関ヶ原勝利の後、家康はなぜ14年も待ったのか?

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  • Опубліковано 21 жов 2024
  • 関ヶ原勝利の後、家康はなぜ14年も待ったのか?
    について紹介しています。
    ナレーション:真加藤沙織
    脚本・監修:歴史の細道
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КОМЕНТАРІ • 281

  • @宏法吉川
    @宏法吉川 4 роки тому +17

    今の時代でも14年は長いですよね。
    習った歴史の授業では、ほんの数年で起きた出来事に感じてましたが、勉強になりました。

  • @真夏のまなったん
    @真夏のまなったん 4 роки тому +60

    真田幸村の兄ちゃんが
    90歳まで生きたのは凄い
    ことなんだね
    3代将軍に尊敬されるわ

  • @nfjp-twm
    @nfjp-twm 3 роки тому +10

    14年も待った理由は、関ヶ原の戦が豊臣家家臣同士の戦いという形で福島正則や黒田長政らが必ずしも家康に味方してくれるかどうか分からなかったからですね。
    勉強になりました。

  • @sinichi3295
    @sinichi3295 3 роки тому +3

    面白いですねぇ~歴史の奥深く切り込む話はとっても感じ入りました‼️

  • @yokos9805
    @yokos9805 5 років тому +10

    ナレーション 聞きやすく漢字読み間違いもなくとても聞きやすく よく分かり易いです。
    ありがとうございます。

  • @kaji99999
    @kaji99999 3 роки тому +3

    いつも勉強になりますが、今回も知らなかった歴史です。学校や大河ドラマではここをきちんとやってくれないので「何故?」と思っていました。ありがとうございました😊

  • @tend5797
    @tend5797 4 роки тому +2

    とても分かりやすかったです。ありがとうございました。

  • @おニャン子ポン-j7b
    @おニャン子ポン-j7b 4 роки тому +17

    ひょっとしたら秀頼と千姫の間に世継ぎの男子が生まれるのをずっと期待していたかもしれないね 普通ならそうなるのが自然だし そうなれば豊臣も真の身内になってすべてが丸く収まると考えたのかも?(それでも転封減封はあったろうけど 最悪滅亡は避けられたはず)

    • @ゆーちゅーぶ-i2v
      @ゆーちゅーぶ-i2v 4 роки тому +7

      なるほど!老練な政治家らしく、どっちに転んでも良いように手を打ってたとも見れますね

    • @スーケム
      @スーケム 3 роки тому

      おそらく、家康が生きてる間は無事でも秀忠の代で潰されると思う。

  • @katouryu1
    @katouryu1 5 років тому +10

    いつの時代も健康が一番!

    • @呉志
      @呉志 5 років тому +2

      保険会社の皆さん
      せやな、健康は、大事やで
      (積み立てた。保険料を客に払わんですむし)

  • @ystszk9901
    @ystszk9901 3 роки тому +4

    いろいろコメントされていますが、当時の江戸がめちゃくちゃひどくて使い物にならない土地ばかりだったそうです。 土地の改良や運河の構築や住む家を作るのに凄く時間がかかったみたいですよ。

  • @neo-chinidone
    @neo-chinidone 5 років тому +52

    今日のさおりさんはシックで綺麗ですね✨

  • @murahatena
    @murahatena 5 років тому +73

    確かに当時の平均的な寿命からすると、待つのもちょっとした賭けですよね。

    • @佐野忠-z3x
      @佐野忠-z3x 3 роки тому +3

      勝ったから良いようなものの、負けたりタヒんだりしたら………🙁

    • @yoshii871
      @yoshii871 3 роки тому +2

      だからこそ、後年は自分でも薬を調合したり健康オタク化したんだね

  • @ICEMAN049
    @ICEMAN049 5 років тому +11

    沙織さんって(この字でよかったのかな?) 松井玲奈さんに似ていますね♪ それはさておきわかりやすくよくまとまった歴史解説ですね 教科書では学べない詳しいことまでご教授くだり大変ためになります これからも楽しみにしております 頑張ってください これからもご活躍を陰ながら応援いたします♪

  • @Jdihdhipek
    @Jdihdhipek 4 роки тому +15

    ヤクザもそうでしょうけど、力の裏付けを持った上であくまで筋を通す(大義名分は必ず掲げる)形でならば、端から見れば理不尽に見えるような形で力ずくで物事を通しても、必ず人は従わざるを得ない。
    そういう行動方針を守り続けた忍耐力と生来の義理堅さが、家康が秀吉に対して優っていた点なのかもしれません。
    秀吉は要領の良さと人心掌握の巧妙さでは家康に優っていましたが、晩年それを自ら汚したわけですし。

    • @あちちあちち
      @あちちあちち 4 роки тому +6

      bebe gallery 一族を皆殺しにしたのは汚点だ

    • @シロイアイツ
      @シロイアイツ 4 роки тому +5

      あちちあちち
      秀次事件な…
      アレさえ無ければ、と言えるんだけど事件の発端を作ったのが「豊臣家以外は有象無象、大人しくこちらの言うことだけを聞いておけ」なクソ思想の超悪質なチクリ魔の石田三成だからな
      アイツのせいで武断派と文治派で内部分裂を起こした挙句黒田(官兵衛)を放逐してみすみす徳川方につかせてしまった
      賤ヶ岳の時でもいいからコイツが討死してたら、もっと違った結果になってたかもね

