置き換えたりします。
問題は何なのかと直接的に聞いてもそんなこと答えてくれるわけがないんです。
その辺理解せずに悩み相談なんかできるわけがなくて、子どもの問題というより相談相手に問題があると思います。
いや、そもそも、昔のお葬式と今のお葬式って全く違うし、そう言うシーンなんかわかるはずないでしょ?
葬儀会社が全てするし、ましてや
親戚すら来ないお葬式すらおおいのに。
それを大人目線で非難ばっかりして、大人の方が想像力欠如してませんか?
わざわざ「何か」なんて意味深な書き方されたら最近のマンガ・アニメ・ゲーム等の経験則から
「なにか表現してはいけないやばいことをやっている」と思ってしまうのはまぁ自然といえば自然なんだよね
教育熱心だった父の方針で、新聞の社説の書き取りを毎日のノルマとして課されていました。おかげで語彙が育ったように思います。
まじウザのエグいノルマでしたが効果ヤバいです。
エグい皮肉だね