たった763人で最強島津軍5万に立ち向かった男達の壮絶な末路|岩屋城の戦い

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  • Опубліковано 29 чер 2023
  • 岩屋城の戦いについて解説します。
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КОМЕНТАРІ • 76

  • @uekaramita
    @uekaramita  Рік тому +40

    【訂正】
    高橋紹運→×たかはししょううん
         ○たかはしじょううん
    大変失礼いたしました。

  • @user-ur7zl4jf2c
    @user-ur7zl4jf2c Рік тому +50

    死生観が全く違う
    真田信繁や大谷吉継もそうだけど、最高の死に場所を見つけた武士は本当に強い

    • @user-ii4gb9mk1v
      @user-ii4gb9mk1v 11 місяців тому +9

      時代は違うけど楠木正成も

  • @user-ss5xz9dn6z
    @user-ss5xz9dn6z Рік тому +55

    先祖が家来の1人で、その碑が城跡にある。また親戚が籠城のために、何人が何月何日に入城と記録があり、誇らしい。

  • @user-sz6py3pn8e
    @user-sz6py3pn8e Рік тому +37

    岩屋城の戦いの時、高橋紹運39歳
    その歳なんとも凄まじい胆力よ。

  • @user-tp1im1py9m
    @user-tp1im1py9m Рік тому +35

    太宰府天満宮に行った際に岩屋城跡の案内があり、城跡に登ってきたわ。
    なんかね、もう言葉にならないくらい胸に込み上げてくるものがあったね。高橋紹運のエピソード、その心情やらその戦死を心から悼んだ島津忠長。そして父の仇を討つためにその後奮闘した若武者・立花宗茂。これだけでもお腹いっぱいだわな。

  • @chiekoasai
    @chiekoasai Рік тому +12

    島津忠長の法号は「紹益」だったらしいけど、偉大なる敵から一字拝借したのかもな。

  • @fullmetalstomach
    @fullmetalstomach 11 місяців тому +9

    ここら辺の話わかる人が少なくて辛い。ナルト好きな人にはいつも道雪の逸話話すけど刺さんないみたいだ

  • @drycool5348
    @drycool5348 Рік тому +8

    そんなに特段守りやすい城でもないのにまずか七百数十人で5万を超えるあの島津軍に三千人以上の死傷者を出させて粘りに粘って半月も持ち堪えたこと自体がすごいよ。

  • @kawa36114
    @kawa36114 Рік тому +42

    秀吉到着前に撤退する島津軍を宗茂が追撃し奪われていた城を次々と奪還していった武功も語って欲しかった

  • @user-dn9of5hc4p
    @user-dn9of5hc4p 5 місяців тому +6

    大分では当地の武将と言えば大友宗麟の知名度が抜群だが…
    家臣の高橋紹運、立花道雪そしてその子で柳川の基礎を築いた立花宗茂も郷里の武将、偉人として広く知られてほしいなあと思います。

  • @MrYoshichan
    @MrYoshichan Рік тому +10

    高橋紹運は大友宗麟などには勿体ない、素晴らしい武将だったな。

  • @user-lv6xh1gf8p
    @user-lv6xh1gf8p 3 місяці тому +3

    立花道雪と並んで「大友の風神、雷神」と呼ばれた武将なだけあります。
    九州に行った時は必ず岩屋城に立ち寄っています。

  • @kazu-sj9pt
    @kazu-sj9pt Рік тому +28

    悪者や卑怯者の成れの果て的なネガティブなイメージもある「末路」ではなく
    誇り高き男達の凄まじき「最期」としてのタイトルの付け方をお願いします。

  • @user-zx3zj2iz2y
    @user-zx3zj2iz2y Рік тому +10

    立花山城も簡単に撃退出来た訳ではないよなぁ
    時を稼ぐために命を懸けた家臣の話もまた良い

  • @user-ep8yo7zy9m
    @user-ep8yo7zy9m Рік тому +24

    宗茂の義父の道雪がどれだけすごかったのかがわかる毛利との博多争奪戦や
    豊臣軍の美しい勝ち方の根白坂の戦いもぜひぜひ

  • @user-ub7tt4gl8y
    @user-ub7tt4gl8y Рік тому +15

    大友側に復帰した筑前の筑紫広門(しれっと宗茂の弟直次の舅になった)の存在もデカい 秋月の要請による筑紫討伐が事実上豊臣の召喚を誘発することに…→惣無事令違反!
    島津家中では義久は霧島神社の籤を引いて筑前侵攻を、義弘は今宮社の籤引いて豊後侵攻を主張と兄弟間で溝、家臣の新納忠元が豊後国衆の入田氏の懐柔成功してなし崩し的に豊後侵攻軍編成と足並みが揃ってなかったのも大きい。義弘は志賀親次の岡城でもたつくし家久も現場復帰した宗麟の籠城する丹生島城攻略失敗→豊後侵攻失敗と軍全体がスランプになってた

