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学生時代の時に平駅まで乗っていた623 M電車だ😂この電車は湯本駅に7:20に出発して平に約10分ぐらいで到着してから折り返しで、この特急ひたち号になるからすごく懐かしい。😂高校を卒業して駅がいわき駅に変わって数年後に485系のひたち号が無くなった時はすごく悲しかったです。
故郷が茨城で、鉄ヲタだった子どもの頃を思い出し、感動してなんだか胸が熱くなりました。大好きだったL特急ひたち号の、とても貴重な映像ですね。大切に残して欲しいです。今見ても、やっぱりカッコいい!ありがとうございます。
何もかもが懐かしさで、胸が熱くなります。私事ですが、母方の実家が相馬でして、ひたちと言えば、485系(JR発足時は、ユニットで483系も残ってました)でしたね。帰りは、早朝、上野行き相馬5:17発だったかな。相馬駅下り線に入線する珍しい運用でした。今は亡き祖父母が握ってくれたしょっぱめのシャケおにぎりと手作りのキュウリ漬けを方張りながらいやいや家に帰ったのを思い出します。重圧な乗り心地と絶妙なジョイント音が、なんとも言えないです。素晴らしい 映像をありがとうございます!485系ひたちは、いつまでも、心の中で走り続けます!
「平」っていうのがイイ
平でしたよねいつから、いわきになったんだろう
@@コックローチ-g2s 1994年かららしいです
たいら~たいら~たいら~胸アツ
柏ではなく我孫子に特急が停まっていた。これだけでも懐かしい
楽しい時間を有難う御座いました・・。ひたち号は乗った事が無い為、こう言った感じだったんだ・・と思いますね・・。
小生、徳島県の者ですが、たした昭和45年前後上野17番ホームから特急ひたちで茨城磯原まで乗車し大津港で下車で、いつまでも忘れられない良い想いでが有ります。懐かしい映像ありがとうございます。
嗚呼 小高に帰りてー。この車両ででも上り上野行き乗るとき涙が出てくるんだよな。
ボンネット特急列車で鉄道唱歌、いい感じ
懐かしい 車内放送のチャイムこの時代 車内販売で水戸納豆を販売していた L特急
就職試験の時に仙台から乗ったのがこの形の特急だった
以前、仙台から上野まで新幹線でなく、常磐線経由のひたちで帰ったこと思いだしました。
水戸駅での水郡線のキハ40系が懐かしい。私も小さい頃両親の実家が茨城県だったのでよくこのボンネット型485系ひたちに良く乗っていたので覚えています。今は上野駅の18番ホームは無くなり、16.17番線の日中の使用が無くなりましたがでも常磐線特急はいつまでも残って欲しい。
めっちゃ懐かしい!!鉄道唱歌のゼンマイ式なので、テンポがだんだん遅くなって・・・・しかも上野到着案内時に今はなき普通列車の415系、快速電車の103系乗換案内には、信越本線のあさま、上越新幹線は初期の速達列車のあさひ・・・・懐かし過ぎて鳥肌でした!
到着ホームも18番線!!
首都圏では車両や車窓の変化が激しいですね。
当所上野10時発特急ひたち2号原ノ町行きに乗って両親の実家の相馬まで毎年お盆休みに帰省しました。自分はまだ小学生でした。終点原ノ町から相馬までは常磐線各駅停車に乗り換えだった為両親は原ノ町での待ち時間に必ず「牛乳アイスクリーム」を買ってくれました。駅で売り子のおばさんが「牛乳アイスクリーム〜」って売り歩く姿は今でも鮮明に覚えてて…😢後 平車掌区の「大塚さん」か「鈴木さん」はとても聞き覚えのあるお声だったので感動😂😂
平のうにめし弁当うまかったなぁ。潰れちゃったんだよな。
いやいや、懐かしいですね。私は、上野〜越後湯沢間、『とき』を利用していました。冬になると毎年スキーに行ってました。
全てが神
485系のひたち号懐かしいですね。
いわき駅の発メロめちゃめちゃ懐かしい!!
