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素晴らしい、綺麗な画質と心地よい解説の肉声。早速チャネル登録しました。これから本チャネルの全部の動画を視聴します!
ありがとうございます😊ぜひよろしくお願い致します🙇♂️
物部氏に興味が出てきたところでしたので、丁度いいタイミングの動画でした❤ ありがとうございました✨
すばらしい動画です。出雲口伝に興味がわいてきました。藤原不比等編者の日本書記より、よほど信憑性が感じられます。物部・蘇我は「台頭してきた有力豪族」という概念は捨てた方が良いという感想です。
五瀬命陵は岩橋千塚古墳の天王塚古墳です。 五瀬命は紀元前116年に生まれ63年に54歳で崩御されました。
いつも美しい映像とともに分かりやすい説明をありがとうございます♪今回、ちょっと、アレっと思う箇所があります。タタラ五十鈴姫がヤマトに移住した五十猛と結婚したと説明されていますが、タタラ五十鈴姫の婿は村雲です。動画でもその前に、そう仰っていますよね。丹波からヤマトへ入ったのは、五十猛の子の村雲であり、タタラ五十鈴姫の婿になって、大王として迎えられたと思います。物部が東征して来たのは、第7代孝霊天皇の時代であり、五十鈴依姫の子の時代よりずっと後のことです。調べてみてください。後、ちょっと細かいですが、彦渚武は五瀬の祖先ですが、ウガヤフキアエズは第二次東征時の豊玉姫の子・豊彦豊来入彦のことだと思います。正史で2つの東征が、ひとつにまとめられたので、正史では一緒につなげて書かれていますが、違う二人を暗示していると思われます。
ご指摘ありがとうございます。もう一度確認をさせて頂きました。五十猛は八千矛王の孫娘である大屋姫(おおやひめ)と結婚しており、蹈鞴五十鈴姫の夫ではありませんでした。訂正の注釈を入れさせて頂きます。五十猛はこの時、出雲の人々と共に丹波に移住しており、その地で大屋姫を妃に迎えていました。名前も香語山(かごやま)と改めて丹波国を治めています。後の神武東征の第三章でも動画にする予定なのですが、物部勢が大和に到達した際の大王は長髄彦の腹違いの弟であるフトニであったと伝えられていますね。孝霊天皇はフトニが王となった際の名であったので、時代としては一致していると思います。孝霊天皇は大和を同じく去り、播磨や吉備方面に移住をしたと出雲の伝承では伝えられています。
@@qpjvision さまお手数、ありがとうございました♪また、素敵な動画を楽しみにしています。❣️
四国の川、現在の物部川を遡った先に出雲族が居たとありますが、その当時は出雲族が四国を統治していたという事ですか?
出雲は、縄文のDNAを受け継ぐ人が多く、東征でなく、西征の流れも考えた方が良いかと出雲は、歴史が上書きされているようなきがします。
7:00あたりに表示される絵の名称はお分かりになりますか?
出雲連合王国の領域は、新潟から近畿、中国、四国、北九州まででした。しかし、150年頃但馬のヒボコ勢力が播磨領を侵略したのを皮切りに武力戦争に慣れていない出雲王国は衰退途に入って行った。
薩摩半島にてツブロ式蒸留器を用いた焼酎作りが行われたのは少なくとも15世紀頃であり、徐福が渡来したと言われているのは紀元前219年頃とされている為、矛盾しまくり荒唐無稽もいいところです。聞いたことをそのまんま完全に信じる人達は論外ですが、古代ロマン小説として割りきって聞く分には楽しいですね。
素晴らしい、綺麗な画質と心地よい解説の肉声。
早速チャネル登録しました。
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五瀬命陵は岩橋千塚古墳の天王塚古墳です。
五瀬命は紀元前116年に生まれ63年に54歳で崩御されました。
いつも美しい映像とともに
分かりやすい説明を
ありがとうございます♪
今回、ちょっと、アレっと
思う箇所があります。
タタラ五十鈴姫が
ヤマトに移住した五十猛と
結婚したと説明されていますが、
タタラ五十鈴姫の婿は
村雲です。
動画でもその前に、
そう仰っていますよね。
丹波からヤマトへ入ったのは、
五十猛の子の村雲であり、
タタラ五十鈴姫の婿になって、
大王として迎えられたと思います。
物部が東征して来たのは、
第7代孝霊天皇の時代であり、
五十鈴依姫の子の時代より
ずっと後のことです。
調べてみてください。
後、ちょっと細かいですが、
彦渚武は五瀬の祖先ですが、
ウガヤフキアエズは
第二次東征時の
豊玉姫の子・豊彦
豊来入彦のことだと思います。
正史で2つの東征が、
ひとつにまとめられたので、
正史では一緒につなげて
書かれていますが、
違う二人を暗示していると
思われます。
ご指摘ありがとうございます。
もう一度確認をさせて頂きました。
五十猛は八千矛王の孫娘である大屋姫(おおやひめ)と結婚しており、蹈鞴五十鈴姫の夫ではありませんでした。
訂正の注釈を入れさせて頂きます。
五十猛はこの時、出雲の人々と共に丹波に移住しており、その地で大屋姫を妃に迎えていました。
名前も香語山(かごやま)と改めて丹波国を治めています。
後の神武東征の第三章でも動画にする予定なのですが、物部勢が大和に到達した際の大王は長髄彦の腹違いの弟であるフトニであったと伝えられていますね。
孝霊天皇はフトニが王となった際の名であったので、時代としては一致していると思います。
孝霊天皇は大和を同じく去り、播磨や吉備方面に移住をしたと出雲の伝承では伝えられています。
@@qpjvision さま
お手数、ありがとうございました♪
また、素敵な動画を
楽しみにしています。❣️
四国の川、現在の物部川を遡った先に出雲族が居たとありますが、その当時は出雲族が四国を統治していたという事ですか?
出雲は、縄文のDNAを受け継ぐ人が多く、東征でなく、西征の流れも考えた方が良いかと
出雲は、歴史が上書きされているようなきがします。
7:00あたりに表示される絵の名称はお分かりになりますか?
出雲連合王国の領域は、新潟から近畿、中国、四国、北九州まででした。しかし、150年頃但馬のヒボコ勢力が播磨領を侵略したのを皮切りに武力戦争に慣れていない出雲王国は衰退途に入って行った。
薩摩半島にてツブロ式蒸留器を用いた焼酎作りが行われたのは少なくとも15世紀頃であり、徐福が渡来したと言われているのは紀元前219年頃とされている為、矛盾しまくり荒唐無稽もいいところです。聞いたことをそのまんま完全に信じる人達は論外ですが、古代ロマン小説として割りきって聞く分には楽しいですね。