基調講演Ⅱ ヤマト王権と出雲ー海の道と山の道ー(森田喜久男「出雲への道・出雲からの道」)

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 18 лис 2024
  • 島根県古代文化センターシンポジウム「壮大なる出雲の交流ー国家形成期の出雲をめぐる古代交通ー」の基調講演の2本目です。
    講演:森田喜久男氏(淑徳大学教授)
    前:Ⅰ 出雲と他地域との交流伝承 • 基調講演Ⅰ 出雲と他地域との交流伝承(森田喜...
    次:Ⅲ 律令制下の出雲ー出雲国計会帳は語るー • 基調講演Ⅲ 律令制下の出雲-出雲国計会帳は語...
    シンポジウムの再生リスト • 壮大なる出雲の交流
    古代文化センターHPのシンポジウム紹介ページshimane-kodaib...

КОМЕНТАРІ • 5

  • @きらやまと-b2p
    @きらやまと-b2p Рік тому

    丹波国が栄えたの遺跡の年代より弥生時代中期後期。
    そのことから、丹波-播磨の水路を経由した鉄材の入手と考えられる。
    このことは、同時期に日本最大の鉄器工房である五斗長垣内遺跡からも想定できます。
    三韓地域の掌握、丹波の掌握は当時の畿内周辺勢力にとっては非常に重要であったと考えられる。
    何も継体天皇の時期を待つ必要はないのではないかな。
    そもそも丹波の由良川と加古川を接続した水分は水運はまさに重要な水運の跡でもあり、これを見落とすわけにはいかない

  • @金子貞夫-j9v
    @金子貞夫-j9v Рік тому

    吉本隆明の共同幻想論はこうした話しと古事記と柳田国男等更にフーコ哲学から古代国家の成立論の展開をテーマにした独創的かつスケールの大きい独特の国家論への試みと強く確信した。

  • @高原基広
    @高原基広 Рік тому

    時代は今回の講義と異なるが1219年源実朝暗殺時後に淡路守が変に権力主体により書き換えられた形跡がある。これは国司赴任国書の中で阿波守守護は佐々木経高になっているが連続性の明確で無い赴任期が二回連続で別記同一人物名で記載されている。一つは、?〜1200年、もう一つは1205年〜?、で五年間の不明を挟む。
    堀田氏系系図では源実朝存命中に重遠と重満は血族で重満が阿波守となっているが、権力母体の清和体制下で消された可能性もある。この堀田氏系に浦上水軍があった。元々私の先祖は武内宿禰子孫紀長谷雄の子孫で重満も入っている。重満は源実朝に従い阿波守以外に下総国植羽の地頭も賜っている。そして私の先祖の多くが岡山県津山の出雲街道付近に分布した。この事は瀬戸内海及び四国、そして出雲を結ぶ歴史を消した阿波守守護史となってしまっている。清和体制が有るならば再考を願う。と思われますがいかがなものでしょうか。

  • @onnetotaki
    @onnetotaki Рік тому

    日本列島が100メートル沈下したら兵庫県で東西が分断され、由良川と加古川が海路となって日本海と瀬戸内海がつながる。その分水界が丹波市にあります。
    南北200㎞を100メートルの高低差なら、徒歩より舟で往来できますね。

  • @hicchin57
    @hicchin57 Рік тому +1

    王権?あなたどこの人?