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実務家から大学に転職し、今も変わらぬ中高の歪んだ歴史教育を改めて認識する機会が多々ありました。「新しい歴史教科書をつくる会」の会員になりました。日本人の次世代のために、誇るべき日本の歴史を普及してまいりたいと思います。
有難うございます。私、73才は歴史のお授業が嫌いでちっともお勉強を致しませんでした。嘘の歴史に時間を費やさず、幸運でした。新しい教科書、正しい教科書の配布が楽しみでございます。
塾で社会を教えていますが、時々「聖徳太子はいなかった、誰それはいなかった」などと言い出す生徒がいて困りものです。
そのうちに明治期の説明で「坂本龍馬は居なかった」「伊藤博文は居なかった」と書かれるようになりそうな。
+島風榛名 とりあえずお札からは隣国の都合で消え去りました。
坂本龍馬はいなかった・・・ではありませんが、教科書から坂本龍馬はカットだそうです。なんていうか、バカに合わせて教えるべきものを教えずにすませるのは本末転倒だと思うんだ。教えればわかる人のレベルまでどんどん下がってしまう。「悪貨が良貨を駆逐」状態になってしまう。
@@kogamokomomo6832 坂本龍馬を教科書から消すのは幕末から明治維新の真実を国民に知られたくないから特に孝明天皇の暗殺をかくしたいから。
前に言って居られたお話で、つくる会の教科書のきじつの仕方理解しやすい。外圧が有った時に衣服まで変わっていった経緯が良く理解出来ます。明治に着物から洋服に変わったように、大変な時はガラッと変わるんですね。
聖徳太子不在説は聞いたことがあったけれど、まさか聖徳太子の表記が教科書から削られて、厩戸皇子だけになっているとは知らなかった。驚き・・・ 歴史を歪めて国家を潰そうとするその考え方は、映画「キリングフィールド」を彷彿とさせる。私たち大人が賢くならないと大変なことになる。
文科省にかかわらない、日本の正しい歴史を教える学校を創ることはできないものか。省庁にはいい加減、辟易とする。
こんな面白い話をしてくれるなんて、ありがとうございます。
現在の教科書はそんな内容になっているのですか…。自国の歴史と文化を、自国の教育が必死で貶める、捏造してまで隣国の主張に合わせる…。これからの我が日本国はどうなってしまうのか、不安です。
Hinako Shibainu 近隣諸国条項
聖徳太子が存在しないというなら、存在しない証拠を出してもらわなくては日本人は納得しない。
「存在しない証拠を出して」だって...できないことを要求する反日
非存在説というトンデモ逆説が出たおかげでむしろ偉業が研究され存在が引き立ったという歴史の醍醐味これを逆司馬史観とでも名付けようか逆説ありきの学問はいろいろとおもしろい
日教組のガン細胞文科省のガン細胞
聖徳太子がいらっしゃらないと親鸞の浄土真宗は存在しない。この事はあまり語られていはい。
川上直人 詳しく知りたいな
太子は「在家の仏教徒」。当然、妻帯者。それでも日本仏教の聖人として古来から仏教徒全員から崇拝されてきた。 当然、親鸞も太子の崇拝者。
@@ぴょんぴょん-u6b さん、親鸞が京都の六角堂にこもったとき、聖徳太子があらわれて 「修行者が前世の因縁によって]女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。」 といったんだとか。つまり、「聖徳太子が生まれ変わって親鸞の妻になった」「親鸞の妻は聖徳太子の生まれかわり」ということにして、僧侶の妻帯を認めさせたということじゃないかと思う。結果、寺が世襲制となる。ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E#六角夢告
@@ぴょんぴょん-u6b さん、しかし、「聖徳太子がいなかった」というのは「聖徳太子という名前が彼の死後100年ほどたってからつけられた信仰上の名前」ということであって、厩戸皇子がいなかったということではありません。ねずさんは勘違いしていると思いますね。聖徳太子不在説についてはネットでぐぐるだけでも大量にでてきますが、そうしたものを読んでいないとしか考えられません。
山川出版社の詳説日本史図録第7版を入手しましたが聖徳太子の記載がありません。もちろん冠位十二階も憲法十七条も推古朝の年表中で並べてあるだけです。太子が与えた広隆寺の仏像も伝承だとしています。稲作の半島経由伝播を捨てていません。縄文人と弥生人の頭骨も明確に分けて渡来人を強調しています。東大歴史学による日本史歪曲と冒涜(事実を消すイデオロギー)はまだまだ続いているようです。
歴史家は新しいことを発見するか通説をひっくり返すことしかやることがない新しいことを発見するのは難しいから安易な通説をひっくり返す方に行くんだと思う
ただのとんでも説だと思ってました。聖徳太子不在説って。ふざけてる(怒)
I respect Shotokutaishi most.
+nihonmusume THNX so much!
You are welcome.
厩戸皇子の存在は、否定できない史実あり、だが、その偉大な功績を肯定する歴史的裏付けが近年の研究で打ち消されてきている。この辺のところを先生に反論していただきたかった。
動画を視聴して、ねずさん勘違いしているなあと思いました。「厩戸皇子はいたが聖徳太子とは呼ばれていなかった。」と言う説といっていいかも。つまり、聖徳太子と言う称号は彼の死後100年ほどたってからつけられた信仰上の名前であるという説じゃなかったかな。聖徳太子の事績とされる冠位十二階や憲法十七条などを聖徳太子が作ったというのが怪しいということで、keiichiさんがおっしゃるとおりです。ねずさんは「冠位十二階や憲法十七条は聖徳太子が作ったはず」という信仰を持っておられるようなので、反論は期待できないでしょう。toyokeizai.net/articles/-/118796?page=2
聖徳太子って、お墓もあるし、記録もある だから実在の人物だと思う。ただ、俀から隋の煬帝に書を送ったのは多利比狐だったと、隋書に記載されている。聖徳太子では無い。
とすると、推古天皇も創作されたことになる。
文部科学大臣やってくださいw
脳内アルゴリズム解析器 や「へめへめ「わ
聖徳太子が私達の歴史から消されそうになりました。今年の大学一次試験の日本史の問題が朝鮮の歴史に変わっていて、気が付いた親御さんがが取り上げてくれたので、知りました。国会でも杉田議員が歴史教育の問題をを取り上げられました。文部省の前の次官がハピーオンザビーチなんて呼ばれる上に、様々の問題行動を続けています。隣の国々に、忖度しているうちに文部省もマスメデイアも自分が分からなくなり、乗っ取りが完了しているのではないでしょうか?私達の歴史が奪われていっているのに……。どうしたらいいのでしょう?
「聖徳太子の両側の人は子供を描いている」という説を聞いたことがあります。私がその説を読んだのは10年ほど前です。
事実が今を生きる誰に有利に働き誰の気分を害するかは無関係ですね。架空ではなく誇張だと思いますよ。日本書紀を正しく読み解く必要があるかと思います。
《聖徳太子は十人の人の話を聞き分けた》という《逸話》がありますね、その為《豊聡耳》と呼ばれたとも言う。これは《バイリンガル》の事でしょう、十か国かどうかは解らないが兎に角《多国語を理解できた》と云う事を表す逸話では……つまり《太子の出自は》土着の日本人では無かったとも推し量れるかも……。といって問題視する気はない。日本は元来、争いを厭い理想を持ってこの島に辿り着いた人々からなる《多民族融合国家》→《八紘一宇と和の国》なのだから太子が西域の出自であったとしても《当たり前》とも言える。
当時の日本は渡来人が多かった上に、吉備、出雲など、古代の連合王国の名残から地方ごとに方言がかなり違っていたこともあると思う。 当時は人の流れがグローバルだったらしいし、太子が語学に長じていた可能性は十分にある。
ありがとうございます...
釈迦三尊像光背碑文は「上宮法皇」となっていて、「聖徳太子」とは一切書いてありません。「聖徳太子」の名前は8世紀から使われ始めていているので、存命当時の呼称と思われる方を優先して「厩戸皇子(聖徳太子)」とした教科書(山川など)があるというだけの話です。不在説をとる教科書は寡聞して知りませんが、もしあるならご教示ください(まあ、ないでしょうが)
十七条憲法は後の大宝律令の焼き直しだという説もあります。その根拠は大宝律令で初めて採用された役職名が十七条憲法でつかわれていたりするかだとか。また十七条憲法は記紀の中でのみ語られ、他の文献には存在しないがためだそうです。また聖徳太子不存在を主張する方は、厩の王子の存在は否定してなかったりします。この二人が同一人物であるのかどうかということです。また聖徳太子の不存在説の根拠として、推古天皇は重祚までして皇位を守っていますが、厩戸の皇子が本当に皇子であったのなら、何故天皇に即位しなかったのか、年齢的にも能力的にも十分だったはずあるのにかかわらずです。そしてもう1つは、聖徳太子の業績のほぼすべては摂政についた当初に集中しています。在位は長いはずであるのに、業績は当初のみ、これはおかしい話ではないかと主張されています。
よかった、まともなコメントがあった!