    • @Kazusi10
      @Kazusi10 Рік тому +10

      筑紫広門は処世術に優れたリーダーですよ。
      二万石にも満たない小大名で在りながら、当時に珍しい家臣との合議制優先の考え方、次々に島津に靡く九州の武士たちにあって、次の時代の権力者を見据えて、大友と共に豊臣方に寝返った。
      他に見ない築城術や島津撤退を見るや幽閉されていた大善寺から脱出して、旧家臣を集めて追撃戦に入るなど、「家を残す」行動力は中小企業のやり手経営者のようで素晴らしい

  • @rainbow-iz9ws
    @rainbow-iz9ws Рік тому +11

    紹運凄すぎましたよねーーー。これこそ映画にすべき情景なのにね。道連れにした北上勢(島津に不和雷同したした人達なので)は戦死者だけで5000人負傷者が万を超えて進軍できなくなったとも言われてますもんね。

  • @user-ei9gk7kq6n
    @user-ei9gk7kq6n Рік тому +7

    実家の近くには浦の城があり庭には殿様と一の家来のお墓がありました。

  • @wolverin00012
    @wolverin00012 Рік тому +11

    あの島津軍相手に1000人も満たない兵士で半月も粘るとは!
    高橋紹運の采配見事なり!

  • @user-yf9te9db5s
    @user-yf9te9db5s Рік тому +16

    のぶやぼでよく頼りになる紹運さん
    めちゃすこ

  • @user-pt9nb4zl2t
    @user-pt9nb4zl2t Рік тому +9

    親父が南無三玉砕した後、息子立花宗茂が逆襲したのが凄い

  • @user-ht1bb4jp3v
    @user-ht1bb4jp3v Рік тому +26

    たしか家を継ぐ長男は郷に残して次男以下で討死する覚悟のある兵のみを城に残したからこそあそこまで粘れたのでしょうね。関ヶ原の戦いの捨て奸も島津家としては兵を出してなくて、島津義弘を慕って付いてきた兵達だからこそできたのだろうな、と思います。

    • @ahawaha2400
      @ahawaha2400 Рік тому +7

      関ヶ原から九州へ下がる道中、立花宗茂と合流。「親父さんの仇を討つべし」とイキリ立つ部下に対して「敗軍の将を撃つは恥」と道中警護して友誼を結び別れます。

    • @CX-EURO400
      @CX-EURO400 Рік тому +4

      @@ahawaha2400
      自身も敗軍の将なんだけどね。

  • @user-pg5mf8sp1n
    @user-pg5mf8sp1n Рік тому +8

    龍造寺が沖田畷で弱体した後に大友は道雪の活躍で筑後まで進出しました道雪が健在であれば島津もおいそれと北上出来なかったでしょう道雪の死により大友の劣勢をみた国人たちが島津に組みした事により紹運はわずかな手勢での戦いを強いられ岩屋城で玉砕を選びました道雪があと数年生きていれば島津も九州制覇は難しく戦わずに秀吉に臣従してこの戦いもなかったかもしれません(現に信長には臣従しています)

  • @nattousenbei
    @nattousenbei Рік тому +28

    ここと志賀親次、そして宗麟の臼杵での粘りによって豊臣の援軍が間に合い、島津は負けることになる。大友は弱いと言われてるけど、結構頑張ったのだ。

    • @CX-EURO400
      @CX-EURO400 Рік тому +9

      弱かったのは主君だけですね。

    • @user-zq8xq1rf4p
      @user-zq8xq1rf4p Рік тому +2

      名将揃いの大友氏。隣国に島津がいなければ、と思う。

    • @Levy0821
      @Levy0821 7 місяців тому +3

      宗麟はキリスト狂いがなければなあ
      ほんと勿体ない

  • @user-ph3ve8xh2p
    @user-ph3ve8xh2p 6 місяців тому +2

    大野城を見学した帰りに岩屋城を訪れました。高橋紹運が櫓に登り戸板に辞世に句を刻んでのち敵兵に武士の散り際として割腹したことに思いを致し「嗚呼壮烈岩屋城址」の石碑に手を合せてきました。