  • @いけような
    @いけような 4 роки тому +11

    家康は江戸幕府を開いたあと乳母?に、
    「退屈で気がおかしくなりそうだ!毎日般若心境を6万回唱えている。」と
    手紙を書いている。
    だから関ヶ原後に豊臣家を潰す意思がなかった事は確か。

  • @dxspex2292
    @dxspex2292 3 роки тому +3

    「関ヶ原後14年待った」のではなく「江戸幕府が開闢して10年以上経ったのに豊臣が言うこと聞かないから滅した」が正しいのかと

    • @dxspex2292
      @dxspex2292 3 роки тому +1

      それと家康は戦国の畿内で力任せに権威を奪い合った細川、三好、織田などの行く末を見ているので、同じように強引に豊臣から天下の覇権を奪い取っても人心を得られないと思ったのではないかと推察します

  • @まきまき-z7m
    @まきまき-z7m 5 років тому +6

    チャンスまで待つという教訓は参考になります。

  • @ぐみちゃん-p6w
    @ぐみちゃん-p6w 3 роки тому

    初視聴です。歴史に詳しくないのでこれから勉強したいです!よろしくお願いします。🙂

  • @亜羅武
    @亜羅武 5 років тому +57

    やはり石田三成憎しで、家康方に付いた豊臣恩顧の大名も多数いたので、もし直ぐに豊臣秀頼を攻め立てたなら、また戦国時代に再突入した可能性があるからね。14年は確かにかかり過ぎだとは思うが、それが家康らしいとは言えるけどね。

    • @呉志
      @呉志 4 роки тому +15

      足元固めは、大事ですよ
      頼朝とナポレオンを見ていたらよくわかる

    • @あちちあちち
      @あちちあちち 4 роки тому +3

      yamada taro 余裕ないなんて本人が言ったのか?

    • @山田太郎-g4t1r
      @山田太郎-g4t1r 4 роки тому +2

      yamada taro アホは無視しましょう、時間の無駄です

    • @田中流星-k9r
      @田中流星-k9r 4 роки тому +3

      あちちあちち
      なんで本人が言わないと分からないんだ、、

    • @maruchan6541
      @maruchan6541 4 роки тому +5

      急いで権力持っても足元崩れたら意味ないから、
      足元固めた結果として14年かかったのが実情じゃないんかな?
      まあこれが「鳴くまで待とうほととぎす」家康節ともいえる

  • @kaduisi7214
    @kaduisi7214 4 роки тому +2

    さおりさん、癒してくれてありがとうございます。バックの音楽も合ってます。

  • @安斎徹-w1e
    @安斎徹-w1e 4 роки тому +17

    家康の生い立ちに由来する辛抱強さと深謀遠慮、そして晩年の秀吉のやりたい放題で衰えたりとは言え、豊臣の威光と恩顧の気風がまだ少なからず残っていた、からでは ないんでしょうか。

  • @やーうえい
    @やーうえい 4 роки тому +11

    戦国時代の平均寿命が50年って言われるときに50越えて
    豊臣滅ぼして幕府開くのは
    執念しかないな
    病気とかで関ヶ原後しんでたらどうなってたかな

  • @Tokizounew
    @Tokizounew 4 роки тому +2

    どの本よりもよくわかります
    ありがとうございます

  • @セバスチャン-h2u
    @セバスチャン-h2u 4 роки тому +2

    豊臣に勝ち目がない状態に持って行けば元々家康も戦いになるとは思ってなかったと思ってじっくり時間をかけて力を削いで行けば大人しくしたがうと思っていたと思いますね

  • @nekonohige2
    @nekonohige2 4 роки тому +3

    なるほど、面白かったです。ありがとうございました。当時の様子がよくわかりました。学校の歴史教育がいかに表面的なものか思い知らされました。ただ、よくわからないのが、関ケ原の後、家康は豊臣政権を補佐する大老という地位にもかかわらず、どうやって豊臣家を220万石から65万石に格下げできたのか? また、なぜこれに秀頼や豊臣家恩顧の大名たちが反発しなったのか。この格下げこそ、豊臣対徳川の構図になっていると思いますが。更に、豊臣家の家老から征夷大将軍になるまでにかなりの変化が生じているのですが、家康はどうやって豊臣家の家臣から征夷大将軍になれたのか、是非、また別の動画で詳しく教えていただきたいです。

  • @ひら-c8b
    @ひら-c8b 4 роки тому +17

    素敵なナレーターですね。気に入りました。

  • @渡部まゆみ-t4y
    @渡部まゆみ-t4y 3 роки тому +2

    豊臣秀次が切腹した後も関白の地位は空位のままのようですね。左大臣や右大臣の席も空いたままのようです。関ヶ原の時点で内大臣の家康が、朝廷の序列ではトップ。関ヶ原後、関白に藤原摂関家の九条兼孝が就任。その後五摂家の面々が左大臣、右大臣、関白を務めます。将軍は令外の官ですが、付随して官職も上がります。藤原摂関家と家康、秀忠が高い官位官職に就くことで、秀頼の関白就任を妨害していたのでしょうか?