功績が多すぎて不在説が出てるらしいけど、厩戸王がこの時代の有力者だった事は事実で、頭の良い人が主要な政策の殆どの企画に関わるって普通だと思う。他の人の功績だったら、功績を取られた人がもっと文句を言うはずじゃないか。
聖徳太子の隣の2人はお手伝いの子供だと思っていたわ
聖徳太子というのが諡号だから本人が名乗ったことはないというのは間違いではないけれど。同じ基準を適用したら、奈良の大仏を作ったのは聖武天皇じゃないし、平安京遷都したのは桓武天皇じゃないということになる。天皇だけではなく、戦国武将なんかも信長や秀吉、家康というのも諱で本人が名乗っていないことになる。天皇が諡号で歴史に記され、武将が諱で記されるなら、聖徳太子だけ諡号を否定するのはルールとして捻れてる。
確かにぃ~🐞
その通りですよね。昭和天皇はいなかったんでしょうw
どこで得た情報か忘れたけれど太子は若い頃よく馬に乗って遠走りしていて、ある時、馬から降りて土手に腰かけ一休みした時にそれが起こったとのこと。いわゆる我即宇宙の神秘体験です。十代の頃です。先に存在を体験したから彼の仏教理解は深いものでした。だいたい簡単にそれが起こるという事は、太子の母のインドの聖人がお腹に入ったという夢見の話が残っているように、たぶん悟りを開いた経験のあるヒマラヤあたりの賢者が何かの意思を受けて分身がアバター的に日本に生まれてくれたのでしょう。因みに私の記憶の中にある太子の容貌は俳優の高橋幸治さんの24歳ごろの顔をもう少し甘くしたような感じです。TVで初めて彼を見た時はじっと見入ってしまいました。何言ってんのとお笑いください。太子は私がお粗末なテクノロジーの21世紀の地球で俗物暮らししているのを知っているようです。二人とも良い意味できっとチェックされていますよ。愛の微笑の中で。太子がいなかったという話は私も小名木さんも神谷さんもいなかったという話になります。これ妙にリアルでしょ。私は秦野市にいたことがあります。秦氏と言えばユダヤ系の技術集団です。そして聖徳太子の側近の秦河勝(はたのかわかつ)氏が出た場所です。秦野盆地は奈良盆地とよく似ています。石工集団は日本に来れば樹木が多いので大工集団になります。そして大工の親分は聖徳太子です。つながりますね。長ったらしく書いてすいません。
何時ぞや テレビ番組の記憶ですが 折しもタイミングよく、モンゴルあたりからの外圧で、そちらに隋が傾注していたから、聖徳太子も、強く打って出れた・・・みたいな解説になって居たのですが どうなんでしょうか 左傾どっぷりのテレビ局と、学者の監修による いつものパターンなのでしょうか。
+gon337 だとしたらモンゴルGJですw
gon337 高句麗かと
筑紫王朝を認めない限り壬申の乱まで、真実に辿り着きませんよ。学会の浅はかさには失望しています。
小長谷の考え方すきでか
厩戸皇子は、当時権力中枢にいた蘇我氏系の怜悧で人柄の良い、誰からも慕われる皇位継承候補者だったのだろうな。強権を行使した蘇我馬子と両輪で国家運営の舵取りをしていたのだと思うのだが、ただ、この二人が亡くなると、彼らの偉大な業績と権力は、他勢力に根こそぎ奪われてしまう悲劇が待ち構えていたのでした。
昭和時代の学校の日本史は明治維新までは熱心に教えて、あとは教科書ほったらかしで淡々と年表を丸暗記させたり、小テスト小テストで時間を潰して学期末になるのが主流で、夏休みの宿題で先生が課題図書を推薦してきて、課題図書以外でも構わなかったが、読書感想文で、戦争は悪いゼッタイみたいな作文が入選してましたからね。 韓国の反日教育はえげつないが、こっちはこっちで洗脳教育に熱心だったって今なら分かります。
聖徳太子の隣の人は子供だと思っていた。
私もそう思っていた記憶があります。
聖徳太子が混血 > 聖徳太子の母が「穴穂部間人皇女」という名前で、「間人」は「はしひと」と読む。このことから「はし」=「波斯」=「ぱーしー」=「ペルシャ」ということになる。つまり、「(用明天皇に)嫁いだペルシャ人の妃」という意味じゃないかと。厩生誕伝説なんかも考慮すると、十分にあり得るかも。サーサーン朝はキリスト教や仏教を融合させたマニ教が発展していたから、聖徳太子は神仏混合の理念を育みやすかったのかもしれない。煬帝への「つつがなきや」の親書は、「仏教のもとでは万人が平等」という解釈なら、煬帝がぐうの音も出せなかった理由に繋がる。
聖徳太子は、大阪。って言うくらい 大阪に遺跡有ります。聖徳太子が建立した四天王寺は、百済の職人に造らせて 数年後に金剛組として創建して現在まで有ります。この職人が、飛鳥寺の同じ職人なのか? 知りたい。排仏派の物部氏も、寺院を作っていたらしいけど 蘇我馬子と何故対立して、蘇我馬子一族に葬られたのか 知りたい。
ねずさんは百済の職人が作った会社が世界最古の企業だと認めたくないだろうねw
100年鎖国をしたせいで文明が遅れて弱っちかった日本がアメリカの鉄の軍艦に驚いて幕府が消滅し、刀を捨てて西洋文化を学んだせいで、日清日露戦争に勝つほど強くなり、弱い周辺諸国を侵略を始めたから、正義の鉄拳が落ちました。みたいな構図を学校で覚えさすのは日本の弱体化に繋がるので、肝に命じた方が良いですね。
その通り❗️聖徳太子は実在するでしょう!
蘇我氏本家が潰されたときに、蘇我氏と聖徳太子の記録がめちゃくちゃに書き換えられたことが現状の混乱の原因だと思っています。私個人は蘇我氏は後の藤原氏に当たる一族として皇族のバックアップ的存在として権勢を持ち、厩戸皇子=蘇我蝦夷(聖徳太子)、山背大兄王=蘇我入鹿ではないか?そして、二人を抹殺し、その事績をゆがめて伝えて、自分をよく見せようとして、蘇我氏を悪役にしたのが中大兄皇子の勢力ではないか?と予想していますが・・・
結局、不在説に対する反対の論拠は示されていない。太子在世中に「国司」という役職名は無かったという事で、十七条は聖徳太子が作ったわけではないといわれているが、これが直ちに不在説につながるわけではない。天皇に対する法華経 維摩経等の講義がなされたことは太子の名前で義疏が残されている。
you ookawa d
ワンピースを御存知とは
太子の両隣は童子、子供でしょ。
<聖徳太子がいらっしゃらないと親鸞の浄土真宗は存在しない。この事はあまり語られていはい。>この意味は、よく分からないが聖徳太子は、像法の法華経信者だったろうと・・・。勝鬘経 維摩経 の役割はそれぞれあるとして、中心となったのは法華経だった。天皇に講義している。この時期に、天台智顗が法華経から、摩訶止観、法華文句、玄義を現している。不思議な事だなと思う。親鸞が聖徳を讃嘆したならなぜ法華経を宣揚しなかったかわからん。
隋書の倭国伝には初めの遣唐使に対してあざ笑うようなことが書かれています。いきなりやって来て「我々は対等だから」と言われた隋が、「何言ってんだコイツ」扱いだったので攻めて来なかったのかも??何にせよ、半島経由で伝わる隋の文化を直接摂取出来る事は大きな収穫になったはずですね。
法隆寺は全焼し、現在のものは移築したものです。そこに安置している仏像は当然法隆寺のものではありません。その像の文章は上宮上皇 聖徳太子と書かれています。上皇ということは天皇の位を得たものだけに許される称号です。厩戸皇子は天皇を経験していません。つまり上皇という称号はつけれれません。現在の天皇家ではない、隋書に書かれたアマノタジリホコを示していると思われます。
聖徳太子はイエスキリスト説もありますw