茨城県南を飛ばして我孫子に止まるパターン、あったわ。テレホンカードの車内販売も時代を感じる。
やはり楽興の時の発車メロディは平駅の頃から使われているんですね1991年から使われているらしいですね
新宿駅にハープの調べの様な優雅な発車メロディーが導入されて以来、JR東日本では急速に発車メロディーが拡大していきました。ご当地にちなんだものだといいのですが、青森駅で首都圏で流れているものと同じメロディーを聞くと違和感を覚えますが・・・。
水戸出ると土浦も停まらず我孫子って結構レアなパターン。我孫子、柏、松戸に停まるひたちは、だいたい友部、石岡、土浦も停まってた。
スーパーひたちの登場で脇役にやられてしまいましたが、重厚な乗り心地は健在でした。車内もボンネット型先頭車で、近畿車両で新製された2両のうちの1両。相方の1両は1999年に「ひたち」として最後まで残って国鉄色に戻された車両。キノコ型クーラーの吹き出し口がいいですね。自分、かつていわき市に住んでいまして(沿線の風景が懐かしい)混雑期でスーパーひたちの指定が取れなさそうな時は、あえて「ひたち」にしてました。磐越東線と別れて、国道49号線のバイパスと交差しますが、この先の辺りはいわき貨物駅、内郷機関区の跡。同駅廃止の際、下り線と並行するように付け替えた線路を走っています。広いヤードの跡は現在、いわき市保健所や雇用促進住宅などが建っています。
内郷機関区は懐かしいですね。客車「ゆうづる」「十和田」は、平で機関車交換していましたね。
平で売っていた「いわき弁当」懐かしい・・・
はじめまして 485系というと雷鳥号として運転していましたが高崎を通っていたあさま号とか白山号でも運用されていましたよね?いやぁ懐かしいなぁ。
485系を信越本線・横川-軽井沢間EF63の補助機関車協調運転できるような仕様にしたものです。489系は「雷鳥」「北越」「しらさぎ」「白山」「あさま」「能登」「ホームライナー古河」「ホームライナー鴻巣」と共通運用で、臨時「はくたか」にも使用されていました。
あっ間違えた🤭あさまで運用していたのは183系でした。
重複御免。外観上何ら変わりありませんが「あさま」「白山」「そよかぜ」は碓氷峠を通過する関係で485ではなく489です ちなみに国鉄時代の同系運用を記すと、名阪と北陸を結ぶ特急「雷鳥」「新潟雷鳥」(後の「北越」)「しらさぎ」に加え、首都圏と上越長岡経由で北陸を結ぶ「はくたか」には横軽通過をしないものの長年485のみならず489が充当されていました。(681の穴埋めで出向した最近の「臨時はくたか」は六日町ほくほく線経由で越後湯沢発着)その昔 山陽新幹線開業前は山陽路で走行試験を兼ねて「うずしお」「ゆうなぎ」等 山陽特急でも489は活躍しています こう考えると489特性を生かした運用以外にも結構方ぼうを走り回っていたということですね
@@臼田充 189ですね 詳細を記すと189(非貫通)に加え489−0番代(連結器カバー付きボンネット)500番代(引っ込んだスカート部に自動解放テコ、自連、ブレーキホース、ジャンパ栓がついた独特の顔つきのボンネット)1000番代(貫通)2000番代(非貫通)の4種類が「あさま」では充当されていました(189(非貫通)と489(非貫通)はよくよく見ると顔つきが違いますが天井灯があればまず489と思えば良い)183と189は、1の位が3か9かは、3ならば中央、上越、房総、9ならば信越専用です(485と489も同じです) 183は信越以外のすべての直流区間走行が可能です 485は信越以外のすべての交直流区間走行が可能です(ただし、関東線区を例にとると甲武鉄道時代のトンネルを旧帝国鉄道庁が買い取ってそのまま国有となった中央(東)線では、天井灯があると、法で定められた花魁検査に(車両限界値が)引っかかるので、低型トンネルゆえに走行不可となることもある 新幹線開業後 東海道から払い下げられて改番した181等も上信越との共通運用だったが こうした中央線事情ゆえに天井灯の撤去を余儀なくされ惜しくも当初とは異なる顔つきとなっている) 一方、末尾が9ならば信越を含め他のすべての直流(189)、および交直流区間(489)での走行が可能です(車高を気にしなければどこでも走れる) 在りし日の「あさま」は一往復が直江津(信越、北陸両線区の中継点で交直セクション駅;信越本線は高崎〜直江津間 直流、直江津〜新潟間 交流)まで行きましたが「白山」のようにその先の交流区間(直江津〜金沢間)の北陸線区にはダイヤ上 侵入しませんでしたので489である必要はなく189でよかったわけです。しかしその逆489でまかなうことは成立しますので「白山」の間合い運用として489が「あさま」として長野や直江津に現れることもありました(百の位1が直流、4が交直流 ということです)
ゼンマイ式の鉄道唱歌が、やっぱり良いですね。