  • @tatsuoichijo8195
    @tatsuoichijo8195 4 роки тому +4

    さおりさん 素敵💕なナレーターですね。

  • @1116sum
    @1116sum 5 років тому +17

    待ってました、さおりさん!
    やっぱり、さおりさんですよねぇ〜

  • @やしのみ-f4s
    @やしのみ-f4s 3 роки тому

    自分の思っていたことと、あまりにかけ離れていたので驚きでした。人生の糧になればと思います。

  • @softeasy9464
    @softeasy9464 4 роки тому +32

    「14年待った」って表現よりは、徳川が豊臣を滅ぼせるようになるまで、
    「14年掛かった」って表現が適切ですね。
    「14年待った」だと、関ヶ原直後でいつでも豊臣滅ぼせるという意味に見えるので。
    1603年以降も天下普請やら、朝廷向けの法度の制定やら、徳川政権の地盤固めに時間が掛かってますしね。

    • @ブリキカイザー
      @ブリキカイザー 4 роки тому +13

      実際少し無理をすれば滅ぼせたと思いますよ、むしろ当時の家康の年齢を考えれば多少外様大名が豊臣についたとしても自分の目の黒いうちに豊臣家を滅ぼしておくほうが安全と考える方が自然なんですよ、なぜなら人間だれしも自分の寿命なんて正確に測れるものじゃないので
      60歳から悠長に豊臣家の弱体化をまってたら自分がぽっくり逝く可能性の方が遥かに高いので家康は最初から豊臣を滅ぼすと決めていたわけではないと思いますよ

    • @softeasy9464
      @softeasy9464 4 роки тому +3

      @ブリキカイザー さん
      トンチンカンな返信ですね。
       
      文章をちゃんと読んで欲しいのですが、
      「60歳から悠長に豊臣家の弱体化を『まってたら』自分がぽっくり逝く可能性の方が遥かに高いので家康は最初から豊臣を滅ぼすと決めていたわけではないと思いますよ」
      の『まってたら』は、私の記述の最初の二行で明示的に否定していますよ。
       
      あと、返信の内容から「豊臣を滅ぼしたいのに14年掛かった」と勝手に認識しているようですが、
      私は「豊臣を滅ぼせるようになるまで14年掛かった」と書いています。
       
      関ヶ原直後から徳川が豊臣を滅ぼそうとしているなんて記述になっていない点、わかってますか?

    • @うどんだいすき-h4g
      @うどんだいすき-h4g 4 роки тому +8

      @@ブリキカイザー 朝鮮出兵で諸大名がガタガタになってたり、秀次事件で大勢の大名を敵に回したり、すでに徳川に有利だったでしょうね。
      豊臣恩顧の大名とはいえ、子種親戚の少なさから、ほとんどが外様だし。

    • @bluestreak5470
      @bluestreak5470 3 роки тому +1

      明や朝鮮がリベンジマッチ仕掛けてくるとか、スペインなどの国の出方も気にせざるを得ませんしね。急いては事を仕損じりかねない

  • @bhagavad679
    @bhagavad679 4 роки тому +1

    大変勉強になりました。ありがとうございます。
    要するに関ヶ原の合戦が、規模としては非常に大きな戦いではありましたが、その中身は『豊臣政権内における主導権争い』という政権転覆に至る仕組みになってなかったという訳ですね。結果、旧石田派に属した大名家の領地を、反石田派である豊臣恩顧の大名に分配しなければならず、自派閥である徳川派の勢力伸長が思った程には行えなかった。なので完全な政権転覆を行う為に、政治工作と徳川派大名の政治力の強化を行う必要があり、結果的に14年もの月日を費やしてしまったという訳なのですね。14年も待ったというよりも、貴重な時間を14年も豊臣家対策に奪われた、という方が正しいのかも知れないですね。

  • @マスターポテト-d5g
    @マスターポテト-d5g 4 роки тому +6

    誰か秀頼を説得して徳川に恭順していれは、穏便に豊臣家の家名を後世に残せたかもしれないですね。石田三成を生かしておけば、三成もバカじゃないから主君である秀頼を生かすために説得してたかも。

  • @国道まにあ
    @国道まにあ 4 роки тому +10

    淀君がプライド捨てれたら豊臣家滅びずに済んだかもとか、秀忠の嫁も淀君の妹だったのにとか、つい考えてしまいますが、秀吉が亡くなってからずっとシングルマザーだったわけで、たとえ判断を誤ったとしても責められないですね。