失礼ですが、聖徳太子不在説について、正しく認識されていないように思いました。聖徳太子不在説とは次のようなものです。㈠紙幣になった聖徳太子に肖像画は後世の偽作 700年前の敦煌の壁画に聖徳太子像にそっくりなものがある。中国人が描いた唐の時代のもの。㈡聖徳太子廟は直系50mの円墳。太子・母・后の3人が葬られているが、聖徳太子伝暦には「太子は死後墓に2つの棺を設けよと指示したとある。四天王寺の記録には「太子の墓を探しているがどこにあるかわからない」とある。聖徳太子廟は後世の捏造ではないか。㈢604年に十七条憲法が制定されたという記述は、720年の日本書記に初めてでてくる。 600年代の隋書倭国伝に冠位十二階は書かれているが十七条憲法はかかれていない。㈣十七条憲法に国司という言葉がでてくるが、この言葉は聖徳太子の時代にはなかった。 国司は701年の大宝律令から始まる官職である。 よって十七条憲法は大宝律令をもとに後世につくられたと考えられる。㈤隋書倭国伝607年に「王は600人の妻を持つ」とあるが、当時の天皇は推古天皇で女帝。これら㈠~㈤について、反論することが必要だと思いますが、それをされていないので、納得できる話ではありませんでした。
聖徳太子の墓は法隆寺でしょ!(笑)
@@metalrider5730 さんja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E7%A6%8F%E5%AF%BA
それってどれも言いがかりでしょwだって、言いがかり自体がどれも学術的根拠がないから。
@@yskztkhs7986 さん、いいがかりではなく、聖徳太子不在説の概要です。現在のところ支持されていますが、ひとつの説なので、将来新説がでてまちがいということになるかもしれません。歴史っていうのはそういうものです。小名木さんは聖徳太子不在説を批判されています。科学に批判は必要です。でも、聖徳太子不在説を正しく理解して批判しないといけないでしょう。特に重要なのは、次の点です。㈢604年に十七条憲法が制定されたという記述は、720年の日本書記に初めてでてくる。 600年代の隋書倭国伝に冠位十二階は書かれているが十七条憲法はかかれていない。㈣十七条憲法に国司という言葉がでてくるが、この言葉は聖徳太子の時代にはなかった。 国司は701年の大宝律令から始まる官職である。 よって十七条憲法は大宝律令をもとに後世につくられたと考えられる。小名木さんは、㈢㈣についてきちんと反論されていますか。されているとお考えであれば、小名木氏はどのように反論されているか、書きだしてみてください。よろしくおねがいします。
推古天皇の下で働いた聖徳太子は大和朝廷が作った偶像。本当の聖徳太子は九州王(=倭国王)の「アメタリシヒコ」、もしくはその子。「アメタリシヒコ」は官位12階も作っているし、その子の「利」は「上塔の利」と呼ばれた=上宮に住んでいたという意味。魏志倭人伝にハッキリ書かれてある。なお、倭国は大和朝廷が治めた日本とは別の国。旧唐書には倭国の条と日本の条は別々に書かれてある。
そのとおりよく勉強しておられる
それと、聖徳太子から、本格的に仏教を取り入れ、明治時代の廃仏毀釈まで続いた。それに、平安時代、密教が弘法大師と最長によってもたらされ、鎮護国家の祈祷が明治時代まであったらしい。江戸時代までは、『いろは歌』は弘法大師作というのが常識だったらしい。しかし、明治頃の学者にいきなり否定された。御用学者のような気がする
欽明天皇が仏教をとりいれ、歴代天皇は神仏を習合して信仰してきた。出家した天皇も多数いるし、歴代天皇は寺院の創建にも熱心だった。それをいきなり明治になって神仏分離令を出し、廃仏毀釈するって、先祖がやってきたことの否定じゃないですかね。
十七条憲法はなかったという方が妥当だと思う
しかしこの銘文にも絵にも賛否あるようで、いまのとこ不在説も実在説も決定的な感じしない科学的に年代測定とかできないのかな
聖徳太子の肖像は唐 本 御 影 (最古の肖像画と伝えられる)の複製画で太子のものではないことがはっきりしています。
聞き手の方がちょっと💦
聖徳太子がいてわ、こまる。国があるのでわ。世界。グローバルをすすすめる。ひとか。へんな、宗教か。
隋書には聖徳太子は出てきません。きちんと原文を読みましょう!開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。 大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」 大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。 その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。
あんたばかぁ?聖徳太子は諱だよ、死後生前の徳行によって死後に贈られる称号隋で知るわけないし、また親書は天子として出しているちょっと考えれば分かりそうなもんだけどなぁww
川西の民 さん思想が思考を曲げてしまうのでしょうね。
聖徳太子は藤原氏と共に日月の道、日の本の12道や物部氏を滅ぼして12階を作り、日本の名を奪った。
藤原氏という氏族は当時いなかったんですけど・・・
・・・・そもそもその話の流れで在っても「だから聖徳太子不在説はまやかし」と言う結論にはならないよね?と言うか聖徳太子なんてあんなもの最初からいなかった・・・・そんな説じゃねーよ、阿保なのか?
聖徳太子の従者二人が小っちゃい子供なんじゃないのかな?半島や大陸の人達が言う自分達の身長は本当にどんぶり勘定で高く言うからねずさんも真に受けたらダメ、今でもそうなんだから当時なんかもう...
初手何言っとるかききとれんかった。
不在ではありませんが、豊国の王では無く太宰府に存在した倭の五王に属する人でした。記紀は豊国の話と太宰府側の話をごちゃ混ぜに記しているので惑わされるのです。隋書俀國伝を読めば判ります。兄弟統治に付いても記されています。倭と太宰府側が昼と夜を分けて担当したと言ういわゆる兄弟統治です。ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%80%9D%E6%AF%94%E5%AD%A4
黒駒は12道の象徴日の御子の祭りの時の乗り物
聖徳太子は存在してます 秦河勝が聖徳太子です
小名木善行さんが何故ねずさんと呼ばれるのですか?。最近観るように成ったので理由が知りたいです。ねずさんのお話の多くは良い内容なのですが、些か早口で聞き取れない部分が出てきます。元号とか地名などの部分ではゆっくり目に話してもらえると、有り難いです。
元のハンドルネームが「ねずきち」で、ブログ名も「ねずきちのひとりごと」でした。何故ハンネをねずきちにしたかはねずさんにしか分かりません(^^;
背が高いのはユダヤ人。
聖徳太子は実在して欲しい。しかし 法隆寺 釈迦三尊 光背銘は 証拠でない。( 1 ) 聖徳太子の 死亡年月日が違う 日本書記 推古29年 621年 2月5日 光背銘 620年 2月22日 光背銘 法興元丗一年 (620年)と記載 年号に 「法興」使用は 推古朝で鋳造された釈迦三尊像でない。( 2 ) 聖徳太子は天皇でない 光背銘記載「上宮法皇」で 聖徳太子でない 法皇=仏法に帰依した天皇( 3 ) 法隆寺 全焼『日本書紀』 天智9年(670年)4月30日 「夜半之後、災法隆寺、一屋無余」 ( 釈迦三尊は無事とは記録なし ) 重量物を人力で持ち出せない 現法隆寺は 移築。 法隆寺五重塔の心柱は、年輪年代測定によって 594年に伐採された木材である(奈良国立文化財研究所)
聖徳太子はキリシタンのペルシャハーフ。
17条憲法は大宝律令以後に定められた「国司」という役職が出てきます。つまり17条憲法は701年以降に書かれたものになります。聖徳太子の時代ではなく701年以降に書かれたものだと判明しています。
それは言いがかりでしょ。昔の用語を律令の用語に直したと考えるのが妥当。そのような言い方をしたらほとんどの編纂文章はなかったことになるのでは?