JR東日本の185系の一部と189系臨時列車、新潟、長野のジョイフルトレインの一部にわずかに残るのみですね。
いわき市在住。懐かしの平駅に胸熱。そう、我々の世代にとっては「平駅」、「いわき駅」にあらず。
平、由緒ある名前が消えるのは寂しいです。駅名は残してほしいなあ。
凄く懐かしい、思い出す‼️特急ひたち急行ときわ、よく乗りました。上野ー岩沼間!感慨深い⁉️浜通り98キロ走行、早かった❗️感謝御礼だっちゃ‼️あれからもう40年が経つのか。…
9:00ごろ(水戸〜偕楽園)画面右上に一瞬だが常盤台団地のスターハウス見えますね
681台頭で485が角にじわじわ寄せられていた時代でしたね。しかしこの映像を見ますとフットワークがいささかも落ち目に伏していないのがさすがといったところでしょう MGフィルターが立て羽根でタイフォンがスカート部というのは初期型(1−2〜17−18)の特徴ですね 長らく勝田駅構内に留置され1997年に惜しくも廃車解体されたトップナンバー編成である可能性もあります 非常に貴重な動画でしょう 鉄道唱歌のチャイムも往年懐古の情を掻き立てるものがあります 常磐線は急行「みちのく」や寝台特急「ゆうづる」を牽引するC62、特急格上げ後の583の「みちのく」に加えこのボンネット「ひたち」が上野駅18番線に入線してくる情景は今でも目に焼き付いております。「ひばり」との同時発車も名物でありました。92年のこの頃は二編成併結に向けたジャンパ栓とホース引き通し施工(全般検査)と、いわゆる「ひたち色」塗り替え に向けて漸次、国鉄型の面影がかき消されていた時代でオリジナルタイプをこよなく愛していた者としてはなんとも無念としか言いようのない時代でしたね。「雷鳥」と和倉の併結にヒントを得た悪業だと言えましょう。「ひたち色」に塗り変わって出てきたその変わり果てた姿にはさすがに目を疑いました。この映像の程なく後、この編成をも同じ運命を辿ったと思うと非常残念でありますが、そうなる直前の映像というのは貴重の一言に尽きます。
485系「ひたち」の末期は悲惨なカラーでしたね。特にボンネット編成。車内放送チャイムも651系同様の電子チャイムに交換されていました。
@@railway-sound 平駅出てすぐのトンネルの黒煙塗れの黒ずんだ煉瓦は「みちのく」「ゆうづる」牽引蒸気の音が谺しますね 在りし鉄路の格闘の跡を建造物も未だ滲ませる常盤路 私もこよなく愛しております 特に平以北 相馬、岩城 等の単線区間の状景は東日本大震災の影響で大きく変わってしまいました。15年ほど前「やまびこ」で1時間半で東京に帰れるのをわざわざスーパーひたちで上野まで帰り、仙台出発した直後に改札にきた車掌に半ば呆れ顔で「上野までですか(笑)」「いいんです 分かって乗っておるんです 時間が贅沢なんです」等のやり取りを経て4時間半かけて乗り通しました。本務車掌もそのまま上野まで乗務していました。目が合った途端 お互い「お疲れ様でした」状態でした。沿線風景が堪らなく「ええなあ、また乗りてえなあ」と思いながらあれから一度も乗っておりません。貴動画にコメントするのはこの一両日が初めてですが、かねてより視聴させていただいていました。現在においては珍重される音源、映像の数々ですね。消えていった名列車の往年と当時の日常が手に取るように伝わってきます。うちは親も祖父も親戚もみんな国鉄職員で父は信越本線の一部(直江津〜上田間)篠ノ井全線(篠ノ井〜塩尻間)中央本線の一部(塩尻〜韮崎間)の乗務をSL時代行っていました。信越の高田、新井のスイッチバック時の制動措置、篠ノ井の冠着(峠なのにすり鉢状で一旦下がってまた上がる)をマウントとする姨捨峠は特に難を極めたといいます。一度 冠着トンネルでは(2200メートルの中ほどで)動かなくなってしまって救援車を依頼したこともあったそうです。列車無線や電話もない時代ですから「ドがつくエライことになった」といいます。後年「しなの」に乗る度、381が涼しい顔で30秒ほどで通過すると「ふざけんな」と よく怒っておりました。父は急貨乙組でしたが憧れの甲や甲特による急客機が好きで1963年製作の8ミリ映画「ある機関助士」や1971年NHK放送の「蒸気機関車C62」はお気に入りでよくVHSで見ていました。しかし「実のところ、貨物の制動の難しさは旅客の非じゃない」と一抹のプライドも覘かせておりました。一方の私自身は幼い頃からボンネット狂で中央本線沿いが1975年以来ボンネットが走っておらんことで不満ぷんぷんでありました。(「あずさ」では田町区の181トップナンバー[旧151−1であり20系デビュー時の第1編成]や昭和34年7月31日の狭軌記録保持車の2編成のうちのどちらかが充当されていた。旧2編成は東京方であれ大阪方であれどちらにも163と書いた銘板がそのまま付いていたので浅川(高尾)駅や八王子駅では非常にワクワクするものがあった)本動画に目が行ったのもボンネットという文字が最初に飛び込んできたからでしょう。