昭和歌謡 「サーカスの唄」
Вставка
- Опубліковано 23 сер 2024
- #昭和 #歌謡 #懐メロ #サーカス #安曇野
3月10日に新しい動画を投稿しようとしたらできない状態になっていました。
しかたなく二度チャンネルを作り直しましたがその度すぐに投稿できなくなる繰り返し。
本日パソコンの業者さんに来ていただきました。
1時間ほどあれこれ見ていただき見事にアカウントが復活しました!!!
あらためて「サーカスの唄」を投稿いたします。
【サーカスの唄】
サーカスについて「二木絋三のうた物語」というページを拝見すると
・・・ 昭和8年(1933)3月22日、東京・芝浦で開かれた「万国婦人子供博覧会」を記念して、ドイツのハーゲンベック・サーカスが来日しました。
団員総勢約150人、動物182頭。
日本人が初めて見る本格的なサーカスでした。
博覧会場での公演開始は3月28日。
東京のあと、名古屋、福岡、大阪など日本の主要都市で公演、どこでも大入り満員の大成功を収めました。
動物を使うサーカスは、それまで曲馬団と呼ばれていましたが、これを機にサーカスという言葉が使われるようになりました。
このサーカスの宣伝のために作られたのが、『サーカスの唄』です。
この歌は、古賀政男の快調なメロディと西條八十のしゃれたフレーズによって大ヒットし、ハーゲンベック・サーカスが帰ったあとも、ジンタとして長く使われました。
ジンタは、明治末期から大正時代にかけて、サーカスや映画館の客寄せ、広告宣伝などに使われた通俗的な吹奏楽で、ジンタッタ、ジンタッタと聞こえるところから、こう呼ばれるようになりました。・・・
とあります。
また、ウィキペディアには
・・・1933年(昭和8年)、内務省は児童の健康と道徳的に危険な仕事を禁じる児童虐待防止法案を国会に提出。
委員会では、法案が成立すると曲馬団などの経営が不可能になるとして反対意見も出たが可決。
その後、内務省令にて児童が軽業、曲馬その他危険なる業務にして娯楽の様に供するものに携わることが禁じられた。
・・・サーカス団は旅をしながら芸をする、いわば余所者であるため「芸人はもともとさらわれたり買われたりした子供だ」といういわれのない偏見に晒されることがあった。
特に大正から昭和にかけては、夕方遅くまで遊んだり行儀の悪い子供に対して「サーカスに売られる」「身体を柔らかくするために酢を飲まされる」(実際は酢にそのような効果はない。)などと叱る光景がよく見られた 。
と書かれています。
ジンタと聞くとチンドン屋さんの「美しき天然」が思い浮かびます。
物悲しいメロディーですね。
写真は安曇野です。
次回(昭和歌謡をうたう・其の11)は昭和9年・ミス・コロムビアさん歌唱の「並木の雨」を3月15日に投稿する予定です。
歌は良いですネ西沢有難うございます。
こちらこそありがとうございます。本当に歌の力を感じます。
物心が着く頃から父母がこの唄と緑の地平線を何時も口ずさんでいて子供心に自分の唄になっていました。カラオケに行くと必ずこの二曲は歌います。
コメントをいただきありがとうございます。「サーカスの唄」も「緑の地平線」も古賀メロディーですね。郷愁を感じる曲です。私の母はカラオケ教室に通っていましたが、島倉千代子さんの「人生いろいろ」など新しい曲を歌っていました。
いかにも典型的な昭和歌謡から察するに、ずいぶん長閑な時代だったんだろうね。
古賀政男特有の長々しいイントロも、
放送時間を秒単位で測るこの頃の歌謡曲では、絶滅してしまったよ。
コメントをいただきありがとうございます。旅から旅の生活は苦労が多かったでしょうね。とても印象的なイントロ大好きです。