  • @クレイジーキッド
    @クレイジーキッド 5 років тому +13

    秀忠のお陰で主力部隊を温存できたともいえるが

    • @yoshii871
      @yoshii871 3 роки тому +1

      関ヶ原で家康の方面軍が負けても秀忠の本軍が温存されてるから江戸に戻ってもう一戦 そのまま進出しても一戦できるって節だね

  • @klmklm1237
    @klmklm1237 2 роки тому +2

    関が原合戦後の論功行賞では家康は、
    居城の江戸から京までの間に領地をもつ秀吉系武将を
    できるだけ京以西に転封しました。

  • @伝説の勇者-z6j
    @伝説の勇者-z6j 3 роки тому +15

    家康が判断を誤ってすぐに豊臣を滅ぼそうとして、戦国時代に逆戻りってのも面白そう

    • @マガン-x8s
      @マガン-x8s 3 роки тому +1

      その隙に西洋諸国が植民地化に成功

  • @コーティー
    @コーティー 5 років тому +17

    毛利輝元って足利義昭に唆されて副将軍になって、織田信長と豊臣秀吉の軍勢に苦戦して、運良く本能寺の変で窮地を抜けて、秀吉に追従して五大老となるも今度は徳川家康と対立して西軍の総大将になって敗れて改易寸前までいった可哀想な武将なんだよね。
    愛知の三英傑と全員対立して、生き残った数少ない武将だけど…

    • @あちちあちち
      @あちちあちち 4 роки тому +1

      コーティー 武将ではない

    • @マイケル-h7
      @マイケル-h7 4 роки тому +4

      可哀想というよりよく言えば温厚、悪く言えば優柔不断の無能
      吉川が褒賞で岩国30万与えられそうになったけど彼が家康に毛利存続を願い出たから毛利は改易免れたんだよね
      人には恵まれてたけど上手く纏められなかった

    • @stop6882
      @stop6882 4 роки тому +3

      なお、内政は父親譲りで才があった模様

    • @tigeriontigerion9112
      @tigeriontigerion9112 3 роки тому

      というより、輝元は広大の軍記物で悪く描かれすぎただけな気がする
      毛利は主従関係が他家ほど強くないからね

  • @DGsoldier
    @DGsoldier 4 роки тому +8

    勝利しても国力がつくまでは時間かかるからなー。

  • @あちちあちち
    @あちちあちち 5 років тому +26

    正直当時の人間たちからしたら戦国みたいな荒れた世の中にならないんだったらもう誰が天下取るとかどうでも良かったんだと思う

    • @田中流星-k9r
      @田中流星-k9r 4 роки тому +1

      あちちあちち
      落ち武者狩りをするのと平穏に百姓をするのでは百姓のほうが良い暮らし出来たのかな

    • @kvrg8582
      @kvrg8582 Рік тому

      なぜ当時の百姓が落ち武者狩りをするのか?というと、攻めてきた武者は畑を踏み荒らしてせっかく育てた作物を収穫不能にしたり村を焼いたりするから。
      あくまで大損させられた分の報復も兼ねた行動なのよ。
      なので前提としての合戦がなくなれば作物はちゃんと育つ。こっちのが望ましいし潤うに決まってる。

  • @花粉症-h2b
    @花粉症-h2b 3 роки тому +18

    織田家を蔑ろにした豊臣家だから徳川家康に滅亡に追い込まれても仕方ないよな

  • @鮭児-s1w
    @鮭児-s1w 4 роки тому +7

    秀頼公が成人するまで待ってたんやろ!その後取り潰しになった藩も豊臣方の武将に多いぞ

  • @lees4020
    @lees4020 11 місяців тому

    当時の平均寿命を大幅に超えた家康公凄い👍

  • @SHOSHO319
    @SHOSHO319 4 роки тому +13

    淀殿が江戸に人質として行く事を受け入れるだけの度量が無かった事が、豊臣家の悲劇に繋がった。
    まあもっと言えば、秀吉が淀殿を側室にした時点で豊臣の崩壊は始まっていたのかも…

    • @一山秀一
      @一山秀一 4 роки тому +5

      そもそも秀吉が秀頼しか子を設けられなかったのが原因だろ。(秀頼自体秀吉の子とは思えないが。)

    • @おニャン子ポン-j7b
      @おニャン子ポン-j7b 4 роки тому +4

      妹が秀忠の正室(しかも浮気もままならぬかかあ天下)だったことを思うと完全アウエーではなかったのだから もったいない話だよね😑

    • @SHOSHO319
      @SHOSHO319 4 роки тому +1

      上原慎一 秀頼が生まれないで、甥の秀次がそのまま関白職を継続していれば、家康存命の間に天下を奪取されなかった可能性もあると思う。秀次の死後、秀次に仕えていた諸大名の多くが家康に就いた事が家康の天下奪取の大きな第一歩になった訳だし…