181引退後も489が活躍していた「白山」「そよかぜ」「あさま」などを見にわざわざ高崎線まで見に行ったこともあります。東京は北区王子や日暮里付近、尾久付近がまさしくメッカで各方面へのボンネットが右往左往しておった時代が昨日のことのようですね。いちいち昔を振り返るような人間ではないんですが、今思えば鉄道として真に花形だったのかなあとは率直にそう思えてきますね。当時はより速く、スマートにという感じで新車にどうしても目がいく時代だったかと思いますが、(ちなみに489系ボンネット「白山」の直江津〜長野間のリアルタイムノーカットの全面展望は手許にあります。ボンネットのオデコ、散水型ワイパー、天井からも響く汽笛 等なかなかいいですよ 1982年 当時出たばっかしのVHSにて撮影)東京、神奈川、と移り住んで現在は名古屋におりますが、願わくば東海博物館に489の4、504あたりを入れて欲しかったと思います。結局485、489系列で「能登」を除いては「しらさぎ」が最後までオリジナルの姿で走っておったわけですから。俺がしかとその姿を見届けたのは2000年8月が最後だったかな。稲沢を猛スピードで通過して行った。鉄道博を考えて埠頭を均し始めるのがその5年後やからそのつもりならば充分間に合ったと思います。正式な編成譲渡を交渉しておくにはお誂えの時期だったんちゃうかなと。東山公園の狭軌蒸気速度記録保持車C62 17を入れたのはさすがに快挙やなと思いますが、J西所属のクハ489−4、504を何とかして「永住させる」こともまた名古屋鉄道管理局時代から中京と北陸を結ぶ「しらさぎ」運用を一貫手掛けてきたJ東海の重要な使命だったのではないかと未だに思えてなりません。
平は、現在のいわきですね🎵
92年1月ならのぞみデビュー直前の頃か。だから東海道新幹線の案内がひかり13号
毎日Nゲージで僕の家では、485系は走っています。30年前の時刻表道理に上野ー仙台まで運行しています。
発車メロディが変わってない!
結構、飛ばしてたんですね・・・。485系の時代から、常磐特急=高速運転だったんですね。
それを受け継いで 651系→E653系→657系と高速化を受け継いでいます。
懐かしい‼️乗りました❗ボンネットの〈ひたち〉国鉄末期でしたので、座席はリクライニングしない青い「ロマンスシート」上野~水戸間でしたが、車内の独特の匂い〈便所の芳香剤〉の匂いが懐かしい思い出(^_^;)
我孫子にもひたちが止まってたのか
こんな貴重な素晴らしい動画に対して低評価を押してる奴の気が知れん…アップしてくださった方に感謝です。
平駅のキオスクの賑わい良いなぁ~(笑)昔はキオスクで買い物が楽しかった!キオスクのおばちゃん、今どうして居るんだろう~(笑)
小高に帰りたいよ。
私も帰りたいですよ
南原聖寿 僕の家では、永久に485系が毎日走ってます。(Nゲージ)
「あさひ」懐かしいね 「のぞみ」がなく「ひかり」博多行きねー 「あさま」も新幹線でない「あさま」ねー(上野到着前の放送)
ひたちってボンネットでも絵入りヘッドマークでしたね。さらに眉無しもあったりして、東北特急らしからぬ存在でした。私は仙台の人間ですが、常磐線で東京~仙台の直通特急は、もう無理なんでしょうね・・・悲しいですね。
「ひたち」「ひばり」は485系でも古い車両が多かったですね。国鉄末期には勝田や仙台の485系が「北近畿」などで転出していきました。
今は速さで勝負の時代ですからねあまり新幹線は好きな方ではないので昔の上野駅の動画とか見てるとやっぱりいいなって思ったり
2020年3月14日に実は全線復旧して品川から仙台に行く特急ひたちができましたよ!
余剰となった181からの485への改造期には眉無しはよく見かけましたね 485改番と言えども床高は181のままなので中間車両が485系列ですと段差があり何とも不格好でした(「ひたち」以外にも「かもめ」「みどり」「有明」「にちりん」など九州線区でも見かけましたね)同じボンネットと言っても少しずつ顔も違う設備も違う 微妙な違いを楽しむことができるのも常磐線の楽しみでした。現在、川口の博物館にある485(クハ481−23)も「ひばり」「やまばと」そして、時には「ひたち」で活躍していました。常磐線は481のトップナンバーはじめ歴史的な車両が最後まで残存している貴重な線区でしたね。ちなみに川口の博物館内のボンネット部のタイフォンカバーは回転式ですが上下が逆さに付いている(この系列では)唯一の異端車です。ことあろう異端車が三大博物館内に永住権を獲得できたことは嬉しい限りです
俺も小高に帰りてー
小高区ラブの方が多い!
まだ電光掲示板じゃないですね
速い!スピードは、130km/h程か?
齊藤宣幸 485系は最高速度120km/hですよ。
jyouban531 へぇ…、そうなんですね。
上野おばさんだ!
