What is Caste? A Reappraisal from Indian Historical Anthropology
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- Опубліковано 26 вер 2024
- Part of the charm of India lies in its overwhelming diversity, and in fact, caste has functioned as a social institution that contributes to maintaining this diversity. In today's society, it is important to value both equality and diversity among people - but how can this be achieved? We will explore some hints for answering this question through an examination of India's history and society.
Speaker: Akio Tanabe (the University of Tokyo Graduate School of Arts and Sciences / Professor)
講演ありがとうございました。
もっと具体的な例を交えて語ってほしい。どうしてそういう考えに至ったのか、ついていけない。
大変興味深いお話でした。
これまでの知識では、自身の感覚に寄せて「早く(西洋的な)平等に転換されるといい」と考えていましたが、“転換”ではない、今ある長所を伸ばして幸福を追求するという考え方があるんですね…
同じ仏教でも日本人には薄い(と思う)解脱思想というのは、インドの多様性がもたらしたものなのかと先生のお話で感じる事が出来ました。
多様性の渦巻く光景はエネルギッシュに見え「大いなる発展」を期待させる。
事実、熱帯のジャングルの様に様々なモノが産まれる。そこには天使も悪魔も混在する。
突出した幸福と不幸、光と闇、平穏と暴力、秩序と混沌、陰と陽、
この「当たり前の構図」の人口比率はどうであろうか?
昨今では99対1という例もあるが、仮に78対22だとしよう。
さてこれは「幸福な国」「発展した国」と言えるであろうか?
つまり、発展とは何か?
「経済」と「道徳レベル」はアダム・スミス的には相対関係にあると断言している。
素晴らしい講義でしたが、『多様性と平等』だけでは移動の『自由』という視点を取りこぼしてしまっていると思います。
平等と多様性があってもカースト間、村落間、都市間の移動あるいは"遊動"こそが多様性と平等を担保していると思います。(極端な財産の移動は含まない)
移動誘導の停滞がある限り思想に心理によってヒエラルキーは越えられないとおもいます。
あらゆる考え方の人々の価値観を肯定するというのは素晴らしい話だなと思いつつ、たとえば反社会的パーソナリティの人格をDNAレベルで持ち生まれた人間に対してはどのように向き合っていくのか、という点が気になりました。彼らの価値観を尊重すれば、「他人を操作してその他人が不幸になること」「人に物理的危害を加えること」などなどは、彼らの価値観として抗えないものとも言えます。
ですからやはり、価値観を守るという思想の上には結局、社会構造を維持するための法が絶対的に存在し、一定条件以上の「価値観」を持つ人間は結局排除されてしまうのでしょうか。あるいは法以外の観点から多様性を担保する基盤が存在する事実が存在するのでしょうか。
(ただやはり現実論としてはやはり法こそ現代国家の基盤でしょうから、その多様性の保護を加味した法がインドに実装されているということなのでしょうが、具体的な方策の結実の例を知りたいと思いました。)
皆が皆「悟りを開いた」のであれば「争い」「迷惑」「不正」は発生せず、裁判もなく、罪は「自らを自らで罰する」様になる。
ソクラテス、イエス、釈迦、老荘子はこれを説いている。が、果たしてその教養と脳みそを持つ人間が100人中何人居るであろうか?
仮に99対1とする。量的功利主義者99人と質的功利主義者1人。そして量的功利主義の代表者は「どんな時代であろうとも質的功利主義を理解した者」がその座に着く。
つまり「法」とは愚者を納得させる為の仲介の利器であり、そこには嘘も不正も不道徳も暴力も許される。
自分の授業に酔ってるだけで何も伝わってこない。語尾が小声になるところがところどころ最高に聞き取りづらい。
そうですか?語尾はともかく、体験と実感に根差した説得力のある話だと感じました。
なぜ、インド北部で生まれた[仏教]が 世界に広まり、
カースト制は、インドにしか留まらなかっのでしょうか???