  • @安西弘-t1o
    @安西弘-t1o 9 місяців тому +1

    方広寺の一件までは両者の関係は揉めつつも、豊臣側が折れて何とか均衡を保ってたと思う。
    江戸城普請。
    神社仏閣の寄進再建。
    豊臣家の関白職独占見直し。
    堺や4つの鉱山の譲渡。
    二条城での実質臣下の礼。
    秀頼側は最終的には全ての要請に従ってるし、家康の方も豊臣直轄地に代官をおいて代わりに年貢を取り立てたり、秀頼の官位は秀忠より上にしたり、二条城では庭まで出迎えて上座を譲ろうとしたりと配慮が見られます。
    よく言われる家康が秀頼に3ヶ条を突きつけて、秀頼が拒否して大阪の陣が始まったのは偽りです。
    方広寺の一件で釈明しに来た片桐に家康が、「両家が上手くいくように対策をしろ」と言ったのを自分の解釈で「参勤、人質、国替」の一つを呑むよう秀頼に要求して、その要求に怒った大野らに命を狙われて、秀頼は片桐を追放します。
    取り次ぎ役の片桐を追放されたことに激怒した家康は、その日の内に大阪出陣を所大名に命じます。
    翌日、秀頼も全国の大名と浪人に檄を飛ばし大阪の陣が始まることになります。
    最初から家康の計略でない限りかなり偶発的な要素も多く、14年待ったというより、偶然方広寺の一件で揉めたのでそれを政治利用して戦まで持っていったというところではないでしょうか?
    方広寺鐘銘事件さえなければ、少なくとも秀忠の代までは豊臣家は存続できたと思います。

  • @chocolatsan6885
    @chocolatsan6885 5 років тому +6

    とても聴きやすく、ナレーションお上手ですね(´ー`) 美人さんだし、顔出しの動画が増えると いいね!が増えそう(笑)

  • @広島恭史-b5p
    @広島恭史-b5p 3 роки тому +5

    淀殿(茶々)
    小さい頃から高貴なお姫様→両親を立て続けになくす→側近の言われる通りにしか動けない→請われるまま天下人の妻で世継ぎの母→秀吉死亡
    →幼い世継ぎとわずかな側近だけで巨城に残される
    これで家康に対抗できる人格を形成出来る訳ない

    • @辺津宮
      @辺津宮 Рік тому

      更に淀殿には優秀な家臣も親戚もいません。有楽斎や信雄を呼ばざるを得ない時点で、もう詰んでいます。

  • @at3141
    @at3141 3 роки тому +2

    さおりさんの美貌と、その美しい声に聞き惚れてしまい、内容が入ってきませんでした😅

  • @吉瀬誠司
    @吉瀬誠司 3 роки тому +6

    関ヶ原直後はまだ豊臣に忠誠を誓ってる大名達が沢山いたためで14年たてば代が代わりそれが薄れるのと名実共にに徳川の世にしてからと思ったのでは?

  • @いせずみしろう
    @いせずみしろう 4 роки тому +5

    豊臣ホールディングスの副社長兼関東地区担当子会社社長としては、石田財務部長さんほかその賛同者を潰すのは比較的簡単だったけれども、二代目社長にはなかなか手を付けられなかった。ってか。

  • @civilization01civilization8
    @civilization01civilization8 4 роки тому +7

    関ヶ原勝利の後、家康はなぜ14年も生きたのか?が不思議

    • @佐野忠-z3x
      @佐野忠-z3x 4 роки тому

      @乳母車の弥七 ああ、フィクションで結構あるよね😗

  • @genkimantotoro
    @genkimantotoro 4 роки тому +70

    ナレーションの女性が可愛かった(*´▽`*)

    • @齋藤博史-o8g
      @齋藤博史-o8g 3 роки тому +1

      あたり前だろ!知らなかったのか!‼️笑い❗

  • @なな-y1l5s
    @なな-y1l5s 5 років тому +29

    広告が多すぎる……。

  • @pocketjangle8004
    @pocketjangle8004 4 роки тому +3

    小早川の松尾山占拠裏切りに慌て 山中に兵を集結 東軍に挟撃される形で敗走した西軍
    毛利は 動けないですよ 正面に徳川いるんだから
    松尾山を小早川に占拠された時点で全軍
    大垣に籠るか
    佐和山まで速やかに撤退し 道中は伏兵攻撃するような戦略しかなかったと思います
    佐和山に全軍籠ることが出来ていれば
    展開も違ったでしょうね
    島津の夜襲火攻めを何故か拒否した辺りは 正攻法に拘る勝ちへの執念が無さすぎます
    結局 大軍を運用出来ていなかったでしょうね

    • @あちちあちち
      @あちちあちち 4 роки тому

      Pocket Jangle そもそも金吾は裏切りじゃない

  • @サザエさんさ迷える
    @サザエさんさ迷える 3 роки тому +1

    やっぱり家康は「源氏長者」をとるのに3年かけたからなぁ

  • @盛モカ3
    @盛モカ3 4 роки тому +8

    ネチネチ難癖をつけて
    豊臣方を骨抜きにする…
    短気には出来ない😄
    自分を味方にするため
    時間をかけて体制を作った…
    歴史勉強したんだろな😄

    • @soukakujt
      @soukakujt 4 роки тому +3

      幼少時代の今川・織田に翻弄された頃に培った辛抱が晩年実ったわけですね。織田、豊臣とスキあらば潰された時代を生き抜いた家康は日本一の英傑といえます。

  • @xmr4257
    @xmr4257 5 років тому +5

    単純に豊臣家の衰退が、秀吉無き後には目に見えてたからかな
    秀頼が幼い間はまだ周りの優秀な武将達が残って守ろうとするかもしれないけど、元服以後はある程度秀頼自身の力量も試されるので、そこを見定めるつもりだったんじゃないかな。
    それと家康自身の年齢もあって、死期が来る前にまだ残ってた豊臣家や取り巻き恩顧を黙らせようというのも当然あっただろうね