駅放送が上野おばさん
キハ110系、
学生時代の時に平駅まで乗っていた623 M電車だ😂
この電車は湯本駅に7:20に出発して平に約10分ぐらいで到着してから折り返しで、この特急ひたち号になるからすごく懐かしい。😂
高校を卒業して駅がいわき駅に変わって数年後に485系のひたち号が無くなった時はすごく悲しかったです。
故郷が茨城で、鉄ヲタだった子どもの頃を思い出し、感動してなんだか胸が熱くなりました。
大好きだったL特急ひたち号の、とても貴重な映像ですね。
大切に残して欲しいです。
今見ても、やっぱりカッコいい!
ありがとうございます。
何もかもが懐かしさで、胸が熱くなります。私事ですが、母方の実家が相馬でして、ひたちと言えば、485系(JR発足時は、ユニットで483系も残ってました)でしたね。帰りは、早朝、上野行き相馬5:17発だったかな。相馬駅下り線に入線する珍しい運用でした。今は亡き祖父母が握ってくれたしょっぱめのシャケおにぎりと手作りのキュウリ漬けを方張りながらいやいや家に帰ったのを思い出します。
重圧な乗り心地と絶妙なジョイント音が、なんとも言えないです。素晴らしい 映像をありがとうございます!
485系ひたちは、いつまでも、心の中で走り続けます!
「平」っていうのがイイ
平でしたよね
いつから、いわきになったんだろう
@@コックローチ-g2s 1994年かららしいです
たいら~たいら~たいら~
胸アツ
柏ではなく我孫子に特急が停まっていた。
これだけでも懐かしい
楽しい時間を有難う御座いました・・。
ひたち号は乗った事が無い為、こう言った感じだったんだ・・と思いますね・・。
小生、徳島県の者ですが、たした昭和45年前後上野17番ホームから特急ひたちで茨城磯原まで乗車し大津港で下車で、いつまでも忘れられない良い想いでが有ります。懐かしい映像ありがとうございます。
嗚呼 小高に帰りてー。この車両で
でも上り上野行き乗るとき涙が出てくるんだよな。
ボンネット特急列車で鉄道唱歌、いい感じ
懐かしい 車内放送のチャイム
この時代 車内販売で水戸納豆を販売していた L特急
就職試験の時に仙台から乗ったのがこの形の特急だった
以前、仙台から上野まで新幹線でなく、常磐線経由のひたちで帰ったこと思いだしました。
水戸駅での水郡線のキハ40系が懐かしい。私も小さい頃両親の実家が茨城県だったのでよくこのボンネット型485系ひたちに良く乗っていたので覚えています。今は上野駅の18番ホームは無くなり、16.17番線の日中の使用が無くなりましたがでも常磐線特急はいつまでも残って欲しい。
めっちゃ懐かしい!!鉄道唱歌のゼンマイ式なので、テンポがだんだん遅くなって・・・・
しかも上野到着案内時に今はなき普通列車の415系、快速電車の103系
乗換案内には、信越本線のあさま、上越新幹線は初期の速達列車のあさひ・・・・
懐かし過ぎて鳥肌でした!
到着ホームも18番線!!
首都圏では車両や車窓の変化が激しいですね。
当所上野10時発特急ひたち2号原ノ町行きに乗って両親の実家の相馬まで毎年お盆休みに帰省しました。自分はまだ小学生でした。終点原ノ町から相馬までは常磐線各駅停車に乗り換えだった為両親は原ノ町での待ち時間に必ず「牛乳アイスクリーム」を買ってくれました。駅で売り子のおばさんが「牛乳アイスクリーム〜」って売り歩く姿は今でも鮮明に覚えてて…😢後 平車掌区の「大塚さん」か「鈴木さん」はとても聞き覚えのあるお声だったので感動😂😂
平のうにめし弁当うまかったなぁ。
潰れちゃったんだよな。
いやいや、懐かしいですね。
私は、上野〜越後湯沢間、『とき』を利用していました。
冬になると毎年スキーに行ってました。
全てが神
485系のひたち号懐かしいですね。
いわき駅の発メロめちゃめちゃ懐かしい!!