@@yskztkhs7986 日本書紀の謎を解く―述作者は誰か (中公新書)森 博達参考に
法隆寺は670年に全焼しています。当然中にあった仏堂等は消失したはずです。現在の仏像は台座も含めると500キロを超えています。火事の時持ち出せるようなものではありません。法隆寺の5重の塔の心柱は598年を示しましたことから、奈良文化財は消失後移築されたことを結論ずけています。つまり今ある法隆寺や仏像は移築、移転されたものです。内部の仏像は当然聖徳太子のものではありません。
平成13年(2001年)に、奈良文化財研究所が、五重塔のヒノキの中心柱の伐採年は、年輪年代測定法により、西暦594年と断定しました。594年でした。訂正。
似たような、寺院が2つあって1つが火災にあったのです。
@@青木敏雄-z1j 594年の意味がわからないようですね。最初の法隆寺より更に古いということです。建設は13年の差があります。奈良文化財研究所は移築したものだとかつ論ずけています。
似たような寺院が二つあったとはどこで調べられたのですか?見当たりません。ご回答よろしくお願いします。
聖徳太子と言う名前の摂政はいません。聖徳太子は後に名前がつけられた。聖徳太子の子孫は全員殺されて絶えた。天皇子孫で良く仕事したのに酷いな。まあ一神教の仏教を積極的に入れたからだろう。
実在の人物しかお札にしません。それも一万円札だし。
仏教って一神教ですか?釈迦如来、薬師如来、不動明王、十一面観音、救世観音、千手観音など多くのみほとけがありますが。
※ 聖徳太子の正体 587年、物部、蘇我氏との間で神仏戦争が起き、聖徳太子の家来である迹見赤檮が物部守屋を弓矢で射殺した。彼は押坂彦人大兄皇子の家来でもあった。日本書紀は彦人皇子が死んだとも記述しないで、突然、その子・舒明天皇が即位したと述べている。その皇后・皇極天皇治世時に大化の改新が起こり、中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺した。罪名は国政を専横したと言う。しかし、皇極天皇は彦人皇子の孫で蘇我氏の血を受けていない。なぜ、蘇我氏が専横しているのに、皇位が蘇我氏の血を受けていない本流に戻ったのか。どうしてそれが専横となるのか、矛盾している。彦人皇子は皇太子であるのに天皇になれなかった。まるで聖徳太子とそっくりである。両者の家来が迹見赤檮である事から聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子であり、天皇に成れない訳がない。聖徳太子は蘇我入鹿として斬殺された。三韓の朝貢時に事件は起きた。倉山田麻呂、犬養連勝麻呂と佐伯連子麻呂が天皇の御前へ進み、子麻呂は将書を読もうとしたが、汗が出て体が震えて出来なかった。入鹿がなぜ震えているかと問い。天皇の近くで恐縮し、入鹿の威厳に恐れたと言った。その時中大兄皇子が飛び出て、入鹿を斬殺した。子麻呂ら3人は三韓の使者であり、将書は天皇に渡す物である。入鹿大臣が同席する必要なし。子麻呂は天皇殺しが恐ろしかったのだ。子麻呂と中大兄(百済豊璋)は仲間で、鎌足(新羅武列)も然り。 聖徳太子暗殺の犯人は中大兄皇子(百済王豊璋)である。だから、彼は滅んだ祖国・百済を再興する為に、日本軍を白村江の戦いに注ぎ込んだのである。中大兄皇子はイスラエル12支族のユダ族である。天皇家の紋章がイスラエルのシンボルの麒麟(一角獣)である事からも分かる。この偽の天皇の為に、楠正成、2.26事件の将校、神風特攻隊員等が犠牲となった。未だに日本は朝鮮人に支配されている。 法隆寺は聖徳太子(日帝)の怨霊封じの結界所、大化の改新が暗殺劇の脚本 法隆寺の結界施設の再建には全国から腕の立つ大工が集められた。その中に鳶の弥八と烏の宣太がいた。弥八は五重塔建立覚書と言う日記を残していた。ある日、職人が帰った後の五重塔の階下の部屋で、藤原家の幹部が車座になってとんでもない密談を始めた。何があってもこの敷地からご神体である救世観音像の気が流出せぬ様中門は中央に柱を立て、これを結界とした事。なぜならば、ご神体の頭部に聖徳太子の計り知れない程深い霊験を封じ込める事が出来たからだ。事があった場合は兵を挙げて東西と北から攻め上げ、中門に追い詰めて処置する手はずを取る事。又太子が民衆の精神意識を高める為に編纂させた学問書・旧事本紀は一般に広まると民衆を大変管理し辛くなるので、建立に紛れてここに幽閉する事。その方法は五重塔の舎利器の中に全72巻の内48巻を、残りを救世観音像の体内に納め、決して世に出ない様に封印する事。 実は法隆寺の再建は藤原氏の隠蔽装置の設営作業だったのだ。太子が民衆の為に命を投げ出して編纂した叡智を藤原氏の都合により祟りとして閉じ込める 事に大いに義憤を感じた弥八は、書物をこっそり持ち出そうとした。五重塔の舎利器から抜き出し、観音像は経文が書かれた麻布に巻かれていたが、剥ぎ取ってから抜き出してまた巻き戻した。すると、太子の霊験は太子の遺志を救おうとした弥八の精神に鋭く反応して、一種の強い怒りとなって抜け出し、夜とはいえ、太陽が地上に降りた様な明るさの中で、強烈な地響きと同時に濛々とした白煙を残して1本の閃光が途轍もない勢いで天空目指して飛び去った。弥八は恐ろしくなって書物を戻そうと考えていた。その後近所の屋根を修理している時に誤って墜落して不慮死した。書物の行方はそれっきり判らなくなった。 聖徳太子は大化の改新時の蘇我入鹿として暗殺された。犯人は中大兄皇子(百済の豊璋王子)と藤原鎌足(新羅の武烈王)である。その後、太子の子・高市皇子と孫・長屋親王は藤原不比等によって殺された。その祟りで藤原四兄弟は天然痘で斃れた。藤原氏は朝鮮人でユダヤ人でもある。 日本が朝鮮人に侵略された証拠 現存する最古の仏像彫刻の作品は法興寺の丈六釈迦如来像いわゆる飛鳥大仏NO1である。作者は鞍作鳥で609年完成した。飛鳥大仏をよく見ますと、下着に憎?支をつけ、その上に大衣をまず左腕にかけてから背中に回して右腕を覆い、最後に左肩にかけています。すると、襟のところが二重になります。ところが、623年、同じ作者が作った法隆寺の本尊である釈迦如来像NO2は襟元が一重である上、衣のつけ方が判らなかったらしく左肩背面のところに衣の端が降りています。先に作った方が大衣のつけ方を知っていて、後に作った方が判らなくなったのは腑に落ちません。 飛鳥大仏の指の間接部分の孤線は1本ですが、釈迦如来像は2本になっていて左手の指と指との間に蛙の水かきのような膜があり、顔の表情も気品がなく、日本的ではありません。その上、釈迦如来像は溶胴が十分回らないで穴が空いたので、そこに型を造って再び銅を流し込むという鋳掛を行っています。
長々と何を妄想しているのですか?
聖徳太子は実在したが、ほか数名の功績を聖徳太子に着せたのではないかという説はどうなんですかね?聖徳太子自体は障害をお持ちだったというのを聞き及びましたが
聖徳太子が生涯をもっていた、と言う説があるのですか?詳しく聞かせていただけませんか?
宇宙人説
太子と言うからには、後の天皇!今で言う名なら東宮ですよね。何故天皇になれなかったのでしょう?記紀には彼が天皇(スメラミコト)となったと言う記述がありません。と言う事は実際になれなかったと言う事でしょう。白村江の戦いで敗れた筑紫郡の長、筑紫君薩夜麻がおそらくは「日出ずる国の天子より」の書を送った人物でありましょう。1000艘の戦船のうち600艘が帰還している点もおかしいです。統一された軍隊ならまだ負けたと言う数ではありません。つまり、筑紫側王朝とヤマト本朝が存在した。筑紫は武内宿禰=藤大臣の末裔で有り、ヤマト本朝は神功皇后の流れを汲む王権であったが当時は筑紫側が勢力を伸ばしていたのだと思う。なぜなら唐の将軍がヤマトに赴き大君の謁見を受けたと言う記述が記紀に残る以上、ヤマト本朝と唐はよしみを通じていた、、。筑紫側は計略に気付かず派兵し筑紫軍400艘が全滅。ちなみに倭本朝は福岡県田川郡に栄えた朝廷であるとの仮定による推測です。しかし、天香具山が筑豊にある以上間違いない!!香春岳三山がそれである!
あんた聖徳太子って知ってる?
聖徳太子は実在 したでファイナルアンサーで教科書に復活して
聖徳太子の頃って国号を「日本」とか国王を「天皇」っていってたんだっけ?
天皇と言ってますよ国王ではありません。
出典を教えていただけますか?