  • @ty-lp2to
    @ty-lp2to 4 роки тому

    分かりやすいですねぇ〜😁😁😁

  • @一山秀一
    @一山秀一 4 роки тому +19

    堀北真希か思った。

  • @男の身体でいる事が嫌
    @男の身体でいる事が嫌 4 роки тому +26

    待ったというより、その時までチャンスが無かったのでしょう。
    方広寺事件は言いがかりだし、家康寄りの見解だよ。

    • @ickxjacky5439
      @ickxjacky5439 4 роки тому +6

      男の身体でいる事が嫌 いや、普通に当時、他人の名前を2つに分けるのはその人に対して中指を突き立てるの同じ事

  • @藤田きゅーちゃん
    @藤田きゅーちゃん 4 роки тому +6

    これはあくまでも推測です。
    だれも戦国時代に見にはいけません。
    真実は確認しに行かなければ真実はわかりませんね。

  • @キューソネコカミ-w6f
    @キューソネコカミ-w6f 5 років тому +13

    蔵入れ地の没収された時に大坂方は何も言わなかったのかな

    • @あちちあちち
      @あちちあちち 5 років тому +5

      KYU-SO NEKOKAMI 流石に抗議ぐらいはしたと思います

    • @yuna3571
      @yuna3571 5 років тому +3

      あくまで人質にされた秀頼たちを解放しているから
      手柄を残した家臣に主君が自分の領地を削って恩賞として渡してもおかしくないと思うけど

  • @武田亥三男
    @武田亥三男 3 роки тому +2

    私は本来なら日本史や世界史の授業では、こう言う
    政治戦略等の考察も取り上げるべき と考えて居ます。
    史実の発生年や人名・地名等の暗記教育にして居るのは、勿体無い事です。歴史の授業は、戦術論 戦略論
    政策論 経済論 思想論……等々に広く展開出来る物です。暗記事項を多くして居るのは、単に点数評価をし易くする為でしょう。だが其れでは面白く無いし、
    史実の真価が判らない。
    繰り返しますが、とても
    勿体無い事です。

  • @jardins-du-cosmos
    @jardins-du-cosmos 3 роки тому +2

    鳴くまで待とうと言われる由縁ですが、関東江戸が落ち着く迄と信長の血統の確保、二代秀忠政権の安定、大阪方は既に敵では無いと言う判断。
    まあ色々あったでしょうが、待てたんでしょう。

  • @rosan6179
    @rosan6179 4 роки тому +10

    自分の寿命が尽きるかもしれないのによく待ったと思う
    豊臣家も家康が死ぬまで事を起こさず臣従していたら滅亡しなかったかもしれない
    秀忠には大群を率いる器量はないから

    • @もふもふ-x4p
      @もふもふ-x4p 4 роки тому +4

      どのみち家光の時代に滅ぼされると思う
      土井利勝辺りが色々と…

  • @なつみかん-h1r
    @なつみかん-h1r 4 роки тому +6

    三成の存在が駄目だったね
    関ヶ原は豊臣の家臣が家康についているのは、まず皆疑問に思う所

    • @bluestreak5470
      @bluestreak5470 3 роки тому

      個人的には三成の義弟である福原長堯が戦犯だと思う。
      蔚山城の戦いの報告で、秀秋や黒田長政らを貶めた結果、三成を追い詰める一因になったかと

  • @田中流星-k9r
    @田中流星-k9r 4 роки тому +4

    最初は豊富の羽柴家を滅ぼす気は無かった説あるよね
    どのみちすぐに滅ぼそうとしたら中々難しかったんじゃないかと思う

    • @たにがわゆういち
      @たにがわゆういち 4 роки тому +1

      国替え、淀殿の江戸人質等応じておけばとり潰さなかった説ありますよね

  • @kurumi7914
    @kurumi7914 5 років тому +18

    豊臣の古くからの臣下達が死ぬのを待ってたんじゃないのかな?
    大阪の陣の頃にはもう福島正則くらいしか不安分子残ってなかったし。

    • @キュウベエ-k8z
      @キュウベエ-k8z 5 років тому +8

      多分そうなんじゃないかな

    • @yh6146
      @yh6146 5 років тому +6

      @@あちちあちち 立花宗茂も徳川によって再び大名に取り立てられたから、大坂の陣では徳川に味方したしな。

    • @あちちあちち
      @あちちあちち 5 років тому +3

      H山田 丹羽家とかもね

    • @サザビーB2
      @サザビーB2 4 роки тому +4

      その前に家康が死にそうだけど
      家康が長生きしたのは結果論であって当時既にいつ死んでもおかしくない年齢だったことを忘れてはいけない

    • @yh6146
      @yh6146 4 роки тому +1

      @@サザビーB2 まあ、家康が長生きしても秀吉が長生きしたら天下を取れなかった。

  • @kowaki2057
    @kowaki2057 24 дні тому

    一つには家康の本隊が遅れたため、関ヶ原の功労者はほとんど豊臣恩顧の大名だったために、下手な事が出来なかったため。
    領地もですが、官位も豊臣恩顧の大名が上がっています。