茨城県南を飛ばして我孫子に止まるパターン、あったわ。
テレホンカードの車内販売も時代を感じる。
やはり楽興の時の発車メロディは平駅の頃から使われているんですね
1991年から使われているらしいですね
新宿駅にハープの調べの様な優雅な発車メロディーが導入されて以来、JR東日本では急速に発車メロディーが拡大していきました。ご当地にちなんだものだといいのですが、青森駅で首都圏で流れているものと同じメロディーを聞くと違和感を覚えますが・・・。
水戸出ると土浦も停まらず我孫子って結構レアなパターン。我孫子、柏、松戸に停まるひたちは、だいたい友部、石岡、土浦も停まってた。
スーパーひたちの登場で脇役にやられてしまいましたが、重厚な乗り心地は健在でした。
車内もボンネット型先頭車で、近畿車両で新製された2両のうちの1両。相方の1両は1999年に「ひたち」として最後まで残って国鉄色に戻された車両。キノコ型クーラーの吹き出し口がいいですね。
自分、かつていわき市に住んでいまして(沿線の風景が懐かしい)混雑期でスーパーひたちの指定が取れなさそうな時は、あえて「ひたち」にしてました。
磐越東線と別れて、国道49号線のバイパスと交差しますが、この先の辺りはいわき貨物駅、内郷機関区の跡。同駅廃止の際、下り線と並行するように付け替えた線路を走っています。広いヤードの跡は現在、いわき市保健所や雇用促進住宅などが建っています。
内郷機関区は懐かしいですね。客車「ゆうづる」「十和田」は、平で機関車交換していましたね。
平で売っていた「いわき弁当」懐かしい・・・
はじめまして 485系というと雷鳥号として運転していましたが高崎を通っていたあさま号とか白山号でも運用されていましたよね?いやぁ懐かしいなぁ。
485系を信越本線・横川-軽井沢間EF63の補助機関車協調運転できるような仕様にしたものです。
489系は「雷鳥」「北越」「しらさぎ」「白山」「あさま」「能登」「ホームライナー古河」「ホームライナー鴻巣」と共通運用で、臨時「はくたか」にも使用されていました。
あっ間違えた🤭あさまで運用していたのは183系でした。
重複御免。外観上何ら変わりありませんが「あさま」「白山」「そよかぜ」は碓氷峠を通過する関係で485ではなく489です ちなみに国鉄時代の同系運用を記すと、名阪と北陸を結ぶ特急「雷鳥」「新潟雷鳥」(後の「北越」)「しらさぎ」に加え、首都圏と上越長岡経由で北陸を結ぶ「はくたか」には横軽通過をしないものの長年485のみならず489が充当されていました。(681の穴埋めで出向した最近の「臨時はくたか」は六日町ほくほく線経由で越後湯沢発着)その昔 山陽新幹線開業前は山陽路で走行試験を兼ねて「うずしお」「ゆうなぎ」等 山陽特急でも489は活躍しています こう考えると489特性を生かした運用以外にも結構方ぼうを走り回っていたということですね
@@臼田充 189ですね 詳細を記すと189(非貫通)に加え489−0番代(連結器カバー付きボンネット)500番代(引っ込んだスカート部に自動解放テコ、自連、ブレーキホース、ジャンパ栓がついた独特の顔つきのボンネット)1000番代(貫通)2000番代(非貫通)の4種類が「あさま」では充当されていました(189(非貫通)と489(非貫通)はよくよく見ると顔つきが違いますが天井灯があればまず489と思えば良い)183と189は、1の位が3か9かは、3ならば中央、上越、房総、9ならば信越専用です(485と489も同じです) 183は信越以外のすべての直流区間走行が可能です 485は信越以外のすべての交直流区間走行が可能です(ただし、関東線区を例にとると甲武鉄道時代のトンネルを旧帝国鉄道庁が買い取ってそのまま国有となった中央(東)線では、天井灯があると、法で定められた花魁検査に(車両限界値が)引っかかるので、低型トンネルゆえに走行不可となることもある 新幹線開業後 東海道から払い下げられて改番した181等も上信越との共通運用だったが こうした中央線事情ゆえに天井灯の撤去を余儀なくされ惜しくも当初とは異なる顔つきとなっている) 一方、末尾が9ならば信越を含め他のすべての直流(189)、および交直流区間(489)での走行が可能です(車高を気にしなければどこでも走れる) 在りし日の「あさま」は一往復が直江津(信越、北陸両線区の中継点で交直セクション駅;信越本線は高崎〜直江津間 直流、直江津〜新潟間 交流)まで行きましたが「白山」のようにその先の交流区間(直江津〜金沢間)の北陸線区にはダイヤ上 侵入しませんでしたので489である必要はなく189でよかったわけです。しかしその逆489でまかなうことは成立しますので「白山」の間合い運用として489が「あさま」として長野や直江津に現れることもありました(百の位1が直流、4が交直流 ということです)
ゼンマイ式の鉄道唱歌が、やっぱり良いですね。