ゴータマシッダールタはクシャトリヤ分際でバラモンの真似事をした、普通であれば◯ろされてもおかしくない。
さらに釈迦は仏陀後には「身分に関係なく修行を許し」、限定的な場所では女性の修行も許した。これが仏教の始まりである。
王様と奴隷、ミミズ、ダンゴムシと同じ存在、実は本来のバラモン教の考えでもあり、釈迦は政治の利器と化したバラモン教を見直しただけに過ぎず、言わば「バラモン教釈迦派」なのである。カースト制度は「教え」ではなく「利器」であり、宗教の本質とは「政治」ではなく、「個人」である。故に「教えとしての仏教にはカーストはなく」「政治の利器としての仏教にはカーストがある」
さて、金ピカの袈裟をまとった日本の偉い坊さん達は果たして何を教えてくれるのか?言うまでもない。
ユダヤ教は民族宗教に留まり、キリスト教やイスラム教がより広がったのと同じ理屈じゃないですか。つまり「教えによって誰でも救われる」と説いたからだと思われます。
恣意的にインドを美化して言葉遊びしてて説得力が感じられなかった
自己陶酔がひしひし伝わってくる嫌な感じだ
漫画キングダムの春秋戦国時代、7つの国、7人の王、多様な文化、多様化の結果、多様な価値観が生まれ、共感の深度を浅くする。故に孤独となり争いとなる。孔子はこれを前進させた。
結果、秦により多様性は失われ全体化した。
すると、老子が現れ、個人の発展こそ国の発展となると唱える。
結果、難解な老子を理解できない者達が当然に多数を占め、また、各々個人を発展させた多様化が始まり、国が別れ争う。
つまり、バランスが重要であり、「多様性=良き事」ではないのである。時期や情勢、諸行無常に対して多様性は善にも悪にもなる。
老子って孔子より古い人ではないのですか?また秦の始皇帝は韓非のファンだったと言われ儒学とは縁遠いと思うのですが。バランスが重要というのは同意します。
@@abc0to1 吾輩は孔子と老子は同一人物だと「自分勝手」に思っている。
ジェレミー・ベンサムを量的功利主義を掲げる呂不韋とハンムラビ法典を掲げる嬴政、
そのどちらでもないとジョン・スチュアート・ミルの質的功利主義を掲げる鑑真と老子とソクラテス。
倫理か合理か?民衆統治の正解は全体主義か個人主義か?プラトンかアリストテレスか?
時代は違えど同じ事を繰り返す人類にとって「人類の発展」とは何か?文明レベルか道徳レベルか?
この場合、「そのバランス」ではなく、「大前提、倫理道徳あってこそ」である。
と夏目漱石が言っていた。
結局、存在の平等思想が一神教の唯一神が与えるような「唯一の基礎的秩序」を提供し、その秩序に基づいて様々な多様な価値観・習俗が配置、整理されていった、という印象を受けました。これって本当に多様なんですかね?今、ヒンドゥー優越主義が流行っていることから考えても、かなり一神教的だと思いますが。
カーストとはカステとは、これはインド人に染み付いた慣習、まぁフン族とペルシア族アーリア人のインド進行、約4000年前から!
経済発展の役割りとは幸福発展ではなく「防衛」である。
他国からの侵略の心配がないのであれば経済などどうでもよく、
受動的であれ能動的であれ情報の遮断をすれば相対的な幸福も不幸もなく、絶対的不幸の回避のみで即、幸福となる。
これはマクロにもミクロにも当て嵌まる。
梵我一如を基本構造と仮定してカーストを説明するならば、
「善悪」についても相対的に解説せねば、恣意的な誘導と感じてしまう。これでは普遍的論議「学問」ではなく、イデオロギー的論議「排他的宗教」となってしまう。
大学は「学閥組織」であろうから各々イデオロギーがあっても良いが、東大でその偏りは一言で言うと「日本人として悲しい」
「生徒はお客様」となれば学舎など衰退するのみ。
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