  • @satootto
    @satootto Рік тому +10

    あれだな、テルモピュライの戦いとよく似た戦いだな。あちらは、300人で10万の軍勢に立ち向かったが。

    • @Kazusi10
      @Kazusi10 Рік тому +3

      テルモピュライの3日間が、サラミス海戦の勝利につながったやつですね

  • @hakudou0
    @hakudou0 Рік тому +7

    岩屋城は四王寺山の中腹にステージのようにはりだしているから、三方から攻めるなら60度以上の斜面を登るしかない。
    しかも島津軍が陣を構えた観世音寺は真下に見えるので丸見え。
    攻撃するなら一度山頂に登って真後ろから攻めるしかない。
    我が家からは岩屋城は目の前に見える

    • @ahawaha2400
      @ahawaha2400 Рік тому

      自分も岩屋城跡に行きましたが、舗装された道を行くならともかく、未整備で細い山道を高い岩陰から石や弓矢投げ込む中をイケ!と言われたら無理ですね。しかも雨は降るし真夏の暑い中士気は落ちる一方。

    • @hironobushi
      @hironobushi 11 місяців тому

      四王寺山自体、防御網のうちの一つ。
      山頂に大野城を作った古代の人は、凄いなあ…
      ( ´∀`)

  • @user-jv9ls6dt3k
    @user-jv9ls6dt3k Рік тому +5

    西の天下無双の立花宗茂の
    大津城の撤回から柳川に帰還してからの
    、黒田孝高(如水)・加藤清正・鍋島直茂との戦いを解説してほしいな 義弘と清正とのエピソードとか宗茂は柳川での防衛戦で鍋島直茂との激戦と九州制覇まじかで
    関ヶ原の戦いで西軍が負けたので清正と柳川防衛戦に向かって宗成に降伏を懇願した
    三人は朝鮮での激戦で助け合った仲間で清正は宗茂に何度も助けられたので宗茂に必死に説得した結果開城した

    • @user-mj2vy1rn4g
      @user-mj2vy1rn4g Рік тому

      宗茂は関ヶ原後一時、無職になるも最終的に大名に復帰出来た唯一なんですよね。

  • @user-yy5kb9ji6o
    @user-yy5kb9ji6o 7 місяців тому +3

    この動画でも触れられていますが、岩屋城に実際に行ってみるとそれほどの要害となる山ではないことと、島津氏側の上井覚兼日記を全面的に信頼できるものとして、この岩屋城の戦いを過小評価することが歴史学会の一部に少なからずあるようです。とても残念なことです。
    同時代人の豊臣秀吉は、きちんと評価していて、それが、「この乱れた世に、これ程の者が九州にいるとは思わなかった。高橋紹運は乱世に咲いた華である。」という言葉であり、宝満城にいて島津氏に捕らわれてしまった高橋統増(立花宗茂の実弟。5歳年下。のちの立花直次)が、高橋家の相続を秀吉に認められることに表れています。
    なお、高橋統増は紹運亡き後、兄宗茂を父と同じとして従って、戦国の世を駆けていくのですが、秀吉時代から大名に遇されており、肥前名護屋城跡には高橋直次(統増のこと)陣跡があります。

  • @Legendary_mapo_tofu
    @Legendary_mapo_tofu Рік тому +7

    当主がアレなのに、この仕事ってのが本当に凄い( ;∀;)

  • @user-zs6yh7rp8h
    @user-zs6yh7rp8h Рік тому +2

    高橋家、すごい。

  • @user-dd7id8rf1e
    @user-dd7id8rf1e Рік тому +7

    どうして戦国の世には覚悟ガンギマリ勢が多いのか

  • @3tailcat
    @3tailcat Рік тому +21

    紹運・宗茂親子とベッキーとかいう猛将トリオ本当に好き。 主家の大友宗麟?知らない子ですね…

    • @user-ub7tt4gl8y
      @user-ub7tt4gl8y Рік тому +6

      丹生島城で籠城して家久撃退してるんで…
      耳川後の田原親貫の反乱の措置の対応とかで次代の義統の出来に道雪らも不満溜めて隠居してた宗麟は家臣らに頭下げられて現役復帰してます