  • @yuchan5748
    @yuchan5748 5 років тому +7

    やっぱり沙織さんは良いですね。変な赤い顔よりもって、比較するのは沙織さんが可哀想でした。ごめんなさい。沙織さんがもっと出てくれても良いのにね。

  • @瀧澤豊-d7n
    @瀧澤豊-d7n 3 роки тому

    秀吉子飼いの大名が生きている限りあからさまな動きは出来なかったのかな?

  • @miyuki970
    @miyuki970 3 роки тому

    戦い済んで日が暮れてー
    探して戻る心では
    どうぞ生きていてくれと
    ものたと言えど願うたに

  • @se7499
    @se7499 5 років тому +6

    最後キュンとなってコメント忘れた!

  • @こづち歴史古銭解説チャンネル

    そもそも関ヶ原の戦いが、家臣同士の戦いなんですから、豊臣は攻撃できないのでは?

    • @こづち歴史古銭解説チャンネル
      @こづち歴史古銭解説チャンネル 4 роки тому +2

      あとちゃっかり自分の息子の加増が、全大名で一番多いのが抜け目がありません。

    • @あちちあちち
      @あちちあちち 4 роки тому +2

      こづち・古銭ホビーチャンネル 表向きはそうだし、もし秀頼公側が西軍について負けたとしたらその言い訳してたと思う

    • @こづち歴史古銭解説チャンネル
      @こづち歴史古銭解説チャンネル 4 роки тому +2

      @@あちちあちち ちなみに徳川四天王並に厚遇されている人をご存じですか?因みにその人物の子供は家康のごらくいんという噂もあります。

    • @あちちあちち
      @あちちあちち 4 роки тому +1

      こづち・古銭ホビーチャンネル Lucky Hammer History Channel 永見貞親?

    • @こづち歴史古銭解説チャンネル
      @こづち歴史古銭解説チャンネル 4 роки тому +1

      @@あちちあちち 後藤庄三郎です。

  • @松本悠佐
    @松本悠佐 2 роки тому

    ある意味ぬかりがないですね。淀君と秀頼が家康に従い城を退去して何処かの大名になったとしても存続していたかどうかは…。

  • @ぴーまん-j2p
    @ぴーまん-j2p 3 роки тому

    似た様なシチュエーションが、少し前にあったのよね。
    秀吉が明智光秀を討って、論功行賞トップに立って
    織田の宗家に立てた『三坊師』
    日本史では忘れられた存在だけど、秀吉は織田の宗家に就けるという約束だけは
    キチンと守り、豊臣の家臣に据えてしまった。
    さすがに遠慮したのか、あまり屈辱的とか金をムシリ取るという扱いはしなかったみたいだが
    岐阜の一大名に押し込んでいる。
    淀君一党が聞き分け良く徳川への臣従に切り替えていれば、日本史はだいぶ変わっていたと思う。

  • @monsterhunter240310
    @monsterhunter240310 3 роки тому

    洋服黒好きなんですか?

  • @無刃刀-e1p
    @無刃刀-e1p 2 роки тому +1

    剣豪宮本武蔵も勝てる戦いしかしないし関ヶ原も徳川が半日程度で勝てたけど逆に言えば14年かけて作った必ず勝てる戦いなので豊臣は強敵なのは変わらないです。

  • @ゆーちゅーぶ-i2v
    @ゆーちゅーぶ-i2v 4 роки тому +25

    そして薩摩は260年待ったと

  • @神戸屋著述堂
    @神戸屋著述堂 3 роки тому +4

    忘れてはならないのが、人間の健康である。
    平素健康に気をつけていた長命の家康。好色で美食に溺れた秀吉。
    この二人の寿命の差こそ、両家の差になったのだ。
    秀吉がもっと節制すれば、秀頼は父のバックでたくましく成長したかも知れない😖

    • @brigabiergerarb513
      @brigabiergerarb513 3 роки тому

      節制だけでは難しいよ家系もある
      幼少期の栄養状態が秀吉は悪かったろうし弟の秀長も妹のあさひ姫も秀吉より早死にしてる

  • @けんけん-d6t
    @けんけん-d6t 3 роки тому +1

    1.25倍再生でちょうどよいな

  • @柴犬タロウジロウ
    @柴犬タロウジロウ 5 років тому +16

    さおりさん秋に似合うねー。

  • @牛島巌-r7g
    @牛島巌-r7g 3 роки тому +1

    意外と豊臣を滅ぼすつもりがなかったりして。
    14年経って状況が変わってやらざるをえなくなった。って話も書いてみたいなあ。筆力ないから出来ないけど。

    • @佐野忠-z3x
      @佐野忠-z3x 3 роки тому

      豊臣秀頼が予想外な成長を遂げたからなのではないでしょうか。

  • @noha46
    @noha46 Рік тому

    さおりめっちゃ可愛いやん!堀北真希に似てる

  • @あちちあちち
    @あちちあちち 5 років тому +7

    金が全く無いからと思ってた

  • @sper3439
    @sper3439 4 роки тому +4

    石田三成が挙兵してなかったとしたらこうはうまくいかなかったと思うのですが?
    まず上杉攻めですが間違いなく長期戦になる、しくじれば豊臣恩顧の大名が家康に反感を買う
    まだ毛利や宇喜多の2大老には戦ってないから服従できないし秀頼が年をとるほど家康不利だったんじゃ?