@@根無し草-z6u 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」『隋書』「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』「神武立 更以 天皇 爲號」『新唐書』法隆寺薬師像光背銘天寿国繡帳銘飛鳥池出土天皇号木簡
@@yskztkhs425 ありがとうございます。しかし聖徳太子が574-622『隋書』636年…「天皇」記載なし『日本書紀』720年『新唐書』1060年法隆寺薬師像光背銘…7世紀後半再建時のもの天寿国繡帳銘…制作年代不明も7世紀以降後半飛鳥池出土天皇号木簡…天武持統朝?どれも聖徳太子在世中に「天皇号」や「日本(中国様の東に侍る野蛮人でーす)」という国号を用いていた資料にはならないと思うんですが。
@@根無し草-z6uそんなことを言ったら歴史学は成立しないと思われます。リアルタイムは近現代史でも稀でしょう。記者会見ぐらいしかありません。あとはインタビューぐらいでしょうか。他は全部後にまとめられたものですから
015
聖徳太子の正体は高句麗王子の朴徳聖
聖徳太子の子孫の方は秦氏の方達ですが、一族の方達みんな彫りの深いイエス顔でしたから違うと思います。
実務家から大学に転職し、今も変わらぬ中高の歪んだ歴史教育を改めて認識する機会が多々ありました。「新しい歴史教科書をつくる会」の会員になりました。日本人の次世代のために、誇るべき日本の歴史を普及してまいりたいと思います。
有難うございます。私、73才は歴史のお授業が嫌いでちっともお勉強を致しませんでした。嘘の歴史に時間を費やさず、幸運でした。新しい教科書、正しい教科書の配布が楽しみでございます。
塾で社会を教えていますが、時々「聖徳太子はいなかった、誰それはいなかった」などと言い出す生徒がいて困りものです。
そのうちに明治期の説明で「坂本龍馬は居なかった」「伊藤博文は居なかった」と書かれるようになりそうな。
+島風榛名 とりあえずお札からは隣国の都合で消え去りました。
坂本龍馬はいなかった・・・ではありませんが、教科書から坂本龍馬はカットだそうです。
なんていうか、バカに合わせて教えるべきものを教えずにすませるのは本末転倒だと思うんだ。教えればわかる人のレベルまでどんどん下がってしまう。「悪貨が良貨を駆逐」状態になってしまう。
@@kogamokomomo6832 坂本龍馬を教科書から消すのは幕末から明治維新の真実を国民に知られたくないから特に孝明天皇の暗殺をかくしたいから。
前に言って居られたお話で、つくる会の教科書のきじつの仕方理解しやすい。外圧が有った時に衣服まで変わっていった経緯が良く理解出来ます。明治に着物から洋服に変わったように、大変な時はガラッと変わるんですね。
聖徳太子不在説は聞いたことがあったけれど、まさか聖徳太子の表記が教科書から削られて、厩戸皇子だけになっているとは知らなかった。驚き・・・ 歴史を歪めて国家を潰そうとするその考え方は、映画「キリングフィールド」を彷彿とさせる。私たち大人が賢くならないと大変なことになる。
文科省にかかわらない、日本の正しい歴史を教える学校を創ることはできないものか。省庁にはいい加減、辟易とする。
こんな面白い話をしてくれるなんて、ありがとうございます。
現在の教科書はそんな内容になっているのですか…。
自国の歴史と文化を、自国の教育が必死で貶める、捏造してまで隣国の主張に合わせる…。
これからの我が日本国はどうなってしまうのか、不安です。
Hinako Shibainu 近隣諸国条項
聖徳太子が存在しないというなら、存在しない証拠を出してもらわなくては日本人は納得しない。
「存在しない証拠を出して」だって...
できないことを要求する反日
非存在説というトンデモ逆説が出たおかげでむしろ偉業が研究され存在が引き立ったという歴史の醍醐味
これを逆司馬史観とでも名付けようか逆説ありきの学問はいろいろとおもしろい
日教組のガン細胞
文科省のガン細胞
聖徳太子がいらっしゃらないと親鸞の浄土真宗は存在しない。この事はあまり語られていはい。
川上直人 詳しく知りたいな
太子は「在家の仏教徒」。当然、妻帯者。それでも日本仏教の聖人として古来から仏教徒全員から崇拝されてきた。 当然、親鸞も太子の崇拝者。
@@ぴょんぴょん-u6b さん、親鸞が京都の六角堂にこもったとき、聖徳太子があらわれて
「修行者が前世の因縁によって]女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。」 といったんだとか。
つまり、「聖徳太子が生まれ変わって親鸞の妻になった」「親鸞の妻は聖徳太子の生まれかわり」ということにして、僧侶の妻帯を認めさせたということじゃないかと思う。
結果、寺が世襲制となる。
ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9E#六角夢告
@@ぴょんぴょん-u6b さん、しかし、「聖徳太子がいなかった」というのは「聖徳太子という名前が彼の死後100年ほどたってからつけられた信仰上の名前」ということであって、厩戸皇子がいなかったということではありません。
ねずさんは勘違いしていると思いますね。聖徳太子不在説についてはネットでぐぐるだけでも大量にでてきますが、そうしたものを読んでいないとしか考えられません。
山川出版社の詳説日本史図録第7版を入手しましたが聖徳太子の記載がありません。もちろん冠位十二階も憲法十七条も推古朝の年表中で並べてあるだけです。太子が与えた広隆寺の仏像も伝承だとしています。稲作の半島経由伝播を捨てていません。縄文人と弥生人の頭骨も明確に分けて渡来人を強調しています。東大歴史学による日本史歪曲と冒涜(事実を消すイデオロギー)はまだまだ続いているようです。
歴史家は新しいことを発見するか通説をひっくり返すことしかやることがない
新しいことを発見するのは難しいから安易な通説をひっくり返す方に行くんだと思う
ただのとんでも説だと思ってました。聖徳太子不在説って。ふざけてる(怒)
I respect Shotokutaishi most.
+nihonmusume
THNX so much!
You are welcome.
厩戸皇子の存在は、否定できない史実あり、だが、その偉大な功績を肯定する歴史的裏付けが近年の研究で打ち消されてきている。この辺のところを先生に反論していただきたかった。
動画を視聴して、ねずさん勘違いしているなあと思いました。
「厩戸皇子はいたが聖徳太子とは呼ばれていなかった。」と言う説といっていいかも。
つまり、聖徳太子と言う称号は彼の死後100年ほどたってからつけられた信仰上の名前であるという説じゃなかったかな。
聖徳太子の事績とされる冠位十二階や憲法十七条などを聖徳太子が作ったというのが怪しいということで、keiichiさんがおっしゃるとおりです。
ねずさんは「冠位十二階や憲法十七条は聖徳太子が作ったはず」という信仰を持っておられるようなので、反論は期待できないでしょう。
toyokeizai.net/articles/-/118796?page=2
聖徳太子って、お墓もあるし、記録もある だから実在の人物だと思う。
ただ、俀から隋の煬帝に書を送ったのは多利比狐だったと、隋書に記載されている。
聖徳太子では無い。
とすると、推古天皇も創作されたことになる。
文部科学大臣やってくださいw
脳内アルゴリズム解析器 や「へめへめ「わ
聖徳太子が私達の歴史から消されそうになりました。今年の大学一次試験の日本史の問題が朝鮮の歴史に変わっていて、気が付いた親御さんがが取り上げてくれたので、知りました。国会でも杉田議員が歴史教育の問題をを取り上げられました。文部省の前の次官がハピーオンザビーチなんて呼ばれる上に、様々の問題行動を続けています。隣の国々に、忖度しているうちに文部省もマスメデイアも自分が分からなくなり、乗っ取りが完了しているのではないでしょうか?私達の歴史が奪われていっているのに……。どうしたらいいのでしょう?
「聖徳太子の両側の人は子供を描いている」という説を聞いたことがあります。私がその説を読んだのは10年ほど前です。
事実が今を生きる誰に有利に働き誰の気分を害するかは無関係ですね。架空ではなく誇張だと思いますよ。日本書紀を正しく読み解く必要があるかと思います。
《聖徳太子は十人の人の話を聞き分けた》という《逸話》がありますね、その為《豊聡耳》と呼ばれたとも言う。これは《バイリンガル》の事でしょう、十か国かどうかは解らないが兎に角《多国語を理解できた》と云う事を表す逸話では……つまり《太子の出自は》土着の日本人では無かったとも推し量れるかも……。といって問題視する気はない。日本は元来、争いを厭い理想を持ってこの島に辿り着いた人々からなる《多民族融合国家》→《八紘一宇と和の国》なのだから太子が西域の出自であったとしても《当たり前》とも言える。
当時の日本は渡来人が多かった上に、吉備、出雲など、古代の連合王国の名残から地方ごとに方言がかなり違っていたこともあると思う。 当時は人の流れがグローバルだったらしいし、太子が語学に長じていた可能性は十分にある。
ありがとうございます...
釈迦三尊像光背碑文は「上宮法皇」となっていて、「聖徳太子」とは一切書いてありません。「聖徳太子」の名前は8世紀から使われ始めていているので、存命当時の呼称と思われる方を優先して「厩戸皇子(聖徳太子)」とした教科書(山川など)があるというだけの話です。
不在説をとる教科書は寡聞して知りませんが、もしあるならご教示ください(まあ、ないでしょうが)
十七条憲法は後の大宝律令の焼き直しだという説もあります。その根拠は大宝律令で初めて採用された役職名が十七条憲法でつかわれていたりするかだとか。また十七条憲法は記紀の中でのみ語られ、他の文献には存在しないがためだそうです。
また聖徳太子不存在を主張する方は、厩の王子の存在は否定してなかったりします。この二人が同一人物であるのかどうかということです。
また聖徳太子の不存在説の根拠として、推古天皇は重祚までして皇位を守っていますが、厩戸の皇子が本当に皇子であったのなら、何故天皇に即位しなかったのか、年齢的にも能力的にも十分だったはずあるのにかかわらずです。
そしてもう1つは、聖徳太子の業績のほぼすべては摂政についた当初に集中しています。在位は長いはずであるのに、業績は当初のみ、これはおかしい話ではないかと主張されています。
よかった、まともなコメントがあった!