    • @CX-EURO400
      @CX-EURO400 Рік тому +6

      ベッキー言うなやw

    • @user-kc6wn7yc9s
      @user-kc6wn7yc9s 7 місяців тому

      ​@@CX-EURO400
      便○よりまし

  • @user-yc1of4xx2g
    @user-yc1of4xx2g Рік тому +15

    あまり知られていないが、実は一人だけ紹運の家臣で生き残った人がいた。

    • @user-sz6py3pn8e
      @user-sz6py3pn8e Рік тому +5

      谷川大膳だっけ? あの逸話は胸に来るものがある。

    • @user-mt7qq9ku6m
      @user-mt7qq9ku6m Рік тому +2

      谷川大膳ですね。

    • @ahawaha2400
      @ahawaha2400 Рік тому +5

      老臣 藤内左衛門丞重勝に高橋紹運愛用の逗子と菩薩様を渡して、潜没者の霊を慰めてくれと頼まれ出家。
      太宰府市西小寺の住職になります。逗子も菩薩像も健在です。

  • @user-lx7nu4mc7g
    @user-lx7nu4mc7g Рік тому +17

    高橋紹運、立花道雪という(全国的に)マイナー武将こそ魅力を感じる!
    次は道雪でオナシャス!

    • @user-zq8xq1rf4p
      @user-zq8xq1rf4p Рік тому +5

      雷神風神は、有名だとおもいます。大友宗麟がもっとメジャーな戦いをしてると、もっと有名なったはず。

  • @user-iz4qs9hg4p
    @user-iz4qs9hg4p 10 місяців тому +5

    島津側の総大将だった忠長の方が弱かったか言われるとそんなわけもなく
    後に完全アウェーな朝鮮出兵での泗川の戦いで(相手軍の数を盛ってるとこはあるだろうけど)寡兵で明の大軍相手に粘ったという話があるから、こっちも強いと言っても良い人物なのよね
    12:31
    情け無用な戦国の下でのこの言葉なのだから忠長の敵であるはずの紹運への恨みが一切無いのが分かるし
    紹運をリスペクトするようになった忠長当人の度量の広さも見えて、本当に殺したくなかったんだろうってのが伝わってくる

  • @user-mi1fr8ks5z
    @user-mi1fr8ks5z 10 місяців тому +3

    漢の中の漢!絶対に小学校で紹運の生き様を教えるべき。

  • @YU-wv6jz
    @YU-wv6jz Рік тому +6

    息子は安全な後方で守らせて自分は前線で玉砕とか、武士の鑑みたいな戦死ですね。

  • @leilaibrahimfaiza9659
    @leilaibrahimfaiza9659 Рік тому +5

    四国や紀伊大和泉河内の戦い等して欲しいです

  • @user-ke9uy6te7o
    @user-ke9uy6te7o 10 місяців тому +2

    時間稼ぎといった点では、1836年のアメリカのアラモ砦の戦いと多少似ているかなと…。

  • @user-si5zp2rr1i
    @user-si5zp2rr1i Рік тому +6

    いつも登っている四王寺山の岩屋山、船の舳先みたいでとても眺めがいいです。

  • @kwattakanngae
    @kwattakanngae Рік тому +2

    今日だったのね 岩屋上の戦い

  • @kaisermuto
    @kaisermuto Рік тому +3

    そうすると日本は徳川時代まで戦いに明け暮れていた国と言える。AD以前から攻撃と防衛を繰り返していたようだ。よく言えば生き生きとしていた民族。いつも元気はつらつの民族。