    • @もふもふ-x4p
      @もふもふ-x4p 3 роки тому +2

      だから家康は三成が挙兵するように仕向けたんですよ

    • @brigabiergerarb513
      @brigabiergerarb513 3 роки тому +1

      そういう事を考えたら対豊臣も自分達から仕掛けたら時間も掛かるし敵も増える
      出来るだけ相手から仕掛けさせようとして時間が掛かったのかも…

  • @savage1212
    @savage1212 4 роки тому +4

    広告がしつこい……

  • @上田和哉-s9u
    @上田和哉-s9u 5 років тому +8

    家康は‼健康に気を付けていながらにして鯛の天ぷら食べ過ぎて食あたりつまりニンニクの食べ過ぎて寿命縮めた❗

    • @あちちあちち
      @あちちあちち 5 років тому +4

      上田和哉 家康公は病没したので寿命は関係ないですね

    • @朝倉哲也-h4o
      @朝倉哲也-h4o 5 років тому +4

      最近の研究では家康の死因は胃がんが定説ですよ。

    • @もふもふ-x4p
      @もふもふ-x4p 4 роки тому +1

      鯛の天ぷらで食あたり死亡は
      茶屋四郎次郎による家康暗殺説ですね

  • @nowhereman5621
    @nowhereman5621 2 роки тому

    秀忠、戦に自身がないから、家康が生きている間にやりたかった。

  • @grant.leauvas
    @grant.leauvas 2 роки тому

    19:00 毛利家(含む両川)を壮大にだました狸を信じたらばかじゃん。

  • @レールスターひかり
    @レールスターひかり 4 роки тому +3

    家康は儒学に傾倒していたから自身は豊臣から政権を奪うつもりは毛頭なかっただろう。だが代替わりしたらそうはいかない。三国志の曹操が自身は皇帝を簒奪せず息子の曹丕に帝位を禅譲させ政権を奪取した様に、秀忠にさっさと将軍職を譲り自身は大御所として秀忠に帝王学を学ばせ幕府の体制固めをやっていたと思うね。結果として家康が生きてるうちに豊臣は滅亡したけど、仮に自分が先に亡くなっても秀頼が幕府に従わなければ秀忠が豊臣を滅ぼす算段をつけていたと考える。
    関ヶ原後すぐに豊臣を滅ぼしたら覇王になってしまう。覇王が帝王になる為に必要なのは「徳」だから徳川姓は徳を持った家柄ということになる。徳を持っての治世は儒学の基本的な考え方。

  • @スーケム
    @スーケム 3 роки тому

    実際の関ヶ原の戦いは豊臣秀頼対徳川家康の戦いです。三成が負けたら家康の天下、すなわち豊臣の天下が無くなる。秀頼が大人になり、徳川に臣下の礼を取らなければ潰される。それを当時の人はどの程度分かってたのか?

  • @YN-ru9yr
    @YN-ru9yr 3 роки тому

    このナレーションの方は堀北真希さん??

  • @グレートファミリー
    @グレートファミリー 4 роки тому +7

    毛利なんて260年待ったんだから、14年なんて甘い、甘い、
    家康は関ヶ原の時点で60才でしたよ、
    関白は15才以上からじゃないと
    なれないからね、もしなれるなら
    秀吉生前にあげています。
    関白とは?朝廷の代理、朝廷は
    直接相手側に言葉を発しない、関白にだけしゃべる、つまり
    関白の言葉は朝廷の言葉
    将軍より位は断然上なんですがね、
    とりあえず

  • @佐藤満晴-h6w
    @佐藤満晴-h6w 4 роки тому +1

    人は、争い事を好む?

  • @tosioimaoka9983
    @tosioimaoka9983 3 роки тому

    家康が抑える側ても、家臣団の不満は大きく出るだろうね。

  • @theworld6684
    @theworld6684 4 роки тому +3

    いやいやいや家康は淀君に対して執拗なまでの嫌がらせをしてますよ
    むしろ豊臣側は手打ちにしたかったのに無理矢理攻め滅ぼした形ですよ

  • @kakkopon2129
    @kakkopon2129 5 років тому +3

    目元が堀北真希そっくり

  • @pontom6675
    @pontom6675 3 роки тому

    秀吉がボケなければ約束どうり天下はすんなり家康のものとなったんですが

  • @武田完兵
    @武田完兵 3 роки тому

    なるほど、力権力武力蓄える、待った、ホトトギス