功績が多すぎて不在説が出てるらしいけど、厩戸王がこの時代の有力者だった事は事実で、頭の良い人が主要な政策の殆どの企画に関わるって普通だと思う。他の人の功績だったら、功績を取られた人がもっと文句を言うはずじゃないか。
聖徳太子の隣の2人はお手伝いの子供だと思っていたわ
聖徳太子というのが諡号だから本人が名乗ったことはないというのは間違いではないけれど。
同じ基準を適用したら、奈良の大仏を作ったのは聖武天皇じゃないし、平安京遷都したのは桓武天皇じゃないということになる。
天皇だけではなく、戦国武将なんかも信長や秀吉、家康というのも諱で本人が名乗っていないことになる。
天皇が諡号で歴史に記され、武将が諱で記されるなら、聖徳太子だけ諡号を否定するのはルールとして捻れてる。
確かにぃ~🐞
その通りですよね。
昭和天皇はいなかったんでしょうw
どこで得た情報か忘れたけれど太子は若い頃よく馬に乗って遠走りしていて、ある時、馬から降りて土手に腰かけ一休みした時にそれが起こったとのこと。いわゆる我即宇宙の神秘体験です。十代の頃です。先に存在を体験したから彼の仏教理解は深いものでした。だいたい簡単にそれが起こるという事は、太子の母のインドの聖人がお腹に入ったという夢見の話が残っているように、たぶん悟りを開いた経験のあるヒマラヤあたりの賢者が何かの意思を受けて分身がアバター的に日本に生まれてくれたのでしょう。因みに私の記憶の中にある太子の容貌は俳優の高橋幸治さんの24歳ごろの顔をもう少し甘くしたような感じです。TVで初めて彼を見た時はじっと見入ってしまいました。何言ってんのとお笑いください。太子は私がお粗末なテクノロジーの21世紀の地球で俗物暮らししているのを知っているようです。二人とも良い意味できっとチェックされていますよ。愛の微笑の中で。太子がいなかったという話は私も小名木さんも神谷さんもいなかったという話になります。これ妙にリアルでしょ。私は秦野市にいたことがあります。秦氏と言えばユダヤ系の技術集団です。そして聖徳太子の側近の秦河勝(はたのかわかつ)氏が出た場所です。秦野盆地は奈良盆地とよく似ています。石工集団は日本に来れば樹木が多いので大工集団になります。そして大工の親分は聖徳太子です。つながりますね。長ったらしく書いてすいません。
何時ぞや テレビ番組の記憶ですが 折しもタイミングよく、モンゴルあたりからの外圧で、そちらに隋が傾注していたから、聖徳太子も、強く打って出れた・・・みたいな解説になって居たのですが どうなんでしょうか 左傾どっぷりのテレビ局と、学者の監修による いつものパターンなのでしょうか。
+gon337
だとしたらモンゴルGJですw
gon337
高句麗かと
筑紫王朝を認めない限り
壬申の乱まで、真実に辿り着きませんよ。
学会の浅はかさには失望しています。
小長谷の考え方すきでか
厩戸皇子は、当時権力中枢にいた蘇我氏系の怜悧で人柄の良い、誰からも慕われる皇位継承候補者だったのだろうな。強権を行使した蘇我馬子と両輪で国家運営の舵取りをしていたのだと思うのだが、ただ、この二人が亡くなると、彼らの偉大な業績と権力は、他勢力に根こそぎ奪われてしまう悲劇が待ち構えていたのでした。
昭和時代の学校の日本史は明治維新までは熱心に教えて、あとは教科書ほったらかしで淡々と年表を丸暗記させたり、小テスト小テストで時間を潰して学期末になるのが主流で、夏休みの宿題で先生が課題図書を推薦してきて、課題図書以外でも構わなかったが、読書感想文で、戦争は悪いゼッタイみたいな作文が入選してましたからね。 韓国の反日教育はえげつないが、こっちはこっちで洗脳教育に熱心だったって今なら分かります。
聖徳太子の隣の人は子供だと思っていた。
私もそう思っていた記憶があります。
聖徳太子が混血 > 聖徳太子の母が「穴穂部間人皇女」という名前で、「間人」は「はしひと」と読む。このことから「はし」=「波斯」=「ぱーしー」=「ペルシャ」ということになる。つまり、「(用明天皇に)嫁いだペルシャ人の妃」という意味じゃないかと。厩生誕伝説なんかも考慮すると、十分にあり得るかも。サーサーン朝はキリスト教や仏教を融合させたマニ教が発展していたから、聖徳太子は神仏混合の理念を育みやすかったのかもしれない。煬帝への「つつがなきや」の親書は、「仏教のもとでは万人が平等」という解釈なら、煬帝がぐうの音も出せなかった理由に繋がる。
聖徳太子は、大阪。って言うくらい 大阪に遺跡有ります。聖徳太子が建立した四天王寺は、百済の職人に造らせて 数年後に金剛組として創建して現在まで有ります。この職人が、飛鳥寺の同じ職人なのか? 知りたい。排仏派の物部氏も、寺院を作っていたらしいけど 蘇我馬子と何故対立して、蘇我馬子一族に葬られたのか 知りたい。
ねずさんは百済の職人が作った会社が世界最古の企業だと認めたくないだろうねw
100年鎖国をしたせいで文明が遅れて弱っちかった日本がアメリカの鉄の軍艦に驚いて幕府が消滅し、刀を捨てて西洋文化を学んだせいで、日清日露戦争に勝つほど強くなり、弱い周辺諸国を侵略を始めたから、正義の鉄拳が落ちました。みたいな構図を学校で覚えさすのは日本の弱体化に繋がるので、肝に命じた方が良いですね。
その通り❗️聖徳太子は実在するでしょう!
蘇我氏本家が潰されたときに、蘇我氏と聖徳太子の記録がめちゃくちゃに書き換えられたことが現状の混乱の原因だと思っています。
私個人は蘇我氏は後の藤原氏に当たる一族として皇族のバックアップ的存在として権勢を持ち、厩戸皇子=蘇我蝦夷(聖徳太子)、山背大兄王=蘇我入鹿ではないか?
そして、二人を抹殺し、その事績をゆがめて伝えて、自分をよく見せようとして、蘇我氏を悪役にしたのが中大兄皇子の勢力ではないか?
と予想していますが・・・
結局、不在説に対する反対の論拠は示されていない。太子在世中に「国司」という役職名は無かったという事で、十七条は聖徳太子が作ったわけではないといわれているが、これが直ちに不在説につながるわけではない。天皇に対する法華経 維摩経等の講義がなされたことは太子の名前で義疏が残されている。
you ookawa d
ワンピースを御存知とは
太子の両隣は童子、子供でしょ。
<聖徳太子がいらっしゃらないと親鸞の浄土真宗は存在しない。この事はあまり語られていはい。>この意味は、よく分からないが聖徳太子は、像法の法華経信者だったろうと・・・。勝鬘経 維摩経 の役割はそれぞれあるとして、中心となったのは法華経だった。天皇に講義している。この時期に、天台智顗が法華経から、摩訶止観、法華文句、玄義を現している。不思議な事だなと思う。親鸞が聖徳を讃嘆したならなぜ法華経を宣揚しなかったかわからん。
隋書の倭国伝には初めの遣唐使に対してあざ笑うようなことが書かれています。
いきなりやって来て「我々は対等だから」と言われた隋が、「何言ってんだコイツ」扱いだったので攻めて来なかったのかも??