  • @feeniejp.w.1802
    @feeniejp.w.1802 Рік тому +4

    高橋紹運は乱世下剋上の時代に咲いたモノノフの華

  • @ahawaha2400
    @ahawaha2400 Рік тому +9

    私の先祖が岩屋城合戦の高橋紹運配下で戦い戦死した末裔になります。毎年7月27日の戦没者慰霊祭に参加してます(コロナ時期は中止)
     有能な指揮官は部下を死地に送って自分も戦う者だと言われてますので、有能な武将ですね。ですが一応絵姿が坊主頭なので出家して仏に帰依してます。仏教では殺しは大罪の禁忌。数に勝る島津軍に対し勝てる見込みが無く、秀吉軍の応援が来るまでの時間稼ぎに岩屋城に立て籠り兵達を生きる事を捨てた『死兵』とする事で徹底抗戦を決めます。島津軍の降伏勧告に岩屋城の兵達も本当は受け入れて欲しかった様でした。豊満城からの応援も断ります。しかし十数名どうしても帰らないから安全な城の奥の水場に配置しますが不幸な事に地元民から城の水場を聞き出した秋月軍が攻め込み水手を切ります。
     住職から色々な話を聞きます。本当は仏教に帰依する僧侶としては一番使いたく無かった手段を選んでしまったとのでは言ってました。
     実父、高橋紹運の壮絶な最後を知り宗重が一騎当千の活躍で島津連合軍に奇襲夜襲様々な抵抗を続け奮戦します。朝鮮半島でも奮戦しますね。
     島津軍大将島津忠長は、朝鮮半島で100vs明10,000を撃ち破り撃退してます。
    自分もこの話聞く以前から何故か隣県の佐賀や大分より鹿児島の人と知り合う機会が多くて(笑)
    人の縁と言う事かな?

  • @user-uq7bs2yu3h
    @user-uq7bs2yu3h Рік тому +2

    豊臣勢が迫っているのに島津勢からの「降伏勧告」=「捕虜を身代金頂き返すか、身代金払えないなら奴隷として売り飛ばす」という大内氏十八番の古い戦い方しているから歴史のようになったんだなです。

  • @user-wn2ie9hx4q
    @user-wn2ie9hx4q Рік тому +3

    じょーーーうん!

  • @user-dl9ui4gk2n
    @user-dl9ui4gk2n Рік тому +3

    これぞ後世に「メガンテ高橋」と謳われる戦ぶり

  • @user-iv5em8lu6h
    @user-iv5em8lu6h 2 місяці тому

    硫黄島での栗林中将にも通ずる名将だと思わない?生き様死に様がエモい。

  • @user-tl3yo3nw7w
    @user-tl3yo3nw7w Рік тому +4

    乱世の華

  • @tomoyo20060816
    @tomoyo20060816 6 місяців тому

    紹うん😢様は生まれてきてから守護霊様してくれてます
    最後は14人の将兵を討ち倒したと
    娘が宗茂さん、誾千代さんが守護霊様してくれてます

  • @user-sq1fo9lj9j
    @user-sq1fo9lj9j Рік тому +6

    いまだに多くの人が理解していないようですが信長は天下は統一しています。全国統一していないだけです。当時の感覚は天下=畿内とその周辺を指します。なので三好長慶も当時は天下人と呼ばれていました。信長も天下人でした。

  • @dollnoroi470
    @dollnoroi470 Рік тому +1

    筑前攻めは神託だから!
    羽柴筑前この野郎とか思ってないから!

  • @user-rp4zg2vs8h
    @user-rp4zg2vs8h Місяць тому

    主君の命令であちこち転戦させられていて結婚がどんどん延期させられているうち、婚約者が天然痘にかかってしまい、「醜い姿になったから婚約破棄して欲しい」と嘆願されたところ、「自分はお前の内面に惚れたのだから、その必要はない」と言い切った紹運。
    武人としては勿論、人として男としてこんなにカッコいい人物もいないですよね。
    また岩屋城で籠城している時、ある家臣に向かってへり下り始めたので驚いてその訳を尋ねたところ、「本来なら褒美を渡したいがこれからお互い玉砕するのでそれも叶わない。なので先祖を辿れば家格が上のあなたに、せめて敬意を払う事で許して欲しい」と言ったという逸話を聞いた事があります。
    こんなリーダーが率いていたら、そりゃ誰一人逃げ出したりしませんよねー。
    息子の宗茂共々、大好きな武将です😊

  • @takashi-aoki
    @takashi-aoki Рік тому

    伝説の大ポカ、戸次川の戦いもやっては?

  • @sigurehuru9763
    @sigurehuru9763 Рік тому +2

    いくら武士として立派でも理想論では戦いには勝てない…( ;∀;)

    • @emt9302
      @emt9302 Рік тому +13

      そもそも勝ち目の無い戦い。
      ならば豊臣軍到着までの時間をかせぎ戦略上の勝利を目指した。
      理想論ではなく極めて現実的な選択ですよ。