JR東日本の185系の一部と189系臨時列車、新潟、長野のジョイフルトレインの一部にわずかに残るのみですね。
いわき市在住。懐かしの平駅に胸熱。
そう、我々の世代にとっては「平駅」、「いわき駅」にあらず。
平、由緒ある名前が消えるのは寂しいです。
駅名は残してほしいなあ。
凄く懐かしい、思い出す‼️特急ひたち急行ときわ、よく乗りました。上野ー岩沼間!感慨深い⁉️浜通り98キロ走行、早かった❗️感謝御礼だっちゃ‼️あれからもう40年が経つのか。…
9:00ごろ(水戸〜偕楽園)画面右上に一瞬だが常盤台団地のスターハウス見えますね
681台頭で485が角にじわじわ寄せられていた時代でしたね。しかしこの映像を見ますとフットワークがいささかも落ち目に伏していないのがさすがといったところでしょう MGフィルターが立て羽根でタイフォンがスカート部というのは初期型(1−2〜17−18)の特徴ですね 長らく勝田駅構内に留置され1997年に惜しくも廃車解体されたトップナンバー編成である可能性もあります 非常に貴重な動画でしょう 鉄道唱歌のチャイムも往年懐古の情を掻き立てるものがあります 常磐線は急行「みちのく」や寝台特急「ゆうづる」を牽引するC62、特急格上げ後の583の「みちのく」に加えこのボンネット「ひたち」が上野駅18番線に入線してくる情景は今でも目に焼き付いております。「ひばり」との同時発車も名物でありました。92年のこの頃は二編成併結に向けたジャンパ栓とホース引き通し施工(全般検査)と、いわゆる「ひたち色」塗り替え に向けて漸次、国鉄型の面影がかき消されていた時代でオリジナルタイプをこよなく愛していた者としてはなんとも無念としか言いようのない時代でしたね。「雷鳥」と和倉の併結にヒントを得た悪業だと言えましょう。「ひたち色」に塗り変わって出てきたその変わり果てた姿にはさすがに目を疑いました。この映像の程なく後、この編成をも同じ運命を辿ったと思うと非常残念でありますが、そうなる直前の映像というのは貴重の一言に尽きます。
485系「ひたち」の末期は悲惨なカラーでしたね。特にボンネット編成。車内放送チャイムも651系同様の電子チャイムに交換されていました。
@@railway-sound 平駅出てすぐのトンネルの黒煙塗れの黒ずんだ煉瓦は「みちのく」「ゆうづる」牽引蒸気の音が谺しますね 在りし鉄路の格闘の跡を建造物も未だ滲ませる常盤路 私もこよなく愛しております 特に平以北 相馬、岩城 等の単線区間の状景は東日本大震災の影響で大きく変わってしまいました。15年ほど前「やまびこ」で1時間半で東京に帰れるのをわざわざスーパーひたちで上野まで帰り、仙台出発した直後に改札にきた車掌に半ば呆れ顔で「上野までですか(笑)」「いいんです 分かって乗っておるんです 時間が贅沢なんです」等のやり取りを経て4時間半かけて乗り通しました。本務車掌もそのまま上野まで乗務していました。目が合った途端 お互い「お疲れ様でした」状態でした。沿線風景が堪らなく「ええなあ、また乗りてえなあ」と思いながらあれから一度も乗っておりません。
貴動画にコメントするのはこの一両日が初めてですが、かねてより視聴させていただいていました。
現在においては珍重される音源、映像の数々ですね。消えていった名列車の往年と当時の日常が手に取るように伝わってきます。うちは親も祖父も親戚もみんな国鉄職員で父は信越本線の一部(直江津〜上田間)篠ノ井全線(篠ノ井〜塩尻間)中央本線の一部(塩尻〜韮崎間)の乗務をSL時代行っていました。信越の高田、新井のスイッチバック時の制動措置、篠ノ井の冠着(峠なのにすり鉢状で一旦下がってまた上がる)をマウントとする姨捨峠は特に難を極めたといいます。一度 冠着トンネルでは(2200メートルの中ほどで)動かなくなってしまって救援車を依頼したこともあったそうです。列車無線や電話もない時代ですから「ドがつくエライことになった」といいます。後年「しなの」に乗る度、381が涼しい顔で30秒ほどで通過すると「ふざけんな」と よく怒っておりました。父は急貨乙組でしたが憧れの甲や甲特による急客機が好きで1963年製作の8ミリ映画「ある機関助士」や1971年NHK放送の「蒸気機関車C62」はお気に入りでよくVHSで見ていました。しかし「実のところ、貨物の制動の難しさは旅客の非じゃない」と一抹のプライドも覘かせておりました。