何にせよ、半島経由で伝わる隋の文化を直接摂取出来る事は大きな収穫になったはずですね。
法隆寺は全焼し、現在のものは移築したものです。そこに安置している仏像は当然法隆寺のものではありません。その像の文章は上宮上皇 聖徳太子と書かれています。上皇ということは天皇の位を得たものだけに許される称号です。厩戸皇子は天皇を経験していません。つまり上皇という称号はつけれれません。現在の天皇家ではない、隋書に書かれたアマノタジリホコを示していると思われます。
聖徳太子はイエスキリスト説もありますw
失礼ですが、聖徳太子不在説について、正しく認識されていないように思いました。
聖徳太子不在説とは次のようなものです。
㈠紙幣になった聖徳太子に肖像画は後世の偽作 700年前の敦煌の壁画に聖徳太子像にそっくりなものがある。
中国人が描いた唐の時代のもの。
㈡聖徳太子廟は直系50mの円墳。太子・母・后の3人が葬られているが、
聖徳太子伝暦には「太子は死後墓に2つの棺を設けよと指示したとある。
四天王寺の記録には「太子の墓を探しているがどこにあるかわからない」とある。
聖徳太子廟は後世の捏造ではないか。
㈢604年に十七条憲法が制定されたという記述は、720年の日本書記に初めてでてくる。
600年代の隋書倭国伝に冠位十二階は書かれているが十七条憲法はかかれていない。
㈣十七条憲法に国司という言葉がでてくるが、この言葉は聖徳太子の時代にはなかった。
国司は701年の大宝律令から始まる官職である。
よって十七条憲法は大宝律令をもとに後世につくられたと考えられる。
㈤隋書倭国伝607年に「王は600人の妻を持つ」とあるが、当時の天皇は推古天皇で女帝。
これら㈠~㈤について、反論することが必要だと思いますが、それをされていないので、納得できる話ではありませんでした。
聖徳太子の墓は法隆寺でしょ!(笑)
@@metalrider5730 さん
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E7%A6%8F%E5%AF%BA
それってどれも言いがかりでしょw
だって、言いがかり自体がどれも学術的根拠がないから。
@@yskztkhs7986 さん、いいがかりではなく、聖徳太子不在説の概要です。
現在のところ支持されていますが、ひとつの説なので、
将来新説がでてまちがいということになるかもしれません。
歴史っていうのはそういうものです。
小名木さんは聖徳太子不在説を批判されています。
科学に批判は必要です。
でも、聖徳太子不在説を正しく理解して批判しないといけないでしょう。
特に重要なのは、次の点です。
㈢604年に十七条憲法が制定されたという記述は、720年の日本書記に初めてでてくる。
600年代の隋書倭国伝に冠位十二階は書かれているが十七条憲法はかかれていない。
㈣十七条憲法に国司という言葉がでてくるが、この言葉は聖徳太子の時代にはなかった。
国司は701年の大宝律令から始まる官職である。
よって十七条憲法は大宝律令をもとに後世につくられたと考えられる。
小名木さんは、㈢㈣についてきちんと反論されていますか。
されているとお考えであれば、小名木氏はどのように反論されているか、書きだしてみてください。よろしくおねがいします。
推古天皇の下で働いた聖徳太子は大和朝廷が作った偶像。本当の聖徳太子は九州王(=倭国王)の「アメタリシヒコ」、もしくはその子。「アメタリシヒコ」は官位12階も作っているし、その子の「利」は「上塔の利」と呼ばれた=上宮に住んでいたという意味。魏志倭人伝にハッキリ書かれてある。なお、倭国は大和朝廷が治めた日本とは別の国。旧唐書には倭国の条と日本の条は別々に書かれてある。
そのとおり
よく勉強しておられる
それと、
聖徳太子から、本格的に仏教を取り入れ、明治時代の廃仏毀釈まで続いた。
それに、平安時代、密教が弘法大師と最長によってもたらされ、鎮護国家の祈祷が明治時代まであったらしい。
江戸時代までは、『いろは歌』は弘法大師作というのが常識だったらしい。
しかし、明治頃の学者にいきなり否定された。御用学者のような気がする
欽明天皇が仏教をとりいれ、歴代天皇は神仏を習合して信仰してきた。
出家した天皇も多数いるし、歴代天皇は寺院の創建にも熱心だった。
それをいきなり明治になって神仏分離令を出し、廃仏毀釈するって、
先祖がやってきたことの否定じゃないですかね。
十七条憲法はなかったという方が妥当だと思う
しかしこの銘文にも絵にも賛否あるようで、いまのとこ不在説も実在説も決定的な感じしない
科学的に年代測定とかできないのかな
聖徳太子の肖像は唐 本 御 影 (最古の肖像画と伝えられる)の複製画で太子のものではないことがはっきりしています。
聞き手の方がちょっと💦
聖徳太子がいてわ、こまる。国があるのでわ。世界。グローバルをすすすめる。ひとか。へんな、宗教か。
隋書には聖徳太子は出てきません。きちんと原文を読みましょう!開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。 大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」 大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。 その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。
あんたばかぁ?
聖徳太子は諱だよ、死後生前の徳行によって死後に贈られる称号
隋で知るわけないし、また親書は天子として出している
ちょっと考えれば分かりそうなもんだけどなぁww
川西の民 さん
思想が思考を曲げてしまうのでしょうね。
聖徳太子は藤原氏と共に日月の道、日の本の12道や物部氏を滅ぼして12階を作り、日本の名を奪った。
藤原氏という氏族は当時いなかったんですけど・・・
・・・・そもそもその話の流れで在っても「だから聖徳太子不在説はまやかし」と言う結論にはならないよね?
と言うか聖徳太子なんてあんなもの最初からいなかった・・・・そんな説じゃねーよ、阿保なのか?
聖徳太子の従者二人が小っちゃい子供なんじゃないのかな?
半島や大陸の人達が言う自分達の身長は本当にどんぶり勘定で高く言うからねずさんも真に受けたらダメ、今でもそうなんだから当時なんかもう...
初手何言っとるかききとれんかった。
不在ではありませんが、豊国の王では無く太宰府に存在した倭の五王に属する人でした。記紀は豊国の話と太宰府側の話をごちゃ混ぜに記しているので惑わされるのです。隋書俀國伝を読めば判ります。兄弟統治に付いても記されています。倭と太宰府側が昼と夜を分けて担当したと言ういわゆる兄弟統治です。ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%88%A9%E6%80%9D%E6%AF%94%E5%AD%A4
黒駒は12道の象徴日の御子の祭りの時の乗り物
聖徳太子は存在してます 秦河勝が聖徳太子です
小名木善行さんが何故ねずさんと呼ばれるのですか?。最近観るように成ったので理由が知りたいです。
ねずさんのお話の多くは良い内容なのですが、些か早口で聞き取れない部分が出てきます。元号とか地名などの部分ではゆっくり目に話してもらえると、有り難いです。
元のハンドルネームが「ねずきち」で、ブログ名も「ねずきちのひとりごと」でした。
何故ハンネをねずきちにしたかはねずさんにしか分かりません(^^;
背が高いのはユダヤ人。
聖徳太子は実在して欲しい。
しかし 法隆寺 釈迦三尊 光背銘は 証拠でない。
( 1 ) 聖徳太子の 死亡年月日が違う
日本書記 推古29年 621年 2月5日
光背銘 620年 2月22日
光背銘 法興元丗一年 (620年)と記載
年号に 「法興」使用は
推古朝で鋳造された釈迦三尊像でない。
( 2 ) 聖徳太子は天皇でない
光背銘記載「上宮法皇」で 聖徳太子でない
法皇=仏法に帰依した天皇
( 3 ) 法隆寺 全焼
『日本書紀』 天智9年(670年)4月30日
「夜半之後、災法隆寺、一屋無余」
( 釈迦三尊は無事とは記録なし )
重量物を人力で持ち出せない
現法隆寺は 移築。
法隆寺五重塔の心柱は、年輪年代測定によって
594年に伐採された木材である(奈良国立文化財研究所)
聖徳太子はキリシタンのペルシャハーフ。
17条憲法は大宝律令以後に定められた「国司」という役職が出てきます。つまり17条憲法は701年以降に書かれたものになります。聖徳太子の時代ではなく701年以降に書かれたものだと判明しています。
それは言いがかりでしょ。
昔の用語を律令の用語に直したと考えるのが妥当。
そのような言い方をしたらほとんどの編纂文章はなかったことになるのでは?
@@yskztkhs7986 日本書紀の謎を解く―述作者は誰か (中公新書)
森 博達
参考に
法隆寺は670年に全焼しています。当然中にあった仏堂等は消失したはずです。現在の仏像は台座も含めると500キロを超えています。火事の時持ち出せるようなものではありません。法隆寺の5重の塔の心柱は598年を示しましたことから、奈良文化財は消失後移築されたことを結論ずけています。つまり今ある法隆寺や仏像は移築、移転されたものです。内部の仏像は当然聖徳太子のものではありません。
平成13年(2001年)に、奈良文化財研究所が、五重塔のヒノキの中心柱の伐採年は、年輪年代測定法により、西暦594年と断定しました。594年でした。訂正。
似たような、寺院が2つあって1つが火災にあったのです。
@@青木敏雄-z1j 594年の意味がわからないようですね。最初の法隆寺より更に古いということです。建設は13年の差があります。奈良文化財研究所は移築したものだとかつ論ずけています。
似たような寺院が二つあったとはどこで調べられたのですか?見当たりません。ご回答よろしくお願いします。
聖徳太子と言う名前の摂政はいません。聖徳太子は後に名前がつけられた。聖徳太子の子孫は全員殺されて絶えた。天皇子孫で良く仕事したのに酷いな。まあ一神教の仏教を積極的に入れたからだろう。
実在の人物しかお札にしません。それも一万円札だし。
仏教って一神教ですか?釈迦如来、薬師如来、不動明王、十一面観音、救世観音、千手観音など多くのみほとけがありますが。
※ 聖徳太子の正体
587年、物部、蘇我氏との間で神仏戦争が起き、聖徳太子の家来である迹見赤檮が物部守屋を弓矢で射殺した。彼は押坂彦人大兄皇子の家来でもあった。日本書紀は彦人皇子が死んだとも記述しないで、突然、その子・舒明天皇が即位したと述べている。その皇后・皇極天皇治世時に大化の改新が起こり、中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺した。罪名は国政を専横したと言う。しかし、皇極天皇は彦人皇子の孫で蘇我氏の血を受けていない。なぜ、蘇我氏が専横しているのに、皇位が蘇我氏の血を受けていない本流に戻ったのか。どうしてそれが専横となるのか、矛盾している。彦人皇子は皇太子であるのに天皇になれなかった。まるで聖徳太子とそっくりである。両者の家来が迹見赤檮である事から聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子であり、天皇に成れない訳がない。聖徳太子は蘇我入鹿として斬殺された。三韓の朝貢時に事件は起きた。倉山田麻呂、犬養連勝麻呂と佐伯連子麻呂が天皇の御前へ進み、子麻呂は将書を読もうとしたが、汗が出て体が震えて出来なかった。入鹿がなぜ震えているかと問い。天皇の近くで恐縮し、入鹿の威厳に恐れたと言った。その時中大兄皇子が飛び出て、入鹿を斬殺した。子麻呂ら3人は三韓の使者であり、将書は天皇に渡す物である。入鹿大臣が同席する必要なし。子麻呂は天皇殺しが恐ろしかったのだ。子麻呂と中大兄(百済豊璋)は仲間で、鎌足(新羅武列)も然り。 聖徳太子暗殺の犯人は中大兄皇子(百済王豊璋)である。だから、彼は滅んだ祖国・百済を再興する為に、日本軍を白村江の戦いに注ぎ込んだのである。中大兄皇子はイスラエル12支族のユダ族である。天皇家の紋章がイスラエルのシンボルの麒麟(一角獣)である事からも分かる。この偽の天皇の為に、楠正成、2.26事件の将校、神風特攻隊員等が犠牲となった。未だに日本は朝鮮人に支配されている。
法隆寺は聖徳太子(日帝)の怨霊封じの結界所、大化の改新が暗殺劇の脚本
法隆寺の結界施設の再建には全国から腕の立つ大工が集められた。その中に鳶の弥八と烏の宣太がいた。弥八は五重塔建立覚書と言う日記を残していた。ある日、職人が帰った後の五重塔の階下の部屋で、藤原家の幹部が車座になってとんでもない密談を始めた。何があってもこの敷地からご神体である救世観音像の気が流出せぬ様中門は中央に柱を立て、これを結界とした事。なぜならば、ご神体の頭部に聖徳太子の計り知れない程深い霊験を封じ込める事が出来たからだ。事があった場合は兵を挙げて東西と北から攻め上げ、中門に追い詰めて処置する手はずを取る事。又太子が民衆の精神意識を高める為に編纂させた学問書・旧事本紀は一般に広まると民衆を大変管理し辛くなるので、建立に紛れてここに幽閉する事。その方法は五重塔の舎利器の中に全72巻の内48巻を、残りを救世観音像の体内に納め、決して世に出ない様に封印する事。
実は法隆寺の再建は藤原氏の隠蔽装置の設営作業だったのだ。太子が民衆の為に命を投げ出して編纂した叡智を藤原氏の都合により祟りとして閉じ込める 事に大いに義憤を感じた弥八は、書物をこっそり持ち出そうとした。五重塔の舎利器から抜き出し、観音像は経文が書かれた麻布に巻かれていたが、剥ぎ取ってから抜き出してまた巻き戻した。すると、太子の霊験は太子の遺志を救おうとした弥八の精神に鋭く反応して、一種の強い怒りとなって抜け出し、夜とはいえ、太陽が地上に降りた様な明るさの中で、強烈な地響きと同時に濛々とした白煙を残して1本の閃光が途轍もない勢いで天空目指して飛び去った。弥八は恐ろしくなって書物を戻そうと考えていた。その後近所の屋根を修理している時に誤って墜落して不慮死した。書物の行方はそれっきり判らなくなった。
聖徳太子は大化の改新時の蘇我入鹿として暗殺された。犯人は中大兄皇子(百済の豊璋王子)と藤原鎌足(新羅の武烈王)である。その後、太子の子・高市皇子と孫・長屋親王は藤原不比等によって殺された。その祟りで藤原四兄弟は天然痘で斃れた。藤原氏は朝鮮人でユダヤ人でもある。
日本が朝鮮人に侵略された証拠
現存する最古の仏像彫刻の作品は法興寺の丈六釈迦如来像いわゆる飛鳥大仏NO1である。作者は鞍作鳥で609年完成した。飛鳥大仏をよく見ますと、下着に憎?支をつけ、その上に大衣をまず左腕にかけてから背中に回して右腕を覆い、最後に左肩にかけています。すると、襟のところが二重になります。ところが、623年、同じ作者が作った法隆寺の本尊である釈迦如来像NO2は襟元が一重である上、衣のつけ方が判らなかったらしく左肩背面のところに衣の端が降りています。先に作った方が大衣のつけ方を知っていて、後に作った方が判らなくなったのは腑に落ちません。
飛鳥大仏の指の間接部分の孤線は1本ですが、釈迦如来像は2本になっていて左手の指と指との間に蛙の水かきのような膜があり、顔の表情も気品がなく、日本的ではありません。その上、釈迦如来像は溶胴が十分回らないで穴が空いたので、そこに型を造って再び銅を流し込むという鋳掛を行っています。
長々と何を妄想しているのですか?
聖徳太子は実在したが、ほか数名の功績を聖徳太子に着せたのではないかという説はどうなんですかね?
聖徳太子自体は障害をお持ちだったというのを聞き及びましたが
聖徳太子が生涯をもっていた、と言う説があるのですか?
詳しく聞かせていただけませんか?
宇宙人説
太子と言うからには、後の天皇!今で言う名なら東宮ですよね。何故天皇になれなかったのでしょう?記紀には彼が天皇(スメラミコト)となったと言う記述がありません。と言う事は実際になれなかったと言う事でしょう。白村江の戦いで敗れた筑紫郡の長、筑紫君薩夜麻がおそらくは「日出ずる国の天子より」の書を送った人物でありましょう。1000艘の戦船のうち600艘が帰還している点もおかしいです。統一された軍隊ならまだ負けたと言う数ではありません。つまり、筑紫側王朝とヤマト本朝が存在した。筑紫は武内宿禰=藤大臣の末裔で有り、ヤマト本朝は神功皇后の流れを汲む王権であったが当時は筑紫側が勢力を伸ばしていたのだと思う。なぜなら唐の将軍がヤマトに赴き大君の謁見を受けたと言う記述が記紀に残る以上、ヤマト本朝と唐はよしみを通じていた、、。筑紫側は計略に気付かず派兵し筑紫軍400艘が全滅。ちなみに倭本朝は福岡県田川郡に栄えた朝廷であるとの仮定による推測です。しかし、天香具山が筑豊にある以上間違いない!!香春岳三山がそれである!
あんた聖徳太子って知ってる?
聖徳太子は実在 したでファイナルアンサーで教科書に復活して
聖徳太子の頃って国号を「日本」とか国王を「天皇」っていってたんだっけ?
天皇と言ってますよ
国王ではありません。
出典を教えていただけますか?
@@根無し草-z6u 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」『隋書』
「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』
「神武立 更以 天皇 爲號」『新唐書』
法隆寺薬師像光背銘
天寿国繡帳銘
飛鳥池出土天皇号木簡
@@yskztkhs425 ありがとうございます。
しかし聖徳太子が574-622
『隋書』
636年…「天皇」記載なし
『日本書紀』720年
『新唐書』1060年
法隆寺薬師像光背銘
…7世紀後半再建時のもの
天寿国繡帳銘…制作年代不明も7世紀以降後半
飛鳥池出土天皇号木簡…天武持統朝?
どれも聖徳太子在世中に「天皇号」や「日本(中国様の東に侍る野蛮人でーす)」という国号を用いていた資料にはならないと思うんですが。
@@根無し草-z6uそんなことを言ったら歴史学は成立しないと思われます。リアルタイムは近現代史でも稀でしょう。
記者会見ぐらいしかありません。
あとはインタビューぐらいでしょうか。
他は全部後にまとめられたものですから
015
聖徳太子の正体は高句麗王子の朴徳聖
聖徳太子の子孫の方は秦氏の方達ですが、一族の方達みんな彫りの深いイエス顔でしたから違うと思います。