一方の私自身は幼い頃からボンネット狂で中央本線沿いが1975年以来ボンネットが走っておらんことで不満ぷんぷんでありました。(「あずさ」では田町区の181トップナンバー[旧151−1であり20系デビュー時の第1編成]や昭和34年7月31日の狭軌記録保持車の2編成のうちのどちらかが充当されていた。旧2編成は東京方であれ大阪方であれどちらにも163と書いた銘板がそのまま付いていたので浅川(高尾)駅や八王子駅では非常にワクワクするものがあった)本動画に目が行ったのもボンネットという文字が最初に飛び込んできたからでしょう。181引退後も489が活躍していた「白山」「そよかぜ」「あさま」などを見にわざわざ高崎線まで見に行ったこともあります。東京は北区王子や日暮里付近、尾久付近がまさしくメッカで各方面へのボンネットが右往左往しておった時代が昨日のことのようですね。いちいち昔を振り返るような人間ではないんですが、今思えば鉄道として真に花形だったのかなあとは率直にそう思えてきますね。当時はより速く、スマートにという感じで新車にどうしても目がいく時代だったかと思いますが、(ちなみに489系ボンネット「白山」の直江津〜長野間のリアルタイムノーカットの全面展望は手許にあります。ボンネットのオデコ、散水型ワイパー、天井からも響く汽笛 等なかなかいいですよ 1982年 当時出たばっかしのVHSにて撮影)
東京、神奈川、と移り住んで現在は名古屋におりますが、願わくば東海博物館に489の4、504あたりを入れて欲しかったと思います。結局485、489系列で「能登」を除いては「しらさぎ」が最後までオリジナルの姿で走っておったわけですから。俺がしかとその姿を見届けたのは2000年8月が最後だったかな。稲沢を猛スピードで通過して行った。鉄道博を考えて埠頭を均し始めるのがその5年後やからそのつもりならば充分間に合ったと思います。正式な編成譲渡を交渉しておくにはお誂えの時期だったんちゃうかなと。東山公園の狭軌蒸気速度記録保持車C62 17を入れたのはさすがに快挙やなと思いますが、J西所属のクハ489−4、504を何とかして「永住させる」こともまた名古屋鉄道管理局時代から中京と北陸を結ぶ「しらさぎ」運用を一貫手掛けてきたJ東海の重要な使命だったのではないかと未だに思えてなりません。
平は、現在のいわきですね🎵
92年1月ならのぞみデビュー直前の頃か。だから東海道新幹線の案内がひかり13号
毎日Nゲージで僕の家では、485系は走っています。30年前の時刻表道理に上野ー仙台まで運行しています。
発車メロディが変わってない!
結構、飛ばしてたんですね・・・。
485系の時代から、常磐特急=高速運転だったんですね。
それを受け継いで 651系→E653系→657系と高速化を受け継いでいます。
懐かしい‼️
乗りました❗ボンネットの〈ひたち〉国鉄末期でしたので、座席はリクライニングしない青い「ロマンスシート」
上野~水戸間でしたが、車内の独特の匂い〈便所の芳香剤〉の匂いが懐かしい思い出(^_^;)
我孫子にもひたちが止まってたのか
こんな貴重な素晴らしい動画に対して低評価を押してる奴の気が知れん…
アップしてくださった方に感謝です。
平駅のキオスクの賑わい良いなぁ~(笑)
昔はキオスクで買い物が楽しかった!
キオスクのおばちゃん、今どうして居るんだろう~(笑)
小高に帰りたいよ。
私も帰りたいですよ
南原聖寿
僕の家では、永久に485系が毎日走ってます。(Nゲージ)
「あさひ」懐かしいね 「のぞみ」がなく「ひかり」博多行きねー 「あさま」も新幹線でない「あさま」ねー(上野到着前の放送)
ひたちってボンネットでも絵入りヘッドマークでしたね。
さらに眉無しもあったりして、東北特急らしからぬ存在でした。
私は仙台の人間ですが、常磐線で東京~仙台の直通特急は、もう無理なんでしょうね・・・悲しいですね。
「ひたち」「ひばり」は485系でも古い車両が多かったですね。国鉄末期には勝田や仙台の485系が「北近畿」などで転出していきました。
今は速さで勝負の時代ですからね
あまり新幹線は好きな方ではないので昔の上野駅の動画とか見てるとやっぱりいいなって思ったり
2020年3月14日に実は全線復旧して品川から仙台に行く特急ひたちができましたよ!
余剰となった181からの485への改造期には眉無しはよく見かけましたね 485改番と言えども床高は181のままなので中間車両が485系列ですと段差があり何とも不格好でした(「ひたち」以外にも「かもめ」「みどり」「有明」「にちりん」など九州線区でも見かけましたね)同じボンネットと言っても少しずつ顔も違う設備も違う 微妙な違いを楽しむことができるのも常磐線の楽しみでした。
現在、川口の博物館にある485(クハ481−23)も「ひばり」「やまばと」そして、時には「ひたち」で活躍していました。常磐線は481のトップナンバーはじめ歴史的な車両が最後まで残存している貴重な線区でしたね。ちなみに川口の博物館内のボンネット部のタイフォンカバーは回転式ですが上下が逆さに付いている(この系列では)唯一の異端車です。ことあろう異端車が三大博物館内に永住権を獲得できたことは嬉しい限りです
俺も小高に帰りてー
小高区ラブの方が多い!
まだ電光掲示板じゃないですね
速い!
スピードは、130km/h程か?
齊藤宣幸 485系は最高速度120km/hですよ。
jyouban531
へぇ…、そうなんですね。
上野おばさんだ!
駅放送が上野おばさん
キハ110系、